2009年6月27日土曜日

『吉本隆明1968』


●鹿島 茂 ●平凡社新書 ●1008円(+税)

1960年代後半、学生を中心とした全共闘運動及び新左翼運動の高揚期、吉本隆明の著作が多くの学生たちに読まれた。著者(鹿島 茂)は、本題の示す1968年に大学に進学した団塊の世代に属していて、その年、吉本の文芸評論に触れて心酔、以来、自分を“吉本主義者”と規定し、本書の執筆に至ったと本書内において告白している。

本題の「1968」という記号は、新左翼学生運動・全共闘運動に参加した世代からすれば、運動の最高揚期として受け止める者が多いであろうし、また、著者(鹿島 茂)のように、吉本隆明に初めて遭遇したメモリアルな年であると受け止める者もあろう。いずれにしても、「1968」は、団塊の世代にとって、そのときの情況をもっとも強く象徴する記号になっている。「1968」が意味するものについては後で触れる。

吉本隆明が当時の若者(=団塊の世代)を中心とした大量の読者を獲得し得たのは、そのときの学生運動の一時的高揚と、その後に訪れた急激な退潮という、極端に相反する情況と無関係ではない。

反日本共産党系左翼運動に参加した学生(全共闘運動を含む)たちを一括して“新左翼”と呼び、新左翼は、吉本が批判した旧左翼(日本共産党を含む世界の前衛党)と対立する立場をとった。新左翼は反日共系もしくは反代々木ともいわれた。日本共産党本部は東京・代々木に当時もいまもある。新左翼は、旧左翼として、ソ連共産党、日本共産党のみならず先進国の共産党すべてを否定した。その理由は、旧左翼=スターリン主義こそが、世界革命の阻害物だからだという理由からだ。新左翼党派の1つである革命的共産主義者同盟(革共同)は、「反帝・反スタ」を綱領に掲げた。当時の新左翼学生は、反スターリン主義という視点から、吉本隆明が文芸評論の中で展開した「転向論」における、日本共産党幹部、日本共産党系文学者及び社会学者への批判を当然のごとくに受け入れた。

しかし、本書が示すとおり、吉本隆明のスターリン主義者批判は、新左翼各派とは異なっていて、旧左翼前衛党幹部に内在する転向・非転向の問題を、新左翼のように、革命の方法論もしくはマルクス主義解釈の問題としてではなく、日本型知識人の問題として扱った。

吉本隆明が多くの若者に支持された理由は、吉本が日本共産党幹部(スターリン主義者)批判の急先鋒の立場をとったからだけではない。それよりもむしろ、学生運動の後退局面――多くの学生運動参加者が脱落したとき――彼らの離脱の正当性と、その拠り所として、吉本隆明が読み込まれたことによる。

本書では、吉本の初期評論である、転向論、高村光太郎論、「四季」派批判、ナショナリズム論(大衆の原像を含む)が扱われている。著者(鹿島 茂)が吉本の著作をいかに読んだかについて、著者(鹿島 茂)自身の出自、当時の境遇を交えて表明し解説する形式をとっていて、吉本隆明の解説書としては気負いがなく、わかりやすい。

著者(鹿島 茂)が横浜の酒屋の出身(=庶民階級)であることと、吉本が東京・下町の船大工の出身(=庶民階級)とがほぼ同一であることをベースにして、庶民階級出身者が高度な教育を受け知識を得て知識人となることで抱える二重性という概念が、吉本思想のキーワードの1つであると説明する。

吉本の初期の評論の内容については本書で解説されているので、ここでは触れない。そうではなくて、いまいちど「1968」という記号に戻って本書を考えてみたい。まず、吉本が既成左翼を過激に断罪する思想家として、「新しい左翼」に迎え入れられたのが1960年代だということ、ところが、68年を頂点にして、新左翼学生運動は退潮し、以降の吉本支持者は、学生運動から脱落した者であったということ――は既に述べた。この傾向を重視したい。

1969年以降、学生運動から脱落した者は、吉本隆明が提出した大衆の原像、生活者という概念を読みとることによって、敗北を自らに納得させたのではないか。吉本隆明を読むことによって、学生運動から離脱した後ろめたさから救われたのではないか。「1968」という記号を冠する意味はそこにあるのではないか。著者(鹿島 茂)が吉本隆明の著作に初めて触れた年だという意味だけならば、それは個人的シーニュにとどまる。

全共闘・新左翼運動から日常に戻った学生たちは、吉本によってどのように救われたのか――吉本は、本書にもあるように、前出の革共同を批判した。「反帝・反スタ」を綱領化したからといって、その前衛党がスターリニズムに陥らない保証はない。すなわち、吉本は新左翼学生が参加した、当時の新左翼=反スターリン主義を掲げた前衛党こそが、スターリン主義にすぎないことを60年代初頭に明らかにしていた。学生運動から脱落した学生たちは、自らの政治参加が必ずしも正しい選択ではなかった理由を、吉本の著作によって確認した。新左翼運動=反スターリン主義運動だと確信して参加した全共闘運動・新左翼学生運動のほうが、より厳格なスターリン主義だった。だから、そこから離脱することは、誤った選択ではない(かもしれない)と納得し得た。著者(鹿島 茂)は吉本の著作の一部を引用して、次のようにまとめている。

吉本は、(中略)スターリニスト崩れのデマゴギーよりも危険なのは、心底真面目で、どこまでもマルクス主義の理想に忠実で、すべてを耐え忍んできたことだけを生きがいにしてきた詩人・黒田喜夫のような存在であるとして次のように述べています。いささか長めですが、これは吉本思想の核の核に当たる部分ですので、しっかり読んでもらいたいと思います。


以下、『情況へ』(宝島社、1994、吉本隆明[著])から引用――

こういう相も変わらずの〈倫理的な痩せ細りの嘘くらべ〉の論理で、黒田喜夫はいったい何をいいたいんだ。また、何もののために、何を擁護したいんだ。(中略)われわれが「左翼」と称するもののなかで、良心と倫理の痩せくらべをどこまでも自他に脅迫しあっているうちに、ついに着たきりスズメの人民服や国民服を着て、玄米食に味噌と野菜を食べて裸足で暮らして、24時間一瞬も休まず自己犠牲に徹して生活している痩せた聖者の虚像が得られる。そして、その虚像は民衆の解放ために、民衆を強制収容したり、虐殺したりしはじめる。はじめの倫理の痩せ方が根底的に駄目なんだ。そしてその嘘の虚像にじぶんの生きざまがより近いと思い込んでいる男が、そうでない「市民社会」に「狂気にも乞食にも犯罪者にもならず生きて在る」男はもちろん、それにじぶんよりも近い生活をしている男を、倫理的に脅迫する資格があると思い込み、嘘のうえに嘘を重ねていく。この倫理的な痩せ細り競争の嘘と欺瞞がある境界を超えたときどうなるか。もっとも人民大衆解放に忠実に献身的に殉じているという主観的おもい込みが、もっとも大規模に人民大衆の虐殺と強制収容所と弾圧に従事するという倒錯が成立する。これがロシアのウクライナ共和国の大虐殺や、強制収容所から、ポル・ポトの民衆虐殺までのいわゆる「ナチスよりひどい」歴史の意味するところだ。そしてこの倒錯の最初の起源が、じつに黒田喜夫のような良心と苦悶の表情の競いあいの倫理にあることはいうまでもない。(中略)幸福そうな市民たち(いいかえれば先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者)が大多数を占めるようになることが解放の理想であり、着たきりの人民服や国民服を着て玄米食と味噌を食っている凄みのある清潔な倫理主義者が、社会を覆うのが理想でも解放でもない。それは途方もない倒錯だ。黒田喜夫におれのいうことがわかるか。おれたちが何を打とうとしているか、消滅させなければならないのが、どんな倒錯の倫理と理念だとおもってたたかっているのかがわかるか。(P417~P418)


詩人・黒田喜夫のところに、新左翼運動指導者の像を代入すれば、1968年以降の新左翼学生運動が辿ってしまった悲劇がそっくり、出力する。新左翼の闘い方、新左翼運動家自身の心性、闘いが目指すもの、新左翼が掲げた綱領、倫理性、そして倒錯まで・・・そのすべてが吉本によって否定できた。そうなれば、自分たちが新左翼学生運動から脱落したことは、残って闘い続けている学友に引け目を感じることなく、けして間違っていないのだ、という安堵感が得られた。学生運動から脱落し、生活者として市民社会に潜入することはいたしかたないのだ、“先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者を目指すことが解放なのだ”と。

図らずも、1970年以降、先鋭化した新左翼党派は、内ゲバ、リンチ殺人、爆弾闘争、無差別テロ等に進み、日本の反体制運動の歴史に例を見ない多くの犠牲者をだして自滅した。それは、ロシア・東欧におけるスターリン主義国家群の消滅より早かった。吉本隆明の指摘どおり、新左翼が反スターリニズムを掲げながら、旧左翼よりも急進的スターリン主義に染まっていたことは明らかだ。

さて、著者(鹿島 茂)の問題意識は初期の吉本隆明の転向論・ナショナリズム論の解説だけにあるわけではない。著者(鹿島 茂)の本書執筆の動機及び目指すものは、本書の最後の「少し長めのあとがき」において明かにされる。

著者(鹿島 茂)が目指す方法論は、自らが属している「団塊の世代」が起こした全共闘運動・新左翼運動を解き明かすことだということを、吉本の思想を絶賛した本文を終えた後の「少しながめのあとがき」において、エマニュエル・トッド、グナル・ハインゾーンという2人の人口動態学者の名前を挙げて、種明かしをする。

著者(鹿島 茂)は、吉本隆明の『日本のナショナリズム』の立論が、トッドやハインゾーンの方法論に偶然にも近いことを発見したのだと思う。吉本隆明の『日本のナショナリズム』では、明治、大正、昭和の大衆歌謡から、ときどきの大衆のエートスの変化が浮き彫りにされる。その変化とは以下のとおりとなる。

  • 明治期:欠乏の時代(近代の黎明期、貧困、封建遺制、農村・家・家族・人間関係における共同体は維持・継続)
  • 克苦勤勉、節約勤勉、立身出世、“お国のために”に、ナショナリズムが集中。
  • 大正期:現実喪失、現実乖離、幼児記憶の時代(資本主義の高度化、成熟期)。(明治期の家族的、農村共同体が崩壊したがゆえに、現実喪失、現実乖離し、幼児記憶として家族的農村共同体を感性でとらえかえす時期)
  • 昭和期:概念化の時代(大衆のナショナリズムが実感性を失い概念的な一般性に抽象化)

明治期、農村を逃れた日本の「近代人」は都市で、克苦勤勉、節約勤勉、立身出世、“お国のために”というナショナリズムで発露した。大正期になると、「近代人」は、逃れてきた農村の貧困の記憶、封建遺制、農村・家・家族・人間関係における共同体の体験は、幼児期の記憶や喪失感として現実乖離したものとする。さらに昭和期になると、「近代人ジュニア」にとって、親から聞かされた農村の共同体的生活が概念化=理想化され、ユートピア化する。これが、ウルトラナショナリズムとして結晶化(純化)する。農本ファシズムの成立である。ところが、農本ファシズムは、軍部・官僚の統制に基づく天皇制ファシズムに政治的には退けられ、精神的には取り込まれる。その結果完成したのが軍事ファシズムであり、軍事ファシズムの管理統制の下、日本は戦争になだれ込む。

戦後の団塊の世代の学生運動の高揚については、以下のような世代的変遷を辿る。
  • 戦前・戦中:戦前派世代(=団塊世代の親):、軍事ファシズム政権の下、天皇制ファシズム教育を受け従軍、戦争体験をする。
  • 戦後~30年代:敗戦後、戦前世代は復員。焼け跡、飢え、貧困下において生活を立て直す。アメリカ型民主主義教育開始。
  • 昭和40年代:戦後高度成長経済のもと、復員世代のジュニア(団塊の世代)が大学生に成長。識字率の高い高学歴層の出現。飢え、貧困は克服)
この団塊世代が過激な学生運動の主体、つまり、グナル・ハインゾーンがいうところのユース・バルジである。ユース・バルジとは、戦闘能力の高い15~25歳の青年層のこと。

本書では、吉本隆明の思想の解説と絶賛の終わりとともに、「団塊の世代とは何だったのか」という問いが始まり、“ユース・バルジ”という、あたかも宙吊りにされたかのような回答が現れ、終わってしまっている。もちろん、このエンディングは、著者(鹿島 茂)の続編の予告だと解釈できる。人口学、人口動態学を駆使した「団塊の世代論」に期待したい。