十字軍とは、ローマ帝国崩壊後、中原ヨーロッパ世界の混乱を経て政治的安定期を迎えたゲルマン系諸族のアラブ侵略をいう。十字軍の中心勢力がゲルマン系のフランク族=フランク(王国)であったため、十字軍はアラブから「フランク」と呼ばれた。キリスト教に帰依したフランク王国はローマ教皇と共同でイスラムに奪われたキリスト教の聖地・エルサレムを「奪回」するため、当時地中海の覇権をアラブ勢力と争っていたベネチア、東ローマ帝国(アラブから「ルーム」と呼ばれた)と協力して、地中海沿岸エジプト、シリア、アラブ、トルコ(セルジュークトルコ)を侵略して植民地化し、エルサレム王国を建国する。
年表によると、イスラム勢力がイスラエルを征服したのが638年。フランクの第一回の遠征が1097年。フランクのエルサレム王国建国が1099年。フランクがエルサレムから撤退したのが1244年。フランクの最後の植民都市アッカ陥落が1291年だから、第一回遠征から撤退までのおよそ200年が「十字軍の時代」に該当する。
さて、本書は本題のとおり、アラブから見た十字軍の実態だ。西欧キリスト文明から記された十字軍の歴史とは正反対の立場から書かれている。
著者・アミン・マアルーフはレバノン人のジャーナリスト。本書は1983年にフランス語で書かれている。日本語訳文体はカエサルの『ガリア戦記』のように簡潔にして余分な装飾・技巧はない。もちろん、イスラム教の教義とは無関係で、アラブが残した歴史資料を忠実に編集したもの。西欧の十字軍の歴史よりも、十字軍の「歴史」が忠実に再現されているように思える。
アラブが呼んだ「フランク」とは何か。『蛮族の侵入』(ピエール・ルシェ著)によると、フランク族は現在のオランダ・ドイツあたりを元郷としたゲルマン系民族の一派。ローマ時代からガリア(現フランス)に侵入し、法制度を中心としたローマ文明を受け入れてていたという。482年、クローヴィス王がフランク王国を建国し、カトリックに帰依している。前出のルシェによると、《ローマ教皇とフランク王国との同盟は蛮族の侵入時代の終結、古代と中世の間の転換期を表象しており・・・西欧が新しい形態をとった創始期ともいえる》と書いている。まったくそのとおりだ。
さて、キリスト教圏は十字軍を野蛮との戦いと位置づけているが、本書にもあるように、フランクには人肉の習慣があったことがわかる。もちろん、当時はアラブの方が文明レベルは高く、フランクの方が野蛮に属していた。
ではなぜ、フランクがアラブに侵入できたのか。著書・アミン・マアルーフは、アラブ側にフランクの侵入を許す弱さが内在化していた、と指摘する。アラブの弱さとは、高い文明を維持しながらも、共通の敵に共同で戦うための政治的調整力の欠如、支配下にある民衆を平等に扱う法制度の未整備などもあるが、何よりも、地域ごとの勢力の分権化が極端で、なかには侵略者フランクと組んで、隣接する勢力を排除するような動きもあった。
西欧側が侵略を開始できた背景には、この時代、農業生産力が飛躍的に伸長し、都市や修道院を拠点に工業・商業が発展したこともあった。また巡礼路を中心に、交通網が整備され、ローマ教皇権力と封建国家の共同性の構築が確保された。経済的安定と宗教的熱狂が西欧の膨張(侵略)のエネルギー源となったのではないか。
なお、当時のアラブの分裂と現代のアラブの状況とは、驚くほど酷似している。米国がイラク侵攻を「十字軍」にたとえたが、危険な思想である。西欧とアラブをおさめる複眼の思想が求められているいま、本書の一読をお勧めする。