朝の情報番組が、中国共産党政権がアメリカ主導の「民主主義サミット」を非難する国内向けTV番組キャンペーンを展開している、と報じていた。アメリカの非民主性として、人種差別、銃による暴力、トランプ支持者による議事堂襲撃、富裕層のための政治、コロナ死者数世界一などを挙げているようだ。中国による新疆ウイグル自治区におけるジェノサイド疑惑非難に対しては、アメリカ開拓時代における先住民虐殺はどうなのだ、と反論している。いちいちもっともすぎる反論ではある。
アメリカの「民主主義サミット」は中国共産党のいうとおり、確かに矛盾に満ちた世界規模のプロパガンダだけれど、中国共産党のアメリカ非難も説得力がない。なぜならば、中国そのものが強固な専制国家体制を堅持したままだからだ。
日本共産党に対する不信感の根源
中国共産党によるアメリカ批判と同じようなことが、日本国内でも起きている。日本共産党(以下「日共」という)による日本政府批判だ。日共の批判はもっともなのだが、説得力がない。なぜならば、日共に透明性と党内民主主義が貫徹されていないからだ。
1955年、宮本顕治が最高実力者(野坂参三議長-宮本書記長-不破哲三委員長)の痤について以来、2000年の不破議長-志位和夫委員長体制への移行、2014年の志位委員長-小池晃副委員長体制おいても、その選出にあたっては、選挙を経ていない。しかも、その就任期間が異常に長い。党のトップの交代は党員の意思によるものではなく、密室におけるエリート幹部の合議により決まる。これは旧ソ連や現在の中国と変わらない。党のトップがいかなる手続きによってなされたのかは世間にはもちろん、党員ですらわからないのだ。
理解不能な日共の人事
日共の党首人事を詳しく見てみよう。戦後、1958~1970年まで宮本顕治が書記長、その宮本は1970~1982年まで委員長、1982~1997年まで議長を務めている。宮本が委員長を退任した後を受けて不破哲三が1982~1987年まで委員長を務め、1987~1989年まで副議長を務めている。不破の後を受けた村上弘は1987年に退任し、不破がカムバックして1989~2000年まで委員長を務めたあと、2000~2006年まで議長を務めている。不破のあとを受けた志位が2000年に委員長に就任し現在に至っている。なお、書記長は、宮本退任後は空位、議長も不破が退任した2006年以降は空位である。
日共という組織は、戦後、宮本顕治が書記長、委員長、議長を歴任し、1958~1989年までなんと35年間、党内に睨みを利かせていたのである。不破哲三も同様に、1982~2006年まで24年間、宮本と同じようなポジションを維持した。現在の事実上の党首に当たる志位和夫も委員長就任から20年を超す。同党の綱領・規約を当たってみたが、議長、書記長、委員長の任期についての記載が見当たらない。日共は、戦後、党内権力者が3つのポストを渡り歩くことで長期にわたり党を牛耳ってきた。日共は、党内民主主義という政党としての最低限の要件を満たしているようには思えない。
政党トップの選出方法は籤引きが最良
政治組織のリーダーの任期は短ければ短いほどいい。その選出方法について、柄谷行人は複数の候補者を選挙で選び、その中から籤引きでリーダーが選ぶ方法が望ましいといっている。日共の党首選定過程が国民=有権者にガラス張りで示され、さらに籤引きを採用したとき、同党は信頼するにたる政党だと初めていえる。