●栗田英彦〔編〕 ●人文書院 ●5000円+税
まず1995年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教。この教団については説明を要しない。
1990年代、霊感商法、合同結婚式で話題をさらった統一教会。同教団は一時、その動静が伝えられなかったのだが、2022年、同教団の二世信徒が安倍晋三元首相を手製銃により暗殺したことをきっかけに、信者から違法に多額の寄付を集め続けている事案が発覚した。以降、世間の注目を集め、2025年、文部科学省から解散命令が発出された。
そして、1971年(全共闘運動がほぼ終息した時期)に啓示を受けたとする阿含宗(開祖/桐山靖男)、スピリチュアリズムと神智学を結合させたGLA(同/高橋信二)、GLAを継承し1986年に創設された幸福の科学(同/大川隆法)といった新宗教(団体)。そして、アメリカから本邦に移入し、1953年に宗教法人となったエホバの証人。同教団は新宗教ではないが、1985年、信徒の子どもの交通事故治療の際、輸血を拒否したことで話題をさらった。
それだけではない。近年では、成長の家の分派をルーツとする日本会議、その関連団体である神道政治連盟といった、宗教右派と呼ばれる勢力の動向も注目される。これら団体は与党自民党右派に影響力を行使し、たとえば選択的夫婦別姓の法制化阻止、外国人差別排斥=日本(人)ファースト、LGBTQ差別、大日本帝国礼賛・回帰等を掲げ活動する勢力に成長した。これら団体は統一教会と価値観をほぼ共有する。
既存宗教としては、自民党と連立を続ける公明党の支持母体である創価学会の変節も気になる。ポスト「一九六八年」における同学会=公明党の路線変更(反戦・平和主義、福祉国家路線)については、だれしもが抱く疑問だと思われる。
本書においては、上に掲げた宗教(団体・運動)への論及がないわけではないが、中心的テーマとなって編集されてはいない。
本書の内容
本書は9名の執筆者の論考の集成である。それぞれの視点・観点も多様である。その構成については、編者であり執筆者である栗田英彦氏(以下敬称略)が序章にて、次のように概説している。
第Ⅰ部は見出しのとおり、〈一九六八年〉の捉え返しがテーマとなっていて、天皇制、死者を巡る闘争、ファシズムへの水路という論点が扱われ、第Ⅱ部および第Ⅲ部の各論に通底する総論的テーマが提出されている。
第Ⅱ部では、〈一九六八年〉と新宗教・ニューエイジ運動(心霊性運動・スピリチュアリティ・精神世界)の関係の再検討である。
第Ⅲ部は〈一九六八年〉とキリスト教の関係が検討され、この部の冒頭序章において、本書の試みが日本宗教史像を再構築することである旨が栗田により宣言される。
〈一九六八年〉とはなにか
本書の主意が〈一九六八年〉を媒介に日本宗教史像を再構築することである以上、編者がいかに〈一九六八年〉を規定しているかを確認する必要がある。栗田によると、〈一九六八年〉とは、同年パリ五月革命に象徴される世界的な大学闘争・街頭叛乱であり、それは世界同時的な政治・文化・思想の転換点だったとしている。そしてこの年の前後に起こった転換の総体を示す意味で象徴的に〈一九六八年〉と表記する〔註1〕とつけ加えている。
〔註1〕 ・・・2010年代の京大人文研で行われていた、「68年5月」と現代思想の関係を問う共同研究「ヨーロッパ現代思想と政治(2011~2015)の成果が一つの回答を与えている。これによれば、フランス現代思想が表に現れたのは、一九六八年パリ五月革命に象徴される世界的な大学闘争・街頭叛乱への積極的応答からであった。そして、それはまた世界同時的な政治・文化。思想の大転換であったというわけである(以下、序論においてこの年の前後に起こった転換の総体を示す意味で象徴的に〈一九六八年〉と表記する)。(本書P16)
そして、〈一九六八年〉に起こった闘争・叛乱を次のごとく概観する。
パリ五月革命に代表される60年代の闘争・反乱は、東欧、アジア、中南米やアフリカでも高揚し、その世界性もしくはグローバル性ゆえに「(1848年に続く二度目の)世界革命」や「グローバル・シックスティーズ」などと呼ばれてきた。アメリカでは公民権運動やヒッピームーブメント、ベトナム反戦運動が盛り上がり、ドイツやイタリアでも学生活動家を出発点とするバーダー・マインホ・グルッペ(ドイツ赤軍)や赤い旅団が活躍し、自立運動(アウトノミ/アウトノーメ)が活性化した。日本でも新左翼党派(セクト)の活動家が活躍した1960年の安保闘争に始まり、60年代中頃からベトナム反戦運動や授業料値上げ反対運動などが盛り上がり、そして1968年に無党派急進派(ノンセクト・ラジカル)の活躍する全共闘運動が全国の大学を揺るがしたことが知られている。このグローバルな出来事を引き起こしたのは、社会変動論的に概括するならば、脱工業社会化・メディア社会という第二次世界大戦後の先進各国共通の歴史-社会的経験であるとされる。一九六八年闘争は「豊かな社会の暴力革命」と呼ばれ、従来の貧困問題に応じた労働組合を基盤とした共産党など既成左翼に反旗を翻し、労働問題に限らないイッシューを立ち上げていたことで知られる。(本書P17~18)
栗田は〈一九六八年〉がポストモダニズムの近代理念批判と同期しているとし、近代主義の二つのバリエーションである社会主義と自由主義に対抗し、定型化した理念や法則化された歴史像、官僚化する党組織に対抗したことを特徴として挙げ、それゆえに、〈一九六八年闘争〉はポストモダニズム思想により基礎づけられ肯定され拡散されたとする。
〈一九六八年〉に生起したのは階級やイデオロギーの闘争ではなく。「私」の叛乱であったと言われる。もちろん、この場合の「私」は、近代市民としての主体ではなく、ネグリ&ハートの言い方を借りるならば、無限に差異を反復する大衆社会の群衆(マルチチュード)である。(本書P18)
そのうえで、〈一九六八年〉に発生した諸運動について、社会運動論では「新しい社会運動」と概括し、ウオーラースティンは「反システム運動」と呼び、リスク社会論の視点からは「(対抗的)サブ政治」、アナキスティックな実践的視点からは「予示的政治」などとも論じられている。また全共闘ノンセクト活動家の津村喬の言説と実践について、色濃くポストモダニズムと「新しい社会運動」の特徴が刻まれているという。
日本における〈一九六八年〉
日本における〈一九六八年〉は、1967年の新左翼である三派系全学連(革共同中核派、ブント、社青同解放派)による10.8羽田闘争を嚆矢とする。彼らの行動原理すなわち革命戦略は、ロシアマルクス主義(スターリン主義)からの解放――マルクス・レーニン・トロツキーの思想を原理主義的に再生――することだった。反帝国主義、反スターリニズム、暴力革命というスローガンが、日本の新左翼の革命論を象徴する。
フランスのパリ五月革命でも、 革命指導者たちはマルクス・レーニン・毛沢東の思想を拠り所とした。赤い旅団の創設者であるレナト・クルシオは毛沢東、ヘルベルト・マルクーゼ、チェ・ゲバラ、ラニエーロ・パンツィエリ、アミルカル・カブラルなど、大学の授業では無視された文献の再読による理論訓練を受けた。彼は、マルクス・レーニン主義の影響を受けた毛沢東主義的な解釈を持つ雑誌『ラヴォロ・ポリティコ』の編集部に加わった。
ポスト〈一九六八年〉
本書に集成された論文のなかで、本題・副題にストレートに対応して論を展開しているのは、鎌倉祥太郎氏(以下敬称略)の「一九六八年の身体――津村喬における気功・大極拳闘(第Ⅱ部第五章)」だと思われる。鎌倉は同稿冒頭に次のように書いている。
「一九六八年」という象徴的な数字によって表される〝世界的な″反権力運動について考える際、「ポスト一九六八年」と呼べるような時期にまで射程を伸ばし、思考しなければならないのは、おそらくこのテーマに取り組む研究者の共通の認識ではないかと思われる。この点に関して、一九六八年の敗北による社会運動の退潮と位置付けたり、「新しい社会運動」の登場を準備する段階と位置付けたり、あるいは革命が潜在的に継続していると位置づけるなど、様々な立場からポスト一九六八年が語られている。
ポスト一九六八年において、マイノリティの諸権利獲得を求める個別具体的な闘争が広がっていくとともに、現実的にはベトナム反戦運動などに見られた共通の政治課題による大闘争が相対化されていく、という現象が起きている。つまり、社会を一元化したかたちで階級闘争へと社会運動をまとめることはもはや自明のことではなくなり、ジェンダー、人種、民族といった多様なアイデンティティが政治闘争の主戦場となっていったのである。
一方、スラヴォイ・ジジェクはこのポスト一九六八年をやや異なる視点から捉えている。ジジエクが指摘するのは、一九六八年以後に現出した純粋な自閉的享楽への欲動には3つの形態がある、ということだ。一つ目は性的享楽の探求、二つ目は左翼の政治的テロリズム、三つ目は東洋的神秘主義に代表される内的経験の追求である。(本書P197~198)
ポストモダン資本主義の成立
ジジェクは、鎌倉が要約引用した言説とほぼ同じ内容のことを、ポストモダン資本主義の、つまり、〈一九六八年〉闘争に勝利した資本主義の立場からいささか皮肉めいた論調で次のように書いている。
(ポストモダン資本主義への)イデオロギーの移行は、1960年代の反乱(68年パリの5月革命からドイツの学生運動、アメリカのヒッピーに至るまで)の反動として起きた。60年代の抗議運動は、資本主義に対して、お決まりの社会・経済的搾取批判に新たな文明的な批判をつけ加えていた。日常生活における疎外、消費の商業化、「仮面をかぶって生きる」ことを強いられ、性的その他の抑圧にさらされた大衆社会のいかがわしさ、などだ。
資本主義の新たな精神は、こうした1968年の平等主義かつ反ヒエラルキー的な文言を昂然と復活させ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織というものに対して、勝利をおさめるリバタリアンの反乱として出現した。
この新たな自由至上主義精神の典型例は、マイクロソフト社のビル・ゲイツやベン&ジュリー・アイスクリームの創業者たちといった、くだけた服装の「クール」な資本家に見ることができる。(中略)1960年代の性の解放を生き延びたものは、寛容な快楽主義だった。それは超自我の庇護のもとに成り立つ支配的なイデオロギーにたやすく組み込まれていった。(中略)・・・今日の「非抑圧的」な快楽主義の・・・超自我性は、許された享楽がいかんせん義務的な享楽に転ずることにある。こうした純粋に自閉的な享楽(ドラッグその他の恍惚感をもたらす手立てによる)への欲求は、まさしく政治的な瞬間に生じた。すなわち、1968年の解放を目指した一連の動きの潜在力が、枯渇したときだ。
この1970年代半ばの時期に、残された唯一の道は、直接的で粗暴な「行為への移行」――〈現実界〉へおしやられることだった。〔中略〕
(そして、)おもに3つの形態がとられた。(1)過激な形での性的な享楽の探求、(2)左派の政治的テロリズム(ドイツ赤軍派、イタリアの赤い旅団など)。大衆が資本主義のイデオロギーの泥沼にどっぷりつかった時代には、もはや権威あるイデオロギー批判も有効ではなく、生の〈現実界〉の直接的暴力、つまり、「直接行動」に訴えるよりほかに大衆を目覚めさせる手段はないと考え、そこに賭けた。(3)精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)。
これら三つに共通していたのは、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避だった。(『ポストモダンの共産主義』/ちくま新書/P99~103)
ここで注目されるのは、〈一九六八年〉が齎したものは、リバタリアンの出現であり、リバタリアンの価値意識が貫徹するポストモダン資本主義の出現・台頭・支配だった、という点だ。そのことの象徴が日本における全共闘運動だった、と筆者は考えている。〔後述〕
革命の挫折と反革命の嵐――われわれはいま、トランプ2.0に代表される反革命の時代に生きている。
左派の政治的テロリズム
①ドイツ赤軍派――のちのドイツ赤軍(RAF)
1972年5月 西ドイツ各地で資金獲得のための銀行強盗、警官射殺、駐留アメリカ軍、政府要人を狙った連続15件の爆破行動を起こした。
同年6月1日、フランクフルト市内で幹部4人と警官隊の間で銃撃戦が行われ、主犯格のアンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフたちは逮捕され、シュトゥットガルトのシュタムハイム刑務所に収監される。彼らの逮捕後は、弁護士で赤軍シンパのクラウス・クロワッサンとジークフリート・ハーク(Siegfried Haag)が組織の後継者となる「第二世代」のメンバーの勧誘と訓練などを行いながら、獄中の「第一世代」と面会しその声明をマスコミや支援者らに伝えていた。
マインホフが1976年に刑務所内で自殺する。
1976年以降、マインホフ亡き後の「第二世代」は無政府主義のテロリストグループ「6月2日運動」のメンバーであり、政治家ペーター・ロレンツ(Peter Lorenz)の誘拐事件、ストックホルムの西ドイツ大使館占拠事件などを立て続けに起こし、ギュンター・フォン・ドレンクマン西ベルリン高等裁判所長官らを暗殺した。
1977年、ドイツ赤軍は刑務所に収監されている中核メンバーを解放するために、西ドイツ政財界の重要人物を立て続けに誘拐して政府を揺さぶるという「77年攻勢」を開始。ジークフリート・ブーバック西ドイツ連邦検事総長、ユルゲン・ポントドレスデン銀行会長など、政財界や司法界の重要人物を相次いで暗殺し、西ドイツを震撼させた。
1977年9月5日には西ドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤーを誘拐したが、西ドイツ政府は第一世代の釈放に応じなかった。ドイツ赤軍は政府にさらに圧力を加西ドイツ政府の危機は絶頂に達した。
RAF第二世代の新指導者はパレスチナ解放人民戦線(PFLP)とともにルフトハンザ機をハイジャックした。10月18日、ハイジャック機には特殊部隊が突入し、RAF幹部は獄中で相次ぎ自殺し、シュライヤーは遺体で発見されるという衝撃的な結末を迎えた。これらの事件はマスコミで連日連夜大きく報じられ、戦後最大のテロ事件と政治的危機は西ドイツ社会を震撼させた。この一連の凶悪テロ事件は「ドイツの秋」といわれる。
②日本のブント赤軍派
日本でもドイツに近い状況を呈した。1970年、日本のブント赤軍派が「日航機よど号」をハイジャックし、北朝鮮に亡命した。日本に残った赤軍派の一団と京浜安保共闘が合体して連合赤軍を結成、1972年にあさま山荘事件等(銃撃戦、同志リンチ殺人)を起こした。
事件後逮捕された連合赤軍指導者・森恒夫は、1973年元日、東京拘置所の独房で自殺した。
連合赤軍に参加しなかったメンバーは日本赤軍を名乗り、レバノンのベッカー高原を主な根拠地に軍事訓練を含む活動を行ったのち、1972年、テルアビブ空港乱射事件、1974年、シンガポールのブクム島にあるロイヤル・ダッチ・シェルの石油精製施設にボートで上陸し、石油タンクなどの施設をプラスチック爆弾で爆破した。1977年には、ダッカ日航機をハイジャックした。また、新左翼諸派とは別系統のアナキストグループ・反日武装戦線による無差別爆弾テロ事件(1974年/三菱重工ビル爆破)が起きている。
③赤い旅団(イタリア)
1969年に創設され、当初の主な活動はミラノやトリノでの極右勢力に反対する労働組合の支援であった。構成員は労働者と学生で、工場の設備を破壊し、工場の事務所や組合の本部に入り込んだ。若年層の高い失業率や挙国一致体制への不満などを背景に勢力拡大を狙うが、労働者からの支持が得られず次第に過激な武力闘争に傾斜していき、1972年に最初の誘拐事件を起こしてきた。
1978年には、アルド・モーロ元首相誘拐暗殺事件を起こすとともに、1970年代後半に入ると、マフィアとの関係を深めて行き、「金のために動く腐敗した殺し屋集団」と揶揄されるようになっていった。
〈一九六八年〉の終わり
ジジエクは1977年前後から開始されたドイツ赤軍(派)、赤い旅団の直接行動を指して、これらが〈一九六八年〉以降に現れた事象だと断言した。むろん、日本の新左翼各派等におけるテロリズムを〝それ以降″に含めて異論はないだろう。
これらのことから、〈一九六八年〉がいつごろ終焉したかが結論づけられる。各国により事情がやや異なるものの、おそらく、1970年はじめごろから半ばまでには終わったとみていい。ドイツでは「第二世代」が直接行動を牽引する中で、イタリアでは労働運動との連帯・支持が得られなくなる中で、日本では筆者の感覚的推論だが、1969年11月の羽田闘争の敗北からその退潮が始まり、72年の浅間山荘銃撃戦直後にリンチ殺人事件が発覚した時、――それが終わったように思える。組織的には、1972年以降、団塊の世代が大学を卒業するに至り、〈一九六八年〉は終わった。
(ジジエクの表現に従えば)、1968年の解放を目指した一連の動きの潜在力が枯渇したとき、〈一九六八年〉の闘争と異なるテロリズム、武装闘争、直接行動という転換が始まった。これらを〈一九六八年〉の埒外におくべきだろう。
ジジエクは、1968年に抗議行動を起こした新左派は、まさに勝利の瞬間に敗北したと言う。目前の敵は倒したものの、いっそう直接的な資本主義支配の新しい形態が出現したのだと。新しい資本主義すなわち「ポストモダン」資本主義においては市場が新たな範囲に、教育から刑務所、法と秩序などの国家の特権とされた領域にまで侵食した。社会関係を直接に生産すると称揚される「非物質的労働」(教育、セラピーなど)が、商品経済の内部で意味を持つことを忘れてはならない。これまで対象外とされていた新しい領域が商品化されつつある。日本の場合も同様に、新左翼の思想的傾向の多くが、新たなシステムや消費トレンドに包摂されていった。 〔後述〕
全共闘を代表する津村喬の軌跡
前出のとおり、〈一九六八年〉の革命指導者の理論は、ロシア・マルクス主義にたいする失望であり、マルクス、レーニン、毛沢東の思想を再生し原理論的に純粋抽出する試みだった。つまり復帰運動だった。その一方で、〈一九六八年〉の新しさは、左派の指導者を超えた、新しい革命運動のスタイルを生みだしたところにあると言われる。日本の場合、ノンセクトラディカルの出現である。
全共闘=ノンセクトラディカルは〈一九六八年〉の象徴として、しばしば、新しい運動のかたちとして好意的に受け入れられているが、筆者はそれを一度、括弧に入れるべきだと考えている。そのことを前提として、鎌倉の津村喬論は読まれなければならない。
全共闘から東洋的神秘主義・ニューエイジ思想へ
鎌倉の津村喬論は、前出のジジエクの一九六八年以後に現出した純粋な自閉的享楽への欲動の3つの形態の三つ目、すなわち東洋的神秘主義に代表される内的経験の追及の事例として論じられている。
その津村喬は「日常性批判」を切り口として全共闘活動家(早大反戦連合を結成)になり、〈一九六八年〉にコミットした。そしてそののち、新左翼・全共闘運動の闘争に違和感を抱き、差別問題に突破口をみいだし、最終的(1970年代半ば頃)にはそれらをすてて気功・太極拳・自然食にむかい、ニューエイジ思想へと接近していった。日本の新左翼のノンセクトを代表する評論家の一人が辿った道筋は、ポスト〈一九六八年〉の典型例のひとつだと言える。
鎌倉は、津村喬を通じて、〈一九六八年〉の一つの帰結と見なされる「東洋神秘主義」への移行の過程を具体的に明らかにしたうえで、次のように津村を評している。
初期の津村のテクストの思想の核となっていた「日常性批判」は気功や太極拳といった活動が主軸となって以降も保持されており、個々人を取り巻き管理していこうとする資本や権力の作用から自己自身を解放しようとする方向性は通底していたといえる。しかし、その過程において、「反近代」への志向性が強まることと並行し、津村の議論から他者への視点が欠落していき、そこで述べられる「身体」が疎外論的のあるべき主体と措定され、自己の身体とのみ向き合うこととなっていった。その中から、宇宙や抽象的な意味での自然といった超越的な存在に対する位置づけがなされて行き、ニューエイジ思想の一端を担うこととなっていった。
こうした津村の活動の移り変わりは「転向」として把握されてきたし、実際のところ「東洋神秘主義」への移行のみならず、新左翼と呼ばれた人びとの変節に対しては、ネガティヴな意味合いを強く込めたかたちで「転向」と呼ばれてきたりもした。しかし、これまで単純に「転向」とみなされてきた把握の仕方では、戦後史における「一九六八年」のありようは掴めないだろう。
おそらく「転向」という断絶の形式によって見えなくなってしまうのは、「一九六八年」と「ポスト―九六八年」、そして現在を繋ぐラインである。これまで議論してきた津村の例でみるなら、彼が論じたライフスタイルの革命・自己の身体の再発見・食の自己管理といったもろもろのテーゼは、消費社会や新自由主義的なものに回収され、実現されてしまったということだ。自己の生活や身体へのケアは「ロハス的生活」と呼ばれ、むしろ最も近代化された生活様式となっている。このことは、エコロジー運動がSDGsというかたちで、むしろ資本の論理と一体化していることと相似形をなしているといえる。
一九六八年の津村の目標は、実現不可能だったのではなく、むしろその裏面から実現されてしまったのだということ、それをどう捉えて、どう議論していくか。個人の自己実現が社会や国家、あるいは資本の維持へと置き換えられたとしたら、それを、社会そのものを問い直していく地平にどうすれば持って行き直すことができるのか。そこではやはり、「朝鮮問題も部落問題もじつはその意味では、まさに「わたしの身体」の問題にほかならない」という視点こそが必要なのではないか。もう一度、他者論を導入し、その困難さと可能性を再考することが、現代社会に積み残された一九六八年的課題の一つなのではないかと思われる。(本書P220~221)
全共闘のいかがわしさ
津村が代表する全共闘運動は〈一九六八年〉が齎した新しい運動組織として肯定的に評価されてきた。はたしてそうなのだろうか。ポスト〈一九六八年〉において、津村がニューエイジ思想に行き着いてしまった要因が全共闘運動それ自体に内在していたのではないか。
新左翼革命家の笠井潔は、全共闘運動とその活動家について回想しつつ、次のような全共闘を嫌悪する一文を残している。
私(笠井潔)たちは全共闘運動のなかでなにゆえ「孤独」だったのだろう。〔中略〕たしかに全共闘運動の参加者たちの多くが「高揚する叛乱の内部での熱い融合状態」、「私」と「われわれ」の特権的合一、あるいは神津陽によれば「行為の共同性と関係の革命」などなどの実現を夢想した。夢想だけではなく、それはもう〝萌芽的″に実現されていると思い込む者さえもいた。しかし、こうした祝祭ぶりのなかでひそかな後めたさがあることを一瞬忘れながらも、祭りが高揚するほどにある種のしらけた意識がその裏で成長したことを、私は想起することができる。それは異様な感覚だった。
私が自己と世界との敵対関係を自覚するにいたったのは、完全に無機的な「孤独な群衆」の位相においてではない。疎外態はむしろ、無機的なマスの内に形成される大小の無数の社会的共同体の「内では共有、外には占有」という構造にあった。伝統的共同体ではない、大衆社会状況のうちに自然発生する小共同体からさえも分泌される疎外と受苦の経験。この体験から、純粋な主観性こそ自らの道であるという決意が生じる。なれあいの共同体を敵とし、ひたすら内なるモラルは、ここにあるのではないか。全共闘運動はそのあとである。
科学的でもなく説得的でもない観念(綱領と戦略)に純化し、ぬるぬると共同体への密通を欲求する自己の肉体を限界まで酷使した時、轟轟たる「民主的世論」の非難と「暴力学生」呼ばわりを受けた時にこそ、他者とのいかなるなれあいをも拒否しえたというささやかな感動は訪れた。1967年の闘いを生きた多くの叛乱者が68年と69年の学生叛乱に際して、硬直した政治主義者の貌をまとったのは相応の理由がある。一切の共同性への禁欲と他者との闘争をモラルとした者たちにとって、流行の「祝祭としての叛乱」や「コミューン的共同体」はなんといかがわしく感じられたのだ。私たちは全共闘運動の内にあって「醒めた者」であることを強いられ、それによって、祝祭のうちなる孤独をこうむったのである。(『自伝的革命論〈68年〉とマルクス主義の臨界』言視舎/P227~228)》
笠井潔の全共闘運動(ノンセクトラディカル)に対する嫌悪は、ジジエクの、〈一九六八年〉に対するそれと共通する。日本の全共闘運動は(ジジエクの表現を借用すれば)、平等主義かつ反ヒエラルキー的な文言に溢れ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織を批判し、それらを乗り越えたリバタリアンの反乱ともいえる性格を有していた。そして、その基底的性格がポストモダン資本主義の新しい主役たちの反乱として準備され、かれらの成功により創生されたと換言できるだろう。この新たな自由至上主義精神の典型例は、マイクロソフト社のビル・ゲイツやベン&ジュリー・アイスクリームの創業者たちといった、くだけた服装の「クール」な資本家にほかならない。〈一九六八年〉は期せずして、こうした危険をはらんだ革命運動だった。2020年代に入ると、新世代がこれまた超リバタリアンであるテクノ・リバタリアンへと成長していった。もちろん〈一九六八年〉当時、半世紀余り後の「いま」を予期できるはずもなかったが。
印象に残った論考
本書に集成された論考には、〈一九六八年〉を準備した思想的潮流が詳論されていて、とても興味深く読めた。その中のうちの2論文を以下に紹介する。
トロツキズム
日本の〈一九六八年〉革命において、トロツキーの存在を欠かすことはできない。六〇年安保闘争から〈一九六八年〉にいたるまで、旧左翼の日本共産党は新左翼を「トロツキスト」と呼び暴力的に敵対した。しかし、全共闘を含めた新左翼活動家においては、「トロツキーもしくはトロツキズム」とは反スターリ主義と同義語であり、スターリンに暗殺された「英雄」であり、それは一国革命論に対する永続革命論(世界革命論)を象徴した。
さて、本書第Ⅱ部第六章「革命的抵抗の技術と霊術――戸坂潤・田中吉六・太田竜(栗田英彦/著)」は、トロツキズムに関する秀逸な論考で、1950年代から惹起した国際的トロツキズム運動の変遷に係る解説として読める。
トロツキズムは一枚岩ではなく、ミシェル・パブロの思想(パブロ主義)とジェイムズ・P・キャノン(キャノン派)の対立から第四インターの分裂があり、それが本邦に及び、太田竜は、パブロ主義に基づき社会党への加入戦術を採用した流れから、日本トロツキスト聯盟(結成直後に革命的共産主義同盟に改称)の同志だった黒田寛一と対立した。太田は「トロツキスト同志会」を結成する。太田が去った革共同は、さらに黒田の革共同全国委員会と革共同関西派(=第四インター日本支部)に分裂する。筆者は革共同の党史に国際的トロツキズムの動向が影を落としていたことを初めて知った次第。
それだけではない。太田がパブロ主義の信奉者ファン・ポサダスの〝第三次世界大戦切迫論から核戦争不可避論、そして植民地革命に献身し、労働者国家が帝国主義に先制核攻撃をして世界革命戦争を開始すべきだ――そして核戦争の廃墟から立ち上がるものこそプロレタリアートであるという主張″に共鳴しつつ、ポサダスの第三世界革命論、核戦争と植民地闘争論を評価したという。
けっきょくのところ、第四インター内部の分裂は、1963年、第四インター統一書記局の結成を背景とし、太田がトロ同に再合流、革共同関西派とも統一し、第四インター日本支部となり、太田は中央執行委員長に就任する。トロツキズムを巡る国際的動向と本邦におけるその反映を経たことが、その後の太田の革命論の変遷の土台になったことがうかがえる。
なお、同章における「技術論と一九六八年」において、武谷三段階論(技術論)、田中吉六の主体的唯物論が論じられるならば、梅本克己の主体性論を含め、革共同革マル派の教祖・黒田寛一を論じてほしかったと筆者は思う。
黒田は太田とともに、日本トロツキスト聯盟の創設者でもあるが、前出のとおり、分裂後も革共同に残った。そして、1960年代中葉、同党は革マル派と中核派に分裂し、黒田は前者の教祖的存在となる。ポスト〈一九六八年〉における同派と中核派の内ゲバは、日本の左翼革命史に黒歴史を刻印するものであり、同派すなわち黒田寛一の独善性と暴力性は、「一九六八年と宗教」のテーマにもっともふさわしいものの一つではないかと思うからだ。
折口信夫の「大嘗祭 の本義」
筆者がもっとも興味をお覚えたのが、「第Ⅰ部第三章 橋川文三の「超国家主義」研究と折口信夫/斉藤英喜〔著〕」である。なかで、「昭和3年の大嘗祭と「天皇霊」」の項を読んでいるとき、すぐれたミステリー小説の犯人捜しを読んでいるかのようなドキドキ感を覚えた。
折口の大嘗祭の本義」の概要は、以下のとおりである。斉藤英喜氏(以下敬称略)による引用と簡単な解説が付されている。
大嘗祭の時の、悠紀・主基両殿の中には、ちゃんと御寝所が設けられてあって、蓐・衾がある。蓐を置いて、掛け布団や枕も備へられてある。此れは日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、此寝所に引き籠って、深い物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂(ミタマフリ)の行事である。此に設けられて居る衾は、魂が身体へ這入るまで、引籠って居る為のものである。(「大嘗祭の本義」新全集三187頁)
大嘗祭のときに設けられた悠の紀・主基両殿の「蓐・衾」。これを折口は『日本書紀』神話にもとづく「真床・襲衾」と呼ぶ。そして即位する天皇は、この衾に包まることで、「天皇霊」をその身体に受霊するとかんがえたのである。その儀礼を通して、天皇の「神性」は拡張し、その「復活の喜び」を獲得したというわけである。本書P139
参考までに、大澤真幸氏による解説文も付しておこう。
折口によれば、大嘗祭の中心的な意義は、新天皇の身体に天皇霊を付けることにある。天皇霊は、外来魂――天つ国からの外来神(まれびと)のエッセンス――である。天皇の身体は「魂の容(い)れ物」だ。すると、天皇の権威の源泉は、万世一系の天皇家の祖霊にではなく、天皇が即位したときに(古代においては毎年繰り返し)己の身体に入れた天皇霊にある、ということになる。
その天皇霊を付着させるために、新天皇はまず「真床襲衾(まどこおふすま)」等と呼ばれる特別な衣で身を包む。衣を取ることが禊(みそぎ)の完了を意味した。真床襲衾を除(の)けることで天皇に外来魂が付くのだ。
次いで天皇は高御座(たかみくら)から言葉を発する。それが祝詞(のりと)である。祝詞は、神の言葉の反復である。普通は天皇の言葉の伝達者を「みこともち」と呼ぶが、天皇が既に神の言葉(ミコト)の伝達者だったのだ。この言葉が届く範囲が天皇の領土、天皇の人民である。
それに応えて群臣は寿詞(よごと)を唱える。寿詞は、自身の魂を天皇に贈与することを意味し、服従の誓いである。諸国が米を献上することも寿詞と同じ意義をもっていた。稲穂には魂が付いているからである。
以上が大筋だが、興味深い細部がある。天皇の禊に奉仕する女性がいた。この女性は、衣のまま湯(=斎〈ゆ〉)につかった天皇の衣の紐(ひも)を解く役目を担う。折口は、この「水の女」を重視し、戦後の「女帝考」では、神の声を受け取るのは一人の男ではなく、女と男の対である、と論ずるようになる。天皇は男系だと言われるが、折口はむしろ、天皇の秘められた根源に女性的なものを見たのだ。(古典百名山:56/ 折口信夫『大嘗祭の本義』大澤真幸が読む』(朝日新聞2019年5月18日掲載)
折口説に反論したのが岡田荘司である。岡田の反論は次のとおり。
折口が「真床襲衾」と呼んだ中央の神座は来臨した神が休む「見立ての寝座」(象徴的な神座)で、天皇は、一切そこに触れることはできない。即位した天皇の役割は、悠紀殿・主基殿に迎えた皇祖神アマテラスに神饌を奉り、もてなすこと、つまり「神饌供進」の作法が最も重要であった。天皇は神を祭る神主の代表=「日本国の祭り主」であった、という結論になろう。(本書P140)
重要なのは、折口説、岡田説、どちらが正しいかを論ずることではなく、折口が天皇霊論を発表する根拠を確認することにある。本稿を読むかぎり、折口の直感でもなければ実証するに足る文献からでもない。結論を言えば、異端神道および「鎮魂」の作法だということになる。そしてその発信者はというと、宮内省掌典の星野輝興という宮内省官僚だという。以下、斉藤の言説を要約する。
星野は「昭和御大礼の大役を一身に引き受け滞りなく遂行した」大礼使事務官である。しかも星野は折口から「親友」と呼ばれ、平田派の宮地厳夫の弟子であった。宮地は冥界・仙界を重視した平田派「異界神道」の系譜につながる。しかも、宮地は複数の神社神職を兼務し、教部省教導職を経て、皇大神宮主典、神宮教院講師、宮内省掌典を担っている。つまり役人である。筆者は、これらの斉藤の記述については、もちろん初耳・初見である。
前出の星野は宮地について、「平田家二十五部秘書の一つである、密法修事部類稿の末にある久延彦の伝」のような、「他の御著述からは想像もつかない大がかりの霊の御実修を唯一継承したひとりであることを確信していた」という。つまり平田篤胤の霊学、霊術を継承したというわけだ。また星野は埼玉県教育会の講演で自らの神秘体験を語ったという。
折口が「大嘗祭の本義」で展開した鎮魂とは、宮地から星野を経て折口に伝わったばかりか、「自修鎮魂法」として、明治初期の本田親徳の「鎮魂帰神法」、大本の出口和仁三郎の行法にも連なる、道教系の調息法、修養法である。
斉藤は、《注目すべきは、そうした「異端神道」の系譜が、宮地や星野のような宮内省掌典 の国家官僚のなかに受け継がれたことだ。そればかりではない。在野系の神道家である川面凡児が提唱した「ミタマフリ」(鎮魂)の行法は、〔中略〕「天皇」「宇宙」の同化として語られ実修されたのである。川面の鎮魂法は昭和期の神道界の大物とされる今泉定助に影響を与えていたように、体制のなかに食い込んでいた。なんと、昭和14年(1939)に内閣総理大臣を務めた平沼麒一郎も川面からの教えを得ていた。》と書いている。(以上、本書P142~144より)
これらのことから、1930年代の日本帝国の要人のあいだに、異端神道信仰が侵食していたことが推測される。
この20年間続いてきた階級闘争の勝者
本書に集成された各論文からは、全共闘以後の「革命」のゆくえに明るい光が見えたとは言えない。〈一九六八年〉の熱狂と、現在の混沌としたネット空間(における言論状況)との非連続性が強く印象づけられる。その主因を探るヒントとして、『ショック・ドクトリン』の著者であるナオミ・クラインが著わした『NOでは足りない』という書の中の一節を紹介する。ナオミは、トランプが最初に大統領に就任した直後(2017年)、痛烈なトランプ批判を展開した。
新自由主義の中核にあるもの、それは強欲の正当化である。アメリカの億万長者ウォーレン・バフェットは数年前、CNNの取材に応えていみじくもこう語り、ニュース沙汰になった――「この20年間続いてきた階級闘争で勝ったのは、私の階級だ……富裕層が勝ったのだ」。(『NOでは足りない』(岩波書店P98)
階級闘争は、プロレタリアート(あるいはやマルチチュード等)という被抑圧人民から抑圧者に向けて仕掛けられるだけではない。〈一九六八年〉以降、バフェットの階級(富裕層)が全力で階級闘争を続けてきた。そして、彼らの階級が勝利した。それが前出のポスト〈一九六八年〉の資本主義すなわちポストモダニズム資本主義である。
ジジェクは、現代の先進国に出現した「三つの主な階級」について、次のように説明している。
生産過程の三要素――①知的計画とマーケティング、②物的生産、③物的資源の供給――は独自性を強め、各領域に分かれつつあると。そして、この分離が社会に影響した結果、現代の先進国に、(一)知的労働者、(二)昔ながらの手工業者、(三)社会からの追放者(失業者、スラムなど公共空間の空隙の住人)を形成したという。そして、(一)は普遍者に相当し、開放的な享楽主義とリベラルな多文化主義を、(二)は特殊性に相当し、ポピュリズム的原理主義を、そして、(三)は追放者として、より過激で特異なイデオロギー、をそれぞれ、もつに至ると。
そして、三分割プロセスの結果として、社会生活が、三分派の集結する公共空間が、ゆるやかに完全に解体されていく。この喪失を補完するのが各派の「アイデンティティ」政治である。集団の利益を代弁する政治は、各派ごとに特殊な形態をとる。それは、(一)知的労働者の多文化アイデンティティ政治、(二)労働者階級の退行性のポピュリズム的原理主義、(三)追放者の違法すれすれのグループ(犯罪組織、宗教セクトなど)、である。これらの共通するのは、失われた普遍的な公共空間の代わりに、特殊なアイデンティティをよりどころとしていることだと。
〈一九六八年〉から半世紀余りを経たいま、われわれはまちがいなく、その中のどこかにいるはずだ。〔完〕