アメリカこそが、世界にとって問題となりつつある
「アメリカ合衆国は、世界にとって問題となりつつある。」(P19)本書はこう書き出されている。刊行は2002年9月、米国がイラク侵攻(2003年3月)を行う前の年に当たる。その前年に「9.11事件」があり、米国はアフガニスタン侵攻(2001年10月)を開始していて、イラク戦争準備中であった。
“テロとの闘い”に向けて高揚した米国のようすが世界中に報道されるなか、フランス人の著者(E・トッド)は、アメリカ・システムの崩壊を明言した。実際のところ、以降の米国は、2008年秋のサブプライム・ローン問題からリーマン・ショックに始まる経済危機に見舞われ、今日、その経済・社会は混迷を極めている。本書は、そういう意味で、「米国の没落=帝国以後」を予言した感がある。
2009年、ブッシュが退任し、オバマが国民の期待を集めて新しい大統領になったものの、いまのところ、オバマ大統領の内政・外交政策はあまり明確でなく、米国が真に「Change」したかどうかはよくわからない。本書に従い、1990年代から2001年の「9.11事件」に至る本書の分析を現段階で読み込むことは、過去の名著を読むことではない。本書は、米国=帝国の崩壊が明確になったいまだからこそ、改めて意義をもつ。
「9.11事件」発生後の世界については、冷戦時代と変わらず、米国の存在を抜きにして語ることはできない。米国は、その友好国に対して、共産主義国家群の脅威に代わって、テロリズム(概ねイスラム圏と規定)や、イラン、北朝鮮の脅威に備えて、協力して対峙しなければならないと主張し続けている。友好国である日本、西欧、オセアニア等の先進国は、そのことにほぼ同調してきた。
米国を考慮しない世界平和構築の道筋が描けないものの、だからといって、米国が世界にいくつか現存する脅威に対し、総括的(帝国として)に拮抗しながら、世界秩序を維持する者であり続ける(米国=帝国による世界統治)という見解も成り立たない、というのが、著者(E・トッド)の見方である。
自由主義的民主主義国間の戦争は不可能である
さて、著者(E・トッド)の世界観は、フランシス・フクヤマとマイケル・ドイルの立論に依拠している。フクヤマは、「歴史は意味=方向を持ち、その到達点は自由主義的民主主義の全世界化である」と、また、ドイルは、「自由主義的民主主義国間の戦争は不可能である」という法則を導いた。トッドは両者の法則に賛同しつつ、その動因として、「識字化と出産率の低下という2つの全世界的現象が、民主主義の全世界への浸透を可能にする。」(P62)という法則を導き出した。ただし、世界には識字化と出産率の低下が認められない地域が残っていて、しかも、高い識字率が社会に定着するまでの過渡期において、その社会は軋みのように、暴力、内乱等の発生を伴うとも言っている。この考え方は、ポーランドの人口動態学者グナル・ハインゾーンが唱えた、「ユース・バルジ」の概念に近い。だが、著者(E・トッド)の世界観からすると、世界は今後、いくつかの地域においてなんらかの軋み、痛みを伴いつつも、民主主義の浸透と定着に伴い、戦争の発生の少ない、安定化に向かうことになる。
ところが、米国、とりわけ、ブッシュ前大統領の時代においては、イラクに侵攻し、パレスチナにおけるイスラエル軍の暴力を容認し、イラン、北朝鮮に軍事介入をほのめかし、さらには、イスラム圏のウズベキスタンに米軍を駐留させ、アフガニスタン、パキスタンに対して警戒心を募らせた。さらに、タリバーン、アルカイーダといったグローバルなテロリズム勢力との間断のない闘いを掲げ、軍事的警戒を緩めないでいる。米国は、唯一の世界帝国として、今日、世界を脅かす「暴力」「テロリズム」と対峙する責任を全うするといい、その温床となる(と米国が規定する)イスラム国家に軍事的侵攻を準備し続けるのである。
帝国の崩壊――経済的依存、軍事的不十分性、普遍主義の後退
著者(E・トッド)は、帝国(米国)のシステム崩壊について、「経済的に依存し、軍事的には不十分、そして、普遍主義的感情の後退」(P176)という、3つの観点を挙げる。
(1)米国が抱える巨額の貿易赤字
米国経済が自ら生産することなく工業製品は輸入に依存し、貿易赤字に窮しつつ、2008年秋までは、順調のようにみえた。米国は消費国として、世界の工業国から製品を輸入し続けていた。米国経済の順調の要因について、著者(E・トッド)は、世界中の金融資本の流入の増大によって支えられてきたという。世界のマネーが、米国に流入する理由は、米国が安全な投資先であるという思い込みと、金持ちのための国家(米国)という仕組みによる。米国がつくりだした金融のルール、会計基準をもち、世界最大の軍事装置という切り札をもっているためでもある。
(2)演劇的軍事行動
米国が核保有を含み、世界で最強の軍備を誇るということは通説に近い。しかし、米国社会は、他国を守るための帝国の戦争遂行の結果として、若い米国民兵士の犠牲者を出し続けることを容認しない。著者(E・トッド)は、ベトナム戦争後の米国の軍事行動を、「演劇的」軍事行動と呼んでいる。第一次イラク戦争、アフガン侵攻、イラク侵攻もそうであった。「演劇的」軍事行動とは、米国が負ける(もしくは米軍兵士に多大の犠牲を出す)可能性のある勢力を相手に選ばないということである。現在のところ、米国が勝てる相手がイスラム圏である理由は、イスラム圏諸国の軍事力が極めて脆弱なためである。ブッシュ政権の時代、米国が敵視したのは、イラク、イラン、キューバ、北朝鮮等であるが、キューバ、北朝鮮は小国であり、イラクの軍事力は米国の軍事力と比較すれば非対称的である。核武装を終えたイランは、(今年の大統領戦後、都市の若者を中心に混乱がみられたものの)、基本的には安定化に向かっている。著者(E・トッド)にいわせれば、世界の脅威とはなりえない国々ばかりなのである。
(3)普遍主義の後退
「悪の帝国」とか「悪の枢軸」とか、その他諸々のこの地上の悪の化身についてのアメリカのレトリックは、あまりの馬鹿馬鹿しさで――時とその人の気質によって――笑わせもするだろうし怒鳴らせもする。しかしこれは冗談で済ますべきものではなく、真剣にその意味を解読しなければならない。それはアメリカの悪への脅迫観念を客観的に表現しているのだ。その悪は国外に対して告発されるが、現実にはアメリカ合衆国の内部から生まれているのだ。(P170)
では米国社会内部に生まれている悪とは何かということになる。それを一言で言えば、普遍主義の後退ということになる。≪帝国というものの本質的な強さの源泉の1つは、普遍主義という、活力の原理であると同時に安定性の原理でもあるもの、すなわち人間と諸民族を平等主義的に扱う能力である。(P146)
普遍主義の対極には、差異主義がある。差異主義がアングロ・サクソンの統治の仕方の特徴だという見方もあるし、著者(E・トッド)もそれを認めている。大英帝国ではそうであったと。しかし、著者(E・トッド)は、「アメリカのケースは、普遍主義と差異主義という対立競合する2つの原理に対するアングロ・サクソンの二面性を極端かつ病的な形で表現している」(P149)と断言する。
米国の歴史には常に他者が存在した。そして、それらを壊滅させるか隔離する。最初はインディアン(アメリカ先住民)、そして黒人である。インディアンと黒人を排斥することで、アイルランド人、ドイツ人、ユダヤ人、イタリア人移民が(アングロ・サクソンの)同等者に取り込まれた。そして、日系人(アジア)、ヒスパニック、アラブ人・・・が、順送りに排斥・統合されてきている。この差異主義が、黒人大統領・オバマによって断ち切られるかどうかは今後の動向を見なければ、なんともいえない。少なくともブッシュ政権までは、世界のイスラム諸国に向けられた敵意は、米国社会内部のアラブ人に向けられているものに同調している。第二次世界大戦中、日系人が強制収容所に隔離されたことと変わらない。
ユーラシアとアメリカ
著者(E・トッド)は、ユーラシア(旧大陸)とアメリカ(新大陸)が対立軸に至るとはいわないまでも、歴史の長短を指標に、相容れないものと感知しているかのように思う節がある。とりわけ、ロシアとヨーロッパの接近を予言し、現に本書刊行後、急速に両者は接近した。
一方、先のG8では日本とロシアの接近は阻まれ、「領土問題で進展なし」が大々的に報じられた。ロシアはいまだ、日本の敵なのである。だが、ヨーロッパに近づいたロシアを警戒する米国が、G8を舞台に両者を明確に切断した結果だといえなくもない。日本はいまだに、崩壊する帝国のよき僕である。
イスラム圏が識字化と出産率の低下という動因をもって安定化するのならば、自由主義的民主主義国家が世界を覆うことだろう。米国の軍事的役割は今以上に低下し、戦争のない世界が実現するのだ。そのときこそ、F・フクヤマの「歴史の終わり」がやってくることになる。