2022年7月30日土曜日

『国体と天皇の二つの身体 未完の日本国家物語』

 ●長崎浩〔著〕 ●月曜社 ●3000円+税 

◆天皇の「身体」とはなにか 

 本題について違和感をもった。「身体」である。「二つの身体」を本題に入れたのは、著者(長崎浩)が本書にて触れているカントーロヴィッチの『王の二つの身体』に引っ張られた結果であろう。筆者が受けた違和感は、筆者自身がこれまで天皇の身体性というものを認識したことがなかったという経験に根差している。戦後生まれの筆者は、昭和、平成、令和という年号に基づく時代区分から必然的に3人の天皇を知っている。そしてその姿は、おおむねテレビ映像という平面に構成された「身体」であり続けている。
 天皇が民衆に見える存在となったのは、多木浩二がいうように、 明治維新から始まった。天皇の可視化は、近代化の産物である写真技術(御真影)によるところが大きい。戦後、テレビの普及により、御真影は画面上の動画に変わったが、それでも強権的もしくは権威的「身体性」を国民に迫るものではない。著者(長崎浩)がカントーロヴィッチを取り上げたのは、天皇が明治維新権力により、二重の性格(立憲君主としての位置づけと、もうひとつ、「神聖にしておかすべからず」という現人神の位置づけ)を帯びていたということを意味する以外のなにものをも意味しない。多木浩二は次のように書いている。 

 旧幕藩時代には、天皇/将軍という二重の権力構造をどう理解するかが、堀景山、熊沢蕃山、本居宣長等々のさまざまな学者、イデオーローグを悩ました。天皇が真の主権者で、将軍はたんにその代理人にすぎないという、合理化された意見は幕末にならないとでてこない。
 しかし、江戸時代の権力論の内容や変遷がどうあろうとも、封建時代の天皇は、概括的には藤田省三氏のいうように「将軍によって権威たらしめられ将軍の必要によって随時その制限をこうむる『消極的権威』にすぎず、明治の変革とはこの「封建的権威が、受動的に名目上のものにせよ、権力主体にすりかわった」事件であったと考えるのが妥当であろう。だから天皇親政をスローガンにして維新を実行した当の革命家たちにとっても、封建的権威にとってかわり、にわかに権力主体になった天皇はあまりにも未知数のものだった。まして一般のひとびとには、明治になったばかりのころの天皇は、はっきりと見えない存在だった。(中略)
 事実、封建時代には、民衆の現実生活に天皇が権力として入りこむ余地はなかった。民衆にとってみれば、天皇の存在は知っていても、なんら直接の関係はもたない存在であった(『天皇の肖像』 P3~5 多木浩二〔著〕 以降「前掲書①」と表記)。  

 維新の革命家たちは、自らが担いだ天皇を民衆にいかに権威づけるかに腐心した。天皇の可視化なくして維新の成就はあり得なかったともいえるくらいだ。維新直後の天皇について、多木浩二は前掲書において、イギリス公使ハリー・パークスに従って天皇に謁見する機会をもった外交官アーネスト・サトウの回顧録の記述を紹介している。 

 天皇はまだ伝統的世界のなかにある不活発な君主という印象をあたえている。白く化粧をし、謁見者に直接は言葉をかけず、天皇の言葉は介添え役(山階宮)が述べるという、間接的な方法による伝統的謁見であった。(前掲書①P8) 

 白く化粧をして外国の要人と直接会話を交わさない不活発な天皇の身体は、西欧の王の身体に比して、はなはだ異質であったにちがいない、と筆者は理解する。維新政府が日本の統治を進めるに平行して、天皇は改造を施されていく。また、自らも変身したであろう。併せて、維新政府は民衆に対して天皇を権威づけるため、できるかぎりの工作を施した。その結果、維新政府にとって都合のいい天皇像が次第に形成されていったのである。 

明治天皇の「御真影」
 多木はその具体例として、まずは▽天皇の東幸(京都から東京へ天皇が居を移す際の行列を民衆に見せつける演出)からはじまり、▽全国巡幸の開始、▽皇室祭祀の新設(近代の皇室祭祀は13にのぼるが、うち、新嘗祭と伊勢神宮の祭典を皇室祭祀に加えた神嘗祭を除いた11の祭祀は維新後に創案された新しい儀礼)、▽朝儀に参列する臣下の服装の西欧化、▽官僚の勅任、奏任、判任の別を設け官僚を身分に構成し、官僚が支配機構上の職能としてではなく、天皇制国家の階層化における中軸とすることーーなどをつうじて、天皇の可視的な権力と実務的それが徐々に形成されていく。
 注意すべきは、維新後の天皇は、古代的権威と欧化近代化による権威という、矛盾した権威の合成体として形成されて行っているという点である。そして、明治20年を過ぎると、全国巡幸が終わり、御真影の下付が始められる。生身の天皇を写真が代替するという時代に突入したことになる。
 維新政府の民衆工作について詳論するのは別の機会にして、本書に戻ろう。繰り返しになるけれど、天皇と一口にいうが、古代、封建時代、明治維新後において、天皇はまったく異なる存在であったということである。とりわけ、明治維新以降の天皇はさまざまな加工、脚色がほどこされたものであったことだけは、最低限、おさえておきたい。 

◆明治国家の変質 

 本書の目指すところは、戦前昭和に生起した、〈明治維新国家〉と〈天皇〉の関係の変質についての論考、いわゆる、〈昭和維新論〉である。維新政府が担ぎ権威づけた天皇と、維新政府の実務的権力行使のバランスが、戦前昭和(1930年前後)からくずれはじめる。そもそも維新政府は、憲法に基づく立憲君主制を建前としながら、現人神天皇を超越的権威に冠する宗教国家として民衆統治をはたすという、矛盾した二重の性格の国家をつくりだそうとした。その矛盾が1930年代、世界恐慌、ボルシェヴィキの台頭、東北飢饉等により発生した社会不安を背景にして、〈昭和維新(革命)〉を呼び寄せた。そのとき、①天皇は、②昭和維新推進勢力は、③体制維持勢力は、そして④民衆は――どう動いたのか。本書は①②③に言及しているが、④の民衆(国民)の動向には触れていない。
 著者(長崎浩)は、その解明の手掛かりとして、本題にも使われた『王の二つの身体』(カントーロヴィッチ)、『愚管抄』(慈円)、神皇正統記(北畠親房)、『玉葉』(九条兼実)、そしてフーコーの権力論を参照しつつ、揺れ動く天皇像を描いていく。しかしながら、著者(長崎浩)の試みは、筆者の受け止めでは、空回りの感が強い。カントーロヴィッチは西欧キリスト教の強い影響下における王権を神学の立場で扱ったものであり、慈円、北畠親房、九条兼実が論じた天皇は、二重権力下で生起した天皇と相反する勢力による天皇の扱い方および天皇が示した行動に主眼がおかれている。明治国家は著者(長崎浩)が本書の中で繰り返しているように、天皇が国家の最高法規である憲法に二重性を帯びたまま規定されているという、きわめて変則的近代主権国家における天皇である。両者には状況に開きがありすぎる。
 もう一つ気になったのは、天皇が古代末をもって国家統合の権威の象徴から退き、江戸期までの長きにわたって日本の政治、社会に微小な影響しか与えてこなかったにもかかわらず、なぜ江戸末期になって、維新(復古的革命)のシンボルにせり上がってきたのか、そのことの説明がない点である。さらに著者(長崎浩)の天皇観は、記紀神話と万世一系の血統の継続性のみに依拠している感がある。日本帝国が世界戦争に突き進む中、国民はなぜ、「天皇陛下万歳」を叫んで無謀な戦闘で無益な死を選んだのか。本書の天皇論・国体論に欠けているのは、明治国家成立以降における、天皇と国民の関係の解明である。 

◆明治国家は憲法で天皇をどう規定したか 

 以下に本書に関わる大日本帝国憲法の条文を示す。 

  第1章 天皇 

第一条  大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 

第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス 

第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 

第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ 

第五条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ 

第六条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス 

(略)

第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 

第十二条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム 

第十三条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス 

第十四条
 1 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
 2 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム 

第2章(略) 

第3章 帝国議会 

第三十三条 帝国議会ハ貴族院衆議院ノ両院ヲ以テ成立ス 

第三十四条 貴族院ハ貴族院令ノ定ムル所ニ依リ皇族華族及勅任セラレタル議員ヲ以テ組織ス 

第三十五条 衆議院ハ選挙法ノ定ムル所ニ依リ公選セラレタル議員ヲ以テ組織ス 

 〔筆者注1〕選挙権を持ったのは直接国税を15円以上納める25歳以上の男子にしか認められておらず、これが後の 普通選挙運動につながっていくこととなる。のちに、納税額と投票権付与年齢の引き下げが行われ、1925年には普通選挙法が制定され男子普通選挙が実現した。男女平等の普通選挙が実現するのは、戦後、現在の日本国憲法に改正される直前になってからである。 

(略)

第三十八条 凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス 

(略)

第4章 国務大臣及枢密顧問 

第五十五条
 1 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責ニ任ス
 2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅(しょうちょく)ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス 

第五十六条 樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ應ヘ重要ノ國務ヲ審議ス 

(略)

第5章  司法(略) 

第6章 会計(略) 

第7章 補足

第七十三条
 1 将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ

 2 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス 

第七十七条 

 1 皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス
 2 皇室典範ヲ以テ憲法ノ条規ヲ変更スルコトヲ得ス

(略)

   第1章天皇において、天皇が日本国を統治する者であると明らかに規定されている。加えて、議会の立法権は限定的であり、しかも、枢密顧問の介入が規定されている。天皇について諸々の細則のようなものを規定した皇室典範の改正は議会の議を経ることがない。大日本帝国憲法とは、そこに規定されていない権力、すなわち天皇の名のもとに国家を恣意的に運営できる権力の源泉が隠された法規なのである。
 著者(長崎浩)は第三条について次のように書いている。 

 「天皇は神聖にして侵すべからず」。・・・はもともと西洋君主国の憲法から引き写したものであった。(中略)そしてそのいずれの場合も、この規定は君主の無答責(法的無責任)をうたう条項なのである。「天皇は神様だ」などという「頓馬な寝言ではない」とは里見〔筆者注2〕の戦後の発言である。実際、明治国家の設計者たちの意図でも、「君主は固より法律を敬重せざるべからざる而して法律は君主を責問する力を有せず」(伊藤博文『帝国憲法義解』)とされた。また、「帝室は政治社外のものなり」(福沢諭吉「帝室論」)と、天皇を政治から遠ざける保証になるはずのものだった。統治などという神聖ならざる政治の実際(国家権力、政体)は政府と議会がこれを行う。憲法のこの理念からいえば、日本国家も西欧の立憲君主国家と同類のものとして定着するはずであった。実際、昭和に入っても天皇は政治の累が及ぶことを回避せんとする勢力が、政党はもとより政府でも重臣や宮中の天皇側近においてもなお力を失っていなかった。(本書P296) 
〔筆者注1〕里見:里見岸雄。本書「第2章 天皇とプロレタリア」において、著者(長崎浩)は里見ついて詳述している。万世一系の天皇を戴く君主制が我が国の国体なり、とする国体論の持ち主。著書に『天皇とプロレタリア』などがある。 

 はたしてそうなのだろうか。明治維新からおよそ70年が経過した昭和に入ったところで、それまで憲法が定めた天皇と国政の関係に保たれていたバランスに変化が生じてくる。なぜか著者(長崎浩)は、続けて次のように書いている。 

 ・・・時代は大都市の大衆社会である。それこそ天皇が「宮中賢所のなお奥深く、ただ斎きただ祈りてましまし」というわけにはいかなくなる。とりわけ、昭和天皇の皇太子時代、欧州外遊からの帰国歓迎式典が決定的だった。加えて、即位礼における大衆的熱狂が演出され、昭和天皇は今や「国民と共に」にあるのだと宣明するに至る。そして、昭和10年の機関説排除運動を契機にして、記紀神話にもとづく神権天皇として天皇の神聖を解釈することがとめどなく浸透していく。加えて、明治憲法体制の抜け穴というべき陸海軍統帥権の独立である。これももともとは軍隊の政治不関与と抱き合わせることにより、天皇を政治から遠ざける保証たるべきものであっただろう。だが、統帥権を天皇への兵の直参と見なせば、そこに昭和維新の青年将校のモデルが生きる。軍人勅諭は天皇その人の署名により兵士たちに下されたものであり、それ以降兵は天皇との排他的な共同思想によって教育されてきたのだ。この観念が肥大化し、現人神信仰と相まって、ついには憲法体制を食い破ることになった。ボリシェヴィキの脅威の下に、逆説的にもかえって、五・一五そして二・二六の蹶起がその転機になる。(本書P297) 

◆帝国議会の実態 

 明治維新政府が発足(1868年)し、明治憲法をつくり交付してからおよそ30年余りは、天皇は政治の外におかれ、重鎮と議会が日本の政治をリードしたかのようにみえる。明治国家は立憲君主制であり、限定された選挙民によってではあるが、選挙によって選ばれた議員によって議会が運営されていた。また、国務大臣に天皇を輔弼する責を与えているし、枢密顧問が必要な情報を天皇に上申する仕組みも擁していた。つまり、天皇の専制、独走、判断ミス等を防止する装置が憲法にビルトインされていたようにも解釈できる。では、実際のところ帝国議会はどのように運営されていたのであろうか。1932年の議会の実態をみてみよう。 

 日本の議会は、年に何度か開かれることはあるが、年間をつうじて三か月を超えることはめったにない。しかし、ちょうど臨時議会が開かれたばかりだった。
 「いや、なに、三月二十日から二十五日までの五日間だけですよ。これまでの戦費と今後の戦費について投票したり、承認したりするだけですからね。」と、ある日本人がいった。
 「でも、開院式と閉院式をやるんだから、三日しか議論している暇がないじゃないか。」と他の日本人がいった。
 「それだけありゃあ、議会の仕事には十分だろうよ。」と三人目がつけ加えた。
 こうした調子で話されるのを聞くのは、これがはじめてではなかった。議会のことが話題にのぼるたびに、嘲笑、あきらめ、軽蔑の表情が見られることに気づいていた。それとも、私の会う人がみな野党の支持者だったのだろうか。
 「とくにそういうわけではありませんよ。」と数年間フランスに滞在したことのある立派なジャーナリストが答えてくれた。「じつは、ここ日本では議会政治が危機に瀕しておりましてね、なかなか立ちなおれそうもないんですよ・・・。」(『1932年の大日本帝国 あるフランス人記者の記録』 P85~86 アンドレ・ヴィオリス〔著〕 以降「前掲書②」と表記)。

 1932年に日本に滞在したアンドレ・ヴィオリス(フランス人ジャーナリスト)が日本の議会について取材し書き上げた原稿の一部である。ヴィオリスは続いて、明治維新から1932年時点における日本の国内政治について説明を受ける。その内容を要約すると、以下のようになる。
 藩閥である薩摩と長州は、最初は新しい構想に抵抗していたが、手を結んで領地と特権を放棄し、そのかわりに長いあいだ元老会議で主導権を握った。元老とは、知識と近代化の努力という点で万人が認める人々で、大臣や行政官の上に立ち、多くの有能な役人に指示を出していたが、この元老からなる諮問会議をつうじて、天皇が国を統治しはじめた。日本でもっとも重要な政治家の一人である伊藤博文は、欧州滞在中にドイツの政治体制に強い感銘を受けた。イギリスやフランスの体制よりも日本人のメンタリティーに近いと思ったからだ。こうして、ドイツをお手本とした多くの草案を経て憲法が練りあげられた。新憲法では天皇は陸海軍の最高指揮官として平和と戦争をつかさどる者でありつづけていたが、同時に行政府の長でもあり、大臣を任命・解任し、内閣と枢密院の助けを得て統治していた。天皇は立法全体に対して拒否権を有し、議会ではなく天皇だけが閣僚を辞めさせることができた。1925年(大正14年)に選挙改革がおこなわれ、大勢の有権者に普通選挙権が与えられた。しかし、議会の不信任案によって閣僚が辞任する仕組みは、けっしてつくられなかった。奇妙な矛盾であり、これが政治的アンバランスの原因の一つとなっている。
 すこしだけ筆者が補足するならば、維新の革命家たちは倒幕に成功したものの、いくつかの大規模な反政府運動を経験している。その最大のものが「西南の役」(1877)である。倒幕に参加した西郷隆盛が維新政府に不満を抱く士族を糾合し、反乱を起こしたのだが、政府軍に討伐された。
 以降、維新政府に反抗する者は武力闘争を諦め、言論闘争に転じた。それが、自由民権運動である。同運動は、藩閥政府による専制政治を批判し、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の撤廃、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、明治23年(1890年)の帝国議会開設ころまで続いた。維新政府は憲法を制定し、帝国議会を開設することにより、自由民権運動を展開していた反政府勢力を議会内に吸収することにより、反政府運動を鎮静化することに成功した。その結果、前出のとおり、日本帝国は天皇と議会の奇妙なバランスのもとに運営されることにあいなった。しかしながら、この奇妙なバランスが戦前昭和(1930年前後)から崩れ始めるのである。
 ヴィオリスは前出のジャーナリストの進言に従い、帝国議会を傍聴する。以下はそのときのレポートである。 

帝国議会

 代議士の席はすべて埋まっている。450人から500人ほどで、20人ほどの和服の人々を除けば、一様に暗いヨーロッパ風の背広を着て、おなじ形のネクタイを締めている。
 傍聴席も、ほとんど男性でいっぱいだ。かろうじて4、5人の女性の顔を認めることができるが、おそらく大臣の妻なのだろう。(中略)
 すごい騒ぎだ。叫び声、笑い声、にぎりこぶしを突き上げて放たれる興奮した野次。ヨーロッパの日本人のあの控えめな沈黙。丁重な礼儀作法は、どこへいったのだろうか。私の下では、髪を黒くなでつけた多数の頭が波打つように揺れ、ざわついているが、ざっと見たかぎり、日本の議員はヨーロッパの議員よりもはるかに禿げている人が少ないことに気づく。
 演壇に立っているのは野党の代議士だ。軍事費のことで激しく攻撃している。私の右側で熱烈な拍手喝采を送っているのは、野党、民政党の党員だ。左側では、与党、政友会の人々から、それにおとらぬすさまじい抗議が沸き上がる。ついで高橋(是清)大蔵大臣が演壇に立つと、すぐさま拍手と抗議が逆転する。しかし騒ぎはますます激しさを増してゆく。高橋蔵相は戦おうとするが、しだいにサンタクロースのような大きな白ひげのなかに隠れてしまう。かろうじて、ときどき大きな丸めがねから、気の弱そうな二つの光がきらめくのが見えるだけだ。とうとう自分の姿をくらましてしまったかのように思われる。
 やや落ち着きをとりもどしたのち、ふたたび荒れだした。猿のような小男が演壇の階段をよじのぼってきたのだ。野党屈指の手ごわい論者だそうだ。奇妙なしかめっ面を浮かべ、癲癇にかかったような動作をまじえながら、金切り声で、めんくらうほど饒舌に話す。・・・日本の聖なる伝統を破った内閣を手厳しく非難しているのだ。
 芹沢外務大臣は背筋をぴんとのばし、腕組みをしてすわり、鷲鼻の貴族的な顔から、ひどく用心深そうな視線を投げながら聞いている。荒木将軍は目に皮肉そうなしわをよせ、きわめて蒙古(モンゴル)的な、にたっとした笑いをこれみよがしに浮かべている。
 質問者が最後の跳躍を終え、尾長猿のようなしかめっ面を見せて姿を消すと、犬養首相がゆっくりと階段をのぼってくる。悲壮なまでにひ弱な老人で、とても背が低いので、くぼんで黒ずんだ象牙色の細長い顔は、じかに演壇の上にのっているようにみえる。弱弱しい声で反論し、大臣たちを擁護する・・・
 この最初の言葉が終わるか終わらないかのうちに、みないっせいに騒ぎだし、とどろき、轟轟たる嵐となる。議会が耳をつんざくようなけたたましい集団的狂気にとりつかれたかのようだ。(前掲書②P89~90) 

 たまたまヴィオリスが傍聴した帝国議会がこのとおりであって、ふだんはもっと議論を尽くしているのだ、あるいは、ヨーロッパ人のヴィオリスの日本人に係る記述は人種的偏見に満ちていて、日本語もよくわからない、だから議会が混乱しているようにみえたのではないか、という反論も可能だろう。だが、議会傍聴後、ヴィオリスは、一人の良識ある同僚(ジャーナリスト)から日本の選挙の不正の実態、民政党・政友会の二大政党が権力欲を戦わせるだけとなったこと、有力議員のスキャンダル、反社会的勢力からの賄賂の受け取りなどについて聞かされる。そしてその同僚はヴィオリスに日本の危機について説明する。 

 「この国(1932年の日本)では、議会は、国民の世論も利益も代表していないとみなされています。かつてはほかにも政党がありましたが、消滅してしまいました。民政党と政友会がかわるがわる活用し、濫用しているような財源を、どの政党ももっていないからです。たとえば、ある時期には社会主義がこの国で大きく進歩しましたが、もう議会には社会民主党の代議士は3人、労農党の代議士は2人しかいません。
 自分の義務を果たさない、あるいは果たすのを忘れている代議士と、自分の権利を自覚していない有権者。これが日本の議会政治の結果です。民衆の心は議会から離れてしまいました。これが、日本においてファシズム運動が急速に、また驚異的な成功を収めたおもな理由の一つです。ファシズム運動の最初の行動は、議会を一掃することだといわれていますからね。」(前掲書②P94~95) 

 この指摘が1932年であることに驚く。まったくもって「いま」(2022年)と変わらないではないか。〝歴史は繰り返す”という凡庸な言説のとおり、いま、「新しいファシズム運動」が急速に日本社会を覆いつくそうとしているように思える。昭和維新が軍部の青年将校を中心とした天皇を頂点に仰ぐ維新=革命運動であったのに反し、いまのそれは、実態がつかみにくい地下に潜ったカルト集団によって準備され、政権与党及び社会に浸透しようとしているという違いはあるものの。

◆昭和元年(1926年)という終わりの始まり 

 著者(長崎浩)が力説する、日本帝国のアンバランス状態はいかにして生じたのだろうか。以下に示したのは、明治維新国家の中枢を担った、それこそ教科書に出てくるような維新の元勲(革命家)が亡くなった暦年である。不慮の死を遂げた者が含まれているが、その死も晩年に近いと考えていい者も含まれる。 

(京都出身)
岩倉具視(1825年- 1883年)、西園寺公望(1849年 - 1940年)三条実美(1837年- 1891年)
(薩摩出身)
大久保利通(1830年- 1878年)、松方正義(1835年- 1924年)、黒田清隆(1840年-1900年)
(長州出身)
木戸孝允(1833年- 1877年)、井上馨(1836年‐1915年)、山縣有朋(1838年- 1922年)、伊藤博文(1841年- 1909年)、桂太郎(1848年- 1913年)
(土佐出身)
板垣退助(1837年‐1919年)、後藤象二郎(1838年 - 1897年)
(肥前出身)
副島種臣(1828年 - 1905年)、大隈重信(1838年- 1922年)
(その他)
福沢諭吉(1835年 -1901年) 

 維新の元勲たちはおおむね、1920年代には既に世を去っている。〈昭和維新〉といわれる年号の昭和は西暦1926年から始まる。昭和の始まりは元勲亡き時代、すなわち世代的に見るならば、維新の〝終わりの始まり”である。先に引用したように、《時代は大都市の大衆社会である。・・・とりわけ、昭和天皇の皇太子時代、欧州外遊からの帰国歓迎式典が決定的だった。加えて、即位礼における大衆的熱狂が演出され、昭和天皇は今や「国民と共に」にあるのだと宣明するに至る。そして、昭和10年の機関説排除運動を契機にして、記紀神話にもとづく神権天皇として天皇の神聖を解釈することがとめどなく浸透して》いったのである。
 天皇機関説排撃では、主唱者である美濃部達吉(貴族院の勅選議員)は不敬罪の疑いにより取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職した。美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、出版法違反として発禁処分となった。
  当時の岡田内閣は、「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり」とし、「所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず。」とする国体明徴声明を発表して天皇機関説を公式に排除、その教授をも禁じたのである。
 多木浩二が前掲書①で詳述したように、維新政府は天皇の神聖(神性)を国民大衆にできるかぎりの手段を講じて浸透を図った。たとえばその「成果」として二つの勅語を挙げることができる。昭和維新に蹶起した青年将校の世代、例えば磯部浅一は、1905年/明治38年生まれである。彼らは、幼年期から教育勅語(1890年/明治23年に発表)によって育てられ、成人近くになると軍人勅語(1882年/明治15年に発表)を身に着けた。その結果、青年将校が抱いた「君側の奸」の一掃の論理、また、「天皇の赤子」として天皇に直接つながろうとする意志が醸成された。
 蹶起した青年将校の心情は、国民の心情でもあった。それが、冒頭の章において、筆者が「日本兵はなぜ、天皇陛下万歳と叫んで死を選んだのか」という問いの答えでもある。残念なことに天皇に直接つながりたいという民衆の純粋な意志は、維新の元勲がこの世を去ってしまった戦前昭和においては、大陸侵略から世界制覇という展望なき野望にとり憑かれた軍部革新官僚に利用され踏みにじられた。そして無謀な「一点突破全面展開」的な対米戦争決断へと日本(国民)を追い込んでいった。
 さてそのとき(昭和)天皇は、いったいどんなことを考えていたのだろうか。開戦に前向きだったという説と、立憲君主として、臣下が決めたことを覆すことはできない、と発言したという説がある。そのどちらにしても、明治憲法というのは、天皇と政治家・官僚・軍部の関係を曖昧に規定していたということの証左である。天皇を憲法に規定することの難しさ、危険性を後世に伝えるよき事例と受け止めたい。(了)

・参照文献
『天皇の肖像』(多木浩二著)岩波新書
『王の二つの身体 中世政治神学研究』(E・H・カントーロヴィッチ著)ちくま学芸文庫
『1932年の大日本帝国 あるフランス人記者の記録』(アンドレ・ヴィオリス著)草思社