2005年5月4日水曜日

『世界のイスラム建築』

●深見奈緒子[著] ●講談社現代新書 ●740円(税別)

筆者が本格的なイスラーム建築を見たのは、ヒンドゥー教の国・インドでだった。インド観光のゴールデントライアングルと呼ばれるデリー、アグラ、ジャイプールにおける観光の目玉といえば、インドにイスラーム王朝を築いたムガール帝国の時代の建築が多数を占めている。インドのイスラーム建築の代表といえば、世界で最も美しい建物の1つといわれている、タージマハル廟だろう。ヒンドゥー教の国・インドでイスラーム建築を観光するという体験は、なんとも割り切れない気分だった。浅学の筆者には、インドでイスラーム教、え、なんで?という思いが残った記憶がある。

イスラーム教は唯一絶対の神を信仰する宗教で、偶像崇拝を厳しく禁止している。もちろん、神を具象するものは何もなく、信仰の対象はコーランに書かれた言葉だとも言われている。そのため、主たる宗教建築であるモスク、廟、神学校等には神像がないし、建築に施される装飾は、抽象的な模様と文字に限られている。

イスラーム建築の原型は、本書の巻頭に紹介されているとおり、メッカのカーバ神殿だろう。カーバ神殿はイスラーム教徒しか近づくことができないため、映画やTV映像でみるほかない。映像では、それは漆黒の立方体で、まわりに抽象的装飾が施された一本の帯のようなラインがあるだけの造形物に見える。神殿というよりも、黒い石の塊のようにしか見えない。入口がどこか、正面がどちらか、も、うかがうことができない。「カーバ」とはキューブの語源ともいわれ、この建築はただの箱のようにさえ思える。カーバ神殿から察するに、筆者の趣味からいえば、イスラーム建築にはあまり期待できないな、と思いつつ本書を購入した次第。

ところが、本書を読み進めるうち、イスラーム建築の豊穣さに驚くばかり。そして、ヒンドゥー教の国・インドにあのように壮大なイスラーム建築が残されている理由も理解できた。本書を読み進めることによる知的体験は、エキサイティングなそれであり、高級なミステリーを読むような冒険心に似ている。

さて、本書ではイスラーム建築の解説という本論の前に、地理的・時間的観点から、イスラーム世界の整理を試みている。その部分は、イスラーム理解の基本中の基本なので、あえて紹介することにしよう。

イスラーム世界は、歴史的には三段階に整理できる。

第一期はイスラームを奉じたアラブ族によって7世紀に拡張した地域。

第二期は遊牧騎馬民族のベルベル族、トルコ族、モンゴル族によって11世紀以降に拡張した地域。

第三期はその後、さらにその外側に広がった地域。

第一期はイスラームの始まりで、中心はアラビア半島のメッカにある。この時期、アラブ人によってイスラームは各地に普及したのだが、概ねその地域は次のように分類できる。

(1)マシュリク=アラビア半島、エジプト、広域のシリア、イラクあたり。アラブ人が住み、アラビア語が話される。イスラームのハートランドで、マシュリクとはアラビア語で東を意味する。

(2)マグリブ=西を意味する。モロッコからリビアまでの地中海に面するアフリカ北岸を指す。スペインもイスラーム支配の時代には「アンダルシア」と呼ばれ、マグリブに属した。

(3)ペルシア=現在のイラン、トゥルクメニスタン、ウズベキスタン、アフガニスタンに当たる地域。古代ペルシア(帝国)に相当し、ペルシア人(印欧語のペルシア語を話す)をはじめとする住民にイスラームが浸透した。

第二期は、10世紀以降、遊牧民のトルコ族、モンゴル族が地中海世界へ移動するにつれて、イスラーム教を受容し、11世紀以降、支配者として領土の拡張を進める。地域的には次の3つに分けられる。

①中央アジア草原地帯=北はカザフスタン、東はウイグル、西はウクライナに及ぶ。
②インド=ヒンドゥー教の国インド亜大陸にイスラーム勢力が王朝をひらいていく。
③ルーム=ルームとは“ローマ”の意味。アナトリア(トルコ)から東ヨーロッパにかけての地域。キリスト教国ビザンツ帝国にトルコ族が勢力を伸ばした。

第三期は、これらの地域を取り囲む周辺の地域。
・アフリカ大陸のサハラ以南
・東南アジア
・中国、日本
となる。
イスラーム教は、これらの地域・歴史・民族の差異に基づき、信仰の受容にも差異を生んだ。(本書は教義や信仰の差異については詳しく論じない。イスラームを知るためには、このあたりをよく勉強しなければいけないのだが・・・)。イスラーム建築も同様に、各地域の伝統に従い、素材、工法、装飾等に差異を生んだ。

たとえばモスクと呼ばれる宗教施設は、集団で祈りを捧げる空間という機能においてイスラーム世界で共通するが、モスクの形状はそれぞれの地域において異なる。また、各地域に誕生した建築様式は互いに影響を与えあったし、インドやトルコでは、ヒンドゥー教やキリスト教の意匠に影響されたイスラーム建築が生まれた。インドのイスラーム建築は基本的には、ペルシア様式の影響にありながら、ヒンドゥー建築の影響を強く受けているものが多い。

イスラーム建築は、偶像崇拝禁止や同一の宗教儀式を実践する空間という共通コードをもちながら、一方で地域性を反映して個性的に成立している。イスラーム建築はけして一つではないし、地域的多様性をもってわれわれの前に現存している。われわれは、建築から、イスラームという世界宗教の普遍性と、民族・風土・伝統という個別性を、同時に読み解くことができる。

イスラーム世界が多様性をもっているという事実は、イスラーム不勉強の筆者にとって、とても重要なことだった。それはおそらく、キリスト教世界が多様性をもっているのと同じことだろう。

今日のイスラーム世界における、「イスラーム」と「イスラーム以前」とを、あるいは、地域ごとの「イスラーム」を比較することにより、今日のイスラームを巡る情況をより深く理解することができると思う。本書はその絶好のガイドブックの1つだといえる。