イラン観光から帰ったばかりの筆者にとって、本書の刊行はグッド・タイミングであった。筆者はかねがね、アーリア人に関心を抱いていたし、イランを観光先に選んだのも、この目でアーリア人の国・イランを見てみたいという願望からだった。そればかりではない。これまで雑然と、断片的に仕入れてきたアーリア人に係る知識を、いつか整理したいとも考えていた。
まずもって本書読後の感想をいえば、本書は筆者の願望を満たすに十分な内容だった。アーリア人に関心を持つ人すべてに、本書(及び著者が同じ出版社から刊行した、『ゾロアスター教』を併せて)の一読をお薦めする次第である。
さて、観光中、筆者は日本語の上手なペルシャ系イラン人のガイド・Rさんに、「イランの人たちは、自分たちのことをアーリア人だと思っているのか」と尋ねてみた。Rさんは、「もちろんですよ、私たちの祖先は、ザグロス山脈の麓に住んでいて、それからイラン全土、インド、そして、ドイツに移っていったのです。」と、誇らしげに答えてくれた。
たった1人のペルシャ系イラン人の回答をもって、現代イラン人の標準的回答と断ずることは危険である。だが、筆者は、少なくとも、ペルシャ系イラン人は、自分たちのことをアーリア人の子孫だと自覚しているものと思う。ただ、気になったのは、Rさんがアーリア人の原郷を現在のイラン国内(イラン西南部)だと確信している点と、アーリア人がヨーロッパ全域に移動したのではなく、「ドイツ」という特定の国に移り住んだとしている点だ。筆者の勝手な推測だが、イランのある時期の国史教育は、アーリア人に関し、意図的・作為的改変を加えているように思える。このことについては、本書に即し、後に詳しく触れてみたい。
ペルシャ系アーリア人がイランにおいて覇権を確立したのは、3世紀、ペルシャ人の王朝である、サーサーン朝ペルシャの成立以降のことである。同朝をもってペルシャ語がイラン全土に普及する。ただし、ペルシャ人たちは自らの王朝のことを、エーラーンシャフル(アーリア人の領土)と呼んだらしい。エーラーンはイランと同じである。
イラン系アーリア人には、ペルシャ人、キンメリア人、スキタイ人、サカ人、サルマタイ人、アラン人、パルティア人、メディア人、バクトリア人、ソグド人、ホラズム人、ホータン・サカ人らがいた。それぞれの歴史については、本書に詳しい。
アーリア人の定義
本書に基づき、アーリア人を正確に定義しておこう。
近代以降の言語学の整理によると――
世界の言語は、①印欧語(インド・ヨーロッパ語)、②アフロ・セム語、③ウラルアルタイ語――の3体系に分類される。印欧語には、現在のヨーロッパ各言語、イラン語(ペルシャ語)、インド語(ヒンドゥー語等)が含まれ、アフロ・セム語には、ヘブライ語、アラビア語等が含まれ、チュルク(トルコ)語を含むアジアの諸言語は概ね、ウラルアルタイ語系に属する。余談だが、日本語はこの3体系のいずれにも属さない、謎の言語だともいわれている。
次に、近年の考古学を含む歴史学の整理を本書6Pに従って紹介すると――
紀元前3000年頃、印欧語を話すある部族が、中央アジアで牧畜生活を営んでいたことが認められ、彼らのうち、ヨーロッパに向かう集団と、中央アジアに残った集団とに、分岐した。このとき中央アジアに残った集団をアーリア人と称した。
紀元前1500年頃、そのアーリア人のうち、インド亜大陸へ進出し定住民となった集団と、イラン高原へ進出して定住民となった集団、中央アジアに残ってオアシス都市の定住民となった集団、中央アジアに残ってステップの騎馬遊牧民となった集団、に分かれた。そしてし、それぞれの地域の先住民と融合し定住した者と、遊牧を続けた者がいた。
以上の言語学と歴史学の成果をまとめると、次のような結論が得られる。
▽中央アジア・イラン、インド、ヨーロッパの各言語には共通性が認められる。これらの地域の言語は、共通の祖語から派生した可能性が高い。共通の祖語をインド・ヨーロッパ語(印欧語)と呼ぶ。
▽この祖語を話していた民族のうち、中央アジア・イラン・インドに移動した人々をアーリア人と呼ぶ。がしかし、ヨーロッパ人も後世、自らをアーリア人の子孫であると自称し始めたので、アーリア人の概念は混乱していて、今日も、その混乱は続いている。
ここまでのところで、誠に残念なのは、まずもって、アーリア人及びヨーロッパ人の祖語である古代言語が、インド・ヨーロッパ語(印欧語)と命名されたことだ。正確には、インド・中央アジア・イラン・ヨーロッパ語とされるべきであったのだが、それは無理としても、せめて、インド・イラン・ヨーロッパ語と、イランを含めたならば、アーリア人という概念をユーラシア的スケールで把握することが可能となり、後世に現れた狭隘なアーリア人イデオロギーの発生を防げたかもしれない。
二点目は、中央アジア・イランに関するアーリア人の歴史研究が日本に紹介される機会が少なかったことだ。
本書は、著者(青木健)がイラン、ゾロアスター教の研究者であることから、印欧語族のうち、中央アジア・イラン系アーリア人の歴史を扱っている。インドのアーリア人の歴史については、実に膨大な歴史書、解説書が出されているので、それらと本書をつき合わせることにより、アーリア人全体が把握されることになる。
なお、近年、ヨーロッパに台頭した「アーリア主義」は、白人至上主義、有色人種及びユダヤ人差別のイデオロギーと無関係ではなく、アーリア人という本題に即するならば、まったく避けるわけにもいかないようで、著者(青木健)は、ナチスドイツにおけるアーリア主義に簡潔に触れている。ナチズムにおけるアーリア主義の詳細は、他の専門書を当たる必要がある。
イランの歴史
イラン系アーリア人の歴史を追うということは、図らずも、イランの歴史を扱うことに逢着する。ここでイランの歴史を概観しておこう。
古代、現在の中東、イラク、イラン、中央アジア――いわゆる、オリエント世界を制覇した中心勢力は、謎のシュメール文明(紀元前9000年頃)の存在はともかくとして、メソポタミア文明(紀元前3000年頃成立)~アッシリア帝国(紀元前800年頃成立)を含め、セム語系民族であって、アーリア人が主役となるのは、その後のことであった。
先述のとおり、紀元前3000~1500年頃にかけてが、印欧語族の移動時期にあたり、現在のイラン・中央アジア、アフガニスタン・インド亜大陸、ヨーロッパ方面の先住民と融合が始まった。現代のイラン人は、印欧語系の言語=現代ペルシャ語を話すという意味では、イラン系アーリア人の子孫であるが、人種としては、その後、この地を支配したアラブ系、チュルク(トルコ)系、モンゴル系の人々との融合が進んでいるため、純粋なアーリア人ではもちろんない。
紀元前546年、イラン系アーリア人の一派であるペルシャ人は、イラン高原、中央アジア一帯に住む、他のイラン系アーリア人(パルティア人、メディア人・・・)を糾合し、ペルシャ帝国をつくりあげ、ギリシャ人と覇を競った。そのようすがヨーロッパ世界・古代ギリシャの歴史書に残された。以降、西欧中心主義の近代歴史学により、ペルシャ帝国はヨーロッパ世界と対立する世界(オリエント世界)の代表格として規定されている。 ついでに、ペルシャとはギリシャ語で、古代ギリシャ人がイラン高原南西部に住むイラン系アーリア人のことをそう呼んだことに由来する。古代ペルシャ語では、「パールサ人」という。
紀元前333年、アレキサンダー大王が率いたマケドニア(ギリシャ)によってペルシャ帝国は滅亡する。ペルシャ帝国の当時の首都ペルセポリスはアレキサンダーによって破壊され、イラン高原西南部のペルシャ人の勢力の源泉地域はもちろんのこと、旧ペルシャ帝国の版図はギリシャ側に制圧された。けれど、ペルセポリスは宗教・儀礼の都であって、政治・経済の機能をもっていなかった。これをもって、イラン系アーリア人が全滅したわけではない。
226年、ギリシャ勢力の後退を受け、ペルシャ人のサーサーン朝ペルシャが成立した。同朝の管理下、イラン系アーリア人の信仰であったゾロアスター教が同朝の国教となり、布教と体系化が進んだ。また、ペルシャ語がイラン全土の標準語として普及した。サーサーン朝ペルシャの時代に、イランのペルシャ化が進んだ。
7世紀、イラン系アーリア人に大変動が起こった。アラブ人・イスラーム教勢力の侵入だ。
651年、サーサーン朝は滅亡し、イランは、アラブ人による支配を受ける。そして、ゾロアスター教はイラン全土からほぼ一掃され、イスラーム教が信仰されるようになる。イラン系アーリア人のイスラーム化が進む。
アラブ支配の開始から今日に至るまで、イランはイスラーム圏に属し、現在は熱心なシーア派イスラーム教を国教としているが、アラビア語が標準言語として話されることはなかった。そして、冒頭のイラン人ガイドのRさんのいうとおり、現代のペルシャ系イラン人はアーリア人としての自覚をもっている。
イラン人のアーリア人としての自覚というものが、古代アーリア人の帝国樹立(アケメネス朝ペルシャ)~同朝滅亡(ギリシャ勢力による支配)~サーサーン朝の復古的成立~同朝滅亡(イスラーム勢力による支配)~イスラーム国家の成立という変遷に関係なく、一貫してイラン人の意識の中に根付いているものなのかどうかは疑わしい。
そのことは、本書第4章「イスラーム時代以降のイラン系アーリア人」(P.231)にて扱われている。本書によれば、近代以降、イラン人がアーリア人意識を高揚させ始めたのは、19世紀に成立した民族主義(ナショナリズム)の台頭と不可分ではなかった。民族主義は、国民国家という概念を構成する要件の1つである。
19世紀、それまで続いたイスラーム教徒チュルク(トルコ)人支配に代わって、イスラーム教徒ペルシャ人が国家の主導権を握る。そのとき以来、積極的に導入されたのがアーリア人という国民意識であった。
1925年、パフラビー王朝が成立すると、同王朝は「アーリア人の栄光」を国民に浸透しようと努めた。パフラビー王朝の下、イランにアーリア主義が高揚する。同王朝は、ナチスドイツと親密な関係を結んだ。
アーリア主義の流れは、1979年のイスラーム勢力によるイラン革命により頓挫するが、今日のイラン国民の意識から一掃されたわけではない。ペルシャ系イラン人には、革命前の体制を懐かしがる人もいるという。
1979年、イスラーム革命以降、イランはイランイスラーム共和国として、イスラーム教に基づく国家となった。現在のところ、イランイスラーム共和国の民族構成は、人口の5~7割がペルシャ人、2~3割がチュルク系遊牧民、残り1割をクルド人等の少数民族が占める。イランは実は、多民族国家なのである。そして、国民の過半数を占めるペルシャ人の意識の中には「栄光のアーリア人」が潜んでいて、642年の「ネハーヴァンドの戦い」(サーサーン朝ペルシャがアラブ勢力に敗退した戦闘)の屈辱は忘れていない。
ペルシャ人(=イラン系アーリア人)は、7世紀以降、支配者となったアラブの宗教であるイスラーム教(シーア派)を熱心に信仰しながら、その一方で、アーリア人の栄光を忘れがたく心に秘め続けるという、大いなる矛盾の中にある。
現代イランの為政者が国を束ねるため、多数派とはいえ、アーリア主義を持ち出すと、そのほかの民族の離反を招き、分裂の危機を促進する結果となりかねない。多民族国家イランの核になるものは、イスラーム教だけなのかもしれない。
日本人にとっても、ユーラシア大陸の中央部を出自として、インドからヨーロッパに飛散した「アーリア人」は、歴史ロマンを秘めた魅力的な民族概念である。しかし、アーリア人というものは、歴史的概念であり、また、イデオロギーとなっている。民族・部族としては、清算された概念である。これをイデオロギーとして用いることは、ナチスの先例のとおり危険である。
本書を読むことにより、アーリア人に関する基本知識を整理しておくことが重要である。そうすることにより、非歴史的な、イデオロギーとしての「汎アーリア主義」が相対化され、歴史ロマンの魅力に屈する悲劇から、人類は守られる。