2009年10月12日月曜日

『1968〈上下〉』

●小熊英二[著] ●新曜社 ●上下とも7,140円(税込)


 党派闘争で100名を超える犠牲者

本書上下巻を通じて、著者(小熊英二)が触れなかった問題意識について、以下の事項を挙げておきたい。
特筆すべきは、新左翼・全共闘運動の死者の数である。本書にしばしば引用されている『新左翼とは何だったのか』(荒岱介[著]。以下、『新左翼とは~』と略記。)によると、新左翼・全共闘運動の内ゲバで死亡した人数は100人超に達するという。内訳を『新左翼とは~(P186)』から引用すると、中核派による革マル派殺害が48人、解放派による革マル派殺害が23人、革マル派による中核派・解放派両派殺害が15人、ブント系では連合赤軍のリンチ殺人を含めて15人、解放派内部の内内ゲバで10人の死者が出ているという。なお、筆者の想像にすぎないが、革共同両派(中核派-革マル派)の内ゲバの犠牲者は、ここに掲げられた数を上回っているものと思う。
世界の近現代史において、反体制運動内部の抗争によって100名を超える死者を出した運動というのは、新左翼・全共闘運動以外にあるのだろうか。少なくとも国内には見当たらない。異常である。

生活者に多数の死傷者を出した新左翼運動

次に特筆すべきは、一般生活者に犠牲者が及んだことである。代表例として、1974年8月30日の東アジア反日武装戦線「狼」班による三菱重工ビル爆破(三菱重工爆破事件)を挙げておく。この爆破で8名が死亡、385名が重軽傷を負った。類似の爆弾事件8件が起きている。これらの犯行は、新左翼・全共闘運動の延長線上であって、本書が扱う対象(1968年前後)から離れるという見方もあろうが、著者(小熊英二)の言う、「70年のパラダイム転換」に含まれるものと解釈する。

爆弾事件としては、1971年12月24日、東京都新宿区新宿三丁目の警視庁四谷署追分派出所付近にあった買い物袋に入れられた高さ50cmほどのクリスマスツリーに偽装された時限爆弾が爆発。警察官2人と通行人7人が重軽傷を負った。その後、黒ヘルグループのリーダーの鎌田俊彦が出頭し、事件の全容が明らかになった。鎌田俊彦に無期懲役が確定した。

日本国内ではないが、1972年、日本赤軍兵士・岡本公三ほか2名が、テルアビブ空港にて民間人を中心とした24人を虐殺した。パレスチナ問題はイスラエルと臨戦態勢にあるという見方もあるため、国内の事件とは同質には語れない面もあろうが、付記しておく。

活動家の死と闘争の激化

第三は、新左翼・全共闘運動が活動家の<死>を契機として、運動が激化したことである。

最初は、60年安保闘争における樺美智子の死である。1960年6月15日、全学連主流派(ブント)の東大生樺美智子は、国会突入時に機動隊と衝突し死亡した。一人の女子大生の死は、新左翼学生運動の黎明期を象徴するものである。

二番目の死者は、1965年の奥浩平の自殺である。奥浩平については、本書上巻に詳しいので詳述はしないが、奥は中核派の活動家で1965年2月、羽田で行われた椎名悦三郎外相訪韓阻止闘争で警官隊と衝突し、警棒で鼻骨を砕かれ負傷、入院。退院後の3月6日、自宅で大量の睡眠薬を服用して自殺した(21歳)。高校時代からの恋人は、早稲田大学入学後に革マル派に所属し、党派間抗争の激化とともに別離に至った。自殺の原因のひとつとして、このことに対する苦悩が挙げられる。奥の手記『青春の墓標』は、奥の死後、広く新左翼活動家の間で読まれた。

三番目の死者は、1967年の京大生山崎博昭(中核派)の死である。1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するため中核派、社学同、解放派からなる三派全学連を中心とする部隊は羽田周辺に集結した。このとき、新左翼は、はじめてヘルメットと角材で武装した。この闘争では死者1人、重軽傷者600人あまり、逮捕者58人が出た。街頭での反体制運動で死者がでたのは、60年安保闘争時の樺美智子以来のことで、社会に多大の衝撃を与え、同時に警察力に押え込まれ沈滞していた学生運動が再び高揚する契機となった。 以後、ヘルメットとゲバ棒で武装した新左翼のデモ隊と機動隊との激しいゲバルトが一般化した。佐世保、三里塚、王子と、本書では「激動の7ヵ月」といわれる大闘争が連続的に闘われることになる。有名な全共闘の闘争スタイルも、直接のルーツはこの10.8闘争にあるとされ、67年10月8日は革命的左翼誕生の日として新左翼史上特筆される。山崎博昭の死に触発されて、多くの学生が新左翼運動に参加した。

四番目の死は、1969年4月20日の華青闘活動家・李智成(台湾籍)の出入国管理法案に対する抗議の服毒自殺である。本書下巻では、李の死を「70年のパラダイム転換」として特別に扱っている。李の死を伴った抗議が1970年7月7日の華青闘による新左翼批判に結実し、自己批判した新左翼は、以後、マイノリティー(在日アジア人、沖縄問題、同和問題、リブ等)解放闘争を開始するとともに、新左翼の倫理主義的傾向(加害者意識、内なる差別)を加速させた。

五番目の死は、1969年7月のブント赤軍派の同志社大生・望月上史の死である。1969年7月6日、ブント内の赤軍派と主流派である仏(さらぎ)派との衝突後、主流派により中大内に監禁暴行されていた赤軍派・望月上史が逃亡の途中、中大校舎3階から転落、29日に死亡した。内ゲバによる初の死者である。赤軍派は、その登場から、死者を伴うものだった。

六番目の死は、1970年8月4日の革マル派学生・海老原俊夫の死である。革共同中核派の一団が、対立する革共同革マル派の教育大生・海老原俊夫を法政大学に連れ込み、先に被ったリンチの報復として、海老原を死に至らしめた。以降、新左翼各派の内ゲバは激化し、前出の『新左翼とは~』のとおりの死者数を出す契機となってしまった。

七番目の死は、1970年12月18日、日本共産党革命左派(以下、「革命左派」と略記。)・柴野春彦による東京・板橋の上赤塚署交番襲撃における死である。柴野は交番襲撃に失敗し、警官に銃殺された。革命左派は後にブント赤軍派と合体して連合赤軍を形成したが、この死は、革命左派の武装路線を運命づけたものだった。

八番目の死は、1971年8月3日~10日、連合赤軍からの脱退を意思表示した、早岐やす子と向山茂徳の処刑である。2人の処刑の経緯等は本書下巻に詳しいのでここには書かないが、この処刑が連合赤軍の山岳アジト総括リンチ殺人の直接的契機となったという。

権力側の死亡者

新左翼・全共闘運動における警備側の死は、日大闘争で起きている。1968年9月29日、先の4日の衝突の際に全共闘側の投石により頭部重症を負った機動隊員西条秀雄が死亡した。

三里塚闘争では、1971年9月の第二次代執行では警察官3名が死亡し(東峰十字路事件)た。なお、1977年5月8日、鉄塔の撤去に抗議する反対派と機動隊が衝突し、機動隊員の放ったガス弾を至近距離で頭部に受けた支援者の東山薫は5月10日に死亡した。

1972年2月19日に始まる、連合赤軍による「浅間山荘」銃撃戦において、機動隊員2名、民間人1名が死亡した。これらの死者が、前出の著者(小熊英二)の“要因”におさまるものなのか。

演劇的革命闘争とメディアの影響

新左翼・全共闘運動が、日本の全大学生数の1割にも満たない者によって担われながら、全国の大学に波及したのか。その回答として(想像にすぎないが)、テレビ等のマスメディアの普及を挙げておきたい。新左翼党派の「革命理論」は、原理主義的マルクス・レーニン主義であった。新左翼を代表する2つの党派の1つブントの場合、67年10.21羽田闘争から1969年秋の「決戦」に至るまで、1960年安保闘争で獲得した一揆主義(行動主義)から一歩も進歩していない。また、革命的共産主義者同盟中核派においても同様である。彼らの戦略は、スケジュール化された街頭闘争において機動隊と衝突し、マスコミ報道があれば、労働者が覚醒し革命が近づくというものであった。革マル派の場合は、日本共産党に代わる、反帝国主義・反スターリン主義を綱領とした前衛党建設に運動を一元化したものの、彼らが建設せんとした「革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」は、オールド左翼以上のスターリン主義政党であった。

しかし、新左翼の実態はともかくとして、本書が命名した「激動の7ヶ月」における三派系全学連と機動隊が衝突する映像がテレビを通じて全国に流れたとき、そして、彼らの「純粋性」が雑誌等を通じて全国に流通したとき、多くの意識的学生が心を惹かれたのである。ブントの一揆主義=演劇的武装闘争が市民権を得て、若者の心を捉えたのである。

学園闘争=全共闘運動はその始原においては、本書が明らかにしたように、地味な学内民主化運動、施設改善運動であった。しかし68年、日大闘争、東大闘争にスポットが浴びて全国に伝えられたとき、やはり、多くの若者の心を捉えたのである。そのとき、「自己否定」という倫理が若者の心を捉えたのである。69年1月、東大安田講堂攻防戦の落城までの模様が全国にテレビ中継されたとき、演劇的武装闘争は頂点に達し、全国の大学生のみならず受験生までもが、全共闘運動に興味を覚え、その年の4月以降、運動は全国化したのである。

残念ながら、街頭と学園の演劇的武装闘争は67年の秋から69年の秋まで繰り返され、結局その限界が自覚された69年末から70年代、新左翼党派は、倫理主義、決意主義のリゴリズムを強め、空想的革命戦争論へと傾斜した。本書のいう“パラダイムシフト”が始まったのである。赤軍派、革命左派、爆弾グループへと引き継がれ、最後は破滅したのである。

倫理的な痩せ細りの嘘くらべ

以下の吉本隆明の記述(「情況への発言」1984年5月『情況へ』収録)は、『吉本隆明1968』(鹿島茂[著])からの孫引き引用である。

こういう相も変わらずの〈倫理的な痩せ細りの嘘くらべ〉の論理で、黒田喜夫はいったい何をいいたいんだ。また、何もののために、何を擁護したいんだ。
(中略)
われわれが「左翼」と称するもののなかで、良心と倫理の痩せくらべをどこまでも自他に脅迫しあっているうちに、ついに着たきりスズメの人民服や国民服を着て、玄米食に味噌と野菜を食べて裸足で暮らして、24時間一瞬も休まず自己犠牲に徹して生活している痩せた聖者の虚像が得られる。そして、その虚像は民衆の解放ために、民衆を強制収容したり、虐殺したりしはじめる。はじめの倫理の痩せ方根底的に駄目なんだ。そしてその嘘の虚像にじぶんの生きざまがより近いと思い込んでいる男が、そうでない「市民社会」に「狂気にも乞食にも犯罪者にもならず生きて在る」男はもちろん、それにじぶんよりも近い生活をしている男を、倫理的に脅迫する資格があると思い込み、嘘のうえに嘘を重ねていく。この倫理的な痩せ細り競争の嘘と欺瞞がある境界を超えたときどうなるか。もっとも人民大衆解放に忠実に献身的に殉じているという主観的おもい込みが、もっとも大規模に人民大衆の虐殺と強制収容所と弾圧に従事するという倒錯が成立する。これがロシアのウクライナ共和国の大虐殺や、強制収容所から、ポル・ポトの民衆虐殺までのいわゆる「ナチスよりひどい」歴史の意味するところだ。そしてこの倒錯の最初の起源が、じつに黒田喜夫のような良心と苦悶の表情の競いあいの倫理にあることはいうまでもない。
(中略)
幸福そうな市民たち(いいかえれば先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者)が大多数を占めるようになることが解放の理想であり、着たきりの人民服や国民服を着て玄米食と味噌を食っている凄みのある清潔な倫理主義者が、社会を覆うのが理想でも解放でもない。それは途方もない倒錯だ。黒田喜夫におれのいうことがわかるか。おれたちが何を打とうとしているか、消滅させなければならないのが、どんな倒錯の倫理と理念だとおもってたたかっているのかがわかるか(P417~P418)
吉本隆明が批判した詩人の黒田喜夫は新左翼の活動家ではない。だがしかし、新左翼・全共闘運動の活動家、とりわけ、連合赤軍の活動家の実態が記された本書下巻を読むとき、両者がそっくり重なってしまうのである。吉本隆明は、“解放の理想とは、幸福そうな市民たち(いいかえれば先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者)が大多数を占めるようになること”だと看破した。

吉本隆明に従えば、新左翼・全共闘運動の活動家が運動から離脱し、企業に就職していったのは、中級の経済的・文化的な消費生活が獲得されたことを確認したからだろうか、倒錯の倫理、理念から逃れて・・・