2025年10月7日火曜日

別冊『太陽』が

「世界の呪術と民間信仰」という特集を組んだ。

豊富な写真と顕学の文化人類学者諸氏の小論文で構成されている。

現代人の多くが未踏の宇宙――呪術の世界へ飛び込んでみよう。










 

2025年9月27日土曜日

葬儀ミサ

 


アントニオ.A.H君の葬儀ミサに出席してきた。学生時代からの友人でカトリック教の信者だった。早すぎる。

司式を執り行ったバレンタイン・デ・スーザ神父は説教の中で次のようにおっしゃった。「我々の国籍は神の国である」と。

「日本人ファースト」の愚かしさよ。

2025年9月26日金曜日

短歌009

 


映画『シビル・ウオー アメリカ最後の日』

 ●アレックス・ガーランド〔監督〕●アレックス・ガーランド〔脚本〕 ● A24、 エンターテインメント・フィルム・ディストリビューターズ/amazon prim video〔配給〕

 

シビル・ウオーとは内戦のことだ。近未来、アメリカ合衆国が深刻な内戦に陥った状態から映画は始まる。テキサス州とカリフォルニア州が合体した西部同盟(以下「WF」と略記)が連邦政府に反旗をひるがえした。この映画のひとつの特長は、内戦が起きた原因――たとえば、リベラルと保守の分断・対立、あるいは宗教的なそれといったもの――をまったく説明しないことにある。WFを構成するテキサス州の知事グレッグ・アボットは共和党所属である一方、カリフォルニア州知事のギャビン・ニューサム は民主党所属だ。2024年大統領選でもテキサスはトランプが、カリフォルニアはハリスがおさえた。内戦勃発について、この映画はイデオロギー的対立に求めない。内戦の主因を語らないから、その不気味さがより強調され、見る側に強い恐怖を与える。 

あらすじをおさえておこう。 

内戦を報道しようと、リー・スミス(ベテランの戦場フォトジャーナリスト)、ジョエル(行動派ジャーナリスト)、サミー(経験豊富な老ジャーナリスト)の3人が最後の戦場となるであろうワシントンD.C(以下「DC」と略記)に向かう。その途中、リー・スミスが暴徒と警官とのもみあいに巻きこまれ棍棒で殴られた若い戦場フォトジャーナリスト志望のジェシーを救う。ジェシーは、リー・スミスを尊敬し、彼女のような戦場フォトジャーナリストを目指していると打ち明け、3人との同行を願う。ジョエルとサミーは反対するが、リー・スミスはなぜかジェシーに惹かれ、同行を許す。 

4人を乗せた車がDCを目指す道のりは、アメリカ映画の伝統であるロード・ムービーを踏襲しているような感があるのだが、内戦とかけ離れた内戦前の日常があるかと思えば、遠距離を隔てた敵を射止めようとする両軍のスナイパー同士の打ち合いに巻きこまれる。なんとか、そこから逃れたあと、得体の知れない虐殺者軍団によって殺戮された民間人多数の死骸の山を見ることになる。軍団に捉えられ処刑寸前の3人を救ったのは老いたサミーだったが、彼は軍団の銃撃をうけ死んでしまう。 

リー・スミス、ジョエル、ジェニーの3人はサミーの遺体を載せたまま、DC近郊のWFのキャンプにたどりつく。そこで、WFがDCを制圧したという情報をえる。サミーを埋葬したのち、3人は大統領を取材するため、DCに進入する。DCでは政府軍の残党が激しく最後の抵抗を見せるが、WFの軍勢に押され降伏し、精鋭部隊がホワイトハウスに突入する。ホワイトハウスでも大統領護衛官の抵抗を受けるが、隠れていた大統領を追い詰める。兵士の後に続いた3人は、大統領がWF兵士に取り囲まれ、銃殺される直前、この映画のクライマックスが訪れる。そのシーンは映画を見てのお楽しみ。 

シビル・ウオー(内戦)すなわち同じアメリカ人同士で繰り広げられる殺し合いという設定が、戦争の残酷さと無意味さをより強調する。そのなかで命を賭して戦場の実相を伝える戦争ジャーナリストの勇気が際立つ。若いジェシーが経験を積むごとに成長を見せる姿は頼もしさを感じさせる。次世代という希望を象徴するかのように。 

しかし、この映画は内戦という不条理な戦争を戦うリアルな兵士の「姿」を描かない。兵士は高性能の重火器を弄び、戦車や装甲車を乱暴に乗り回し、敵を殺戮することに喜びを感じるサディスト――戦闘をTVゲームやゲームアプリを楽しむ享楽者――勇敢に戦う自分の姿をカメラに収めてもらって優越感を感じようとする目立ちたがり屋――のようだ。戦争、戦闘、兵士、犠牲者…の映像は、恐ろしいほど虚無的だ。 

この映画は、けっきょくのところ、内戦における戦闘場面は舞台装置、兵士や虐殺者軍団は勇気あるジャーナリストの引き立て役、ライフル、機関銃、戦車…は小道具である。傷ついた兵士の苦悶の表情や兵士の死の瞬間は、戦場フォトジャーナリストの恰好の被写体にすぎない。

戦場ジャーナリストだけが英雄扱いされる謂れはない。内戦、聖戦、対外戦争、兵士、ジャーナリスト、フォトジャーナリスト、巻き添えの生活者――戦争に大義はない。ましてその犠牲者に序列があってはないらない、と筆者は思う。〔完〕 

『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』

  ●麻田雅文〔著〕 ●中公新書  ●980 円+税

 日ソ戦争とは 

 先の大戦末期、敗色濃厚の日本帝国は連合国側にたいし、条件付き降伏を模索し、連合国との停戦仲介をソ連に求めた。日本帝国が求めた条件とは、國體護持すなわち天皇を頂点とする国家統治原則の維持だった。換言すれば、天皇、政治家、軍人三位一体となった天皇制ファシズム国家の延命である。統治者が模索した降伏のあり方というのは、本邦生活者、植民地住民、そして兵士たちから、これ以上の犠牲者をださないための降伏ではなかった。人命よりも、為政者・権力者=戦争犯罪人の延命だった。連合国側は、日本帝国政府が求めた条件付き降伏を認めなかった。なぜならば、日本帝国政府の延命を認めたならば、近い将来、第一次大戦後のドイツのように、再び侵略戦争を行うにちがいないという疑念を捨てきれなかったからだ。  

 日本帝国がソ連に和平の仲介を求めた根拠は 1941 年に締結した日ソ中立条約である。この条約は、 1939 年のノモンハン事件の停戦(日本撤退)を受け、相互不可侵および一方が第三国に軍事攻撃された場合における他方の中立などを記載した条約本文(全 4 条)および満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を義務付けた声明書で構成されている(第 1 条:日ソ両国の友好、第 2条:相互の中立義務、第 3 条:条約の効力は 5 年間、期間満了 1 年前までに両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は 5 年間自動延長される、第 4 条:速やかな批准)  

 ソ連が同条約を結んだ背景は、ナチスドイツの東方侵略にたいする防衛戦争のさなかであったことである。ソ連は西方に軍隊を集中して配備する必要があったため、ナチスドイツと同盟関係にある日本帝国の東方からの侵攻を条約で阻止する必要があった。また日本帝国にも、中国、インドシナ、西太平洋へと戦域を広めるなか、ソ連による北方からの侵攻を条約で阻止する必要があった。  

 1945 年5月2日、ナチスドイツがベルリンでソ連軍に降伏したことで、状況は一変する。ソ連は西方の軍力を東方に配置換えし、日本帝国が支配する満蒙地域の解放を目指す環境が整った。米英等の連合国側もソ連の参戦を強く望んだ。

 1945 年 7 月 26 日、英米中三か国が発したポツダム宣言(日本帝国にたいする無件降伏要求)を日本帝国は無視し、徹底抗戦(本土決戦)を辞さない姿勢を見せた。その直後、広島(8月6日)、長崎(8月9 日)が米軍から核攻撃を受けた。ソ連は当初ポツダム宣言に加わらず、8月8日、ソ連が対日参戦を表明した日に同宣言に加わった。そして日本帝国は8月 15 日、無条件降伏を受け入れた。 

  ソ連軍は8月 15 日以降も進軍を続け、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を完全に支配下に置いた 9 月 5 日、進軍を停止した。これが本書が言う日ソ戦争の概要である。

条件付き降伏の模索  

 日本帝国が無条件降伏を受け入れる過程を振り返ると、ソ連にたいする印象は悪くなるばかりである。日本帝国の和平仲介要請を無視し、「平和条約」を一方的に破棄し、ポツダム宣言(無条件降伏)受け入れ後も戦争を止めなかった。

 筆者は当時のスターリン体制下のソ連を支持する気は毛頭ないが、ソ連の日本帝国にたいする措置は、「ソ連だから」というふうには考えない。ソ連にかぎらず帝国主義戦争の当然の帰結だと考える。たとえば、日本帝国は、柳条湖事件 から開始された満州事変、そして、盧溝橋事件をきっかけとした日中戦争開始は、宣戦布告なき中国への武力侵攻(戦争)であり、仏印進駐、真珠湾攻撃は英米にたいする宣戦なき奇襲である。 

  ソ連側から日本国帝をみてみると、日本帝国はソ連国境付近に関東軍・朝鮮軍という「最強部隊」を配置し、前出の満州事変を起こし、「満州国」という傀儡国家を建設し入植を始めた。日帝は侵略国家であり、東方の脅威にほかならない。 

 そればかりではない。1939 年 5 月から同年 9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って、皇軍(日本帝国軍)がノモンハン事件と呼ばれる越境紛争を二度にわたって起こしている。この紛争は、満洲国(=日本帝国)と、満洲国と国境を接するモンゴル(=ソ連)とのあいだの代理紛争(日ソ国境紛争)である。ソ連側から日本帝国をみれば、隙あらば越境を企てる危険な国家にみえるはずだ。  

 ソ連は帝国主義戦争の論理に従い、日本帝国との間に一時期、平和条約を締結した。状況の変化に従い、瀕死の日本帝国からの講和の仲介要請を無視したばかりか平和条約を一方的に破棄し、日本帝国がそれまで獲得してきた植民地および領土の一部の占領を企図し進軍した。 

  日本帝国は無条件降伏を(遅きに失した感があるが)受け入れた。戦勝国は正義・善であり、敗戦国は不義・悪となる。こうして今日まで、日本は、国連憲章第 53 条、77 条及び 107 条の通称「敵国条項」に該当するとされる。国際連合の母体である連合国に敵対していた枢軸国が、将来、再度侵略行為を行うか、またはその兆しを見せた場合、国際連合安全保障理事会を通さず軍事的制裁を行う事が出来ると定められている。  

 繰り返すが、日本帝国が無条件降伏を先延ばしにしたのは、ときの天皇・政府・軍人による国家支配(國體護持)の継続のためであって、自国民・植民地住民が被る犠牲については無関心だった。

 日本帝国が無条件降伏を受け入れなかったもう一つのの理由に「クーデター説」というのがある。天皇は、軍部内徹底抗戦派が蹶起し、国内が収拾のつかない混乱に陥ることを恐れたと、『昭和天皇独白録』にある。2.26事件の再来が予期されたと。

 本土間近まで追い込まれた戦況のなか、クーデターを企て本土決戦を決行しようとする勢力が実際にあったのかというと、管見の限りだが、その存在は確認できていない。「クーデター説」は、天皇による弁明のための弁明にすぎない。ここでも、日帝統治者には、戦争犠牲者に心を寄せる気持ちは皆無だったことが明らかである。 

 停戦に向けた日本帝国の第一のカードは、前出のとおり、ソ連への停戦仲介要請だったが不調に終わった。次のカードは、いずれかの戦闘で劇的勝利をあげ、それをもって停戦協定を有利に進めるというシナリオだったが、沖縄地上戦で惨敗を屈したところで、不可能をさとる。にっちもさっちもいかなくなったところで、無条件降伏を受け入れた。その間、前出の二度にわたる核攻撃を受け、ソ連の参戦を許して、満蒙入植者および捕虜の苦難を招いた。また捕虜となった日本兵・民間人のシベリア抑留という悲劇を生んだ。戦後、いつのまにか天皇の「聖断」が戦争を終わらせたという物語が一般化したようだが、史実に反する。 

在満蒙日本人の苦難 

  本書第二章では、満蒙に取り残された日本人入植者の悲劇――とりわけソ連兵による日本人入植者女性にたいする性的暴行事例――が詳細に記述されている。しかしながら、こうした蛮行はロシア(ソ連)人に特有な民族性(ロシアの戦争文化)に還元すべきではない。皇軍(日本帝国軍)は南京事件、シンガポール華人虐殺事件など、皇軍占領地で同じような事件を起こしている。満州の地では平頂山事件が知られている。

 皇軍にかぎらない。近年では、ベトナム戦争下における米軍・韓国軍による女性暴行・虐殺事件があり、バルカン(旧ユーゴスラビア)内戦では、セルビア軍による蛮行が記録されている。アフリカ各所の紛争では数えきれないほどだ。21 世紀にはいっても、ウクライナ戦争、イスラエルによるガザ(パレスチナ人)虐殺が現在進行形だ。

 米軍占領下にある本邦沖縄県においては、戦時下ではないにもかかわらず、米兵による沖縄県民女性にたいする性的暴行事件が絶えない。結論を言うならば、こうした問題は、戦争という状況と軍隊という組織が構造的に引き起こすものと理解すべきだろう。生と死が隣り合わせの戦場で、同じ服(軍服)を着、24時間、行動を共にする軍隊という組織が齎す感化の力である。戦争と軍隊が人間の理性を奪い、人間の心の奥に潜む獣性を呼び覚まし、集団的凶行・蛮行に走らせる。ソ連軍兵士に同情するわけではないが、彼らは欧州でナチスドイツと過酷な戦争を終わらせた直後に、東アジアの満蒙に大移動してきた。彼らはユーラシア大陸をほぼ横断したに等しい。彼らが平常心を保っていたとは思えない。本書第二章を読んで、ソ連兵(ロシア人)にたいする憎悪をつのらせるのではなく、反戦・反軍思想を深め、平和主義の原則(普遍的思考)に立ち戻ることが求められよう。 

戦況・国際政治に偏った記述  

 本書には反戦・反軍に係る視点が欠けている。戦争(戦況、戦闘)の詳細および帝国主義国家間の駆け引き、権益の奪い合いの模様に重点が置かれ、戦争の深淵にとどいていない。日ソ戦争の主因は、日帝が明治期に武力により植民地化した朝鮮から、さらに中国北東部(満蒙地域)にむけて領土拡大を謀り、そこに住んでいた生活者から土地家屋財産を暴力的に奪い、傀儡国家・満州国なるものを「建国」し、日本人を入植させたことにある。「満蒙は日本の生命線」と煽ったうえに…

 ソ連軍の侵攻により皇軍が後退したとき、土地家屋財産を奪われた満蒙の人々は入植者にたいして反撃を開始した。暴力的に奪われた土地家屋財産を暴力的に奪い返した。日本人入植者は加害者から被害者へと逆転したかのようにみえるが、彼ら・彼女らは日帝の帝国主義的政策の被害者なのであり、それ以上でも以下でもない。 ソ連軍が犯した蛮行については、前述のとおりである。

日ソ戦争と米ソ関係 

 日ソ戦争は米国主導の下、つまり米国がソ連に日帝打倒に向けて協力を求めたことが発端である。米国は日本帝国が本土決戦を決意したと判断し、米軍犠牲者の増加を危惧して、ソ連の参戦を求めた。ソ連軍による北からの圧力で日本帝国が無条件降伏を受け入れることに期待した。米国とソ連は日帝打倒という一点で合意していた。ソ連はナチスドイツとの戦争が決着するまで米国にたいして判断を保留した。

 前出のとおり、ナチスドイツが降伏すると、ソ連は一転して対日本帝国攻撃の準備に取り掛かる。ソ連は連合国が発したポツダム宣言に当初加わらなかったが、8月8日、対日参戦時に同宣言に参加した。そして日本帝国は無条件降伏した。

 米国の思惑通りことは運んだ。米ソは日帝から無条件降伏を引き出すところまで利害が一致していた。だが、ソ連は参戦後、1945年9月2日の連合国と日本との降伏文書調印後も進軍を続け、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を完全に支配下に置いた9月5日、進軍を停止した。 そのうえで、ソ連の最高指導者スターリンは、米国に対して北海道の割譲を求めた。米国はそれを拒否し、その代わりとして、いわゆる北方領土のソ連による領有を認め、北海道をGHQの管轄とした。両国とも大戦後の冷戦(米ソ対立)を予期したうえでの判断であろう。そのときソ連は核を保有しておらず、米国の軍事力がソ連を上まわっていた。 スターリンはそれ以上を望まなかった。この米ソの最終的合意が、戦後における日本の北方領土返還要求を妨げる主因となった。〔後述〕

 冷戦中、その北海道の米軍基地は北端の稚内米軍基地など、ソ連「封じ込め」戦略の一翼を担ってきたが、ソ連崩壊後、これらの基地は自衛隊基地に返還された。返還とされているが共同使用施設である。防衛省が公表した在日米軍施設・区域(共同使用施設を含む)によると、道内の米軍施設は18あり、東北地方には12カ所ある。米国にとって北海道・東北は冷戦終結後も変わらず、西太平洋北部における軍事的要衝であり続けている。 

北方領土問題 

 日本政府は戦後一貫して、北方領土返還交渉を継続していると表明している。また、返還は国民的悲願だと報道されてきた。北方領土問題は、前出のとおり、大戦後、米ソにより決定された事項である。北方四島が「固有の領土」だとして返還を求める日本と、第2次世界大戦の結果、正当に自国領になったと固持するロシアとで解決の道筋が見えないままであった。膠着したままの交渉の合間に、日本側から「二島返還」という妥協案が提案されたかのような記憶もある。

 第二次安倍政権下における安倍・プーチン会談で交渉は大きく後退した、というか、解決の道が閉ざされたかのように思える。報道では、両者の会談は異例の回数が重ねられ、「四島返還」にめどがついたと報じられたこともあった。ところが、ロシアは2020年7月4日、「領土割譲禁止条項」を明記した改正憲法を公布した。それに伴い、ロシア領土の割譲に向けた行為を違法とし、最大10年の禁固刑が科されるというのである。プーチンは北方領土を返還する意思がないにもかかわらず、安倍との会談を重ねた。プーチンの狙いはなんだったのだろうか。とにかく、安倍(当時)首相はけっきょくのところ、なんの成果もあげられなかったばかりか、今後の交渉の見通しも立たなくなったまま、2020年8月退陣した。

 戦後80年が経過したいま、北方領土についての日ロ交渉は1ミリも進展していない。20世紀の日ソ戦争前後から冷戦を経た21世紀のこんにちに至るまで、日本の対ソ・対ロ外交はうまくいっていないように思える。日ロ両国の相互理解が今後、いくらかでも深まることを願うばかりである。〔完〕

 

2025年9月13日土曜日

荒木町

 未踏だった繁華街・荒木町に行ってきました。

土曜の夜なので営業しているお店はおそらく7~8割だと思われますが、

それでも迫力あります。

キッチン「どろまみれ}

同上







話そうザ・バンド

 「話そうザ・バンド‼️」小倉エージvs 池上晴之(「Bar461」曙橋)に行ってきました。

さすがのご両人、まさに「ザ・バンドロジー」と喩えるにふさわしい、中身の濃いお話を聞かせていただきました。リスペクト!

bar 461

左:池上さん 右:小倉さん




bar 461


2025年9月9日火曜日

『徹底検証 昭和天皇「独白録」』

●藤原 彰・粟屋 憲太郎・吉田 裕・山田 朗〔著〕 ●大月書店 ●1340円(本体1301円) 

(一)昭和天皇「独白録」とはなにか 

 『昭和天皇「独白録」』は、昭和天皇(在位期間:1926年12月25日~1989年1月7日) が戦前、戦中の出来事に関して1946年(昭和21年)に側近に語った談話をまとめた記録である。外務省出身で当時宮内省御用掛として昭和天皇の通訳を務めていた寺崎英成により作成されたとされている。 

本篇は昭和二十一年三月十八日、二十日、二十二日、四月八日(二回)、合計五回、前後八時間余に亘り大東亜戦争の遠因、近因、経過及終戦の事情等に付、聖上陛下の御記憶を松平宮内大臣(慶民)、木下侍従次長、松平宗秩寮総裁(康昌)、稲田内記部長及寺崎御用掛の五人が承りたる処の記録である、陛下は何も「メモ」を持たせられなかった 。
前三回は御風気の為御文庫御引篭中特に「ベッド」を御政務室に御持込みなされ御仮床のまま御話し下され、最后の二回は葉山御用邸に御休養中特に、松平慶民ほか五人が葉山に参内して承ったものである 。記録の大体は稲田が作成し、不明瞭な点に付ては木下が折ある毎に伺ひ添削を加へたものである( 『昭和天皇独白録』) 

 一般公開が『文藝春秋』(1990年12月号)だから、昭和天皇崩御後のことになる。昭和天皇の独白録が40年ちかくも眠ったまま放置され、それが崩御のおよそ1年後に公開に至ったというのはまことに奇異に感じるのだが、公開の経緯について『独白録」は次のように記載している。 

『独白録』の一部は、木下の『側近日誌』に関係文書として収録されている。この「木下メモ」は菊花紋章がついた罫紙の用箋に書かれており、独白録の冒頭「大東亜戦争の遠因」に対応しているが、独白録よりも詳細である。寺崎版では「木下メモ」の文章が口語に変換され省略されている。
寺崎は病のため1948年から実務を離れ、翌年にグエン夫人と娘のマリコは、マリコの教育のためアメリカ・テネシー州に帰国した。寺崎は2年後に死去した。寺崎の遺品に含まれていた独白録は弟の寺崎平が保管していた。グエンが執筆した『太陽にかける橋』が日米でベストセラーとなり出版社の招待で1958年に来日した夫人に平から遺品が手渡された。グエンとマリコは日本語が読めなかったため記録類はしまい込まれた。30年後にマリコの息子コールが記録を整理する過程で文書の鑑定を南カリフォルニア大学のゴードン・バーガー教授(歴史学)に依頼し、教授はさらにこれを東京大学教授の伊藤隆に転送した。「歴史的資料として稀有なもの」との評価を受け取った寺崎家では重要性を鑑みて公表することにした。(『独白録』) 


 『独白録』の存在は1990年11月7日の新聞各紙で初めて報道された。月刊『文藝春秋』1990年12月号に全文が掲載され、大反響をよび追加増刷し発行部数は100万部を超えたという。 

(二)『独白録』の検証

 敗戦直後につくられた天皇の『独白録』である。天皇の発言を前出の側近5人が聞き、それをそのまま文字おこし(校正を経たことはもちろんだが)をした、と考えるようなナイーブ(うぶ)な者はおそらく本邦では少数派だろう。独白をつくりあげるべき理由があり、そこにはなにかしらの意図がはたらいた、と考えるほうが自然である。天皇と戦争の関係にかんする独白内容をそのまま歴史的事実として受け入れることは少なくとも、筆者にはできない。
 本書の発行は1991年3月20日(本書奥付)、検証に当たったのは、藤原 彰(女子栄養大学教授/1922~2003年) 、粟屋 憲太郎(立教大学教授/1944~2019)、吉田 裕(一橋大学助教授/1954~)、山田 朗(東京都立大学助手/1956~ )の4人歴史学者である(肩書は当時)。『独白録』が公開されたと同時に、歴史学者がその検証にあたったのは、至極当然な知的探求であり、本書にまとめられたことは、日本の歴史学会および出版界の功績といえよう。 

(1)『独白録』作成の背景

 独白録がつくられたのは、前出のとおり《1946年(昭和二十一年三月十八日、二十日、二十二日、四月八日(二回)、合計五回)》とされる。戦勝国による戦争責任を問う軍事裁判(東京裁判と言われる)は、1946年(昭和21年)5月3日~ 1948年(昭和23年)11月12日)に行われている。つまり、『独白録』は東京裁判開廷のおよそ2週間前に聞き書きを済ませ、開廷までに整えられたものと推測される。すなわち、東京裁判において連合国側から昭和天皇の戦争責任が問われるという前提のもとにつくられたのではないかとの推測が可能だ。
 昭和天皇は同法廷にて、戦争責任を追及されなかった。連合国内で、昭和天皇の戦争責任を問おうとしたのが、イギリスとオーストラリア、昭和天皇免責に動き、決定したがアメリカだった。アメリカは占領統治の安全性の担保として、また、本邦を反共の拠点国としてアメリカに従属させるという極東戦略に基づき免責を強行した(「高度な政治的判断」と呼ばれる)。
 免責は、アメリカ主導で調整されたのである。なおイギリスとオーストラリアが免責に反対した理由は、日本帝国軍による両国の捕虜にたいする虐待行為だと言われている。捕虜となったアメリカ兵は両国に比べて、極めて少数にとどまっていたようだ。 

(2)『独白録』の内容と意図 

 『独白論』を検証した前出の4人の歴史学者が共通して指摘するのは、『独白録」が「戦争責任追及」を予測したうえで、それにたいする弁明の論理として組み立てられている、ということである。 

・昭和天皇は立憲君主か 

 『独白録』検証の第一のポイントは、は昭和天皇が立憲君主の地位にとどまり、内閣の上奏をそのまま裁可していたかどうかというところである。この問題は、先の大戦における〈戦争の開始-戦争中-戦争の終結〉という、戦争すべての過程に関係するきわめて重要な問題である。なお、先の戦争とは、①日中戦争(柳条湖事件:1931→盧溝橋事件:1937~1945)、②アジア太平洋戦争(1941~1945)に大別されるが、③ノモンハン事件(1939)も考慮されている。対戦国はそれぞれ、①中国、②連合国(英米蘭豪など)、③ソ連となっている。

 前出4氏の検証結果をまとめれば、在位中の昭和天皇が立憲君主の地位にとどまっていたという独白録の記述は正確ではない、という結論に至る。その理由の第一は、人事にたいする積極的介入であり、第二に、昭和天皇が戦前から敗戦にいたるまで、国体護持の思想を保持し続けていたという事実が『独白録』から窺えるからである。昭和天皇の思想は、開戦前、終戦の際で変化はない。昭和天皇が軍事情勢に通じていながら、戦争をやめるために積極的に行動しなかった事実について、藤原彰は、《連合軍が本土に迫ったところで、三種の神器の保持が危なくなったというのが、終戦決意をさせた理由だ》と指摘している。 

天皇にとって国民はまさに臣下であり赤子である、統治している対象であるわけです。国民のすべての生命だとか幸福だとかに対する配慮より、むしろ統治する対象――天照大神からひきついできた天皇の支配する国家――の継承のほうが大事であったということが「独白録」からわかります。(本書P17) 

・昭和天皇は「戦争」に反対だったのか 

 『独白録』は、昭和天皇の戦争観に二面性があることを表している。一面は欧米との戦争に消極的であり、もう一面は、中国・アジア侵略については黙認から、一転、中国戦争拡大論者に転じたということがうかがえる。
 そして『独白録』から、昭和天皇が太平洋戦争(対英米戦争)について弁明に終始していることがわかる。弁明の論理は、〈立憲君主論〉と〈内乱危機論〉である。前者については、自分は立憲君主であったから政府決定を承認せざるをえなかったという弁明であり、後者については、開戦を拒否したらクーデターが起きた、さらにそれは国民的憤慨・興奮を背景としていてそれを抑えきれなかったという弁明である。端的にいえば、昭和天皇は、太平洋戦争の開戦は政府(東條内閣)決定であり、加えて、国民の開戦熱望だったということになり、自分に責任はないと「独白」しているのである。ここで見落とされがちなのが、ソ連軍に大敗した「ノモンハン事件」についての天皇の関与である。昭和天皇は自ら、関東軍に日ソ国境遵守という指示を出していたから、ソ連軍に大敗を屈したにもかかわらず、大命遵守ということでは関東軍は免責されてしまった。日ソ間の軍事力の差異すなわち日本帝国軍の軍事力の劣後が認識されなかった。つまり、ノモンハンの大敗が軍事的に教訓化されず、のちの無謀な開戦につながったのである。 

・昭和天皇は戦争を指導していたのではないか 

◎開戦について 

 中国戦争の事実上の開戦である満州事変への昭和天皇の関与の度合いをみると、前出のとおり、黙認から拡大へと軍部をけしかけている。昭和天皇は「満州ならば(田舎だから)、英米の干渉もないと判断した」と『独白録』にある。太平洋戦争についてはどうか。『独白論』では、東條内閣でなければならなかった理由を不自然に強調している。さらに、天皇が戦争に傾いていく事実が空白になっている〔後述〕。 

◎戦中について 

 太平洋戦争中、天皇は日独利害関係の不一致を指摘していたことが『独白録』で明らかになっている。このことは、欧州における戦況を把握し、日本帝国が大戦中に優位に立つべき戦略を構築する能力があったということの証左である。
 次に、レイテ決戦方針〔註1〕を徹底的に天皇が支持ている部分が見受けられる。 結論を言えば、作戦変更は無謀な作戦であり、それに天皇が賛成し、作戦変更に一役買っていたのであれば、責任は重大である。これによって、フィリッピンの防衛体制は崩壊し多大の犠牲者を出した責任が問われる。また、沖縄戦、雲南作戦における天皇の関与が『独白論』にある。『独白録』では、沖縄戦の敗因は陸軍と海軍の作戦不一致であると総括した。沖縄戦に敗けたあとの一縷の望みは雲南侵攻だといって戦争を長引かせた。天皇は敗戦濃厚の状況にありながら、積極作戦督促・決戦要求を強めていたことがわかる。 

〔註1〕レイテ決戦(レイテ島の戦い):1944年(昭和19年)10月20日から終戦までフィリピン・レイテ島で行われた、日本帝国軍とアメリカ軍の陸上戦闘である。日本軍の当初の作戦では、ルソン島では陸軍が中心となって戦闘するが、レイテ島を含む他の地域では海軍及び航空部隊により戦闘する方針だった。ところが台湾沖航空戦で大戦果をあげた(実は誤報)と信じた大本営は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官・山下奉文大将の反対を押し切り、作戦を急遽変更して陸軍もレイテ島の防衛に参加して迎え撃つこととし、ルソン島に配備されるはずだった多くの陸軍部隊がレイテ島へ送られた。約2カ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となった。(Wikipediaより) 

◎大本営御前会議を空白とした『独白録』 

 大本営御前会議こそが、昭和天皇の戦争関与の実態をもっともよく表す記録であるはずだが、『独白録』では空白となっている。大本営御前会議において、天皇が聞き役に徹していたと考える人はこれまた、本邦では少数派であろう。
 大本営御前会議では、作戦事項および天皇が軍事面におけるイニシアティブを発揮した事項がありながら、この二項について、空白である。第三の空白は、対米英開戦を納得していく過程である。『独白録』では、「12月1日に・・・御前会議が開かれ、戦争に決定した。その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も云わなかった」と記されている。
 四番目の空白は次のとおりである。

太平洋戦争中の天皇の作戦面での指導については〔中略〕「独白録」の中でほとんど語られていないと言っていいと思います。これが「独白録」の最大の空白部分であろうと私(山田朗)は思います。戦争中、天皇が大元帥として具体的に何をやっていたのか、どのように戦争指導にかかわっていたのかという箇所がごっそり抜けているわけですね。この点からも、「独白録」は虚心坦懐な回想録ではなくて、語らないことに一つの大きな意味がある記録であるということが言えます。(本書P70) 

◎聖断という神話――昭和天皇は戦争終結にいかにかかわったか 

 大戦末期、日本帝国の敗北が決定的なった段階で、昭和天皇はどのような動きをみせたのだろうか。天皇はそのような状況下、どこかで決戦をやって米英に大打撃をあたえたあとでなるべく有利な条件で講和をしようとこだわったことが、戦争終結のおくれにつながったという問題である。『独白録』は、このことについて完全にごまかしている。天皇の終戦決意の立ち遅れである。これが、大戦末期の数々の悲劇の主因となった。
 連合国がポツダム宣言を発出したのが1945年7月26日。日本に無条件降伏を求める宣言である。ところが、日本帝国は黙殺し、広島(同年8月6日)・長崎(同年8月9日)への原爆投下とソ連の対日参戦(同年8月8日)を経て、8月14日に宣言を受諾した。
 一方、日本帝国政府内では同年2月の近衛上奏文で、近衛が敗戦を予見するとともに、敗戦にともなって発生する「共産革命」によって天皇制が廃止されるのを防ぐためにも、ただちに戦争を終結することを主張した。『独白論』では、天皇が近衛(の上奏)を極端な悲観論者で、沖縄決戦をひかえているときだからやると、みずから「遅すぎた聖断」を認めている。
 天皇の頑なな戦争継続から終結に動いたのが、前出の近衛と内大臣の木戸幸一であった。そして天皇が終戦工作にコミットしたのが6月になってからだという。 

粟屋:やはりもうだめだと思った段階で終戦工作のほうにくみしてひそかにやっていたということは、この「独白録」でも少し言っているわけで、なにも8月10日、14日になって、内閣・統帥部の意見が割れていて決められないから自分が「聖断」したというのではなくて、その前からむしろ、ポツダム宣言の受諾のほうにコミットしていたわけで、「聖断」は神話にしかすぎないと思います。(本書P98) 

吉田:「天皇の聖断」を強調する世論工作のシナリオがどうもあるようと思っています。少なくとも客観的には・・・「聖断」を強調する流れがつくられている。(本書P100) 

 結論を言えば、昭和天皇が終戦の決断を下したといわれる「聖断」は、玉音放送直前に書かれた世論工作のシナリオであり、後年、いろいろな筋からそれを補強する情報が意図的に流されたことがわかってきている。 

◎加害意識の欠如 

 昭和天皇は『独白録』において、戦争の加害、被害について語っていないことに注目すべきである。南京事件、シンガポールの華人虐殺がすっぽり抜け落ちているのである。
 検証者の1人である粟屋憲太郎は次のように語っている。戦後80年が経過したいま、すべての日本人が粟屋の言説を心に留めておく必要がある。 

 日本国民全体の問題としても、この戦争でたしかに日本国民は大きな被害を受けたわけで、320万人の命を失っていますが、しかし、その何倍ものアジアの人々を殺しているわけです。それから実際の戦争の体験者というのも被害者であると同時に加害の体験者もたくさんいるわけですが、戦後の日本では、全体としてその問題に対する批判や反省がひどく欠けていた。これは昭和天皇自身についてもそうですが、そういうことに対する関心が非常にとぼしいですよね。(本書P170) 

戦後史における・・・天皇制の無責任の体系・・・が、いわば政治的な態度における無責任という問題が日本の場合には戦後史をつらぬいている。それが、政治指導者だけではなくて、やはり天皇が責任をとらなかったということが国民レベルまで、ある種の共犯意識をもって受け止められていることが、日本のある意味では底辺からの社会風潮を形成していると思います。天皇にアジアの民衆がみえなかったように、われわれも経済大国になるようになって、日本人の多くの人々には、かつて植民地であった、あるいはかつて日本の占領地で被害を受けたアジアの民衆の姿が見えない。(本書P176) 

〔完〕

 

2025セリーグ総括、「惨状」のひとこと


阪神タイガース、リーグ優勝おめでとうございます。 

アンチ巨人としては嬉しいかぎり。しかも、ぶっちぎり(2位巨人になんと17ゲーム差)、で史上最速優勝というおまけまでついた。 

惨状を呈したセントラルリーグ 

今季のセントラルリーグの惨状は目を覆いたくなるばかり。5球団がそろいもそろって勝率5割に満たなかった。筆者の野球観では、優勝決定後の記録はすべて無効だから、この先CS出場権争いで多少、5球団の勝率が上がったとしても、筆者にとっては意味をなさない。

そもそも、CS制度そのものを認めない。拙Blogで何度も繰り返し書いていることだが、CSはフル・マラソンが終わった後の走者に、短距離レースをやらせて(多少のハンディはつけているようだが)、日本シリーズ出場権を争わせるという、愚かな制度だ。即刻廃止が望ましい。CSは日本シリーズ(日本一決定)の価値を貶めている。 

(一)罪深きはヤクルト 

最下位ヤクルト(勝率.398)はNPBから退出すべきだ。主砲村上が長期離脱したから、という弁明は許されない。彼の長期離脱がわかった時点で、外国人獲得、トレード等、チーム強化の努力をしなければプロ球団とは言えない。しかも、村上ばかりかサンタナも長期離脱していた。「やるきなし」だ。 

加えて、ヤクルトはここ数年、弱体投手陣という指摘を受け続けていたにもかかわらず、強化を怠ってきた。防御率8.23の石川を200勝がかかっているからという理由でローテーションに入れていることも理解できない。セリーグを「破壊」した責任は重い。 

(二)阿部采配が巨人を壊す 

開幕前、「巨人優勝」を予想した評論家は多かったし、筆者もそう予想した。結果は勝率5割を切っての2位だ。ヤクルトの村上離脱が許されないように、岡本離脱という弁明は巨人においても許されない。昨シーズン低迷期が続いたなか、ヘルナンデス獲得が救いとなり、優勝にこぎつけた。そのヘルナンデスが不調に喘いでいるのならば、第二のヘルナンデスを探すべきだった。巨人のシーズン途中での新戦力獲得はリチャード(ソフトバンク)にとどまった。

守備の崩壊 

巨人の凋落は、短期的視点からというよりも、長期的に見て、阿部采配の不確実性という観点に立つべきだと思われる。その第一が守備の崩壊だ。阪神優勝が決まった9月7日現在、巨人のチーム失策数は71で不名誉なトップ、二位がDeNA・ヤクルトの64、4位広島62、5位阪神53、6位中日52という順だ。 

そもそも、岡本が負傷した主因は、彼の守備位置を一塁、三塁。左翼とたらい回しにした原前監督の采配にあり、それを引き継いだ阿部に責任がある。近年、巨人は複数ポジションを守れることがレギュラーの条件だとされると聞いている。確かにそのとおりで、選手側からすれば出場機会は増えるし、ベンチとしても、好調な選手を多く起用することが可能となる。しかし、守備を甘く見てはいけない。どんなに練習しても、複数のポジションを上手にこなすのは難しい。 

こんなシーンがあった。巨人-ヤクルト戦、巨人リチャードの5回の守備。ヤクルト増田の三ゴロのベースカバーで捕球後に増田の左膝がリチャード臀部付近に直撃。危ないプレーだ。リチャードの危ない守備はそれだけではない。彼が一塁を守っているとき、三塁岡本からのワンバンド送球を一塁ベース上に腰を下ろすような体勢で捕球しようとして走者と衝突した。当たり所が悪ければ、岡本の二の舞だったかもしれない。リチャードは一塁と三塁が守れることになっているが、彼の一塁守備はおよそ素人に近い。 

定位置を獲得しているのは、野手では泉口(遊)、吉川(二)だけ。岡本が負傷離脱したあとの三塁は、坂本、中山、門脇、浦田、増田大、リチャードと定まらず、一塁も大城、荒巻、増田陸、リチャードと日替わり状態だった。中山は二塁、ライトを兼任したし、大城も捕手をつとめた。門脇は吉川離脱時に二塁を守った。阿部は打撃の調子が悪くなると、即座にベンチに下げ、他のポジションの選手をそこに入れる。選手は打撃も守備も上達しない中途半端なシーズンを送らざるをえない。 

一塁と三塁はチームの顔 

筆者の野球観では、一塁と三塁はチームの顔となる選手でなければならない。なぜなら両者はファンから最も近いところに位置するからだ。古くはV9時代の巨人のON、いまの阪神ならば大山(一塁)と佐藤輝(三塁)だ。ついでに言えば、打てない一塁手、三塁手は不要だ。このポジションは、守備の負担が比較的軽いのだから。 

巨人が「顔」を失ったのは、遡れば、これも原前監督の時代からだ。岡本が本塁打を量産する選手に成長したとき、原(当時)監督は三塁岡本、一塁中田翔の布陣を選択した。中田翔は「とりあえず」の選手だろう。その後、遊撃坂本に衰えが見え始めた巨人は、三塁坂本、一塁岡本の布陣を選択した(岡本はときに左翼も守ったが)。この選択も「とりあえず」感が強い。坂本が三塁で打撃を活かせる期間はせいぜい1~2シーズン。坂本が元気なうちに、打てる一塁手を決めなければならなかった。 

筆者は、原が岡本に三塁と一塁を守らせる起用法に不信を抱いていた。巨人の三塁手は岡本で決まりだが、一塁手は不在。そこは外国人選手を迎えてもいいとさえ思えた。原からバトンタッチした阿部が監督就任一年目で優勝した2024シーズン、巨人の一塁・三塁を振り返ってみよう。一塁岡本・三塁坂本、三塁坂本・一塁ウレーニヤ、一塁大城・三塁門脇・左翼岡本・・・と変化が著しかった。この年、大城は打数321、打率.254、本塁打3、打点27、坂本は打数395、打率.238、本塁打7、打点34だった。この実績を踏まえるならば、2025シーズンは一塁大城、三塁岡本で固定すべきだったのではなかろうか。ちなみに、2023シーズンの大城は134試合、424打数、打率.281、16本塁打の好成績で、岡本の打率.278を上回っていたし、坂本(116試合、403打数、.288)に次ぐチーム2位の打率を記録していた。 

そして今シーズン、岡本が一塁手で負傷、長期離脱した。岡本の本職は3塁手。チームの顔であり、打撃の中心であるべき選手であることは前に書いた。岡本を本職の三塁に固定していれば、負傷は防げたかもしれない。岡本はどこでも守れるというのは原・阿部の過信である。一塁手岡本は、捕球と走者の距離感、時間軸の計算がとっさに働かず、左腕を走者にもっていかれるという、最悪の結果をまねいた。阿部は「複数ポジション」を原から引きつぎ、岡本の長期離脱という痛手を負った。岡本離脱後、一塁大城で固定していれば、少なくとも、リチャードよりは確実性ある打撃が期待できたと思うのだが、大城の調子が上がらず、代打要員に格下げされた。筆者の見立てでは、大城は試合に出て調子を上げるタイプのように思える。けっきょく巨人の一塁は打率2割に届かぬ(60試合/168打数/打率/.190)リチャードで固定されるという不思議な展開で終わりそうだ。大城という非凡な打者の才能が潰されそうだ。一方、優勝した阪神は、三塁佐藤、一塁大山を固定して、佐藤の大きな成長を促した。 

チーム内打率トップの選手にバントはない 

阿部采配のバントの多様は許容しがたい。とりわけノーアウト1、2塁でクリーンナップにバントのサインを出すのはいただけない。阿部はこわがりな性格なのだろう。併殺が怖いのだ。筆者は打率チームトップの選手のスリーバント(失敗)なんか見たくもない。ヒットを打って、二塁走者が本塁につっこむシーンを見たい。もちろん、併殺打に終わることもあるだろう。しかし、バントが成功したところで、次の打者が外野フライで1点取ったとしても、おもしろくない野球である。

泉口がバントを失敗した挙句、ベンチで涙をこぼしたシーンがTV映像に流れた。彼は打率リーグトップの選手に成長している。チーム内でもっとも信頼すべき打者のひとりなのだ。彼を大物に育てたいのならば、ベンチもリスクを負わなければならない。でなければ、チャンスにバントをする選手で終わってしまう。しかも阿部は泉口を懲罰交代させた。選手は人間である。どんな選手にもプライドがある。阿部の采配は、言葉を持たないパワハラ行為だ。 

阿部の選手起用は短絡的 

阿部は「起用即結果」を求めすぎる。不慣れなポジションを守らされれば、ミスが起きる。守備、走塁でミスをする、チャンスで打てないとなると、すぐ打順を代える、交代させる。選手は委縮し、緊張してミスをする。という負のスパイラルが選手のあいだに広がる。巨人に必要なのは一塁と三塁というチームの看板選手を育てることだった。三塁の岡本が育ったのだから、坂本が元気なうちに、一塁の強打者を外国人でいいから一時的に補強すべきだった。繰り返すが、一塁と三塁はチームの顔でなければならない。 

岡本に限らず、複数ポジションをプロレベルで守れるだけの練習を積ませて起用しているのかどうか、選手がミスをした後、それを取り返すだけのタフさを身につけさせているのかどうか、監督、コーチが選手の技量を正確に把握しているのかどうか、ユーティリテープレイヤーとしての才能を見極めているのかどうか。選手を責める前に、球団・監督・コーチの無能無策を反省しなければ、来季も5割を維持することは難しいだろう。

(三)DeNA、広島に進歩なし

巨人に勝てないDeNA、後半失速する広島。この2球団には進歩向上のあとが見られない。どちらも選手層が薄い。前者は投手陣、後者は打撃陣に駒不足。DeNAにしても、ベテラン宮崎、筒香に頼っているようではヤクルトの二の舞になる可能性が高い。対戦成績をみると、阪神に5-12(2) 、巨人に6-14(1)というひどさ。先が思いやられる。

中日は昨年より向上した。課題だった打撃陣に新戦力を加え、もとから良い投手陣とあいまってバランスを回復した。しかし、対戦成績を見ると、阪神に10-10、巨人に10-12と善戦している一方で、DeNAに8-15、ヤクルトに9-9(1)という成績は不思議であるし、もったいない。来季の課題となろう。〔完〕

2025年9月6日土曜日

居酒屋→カラオケ(谷根千)

 高校時代の友人が谷根千に来てくれました。

居酒屋「慶」


Vocal House Nami


同上


2025年9月5日金曜日

偲ぶ会

 本年7月末、大学同期のO君が天国に旅立ちました。

本日、同期の会(13人会)として偲ぶ会を大学内にある萬来舎にて行いました。

病気、諸般の事情により欠席が多く、参集したのは7名、たいへんです。




萬来舎


二次会


同上


2025年8月30日土曜日

『精神分析の四基本概念 上下』

●ジャック・ラカン〔著〕 ●岩波文庫 ●780円・1010円(+税)


  ラカンは以下のように切り出して、講義を始める。 

主体の心理は、主体が主人の立場にいるときでも、主体そのものの中にあるのではありません。〔中略〕それは対象の中に、隠された本性を持つ対象の中にあります。この対象を現れさせること、〔後略〕。
このことこそ、ここで指摘するにふさわしい、しかも私がそれについて証言できる場所から指摘するにふさわしいと思われる次元です。(本書上巻P18)

 主体の心理が隠された本性をもつ対象の中にあるのは、本題にある四基本概念――「無意識」「反復」「転位」「欲動」から求められ、結論を言えば、それは〈他者〉ということになる。 

意識哲学と間主観性 

 ところで、〈他者〉については、哲学において深められていった。バーバーマスである。彼はハイデガーの『存在と時間』の影響を受け、デカルトから始まった「意識哲学」を「間主観性」の方向に先験的に克服しようと試みる。ここでいう「意識哲学」とは、ヨーロッパの近代哲学の主流である、意識や自我を中心とする哲学のことである。
 デカルトは「精神」が人間の本質であると考えた。精神は思考するものであり、自分以外のすべてをカッコに入れることができる。身体や他の精神との関係はさしあたって問題にならない。カントにおいても、「自我」は世界の中に存在するのではなく、世界を超越し、自分の側から世界を「構成」するという面をもつ(超越論的自我)。「意識哲学」とは、このように、世界や他者から孤立した主観を起点とする思想である。 
 ハーバーマスはそれに対して、「間主観性」という二十世紀になってから誕生した哲学の新しい流れに注目する。それは、フッサールの現象学の創始を嚆矢とする。フッサールは、わたしたちが「生活世界」において他の人々との交流の中で生きていること、この他者との関係性がまっさきにあるのであって、わたしたちの認識はこの関係性のなかではじめて生まれ、分節化されることを指摘する。これが「間主観性」の思想である。しかし、フッサールには、超越論的主観による世界構成という発想がまだ残っていた。ハイデガーは『存在と時間』で、わたしたちは「世界内存在」であり、つねにあれこれのものに「関心」を持ちながら生きているのだと明らかにした。これには「間主観性」の思想を押し進める意味があった。
 ところが、ハイデガーの『存在と時間』は、他方では、むしろ人間の単独性を強調するアピールをも含んでいた。それによると、わたしたちは日常的には世界や他人の中に埋もれて「非本来的」な生き方をしているが、自分が「死への存在」であることを知り、それをばねに、他人となれあうことのない「本来性」にめざめなければならないと。第一次世界大戦の衝撃から、近代的理性の限界を思い知らされたヨーロッパの人々に、このハイデガーの実存論の哲学は、力強くアピールした。
 しかし、ハーバーマスは、『存在と時間』のこの部分については、後期のハイデガーの思想に対すると同じく、否定的である。というのは、近代の疎外ないし物象化は、ハイデガーのような「本来性」へ向けての英雄的脱自の呼びかけによっては解決できないからである。『存在と時間』は結局のところ、近代の主観主義を克服していないどころか、それが保っていた個人の「責任」の自覚を捨て去ってしまう点で、いっそう危険でさえあったのである。
 ハーバーマスは「間主観性」から出発し、ハイデガーを乗り越えようとコミュニケーション論を自身の思想の集大成として完成する。彼はコミュニケーション的合理性を実践する場として、討議を提案する。たとえば社会規範の正当性が疑問視されたとき、討議が開催される。討議においては、当事者すべて参加し、それまで経験的に妥当してきたものの効力を停止し、各人が妥当要求を掲げて自己主張し、より良き論拠だけを権威として認める。討議には、理論的討議、実践的討議、治療的討議の三種がある。そして、ポスト慣習的で多文化社会において、普遍性をめざす道徳は、行為規範の内容を直接的に規定することはできず、普遍の規範を決定するための手続きなど、間接的な側面についてだけかかわる。規範を決定するのは、すべての当事者が対等な立場で参加する、実践的討議においてである。最後にすべての参加者が同意しうる規範だけが、妥当なものとして認められる。(『増補 ハーバーマス コミュニケーション的行為』中岡成文〔著〕より抜粋)

ラカンとデカルト 

 ラカンはこの講義でデカルトについて論じている。 

デカルトが確信という概念を初めて使用したとき、この確信は思惟の「我思う」に全面的に由来しており、似たものでは決してない二つのもの、すなわち懐疑論と知の消滅との間にあって、出口を持たないという特徴を持っているのですが、彼の間違いは、それこそが知であると信じたところにある、と言えるでしょう。つまり、この確信について何か知っていると言ったこと、「我思う」をたんなる消滅の点にしなかったことにある、と言えるでしょう。反対に彼は別のものを作り出しました。それは、徹底的な宙づり状態に置かれなければならないと彼が述べたあらゆる知が彷徨っている領野、彼の名づけていない領野に関わるなにものかです。彼はこれらの知をより広い主体、知っていると想定された主体、神の水準に位置づけます。ご存じのように、デカルトは神の現前を再び導入せざるをえなかったのです。しかしなんという奇妙な仕方でしょう。
そこでこそ、永遠の真理という問いが立てられます。彼の面前に騙す神が決していないことを確かめるために、彼はある神という媒介を経由しなければなりません。ちなみに、そもそも彼の領域で問題になっているのは完全な存在というよりも、むしろ無限の存在です。彼以前の誰もがそうであったようにデカルトもここで次のような要請にとらわれているのでしょうか。つまり、すっかり顕在的となった科学知がどこかに実在するということによって――どこに実在するかというと、それは神と呼ばれる実在する存在にですが――すなわち神は知っていると想定することによって、科学研究全体を保証しようという要請です。(本書下P231~232) 

 そのうえでラカンは、デカルトが主意主義によって、つまり永遠の真理というものが、神の意志に与えられた優位性をもったもの――科学知――によって求められるのだと言う。「永遠の真理が永遠であるのは、神がそう望むからだ」と、それがデカルトの永遠の真理の深淵であると。 

(デカルトは)真理のある部分を、特に永遠の真理を神に任せてしまう・・・デカルトが言いたいのは、そして言っているのは、もし2足す2が4であるとすると、それはただたんに神がそうのぞむからだ、ということです。それは神の業だ、と・・・(本書下P223)》

 以下、ラカンはデカルトが導入した幾何学と屈折工学について述べる。ラカンによると、デカルトは彼の代数学のa、 b、 c などの小文字を、大文字に代えて導入するという。大文字は神が世界をそれを用いて創ったというヘブライ語のアルファベットのことで、それぞれの文字に裏面があり、数が対応しているという。デカルトの小文字と大文字の差異、それはデカルトの小文字は数を持たず、相互に交換可能であり、ただ置き換えの順番だけがその操作を決定する、という。 

〈他者〉が現前することで含意されているものが数の中にはすでにあることを説明するには、数列は潜在的な仕方であれともかくゼロを導入しなければ描くことができない、ということを指摘しておけば十分でしょう。ところでこのゼロ、これこそが主体の現前です。主体というのは、この水準では合算している者です。ゼロを、主体と〈他者〉との弁証法から引き出すことなどできません。この領野の見かけ上の中立性が欲望の現前そのもを覆い隠しているのです。(本書下P235) 

精神分析、宗教、科学 

 ラカンはこの講義の終盤で、精神分析について語っている。精神分析がどこまで科学に還元でき、どこからできないかと。そしてこの問題の曖昧さが、精神分析が含んでいる、ある種の科学の彼岸に気づくことによって説明されるという。ある種の科学の彼岸とは、それを超えたもの、つまり、前出のデカルトのそれ、近代的な意味での科学「なるもの」のことである。
 この彼岸ゆえに精神分析は、形式と歴史のうえでしばしば似ているといわれる、教会さらには宗教の中に分類されかねない、とラカンはいう。 

人間が、この世界の中での、そしてその彼岸での己の実存について問いを立てる諸々の様式の中で、宗教、つまり自らを問いに付す主体の存在様式としての宗教は、それに固有の、しかも忘却の印を帯びたある次元によって区別される、ということです。宗教という名に値する宗教はどれも、操作的なあるものを保存することをその本質とするような重要な一つの次元があります。そして、それは秘蹟と呼ばれています。(本書下P318)

 秘蹟とは目に見えない神の恵みを、特定の儀式という「しるし」を通して信者に与えるものであり、カトリック教では教会をとおして行われ、7つの秘蹟が定められている。①洗礼(せんれい):罪が赦され、神の子として生まれ変わる儀式、②聖体(せいたい):パンとぶどう酒(キリストの体と血と信じる)を分かち合う儀式で、神と信者の結びつきを深める。③堅信:神の恩寵を受け、信仰心を強め、神の愛を実感する儀式、④ゆるし(告解・悔悛):犯した罪のゆるしを与える儀式、⑤病者の塗油:聖なる油を塗って、信者の身体と心の病の痛みや苦しみを和らげ、癒す。⑥結婚:一組の男女が互いに助け合い、生涯にわたる愛を約束する儀式。⑦叙階:司教、司祭、助祭になるための儀式で、教会を導く役割を授かる。
 ラカンは宗教がもつ秘蹟という操作性を「魔術的な刻印を見いだす」とさえいう。そして秘蹟という操作性の次元こそが、宗教の内部で、我われの理性や我われの有限性の無力、あるいは分離という完璧に定義された理由のために、忘却の刻印を押されたものでることに気づかされるという。精神分析がもしも自身のおかれている状況の基礎づけとの関係で宗教と同じように忘却を被っているのであれば、精神分析はセレモニー(儀式)という形で、宗教と同じ空虚な局面とでもいうべき刻印を押されることになるだろうと。そして、精神分析を以下のように位置づける。 

精神分析は宗教ではないのです。〔中略〕精神分析は、主体が自らを欲望として経験する中心的欠如の中に身を投じています。精神分析は、主体と〈他者〉の弁証法の中心に開いた裂け目の中に、危うい懸け橋のような境位を持っているとさえ言えます。精神分析はなにも忘却すべきものを持っていません。なぜなら精神分析は自分がそのうえに操作を加えていると主張しなければならないような、そういった実体を認める必要性を有していないからです。(本書下P317)

2025年8月23日土曜日

映画『教皇選挙』

 ●エドワード・ベルガー〔監督〕 ● ピーター・ストローハン〔脚本〕 ●キノフィルムズ/amazon prime〔配給〕 


カトリック教についてしっていることは少ない。全世界14億人以上の信徒を誇るキリスト教最大の教派であり、ローマ教皇と呼ばれる宗教上の最高指導者が教団のトップにいて、信徒ばかりか世界にそれなりの影響力を与えていることくらいか。教皇は、神と信徒のあいだいにあり、神の代理人のような存在なのかもしれないし、イエスのそれかもしれない。カトリック教においては、神-イエス―教皇-信徒という垂直的位階があるのかどうか・・・ 


東京カテドラル

カトリック教についてもう一つ、その財力が桁違いに大きいことを知っている。プロテスタントの教会を預かる牧師は、とりわけ教会員が少ない日本では、教会を維持することは難儀だという話を聞いたことがあるが、カトリック教会にはその心配がないという。同派の総本山ローマから潤沢な支援金が送られてくるからだと。カトリック東京大司教区の司教座聖堂・東京カテドラル(聖マリア大聖堂)は荘厳な建築で知られている。

※   ※

さて、この映画は、カトリック教の最高指導者教皇が亡くなり、次の教皇が選ばれる過程を描いた物語だ。新教皇を決める教皇選挙「コンクラーベ」に世界中から100人を超える候補者たちが集まり、新教皇は投票で決められる。投票は別名、選挙である。つまり、選挙ならば、「コンクラーベ」も例外ではなく、選挙のシステムが稼働する。新教皇を目指すもの、多数派に属して、新教皇から受けられる利益を追求するもの、いくつかの派閥が形成され、票が割れる。陰謀、差別、スキャンダルを互いに暴き合い泥仕合となる。

「コンクラーベ」は、選挙を執り仕切る者(ローレンス枢機卿/映画の主人公)が候補者であることもできるという不思議な選挙制度である。「民主主義」の選挙ならば、中立の立場にある選挙管理者が選挙事務を取り扱うのが普通であるのだが。

「コンクラーベ」は厳格な選挙規約があり、候補者は外部から遮断された建物に宿泊し、夜間は厚い壁で仕切られた部屋に缶詰め状態にされる。もちろん携帯電話等は取り上げられ、世間の情勢、情報は遮断される。だが、ローレンス枢機卿は選挙の仕切り屋という立場から、派閥の仲間と密談ができ、前教皇が残した秘密文書にアクセスすることができ、恐るべき陰謀等を知る・・・結末はネタバレになるから書けない。 

※   ※ 

ローマ法王庁は組織であり、それを構成する教皇、枢機卿等も私利私欲にかられたただの人間。神の代理人という権威・権力を求めつつ、世間(全世界)からのスキャンダルをおそれる俗人であることを映画を通じて知ることができる。〔完〕 


2025年8月19日火曜日

映画『ゆきてかへらぬ』

  


●根岸吉太郎 〔監督〕 ●田中陽造〔脚本〕 ●キノフィルムズ/amazon prime〔配給〕 

 天才詩人・中原中也(1907~1937)、鬼才の批評家・小林秀雄(1902~1983)という、日本文学史に残る巨星二人を愛し、愛された長谷川泰子。この映画はそんな三人を描いた物語だ。 

 三人の関係については、日本の近現代文学に関心がある者たちにはよく知られている。泰子は駆け出しの大部屋女優。中原と同棲していたが、中原の親友、小林に出会い、中原を捨てる。中原は親友と恋人に裏切られた「口惜しき人」となる。しかし、泰子と小林の生活は長続きせず、泰子は神経症を患い小林は彼女をおいて出て行く・・・ 

 泰子を媒介として、中原と小林の資質のちがい――詩人と批評家という文学に対する向き合い方――が、泰子との接し方の違いとなって彼女を苦しめる、というのが映画の基軸となっている。創作者(中原)と批評家(小林)を定型的・図式的に性格付けをしたうえで、泰子の愛が中原にも小林にも届かぬ不可能性として描かれる。創作と批評の弁証法は止揚されることのない絶望的関係であることを暗示する。 

 創作者と批評家は対立的だ、というのは思い込み――クリシエなナラティブだ。映画のように、詩人(中原)と批評家(小林)が対照的であることもあるし、そうでない場合もある。中原と小林の場合は、たまたま、詩人(創作者)が直情的、破滅的、主観的であり、批評家が分析的、常識的、客観的であったにすぎない。この映画ではそう性格付けされているのだが、両者の資質の違いは、性格(人間性)の違いでしかない。わかりやすくいえば、中原と小林の性格付けと真反対な、つまり常識的詩人もいれば、破滅的批評家もいる。たまたま、破滅的中原と常識的小林が、詩人と批評家だった。 

 中原は、映画のとおりの性格だったようだ。そのことは当時、中原のまわりにいた友人・知人の多くが証言を残している。その一方で、小林については管見の限りだが、その人となりを知るような情報が一般化していない。映画では、自惚れ屋、自信家である一方、繊細で外見を気にする性格の持ち主として描かれている。 

 筆者の邪推にすぎないが、地方出身の中原には、東京人に対するコンプレックスがあったのではないか、と思う。都会人は本音を隠し、軋轢を避け、自己防衛的な傾向がある。田舎の裕福な家庭に育った中原は、都会人の率直でない態度に苛立ち、激しい口論や喧嘩をふっかけ、彼らから隠された本心を引き出そうと労苦したのではないか。東京に生まれ育った小林は、都会人として、対人関係に距離をおく習性を身につけていたのかもしれない。1920~1930年代の地方と東京のギャップはいま以上に大きかっただろう。 

 泰子はどうなのか。映画女優を目指す当時としてはモダンで自立した女性という一面をもちながら、独りではいられない。そして、中原と小林を求めながら、両者に安住することはできなかった。中原と小林は否定的関係にあるが、両者を止揚する男は見つからない。不可能な愛を求めた彼女は独りとなった。 

 この映画のすぐれた視点は、泰子が中原と同棲中、小林が中原宅を訪れ、二人が文学論に熱中して楽し気な様子を見たところで、泰子が不機嫌になるシーンだ。そのとき、中原は「嫉妬しているのか」と泰子をなじる。泰子はまちがいなく嫉妬していたのだ。男同士の恋愛ではない友情というか、ある主題(ここでは文学)について理解しあう者同士の関係に嫉妬したのだ。そのような関係は泰子が永遠に築けないものだからだ。泰子は中原の詩を読み感動したことはあったかもしれないが、小林の評論を読んだことはなかっただろう。難しくて読む気にならなかったかもしれない。中原と小林の関係を壊すには、中原を捨て小林の下に行くしかない。それが中原と小林を超える唯一の手段のように彼女には、思えたのかもしれない。

※   ※

長谷川泰子を演じた広瀬すずが圧倒的存在感を見せ、すばらしかった。木戸大聖が中原中也、岡田将生が小林秀雄を演じたが、二人とも風貌が現代的過ぎて、1920~1930年代の日本人の貌ではない。〔完〕  

2025年8月17日日曜日

お祝いで イタリアン

東大大学院留学生のLuoさん、
修士論文に合格。
おめでとう。



























2025年8月12日火曜日

広陵高校野球部暴力事件に思う

暴力事件発覚までの経緯

 広陵高校野球部内における暴力事件発覚の経緯を確認しておこう。
 今年1月下旬、広陵高校野球部・当時2年生の部員4人による、1年生の部員にたいする暴行や不適切な指導事案(といわれているが、集団暴力事件である)があった。3月上旬、日本高野連は同校野球部にたいし厳重注意処分を発出した。広陵高校は当時、加害対象部員に対し、1ヶ月の公式戦出場を停止とした。その一方、被害部員は3月の夏に転校し、今回の夏の予選の前に、被害部員の方は被害届を警察に提出している。
 今回の「事案」は公表はされていなかったが、8月5日の夏の「甲子園」開会式の前に、SNSなどで部内で暴行があったという情報が飛び交う状況になった。今月6日、「甲子園」の開会式の翌日、学校は暴行不適切「事案」の詳細を公表した。
 ここまでのところで、だれもが疑問に思うのは、なぜ情報が公表されなかったのか、ということに尽きる。高野連はこのことについて、厳重注意処分を原則公表しないという立場をとっているからだと説明する。高野連は公表しない理由について、SNSで個人攻撃をむやみに煽らないため。過ちを犯した未成年を守るためだと。
 広陵高校の対応を振り返ると、前出の今年1月の暴力「事案」に関しては、広陵高校としては調査の結果、関係者に対する指導及び再発防止策を策定して、高野連に報告し1ヶ月の公式戦出場を停止とした。また、高野連はこのような対応があったこともあって、出場を差し止める状況ではなかったと判断したという。
 一方、暴行を受けた被害部員側は、夏の予選前に警察に被害届を提出していたが、警察・広陵高校側は捜査も調査もしていない。高野連も出場を差し止める状況ではなかった、と勝手に判断している。
 ところが、広陵高校野球部内の暴力事件はそれにとどまらなかった。別の暴力事件が、SNSなどで取り上げられ表面化した。この別件とは、去年3月に元部員から「2023年に監督・コーチ・部員から暴力行為を受けた」という申告があったにもかかわらず、広陵高校は調査をしたものの、確認できなかったと結論づけたことだ。申告した元部員は今年2月、高野連にも情報を提供したものの、高野連は、学校側が再調査をした結果、確認はできていなかったと結論づけた。これに対して元部員側は再度要望し、学校側は6月に第三者委員会を設置したというものの、現在調査中で結果の公表の見通しは「不明」なままとなっている。

暴力事件は隠蔽された

 広陵高校野球部暴力事件の真相ははうやむやのまま、同校はどこからもなんら咎められることなく、「無事」、「甲子園」出場を果たし、1回戦に勝利した。
 ところがである、突如、出場辞退を公表した。辞退の理由は、SNSの誹謗中傷などが理由だと広陵高校は表明しているが、筆者はこの辞退理由に納得していない。SNS上による、いわゆる行き過ぎた広陵高校批判は容認できないが、SNSを沸騰させたのは、広陵高校と高野連の暴力容認姿勢にあり、加えて、隠蔽体質が輪をかけた。常識的に考えれば、学校内(校舎、教室、学生寮ほか諸施設)で集団的かつ組織的暴力事件が発生した場合、被害者および学校管理者は警察に届け出て、警察が捜査のうえ加害者が特定されれば逮捕、取り調べを受けるのがふつうだ。部活動の監督・コーチは教員に準じる、教育者ならなおさらのことだ。かりにも彼らが暴力事件を起こしたならば、捜査のうえ逮捕され拘留されることは免れない。加害者が未成年者ならば、処分は少年法に準ずるだけだ。かつて大学体育会内の大麻事件の際、警察は当該大学を捜査し、検察は学生首謀者を起訴している。
 広陵高校側が発した辞退理由もおかしい。広陵高校は出場辞退した理由について、「生徒が登下校で誹謗中傷を受けたり、追いかけられたり、寮への爆破予告などSNS上で騒がれている。生徒らの人命を守ることを最優先し辞退した」という。SNSでは生徒の写真などの投稿も行われているというから、SNS投稿者が悪質化し違法状態にまで沸騰したことはもちろん容認できないが、大衆が怒りを抱いたのは、広陵高校と高野連による事件の隠蔽にある。自分たちの不正を棚に上げ、反省もなければ謝罪もない。〝辞退はSNSのため″とうそぶくのは許しがたいし、責任転嫁がはなはだしい。大衆の怒りを増幅するだけだ。「暴力事件を起こし、それを隠蔽して甲子園に出場するなんて、なんてこった」というのが大衆の怒りの根底にある。 大会辞退は暴力を起こしたことではなく、SNSにあるという「すり替え」が高野連・広陵高校の一貫した姿勢である。

「甲子園」という興行

 「甲子園」という高校生の部活動のひとつである全国野球大会が春夏の全国的規模の風物詩になったのは、主催者の朝日新聞社、毎日新聞社及びその周辺に位置する日本放送協会(NHK)などのマスメディア(新聞、テレビ等)の力だ。
 そもそも高校生のスポーツ大会としては夏のこの時期に開催されるインターハイがある。全国高等学校総合体育大会のことで、全国高等学校体育連盟が主催する高校生を対象とした日本の総合競技大会だ。毎年8月を中心に開催されるが、野球はインターハイの参加競技に入っていない。なぜならば、公益財団法人日本高等学校野球連盟(高野連)が「甲子園」大会として独立した全国大会を興行しているから。高野連は日本の男子高校野球の統轄組織で、47都道府県の高等学校野球連盟が加盟している。
 高野連の設立と甲子園大会開催の経緯は以下のとおり。
 先の大戦前、全国中等学校野球大会は朝日新聞社、選抜中等学校野球大会は大阪毎日新聞社がそれぞれ単独で主催していた。戦後に再開するにあたって、両新聞社とは別の運営組織が必要になったため、朝日新聞社元社長が毎日新聞社取締役大阪本社代表を誘って、全国中等学校野球連盟を立ち上げた(1946年発足)。その後、戦後改革の一環として、学制改革が実施され、旧制中学が高校、国民学校高等科が新制中学へ改組されると、中等学校野球連盟は新制高校を対象とすることになり、全国高等学校野球連盟(高野連)と改称した(Wikipediaによる)。
 春夏「甲子園」大会を独自のスポーツ興行として目をつけた朝日新聞・毎日新聞の興行者(商売人)としての眼力はそうとうなものだ。第一に、青春を代表する高校生の大会に絞り込んだことが挙げられる。第二が、高校生の野球レベルは低くないことを見抜いたことだ。見るに堪え得るのだ。昔から、高校卒業後、職業野球で通用する高校生を数多く輩出している。
 野球ファンが多い本邦だが、高校野球と大学野球を比較すると、前者が後者を圧倒する。大学野球の早慶戦が世間の注目を集めたのは遠い過去の一時(いっとき)のこと。いまでは大学野球は見向きもされない。大学野球がダメで高校野球が人気を博しているのは、高校が最後の学園生活となる人びとのノスタルジーを誘うことによる。2024年の大学進学率は6割(59.1%)に達する。高いと思うか低いと思うか、受け止めはさまざまだが、専門学校等に進学する者がいるものの、本邦の4割近くは高校で学園生活を終える。年齢層が高くなればなるほど、高卒で社会に出た人の割合は高くなる。「高校」は大学と違って地域に根ざす。大衆のノスタルジーを喚起するに十分すぎる条件を備えている。
 代表校が県単位というのもそのことを象徴する。甲子園夏の大会では、東京・大阪には2校の出場枠が与えられ予選が行われるが、他の道府県の枠は1校だ。一見平等に見える出場枠制度であるが、東京・世田谷区(915,437人)の人口は、都道府県別人口数第47位の鳥取県(553,407人)の1.5倍を超える。東京都の一つの区の人口が一県のそれの1.6倍を超えているのだから、東京都の出場枠が2しかないのは不合理だと思うが、そんなことは気にしないのが「甲子園」大会なのだ。なにより、「甲子園」は郷土(道府県)の代表であることが重要なのだ。
 大学野球は大学が立地する地域に立地する大学間のリーグ戦(たとえば「東京六大学リーグ」)で開催されることが多いから、大学OBや現役大学生等が関心を持つにすぎない。大学野球の人気が凋落したのはそのことのほかに、マスメディアである大新聞が開催に関与しなかったことだ。ただし、マスメディアが興行に関与しながら、高校サッカー(別称「国立」)は「甲子園」ほど全国的人気を博すことができない。なぜならば、NHKが中継放送をしないからだ。つまり、マスメディアとNHKが組まなければ、「甲子園」に至らない。 

「甲子園」の弊害

 マスメディアの報道が「甲子園」という興行を加熱することで、弊害が顕著となっている現実は見過ごせない。なによりも、学校経営者が「甲子園」を生徒集めの経営戦略と位置づけていることだ。本邦の人口減少に歯止めがかからないのは自明のこと。生徒数は減少する。学校経営は苦しくなる一方だから、「甲子園」で知名度を上げ、多くの入学希望者を確保したいと思うのは学校経営者としては当然のように思える。だが、高等学校は言うまでもなく、教育の場だ。野球部を強くすることと、一定の教育水準を維持することが両立できれば問題はないが、そうはいかない。野球の上手い少年を全国レベルで調査し入学させ、寮に閉じ込めて野球に専念させるようでは、そのような高校を教育機関と呼ぶことは難しい。統計的裏付けを必要とするが、甲子園大会出場常連高校とそれ以外の高校の入学出願数を比較したとしたら、おそれく前者の方が圧倒的に後者を凌ぐのではないか。
 こうして「甲子園」の夏の大会出場の予選を勝ち抜くこと、春の大会に選抜されること――すなわち郷土代表校になることが、野球名門校経営者から野球部にたいする至上命令となる。指導者(監督・コーチ)と呼ばれる専門職が確立され、著名な指導者が職業野球並みの鍛錬を高校生に強いる高校もあるようだ。名門校を乗り越えんとする新興高校もそれに負けない対策を講じる。こうして、「甲子園」の名の下に、高校野球は特殊な発展をみせるようになる。 

広陵高校事件の主因

 今回発覚した広陵高校集団暴行およびその隠蔽事件の根っこには、勝つためにはすべてが許されるという、スポーツとは無縁の歪んだ勝利至上主義がはびこる現実がある。この歪みを醸成したのが、前出の朝日・毎日という大新聞、日本公共放送および周辺のマスメディアだ。高校生の部活動を興行として成功させるため、新聞紙、電波、映像を駆使して大衆を洗脳する。高校生の純真なスポーツだと印象操作するその裏には、歪んだ大人の事情があって、集団的・組織的暴力事件すら隠蔽してしまう。「甲子園」は主催者・関係者にとって利益が上がる優良コンテンツであり、かつ高校経営者が生徒を集めるための経営戦略の一環にすぎない。高校の野球部のどこが強かろうが、弱かろうが、高校教育とは、一切、関係がない。

 筆者は、「甲子園」が日本の野球レベルを向上させているか否かの判断を保留する。筆者は、「甲子園」を通過しない道程、すなわち、インターハイの競技に野球が追加され、インターハイ程度の報道のされ方のまま、高校生が自由に野球というスポーツに取り組めるような環境が整備された方が、スケールの大きな野球選手が輩出されるような気がしてならない。もちろん、高校生が大人の金儲けの犠牲にならないことがなによりだと思う。
 高校生が学業の余暇時間に野球というスポーツに自然体で取り組めるよう、周囲が静かに見守れるような状況を本邦においてつくりあげること、カネ儲けから離れたふつうの部活動としての高校野球を確立すること――はかなり難しかろうが、あきらめてはいけない。〔完〕

2025年8月9日土曜日