●麻田雅文〔著〕 ●中公新書 ●980 円+税
日ソ戦争とは
先の大戦末期、敗色濃厚の日本帝国は連合国側にたいし、条件付き降伏を模索し、連合国との停戦仲介をソ連に求めた。日本帝国が求めた条件とは、國體護持すなわち天皇を頂点とする国家統治原則の維持だった。換言すれば、天皇、政治家、軍人三位一体となった天皇制ファシズム国家の延命である。統治者が模索した降伏のあり方というのは、本邦生活者、植民地住民、そして兵士たちから、これ以上の犠牲者をださないための降伏ではなかった。人命よりも、為政者・権力者=戦争犯罪人の延命だった。連合国側は、日本帝国政府が求めた条件付き降伏を認めなかった。なぜならば、日本帝国政府の延命を認めたならば、近い将来、第一次大戦後のドイツのように、再び侵略戦争を行うにちがいないという疑念を捨てきれなかったからだ。
日本帝国がソ連に和平の仲介を求めた根拠は 1941 年に締結した日ソ中立条約である。この条約は、 1939 年のノモンハン事件の停戦(日本撤退)を受け、相互不可侵および一方が第三国に軍事攻撃された場合における他方の中立などを記載した条約本文(全 4 条)および満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を義務付けた声明書で構成されている(第 1 条:日ソ両国の友好、第 2条:相互の中立義務、第 3 条:条約の効力は 5 年間、期間満了 1 年前までに両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は 5 年間自動延長される、第 4 条:速やかな批准)
ソ連が同条約を結んだ背景は、ナチスドイツの東方侵略にたいする防衛戦争のさなかであったことである。ソ連は西方に軍隊を集中して配備する必要があったため、ナチスドイツと同盟関係にある日本帝国の東方からの侵攻を条約で阻止する必要があった。また日本帝国にも、中国、インドシナ、西太平洋へと戦域を広めるなか、ソ連による北方からの侵攻を条約で阻止する必要があった。
1945 年5月2日、ナチスドイツがベルリンでソ連軍に降伏したことで、状況は一変する。ソ連は西方の軍力を東方に配置換えし、日本帝国が支配する満蒙地域の解放を目指す環境が整った。米英等の連合国側もソ連の参戦を強く望んだ。
1945 年 7 月 26 日、英米中三か国が発したポツダム宣言(日本帝国にたいする無件降伏要求)を日本帝国は無視し、徹底抗戦(本土決戦)を辞さない姿勢を見せた。その直後、広島(8月6日)、長崎(8月9 日)が米軍から核攻撃を受けた。ソ連は当初ポツダム宣言に加わらず、8月8日、ソ連が対日参戦を表明した日に同宣言に加わった。そして日本帝国は8月 15 日、無条件降伏を受け入れた。
ソ連軍は8月 15 日以降も進軍を続け、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を完全に支配下に置いた 9 月 5 日、進軍を停止した。これが本書が言う日ソ戦争の概要である。
条件付き降伏の模索
日本帝国が無条件降伏を受け入れる過程を振り返ると、ソ連にたいする印象は悪くなるばかりである。日本帝国の和平仲介要請を無視し、「平和条約」を一方的に破棄し、ポツダム宣言(無条件降伏)受け入れ後も戦争を止めなかった。
筆者は当時のスターリン体制下のソ連を支持する気は毛頭ないが、ソ連の日本帝国にたいする措置は、「ソ連だから」というふうには考えない。ソ連にかぎらず帝国主義戦争の当然の帰結だと考える。たとえば、日本帝国は、柳条湖事件 から開始された満州事変、そして、盧溝橋事件をきっかけとした日中戦争開始は、宣戦布告なき中国への武力侵攻(戦争)であり、仏印進駐、真珠湾攻撃は英米にたいする宣戦なき奇襲である。
ソ連側から日本帝国をみてみると、日本帝国はソ連国境付近に関東軍・朝鮮軍という「最強部隊」を配置し、前出の満州事変を起こし、「満州国」という傀儡国家を建設し入植を始めた。日帝は侵略国家であり、東方の脅威にほかならない。
そればかりではない。1939 年 5 月から同年 9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って、皇軍(日本帝国軍)がノモンハン事件と呼ばれる越境紛争を二度にわたって起こしている。この紛争は、満洲国(=日本帝国)と、満洲国と国境を接するモンゴル(=ソ連)とのあいだの代理紛争(日ソ国境紛争)である。ソ連側から日本帝国をみれば、隙あらば越境を企てる危険な国家にみえるはずだ。
ソ連は帝国主義戦争の論理に従い、日本帝国との間に一時期、平和条約を締結した。状況の変化に従い、瀕死の日本帝国からの講和の仲介要請を無視したばかりか平和条約を一方的に破棄し、日本帝国がそれまで獲得してきた植民地および領土の一部の占領を企図し進軍した。
日本帝国は無条件降伏を(遅きに失した感があるが)受け入れた。戦勝国は正義・善であり、敗戦国は不義・悪となる。こうして今日まで、日本は、国連憲章第 53 条、77 条及び 107 条の通称「敵国条項」に該当するとされる。国際連合の母体である連合国に敵対していた枢軸国が、将来、再度侵略行為を行うか、またはその兆しを見せた場合、国際連合安全保障理事会を通さず軍事的制裁を行う事が出来ると定められている。
繰り返すが、日本帝国が無条件降伏を先延ばしにしたのは、ときの天皇・政府・軍人による国家支配(國體護持)の継続のためであって、自国民・植民地住民が被る犠牲については無関心だった。
日本帝国が無条件降伏を受け入れなかったもう一つのの理由に「クーデター説」というのがある。天皇は、軍部内徹底抗戦派が蹶起し、国内が収拾のつかない混乱に陥ることを恐れたと、『昭和天皇独白録』にある。2.26事件の再来が予期されたと。
本土間近まで追い込まれた戦況のなか、クーデターを企て本土決戦を決行しようとする勢力が実際にあったのかというと、管見の限りだが、その存在は確認できていない。「クーデター説」は、天皇による弁明のための弁明にすぎない。ここでも、日帝統治者には、戦争犠牲者に心を寄せる気持ちは皆無だったことが明らかである。
停戦に向けた日本帝国の第一のカードは、前出のとおり、ソ連への停戦仲介要請だったが不調に終わった。次のカードは、いずれかの戦闘で劇的勝利をあげ、それをもって停戦協定を有利に進めるというシナリオだったが、沖縄地上戦で惨敗を屈したところで、不可能をさとる。にっちもさっちもいかなくなったところで、無条件降伏を受け入れた。その間、前出の二度にわたる核攻撃を受け、ソ連の参戦を許して、満蒙入植者および捕虜の苦難を招いた。また捕虜となった日本兵・民間人のシベリア抑留という悲劇を生んだ。戦後、いつのまにか天皇の「聖断」が戦争を終わらせたという物語が一般化したようだが、史実に反する。
在満蒙日本人の苦難
本書第二章では、満蒙に取り残された日本人入植者の悲劇――とりわけソ連兵による日本人入植者女性にたいする性的暴行事例――が詳細に記述されている。しかしながら、こうした蛮行はロシア(ソ連)人に特有な民族性(ロシアの戦争文化)に還元すべきではない。皇軍(日本帝国軍)は南京事件、シンガポール華人虐殺事件など、皇軍占領地で同じような事件を起こしている。満州の地では平頂山事件が知られている。
皇軍にかぎらない。近年では、ベトナム戦争下における米軍・韓国軍による女性暴行・虐殺事件があり、バルカン(旧ユーゴスラビア)内戦では、セルビア軍による蛮行が記録されている。アフリカ各所の紛争では数えきれないほどだ。21 世紀にはいっても、ウクライナ戦争、イスラエルによるガザ(パレスチナ人)虐殺が現在進行形だ。
米軍占領下にある本邦沖縄県においては、戦時下ではないにもかかわらず、米兵による沖縄県民女性にたいする性的暴行事件が絶えない。結論を言うならば、こうした問題は、戦争という状況と軍隊という組織が構造的に引き起こすものと理解すべきだろう。生と死が隣り合わせの戦場で、同じ服(軍服)を着、24時間、行動を共にする軍隊という組織が齎す感化の力である。戦争と軍隊が人間の理性を奪い、人間の心の奥に潜む獣性を呼び覚まし、集団的凶行・蛮行に走らせる。ソ連軍兵士に同情するわけではないが、彼らは欧州でナチスドイツと過酷な戦争を終わらせた直後に、東アジアの満蒙に大移動してきた。彼らはユーラシア大陸をほぼ横断したに等しい。彼らが平常心を保っていたとは思えない。本書第二章を読んで、ソ連兵(ロシア人)にたいする憎悪をつのらせるのではなく、反戦・反軍思想を深め、平和主義の原則(普遍的思考)に立ち戻ることが求められよう。
戦況・国際政治に偏った記述
本書には反戦・反軍に係る視点が欠けている。戦争(戦況、戦闘)の詳細および帝国主義国家間の駆け引き、権益の奪い合いの模様に重点が置かれ、戦争の深淵にとどいていない。日ソ戦争の主因は、日帝が明治期に武力により植民地化した朝鮮から、さらに中国北東部(満蒙地域)にむけて領土拡大を謀り、そこに住んでいた生活者から土地家屋財産を暴力的に奪い、傀儡国家・満州国なるものを「建国」し、日本人を入植させたことにある。「満蒙は日本の生命線」と煽ったうえに…
ソ連軍の侵攻により皇軍が後退したとき、土地家屋財産を奪われた満蒙の人々は入植者にたいして反撃を開始した。暴力的に奪われた土地家屋財産を暴力的に奪い返した。日本人入植者は加害者から被害者へと逆転したかのようにみえるが、彼ら・彼女らは日帝の帝国主義的政策の被害者なのであり、それ以上でも以下でもない。 ソ連軍が犯した蛮行については、前述のとおりである。
日ソ戦争と米ソ関係
日ソ戦争は米国主導の下、つまり米国がソ連に日帝打倒に向けて協力を求めたことが発端である。米国は日本帝国が本土決戦を決意したと判断し、米軍犠牲者の増加を危惧して、ソ連の参戦を求めた。ソ連軍による北からの圧力で日本帝国が無条件降伏を受け入れることに期待した。米国とソ連は日帝打倒という一点で合意していた。ソ連はナチスドイツとの戦争が決着するまで米国にたいして判断を保留した。
前出のとおり、ナチスドイツが降伏すると、ソ連は一転して対日本帝国攻撃の準備に取り掛かる。ソ連は連合国が発したポツダム宣言に当初加わらなかったが、8月8日、対日参戦時に同宣言に参加した。そして日本帝国は無条件降伏した。
米国の思惑通りことは運んだ。米ソは日帝から無条件降伏を引き出すところまで利害が一致していた。だが、ソ連は参戦後、1945年9月2日の連合国と日本との降伏文書調印後も進軍を続け、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を完全に支配下に置いた9月5日、進軍を停止した。 そのうえで、ソ連の最高指導者スターリンは、米国に対して北海道の割譲を求めた。米国はそれを拒否し、その代わりとして、いわゆる北方領土のソ連による領有を認め、北海道をGHQの管轄とした。両国とも大戦後の冷戦(米ソ対立)を予期したうえでの判断であろう。そのときソ連は核を保有しておらず、米国の軍事力がソ連を上まわっていた。 スターリンはそれ以上を望まなかった。この米ソの最終的合意が、戦後における日本の北方領土返還要求を妨げる主因となった。〔後述〕
冷戦中、その北海道の米軍基地は北端の稚内米軍基地など、ソ連「封じ込め」戦略の一翼を担ってきたが、ソ連崩壊後、これらの基地は自衛隊基地に返還された。返還とされているが共同使用施設である。防衛省が公表した在日米軍施設・区域(共同使用施設を含む)によると、道内の米軍施設は18あり、東北地方には12カ所ある。米国にとって北海道・東北は冷戦終結後も変わらず、西太平洋北部における軍事的要衝であり続けている。
北方領土問題
日本政府は戦後一貫して、北方領土返還交渉を継続していると表明している。また、返還は国民的悲願だと報道されてきた。北方領土問題は、前出のとおり、大戦後、米ソにより決定された事項である。北方四島が「固有の領土」だとして返還を求める日本と、第2次世界大戦の結果、正当に自国領になったと固持するロシアとで解決の道筋が見えないままであった。膠着したままの交渉の合間に、日本側から「二島返還」という妥協案が提案されたかのような記憶もある。
第二次安倍政権下における安倍・プーチン会談で交渉は大きく後退した、というか、解決の道が閉ざされたかのように思える。報道では、両者の会談は異例の回数が重ねられ、「四島返還」にめどがついたと報じられたこともあった。ところが、ロシアは2020年7月4日、「領土割譲禁止条項」を明記した改正憲法を公布した。それに伴い、ロシア領土の割譲に向けた行為を違法とし、最大10年の禁固刑が科されるというのである。プーチンは北方領土を返還する意思がないにもかかわらず、安倍との会談を重ねた。プーチンの狙いはなんだったのだろうか。とにかく、安倍(当時)首相はけっきょくのところ、なんの成果もあげられなかったばかりか、今後の交渉の見通しも立たなくなったまま、2020年8月退陣した。
戦後80年が経過したいま、北方領土についての日ロ交渉は1ミリも進展していない。20世紀の日ソ戦争前後から冷戦を経た21世紀のこんにちに至るまで、日本の対ソ・対ロ外交はうまくいっていないように思える。日ロ両国の相互理解が今後、いくらかでも深まることを願うばかりである。〔完〕
