2005年11月15日火曜日

『永遠の吉本隆明』

●橋爪大三郎[著] ●洋泉社 ●720円+税

FI2053311_0E.jpg吉本隆明は、筆者が最も影響を受けた思想家の一人。吉本の本を読めば、元気になる――若いころの筆者の周りからは、そんな確信に満ちた声が聞こえたものだ。元気が出る思想家というのは、生涯においてなかなか出会わない存在だと思う。

著者(橋爪大三郎)もそのような思想家として吉本隆明を位置づけている。本書には、著者が吉本に寄せる尊敬と思慕が各所に見て取れる。

だが、筆者は本書に不満だ。著者は吉本の思想体系を、『擬制の終焉』→『共同幻想論』→『言語にとって美とはなにか』→『心的現象論』→サブカルチャー論全般→『反核異論』→その他の情況への諸発言→戦争論・・・と整理しているのだが、私は吉本隆明の思想の一貫性を示す著書は、『マチウ書試論』だと考えるからだ。著者が『マチウ書試論』に触れなかった理由がわからない。同書のキーワードは、橋爪が「あとがき」に記した“関係の絶対性”だと考えている。

直感的な批評、感覚的な批評の方法が日本の文学界をリードしていた時代と、その後のマルクス主義批評の盛衰を総括した吉本は、そのどちらにも与しない文芸批評の方法の構築に取り組んだ。吉本の構想を大雑把に言うならば、『言語にとって美とはなにか』とは、文芸批評の方法は結局のところ、言語に還元されなければ客観性が担保されない、という吉本のコンセプトから成立をみたものだと思う。

国家論、戦争論においても同様だ。『共同幻想論』では、国家の成立の根拠が意識に還元され、戦争の発生は国家に等しく、戦争の廃棄は国家の廃棄にあり、それ以外の「戦争論」はおよそ相対的であり、戦争と国家という客観(絶対)的な対応が欠落していると、吉本は考えているのだと思う。スターリン批判も同様だ。

さて、吉本の(信じる)客観(絶対)性によって還元された原子、すなわち、単位、すなわち、吉本の考えるところの「言語」「意識」「国家」が、はたして吉本が体系化したとおり、表象してるかどうかが難問なわけで、吉本の取組み姿勢は倫理的だが、書き終わった体系が正しいかどうかの判定は微妙なところだ。

故・村上一郎は、「矢が的に当たるかどうかは別として、弓を引く力は強い」と吉本隆明を評した。筆者;は村上のコメントこそが吉本隆明論の真髄だと思っている。吉本の弓を引く強さに魅了され、また、吉本が近くの的を正確に射抜く姿に驚きもしたのだが、遠い的に当たっているのかどうかを見届けていない。