イベント終了後、会場近くのクラフトジンのお店へ(曙橋)。
猫のこと、本のこと、身のまわりのこと、とか・・・
筆者が登録しているSNSに‘‘True Stories” という記事が偶然、流れてきた。ザ・バンド解散の「真相」を伝えるというのが主意である。ザ・バンドとは(ここでは詳細を省くが)、1960年代末から1970年代中葉にかけて活躍したロックバンドで、メンバーはカナダ人4人(ロビー・ロバートソン、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン)、アメリカ南部人1人(レヴォン・ヘルム)で構成されていた。いまや伝説と化したグループで、音楽性が高く評価されている。この記事ではその中の1人、レヴォン・ヘルムの大きな顔写真が目を引いた。
![]() |
| レヴォン・ヘルム |
「真相」というのはほかでもない、メンバーのリーダー格と言われるロビー・ロバートソンと、彼と対立するレヴォン・ヘルムとの確執であり、強欲のロビー・ロバートソン、純粋なレヴォン・ヘルムというナラティブの定着に有力な情報を与える内容となっている。〔 ‘‘True Stories” の本文と翻訳は後掲〕
![]() |
| 映画『ラストワルツ』より |
ロビーがほぼ独り占めしたと思われる莫大な富は、彼がザ・バンドに貢献した結果として受け取るに足る正当な報酬なのか、それとも仲間を騙した不当なそれなのか――を判断する情報を筆者は持っていないが、ただ言えるのは、映画『ラスト・ワルツ』を企画したロビーと監督のスコセシにとって、映画が興行的に大成功をおさめるためには、このイベントがザ・バンドの解散コンサートであるという名目が絶対に必要だったということだ。一方、ロビーを除く他のメンバーはこのイベントが解散を前提とするものとは思っていなかった。レヴォンは、「バンドそのものの終わりではなく、ツアーの送別会だと思っていた」とある。レヴォンの怒りはそこから発したと筆者は推測する。
そればかりではない。『ラスト・ワルツ』撮影の休憩中に、「法律の担当者がレヴォンに書類を手渡した。それは、この映画とサウンドトラックの将来の著作権使用料を正式に定めたものだった。また、レヴォンが長年抗議してきた作曲クレジットの分割も確定したものだった。彼は、この音楽は、ロバートソンが最終的な歌詞を書くずっと前に、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソンが核となる部分を形作り、一節ずつ、その部屋の中で作り上げられたものだと信じていた。レヴォンは、ロバートソンに主なクレジットを割り当てるそのページをもう一度読み返した」とある。この期に及んで、レヴォンはロビーに騙されたことを確信したようだ。
ザ・バンドは解散したというものの、実際はロビーが離脱しただけで残りのメンバーはザ・バンドを名乗り、ライブおよびアルバム制作を続行した。日本でも複数回公演を重ねている。しかし、怒りのレヴォンはその後、病魔に襲われ、また経済的困窮にも見舞われた。が、それらを克服し、「ミッドナイト・ランブル」〔註〕を創設し、そこを活動拠点として復帰した。「(人々は)レヴォン・ヘルムの不変の部分を見た。彼は現れ、誠実に演奏し、誰にも自分の結末を書かせようとはしなかった」(終わらなかった)。
筆者はたとえ間違っていたとしても、心情的にロビーよりもレヴォンの肩を持ちたい。ザ・バンドの成功の果実はメンバー全員で分かち合うべきだと思うからだ。〔完〕
〔註〕「ミッドナイト・ランブル」とは、レヴォン・ヘルムがニューヨーク州ウッドストックにある彼のスタジオに創設した音楽コミュニティ。ザ・バンドとレヴォン・ヘルムの象徴的音楽を演奏しながら、レヴォン・ヘルムの伝説を守り発展させている場。レヴォンの娘のエイミーはこうコメントしている。「父(レヴォン・ヘルム)は再生とコミュニティの精神を掲げてミッドナイト・ランブルを創設した」と。
なお、ミッドナイト・ランブルとは、人種差別時代にアフリカ系アメリカ人向けに深夜に映画を上映することであり、ジム・クロウ法(19世紀後半から20世紀初頭にかけてアメリカ南部で導入された州法と地方法であり、人種差別を強制するもの)の下では他の時間帯では決して入場が許可されないような映画館で上映されることが多かった。上映される映画は、1910年から1950年の間にアメリカ合衆国で黒人のプロデューサー、脚本家、俳優、監督によって制作された500本以上の映画が選ばれることが多かった〔Wikipedia〕とある。また文字通り‘‘深夜のぶらつき”という意味かも知れない。いずれにしても、レヴォン・ヘルムが、ミッドナイト・ランブルにどのような意味を込めたかは不明である。
カーネーションの直枝政広さんと『ザ・バンド 来たるべきロック』の著者・池上晴之さんのトークイベントに行ってきました。
アルゼンチン盤ブラウン・アルバムやドイツで発売されたドーナツ盤などレアなレコードが聴けました。
直枝さん曰く「ザ・バンドは普遍的だ」というのが本日のキーワードでしょうか。
原因は明らかで、地方における人口減、高齢化であり、それにともなう、耕作放棄地面積の増加や、里山といわれる集落――田畑・水辺・その周辺の二次林などが融合した地域――の荒廃が、人間とクマを隔てていた境界を市街地側に引き寄せた結果だと思われる。里山において、人間集団が活発に生活していたならば、クマはそこを境界として奥山にみずからの生活圏を定めていたはずである。
クマ被害が多発する秋田県を例に取ろう。
秋田県の人口は(2022年8月時点での推定)93万2227人、面積が 11,610 km²である。東京23区の世田谷区(人口:950,540人、 面積:58.05㎢)と比較すると、およそ200倍の広さのところに、2万人少ない人が住んでいる――それが秋田県である。 その他のデータ〔註〕をみても、秋田県の民力低下が著しい。
〔註〕人口増減率:-1.47%(全国47位)、自然増減率:-1.03%(同47位)、社会増減率:-0.44%(同47位)、死亡率:人口1000対15.8人(同1位)、出生率:人口1000対5.2人(同47位)、高齢化率: 36.4%(同1位)、75歳以上高齢化率:19.7%(同1位)、年少人口比率:10.0%(同47位)、婚姻率:人口1000対3.1人(同47位)
クマが秋田諸地域の民力低下を本能的にかぎ分け、市街地への侵攻を開始したと考えて不思議はない。それまで活発に人や車が行きかい、クマには近づきにくかった市街地だったが、民力低下とりわけ高齢化によって、市街地の活力が失われ、そこがクマにとって危険の少ない脆弱な生き物(人間)が棲む地域へと変容した結果が、人間にとってのクマ被害となって表出している。
人口増、高齢化の早急な歯止めは不可能だ。即効性があるのはすでに行われている、自衛隊派遣である。自衛隊部隊とライフル等殺傷力のある武器を携行できる警察官、民間ハンター、自治体職員(全国から応援も必要)が部隊を編成し、県内のクマ出没地域を重点的に巡回し、クマを見たら、ライフルで即刻駆除する以外にない。そこでクマが部隊すなわち人間を恐怖の対象だと学習すれば、人間とクマの境線が山間地等に後退し、越境するクマは減少するだろう。とにかく、人海作戦で境界を山奥へと押しを戻すほかない。
いまのところ、残念ながら、即効性ある対策としては、人海作戦以外思いつかない。短期間だが、大規模な部隊の展開が必要となろうが。〔完〕
きょうはワークアウト終了後、激安・昼カラオケに行ってきました。
酒類の提供はありませんが、歌い放題1300円というお財布にやさしい価格設定。
美人ママさんに、お客様は歌自慢のマダムばかりと、楽しい午後となりました。
SBが4勝した試合のうち3試合は1点差、両チームの実力は均衡していたという見方もできるが、筆者はパワーの差を感じた。そのことを象徴するのが第5戦、50試合連続無失点記録をもつ石井大智のフォーシームを柳田がホームランし、続く打者もこともなげに打ち返してヒットとしたシーンだった。セリーグの各打者が打てなかった石井のフォーシームがSBには通用しなかったのだ。
SBが本シリーズを制することができた最大の要因は、第2試合、阪神藤川監督が先発投手起用をミスしたことだ。長いブランクを経たばかりの投手を先発で起用するのはリスクが高い。
短期戦では投高打低の傾向が一般的だ。もともと下位打線が弱い阪神、接戦にもちこんで、少ないチャンスをものにするところに活路を見いだす以外ない。初戦、SBの強力打線も阪神投手陣に手を焼き、阪神が敵地で先勝した。以降、この流れを維持できれば、阪神にチャンスがあった。逆にSBは2戦目の圧勝で重圧から解放され、敵地で3連勝した。メンタル面で自信をもつことができたSBが、阪神にプレッシャーをかけ続けられた。3戦目以降、SBが接戦をものにできた主因だろう。
日本シリーズが始まる前後、NPB各球団から戦力外、自由契約、引退などの報道が相次ぐ。他人事とは言え、いい気持ちはしない。毎年100人余りがNPBの門の叩き、150人程度が出て行く。故障、病気などで野球をやめざるをえない者もいるのだろうが、多くは球団から実力不足と判定された者だ。この厳しさがNPBの質を高めているというのが定説だが、戦力外を通達された彼らにセカンドチャンスはないのか。このことは当該Blogに繰り返し書いたので繰り返さない。NPBという機構の近代化を望むばかりである。
各球団の人事異動のなかで筆者が最も興味を覚えたのが読売ジャイアンツ(以下「巨人」)の人事だ。一軍では二岡智弘ヘッド兼打撃チーフコーチが退任し、桑田真澄 二軍監督および駒田徳広 三軍監督が退任、退団した。
スポーツ・メディが注目したのが桑田の突然の退任発表だった。読売球団内部で何かが起きているという憶測記事もあった。筆者はこの件について取材できる立場にないから、以下の記述はいわゆる「こたつ記事」以外のなにものでもない。憶測、推測にすぎないが書いておきたい衝動に駆られた。
桑田はイースタンリーグの優勝監督であるから、実績上、咎を受ける立場ではない。退任理由は「一軍に戦力となる若手選手を送り出せなかったから」ということになっているが、これをそのまま受け取る者はいないだろう。これが退任理由となるならば、優勝を逃した球団の二軍監督は全員退任しなければならなくなる。望ましい成績を上げられなかった責任を二軍監督が引き受けるという論理は成り立ちようがない。
あるメディアは関係者の話として、球団が「3年契約の阿部慎之助にとって、来季はおそらく監督最後のシーズンになるから、彼の思うとおりにやらせてあげたかったからだろう」と報道した。この報道は阿部と桑田が相いれないことを前提としている。まったくそのとおりだと思う。阿部と桑田は野球指導理論に隔たりがあることは周知の事実。前者は昭和の根性論、後者は大学院でスポーツ科学を学び直した理論派、水と油だ。
いま(2025/10/31現在)のところ、橋上秀樹(一軍作戦戦略コーチ)、松本哲也(一軍外野守備走塁コーチ)、立岡宗一郎(三軍外野守備走塁コーチ)の就任が発表されていて、桑田の後任(二軍監督)は未定だ。桑田の後任がだれになるかわからないが、阿部が選んだスタッフの顔ぶれから想像するに、桑田以上の理論派が就任する可能性はない。阿部の指導方法を素直に受け入れ、阿部の言うとおりに二軍から一軍に選手を送り出す、いわゆる「イエスマン」となるだろう。
桑田追放人事は、巨人の将来像を規定する。昭和の偉業(V9)にしがみつき、根性論と厳しい選手管理で選手を締め付ける保守派が主導権を握り続ける予感がする。保守派は育成を怠り、FAで完成品を入手して優勝を狙う金満球団経営派と換言できる。理論派は排除され、スター選手が天下りし監督となり、独裁チームとなる。彼らの理想はV9の時代だ。ドラフト制度がなく、巨人は有望なアマチュア選手を自由に獲得できたうえ、高額な報酬をちらつかせて、他球団の大物選手を引き抜いてチーム強化が図れた。高倉照幸(西鉄ライオンズ)、金田正一(国鉄スワローズ)、そしてV9後に張本勲(東映フライヤーズ)が続く。金田、張本はいま現在、巨人OBとして知名度が高いが、晩年に巨人に移籍した選手だ。その結果のV9であり、いまとは情況が異なる。いまや巨人幻想は色褪せ、かならずしも巨人でなければという意識は薄れ、MLB志向の方が強くなった。その結果、巨人に限らず全球団においてV2すら難しくなってきた。V9はほぼ困難だと言っていい。
来季の巨人は、岡本の流出という戦力ダウンが予想されるから、2025シーズン以上に厳しくなる。リーグ優勝する要因を見つけにくい。3年契約が終了する来季以降、阿部が続投する可能性は高くない。2025オフの桑田の退任は、彼が一軍監督として巨人に復帰する可能性が消滅したことを意味する。筆者には、「巨人」の終わりが見える。
他球団が有望アマチュア選手に係る情報収集網を広域化し、入団後の育成に資する人材(スタッフ)を集め、FA制度に依存しないチーム強化に舵を切るなか、巨人すなわち読売球団はその流れから取り残される。しかも、スター選手=有能な指導者ではない。現場の指導者すなわち監督の資質を持った者をえらび、コーチほか多能なスタッフ陣が監督を支える構造をつくあげなければ強いチームはつくれない。
阿部の作戦面の稚拙さについては、当該Blogでたびたび書いたので繰り返さない。そのことを大雑把に言えば、監督の作戦で試合に勝てたというナラティブを欲しがりすぎる、ということになる。
チームで打率トップの選手に犠牲バンドをさせる、気候変動により猛暑が続く夏場に中継ぎ投手を酷使し、自分の継投策で勝てたと満足するが、そのツケが後半戦に及んでしまう。野手に複数ポジションを守らせて、エラーをまねく。2025シーズン、巨人のエラー数78は、12球団中トップだった。しかも得点がらみのエラーが多かった。そのうえで、 ミスをした選手に不要なプレッシャーをかける。
加えて、記録を調べていないが、主力選手にケガ、故障が多かったような気がする。思いつくままに、岡本、甲斐、吉川、ヘルナンデス、グリフィン、赤星、高梨らが挙げられる。ケガを完全になくすこと(たとえば甲斐の場合のように)はできないが、岡本のケガは彼に複数ポジションを守らせたことによるものだ。要は、選手の健康・メンタル面の管理ができない。
セリーグにDH制度が導入されるのは2027シーズンからだ。遅きに失した感がある。MLBを見ればわかるとおり、ベースボールは急速に変化している。試合時間短縮のため、さまざまな新ルールが導入された結果、選手はそれに従い、よけいなタイムをかけることがなくなった。投手はピッチロック導入とともに、超小型デバイスを耳に入れなければならなくなったが、MLB各投手は特に問題なくそれらを使いこなしている。
デジタル化の波が審判の判定にも押し寄せ、いずれ審判不要の時代が来るかもしれない。「誤審を含めて野球」なんて情緒的野球観は一掃される。誤審によって野球人生を狂わされた選手もいるのだから、厳密かつ正確な判定が可能になれば、スポーツとしての純度が上がる、すなわち実力がより反映されるようになる。昭和の野球では、「長嶋ボール」「王ボール」と揶揄された。巨人のスター選手が見送れば、ストライクであってもボールと判定されたのだ。前出のV9とはそんな不正すら見過ごされ、「栄光の巨人軍」が成立した時代だった。
巨人一強はすでに過去のものとなり、地域のチームを応援するあたりまえの野球界が成立しつつある。日本の職業野球近代化の完成まで、あと一歩のところまできている。〔完〕
●アレックス・ガーランド〔監督〕●アレックス・ガーランド〔脚本〕 ● A24、 エンターテインメント・フィルム・ディストリビューターズ/amazon prim video〔配給〕
シビル・ウオーとは内戦のことだ。近未来、アメリカ合衆国が深刻な内戦に陥った状態から映画は始まる。テキサス州とカリフォルニア州が合体した西部同盟(以下「WF」と略記)が連邦政府に反旗をひるがえした。この映画のひとつの特長は、内戦が起きた原因――たとえば、リベラルと保守の分断・対立、あるいは宗教的なそれといったもの――をまったく説明しないことにある。WFを構成するテキサス州の知事グレッグ・アボットは共和党所属である一方、カリフォルニア州知事のギャビン・ニューサム は民主党所属だ。2024年大統領選でもテキサスはトランプが、カリフォルニアはハリスがおさえた。内戦勃発について、この映画はイデオロギー的対立に求めない。内戦の主因を語らないから、その不気味さがより強調され、見る側に強い恐怖を与える。
あらすじをおさえておこう。
内戦を報道しようと、リー・スミス(ベテランの戦場フォトジャーナリスト)、ジョエル(行動派ジャーナリスト)、サミー(経験豊富な老ジャーナリスト)の3人が最後の戦場となるであろうワシントンD.C(以下「DC」と略記)に向かう。その途中、リー・スミスが暴徒と警官とのもみあいに巻きこまれ棍棒で殴られた若い戦場フォトジャーナリスト志望のジェシーを救う。ジェシーは、リー・スミスを尊敬し、彼女のような戦場フォトジャーナリストを目指していると打ち明け、3人との同行を願う。ジョエルとサミーは反対するが、リー・スミスはなぜかジェシーに惹かれ、同行を許す。
4人を乗せた車がDCを目指す道のりは、アメリカ映画の伝統であるロード・ムービーを踏襲しているような感があるのだが、内戦とかけ離れた内戦前の日常があるかと思えば、遠距離を隔てた敵を射止めようとする両軍のスナイパー同士の打ち合いに巻きこまれる。なんとか、そこから逃れたあと、得体の知れない虐殺者軍団によって殺戮された民間人多数の死骸の山を見ることになる。軍団に捉えられ処刑寸前の3人を救ったのは老いたサミーだったが、彼は軍団の銃撃をうけ死んでしまう。
リー・スミス、ジョエル、ジェニーの3人はサミーの遺体を載せたまま、DC近郊のWFのキャンプにたどりつく。そこで、WFがDCを制圧したという情報をえる。サミーを埋葬したのち、3人は大統領を取材するため、DCに進入する。DCでは政府軍の残党が激しく最後の抵抗を見せるが、WFの軍勢に押され降伏し、精鋭部隊がホワイトハウスに突入する。ホワイトハウスでも大統領護衛官の抵抗を受けるが、隠れていた大統領を追い詰める。兵士の後に続いた3人は、大統領がWF兵士に取り囲まれ、銃殺される直前、この映画のクライマックスが訪れる。そのシーンは映画を見てのお楽しみ。
シビル・ウオー(内戦)すなわち同じアメリカ人同士で繰り広げられる殺し合いという設定が、戦争の残酷さと無意味さをより強調する。そのなかで命を賭して戦場の実相を伝える戦争ジャーナリストの勇気が際立つ。若いジェシーが経験を積むごとに成長を見せる姿は頼もしさを感じさせる。次世代という希望を象徴するかのように。
しかし、この映画は内戦という不条理な戦争を戦うリアルな兵士の「姿」を描かない。兵士は高性能の重火器を弄び、戦車や装甲車を乱暴に乗り回し、敵を殺戮することに喜びを感じるサディスト――戦闘をTVゲームやゲームアプリを楽しむ享楽者――勇敢に戦う自分の姿をカメラに収めてもらって優越感を感じようとする目立ちたがり屋――のようだ。戦争、戦闘、兵士、犠牲者…の映像は、恐ろしいほど虚無的だ。
この映画は、けっきょくのところ、内戦における戦闘場面は舞台装置、兵士や虐殺者軍団は勇気あるジャーナリストの引き立て役、ライフル、機関銃、戦車…は小道具である。傷ついた兵士の苦悶の表情や兵士の死の瞬間は、戦場フォトジャーナリストの恰好の被写体にすぎない。
戦場ジャーナリストだけが英雄扱いされる謂れはない。内戦、聖戦、対外戦争、兵士、ジャーナリスト、フォトジャーナリスト、巻き添えの生活者――戦争に大義はない。ましてその犠牲者に序列があってはないらない、と筆者は思う。〔完〕
●麻田雅文〔著〕 ●中公新書 ●980 円+税
先の大戦末期、敗色濃厚の日本帝国は連合国側にたいし、条件付き降伏を模索し、連合国との停戦仲介をソ連に求めた。日本帝国が求めた条件とは、國體護持すなわち天皇を頂点とする国家統治原則の維持だった。換言すれば、天皇、政治家、軍人三位一体となった天皇制ファシズム国家の延命である。統治者が模索した降伏のあり方というのは、本邦生活者、植民地住民、そして兵士たちから、これ以上の犠牲者をださないための降伏ではなかった。人命よりも、為政者・権力者=戦争犯罪人の延命だった。連合国側は、日本帝国政府が求めた条件付き降伏を認めなかった。なぜならば、日本帝国政府の延命を認めたならば、近い将来、第一次大戦後のドイツのように、再び侵略戦争を行うにちがいないという疑念を捨てきれなかったからだ。
日本帝国がソ連に和平の仲介を求めた根拠は 1941 年に締結した日ソ中立条約である。この条約は、 1939 年のノモンハン事件の停戦(日本撤退)を受け、相互不可侵および一方が第三国に軍事攻撃された場合における他方の中立などを記載した条約本文(全 4 条)および満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を義務付けた声明書で構成されている(第 1 条:日ソ両国の友好、第 2条:相互の中立義務、第 3 条:条約の効力は 5 年間、期間満了 1 年前までに両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は 5 年間自動延長される、第 4 条:速やかな批准)
ソ連が同条約を結んだ背景は、ナチスドイツの東方侵略にたいする防衛戦争のさなかであったことである。ソ連は西方に軍隊を集中して配備する必要があったため、ナチスドイツと同盟関係にある日本帝国の東方からの侵攻を条約で阻止する必要があった。また日本帝国にも、中国、インドシナ、西太平洋へと戦域を広めるなか、ソ連による北方からの侵攻を条約で阻止する必要があった。
1945 年5月2日、ナチスドイツがベルリンでソ連軍に降伏したことで、状況は一変する。ソ連は西方の軍力を東方に配置換えし、日本帝国が支配する満蒙地域の解放を目指す環境が整った。米英等の連合国側もソ連の参戦を強く望んだ。
1945 年 7 月 26 日、英米中三か国が発したポツダム宣言(日本帝国にたいする無件降伏要求)を日本帝国は無視し、徹底抗戦(本土決戦)を辞さない姿勢を見せた。その直後、広島(8月6日)、長崎(8月9 日)が米軍から核攻撃を受けた。ソ連は当初ポツダム宣言に加わらず、8月8日、ソ連が対日参戦を表明した日に同宣言に加わった。そして日本帝国は8月 15 日、無条件降伏を受け入れた。
ソ連軍は8月 15 日以降も進軍を続け、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を完全に支配下に置いた 9 月 5 日、進軍を停止した。これが本書が言う日ソ戦争の概要である。
日本帝国が無条件降伏を受け入れる過程を振り返ると、ソ連にたいする印象は悪くなるばかりである。日本帝国の和平仲介要請を無視し、「平和条約」を一方的に破棄し、ポツダム宣言(無条件降伏)受け入れ後も戦争を止めなかった。
筆者は当時のスターリン体制下のソ連を支持する気は毛頭ないが、ソ連の日本帝国にたいする措置は、「ソ連だから」というふうには考えない。ソ連にかぎらず帝国主義戦争の当然の帰結だと考える。たとえば、日本帝国は、柳条湖事件 から開始された満州事変、そして、盧溝橋事件をきっかけとした日中戦争開始は、宣戦布告なき中国への武力侵攻(戦争)であり、仏印進駐、真珠湾攻撃は英米にたいする宣戦なき奇襲である。
ソ連側から日本帝国をみてみると、日本帝国はソ連国境付近に関東軍・朝鮮軍という「最強部隊」を配置し、前出の満州事変を起こし、「満州国」という傀儡国家を建設し入植を始めた。日帝は侵略国家であり、東方の脅威にほかならない。
そればかりではない。1939 年 5 月から同年 9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って、皇軍(日本帝国軍)がノモンハン事件と呼ばれる越境紛争を二度にわたって起こしている。この紛争は、満洲国(=日本帝国)と、満洲国と国境を接するモンゴル(=ソ連)とのあいだの代理紛争(日ソ国境紛争)である。ソ連側から日本帝国をみれば、隙あらば越境を企てる危険な国家にみえるはずだ。
ソ連は帝国主義戦争の論理に従い、日本帝国との間に一時期、平和条約を締結した。状況の変化に従い、瀕死の日本帝国からの講和の仲介要請を無視したばかりか平和条約を一方的に破棄し、日本帝国がそれまで獲得してきた植民地および領土の一部の占領を企図し進軍した。
日本帝国は無条件降伏を(遅きに失した感があるが)受け入れた。戦勝国は正義・善であり、敗戦国は不義・悪となる。こうして今日まで、日本は、国連憲章第 53 条、77 条及び 107 条の通称「敵国条項」に該当するとされる。国際連合の母体である連合国に敵対していた枢軸国が、将来、再度侵略行為を行うか、またはその兆しを見せた場合、国際連合安全保障理事会を通さず軍事的制裁を行う事が出来ると定められている。
繰り返すが、日本帝国が無条件降伏を先延ばしにしたのは、ときの天皇・政府・軍人による国家支配(國體護持)の継続のためであって、自国民・植民地住民が被る犠牲については無関心だった。
日本帝国が無条件降伏を受け入れなかったもう一つのの理由に「クーデター説」というのがある。天皇は、軍部内徹底抗戦派が蹶起し、国内が収拾のつかない混乱に陥ることを恐れたと、『昭和天皇独白録』にある。2.26事件の再来が予期されたと。
本土間近まで追い込まれた戦況のなか、クーデターを企て本土決戦を決行しようとする勢力が実際にあったのかというと、管見の限りだが、その存在は確認できていない。「クーデター説」は、天皇による弁明のための弁明にすぎない。ここでも、日帝統治者には、戦争犠牲者に心を寄せる気持ちは皆無だったことが明らかである。
停戦に向けた日本帝国の第一のカードは、前出のとおり、ソ連への停戦仲介要請だったが不調に終わった。次のカードは、いずれかの戦闘で劇的勝利をあげ、それをもって停戦協定を有利に進めるというシナリオだったが、沖縄地上戦で惨敗を屈したところで、不可能をさとる。にっちもさっちもいかなくなったところで、無条件降伏を受け入れた。その間、前出の二度にわたる核攻撃を受け、ソ連の参戦を許して、満蒙入植者および捕虜の苦難を招いた。また捕虜となった日本兵・民間人のシベリア抑留という悲劇を生んだ。戦後、いつのまにか天皇の「聖断」が戦争を終わらせたという物語が一般化したようだが、史実に反する。
本書第二章では、満蒙に取り残された日本人入植者の悲劇――とりわけソ連兵による日本人入植者女性にたいする性的暴行事例――が詳細に記述されている。しかしながら、こうした蛮行はロシア(ソ連)人に特有な民族性(ロシアの戦争文化)に還元すべきではない。皇軍(日本帝国軍)は南京事件、シンガポール華人虐殺事件など、皇軍占領地で同じような事件を起こしている。満州の地では平頂山事件が知られている。
皇軍にかぎらない。近年では、ベトナム戦争下における米軍・韓国軍による女性暴行・虐殺事件があり、バルカン(旧ユーゴスラビア)内戦では、セルビア軍による蛮行が記録されている。アフリカ各所の紛争では数えきれないほどだ。21 世紀にはいっても、ウクライナ戦争、イスラエルによるガザ(パレスチナ人)虐殺が現在進行形だ。
米軍占領下にある本邦沖縄県においては、戦時下ではないにもかかわらず、米兵による沖縄県民女性にたいする性的暴行事件が絶えない。結論を言うならば、こうした問題は、戦争という状況と軍隊という組織が構造的に引き起こすものと理解すべきだろう。生と死が隣り合わせの戦場で、同じ服(軍服)を着、24時間、行動を共にする軍隊という組織が齎す感化の力である。戦争と軍隊が人間の理性を奪い、人間の心の奥に潜む獣性を呼び覚まし、集団的凶行・蛮行に走らせる。ソ連軍兵士に同情するわけではないが、彼らは欧州でナチスドイツと過酷な戦争を終わらせた直後に、東アジアの満蒙に大移動してきた。彼らはユーラシア大陸をほぼ横断したに等しい。彼らが平常心を保っていたとは思えない。本書第二章を読んで、ソ連兵(ロシア人)にたいする憎悪をつのらせるのではなく、反戦・反軍思想を深め、平和主義の原則(普遍的思考)に立ち戻ることが求められよう。
本書には反戦・反軍に係る視点が欠けている。戦争(戦況、戦闘)の詳細および帝国主義国家間の駆け引き、権益の奪い合いの模様に重点が置かれ、戦争の深淵にとどいていない。日ソ戦争の主因は、日帝が明治期に武力により植民地化した朝鮮から、さらに中国北東部(満蒙地域)にむけて領土拡大を謀り、そこに住んでいた生活者から土地家屋財産を暴力的に奪い、傀儡国家・満州国なるものを「建国」し、日本人を入植させたことにある。「満蒙は日本の生命線」と煽ったうえに…
ソ連軍の侵攻により皇軍が後退したとき、土地家屋財産を奪われた満蒙の人々は入植者にたいして反撃を開始した。暴力的に奪われた土地家屋財産を暴力的に奪い返した。日本人入植者は加害者から被害者へと逆転したかのようにみえるが、彼ら・彼女らは日帝の帝国主義的政策の被害者なのであり、それ以上でも以下でもない。 ソ連軍が犯した蛮行については、前述のとおりである。
日ソ戦争は米国主導の下、つまり米国がソ連に日帝打倒に向けて協力を求めたことが発端である。米国は日本帝国が本土決戦を決意したと判断し、米軍犠牲者の増加を危惧して、ソ連の参戦を求めた。ソ連軍による北からの圧力で日本帝国が無条件降伏を受け入れることに期待した。米国とソ連は日帝打倒という一点で合意していた。ソ連はナチスドイツとの戦争が決着するまで米国にたいして判断を保留した。
前出のとおり、ナチスドイツが降伏すると、ソ連は一転して対日本帝国攻撃の準備に取り掛かる。ソ連は連合国が発したポツダム宣言に当初加わらなかったが、8月8日、対日参戦時に同宣言に参加した。そして日本帝国は無条件降伏した。
米国の思惑通りことは運んだ。米ソは日帝から無条件降伏を引き出すところまで利害が一致していた。だが、ソ連は参戦後、1945年9月2日の連合国と日本との降伏文書調印後も進軍を続け、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を完全に支配下に置いた9月5日、進軍を停止した。 そのうえで、ソ連の最高指導者スターリンは、米国に対して北海道の割譲を求めた。米国はそれを拒否し、その代わりとして、いわゆる北方領土のソ連による領有を認め、北海道をGHQの管轄とした。両国とも大戦後の冷戦(米ソ対立)を予期したうえでの判断であろう。そのときソ連は核を保有しておらず、米国の軍事力がソ連を上まわっていた。 スターリンはそれ以上を望まなかった。この米ソの最終的合意が、戦後における日本の北方領土返還要求を妨げる主因となった。〔後述〕
冷戦中、その北海道の米軍基地は北端の稚内米軍基地など、ソ連「封じ込め」戦略の一翼を担ってきたが、ソ連崩壊後、これらの基地は自衛隊基地に返還された。返還とされているが共同使用施設である。防衛省が公表した在日米軍施設・区域(共同使用施設を含む)によると、道内の米軍施設は18あり、東北地方には12カ所ある。米国にとって北海道・東北は冷戦終結後も変わらず、西太平洋北部における軍事的要衝であり続けている。
日本政府は戦後一貫して、北方領土返還交渉を継続していると表明している。また、返還は国民的悲願だと報道されてきた。北方領土問題は、前出のとおり、大戦後、米ソにより決定された事項である。北方四島が「固有の領土」だとして返還を求める日本と、第2次世界大戦の結果、正当に自国領になったと固持するロシアとで解決の道筋が見えないままであった。膠着したままの交渉の合間に、日本側から「二島返還」という妥協案が提案されたかのような記憶もある。
第二次安倍政権下における安倍・プーチン会談で交渉は大きく後退した、というか、解決の道が閉ざされたかのように思える。報道では、両者の会談は異例の回数が重ねられ、「四島返還」にめどがついたと報じられたこともあった。ところが、ロシアは2020年7月4日、「領土割譲禁止条項」を明記した改正憲法を公布した。それに伴い、ロシア領土の割譲に向けた行為を違法とし、最大10年の禁固刑が科されるというのである。プーチンは北方領土を返還する意思がないにもかかわらず、安倍との会談を重ねた。プーチンの狙いはなんだったのだろうか。とにかく、安倍(当時)首相はけっきょくのところ、なんの成果もあげられなかったばかりか、今後の交渉の見通しも立たなくなったまま、2020年8月退陣した。
戦後80年が経過したいま、北方領土についての日ロ交渉は1ミリも進展していない。20世紀の日ソ戦争前後から冷戦を経た21世紀のこんにちに至るまで、日本の対ソ・対ロ外交はうまくいっていないように思える。日ロ両国の相互理解が今後、いくらかでも深まることを願うばかりである。〔完〕