2022年3月29日火曜日

『叛乱を解放する 体験と普遍史』

●長崎浩〔著〕 ●月曜社 ●3200円+税 

著者(長崎浩)は本題の〈普遍史〉について、‶ユダヤ・キリスト教の救済史、世界史を救済の歴史として歴史化することです。この救済をキリスト教ではなく革命と言えば、マルクスの歴史観になりますが、これを世界史の法則と言わないで「普遍史」という。(同書P234)”と定義づけている。〈普遍史〉とは史的唯物論のことだと換言できよう。

ユダヤ・キリスト教の教典ではユダヤ民族が幾多の苦難を乗り越えて、約束の地へたどりつく神話を指すのであり、この世から理想社会へと向かう革命運動をも意味する。理想の世界への道程は普遍宗教、マルクス主義、天皇制ファシズム、国家社会主義、ナチズム等のイデオロギーに基づき導かれる。個はイデオロギーに随伴して、それぞれの体験をその内面に刻む。 

ブント赤軍派、連合赤軍、日本赤軍への言及を欠いた新左翼論 

本書を一言でいえば、新左翼論である。著者(長崎浩)は、《「日本の新左翼とは何だったのか」、これが共同のテーマである。(P386)》、そして、《もし一九六八年の叛乱の経験が今の若い世代にもなんらかの教訓になるとすれば、あれは「世界革命」だったということです。(P235)》と自問自答している。 

60年安保闘争をもっとも激しく闘った第一次ブント(共産主義同盟)の創設から、「68年世界革命」に同伴した著者(長崎浩)が、その後の新左翼運動の混迷と消滅をも含めて「体験」として語ったというわけだが、最後まで読み切ったところで、意外な感じがした。何かが抜けていると。 

著者(長崎浩)は多くの犠牲者を出した革マル×中核の内ゲバ、すなわち‶革共同戦争″についてきわめて饒舌である一方、長崎の出自であるブントから派生したブント赤軍派、そしてさらにそれを母体として結成された連合赤軍及び日本赤軍についての論究がない。ブント赤軍派にはよど号ハイジャック(1970年3月末)があり、連合赤軍には山岳アジト・リンチ同志殺害(1971~1972年)、浅間山荘立てこもり銃撃戦(1972年2月)等があった。日本赤軍にはテルアビブ空港無差別銃撃(1972年5月)、クアラルンプール大使館占拠(1975年8月)、ダッカ空港ハイジャック(1977年9月)等があった。これらを新左翼運動と関連付けないならば、その理由づけを必要とする。筆者の感覚では、それらを取り上げない新左翼論はありえない。なぜならば、1969年のブント赤軍派の誕生とその派生こそが新左翼の完成形であり着地点であり、終着地点であり、消滅地点であったと思うからだ。いち読者として、おおいに不満が残った。 

ブント赤軍派と三島由紀夫 --死を賭して戦う

ブント赤軍派の登場は1969年9月、日比谷野外音楽堂にて行われた全国全共闘大会であった。そして同年11月、大菩薩峠における「軍事演習」において、官憲により参加者が逮捕され、赤軍派活動家の過半を失った。残った幹部と有志が1970年3月、日航機よど号をハイジャックし、北朝鮮にわたり、今日に至ている。 

当時の世情を象徴するもう一つの出来事が1970年11月に起きた、作家・三島由紀夫と盾の会による、自衛隊市ヶ谷駐屯地における自衛隊員へのクーデター蹶起の檄とその直後の三島、森田必勝の割腹自殺である。生前から三島は新左翼学生運動と接点があり、1969年5月、全共闘学生との討論会に参加している。 

著者(長崎浩)が本書にて言及している革共同両派による内ゲバは、早稲田大学等を舞台にして1960年代から開始されていたが、最初に死者を出したのは1970年8月、法政大学構内における中核派による革マル派活動家・海老原俊夫殺害が最初であった(P340)。この殺人は偶発的だった可能性が高いが、この〈死〉を契機として、両派の暴力は激烈化した。ブントを母体とした連合赤軍・日本赤軍、革共同両派(中核・革マル)、そして三島由紀夫はともに、「死を賭して」戦った。そして、その影響は新左翼において、死を辞さぬ決意主義への傾斜を加速させた。このような動きは、革命路線、革命哲学とはおよそ無縁な、ロマン主義的傾向だと筆者は考える。つまり、党派の方向性を決定したのは「本気度」だったのだと。 

連合赤軍が山岳アジトで行った粛清について、指導者の一人である永田洋子やそこにいた「兵士」たちの証言によると、粛清の動機は、「兵士」が化粧をしていたこと、言葉づかい、仕草といった些細な日常性にあったという。閉ざされた山岳アジトの中で彼らが競ったのは、革命運動に対する「本気度」だったと推測される。権力との直接的衝突がない山岳アジトにおいて、外見等が「本気度」のバロメーターになったのではないか。そればかりではない。反革命的とみなされた「兵士」を総括し、リンチを加えた「兵士」には、これまた決意が試されたのではないか。本気で友を総括する(死に至らしめる)ことが、「自己の共産主義化」 の証明だと自己は思いつめ、まわりの他者は追い詰めたのではないか。

新左翼街頭闘争の終焉 

筆者は、新左翼運動の挫折、敗北、社会からの離反を決定づけたのは、著者(長崎浩)の振り返りとは異なり、連合赤軍がかかわった仲間へのリンチ殺害による粛清だったと考える。

時系列的に振り返れば、新左翼党派の街頭闘争は、1969年4月の沖縄闘争で官憲に抑え込まれた、その一方、学園では全共闘運動が盛り上がり、スト、全学バリケード封鎖等が全国規模で戦われた。その余勢をかって新左翼は同年11月の佐藤訪米阻止闘争に注力したが、権力の厚い壁に阻まれた。この70年安保闘争不発により、新左翼運動は事実上、終止符を打っていた。その時点において、街頭闘争、そして著者(長崎浩)がいう中核派に代表される路線主義は破綻していた。

沖縄闘争の敗北を受けて、ブント赤軍派が他党派を凌駕すべく「軍事路線」「非合法」をその2か月後に前面に出し、ハイジャックを敢行した。そのことを嚆矢として、新左翼各派は競って、「東京戦争」、銃による武装、爆弾闘争、山岳アジト建設、都市ゲリラ戦、国際的革命根拠地づくり、アラブ革命派との連携・連帯・・・世界革命戦争という妄想が肥大化し、新左翼内に決意主義が横溢した。 ブントを母体とした赤軍派とその発展部隊は内部粛清を経て外に向かい、革共同両派は内に向かって死に向かう暴力を先鋭化させた。敢えて言えば、死は「選択肢ではない」にもかかわらず。

死んだ子の年を数えても仕方がないとはいうものの、新左翼党派に求められたのは、69年11月に路線主義・街頭闘争が決定的に行き詰まったところにおける出口戦略だった。出口を求めなかった結果、長期にわたる悲劇が起こり続けた。 新左翼とは何だったのか、という問いを求めるのならば、革共同戦争も重要だが、ブントを母体として発生した軍事路線というテーマを抜きにした「語り」はあり得ない。著者(長崎浩)がブントを出自としたが故にそこに焦点をあてなかったとしたら、本書こそ党派性そのものに彩られたと言わざるをえない。 

普遍史としてのスターリニズムとそこからの解放 

1968年の普遍史という観点からいえば、著者(長崎浩)は触れていないが、その最重要事項の一つに当時の学生大衆における、反スターリニズム体験があったのではないかと思う。 

日本における反スターリニズム運動の源流は1950年代中葉までさかのぼる。1956年のハンガリー動乱、同年になされたソ連フルシチョフによるスターリン批判などを契機として、絶対的権威を保っていた日本共産党(以下「日共」)及びソ連に対する批判が起こり始める。1957年1月、日本トロツキスト聯盟・第四インターナショナル日本支部が結成される。彼らはスターリンによって抹殺されたトロツキーの永続革命論を支持したため、日共により「トロツキスト」と呼ばれ、かつ第四の「ヨン」とトロツキストの「トロ」とを合わせて「ヨントロ」とも略称された。創設者として、太田竜、黒田寛一らがいた。ヨントロは同年12月に革命的共産主義同盟(革共同)と名称変更し、60年代、革命的マルクス主義派(革マル派)、全国委員会(中核派)、第四インターナショナル日本支部の3派に分裂した。

一方、著者(長崎浩)が創設にかかわったブント(共産主義者同盟)は革共同よりほぼ1年遅れで結成され、60年安保闘争の主役となったが、安保闘争の敗北とともにほぼ解党状態に陥った(そののち、60年代半ば第二次ブントとして復活した)。60年安保後におけるブントと革共同の相違点は、後者が「反スターリン主義」を前面に掲げたのに対し、前者はマルクス主義大衆運動に純化した路線をとったところにあった。なお、革共同は、60年安保闘争において勢力を温存した。

60年安保闘争後にできあがった新左翼の基礎 

国民的運動として盛り上がった安保闘争であったが同条約は自動延長され、もっとも過激に闘ったブント(第一次ブント)はほぼ壊滅的打撃を被った。反日共系のブントと革共同とでは、その敗北の総括をめぐって、差異が生じた。後者は安保闘争の敗北を真の前衛党不在として厳しく受け止めた。国民運動を指導した既成左翼(日共・社会党)をスターリン主義者として非難し、彼らの日和見主義が安保闘争を敗北に終わらせたと総括した。 一方の第一次ブントは前出のとおりほぼ壊滅状態にあり、「戦旗派」「プロレタリア通信派」「革命の通達派」の3派に分裂し、政治的機能を喪失していた。そこに揺さぶりをかけたのが革共同であった。揺さぶられた第一次ブントのうち、「戦旗派」と「プロレタリア通信派」の一部は革共同に移籍した(なお、「革命の通達派」はのちにブントマルクス主義戦線派を結成したが68年に消滅)。その結果、新左翼の主流はブントから革共同へ移行した。のちの日本の「68年革命」の隆盛、敗北、消滅の主因は、実はここに内在する、というのが著者(長崎浩)の見解である。

「68年革命」と反スターリン主義 

67年の10.8羽田闘争から開始された三派系全学連(中核派、社学同=ブント、社青同解放派)による街頭闘争から始まった新左翼運動を支えた学生大衆にとって、革共同が掲げた反スターリニズムは大発見だった。当時、日本経済は成長過程にあり、戦後の貧困は姿を消し、豊かさを実感しつつも、彼ら彼女らは急激に進む都市化・情報化、そして管理社会の締め付けに危機感を抱いた。その実感は〈疎外〉という概念に集約され、その根源として、世界が帝国主義とスターリン主義によって分割統治されているという事実を発見した。そこから生まれた新左翼共通の革命の標語が「全世界を獲得するために」であった。反スターリニズム、反日共は学生大衆の心情をとらえた。著者(長崎浩)が属したブントは、日本の「68年革命」において、学生大衆の心をその一点においてつかみ損ねた。 

前出のとおり、新左翼第一党だった第一次ブントが分裂し、一部が革共同に移籍し革共同は党勢を増した。著者(長崎浩)は60年安保闘争後、ブントから移籍した一派が中核派を結成し、もともとの革マル派と敵対した経緯に強く焦点をあてている。中核派とは、革共同(唯一の前衛党主義)とブント(大衆運動路線)のアマルガムであると何度も繰り返している。そしてそのアマルガムがもつ熱量が新左翼運動をリードしたのである。中核派は確かに、日本の「68年革命」のリーダーであった。街頭闘争における動員力、戦闘力、組織力、情報発信力において他党派を凌駕していた。

しかしながら、その出生の秘密である第一次ブントと革共同のアマルガムという中核派の資質が、あたかも、日本の新左翼運動沈没の主因のような書きぶりには納得できない。もちろん、中核派の誤謬が与えた影響ははなはだ大なのだが、学生大衆、社会全体に与えた衝撃度において、ブントを母体とした赤軍派、連合赤軍、日本赤軍のあり方を問わない理由はない。 

68年は世界革命ではない 

革共同、ブント、そして構造改革派からレーニン主義に転じた諸々の新左翼革命諸派が等しく67~68年における街頭闘争の「勝利」に陶酔し、69年に台頭した全共闘運動を叛乱だと錯覚し、同年11月に官憲により暴力的に敗北を屈したにもかかわらず、出口戦略を模索せず、内ゲバと無謀な軍事路線に固執したのが新左翼運動のすべてである。 

ついでに言っておくと、68年は世界革命ではない。『ポストモダンの共産主義-はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』(スラヴォイ・ジジェク)から長いが引用しておこう。 68年はのちの新自由主義の発展を準備したのである。

(ポストモダン資本主義への)イデオロギーの移行は、1960年代の反乱(68年パリの5月革命からドイツの学生運動、アメリカのヒッピーに至るまで)の反動として起きた。60年代の抗議運動は、資本主義に対して、お決まりの社会・経済的搾取批判に新たな文明的な批判をつけ加えていた。日常生活における疎外、消費の商業化、「仮面をかぶって生きる」ことを強いられ、性的その他の抑圧にさらされた大衆社会のいかがわしさ、などだ。 

資本主義の新たな精神は、こうした1968年の平等主義かつ反ヒエラルキー的な文言を昂然と復活させ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織というものに対して、勝利をおさめるリバタリアンの反乱として出現した。この新たな自由至上主義精神の典型例は、マイクロソフト社のビル・ゲイツやベン&ジュリー・アイスクリームの創業者たちといった、くだけた服装の「クール」な資本家に見ることができる。・・・(略)・・・1960年代の性の解放を生き延びたものは、寛容な快楽主義だった。それは超自我の庇護のもとに成り立つ支配的なイデオロギーにたやすく組み込まれていった。・・・(略)・・・今日の「非抑圧的」な快楽主義…の超自我性は、許された享楽がいかんせん義務的な享楽に転ずることにある。こうした純粋に自閉的な享楽(ドラッグその他の恍惚感をもたらす手立てによる)への欲求は、まさしく政治的な瞬間に生じた。すなわち、1968年の解放を目指した一連の動きの潜在力が、枯渇したときだ。

この1970年代半ばの時期に、残された唯一の道は、直接的で粗暴な「行為への移行」――〈現実界〉へおしやられることだった。・・・(そして、)おもに3つの形態がとられた。まず、過激な形での性的な享楽の探求、それから、左派の政治的テロリズム(ドイツ赤軍派、イタリアの赤い旅団など)。大衆が資本主義のイデオロギーの泥沼にどっぷりつかった時代には、もはや権威あるイデオロギー批判も有効ではなく、生の〈現実界〉の直接的暴力、つまり、「直接行動」に訴えるよりほかに大衆を目覚めさせる手段はないと考え、そこに賭けた。そして、最後に、精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)。これら三つに共通していたのは、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避だった。(P99~103) 

 ジジェクによれば、1968年に抗議行動を起こした新左派は、(日本の新左翼の場合は政治的に敗北したが、欧米においては、)まさに勝利の瞬間に敗北した。目前の敵は倒したものの、いっそう直接的な資本主義支配の新しい形態が出現したのである。「ポストモダン」資本主義においては市場が新たな範囲に、教育から刑務所、法と秩序などの国家の特権とされた領域にまで侵食した。社会関係を直接に生産すると称揚される「非物質的労働」(教育、セラピーなど)が、商品経済の内部で意味を持つことを忘れてはならない。これまで対象外とされていた新しい領域が商品化されつつある。日本の場合も同様に、新左翼の思想的傾向の多くが、新たなシステムや消費トレンドに包摂されていった。そのことを踏まえ、ジジェクは、マルクスの一連の概念の大幅な修正を試みる。マルクスは「一般知性」(知識と社会協働)の社会的側面を無視したので、「一般知性」自体が私有化される可能性まで予見できなかったのだ。この枠組みのなかでは古典的マルクス理論でいう搾取はもはや存在しえないから、直接の法的措置という非経済的手段によって搾取がおこなわれていることになる、と。

スラヴォイ・ジジェクが挙げた3つの形態、すなわち、①過激な形での性的な享楽の探求、②政治的テロリズム、③精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)ー-を日本の精神風土に当てはめてみると、②がブント赤軍派・連合赤軍・世界赤軍、爆弾闘争・革共同戦争(内ゲバ)等であり、③はほぼ四半世紀遅れて顕在化した、オウム真理教によるテロリズムとなった。1968年を「世界革命」と言うのならば、それは勝利の瞬間、敗北したのであり、それは1970年以降の「非抑圧的」な快楽主義という超自我性の直接行為へと向かってしまったのである。

[追記]

本文投稿後、偶然にも、長崎浩の小論「1970年 岐かれ道それぞれ」を読んだ。そこには次のように書かれている。 

小熊英二の『1968』には「1970年のパラダイム変換」と題した長い章が置かれている(下巻第14章)。ちょうどこの年を境にして新左翼の思考と行動の組み立て方が転換するというのである。メルクマールとして挙げられているのが、戦後民主主義と近代合理主義にたいする批判、マイノリティー差別、地域闘争、セクトの建軍路線とゲリラの爆弾闘争、そして内ゲバへの序曲である。パラダイムチェンジというより「日本の1968」が文字通りばらけたということだが、これらメルクマールが「1968」に関わった者たちにとって、それぞれの岐れ道になったのは確かだろう。(『1970年 端境期の時代』P61/鹿砦社編集部〔編〕) 

同小論において、本文において筆者が著者(長崎浩)に投げかけた疑問、すなわち、三島由紀夫の自決、新左翼各派の街頭闘争から本格的武装闘争への方針転換(建軍路線)、すなわちゲバ棒・ヘルメット・投石から、ゲリラ組織による爆弾闘争、赤軍派ハイジャック、連合赤軍による銃撃戦等についてふれているのだが、それはきわめて簡単である。もちろん、連合赤軍による同志リンチ殺害は無視されている。筆者が挙げた疑問に係らなかった事項は、華青闘による新左翼批判とそれに対する新左翼側の自己批判(マイノリティー差別への取組み)だけである。

長崎浩は、1970年以降の新左翼の動向に触れてはいるが、その内容は極めて希薄(紙数制限のためかどうかは不明)である。長崎にとっての1970年以降は、革共同の内ゲバを除けば、およそ新左翼とは無縁だとみなすかのような、そして長崎自身とは無縁な事象だというかのごとく、冷淡な書きぶりである。小熊英二の前掲書を書き写しただけにとどまっている。長崎浩の新左翼論は、草創期ブントと「1968年」の革共同、全共闘運動に偏りすぎていると言わざるを得ない。その理由が知りたいと改めて思う次第である。 

なお言うまでもなく、パラダイム変換というのは自然現象ではない。「1968年」の新左翼が情況変化に対応して戦術的に取り組む対象を広げざるを得なかったまでのことだ。新左翼の反体制運動は連続的に生成されたものであり、70年をもって線引きすることは正しくない。

日本のマルクス主義思想界において、スラヴォイ・ジジェクやアントニオ・ネグリらを輩出し損ねただけなのである。