●酒井健〔著〕 ●ちくま学芸文庫 ●900円(+税)
先に当コラムで取り上げた『中世ヨーロッパの歴史』の書評において、ホイジンガが中世という時代をフランボワイヤン(火焔様式)ゴシックにたとえた一文を紹介した。では、ゴシックとは何か――そこに関心が向かうのは当然のこと――それが本書を購入した理由にほかならないのだが、本書は誠に示唆多き書。いろいろな意味で勉強になった。己の無知蒙昧・思い込み等を本書によって、訂正させられた次第。以下、本書から学んだポイントをまとめてみよう。
著者(酒井健)は、ゴシック様式とは先住ヨーロッパ人(ケルト人、ゲルマン人)による、森(大自然)の再現だという。この指摘が、ゴシックの本質のすべてをあらわしているように思える。自然を模した装飾をキリスト教会に取り入れる手法は、先のロマネスク様式に始まっていた。そこでは、怪獣・精霊、乱茂する草木、異教(自然神)の神像等が、キリスト教会堂の柱頭やタンパンに装飾されていた。今日、ロマネスク教会を訪れれば、キリスト教会でありながら、キリスト教以前の異教の面影を発見することができる。
ロマネスクからゴシックに移行すると、教会堂の外観に飛躍的変化が訪れる。ロマネスク教会は、ずんぐりとした丸みを帯びた低層の建物だが、ゴシック大聖堂は、高く、巨大な建築物に変化する。ゴシック大聖堂は、建物の一部が森の高木を象徴し、内部が森の中を、そして、森に満ち溢れる霊性を備えた者たち――例えば、想像上の怪獣・精霊、乱茂する草木、自然神等が外観、内装の装飾によって付加される。ゴシック様式の建築物は、ロマネスク以上に、森という原始ヨーロッパ人が抱いた信仰の原点を強力に表現する。
キリスト教信仰の拠点であるはずの大聖堂が、なぜ、異教的なのか――11世紀、フランスの人口の9割が農民で、彼らの信仰はキリスト教(表向きキリスト教であっても)以前の自然信仰者だった、というのがその答えだ。
12-14世紀、ゴシックの時代の中世ヨーロッパ人の信仰は、キリスト教布教前の自然神、偶像崇拝にとどまっていた。だから、教会側は彼らの信仰を尊重しキリスト教を習合させた。その代表例がヨーロッパに広く分布するノートルダム教会だ。ノートルダム信仰は、古ヨーロッパにあった地母神信仰の変容だ。キリスト教の普及に伴い、地母神信仰は聖母マリア信仰として確立した。聖母マリア信仰は、各地にノートルダム寺院を誕生させたのだが、それはゴシックの時代に重なっている。ノートルダムを直訳すれ、“我々の婦人”という意味になるが、聖母マリアのことを指す。
ゴシック以前、ロマネスク教会は農村部に建立された。一方、ゴシックは都市に建立された。前者の信仰者は農村に住む農民だった。ゴシックの時代になると、人口増加に伴う農民たちは、概ね開墾が終了した農村部を追われ、都市に流入した。そして、故郷の自然への憧憬の念は、自然崇拝を基にした大規模な大聖堂に吸い寄せられた。それが、ゴシックの時代の信仰の基調をなした。
都市に花開いたゴシック大聖堂は、キリスト教布教の根拠であると同時に、都市の匿名の民衆の祝祭の場だったという。大聖堂でいったい何が執り行われていたのか。中世の都市では、日々、演劇的・祝祭的日常を送っていた。大聖堂では、たとえば、そこに仕える司祭さえもが、都市民衆の笑い・嘲笑の対象だった。ヨーロッパ文明の源の1つとしてキリスト教が挙げられるが、かの地に根付いた“キリスト教”が異教的要素を抱えたものであることを知る。
さて、ゴシックとは、“ゴース人(の)”という意味であることはよく、知られている。「ゴース人」は日本の教科書では「ゴート人」と書かれることが多いが、「ゴース」「ゴート」はもちろん同一だ。命名者は、ルネサンス期のイタリア人だった。ところが、実際のゴシック建築は12世紀ころのフランス北部に起源を発する様式で、その後、14世紀にかけて、フランス各地、ドイツ、イタリア、スペイン等に伝播した。その作業を担ったのは各地の諸族であって、ゴート人ではない。
ゴート人とは、5世紀、フン族に追われて東方からローマ帝国領内に侵入したでゲルマン系民族の1つ。西ローマ帝国を滅亡に追い込み、イタリア、スペインにそれぞれ東ゴート王国、西ゴート王国を建国したが、遅れてヨーロッパに侵入を開始したフランク族等及びイスラムによって滅亡させられた。12-14世紀にゴシック大聖堂を建立したヨーロッパ人は、同じゲルマン系であるが、ゴート人ではない。
ルネサンス人はなぜ、そんな基本的誤りを犯したのか。その誤解・誤記はどこから来たのかというと、ルネサンス期のイタリア人がゲルマン系の美術様式を軽蔑したことだという。“ドイツ人”と“ゴート人”はルネサンス人にとって同義だと。彼らの美意識にそぐわない北方様式は、すべてドイツ起源であり、ドイツ人とはすなわち、ゴート人なのだというのがルネサンス人のゴシック評価だった。
ルネサンス人の美の理想は、比例、均衡、均整、合理主義だった。ゴシックは有機的大自然を模倣した様式だった。だから、ルネサンス人はゴシックを忌み嫌った。ルネサンスを代表する表現様式に遠近法(一点透視法)があるが、この技法はまさに、外観(美)を比例の関係に求めたものだ。それだけではない。一点透視法の発見は、客体(対象)と主体(芸術家)の分離を前提にしている。中世美術では、対象を描く主体は対象の内部にあって外部にない。だから、事物はすべて同じ大きさで描かれるか、特別な意味を持つ対象が大きく描かれる。
ところが、ルネサンス期になると、主体は対象の外に立ち、遠くにあるものは小さく、近くにあるものは大きく描かれるようになる。描く主体と描かれる対象は分離する。遠近法の定着と主客の分離こそ、芸術家の誕生にほかならない。芸術家=個人は、自然、モノ、自然神の帰属から離れ、独立した存在として、世界を描く。対象から、主体が独立すること、すなわち、芸術家の発生だ。それまでの表現者は、建築技術者、技能者、職工であって、自然、神、支配者・・・に帰属していた。それが、ルネサンス期になると“芸術家はそこから独立した。権力者から援助を受けていても、表現は自由だった。ルネサンスが“人間主義”と呼ばれ、近代へと通じる所以だ。もちろん、ルネサンスの“人間主義”は近代以降の個人主義とは異なるけれど、ゴシック批判・反発が中世の終焉を告げているともいえる。
本書読了後、かつて観光で訪れたゴシック大聖堂の数々――ノートルダム寺院(フランス・パリ)、ミラノ大聖堂(イタリア)、ルーアン大聖堂(フランス)、サンサヴァン大聖堂(フランス・サンマロー)、ブルゴス大聖堂(スペイン)、レオン大聖堂(スペイン)・・・の威容かつ異様な姿が思い浮かぶ。
(2006/11/23)