2009年10月3日土曜日

『1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景』

●小熊英二[著] ●新曜社 ●7,140円(税込)


□新左翼・全共闘運動研究の集大成

本書は1960年代に高揚した、新左翼・全共闘運動に係る研究である。収拾された膨大な資料(活動家及び関係者の著述物、手記、日記、ビラ、報道資料、回想、インタビュー等)を根拠として、1968年前後の新左翼・全共闘関連の模様が再現される。おそらく、これまで発刊された何冊かの新左翼・全共闘関連の著作物より、当時の叛乱の諸相が詳細に記述されているのではないかと思う。なお、ここでは便宜上、上巻について扱う。

本書の第一は、日本の新左翼党派の発生(1960年前後)から1960年代後半に至るまでの歴史的記述である。▽60年安保闘争前後、日本共産党批判から建設された前衛党・共産主義者同盟(ブント)の誕生と安保闘争への取り組み、▽60年安保闘争敗北後に生じた同同盟の分裂、▽革命的共産主義者同盟(革共同)の誕生から分裂(中核派と革マル派)、▽第4インターナショナル派、▽社会主義協会から分離した社会主義青年同盟解放派、▽構造改革諸派、といった、新左翼党派の複雑な動きが記述される。この部分は、後に発生する新左翼党派間の実力闘争(「内ゲバ」)を理解するうえで重要な基礎知識を読者に提供するであろう。

1967年、若者の叛乱の口火を切った、第1~2次羽田闘争、佐世保闘争、三里塚闘争、王子米軍野戦病院反対闘争は、その中の三派系(社学同=ブント系、革共同中核派、社青同解放派)全学連によって担われた。本書は、これら一連の三派系全学連の街頭闘争を「激動の7ヵ月」と命名し、新左翼運動が大衆の支持を最も集めた闘争として特筆している。
 
第二は、新左翼党派の動きと相対的独自に生じた、学園闘争の動きである。前者と後者は截然とは分別不可能であるものの、運動の質という観点では異なる面と共有する面がある。前者は純粋な共産主義革命運動であり、後者は大学改良、改善、民主化運動を発端とした。両者が共有するものは、運動の担い手が主に学生大衆(=運動の拠点が大学)であったことである。また、日本共産党(その学生組織民主青年同盟及び戦後の左翼的知識人を含む)に代表される既成左翼を両者が否定した点も共通でしている。学内闘争は1960年代中葉から都内の私立大学において、学費値上げ反対等の要因により始まっており、学生全般の広い支持を得て展開された。

1960年代後半に生じた、いわゆる学生の叛乱は、新左翼党派と無党派学生が渾然一体となった運動として現象化したため、叛乱が切り開いた地平、提起されたまま残された課題、そして、叛乱そのものが孕む問題点等の整理を困難にしている。本書の顕著な特徴の1つは、新左翼党派と無党派学生の切り分けと融合に注意を払いつつ、両者が運動の実態上、分離と結合を繰り返したプロセスを明らかにしようと努めていることのように思える。この部分のわかりにくさが、後世の人々が新左翼・全共闘運動を考える場合の最大の難問の1つとなっており、本書は、それに答えるに十分な量と質を備えているように思う。

一般的には、新左翼党派は学内に発生した大学改善・改良問題に積極的に介入し、そこに参加した先進的学生を党派に取り込んだ(組織化した)と理解されている。学園闘争が生じなければ、新左翼運動があれほどの盛り上がりを見せることもなかったし、また、その一方、学園内の変革の意識の後退とともに、学生大衆が新左翼党派から離反を始めるとともに闘争は少数化・先鋭化を辿り、次第に閉塞状況に陥り、結局は、機動隊導入をもって幕を閉じる。このような循環が普遍的に見られるものの、その内実は、本書に詳述されているとおり、かなり複雑であり、そして、その複雑さを解明することが、新左翼・全共闘運動の【発生、活性化、高揚、停滞、衰退、先鋭化、暴力化、終焉】を把握する核である。


□東大闘争は特異事例か

著者(小熊英二)は、東大闘争にかなりの分量を割いている。東大闘争は、院生、助手、医学部学生といった、学部学生ではない少数の特異な階層(知識人)に属する者が始めた運動であったと規定する。そして、その特異な東大闘争が、1969年から全国の大学(高校闘争を含む)に波及した全共闘運動及びその後の新左翼運動の流れを決定づけた、ともいう。著者(小熊英二)のかかる視点を検証してみよう。

東大闘争の特異性を本書に従い、列挙しておこう。


  1. 院生・助手等といった特異な(観念的傾向が強い)階層が中心となった闘争であったこと
  2. 大学の自治に守られた、抑圧の少ない闘争であったこと=その結果、▽主体の形成、学生活動家の自己否定(論)が意識レベルから思想・運動論レベルに転じたこと、▽機動隊導入による封鎖解除が土壇場までためらわれたこと、▽治外法権と化した構内を舞台に、内ゲバ(新左翼―日本共産党、新左翼党派間)がエスカレート(過激化)したこと
  3. 共産党(民青)が闘争に強く関与したこと。併せて、新左翼と日本共産党(民青)が全面的にかつ暴力的に対峙したこと
  4. 事態収拾に文部省(当時)、自民党の強い介入があったこと(入試中止)
  5. 戦後民主主義、進歩的知識人の思想的立場に問題が波及したこと


(1)については、本書にも説明があるとおり、一般に誤解が多いので、ここで強調しておこう。マスコミが新左翼・全共闘運動を表層的にしか伝えていないため、注釈が必要である。

新左翼・全共闘運動というと、「団塊の世代」(概ね1947-50年生まれの者が中心)」という世代論的括りとほぼ同義語として、たとえば「全共闘世代」というように用いられる場合が多い。ところが、全共闘運動の代表格と思われている東大闘争の主役(ノンセクト)たちは――東大全共闘議長/山本義隆(1941~)、安田講堂闘争行動隊長/今井澄(1939~)、助手共闘中心メンバー/最首悟(1936~)――と、いずれも、60年安保闘争世代に属している。裏を返せば、本書に明らかなように、東大闘争において「団塊の世代」=全共闘世代の学生が東大内で果たした役割といえば、全共闘内部においてはクラス闘争委レベルにとどまり、もっぱら民青等との内ゲバ兵士にすぎなかった。また、党派に属する東大生や他大学の応援活動家にしても、他党派との動員数を競ううえでの頭数もしくは内ゲバ兵士程度の役割だった。

一方の新左翼党派(街頭闘争、学園闘争の区別なく)を指導した者も、「団塊の世代」以前の世代に属していて、東大闘争に酷似している。たとえば、本書に登場する党派の幹部を例に取ると、黒田寛一(1927-2006/革マル派)、北小路敏(1936-/中核派)、本多延喜(1934-1975/中核派)、神津陽(1944-/ブント叛旗派)、荒岱介(1945-/ブント戦旗派)、藤本敏夫(1944-2002/ブント関西派)、太田竜(1930-2009/第4インター派)、塩見孝也(1941-/ブント赤軍派)、田村高麿(1943-1995/ブント赤軍派よど号メンバー)、小西隆裕(1944-/同)、森恒夫(1944-1973/連合赤軍)、永田洋子(1945-/連合赤軍)・・・となっている。

「団塊の世代」に属する作家の三田誠広(1948-)は、早大全共闘運動に曖昧に参加した自らの体験を小説化して芥川賞を受賞した。小説から、彼が闘争の指導的立場になかったことがうかがえる。また、1967年の第一次羽田闘争で死亡した京大生・山崎博昭(1948-1967)も「団塊の世代」に属しているが、彼が街頭闘争に参加したのは羽田が最初で、もちろん、三派系全学連の指導層ではない。

東大闘争では学内闘争の諸問題に関わった者(ノンセクト)と、その後に形成された全学共闘会議の指導層が重複していて、しかも、他大学の全共闘運動と異なり、学部学生というよりも、指導層がマスコミ等の報道もあり前面に出ていたし、世間でもそう認識されていた。

新左翼運動全般における、[指導者―参加者]の世代的構造は、指導者が「団塊」以前の年代に属していて、街頭闘争の先頭に立ったのが「団塊の世代」に属する学生であったといってさしつかえない。東大闘争においても、全共闘幹部(指導層)が「団塊」以前の世代に属し、前出のとおり、内ゲバ闘争やクラス討論といったところでは、「団塊の世代」の学部学生が担ったわけで、これは当時の新左翼運動の特徴であって、東大闘争の特異性とばかりはいえない。もちろん、党派の指導層は院生、講師等ではなく「職業革命家」であるが、東大闘争は当時の新左翼運動と同じ世代的構造をもっていて、院生、講師等と「職業革命家」の差異がどれほどのものなのか――生活者からすれば、両者が知識人階層に属した猶予(モラトリアム)人間――であるという意味で、同一に見られてもおかしくない。


□東大は「体制」の象徴か
東大闘争の特異性とは、ノンセクト東大全共闘が、日大闘争と異なり、右翼及び機動隊といった体制側の強力な暴力装置との直接的衝突がかなりの期間、回避されていたことである(その理由は後述する)。かかる条件の下、ノンセクト全共闘幹部が純粋に(言葉を換えれば実験室のように)、自己の問題意識を深化させることができた。バリケードが思想の表現(実験)として、維持されたのである。その意味で、本書に引用されているとおり、日大全共闘メンバーが“東大闘争は「貴族の闘争」である”と指摘したことは妥当である。

ノンセクト東大全共闘(=幹部)が闘争の指導者と運動者を兼ねたとき、党派のように、プロパガンダという明確な運動目的はもてない。それゆえ、運動の目的(意識)は倫理的でリゴリズムとしての自己否定論に行き着いた、という著者(小熊英二)の指摘は正しい。本書の記録的叙述を読む限り、ノンセクト東大全共闘が自己否定論に行き着く過程は了解できる。だが、はたしそうなのか。新左翼運動の一般的プロセスからみると、東大闘争が自己否定論ばかりで引っ張られたとは思えない。が、しかし、そう確言できる資料は本書からはうかがえないということも付言しておくが。

東大闘争における特異性として注目すべきは、(3)の突出した動きを見せた日本共産党の動向である。本書にもあるとおり、1960年代中葉の学費闘争においても民青の運動参加が認められないわけではないが、不人気の少数中道左派の域を出ず、実力闘争に及ぶような積極策はとっていなかった。ところが、東大闘争では他大学の民青加盟員(学生、労働者等)を動員して、ゲバルト部隊(=あかつき部隊)を組織化し構内に派遣し、全共闘・新左翼党派と激しく戦った。当時、早稲田大学の民青員であった作家の宮崎学は、東大に出向き、「あかつき部隊」を指揮したという。しかも、日本共産党書記長宮本顕治(当時)委員長が学内闘争に直接指令を出したのも、東大が初めてのようである。

日本共産党が東大闘争に強く関与したのは、東大が日本の国家レベル(社会、行政、政治、文化)に強い影響力を持つ大学であるからである。東大の教授の中には、政府・自民党のみならず、資本主義、自由経済そのものを批判する勢力、すなわち、既成左翼(日本共産党、社会主義協会、構造改革派)の理論的指導者がいた。そして、大衆的勢力として、日本共産党及びその青年組織である民青が、事務職員労働組合、生活協同組合、学生自治会、東大新聞、文化サークル等の主導権を握っていた。東大自治会の幹部学生は、日本共産党の幹部候補生でもあった。東大は、旧左翼(主に日本共産党)の牙城であった。

体制側でもそれは同じことで、東大の事務方トップは文部省(当時)からの出向者だった。東大が、政治・行政・司法・産業界に人材を送り出す教育・研究機関であることはいうまでもない。幹部候補官僚の3割が東大卒業者で占められていたという。ところが、当時、大学を産学協同路線に組み込み、進捗する産業の高度化に対応する人材を輩出させようと図る産業界の要望の壁となっていたのが、「学問の自由=大学の自治」であった。文部省(当時)は、事務職に官僚を送り込むことはできても、大学当局=教授会を支配するにはいたらなかった。政府・自民党にしてみれば、学問の府=大学の自治権は、剥奪したくとも剥奪できない目の上のたんこぶのような存在であった。しかも、闘争初期に大学当局が機動隊をすぐさま導入したことが全学的反発を呼び起こし、闘争の拡大に火をつけたこともあり、以来、本格的な機動隊導入が土壇場までためらわれたのである。

大学当局=自民党政権は、初期の機動隊導入の失敗から、権力が下手に大学に介入すれば、戦前の軍部政権が大学自治を蹂躙し、思想統制を強めた暗い過去が引き合いに出され、政府が学問の自由、大学の自治を侵害したと非難されることを恐れた。学問の自由=大学の自治は、日本の大衆の意識に浸透しており、神話となって受け止められていたのである。であるから、以降、大学当局は、官憲の関与(機動隊導入)から大学を守ることが「学問の自由」=「大学の自治」であると考えた。東大闘争が泥沼化したのは、そのためだといわれている。当時の自民党政府も戦前の反省から、大学の自治権を尊重せざるを得なかった事情があった。

東京大学は、学問の自由=大学の自治の頂点に君臨する存在である。東大は「大学の自治」に守られた「進歩的」勢力(日本共産党等の既成左翼)の牙城でありながら、一方で、自民党政権を支える官僚制度、産業界の発展を支える人材育成・研究、技術開発を担うという、二重構造の教育・研究機関であった。東京大学の両義性=矛盾した存在は、日本の支配構造そのものの象徴であった。東大闘争が後の全共闘運動に波及したのも、そのことを全国の意識的学生大衆が理解したが故である。

換言するならば、東大全共闘が闘いを挑んだ対象とは、現体制(=政府自民党)であり、同時に、一見政府自民党と対峙しているかのように見える教授会=進歩的知識人=大学当局=既成左翼=戦後民主主義体制なのである。全共闘は、ときとして、現体制(政府自民党)よりも、大学の自治を金科玉条に掲げる大学当局、進歩主義的教授陣、民青(日本共産党)に対して、鋭い刃を向けたのである。本書は、東大全共闘の政治レベルにおける無展望ぶりや統治能力(ガバナンス)の欠如を指摘しているが、東大闘争に勝利があるとしたら、支配の二重構造を破壊すること以外にはない、と確信したノンセクト東大全共闘の思考回路は当然のように思える。だが、これとよく似た闘争のスタイルとしては、1960年、福岡県大正炭坑の反合理化闘争において谷川雁が率いた大正行動隊の組織論・運動論が挙げられる。東大全共闘の全否定、玉砕主義は、谷川雁の後塵を拝したにすぎない。


□東大は「革命ロシア」か

一方、東大闘争に参加した党派からみれば、東大の現状は、革命ロシアにアナロジーされたのではないか。そのことは、ロシア革命について若干の知識のある者であれば、即座に了解可能であろう。東大全共闘を構成した党派は、自らの立ち位置を「ロシア革命」におけるボルシェビキに見立てたのではないか。ボルシェビキの指導者レーニンは、メンシェビキ、エスエル等と党派闘争を闘いながら、ツアー政権を打倒した。

東大全共闘の党派メンバーが彼らなりの現状分析によって、この闘争を擬似的に、レーニン主義に基づき、認識していたのかどうかは本書からはうかがえない。そのような証拠がないのである。本書の資料によると、東大全共闘(ノンセクト、党派を問わず)が、闘争の前面に打ち出したのは、レーニンに自らを重ね合わせることではなく、“自己否定論”であった。東大生であること、東大の助手、講師等の教育者・研究者であること、現状の特権的自己を否定することであった。著者(小熊英二)はそれを、「思想的実験」と呼んでいる。東大全共闘のなかのノンセクトグループが自己否定論を前面に出し、マスコミもそれを積極的に報道した。ただ、前出のとおり、大正行動隊(谷川雁)の二番煎じに過ぎなかったけれど。

本書の資料を見る限りでは、当時、党派は東大全共闘の方針を表面上、否定も肯定もしていない。学部学生にも当然、党派の影響は及んでいたであろうが。ただいえるのは、レーニン主義を綱領化している新左翼党派にとって自己否定論とは、プチプル急進主義以外のなにものでもなかったはずであるし、また、革命的共産主義者(自覚の論理)であることを目指す革マル派にとっても同様であったであろう。しかし、繰り返すが、本書が収集した資料からは、党派が自己否定論を批判した証拠はない。

さらに、革マル派を除く新左翼党派にとっては、東大構内には彼らとイデオロギー、運動方針において対立する、“メンシェビキ・エスエル(民青、革マル派)”、構外には“反革命帝政(ツアー)政権(=機動隊)”という二重の敵を想定していたと類推されるのであって、構内に機動隊が導入されない限り、彼らの敵は、エスエル、メンシェビキ(民青、革マル派)に絞り込まれた。それまで東大闘争に参加しなかった中核派が東大全共闘に登場するに及んで、東大構内が観念の超微小的「革命ロシア」に変容した可能性はある。その結果、構内は無政府状態におちいり、内ゲバ暴力が支配するところとなり荒廃した。

「大学の自治」によって、機動隊の導入がためらわれている期間の東大は、ノンセクト系が自己否定論に自己陶酔し、党派系が観念の「革命ロシア」を想定していた場であったとするならば、東大闘争とは“狂気・錯覚”の場以外のなにものでもなかった。しかも、そのことは、既成左翼が守ろうとした「学問の自由」「大学の自治」によって担保されたのだったとしたら、なんとも皮肉である。しかし、そんな猶予期間が永遠に続くわけはない。やがて、東大闘争は、「安田講堂攻防戦」をもって幕を閉じる。

1969年1月18~19、日本中がテレビ中継で成り行きを見守った「安田講堂攻防戦」は、実態としては本書の記述のとおり、ノンセクト東大全共闘の手を離れ、新左翼党派による“プロパガンダ”として闘われた(演じられた)。学園闘争において、一般学生が闘争から脱落した後、学内闘争のヘゲモニーは新左翼党派に握られ、意識的学生を党派に呼び込む草刈場に転じることは、多くの大学でみられた現象であった。著者(小熊英二)が東大闘争の特異性とした事項は、機動隊による安田講堂封鎖解除を最後に清算され、ノンセクトの研究者らが牽引したノンセクト東大全共闘は、事実上解体した。(続く)