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よろしくお願いします。
2009年10月31日土曜日
2009年10月27日火曜日
魔術師マーリン
筆者は、テレビといえば、スポーツ、映画、ニュース・天気予報しか見ないのだが、最近、毎週見ようと思っている番組ができた。久々の「お気に入り」である。
その「お気に入り」は、『魔術師マーリン』(毎週月曜日午後8時、NHK衛星第2)。マーリンは、アーサー王伝説に登場する魔法使い。彼はアーサー王の危機を得意の魔術で、幾度となく救う。
さて、この連続テレビドラマは、キャメロット(アーサー王の城)を舞台に、ベンドラゴン一族(ウーサー王、王女モルガーナ、アーサー王子)、宮廷医師でマーリンの魔術の師匠ガイアス、マーリンに心を寄せるモルガーナの侍女ガウェイン、そして、アーサーに仕えるマーリンを登場人物とする、ホームドラマ仕立てになっている。
マーリンはしばしば、このドラマの中でもアーサー王(子)を助けるし、また、反対にアーサーに助けられることになっている。キャメロットを脅かすのは女魔術師で、彼女は黒魔術を駆使して、しばしば、キャメロットを危機に陥れる。マーリンとアーサーは、協力して、黒魔術を退ける。
しかし、いくつかあるアーサー王の物語(伝説)は、ホームドラマというわけにはいかない。不倫あり悲恋あり悲劇あり裏切りあり、の波乱万丈である。
さて、このテレビドラマでは、ウーサー王の統治する領土では「魔術」が禁止されている。だから、魔術を使った危機に対しても、ウーサー王は、ガイアスに対して、「科学的」にそれを解決させようと命ずるのである。それゆえ、ガイアスもマーリンも魔術を封印するのだが、結局は魔術には魔術で対抗することになる。筆者には、この筋書きがいかにも無理があるように思えるし、中世社会のおどろおどしさが薄れて、きわめて陳腐にうつる。
そればかりではない。また、しばしば、ウーサー王は息子アーサーに対して、統治とは、王道とは、国家(領地)とは・・・を説こうとする場面が出てくるのであるが、そうした場面は国会議員の「世襲問題」の馬鹿馬鹿しさが論じられるいまの日本において、はなはだ胡散臭い。この番組のマーリンは、近代化された魔術師マーリンである。だから、いくら、魔術がつくりだした怪物が出てきても、恐ろしくない。
などなど、いろいろと理屈でけちはつけられるのだが、ブリテン(英国)の地では、アーサー王伝説がいまなお伝えられ、生き続けていることが確認できるという意味で、筆者にとっては貴重なテレビドラマである。
その「お気に入り」は、『魔術師マーリン』(毎週月曜日午後8時、NHK衛星第2)。マーリンは、アーサー王伝説に登場する魔法使い。彼はアーサー王の危機を得意の魔術で、幾度となく救う。
さて、この連続テレビドラマは、キャメロット(アーサー王の城)を舞台に、ベンドラゴン一族(ウーサー王、王女モルガーナ、アーサー王子)、宮廷医師でマーリンの魔術の師匠ガイアス、マーリンに心を寄せるモルガーナの侍女ガウェイン、そして、アーサーに仕えるマーリンを登場人物とする、ホームドラマ仕立てになっている。
マーリンはしばしば、このドラマの中でもアーサー王(子)を助けるし、また、反対にアーサーに助けられることになっている。キャメロットを脅かすのは女魔術師で、彼女は黒魔術を駆使して、しばしば、キャメロットを危機に陥れる。マーリンとアーサーは、協力して、黒魔術を退ける。
しかし、いくつかあるアーサー王の物語(伝説)は、ホームドラマというわけにはいかない。不倫あり悲恋あり悲劇あり裏切りあり、の波乱万丈である。
さて、このテレビドラマでは、ウーサー王の統治する領土では「魔術」が禁止されている。だから、魔術を使った危機に対しても、ウーサー王は、ガイアスに対して、「科学的」にそれを解決させようと命ずるのである。それゆえ、ガイアスもマーリンも魔術を封印するのだが、結局は魔術には魔術で対抗することになる。筆者には、この筋書きがいかにも無理があるように思えるし、中世社会のおどろおどしさが薄れて、きわめて陳腐にうつる。
そればかりではない。また、しばしば、ウーサー王は息子アーサーに対して、統治とは、王道とは、国家(領地)とは・・・を説こうとする場面が出てくるのであるが、そうした場面は国会議員の「世襲問題」の馬鹿馬鹿しさが論じられるいまの日本において、はなはだ胡散臭い。この番組のマーリンは、近代化された魔術師マーリンである。だから、いくら、魔術がつくりだした怪物が出てきても、恐ろしくない。
などなど、いろいろと理屈でけちはつけられるのだが、ブリテン(英国)の地では、アーサー王伝説がいまなお伝えられ、生き続けていることが確認できるという意味で、筆者にとっては貴重なテレビドラマである。
2009年10月17日土曜日
あの素晴らしい愛をもう一度
ミュージシャンの加藤和彦が亡くなった。自殺だという。ご冥福をお祈りします。
デビューは3人組のグループで、「帰ってきたヨッパライ」という曲だった。CDのなかった時代、録音テープを早送りしたものだ。
自殺の理由はわからない。ただ、私のような凡人の目線からすれば、すべてをやりつくしたような人に見えた。
お金もたくさんあるのだろうし、のんびり暮らせばいいのにと思うのだが。
同世代のミュージシャンといえば、吉田拓郎などのフォーク歌手が思い出される。
けれど、加藤和彦は、フォークというカテゴリーにはおさまりきらない。
彼がやりたかったことと、いまの時代が求めているものは違うのかもしれない。でも・・・
デビューは3人組のグループで、「帰ってきたヨッパライ」という曲だった。CDのなかった時代、録音テープを早送りしたものだ。
自殺の理由はわからない。ただ、私のような凡人の目線からすれば、すべてをやりつくしたような人に見えた。
お金もたくさんあるのだろうし、のんびり暮らせばいいのにと思うのだが。
同世代のミュージシャンといえば、吉田拓郎などのフォーク歌手が思い出される。
けれど、加藤和彦は、フォークというカテゴリーにはおさまりきらない。
彼がやりたかったことと、いまの時代が求めているものは違うのかもしれない。でも・・・
2009年10月14日水曜日
2009年10月12日月曜日
『1968〈上下〉』
●小熊英二[著] ●新曜社 ●上下とも7,140円(税込)
党派闘争で100名を超える犠牲者
本書上下巻を通じて、著者(小熊英二)が触れなかった問題意識について、以下の事項を挙げておきたい。
特筆すべきは、新左翼・全共闘運動の死者の数である。本書にしばしば引用されている『新左翼とは何だったのか』(荒岱介[著]。以下、『新左翼とは~』と略記。)によると、新左翼・全共闘運動の内ゲバで死亡した人数は100人超に達するという。内訳を『新左翼とは~(P186)』から引用すると、中核派による革マル派殺害が48人、解放派による革マル派殺害が23人、革マル派による中核派・解放派両派殺害が15人、ブント系では連合赤軍のリンチ殺人を含めて15人、解放派内部の内内ゲバで10人の死者が出ているという。なお、筆者の想像にすぎないが、革共同両派(中核派-革マル派)の内ゲバの犠牲者は、ここに掲げられた数を上回っているものと思う。
世界の近現代史において、反体制運動内部の抗争によって100名を超える死者を出した運動というのは、新左翼・全共闘運動以外にあるのだろうか。少なくとも国内には見当たらない。異常である。
生活者に多数の死傷者を出した新左翼運動
次に特筆すべきは、一般生活者に犠牲者が及んだことである。代表例として、1974年8月30日の東アジア反日武装戦線「狼」班による三菱重工ビル爆破(三菱重工爆破事件)を挙げておく。この爆破で8名が死亡、385名が重軽傷を負った。類似の爆弾事件8件が起きている。これらの犯行は、新左翼・全共闘運動の延長線上であって、本書が扱う対象(1968年前後)から離れるという見方もあろうが、著者(小熊英二)の言う、「70年のパラダイム転換」に含まれるものと解釈する。
爆弾事件としては、1971年12月24日、東京都新宿区新宿三丁目の警視庁四谷署追分派出所付近にあった買い物袋に入れられた高さ50cmほどのクリスマスツリーに偽装された時限爆弾が爆発。警察官2人と通行人7人が重軽傷を負った。その後、黒ヘルグループのリーダーの鎌田俊彦が出頭し、事件の全容が明らかになった。鎌田俊彦に無期懲役が確定した。
日本国内ではないが、1972年、日本赤軍兵士・岡本公三ほか2名が、テルアビブ空港にて民間人を中心とした24人を虐殺した。パレスチナ問題はイスラエルと臨戦態勢にあるという見方もあるため、国内の事件とは同質には語れない面もあろうが、付記しておく。
活動家の死と闘争の激化
第三は、新左翼・全共闘運動が活動家の<死>を契機として、運動が激化したことである。
最初は、60年安保闘争における樺美智子の死である。1960年6月15日、全学連主流派(ブント)の東大生樺美智子は、国会突入時に機動隊と衝突し死亡した。一人の女子大生の死は、新左翼学生運動の黎明期を象徴するものである。
二番目の死者は、1965年の奥浩平の自殺である。奥浩平については、本書上巻に詳しいので詳述はしないが、奥は中核派の活動家で1965年2月、羽田で行われた椎名悦三郎外相訪韓阻止闘争で警官隊と衝突し、警棒で鼻骨を砕かれ負傷、入院。退院後の3月6日、自宅で大量の睡眠薬を服用して自殺した(21歳)。高校時代からの恋人は、早稲田大学入学後に革マル派に所属し、党派間抗争の激化とともに別離に至った。自殺の原因のひとつとして、このことに対する苦悩が挙げられる。奥の手記『青春の墓標』は、奥の死後、広く新左翼活動家の間で読まれた。
三番目の死者は、1967年の京大生山崎博昭(中核派)の死である。1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するため中核派、社学同、解放派からなる三派全学連を中心とする部隊は羽田周辺に集結した。このとき、新左翼は、はじめてヘルメットと角材で武装した。この闘争では死者1人、重軽傷者600人あまり、逮捕者58人が出た。街頭での反体制運動で死者がでたのは、60年安保闘争時の樺美智子以来のことで、社会に多大の衝撃を与え、同時に警察力に押え込まれ沈滞していた学生運動が再び高揚する契機となった。 以後、ヘルメットとゲバ棒で武装した新左翼のデモ隊と機動隊との激しいゲバルトが一般化した。佐世保、三里塚、王子と、本書では「激動の7ヵ月」といわれる大闘争が連続的に闘われることになる。有名な全共闘の闘争スタイルも、直接のルーツはこの10.8闘争にあるとされ、67年10月8日は革命的左翼誕生の日として新左翼史上特筆される。山崎博昭の死に触発されて、多くの学生が新左翼運動に参加した。
四番目の死は、1969年4月20日の華青闘活動家・李智成(台湾籍)の出入国管理法案に対する抗議の服毒自殺である。本書下巻では、李の死を「70年のパラダイム転換」として特別に扱っている。李の死を伴った抗議が1970年7月7日の華青闘による新左翼批判に結実し、自己批判した新左翼は、以後、マイノリティー(在日アジア人、沖縄問題、同和問題、リブ等)解放闘争を開始するとともに、新左翼の倫理主義的傾向(加害者意識、内なる差別)を加速させた。
五番目の死は、1969年7月のブント赤軍派の同志社大生・望月上史の死である。1969年7月6日、ブント内の赤軍派と主流派である仏(さらぎ)派との衝突後、主流派により中大内に監禁暴行されていた赤軍派・望月上史が逃亡の途中、中大校舎3階から転落、29日に死亡した。内ゲバによる初の死者である。赤軍派は、その登場から、死者を伴うものだった。
六番目の死は、1970年8月4日の革マル派学生・海老原俊夫の死である。革共同中核派の一団が、対立する革共同革マル派の教育大生・海老原俊夫を法政大学に連れ込み、先に被ったリンチの報復として、海老原を死に至らしめた。以降、新左翼各派の内ゲバは激化し、前出の『新左翼とは~』のとおりの死者数を出す契機となってしまった。
七番目の死は、1970年12月18日、日本共産党革命左派(以下、「革命左派」と略記。)・柴野春彦による東京・板橋の上赤塚署交番襲撃における死である。柴野は交番襲撃に失敗し、警官に銃殺された。革命左派は後にブント赤軍派と合体して連合赤軍を形成したが、この死は、革命左派の武装路線を運命づけたものだった。
八番目の死は、1971年8月3日~10日、連合赤軍からの脱退を意思表示した、早岐やす子と向山茂徳の処刑である。2人の処刑の経緯等は本書下巻に詳しいのでここには書かないが、この処刑が連合赤軍の山岳アジト総括リンチ殺人の直接的契機となったという。
権力側の死亡者
新左翼・全共闘運動における警備側の死は、日大闘争で起きている。1968年9月29日、先の4日の衝突の際に全共闘側の投石により頭部重症を負った機動隊員西条秀雄が死亡した。
三里塚闘争では、1971年9月の第二次代執行では警察官3名が死亡し(東峰十字路事件)た。なお、1977年5月8日、鉄塔の撤去に抗議する反対派と機動隊が衝突し、機動隊員の放ったガス弾を至近距離で頭部に受けた支援者の東山薫は5月10日に死亡した。
1972年2月19日に始まる、連合赤軍による「浅間山荘」銃撃戦において、機動隊員2名、民間人1名が死亡した。これらの死者が、前出の著者(小熊英二)の“要因”におさまるものなのか。
演劇的革命闘争とメディアの影響
新左翼・全共闘運動が、日本の全大学生数の1割にも満たない者によって担われながら、全国の大学に波及したのか。その回答として(想像にすぎないが)、テレビ等のマスメディアの普及を挙げておきたい。新左翼党派の「革命理論」は、原理主義的マルクス・レーニン主義であった。新左翼を代表する2つの党派の1つブントの場合、67年10.21羽田闘争から1969年秋の「決戦」に至るまで、1960年安保闘争で獲得した一揆主義(行動主義)から一歩も進歩していない。また、革命的共産主義者同盟中核派においても同様である。彼らの戦略は、スケジュール化された街頭闘争において機動隊と衝突し、マスコミ報道があれば、労働者が覚醒し革命が近づくというものであった。革マル派の場合は、日本共産党に代わる、反帝国主義・反スターリン主義を綱領とした前衛党建設に運動を一元化したものの、彼らが建設せんとした「革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」は、オールド左翼以上のスターリン主義政党であった。
しかし、新左翼の実態はともかくとして、本書が命名した「激動の7ヶ月」における三派系全学連と機動隊が衝突する映像がテレビを通じて全国に流れたとき、そして、彼らの「純粋性」が雑誌等を通じて全国に流通したとき、多くの意識的学生が心を惹かれたのである。ブントの一揆主義=演劇的武装闘争が市民権を得て、若者の心を捉えたのである。
学園闘争=全共闘運動はその始原においては、本書が明らかにしたように、地味な学内民主化運動、施設改善運動であった。しかし68年、日大闘争、東大闘争にスポットが浴びて全国に伝えられたとき、やはり、多くの若者の心を捉えたのである。そのとき、「自己否定」という倫理が若者の心を捉えたのである。69年1月、東大安田講堂攻防戦の落城までの模様が全国にテレビ中継されたとき、演劇的武装闘争は頂点に達し、全国の大学生のみならず受験生までもが、全共闘運動に興味を覚え、その年の4月以降、運動は全国化したのである。
残念ながら、街頭と学園の演劇的武装闘争は67年の秋から69年の秋まで繰り返され、結局その限界が自覚された69年末から70年代、新左翼党派は、倫理主義、決意主義のリゴリズムを強め、空想的革命戦争論へと傾斜した。本書のいう“パラダイムシフト”が始まったのである。赤軍派、革命左派、爆弾グループへと引き継がれ、最後は破滅したのである。
倫理的な痩せ細りの嘘くらべ
以下の吉本隆明の記述(「情況への発言」1984年5月『情況へ』収録)は、『吉本隆明1968』(鹿島茂[著])からの孫引き引用である。
党派闘争で100名を超える犠牲者
本書上下巻を通じて、著者(小熊英二)が触れなかった問題意識について、以下の事項を挙げておきたい。
特筆すべきは、新左翼・全共闘運動の死者の数である。本書にしばしば引用されている『新左翼とは何だったのか』(荒岱介[著]。以下、『新左翼とは~』と略記。)によると、新左翼・全共闘運動の内ゲバで死亡した人数は100人超に達するという。内訳を『新左翼とは~(P186)』から引用すると、中核派による革マル派殺害が48人、解放派による革マル派殺害が23人、革マル派による中核派・解放派両派殺害が15人、ブント系では連合赤軍のリンチ殺人を含めて15人、解放派内部の内内ゲバで10人の死者が出ているという。なお、筆者の想像にすぎないが、革共同両派(中核派-革マル派)の内ゲバの犠牲者は、ここに掲げられた数を上回っているものと思う。
世界の近現代史において、反体制運動内部の抗争によって100名を超える死者を出した運動というのは、新左翼・全共闘運動以外にあるのだろうか。少なくとも国内には見当たらない。異常である。
生活者に多数の死傷者を出した新左翼運動
次に特筆すべきは、一般生活者に犠牲者が及んだことである。代表例として、1974年8月30日の東アジア反日武装戦線「狼」班による三菱重工ビル爆破(三菱重工爆破事件)を挙げておく。この爆破で8名が死亡、385名が重軽傷を負った。類似の爆弾事件8件が起きている。これらの犯行は、新左翼・全共闘運動の延長線上であって、本書が扱う対象(1968年前後)から離れるという見方もあろうが、著者(小熊英二)の言う、「70年のパラダイム転換」に含まれるものと解釈する。
爆弾事件としては、1971年12月24日、東京都新宿区新宿三丁目の警視庁四谷署追分派出所付近にあった買い物袋に入れられた高さ50cmほどのクリスマスツリーに偽装された時限爆弾が爆発。警察官2人と通行人7人が重軽傷を負った。その後、黒ヘルグループのリーダーの鎌田俊彦が出頭し、事件の全容が明らかになった。鎌田俊彦に無期懲役が確定した。
日本国内ではないが、1972年、日本赤軍兵士・岡本公三ほか2名が、テルアビブ空港にて民間人を中心とした24人を虐殺した。パレスチナ問題はイスラエルと臨戦態勢にあるという見方もあるため、国内の事件とは同質には語れない面もあろうが、付記しておく。
活動家の死と闘争の激化
第三は、新左翼・全共闘運動が活動家の<死>を契機として、運動が激化したことである。
最初は、60年安保闘争における樺美智子の死である。1960年6月15日、全学連主流派(ブント)の東大生樺美智子は、国会突入時に機動隊と衝突し死亡した。一人の女子大生の死は、新左翼学生運動の黎明期を象徴するものである。
二番目の死者は、1965年の奥浩平の自殺である。奥浩平については、本書上巻に詳しいので詳述はしないが、奥は中核派の活動家で1965年2月、羽田で行われた椎名悦三郎外相訪韓阻止闘争で警官隊と衝突し、警棒で鼻骨を砕かれ負傷、入院。退院後の3月6日、自宅で大量の睡眠薬を服用して自殺した(21歳)。高校時代からの恋人は、早稲田大学入学後に革マル派に所属し、党派間抗争の激化とともに別離に至った。自殺の原因のひとつとして、このことに対する苦悩が挙げられる。奥の手記『青春の墓標』は、奥の死後、広く新左翼活動家の間で読まれた。
三番目の死者は、1967年の京大生山崎博昭(中核派)の死である。1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するため中核派、社学同、解放派からなる三派全学連を中心とする部隊は羽田周辺に集結した。このとき、新左翼は、はじめてヘルメットと角材で武装した。この闘争では死者1人、重軽傷者600人あまり、逮捕者58人が出た。街頭での反体制運動で死者がでたのは、60年安保闘争時の樺美智子以来のことで、社会に多大の衝撃を与え、同時に警察力に押え込まれ沈滞していた学生運動が再び高揚する契機となった。 以後、ヘルメットとゲバ棒で武装した新左翼のデモ隊と機動隊との激しいゲバルトが一般化した。佐世保、三里塚、王子と、本書では「激動の7ヵ月」といわれる大闘争が連続的に闘われることになる。有名な全共闘の闘争スタイルも、直接のルーツはこの10.8闘争にあるとされ、67年10月8日は革命的左翼誕生の日として新左翼史上特筆される。山崎博昭の死に触発されて、多くの学生が新左翼運動に参加した。
四番目の死は、1969年4月20日の華青闘活動家・李智成(台湾籍)の出入国管理法案に対する抗議の服毒自殺である。本書下巻では、李の死を「70年のパラダイム転換」として特別に扱っている。李の死を伴った抗議が1970年7月7日の華青闘による新左翼批判に結実し、自己批判した新左翼は、以後、マイノリティー(在日アジア人、沖縄問題、同和問題、リブ等)解放闘争を開始するとともに、新左翼の倫理主義的傾向(加害者意識、内なる差別)を加速させた。
五番目の死は、1969年7月のブント赤軍派の同志社大生・望月上史の死である。1969年7月6日、ブント内の赤軍派と主流派である仏(さらぎ)派との衝突後、主流派により中大内に監禁暴行されていた赤軍派・望月上史が逃亡の途中、中大校舎3階から転落、29日に死亡した。内ゲバによる初の死者である。赤軍派は、その登場から、死者を伴うものだった。
六番目の死は、1970年8月4日の革マル派学生・海老原俊夫の死である。革共同中核派の一団が、対立する革共同革マル派の教育大生・海老原俊夫を法政大学に連れ込み、先に被ったリンチの報復として、海老原を死に至らしめた。以降、新左翼各派の内ゲバは激化し、前出の『新左翼とは~』のとおりの死者数を出す契機となってしまった。
七番目の死は、1970年12月18日、日本共産党革命左派(以下、「革命左派」と略記。)・柴野春彦による東京・板橋の上赤塚署交番襲撃における死である。柴野は交番襲撃に失敗し、警官に銃殺された。革命左派は後にブント赤軍派と合体して連合赤軍を形成したが、この死は、革命左派の武装路線を運命づけたものだった。
八番目の死は、1971年8月3日~10日、連合赤軍からの脱退を意思表示した、早岐やす子と向山茂徳の処刑である。2人の処刑の経緯等は本書下巻に詳しいのでここには書かないが、この処刑が連合赤軍の山岳アジト総括リンチ殺人の直接的契機となったという。
権力側の死亡者
新左翼・全共闘運動における警備側の死は、日大闘争で起きている。1968年9月29日、先の4日の衝突の際に全共闘側の投石により頭部重症を負った機動隊員西条秀雄が死亡した。
三里塚闘争では、1971年9月の第二次代執行では警察官3名が死亡し(東峰十字路事件)た。なお、1977年5月8日、鉄塔の撤去に抗議する反対派と機動隊が衝突し、機動隊員の放ったガス弾を至近距離で頭部に受けた支援者の東山薫は5月10日に死亡した。
1972年2月19日に始まる、連合赤軍による「浅間山荘」銃撃戦において、機動隊員2名、民間人1名が死亡した。これらの死者が、前出の著者(小熊英二)の“要因”におさまるものなのか。
演劇的革命闘争とメディアの影響
新左翼・全共闘運動が、日本の全大学生数の1割にも満たない者によって担われながら、全国の大学に波及したのか。その回答として(想像にすぎないが)、テレビ等のマスメディアの普及を挙げておきたい。新左翼党派の「革命理論」は、原理主義的マルクス・レーニン主義であった。新左翼を代表する2つの党派の1つブントの場合、67年10.21羽田闘争から1969年秋の「決戦」に至るまで、1960年安保闘争で獲得した一揆主義(行動主義)から一歩も進歩していない。また、革命的共産主義者同盟中核派においても同様である。彼らの戦略は、スケジュール化された街頭闘争において機動隊と衝突し、マスコミ報道があれば、労働者が覚醒し革命が近づくというものであった。革マル派の場合は、日本共産党に代わる、反帝国主義・反スターリン主義を綱領とした前衛党建設に運動を一元化したものの、彼らが建設せんとした「革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」は、オールド左翼以上のスターリン主義政党であった。
しかし、新左翼の実態はともかくとして、本書が命名した「激動の7ヶ月」における三派系全学連と機動隊が衝突する映像がテレビを通じて全国に流れたとき、そして、彼らの「純粋性」が雑誌等を通じて全国に流通したとき、多くの意識的学生が心を惹かれたのである。ブントの一揆主義=演劇的武装闘争が市民権を得て、若者の心を捉えたのである。
学園闘争=全共闘運動はその始原においては、本書が明らかにしたように、地味な学内民主化運動、施設改善運動であった。しかし68年、日大闘争、東大闘争にスポットが浴びて全国に伝えられたとき、やはり、多くの若者の心を捉えたのである。そのとき、「自己否定」という倫理が若者の心を捉えたのである。69年1月、東大安田講堂攻防戦の落城までの模様が全国にテレビ中継されたとき、演劇的武装闘争は頂点に達し、全国の大学生のみならず受験生までもが、全共闘運動に興味を覚え、その年の4月以降、運動は全国化したのである。
残念ながら、街頭と学園の演劇的武装闘争は67年の秋から69年の秋まで繰り返され、結局その限界が自覚された69年末から70年代、新左翼党派は、倫理主義、決意主義のリゴリズムを強め、空想的革命戦争論へと傾斜した。本書のいう“パラダイムシフト”が始まったのである。赤軍派、革命左派、爆弾グループへと引き継がれ、最後は破滅したのである。
倫理的な痩せ細りの嘘くらべ
以下の吉本隆明の記述(「情況への発言」1984年5月『情況へ』収録)は、『吉本隆明1968』(鹿島茂[著])からの孫引き引用である。
こういう相も変わらずの〈倫理的な痩せ細りの嘘くらべ〉の論理で、黒田喜夫はいったい何をいいたいんだ。また、何もののために、何を擁護したいんだ。(中略)われわれが「左翼」と称するもののなかで、良心と倫理の痩せくらべをどこまでも自他に脅迫しあっているうちに、ついに着たきりスズメの人民服や国民服を着て、玄米食に味噌と野菜を食べて裸足で暮らして、24時間一瞬も休まず自己犠牲に徹して生活している痩せた聖者の虚像が得られる。そして、その虚像は民衆の解放ために、民衆を強制収容したり、虐殺したりしはじめる。はじめの倫理の痩せ方根底的に駄目なんだ。そしてその嘘の虚像にじぶんの生きざまがより近いと思い込んでいる男が、そうでない「市民社会」に「狂気にも乞食にも犯罪者にもならず生きて在る」男はもちろん、それにじぶんよりも近い生活をしている男を、倫理的に脅迫する資格があると思い込み、嘘のうえに嘘を重ねていく。この倫理的な痩せ細り競争の嘘と欺瞞がある境界を超えたときどうなるか。もっとも人民大衆解放に忠実に献身的に殉じているという主観的おもい込みが、もっとも大規模に人民大衆の虐殺と強制収容所と弾圧に従事するという倒錯が成立する。これがロシアのウクライナ共和国の大虐殺や、強制収容所から、ポル・ポトの民衆虐殺までのいわゆる「ナチスよりひどい」歴史の意味するところだ。そしてこの倒錯の最初の起源が、じつに黒田喜夫のような良心と苦悶の表情の競いあいの倫理にあることはいうまでもない。(中略)幸福そうな市民たち(いいかえれば先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者)が大多数を占めるようになることが解放の理想であり、着たきりの人民服や国民服を着て玄米食と味噌を食っている凄みのある清潔な倫理主義者が、社会を覆うのが理想でも解放でもない。それは途方もない倒錯だ。黒田喜夫におれのいうことがわかるか。おれたちが何を打とうとしているか、消滅させなければならないのが、どんな倒錯の倫理と理念だとおもってたたかっているのかがわかるか(P417~P418)
吉本隆明が批判した詩人の黒田喜夫は新左翼の活動家ではない。だがしかし、新左翼・全共闘運動の活動家、とりわけ、連合赤軍の活動家の実態が記された本書下巻を読むとき、両者がそっくり重なってしまうのである。吉本隆明は、“解放の理想とは、幸福そうな市民たち(いいかえれば先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者)が大多数を占めるようになること”だと看破した。
吉本隆明に従えば、新左翼・全共闘運動の活動家が運動から離脱し、企業に就職していったのは、中級の経済的・文化的な消費生活が獲得されたことを確認したからだろうか、倒錯の倫理、理念から逃れて・・・
吉本隆明に従えば、新左翼・全共闘運動の活動家が運動から離脱し、企業に就職していったのは、中級の経済的・文化的な消費生活が獲得されたことを確認したからだろうか、倒錯の倫理、理念から逃れて・・・
『1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産』
●小熊英二[著] ●新曜社 ●7,140円(税込)
□党派に吸収された全共闘活動家
下巻は、新左翼・全共闘運動の後退局面からその終焉が扱われている。学生叛乱の後退は、1968年「10.21国際反戦デー」からだという。同闘争では、社学同が防衛庁(当時六本木)に向かい、丸太を抱えて正門に突入を繰り返し機動隊と衝突、中核派等は米軍燃料輸送阻止をスローガンにして、新宿駅占拠を狙って機動隊と衝突、その騒ぎに集まった野次馬、群衆がなだれ込み、騒乱罪が適用されるほどの盛り上がりを見せた。同闘争に取り組んだ新左翼各派は、この派手な予想外の“騒乱”を「大勝利」と総括した。
しかし、実際には、これを期に政府の治安対策が強化されるとともに、マスコミ論調も「新左翼暴力批判」を強め、世間の「新左翼離れ」を加速したという。翌年1月の東大安田講堂攻防戦を境にして、4月28日の沖縄闘争をはじめ、党派による政治(街頭)闘争は成果を上げられず、重装備の機動隊によって、完全に抑え込まれた。1969年は、新左翼・全共闘が転換を強いられた年だという。
新左翼党派は、1969年秋の佐藤(当時首相)訪米阻止闘争(70年安保決戦)を「階級決戦」と位置づけた。9月の全国全共闘結成を契機として、学園闘争のヘゲモニーを掌握、ノンセクト全共闘活動家に対し、階級決戦への参加を呼びかけた。そのころ、期を一にして、学園闘争(バリケード闘争)は党派の侵食に伴い学生大衆は離脱し、ノンセクト学生は党派に吸収され、全共闘運動は形骸化していった。全共闘運動の黄昏である。
11月決戦当日、全国の全共闘を糾合した新左翼(革マル派を除く)のデモ隊は、羽田空港に近づくこともできず、待ち構えた機動隊・自警団の反撃により敗走し、多くの逮捕者を出しただけで撤退を余儀なくされ、「決戦」は新左翼側の敗北に終わった。67年10.8羽田闘争で開始されたゲバ棒、ヘルメットの新左翼の街頭闘争は事実上、終焉した。
□極限的倫理主義、武装闘争、憎悪(内ゲバ殺人)
1969年秋をもって党派に吸収された全共闘学生には、帰る場所はなかった。バリケードは解除され、学園は表向けの平常さを取り戻した。しかし、全共闘運動は終わったが、新左翼の革命闘争は終わらなかった。著者(小熊英二)は、この先の展開を、「70年のパラダイム転換」と命名している。
「70年代のパラダイム転換」は、それまで新左翼党派が関心を示さなかった、新たな政治課題への取り組みから始まったという。一般には、69年の「決戦」敗北後、新左翼党派の動きとして、爆弾闘争、赤軍派(よど号ハイジャック等)、パレスチナ解放闘争、内ゲバ殺人、連合赤軍事件(浅間山荘事件、総括殺人)へと向かうと考えられているが、本書は、そうした過激な傾向へと向かう動きと従前の新左翼・全共闘運動の中間項として、▽華僑青年闘争委員会(華青闘)による入管法反対闘争に代表される、アジア人差別・抑圧問題、▽沖縄問題、▽同和問題、リブ闘争――といった倫理的闘争の台頭を挙げている。これらの取り組みが、「決戦」後の新左翼活動家の倫理面を強く揺さぶった点を本書は強調している。本書の該当部分を引用して、説明しておきたい。
「決戦」に敗退し学園を追われた学生活動家は、取り組むべき政治的課題を見失い、茫然自失状態にあったという。そこに現れたのが、在日のアジア人や同和問題における被差別者からの問題提起であった。新左翼はこうした課題に取り組みはしたものの、中途半端に終始した。新左翼党派の無理解に対し、在日のアジア人活動家は激烈な批判を加えた。その批判とは、新左翼各派は在日のアジア人民を抑圧・差別する側にあるという告発であった。そして、69年には華青闘活動家の李智成が、自らの死をもって入管法に抗議をした。この事件は、当時も今もあまり知られていないが、本書を読むと、70年代に過激化した新左翼の武装闘争を促す直接的な契機となったことがうかがえる。新左翼活動家は、彼らの本気度に、怯えに近いものを感じたという。
つまりこういうことだ。日本はアジア太平洋戦争において近隣アジア諸国を侵略・蹂躙し、虐殺、奴隷化した。しかし、米軍(連合軍)の軍事力の前に屈した日本は敗戦国となった。しかし現在(当時)、日本国内には多数の在日アジア民族が戦時中、彼らの祖国から拉致・連行され、日本に住み代を重ねている。そして、敗戦国でありながら日本(人)は経済的繁栄を回復した一方、彼らを差別し抑圧し続けている。日本人は敗戦国被害者として戦後ふるまってきたけれど、実は戦中において加害者であり、敗戦後も加害者であり続けている――このような告発は、ベトナム戦争加担の論理よりもはるかにリアリティがあり、かつ、激烈な自己否定を多感で良心的な若者に迫るものだった。
そこから生じた倫理的反体制運動の新潮流は、既存の新左翼党派批判、非合法武力闘争路線、脱マルクス・レーニン主義の流れを形成し、その代表が手製爆弾闘争を実行した、東アジア反日武装戦線(大地の牙、狼、さそり)等のアナーキーな小集団であった。後に赤軍派と合体する日本共産党革命左派(京浜安保共闘)もこのような流れに属していた。小集団の過激なゲリラ的武装(爆弾)闘争は、新左翼党派にも影響を与えた。
同じ頃、新左翼党派においては、武装闘争路線が模索されており、69年9月、共産同赤軍派が革命戦争勝利、非合法武装闘争路線を掲げ、ブントから独立を宣言していた。69年11月の「決戦」における事実上の敗北を受けて、新左翼各派の内部に爆弾等の殺人兵器を製造・使用を目的化した、非合法部隊が創設された。ゲバ棒、ヘルメットの街頭闘争が抑え込まれた以上、武器をエスカレートする以外にない、というのが新左翼の総括であったという。
同時に、活動家の倫理性と純粋性が内ゲバの激化となって表象した。運動方針でことごとく対立したセクト同士の内ゲバで死者が出ることが珍しくなくなった。とりわけ革共同の革マル派vs中核派の内ゲバは陰惨を極めた。
□連合赤軍―倫理主義と軍事路線の不幸な合体
日本共産党革命左派(以下、「革命左派」という。)とブント赤軍派の結合は、不幸な合体であった。前者は新左翼党派のマルクス・レーニン主義革命理論とは相対的独自に集結した、しかも、自己否定、倫理主義を極限的に追及した者が構成する小グループであった。彼らの特徴は、銃=武器による暴力革命を志向する点にあった。彼らが武装蜂起をしたとしても、その後、労働者、農民とどのように連帯していくのかについては、一切明らかにされていなかったが。
彼らは前出の在日アジア人問題や被差別問題への取り組みを綱領としてはいなかったが、同派に結集した活動家のメンタリティーは、極めて倫理的であることがわかっている。
また、後者は、赤軍派指導者の過半が前段階蜂起準備中に官憲に事前検束され、しかも、残りのメンバーの指導者も日航よど号ハイジャック事件で国外逃亡していることもあり、闘争経験及び指導者の資質において劣る者(森恒夫)が残された活動家を束ねる必要に迫られた。その結果、武装闘争路線という一点において、両者が共闘を協議する機会をもったとき、前者の唯武器主義路線と純粋な倫理性という二点において、赤軍派は革命左派側に主導権を奪われることとなったのではないか。
本書では、連合赤軍による、山岳アジト総括リンチ事件について、多くの資料の読み込むことにより、その解明を試みている。著者(小熊英二)は、連合赤軍の悲劇を指導者の卑小な自己保身から生じたという趣旨の結論を引き出している。一方、この事件を知った新左翼・全共闘活動家及び知識人は、それとは異なる質の衝撃をもって受け止めた。多くの者は、この悲劇をスターリニズムの問題として考え、新左翼・全共闘運動から離脱した。
□著者(小熊英二)の“結論”について
著者(小熊英二)は本書下巻の「結論」において、1968年前後の学生叛乱の要因を、(一)大学生数の急増と大衆化、(二)高度成長による社会変動、(三)戦後の民主教育の下地、(四)若者のアイデンティティ・クライシスと「現代的不幸」からの脱却願望――の4点に要約している。そして、それらに新左翼の原理主義的マルクス・レーニン主義が融合したのだと。この結論に異議を挟むつもりはないし、当時の新左翼・全共闘運動とはそのようなものだったと思う。
1968年前後の叛乱に関わった学生たちの参加動機を示すキーワードとして、主体性、実存、自己否定、加害者意識、良心、反戦、疎外(の克服)、自分探し、現代的不幸(の克服)・・・といった、倫理観に近いイメージを列挙している。街頭闘争に参加した者にとって機動隊との衝突は実存の確認であり、ゲバ棒を振り下ろすことが主体性の確立であり、学園闘争におけるバリケード空間は自己解放、人間性の回復、真の学問の復権であり、全共闘運動による大学解体は、自己否定、加害者意識(の克服)といった具合である。
一方の新左翼党派にとっては、全共闘が運動の前面に押し出した“自己否定”は、プチプル急進主義であり、党派が目指す「革命的共産主義者」「プロレタリア的人間」「革命戦士」への飛躍こそが重要であると認識された。党派は、善良でナイーブ(うぶ)な学生大衆に対し、「プロレタリア的人間」へと飛躍するのか、それとも、「プチプル急進主義者」にとどまるのか、二者択一を迫った。
著者(小熊英二)が指摘するように、当時の大学とは(いまもそうかもしれないが)、冷たいコンクリートの塊のような校舎が林立し、その中の大教室で教授が棒読みの「講義」を行っていた。学生同士が、例えば、ベトナム戦争等の諸問題を議論する空間すら用意されていなかった。受験勉強を終え、大学に過剰な幻想を抱いて入学した学生に対し、大学が提供できるものは何もなかった。
上巻にあるとおり、そうした情況において、意識的学生はまず学費値上げ反対という学内闘争という形で叛乱を起こした。学内闘争には限界があるものの、日大、東大のように、社会的に大きな関心を呼び起こすものもあった。
そこに目をつけた党派は――彼らは1969年秋を「階級決戦」と位置づけていたのだが――学内に潜り込み、意識的学生大衆を組織化しようとした。党派のオルグが良心的学生に対して発した問いかけ(=世直し)が、有効性をもたないわけがなかった。“良心”を宿した“純粋”な学生たちは、入学早々、官憲が学内に導入される実態を目撃し、合法的街頭デモに参加すれば機動隊に蹴られ殴られ、「階級的暴力=機動隊」という抑圧者を明確に認識することはたやすい。そればかりか、地方から都会の大学に進学した者には、都会生活への順応のしにくさという感性が、疎外という概念と同義となった可能性もある。こうして蓄積された反体制的エネルギーが、階級意識や自己否定論、体制変革に向かった可能性を否定のしようもない。
だがしかし、“良心”を宿した“純粋”な学生たちが社会に対して抵抗したり、苦悩したりするのは、この時代に限ったことではない。古くは、『二十歳のエチュード』(原口統三)、『巌頭之感』(藤村操)など、“青春の書”と呼ばれる著作は枚挙に暇がない。本題の1968年前後の叛乱の主役たち(学生大衆)の心情と大きな隔たりはないのではないか。でも、この時代の若者は、結局のところ、新左翼党派の革命理論(革命言語)に吸収されてしまった。著者(小熊英二)が言うように、若者が自らの言葉を持たず、新左翼の革命言語に拠って自らを語り、行動しなければならなかった。
次に、本書が触れなかった視点から、新左翼・全共闘運動を振り返ってみたい。
□党派に吸収された全共闘活動家
下巻は、新左翼・全共闘運動の後退局面からその終焉が扱われている。学生叛乱の後退は、1968年「10.21国際反戦デー」からだという。同闘争では、社学同が防衛庁(当時六本木)に向かい、丸太を抱えて正門に突入を繰り返し機動隊と衝突、中核派等は米軍燃料輸送阻止をスローガンにして、新宿駅占拠を狙って機動隊と衝突、その騒ぎに集まった野次馬、群衆がなだれ込み、騒乱罪が適用されるほどの盛り上がりを見せた。同闘争に取り組んだ新左翼各派は、この派手な予想外の“騒乱”を「大勝利」と総括した。
しかし、実際には、これを期に政府の治安対策が強化されるとともに、マスコミ論調も「新左翼暴力批判」を強め、世間の「新左翼離れ」を加速したという。翌年1月の東大安田講堂攻防戦を境にして、4月28日の沖縄闘争をはじめ、党派による政治(街頭)闘争は成果を上げられず、重装備の機動隊によって、完全に抑え込まれた。1969年は、新左翼・全共闘が転換を強いられた年だという。
新左翼党派は、1969年秋の佐藤(当時首相)訪米阻止闘争(70年安保決戦)を「階級決戦」と位置づけた。9月の全国全共闘結成を契機として、学園闘争のヘゲモニーを掌握、ノンセクト全共闘活動家に対し、階級決戦への参加を呼びかけた。そのころ、期を一にして、学園闘争(バリケード闘争)は党派の侵食に伴い学生大衆は離脱し、ノンセクト学生は党派に吸収され、全共闘運動は形骸化していった。全共闘運動の黄昏である。
11月決戦当日、全国の全共闘を糾合した新左翼(革マル派を除く)のデモ隊は、羽田空港に近づくこともできず、待ち構えた機動隊・自警団の反撃により敗走し、多くの逮捕者を出しただけで撤退を余儀なくされ、「決戦」は新左翼側の敗北に終わった。67年10.8羽田闘争で開始されたゲバ棒、ヘルメットの新左翼の街頭闘争は事実上、終焉した。
□極限的倫理主義、武装闘争、憎悪(内ゲバ殺人)
1969年秋をもって党派に吸収された全共闘学生には、帰る場所はなかった。バリケードは解除され、学園は表向けの平常さを取り戻した。しかし、全共闘運動は終わったが、新左翼の革命闘争は終わらなかった。著者(小熊英二)は、この先の展開を、「70年のパラダイム転換」と命名している。
「70年代のパラダイム転換」は、それまで新左翼党派が関心を示さなかった、新たな政治課題への取り組みから始まったという。一般には、69年の「決戦」敗北後、新左翼党派の動きとして、爆弾闘争、赤軍派(よど号ハイジャック等)、パレスチナ解放闘争、内ゲバ殺人、連合赤軍事件(浅間山荘事件、総括殺人)へと向かうと考えられているが、本書は、そうした過激な傾向へと向かう動きと従前の新左翼・全共闘運動の中間項として、▽華僑青年闘争委員会(華青闘)による入管法反対闘争に代表される、アジア人差別・抑圧問題、▽沖縄問題、▽同和問題、リブ闘争――といった倫理的闘争の台頭を挙げている。これらの取り組みが、「決戦」後の新左翼活動家の倫理面を強く揺さぶった点を本書は強調している。本書の該当部分を引用して、説明しておきたい。
「決戦」に敗退し学園を追われた学生活動家は、取り組むべき政治的課題を見失い、茫然自失状態にあったという。そこに現れたのが、在日のアジア人や同和問題における被差別者からの問題提起であった。新左翼はこうした課題に取り組みはしたものの、中途半端に終始した。新左翼党派の無理解に対し、在日のアジア人活動家は激烈な批判を加えた。その批判とは、新左翼各派は在日のアジア人民を抑圧・差別する側にあるという告発であった。そして、69年には華青闘活動家の李智成が、自らの死をもって入管法に抗議をした。この事件は、当時も今もあまり知られていないが、本書を読むと、70年代に過激化した新左翼の武装闘争を促す直接的な契機となったことがうかがえる。新左翼活動家は、彼らの本気度に、怯えに近いものを感じたという。
つまりこういうことだ。日本はアジア太平洋戦争において近隣アジア諸国を侵略・蹂躙し、虐殺、奴隷化した。しかし、米軍(連合軍)の軍事力の前に屈した日本は敗戦国となった。しかし現在(当時)、日本国内には多数の在日アジア民族が戦時中、彼らの祖国から拉致・連行され、日本に住み代を重ねている。そして、敗戦国でありながら日本(人)は経済的繁栄を回復した一方、彼らを差別し抑圧し続けている。日本人は敗戦国被害者として戦後ふるまってきたけれど、実は戦中において加害者であり、敗戦後も加害者であり続けている――このような告発は、ベトナム戦争加担の論理よりもはるかにリアリティがあり、かつ、激烈な自己否定を多感で良心的な若者に迫るものだった。
そこから生じた倫理的反体制運動の新潮流は、既存の新左翼党派批判、非合法武力闘争路線、脱マルクス・レーニン主義の流れを形成し、その代表が手製爆弾闘争を実行した、東アジア反日武装戦線(大地の牙、狼、さそり)等のアナーキーな小集団であった。後に赤軍派と合体する日本共産党革命左派(京浜安保共闘)もこのような流れに属していた。小集団の過激なゲリラ的武装(爆弾)闘争は、新左翼党派にも影響を与えた。
同じ頃、新左翼党派においては、武装闘争路線が模索されており、69年9月、共産同赤軍派が革命戦争勝利、非合法武装闘争路線を掲げ、ブントから独立を宣言していた。69年11月の「決戦」における事実上の敗北を受けて、新左翼各派の内部に爆弾等の殺人兵器を製造・使用を目的化した、非合法部隊が創設された。ゲバ棒、ヘルメットの街頭闘争が抑え込まれた以上、武器をエスカレートする以外にない、というのが新左翼の総括であったという。
同時に、活動家の倫理性と純粋性が内ゲバの激化となって表象した。運動方針でことごとく対立したセクト同士の内ゲバで死者が出ることが珍しくなくなった。とりわけ革共同の革マル派vs中核派の内ゲバは陰惨を極めた。
□連合赤軍―倫理主義と軍事路線の不幸な合体
日本共産党革命左派(以下、「革命左派」という。)とブント赤軍派の結合は、不幸な合体であった。前者は新左翼党派のマルクス・レーニン主義革命理論とは相対的独自に集結した、しかも、自己否定、倫理主義を極限的に追及した者が構成する小グループであった。彼らの特徴は、銃=武器による暴力革命を志向する点にあった。彼らが武装蜂起をしたとしても、その後、労働者、農民とどのように連帯していくのかについては、一切明らかにされていなかったが。
彼らは前出の在日アジア人問題や被差別問題への取り組みを綱領としてはいなかったが、同派に結集した活動家のメンタリティーは、極めて倫理的であることがわかっている。
また、後者は、赤軍派指導者の過半が前段階蜂起準備中に官憲に事前検束され、しかも、残りのメンバーの指導者も日航よど号ハイジャック事件で国外逃亡していることもあり、闘争経験及び指導者の資質において劣る者(森恒夫)が残された活動家を束ねる必要に迫られた。その結果、武装闘争路線という一点において、両者が共闘を協議する機会をもったとき、前者の唯武器主義路線と純粋な倫理性という二点において、赤軍派は革命左派側に主導権を奪われることとなったのではないか。
本書では、連合赤軍による、山岳アジト総括リンチ事件について、多くの資料の読み込むことにより、その解明を試みている。著者(小熊英二)は、連合赤軍の悲劇を指導者の卑小な自己保身から生じたという趣旨の結論を引き出している。一方、この事件を知った新左翼・全共闘活動家及び知識人は、それとは異なる質の衝撃をもって受け止めた。多くの者は、この悲劇をスターリニズムの問題として考え、新左翼・全共闘運動から離脱した。
□著者(小熊英二)の“結論”について
著者(小熊英二)は本書下巻の「結論」において、1968年前後の学生叛乱の要因を、(一)大学生数の急増と大衆化、(二)高度成長による社会変動、(三)戦後の民主教育の下地、(四)若者のアイデンティティ・クライシスと「現代的不幸」からの脱却願望――の4点に要約している。そして、それらに新左翼の原理主義的マルクス・レーニン主義が融合したのだと。この結論に異議を挟むつもりはないし、当時の新左翼・全共闘運動とはそのようなものだったと思う。
1968年前後の叛乱に関わった学生たちの参加動機を示すキーワードとして、主体性、実存、自己否定、加害者意識、良心、反戦、疎外(の克服)、自分探し、現代的不幸(の克服)・・・といった、倫理観に近いイメージを列挙している。街頭闘争に参加した者にとって機動隊との衝突は実存の確認であり、ゲバ棒を振り下ろすことが主体性の確立であり、学園闘争におけるバリケード空間は自己解放、人間性の回復、真の学問の復権であり、全共闘運動による大学解体は、自己否定、加害者意識(の克服)といった具合である。
一方の新左翼党派にとっては、全共闘が運動の前面に押し出した“自己否定”は、プチプル急進主義であり、党派が目指す「革命的共産主義者」「プロレタリア的人間」「革命戦士」への飛躍こそが重要であると認識された。党派は、善良でナイーブ(うぶ)な学生大衆に対し、「プロレタリア的人間」へと飛躍するのか、それとも、「プチプル急進主義者」にとどまるのか、二者択一を迫った。
著者(小熊英二)が指摘するように、当時の大学とは(いまもそうかもしれないが)、冷たいコンクリートの塊のような校舎が林立し、その中の大教室で教授が棒読みの「講義」を行っていた。学生同士が、例えば、ベトナム戦争等の諸問題を議論する空間すら用意されていなかった。受験勉強を終え、大学に過剰な幻想を抱いて入学した学生に対し、大学が提供できるものは何もなかった。
上巻にあるとおり、そうした情況において、意識的学生はまず学費値上げ反対という学内闘争という形で叛乱を起こした。学内闘争には限界があるものの、日大、東大のように、社会的に大きな関心を呼び起こすものもあった。
そこに目をつけた党派は――彼らは1969年秋を「階級決戦」と位置づけていたのだが――学内に潜り込み、意識的学生大衆を組織化しようとした。党派のオルグが良心的学生に対して発した問いかけ(=世直し)が、有効性をもたないわけがなかった。“良心”を宿した“純粋”な学生たちは、入学早々、官憲が学内に導入される実態を目撃し、合法的街頭デモに参加すれば機動隊に蹴られ殴られ、「階級的暴力=機動隊」という抑圧者を明確に認識することはたやすい。そればかりか、地方から都会の大学に進学した者には、都会生活への順応のしにくさという感性が、疎外という概念と同義となった可能性もある。こうして蓄積された反体制的エネルギーが、階級意識や自己否定論、体制変革に向かった可能性を否定のしようもない。
だがしかし、“良心”を宿した“純粋”な学生たちが社会に対して抵抗したり、苦悩したりするのは、この時代に限ったことではない。古くは、『二十歳のエチュード』(原口統三)、『巌頭之感』(藤村操)など、“青春の書”と呼ばれる著作は枚挙に暇がない。本題の1968年前後の叛乱の主役たち(学生大衆)の心情と大きな隔たりはないのではないか。でも、この時代の若者は、結局のところ、新左翼党派の革命理論(革命言語)に吸収されてしまった。著者(小熊英二)が言うように、若者が自らの言葉を持たず、新左翼の革命言語に拠って自らを語り、行動しなければならなかった。
次に、本書が触れなかった視点から、新左翼・全共闘運動を振り返ってみたい。
2009年10月10日土曜日
2009年10月3日土曜日
『1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景』
●小熊英二[著] ●新曜社 ●7,140円(税込)
□新左翼・全共闘運動研究の集大成
本書は1960年代に高揚した、新左翼・全共闘運動に係る研究である。収拾された膨大な資料(活動家及び関係者の著述物、手記、日記、ビラ、報道資料、回想、インタビュー等)を根拠として、1968年前後の新左翼・全共闘関連の模様が再現される。おそらく、これまで発刊された何冊かの新左翼・全共闘関連の著作物より、当時の叛乱の諸相が詳細に記述されているのではないかと思う。なお、ここでは便宜上、上巻について扱う。
本書の第一は、日本の新左翼党派の発生(1960年前後)から1960年代後半に至るまでの歴史的記述である。▽60年安保闘争前後、日本共産党批判から建設された前衛党・共産主義者同盟(ブント)の誕生と安保闘争への取り組み、▽60年安保闘争敗北後に生じた同同盟の分裂、▽革命的共産主義者同盟(革共同)の誕生から分裂(中核派と革マル派)、▽第4インターナショナル派、▽社会主義協会から分離した社会主義青年同盟解放派、▽構造改革諸派、といった、新左翼党派の複雑な動きが記述される。この部分は、後に発生する新左翼党派間の実力闘争(「内ゲバ」)を理解するうえで重要な基礎知識を読者に提供するであろう。
1967年、若者の叛乱の口火を切った、第1~2次羽田闘争、佐世保闘争、三里塚闘争、王子米軍野戦病院反対闘争は、その中の三派系(社学同=ブント系、革共同中核派、社青同解放派)全学連によって担われた。本書は、これら一連の三派系全学連の街頭闘争を「激動の7ヵ月」と命名し、新左翼運動が大衆の支持を最も集めた闘争として特筆している。
第二は、新左翼党派の動きと相対的独自に生じた、学園闘争の動きである。前者と後者は截然とは分別不可能であるものの、運動の質という観点では異なる面と共有する面がある。前者は純粋な共産主義革命運動であり、後者は大学改良、改善、民主化運動を発端とした。両者が共有するものは、運動の担い手が主に学生大衆(=運動の拠点が大学)であったことである。また、日本共産党(その学生組織民主青年同盟及び戦後の左翼的知識人を含む)に代表される既成左翼を両者が否定した点も共通でしている。学内闘争は1960年代中葉から都内の私立大学において、学費値上げ反対等の要因により始まっており、学生全般の広い支持を得て展開された。
1960年代後半に生じた、いわゆる学生の叛乱は、新左翼党派と無党派学生が渾然一体となった運動として現象化したため、叛乱が切り開いた地平、提起されたまま残された課題、そして、叛乱そのものが孕む問題点等の整理を困難にしている。本書の顕著な特徴の1つは、新左翼党派と無党派学生の切り分けと融合に注意を払いつつ、両者が運動の実態上、分離と結合を繰り返したプロセスを明らかにしようと努めていることのように思える。この部分のわかりにくさが、後世の人々が新左翼・全共闘運動を考える場合の最大の難問の1つとなっており、本書は、それに答えるに十分な量と質を備えているように思う。
一般的には、新左翼党派は学内に発生した大学改善・改良問題に積極的に介入し、そこに参加した先進的学生を党派に取り込んだ(組織化した)と理解されている。学園闘争が生じなければ、新左翼運動があれほどの盛り上がりを見せることもなかったし、また、その一方、学園内の変革の意識の後退とともに、学生大衆が新左翼党派から離反を始めるとともに闘争は少数化・先鋭化を辿り、次第に閉塞状況に陥り、結局は、機動隊導入をもって幕を閉じる。このような循環が普遍的に見られるものの、その内実は、本書に詳述されているとおり、かなり複雑であり、そして、その複雑さを解明することが、新左翼・全共闘運動の【発生、活性化、高揚、停滞、衰退、先鋭化、暴力化、終焉】を把握する核である。
□東大闘争は特異事例か
著者(小熊英二)は、東大闘争にかなりの分量を割いている。東大闘争は、院生、助手、医学部学生といった、学部学生ではない少数の特異な階層(知識人)に属する者が始めた運動であったと規定する。そして、その特異な東大闘争が、1969年から全国の大学(高校闘争を含む)に波及した全共闘運動及びその後の新左翼運動の流れを決定づけた、ともいう。著者(小熊英二)のかかる視点を検証してみよう。
東大闘争の特異性を本書に従い、列挙しておこう。
(1)については、本書にも説明があるとおり、一般に誤解が多いので、ここで強調しておこう。マスコミが新左翼・全共闘運動を表層的にしか伝えていないため、注釈が必要である。
新左翼・全共闘運動というと、「団塊の世代」(概ね1947-50年生まれの者が中心)」という世代論的括りとほぼ同義語として、たとえば「全共闘世代」というように用いられる場合が多い。ところが、全共闘運動の代表格と思われている東大闘争の主役(ノンセクト)たちは――東大全共闘議長/山本義隆(1941~)、安田講堂闘争行動隊長/今井澄(1939~)、助手共闘中心メンバー/最首悟(1936~)――と、いずれも、60年安保闘争世代に属している。裏を返せば、本書に明らかなように、東大闘争において「団塊の世代」=全共闘世代の学生が東大内で果たした役割といえば、全共闘内部においてはクラス闘争委レベルにとどまり、もっぱら民青等との内ゲバ兵士にすぎなかった。また、党派に属する東大生や他大学の応援活動家にしても、他党派との動員数を競ううえでの頭数もしくは内ゲバ兵士程度の役割だった。
一方の新左翼党派(街頭闘争、学園闘争の区別なく)を指導した者も、「団塊の世代」以前の世代に属していて、東大闘争に酷似している。たとえば、本書に登場する党派の幹部を例に取ると、黒田寛一(1927-2006/革マル派)、北小路敏(1936-/中核派)、本多延喜(1934-1975/中核派)、神津陽(1944-/ブント叛旗派)、荒岱介(1945-/ブント戦旗派)、藤本敏夫(1944-2002/ブント関西派)、太田竜(1930-2009/第4インター派)、塩見孝也(1941-/ブント赤軍派)、田村高麿(1943-1995/ブント赤軍派よど号メンバー)、小西隆裕(1944-/同)、森恒夫(1944-1973/連合赤軍)、永田洋子(1945-/連合赤軍)・・・となっている。
「団塊の世代」に属する作家の三田誠広(1948-)は、早大全共闘運動に曖昧に参加した自らの体験を小説化して芥川賞を受賞した。小説から、彼が闘争の指導的立場になかったことがうかがえる。また、1967年の第一次羽田闘争で死亡した京大生・山崎博昭(1948-1967)も「団塊の世代」に属しているが、彼が街頭闘争に参加したのは羽田が最初で、もちろん、三派系全学連の指導層ではない。
東大闘争では学内闘争の諸問題に関わった者(ノンセクト)と、その後に形成された全学共闘会議の指導層が重複していて、しかも、他大学の全共闘運動と異なり、学部学生というよりも、指導層がマスコミ等の報道もあり前面に出ていたし、世間でもそう認識されていた。
新左翼運動全般における、[指導者―参加者]の世代的構造は、指導者が「団塊」以前の年代に属していて、街頭闘争の先頭に立ったのが「団塊の世代」に属する学生であったといってさしつかえない。東大闘争においても、全共闘幹部(指導層)が「団塊」以前の世代に属し、前出のとおり、内ゲバ闘争やクラス討論といったところでは、「団塊の世代」の学部学生が担ったわけで、これは当時の新左翼運動の特徴であって、東大闘争の特異性とばかりはいえない。もちろん、党派の指導層は院生、講師等ではなく「職業革命家」であるが、東大闘争は当時の新左翼運動と同じ世代的構造をもっていて、院生、講師等と「職業革命家」の差異がどれほどのものなのか――生活者からすれば、両者が知識人階層に属した猶予(モラトリアム)人間――であるという意味で、同一に見られてもおかしくない。
□東大は「体制」の象徴か
東大闘争の特異性とは、ノンセクト東大全共闘が、日大闘争と異なり、右翼及び機動隊といった体制側の強力な暴力装置との直接的衝突がかなりの期間、回避されていたことである(その理由は後述する)。かかる条件の下、ノンセクト全共闘幹部が純粋に(言葉を換えれば実験室のように)、自己の問題意識を深化させることができた。バリケードが思想の表現(実験)として、維持されたのである。その意味で、本書に引用されているとおり、日大全共闘メンバーが“東大闘争は「貴族の闘争」である”と指摘したことは妥当である。
ノンセクト東大全共闘(=幹部)が闘争の指導者と運動者を兼ねたとき、党派のように、プロパガンダという明確な運動目的はもてない。それゆえ、運動の目的(意識)は倫理的でリゴリズムとしての自己否定論に行き着いた、という著者(小熊英二)の指摘は正しい。本書の記録的叙述を読む限り、ノンセクト東大全共闘が自己否定論に行き着く過程は了解できる。だが、はたしそうなのか。新左翼運動の一般的プロセスからみると、東大闘争が自己否定論ばかりで引っ張られたとは思えない。が、しかし、そう確言できる資料は本書からはうかがえないということも付言しておくが。
東大闘争における特異性として注目すべきは、(3)の突出した動きを見せた日本共産党の動向である。本書にもあるとおり、1960年代中葉の学費闘争においても民青の運動参加が認められないわけではないが、不人気の少数中道左派の域を出ず、実力闘争に及ぶような積極策はとっていなかった。ところが、東大闘争では他大学の民青加盟員(学生、労働者等)を動員して、ゲバルト部隊(=あかつき部隊)を組織化し構内に派遣し、全共闘・新左翼党派と激しく戦った。当時、早稲田大学の民青員であった作家の宮崎学は、東大に出向き、「あかつき部隊」を指揮したという。しかも、日本共産党書記長宮本顕治(当時)委員長が学内闘争に直接指令を出したのも、東大が初めてのようである。
日本共産党が東大闘争に強く関与したのは、東大が日本の国家レベル(社会、行政、政治、文化)に強い影響力を持つ大学であるからである。東大の教授の中には、政府・自民党のみならず、資本主義、自由経済そのものを批判する勢力、すなわち、既成左翼(日本共産党、社会主義協会、構造改革派)の理論的指導者がいた。そして、大衆的勢力として、日本共産党及びその青年組織である民青が、事務職員労働組合、生活協同組合、学生自治会、東大新聞、文化サークル等の主導権を握っていた。東大自治会の幹部学生は、日本共産党の幹部候補生でもあった。東大は、旧左翼(主に日本共産党)の牙城であった。
体制側でもそれは同じことで、東大の事務方トップは文部省(当時)からの出向者だった。東大が、政治・行政・司法・産業界に人材を送り出す教育・研究機関であることはいうまでもない。幹部候補官僚の3割が東大卒業者で占められていたという。ところが、当時、大学を産学協同路線に組み込み、進捗する産業の高度化に対応する人材を輩出させようと図る産業界の要望の壁となっていたのが、「学問の自由=大学の自治」であった。文部省(当時)は、事務職に官僚を送り込むことはできても、大学当局=教授会を支配するにはいたらなかった。政府・自民党にしてみれば、学問の府=大学の自治権は、剥奪したくとも剥奪できない目の上のたんこぶのような存在であった。しかも、闘争初期に大学当局が機動隊をすぐさま導入したことが全学的反発を呼び起こし、闘争の拡大に火をつけたこともあり、以来、本格的な機動隊導入が土壇場までためらわれたのである。
大学当局=自民党政権は、初期の機動隊導入の失敗から、権力が下手に大学に介入すれば、戦前の軍部政権が大学自治を蹂躙し、思想統制を強めた暗い過去が引き合いに出され、政府が学問の自由、大学の自治を侵害したと非難されることを恐れた。学問の自由=大学の自治は、日本の大衆の意識に浸透しており、神話となって受け止められていたのである。であるから、以降、大学当局は、官憲の関与(機動隊導入)から大学を守ることが「学問の自由」=「大学の自治」であると考えた。東大闘争が泥沼化したのは、そのためだといわれている。当時の自民党政府も戦前の反省から、大学の自治権を尊重せざるを得なかった事情があった。
東京大学は、学問の自由=大学の自治の頂点に君臨する存在である。東大は「大学の自治」に守られた「進歩的」勢力(日本共産党等の既成左翼)の牙城でありながら、一方で、自民党政権を支える官僚制度、産業界の発展を支える人材育成・研究、技術開発を担うという、二重構造の教育・研究機関であった。東京大学の両義性=矛盾した存在は、日本の支配構造そのものの象徴であった。東大闘争が後の全共闘運動に波及したのも、そのことを全国の意識的学生大衆が理解したが故である。
換言するならば、東大全共闘が闘いを挑んだ対象とは、現体制(=政府自民党)であり、同時に、一見政府自民党と対峙しているかのように見える教授会=進歩的知識人=大学当局=既成左翼=戦後民主主義体制なのである。全共闘は、ときとして、現体制(政府自民党)よりも、大学の自治を金科玉条に掲げる大学当局、進歩主義的教授陣、民青(日本共産党)に対して、鋭い刃を向けたのである。本書は、東大全共闘の政治レベルにおける無展望ぶりや統治能力(ガバナンス)の欠如を指摘しているが、東大闘争に勝利があるとしたら、支配の二重構造を破壊すること以外にはない、と確信したノンセクト東大全共闘の思考回路は当然のように思える。だが、これとよく似た闘争のスタイルとしては、1960年、福岡県大正炭坑の反合理化闘争において谷川雁が率いた大正行動隊の組織論・運動論が挙げられる。東大全共闘の全否定、玉砕主義は、谷川雁の後塵を拝したにすぎない。
□東大は「革命ロシア」か
一方、東大闘争に参加した党派からみれば、東大の現状は、革命ロシアにアナロジーされたのではないか。そのことは、ロシア革命について若干の知識のある者であれば、即座に了解可能であろう。東大全共闘を構成した党派は、自らの立ち位置を「ロシア革命」におけるボルシェビキに見立てたのではないか。ボルシェビキの指導者レーニンは、メンシェビキ、エスエル等と党派闘争を闘いながら、ツアー政権を打倒した。
東大全共闘の党派メンバーが彼らなりの現状分析によって、この闘争を擬似的に、レーニン主義に基づき、認識していたのかどうかは本書からはうかがえない。そのような証拠がないのである。本書の資料によると、東大全共闘(ノンセクト、党派を問わず)が、闘争の前面に打ち出したのは、レーニンに自らを重ね合わせることではなく、“自己否定論”であった。東大生であること、東大の助手、講師等の教育者・研究者であること、現状の特権的自己を否定することであった。著者(小熊英二)はそれを、「思想的実験」と呼んでいる。東大全共闘のなかのノンセクトグループが自己否定論を前面に出し、マスコミもそれを積極的に報道した。ただ、前出のとおり、大正行動隊(谷川雁)の二番煎じに過ぎなかったけれど。
本書の資料を見る限りでは、当時、党派は東大全共闘の方針を表面上、否定も肯定もしていない。学部学生にも当然、党派の影響は及んでいたであろうが。ただいえるのは、レーニン主義を綱領化している新左翼党派にとって自己否定論とは、プチプル急進主義以外のなにものでもなかったはずであるし、また、革命的共産主義者(自覚の論理)であることを目指す革マル派にとっても同様であったであろう。しかし、繰り返すが、本書が収集した資料からは、党派が自己否定論を批判した証拠はない。
さらに、革マル派を除く新左翼党派にとっては、東大構内には彼らとイデオロギー、運動方針において対立する、“メンシェビキ・エスエル(民青、革マル派)”、構外には“反革命帝政(ツアー)政権(=機動隊)”という二重の敵を想定していたと類推されるのであって、構内に機動隊が導入されない限り、彼らの敵は、エスエル、メンシェビキ(民青、革マル派)に絞り込まれた。それまで東大闘争に参加しなかった中核派が東大全共闘に登場するに及んで、東大構内が観念の超微小的「革命ロシア」に変容した可能性はある。その結果、構内は無政府状態におちいり、内ゲバ暴力が支配するところとなり荒廃した。
「大学の自治」によって、機動隊の導入がためらわれている期間の東大は、ノンセクト系が自己否定論に自己陶酔し、党派系が観念の「革命ロシア」を想定していた場であったとするならば、東大闘争とは“狂気・錯覚”の場以外のなにものでもなかった。しかも、そのことは、既成左翼が守ろうとした「学問の自由」「大学の自治」によって担保されたのだったとしたら、なんとも皮肉である。しかし、そんな猶予期間が永遠に続くわけはない。やがて、東大闘争は、「安田講堂攻防戦」をもって幕を閉じる。
1969年1月18~19、日本中がテレビ中継で成り行きを見守った「安田講堂攻防戦」は、実態としては本書の記述のとおり、ノンセクト東大全共闘の手を離れ、新左翼党派による“プロパガンダ”として闘われた(演じられた)。学園闘争において、一般学生が闘争から脱落した後、学内闘争のヘゲモニーは新左翼党派に握られ、意識的学生を党派に呼び込む草刈場に転じることは、多くの大学でみられた現象であった。著者(小熊英二)が東大闘争の特異性とした事項は、機動隊による安田講堂封鎖解除を最後に清算され、ノンセクトの研究者らが牽引したノンセクト東大全共闘は、事実上解体した。(続く)
□新左翼・全共闘運動研究の集大成
本書は1960年代に高揚した、新左翼・全共闘運動に係る研究である。収拾された膨大な資料(活動家及び関係者の著述物、手記、日記、ビラ、報道資料、回想、インタビュー等)を根拠として、1968年前後の新左翼・全共闘関連の模様が再現される。おそらく、これまで発刊された何冊かの新左翼・全共闘関連の著作物より、当時の叛乱の諸相が詳細に記述されているのではないかと思う。なお、ここでは便宜上、上巻について扱う。
本書の第一は、日本の新左翼党派の発生(1960年前後)から1960年代後半に至るまでの歴史的記述である。▽60年安保闘争前後、日本共産党批判から建設された前衛党・共産主義者同盟(ブント)の誕生と安保闘争への取り組み、▽60年安保闘争敗北後に生じた同同盟の分裂、▽革命的共産主義者同盟(革共同)の誕生から分裂(中核派と革マル派)、▽第4インターナショナル派、▽社会主義協会から分離した社会主義青年同盟解放派、▽構造改革諸派、といった、新左翼党派の複雑な動きが記述される。この部分は、後に発生する新左翼党派間の実力闘争(「内ゲバ」)を理解するうえで重要な基礎知識を読者に提供するであろう。
1967年、若者の叛乱の口火を切った、第1~2次羽田闘争、佐世保闘争、三里塚闘争、王子米軍野戦病院反対闘争は、その中の三派系(社学同=ブント系、革共同中核派、社青同解放派)全学連によって担われた。本書は、これら一連の三派系全学連の街頭闘争を「激動の7ヵ月」と命名し、新左翼運動が大衆の支持を最も集めた闘争として特筆している。
第二は、新左翼党派の動きと相対的独自に生じた、学園闘争の動きである。前者と後者は截然とは分別不可能であるものの、運動の質という観点では異なる面と共有する面がある。前者は純粋な共産主義革命運動であり、後者は大学改良、改善、民主化運動を発端とした。両者が共有するものは、運動の担い手が主に学生大衆(=運動の拠点が大学)であったことである。また、日本共産党(その学生組織民主青年同盟及び戦後の左翼的知識人を含む)に代表される既成左翼を両者が否定した点も共通でしている。学内闘争は1960年代中葉から都内の私立大学において、学費値上げ反対等の要因により始まっており、学生全般の広い支持を得て展開された。
1960年代後半に生じた、いわゆる学生の叛乱は、新左翼党派と無党派学生が渾然一体となった運動として現象化したため、叛乱が切り開いた地平、提起されたまま残された課題、そして、叛乱そのものが孕む問題点等の整理を困難にしている。本書の顕著な特徴の1つは、新左翼党派と無党派学生の切り分けと融合に注意を払いつつ、両者が運動の実態上、分離と結合を繰り返したプロセスを明らかにしようと努めていることのように思える。この部分のわかりにくさが、後世の人々が新左翼・全共闘運動を考える場合の最大の難問の1つとなっており、本書は、それに答えるに十分な量と質を備えているように思う。
一般的には、新左翼党派は学内に発生した大学改善・改良問題に積極的に介入し、そこに参加した先進的学生を党派に取り込んだ(組織化した)と理解されている。学園闘争が生じなければ、新左翼運動があれほどの盛り上がりを見せることもなかったし、また、その一方、学園内の変革の意識の後退とともに、学生大衆が新左翼党派から離反を始めるとともに闘争は少数化・先鋭化を辿り、次第に閉塞状況に陥り、結局は、機動隊導入をもって幕を閉じる。このような循環が普遍的に見られるものの、その内実は、本書に詳述されているとおり、かなり複雑であり、そして、その複雑さを解明することが、新左翼・全共闘運動の【発生、活性化、高揚、停滞、衰退、先鋭化、暴力化、終焉】を把握する核である。
□東大闘争は特異事例か
著者(小熊英二)は、東大闘争にかなりの分量を割いている。東大闘争は、院生、助手、医学部学生といった、学部学生ではない少数の特異な階層(知識人)に属する者が始めた運動であったと規定する。そして、その特異な東大闘争が、1969年から全国の大学(高校闘争を含む)に波及した全共闘運動及びその後の新左翼運動の流れを決定づけた、ともいう。著者(小熊英二)のかかる視点を検証してみよう。
東大闘争の特異性を本書に従い、列挙しておこう。
- 院生・助手等といった特異な(観念的傾向が強い)階層が中心となった闘争であったこと
- 大学の自治に守られた、抑圧の少ない闘争であったこと=その結果、▽主体の形成、学生活動家の自己否定(論)が意識レベルから思想・運動論レベルに転じたこと、▽機動隊導入による封鎖解除が土壇場までためらわれたこと、▽治外法権と化した構内を舞台に、内ゲバ(新左翼―日本共産党、新左翼党派間)がエスカレート(過激化)したこと
- 共産党(民青)が闘争に強く関与したこと。併せて、新左翼と日本共産党(民青)が全面的にかつ暴力的に対峙したこと
- 事態収拾に文部省(当時)、自民党の強い介入があったこと(入試中止)
- 戦後民主主義、進歩的知識人の思想的立場に問題が波及したこと
(1)については、本書にも説明があるとおり、一般に誤解が多いので、ここで強調しておこう。マスコミが新左翼・全共闘運動を表層的にしか伝えていないため、注釈が必要である。
新左翼・全共闘運動というと、「団塊の世代」(概ね1947-50年生まれの者が中心)」という世代論的括りとほぼ同義語として、たとえば「全共闘世代」というように用いられる場合が多い。ところが、全共闘運動の代表格と思われている東大闘争の主役(ノンセクト)たちは――東大全共闘議長/山本義隆(1941~)、安田講堂闘争行動隊長/今井澄(1939~)、助手共闘中心メンバー/最首悟(1936~)――と、いずれも、60年安保闘争世代に属している。裏を返せば、本書に明らかなように、東大闘争において「団塊の世代」=全共闘世代の学生が東大内で果たした役割といえば、全共闘内部においてはクラス闘争委レベルにとどまり、もっぱら民青等との内ゲバ兵士にすぎなかった。また、党派に属する東大生や他大学の応援活動家にしても、他党派との動員数を競ううえでの頭数もしくは内ゲバ兵士程度の役割だった。
一方の新左翼党派(街頭闘争、学園闘争の区別なく)を指導した者も、「団塊の世代」以前の世代に属していて、東大闘争に酷似している。たとえば、本書に登場する党派の幹部を例に取ると、黒田寛一(1927-2006/革マル派)、北小路敏(1936-/中核派)、本多延喜(1934-1975/中核派)、神津陽(1944-/ブント叛旗派)、荒岱介(1945-/ブント戦旗派)、藤本敏夫(1944-2002/ブント関西派)、太田竜(1930-2009/第4インター派)、塩見孝也(1941-/ブント赤軍派)、田村高麿(1943-1995/ブント赤軍派よど号メンバー)、小西隆裕(1944-/同)、森恒夫(1944-1973/連合赤軍)、永田洋子(1945-/連合赤軍)・・・となっている。
「団塊の世代」に属する作家の三田誠広(1948-)は、早大全共闘運動に曖昧に参加した自らの体験を小説化して芥川賞を受賞した。小説から、彼が闘争の指導的立場になかったことがうかがえる。また、1967年の第一次羽田闘争で死亡した京大生・山崎博昭(1948-1967)も「団塊の世代」に属しているが、彼が街頭闘争に参加したのは羽田が最初で、もちろん、三派系全学連の指導層ではない。
東大闘争では学内闘争の諸問題に関わった者(ノンセクト)と、その後に形成された全学共闘会議の指導層が重複していて、しかも、他大学の全共闘運動と異なり、学部学生というよりも、指導層がマスコミ等の報道もあり前面に出ていたし、世間でもそう認識されていた。
新左翼運動全般における、[指導者―参加者]の世代的構造は、指導者が「団塊」以前の年代に属していて、街頭闘争の先頭に立ったのが「団塊の世代」に属する学生であったといってさしつかえない。東大闘争においても、全共闘幹部(指導層)が「団塊」以前の世代に属し、前出のとおり、内ゲバ闘争やクラス討論といったところでは、「団塊の世代」の学部学生が担ったわけで、これは当時の新左翼運動の特徴であって、東大闘争の特異性とばかりはいえない。もちろん、党派の指導層は院生、講師等ではなく「職業革命家」であるが、東大闘争は当時の新左翼運動と同じ世代的構造をもっていて、院生、講師等と「職業革命家」の差異がどれほどのものなのか――生活者からすれば、両者が知識人階層に属した猶予(モラトリアム)人間――であるという意味で、同一に見られてもおかしくない。
□東大は「体制」の象徴か
東大闘争の特異性とは、ノンセクト東大全共闘が、日大闘争と異なり、右翼及び機動隊といった体制側の強力な暴力装置との直接的衝突がかなりの期間、回避されていたことである(その理由は後述する)。かかる条件の下、ノンセクト全共闘幹部が純粋に(言葉を換えれば実験室のように)、自己の問題意識を深化させることができた。バリケードが思想の表現(実験)として、維持されたのである。その意味で、本書に引用されているとおり、日大全共闘メンバーが“東大闘争は「貴族の闘争」である”と指摘したことは妥当である。
ノンセクト東大全共闘(=幹部)が闘争の指導者と運動者を兼ねたとき、党派のように、プロパガンダという明確な運動目的はもてない。それゆえ、運動の目的(意識)は倫理的でリゴリズムとしての自己否定論に行き着いた、という著者(小熊英二)の指摘は正しい。本書の記録的叙述を読む限り、ノンセクト東大全共闘が自己否定論に行き着く過程は了解できる。だが、はたしそうなのか。新左翼運動の一般的プロセスからみると、東大闘争が自己否定論ばかりで引っ張られたとは思えない。が、しかし、そう確言できる資料は本書からはうかがえないということも付言しておくが。
東大闘争における特異性として注目すべきは、(3)の突出した動きを見せた日本共産党の動向である。本書にもあるとおり、1960年代中葉の学費闘争においても民青の運動参加が認められないわけではないが、不人気の少数中道左派の域を出ず、実力闘争に及ぶような積極策はとっていなかった。ところが、東大闘争では他大学の民青加盟員(学生、労働者等)を動員して、ゲバルト部隊(=あかつき部隊)を組織化し構内に派遣し、全共闘・新左翼党派と激しく戦った。当時、早稲田大学の民青員であった作家の宮崎学は、東大に出向き、「あかつき部隊」を指揮したという。しかも、日本共産党書記長宮本顕治(当時)委員長が学内闘争に直接指令を出したのも、東大が初めてのようである。
日本共産党が東大闘争に強く関与したのは、東大が日本の国家レベル(社会、行政、政治、文化)に強い影響力を持つ大学であるからである。東大の教授の中には、政府・自民党のみならず、資本主義、自由経済そのものを批判する勢力、すなわち、既成左翼(日本共産党、社会主義協会、構造改革派)の理論的指導者がいた。そして、大衆的勢力として、日本共産党及びその青年組織である民青が、事務職員労働組合、生活協同組合、学生自治会、東大新聞、文化サークル等の主導権を握っていた。東大自治会の幹部学生は、日本共産党の幹部候補生でもあった。東大は、旧左翼(主に日本共産党)の牙城であった。
体制側でもそれは同じことで、東大の事務方トップは文部省(当時)からの出向者だった。東大が、政治・行政・司法・産業界に人材を送り出す教育・研究機関であることはいうまでもない。幹部候補官僚の3割が東大卒業者で占められていたという。ところが、当時、大学を産学協同路線に組み込み、進捗する産業の高度化に対応する人材を輩出させようと図る産業界の要望の壁となっていたのが、「学問の自由=大学の自治」であった。文部省(当時)は、事務職に官僚を送り込むことはできても、大学当局=教授会を支配するにはいたらなかった。政府・自民党にしてみれば、学問の府=大学の自治権は、剥奪したくとも剥奪できない目の上のたんこぶのような存在であった。しかも、闘争初期に大学当局が機動隊をすぐさま導入したことが全学的反発を呼び起こし、闘争の拡大に火をつけたこともあり、以来、本格的な機動隊導入が土壇場までためらわれたのである。
大学当局=自民党政権は、初期の機動隊導入の失敗から、権力が下手に大学に介入すれば、戦前の軍部政権が大学自治を蹂躙し、思想統制を強めた暗い過去が引き合いに出され、政府が学問の自由、大学の自治を侵害したと非難されることを恐れた。学問の自由=大学の自治は、日本の大衆の意識に浸透しており、神話となって受け止められていたのである。であるから、以降、大学当局は、官憲の関与(機動隊導入)から大学を守ることが「学問の自由」=「大学の自治」であると考えた。東大闘争が泥沼化したのは、そのためだといわれている。当時の自民党政府も戦前の反省から、大学の自治権を尊重せざるを得なかった事情があった。
東京大学は、学問の自由=大学の自治の頂点に君臨する存在である。東大は「大学の自治」に守られた「進歩的」勢力(日本共産党等の既成左翼)の牙城でありながら、一方で、自民党政権を支える官僚制度、産業界の発展を支える人材育成・研究、技術開発を担うという、二重構造の教育・研究機関であった。東京大学の両義性=矛盾した存在は、日本の支配構造そのものの象徴であった。東大闘争が後の全共闘運動に波及したのも、そのことを全国の意識的学生大衆が理解したが故である。
換言するならば、東大全共闘が闘いを挑んだ対象とは、現体制(=政府自民党)であり、同時に、一見政府自民党と対峙しているかのように見える教授会=進歩的知識人=大学当局=既成左翼=戦後民主主義体制なのである。全共闘は、ときとして、現体制(政府自民党)よりも、大学の自治を金科玉条に掲げる大学当局、進歩主義的教授陣、民青(日本共産党)に対して、鋭い刃を向けたのである。本書は、東大全共闘の政治レベルにおける無展望ぶりや統治能力(ガバナンス)の欠如を指摘しているが、東大闘争に勝利があるとしたら、支配の二重構造を破壊すること以外にはない、と確信したノンセクト東大全共闘の思考回路は当然のように思える。だが、これとよく似た闘争のスタイルとしては、1960年、福岡県大正炭坑の反合理化闘争において谷川雁が率いた大正行動隊の組織論・運動論が挙げられる。東大全共闘の全否定、玉砕主義は、谷川雁の後塵を拝したにすぎない。
□東大は「革命ロシア」か
一方、東大闘争に参加した党派からみれば、東大の現状は、革命ロシアにアナロジーされたのではないか。そのことは、ロシア革命について若干の知識のある者であれば、即座に了解可能であろう。東大全共闘を構成した党派は、自らの立ち位置を「ロシア革命」におけるボルシェビキに見立てたのではないか。ボルシェビキの指導者レーニンは、メンシェビキ、エスエル等と党派闘争を闘いながら、ツアー政権を打倒した。
東大全共闘の党派メンバーが彼らなりの現状分析によって、この闘争を擬似的に、レーニン主義に基づき、認識していたのかどうかは本書からはうかがえない。そのような証拠がないのである。本書の資料によると、東大全共闘(ノンセクト、党派を問わず)が、闘争の前面に打ち出したのは、レーニンに自らを重ね合わせることではなく、“自己否定論”であった。東大生であること、東大の助手、講師等の教育者・研究者であること、現状の特権的自己を否定することであった。著者(小熊英二)はそれを、「思想的実験」と呼んでいる。東大全共闘のなかのノンセクトグループが自己否定論を前面に出し、マスコミもそれを積極的に報道した。ただ、前出のとおり、大正行動隊(谷川雁)の二番煎じに過ぎなかったけれど。
本書の資料を見る限りでは、当時、党派は東大全共闘の方針を表面上、否定も肯定もしていない。学部学生にも当然、党派の影響は及んでいたであろうが。ただいえるのは、レーニン主義を綱領化している新左翼党派にとって自己否定論とは、プチプル急進主義以外のなにものでもなかったはずであるし、また、革命的共産主義者(自覚の論理)であることを目指す革マル派にとっても同様であったであろう。しかし、繰り返すが、本書が収集した資料からは、党派が自己否定論を批判した証拠はない。
さらに、革マル派を除く新左翼党派にとっては、東大構内には彼らとイデオロギー、運動方針において対立する、“メンシェビキ・エスエル(民青、革マル派)”、構外には“反革命帝政(ツアー)政権(=機動隊)”という二重の敵を想定していたと類推されるのであって、構内に機動隊が導入されない限り、彼らの敵は、エスエル、メンシェビキ(民青、革マル派)に絞り込まれた。それまで東大闘争に参加しなかった中核派が東大全共闘に登場するに及んで、東大構内が観念の超微小的「革命ロシア」に変容した可能性はある。その結果、構内は無政府状態におちいり、内ゲバ暴力が支配するところとなり荒廃した。
「大学の自治」によって、機動隊の導入がためらわれている期間の東大は、ノンセクト系が自己否定論に自己陶酔し、党派系が観念の「革命ロシア」を想定していた場であったとするならば、東大闘争とは“狂気・錯覚”の場以外のなにものでもなかった。しかも、そのことは、既成左翼が守ろうとした「学問の自由」「大学の自治」によって担保されたのだったとしたら、なんとも皮肉である。しかし、そんな猶予期間が永遠に続くわけはない。やがて、東大闘争は、「安田講堂攻防戦」をもって幕を閉じる。
1969年1月18~19、日本中がテレビ中継で成り行きを見守った「安田講堂攻防戦」は、実態としては本書の記述のとおり、ノンセクト東大全共闘の手を離れ、新左翼党派による“プロパガンダ”として闘われた(演じられた)。学園闘争において、一般学生が闘争から脱落した後、学内闘争のヘゲモニーは新左翼党派に握られ、意識的学生を党派に呼び込む草刈場に転じることは、多くの大学でみられた現象であった。著者(小熊英二)が東大闘争の特異性とした事項は、機動隊による安田講堂封鎖解除を最後に清算され、ノンセクトの研究者らが牽引したノンセクト東大全共闘は、事実上解体した。(続く)
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