2009年11月5日木曜日

役割は終わった-“Social”か“Individual”か

総選挙に民主党が圧勝してから最初の国会が開催された。代表質問終了後のテレビのインタビューに、田中真紀子民主党議員は次のように答えた。「自民党は終わった、という感じですね、わたしがいたころの自民党とは・・・(全然、違う。)」。

田中は、小泉政権下でその人気を買われ外務大臣に就任したが、同省内でゴタゴタを引き起こし解任された。結局、田中は自民党を出て無党派議員となり、先の総選挙直前に民主党に入党した。彼女にしてみれば、このたびの自民党の代表質問のテイタラクを目の当たりにして、それなりの思いが込み上げてきたのだと思う。それほど、自民党の代表質問は酷かった。その様子をテレビで見た国民の誰しもが、「自民党は終わった」と思ったであろう。

いま行われている予算委員会等における野党側(自民党)の質問も、民主党の勢いを止めるには至っていない。自民党の質問者の言葉は、自民党の確固たる政策から発せられたものでないことが、その重さから感じ取られてしまうのである。先に行われた参院補選で自民党が二連敗したことが、そのことをなによりも証明している。

政権奪取後、民主党政権が取り組んでいる諸課題とは、大雑把に言えば、長年続いた自民党政治の負の遺産の後始末、清算である。例えば、八ッ場ダムが象徴するのは自民党が行ってきた大型公共事業の継続性の是非であり、子供手当てが象徴するのは、小泉・竹中自民党が断行した福祉政策後退の是正であり、郵政民営化の見直しは、自民党が切り捨てた、地域生活ネットワーク拠点の再生に関する試行であり、JAL経営問題は、無責任な航空行政と空港建設に引きずられた巨大企業の経営破綻処理である。

まず、郵政民営化の見直しを考えてみよう。小泉政権の下、郵政民営化を実質的に進めた竹中平蔵は、テレビに出演して、民営化の前、郵便局に貯蓄された国民の預金は、財政投融資として大蔵省(当時)の裁量によって恣意的に使われ、特殊法人等にノーチェックで流れていたと説明している。ところが、経済評論家の森永卓郎は、この竹中平蔵の説明にかなり前から反論しており、森永は自身のブログで、次のように説明している。

■(竹中が主張する郵政民営化により、)特殊法人への資金の流れが変わるという件であるが、これは誤解なのか曲解なのか、前提に大きな誤りがある。というのも、すでに2001年に財政投融資制度は廃止となっており、郵政公社が特殊法人に資金をそのまま流していたという指摘は当たらないからだ。では、郵政公社はどうしていたかというと、政府が保証をつけている財投債、あるいは財投機関が発行する財投機関債を、マーケットで買って資金運用をしていたのである。だが、この財投債は民間銀行も購入しているものであり、そもそもマーケットを通じて買うのだから、特殊法人に金を流しているという批判は当たらない。政府が財投債を売って、政府がその金を特殊法人に流していたのであるから、特殊法人を温存していた責任があるのは政府なのであって、郵政公社には責任はなかったのだ。■

大蔵省(現財務省)が財投を巨大公共事業に勝手にまわした(霞ヶ関の隠れた財布)という竹中の説明は、郵貯のいつの時代の話なのか。さらに、郵貯銀行を銀行法の下におくという竹中の企図は一見、正当に思われるが、郵貯銀行が市井の一(いち)銀行として競争を続けても、せいぜいCクラスの銀行にとどまる。金融市場のメカニズムに従えば、郵貯銀行がいまできることといえば、せいぜい、最もリスクの低い事業、すなわち、国債の購入くらいであり、現にそれしか資金運用していないのである。

民主政権が行おうとする、“郵政民営化見直し案”とは、「郵便局」、すなわち、郵貯銀行を都市銀行として改変することではなく、国民生活のためになる機能を再発見し、その方向に事業目的を変更することなのだと思う。そのことが、亀井大臣の基本的な考え方なのだと思う。

さて、田中真紀子が発した、「自民党は終わった」という言葉に戻ろう。自民党の終わりとは何か、自民党の何がどう終わったのかを整理しなければなるまい。

自民党が果たしてきた役割とは、第一に、公共事業を駆使した集票による政権維持であった。たとえば、巨大ダムに代表されるような半世紀単位の工期の公共事業を官庁(たとえば国交省)に立案させ、それを餌にして、地域(選挙区)にカネが落ちる仕掛けをつくり込み、予算(工事費)と引き換えに票を得る。「地域」は自民党に議席を与えるかわりに、公共事業予算分相当の仕事を半世紀近く保証される。省庁も調査、監理に関する外郭団体等を設立できるメリットがあり、建設中は長期にわたって現場事務所に職員を貼り付けることができる。政権与党、官僚組織、ゼネコン(土建業者等)に必要なのはダムではなく、工事(調査、監理等を含む)なのである。

第二は、調整機能である。市場原理に従えば、地域の小規模小売業者は、全国規模の大規模小売業者が進出すれば、たちどころに、閉店・倒産・廃業を余儀なくされる。それを調整するのが、いろいろな法規制であり、大店法が代表的である。そればかりではない。立法化されない調整方法はいくらでもある。たとえば、日本の法令においては、法の下に省令、施行規則、大臣告示等が紐付けられていて、それらは、各省庁レベルで自由につくられている。官僚組織は、省令、施行規則等を駆使することにより、市場メカニズムを窓口レベルで制御することができる。それらを公布するのは大臣(=官庁)の権限だから、省庁は国会以上に、実質的立法権をもっているのである。自民党政権の時代、大臣(政治)はまったくそれらに関与できなかったから、官僚の裁量権は高まるばかりであった。

第三は、特定の団体等に優遇措置を与える権限である。顕著な例として、消費税が挙げられる。小規模事業者は、消費税の納付が免除されている。その結果、おそらく、小規模事業者は消費税が課せられた価格で商品を販売しながら、その分を納税せず、消費税分を利益としているのである。これを「益税」という。国民はすべての商品に消費税が課せられていると思っているけれど、消費者が小規模事業者(例えば小規模小売店)を通じて物品を購入した場合、消費税相当分は小規模事業者の懐に収まり、国庫に納付されることはない。消費税率が上がった場合、「益税」はさらに膨らみ、消費者の納税における不公平は是正されないどころか、拡大してしまうのである。小規模事業者は、自民党支持団体である商店会連合会、事業組合等を結成していて、自民党議員を応援する後援会に通じている。民主党が、消費税の納付における不公平を是正できるのかどうか。

輸入品と国内産品の価格調整も行われている。省庁権限で、輸入品と国内産品の価格を強制的に統一して市場に出すことができるようにすれば、国内業者は守られるが、消費者は実際に輸入された価格より高い価格でその商品を購入することになる。そこで生じた差額は、特殊法人・独立行政法人、公庫等(以下、「特殊法人等」という。)の内部に基金、準備金等の名目で蓄積される。これも「埋蔵金」の一つである。国内産品生産者は外国産との価格競争が回避され、生活を保障される。生産者は事業組合、社団法人等の業界団体を構成し、法制化に尽力した議員に組織的に投票する。調整権限をもつ省庁は、傘下の特殊法人等を確保し、天下り先となる。これも、「政」治-「官」庁-「財」界の癒着の構造の1つである。

自民党が与党であった時代、自民党の存在理由は、“与党であること”以外に見当たらなかった。政府与党という立場を利用して、予算を獲得し、政策という名目により諸々の団体等に利益供与をし、それと引き換えに票をもらい、政権を維持していた。民主主義をどう定義するのかは難しい問題だけれど、自民党政権下の日本とは、開発独裁型もしくは開発調整型の国家として成立・維持された国家であった。当時の日本国では、自民党議員が官僚に命じて自分たちに都合のよい法案をつくらせ、それを国会で立法化し、国家運営を実質的に官僚に丸投げしてきた。国民(市民)よりも「上位」にある管理者(官僚)と業団体が、共同の利害に基づき、合体した政体であった。

官僚機構が産業界を統制することにより、その効率を高め、グローバル市場において高い競争力をもつ企業を育成する一方、競争力の弱い業態については保護主義的政策でそれらを守った。小泉(当時)首相が「自民党をぶっこわす」と宣言したのは、まさにそのような政体を指したのである。2005年の「郵政解散」のとき、国民は、小泉(当時)首相が唱えた「郵政民営化」を、それまで維持してきた古い自民党政治を壊し、新たな市民優位の政体を確立する、スローガンだと錯覚した。

小泉政権が目指したのは、米国のような、Individual(個的)に重きを置く国家像であった。もちろん、そのような国家像は、日本、というよりも、ユーラシア的規模において馴染まない。旧大陸においては、歴史的重層性に規定された、Social(社会的)な国家が求められているからである。

自民党が半世紀にわたって維持してきた日本型産業優先調整国家が行き詰まり、さらに、米国を模倣した小泉政権下で進められたIndividual(個的)な競争社会がリーマンショックにより破綻し、そしていま、政権交代により、Social(社会的)な調整型国家が復権してきた。小泉政権以前の旧自民党と、現在の与党民主党の政策は、Individual(個的)にではなく、Social(社会的)に重きを置くという意味において、共通しているのである。

小泉政権が終わり、民主党政権が誕生するまでの間、自民党は、安倍、福田、麻生の3人の首相を輩出しながら、党として国家像を把握することに失敗した。Social(社会的)な国家像を描けば、当然、公的セクターの役割は増大し、官僚の役割は強まり、仕事は多くなる。民主党は、“官僚依存”を止めると宣言しただけであって、官僚制度を廃止するとは言っていない。ところが、「みんなの党」の渡辺喜美は、官僚制度の廃止を目指し、民主党を批判している。国民は、官僚制度が国民生活を豊かにする方向に機能すればいいわけで、渡辺喜美のような怨恨を官僚制度に抱いているわけではない。自民党が小泉政権のようなIndividual(個的)な国家像を目指せば、国民から見放され、党は崩壊するし、Social(社会的)な国家像を目指せば、民主党に取り込まれる。自民党の役割は、どうあがいても、終わったのである。