2006年11月17日金曜日

村上春樹はくせになる

●清水良典〔著〕 ●朝日新書 ●720円+税


村上春樹論には難解なものが多いが、本書は平易であり平凡に近い。新書という制約か。いままで論じられた村上論の範囲内にある。本書の村上論を以下、4項目にまとめておこう。

時代とともに変化する作風

著者(清水良典)によると、村上春樹は時代とともに変容できる作家だという。戦後を大雑把に区画する事件と村上作品とを照合してみると、

・全共闘運動=1970年前後=『風の歌を聴け』~ほか

・バブル経済=1990年前後=『国境の南、太陽の西』~ほか

・阪神大震災、オウム事件=1995年以降=『アンダーグラウンド』『約束された場所で』『神の子どもたちはみな踊る』

・9.11事件=2001年以降=『海辺のカフカ』ほか

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』等(3部作)は、全共闘運動及びほぼ同時期に起こった文化運動の退潮及びそれに参加した若者の退行的気分を扱ったものだった。だから、村上春樹を全共闘作家と呼んだ文芸評論家がいたし、いまもいる。また、村上自身もその体験を持続的テーマとして選び取っていることと思われる。つまり、その作風は時代を回避する姿勢だった。

ところが、バブル経済の崩壊以降の地震、オウム事件を境にして、村上は突然、社会に関心を持ち始め、大事件に関連した作品を発表する。

そしてその次の変化は、2001年の「9.11事件」の勃発を契機としている。この事件を境に、村上は、米国が進める「戦争」に諦念を抱く世界規模の「大衆」の気分を「癒す」作風に転換する。『海辺のカフカ』の発表だ。本書は『海辺のカフカ』に寛容だが、この作品が売れ出したころ、批判的な評論が続出した。

村上作品に共通するもの

村上の小説に出てくるキャラクターに共通するのは、欠損の感覚、言語に対する不信の表明、精神の不安、心の病・・・をもつ人であり、自殺者、死者も多い。しかも、小説の舞台には、生と死の境界のようなイメージが漂っていて、生者と死者の境界はない。世界は「この世」「こちら側」と「あの世」「向こう側」に設定されていて、二つの世界の往来は自由。小説は現実のようであり、夢のようであり、現実と幻想・空想はあいまいなままだ。現代のおとぎ話、寓話(アレゴリー)ともいわれる。

そればかりではない。理性や科学で説明できない闇、暗黒、偶然性といったブラックホールが準備されている。

登場人物は、ジキルとハイドであり、両性具有者であり、自己であると同時に他者であったりする。
小説の中に組み込まれた謎解きのような仕掛け、暗喩、直喩、象徴も村上作品の特徴だ。“これは、もしかしたら、あのことかもしれない・・・”と、読者が自由に想像する楽しさが散りばめられている。だが、ミステリー作品のような確かなロジックに貫かれているわけではない。謎解きの仕事を作者が放棄しているため、その意味で、“イメージの垂れ流し”という批判を免れない。

村上春樹と日本の文壇

日本の文壇と無縁の作家というのが村上の特徴らしい。著者(清水良典)は、村上の作品の転位は、村上が東京~米国~東京と転居したことと結び付けられるという。村上の日本脱出は、日本の文壇(出版社と作家の関係を断ち切る。日本の文学は出版社からの受注生産だという。)との空間的遮断が目的であり、そこでの創作活動が成果を上げた後、再び日本及び日本語への回帰を果たすため、帰国し今日に至っているというのだ。

「9.11」以降

村上春樹に限らず、いかなる作家も「9.11」以降の世界の行く末を予言することはできない。作家は、時代に漂う気分を作品化することはできるが、世界を直接変える仕事をするわけではない。
著者(清水良典)は村上の近作、『アフターダーク』に今後の村上作品の方向性を読み取っている。著者(清水良典)がそこで持ち出したキーワードは、「回帰」だ。どこに回帰するのかといえば、1970年前後の日本ではないか、という。この「予言」は当たるのだろうか。
(2006/11/17)