2010年2月24日水曜日

『吉本隆明の時代』

●絓秀実 ●2940円 ●作品社

(1)吉本隆明の年譜

本書の感想をまとめる前に、本書と関連する年代までの吉本隆明の略歴を見ておこう。これによって、本書が描いている時代の雰囲気がおおよそつかめると思う。

【吉本隆明略歴】

1924年 東京市月島生まれ。実家は熊本県天草市から転居してきた船大工
1937年 東京府立化学工業高校(現 東京都立化学技術高校)入学
1942年 米沢高等工業学校(現 山形大学工学部)入学
1945年 東京工業大学に進学
1947年 東京工業大学工学部電気化学科卒業
※大学卒業後2、3の町工場へ勤めたが、労働組合運動で職場を追われる。
1949年 東京工業大学の特別研究生の試験に合格
※給与を受けながら東京工業大学無機化学教室にもどり稲村耕雄助教授に就く。
1951年 特別研究生前期を終了後、当時インク会社として最大手、東洋インキ製造株式会社青砥工場に就職
1952年 詩集『固有時との対話』を自家版として発行
1953年 詩集『転位のための十篇』を自家版として発行
1954年 「荒地新人賞」を受賞 「荒地詩集」に参加
同年6月「反逆の倫理――マチウ書試論」(改題「マチウ書試論」)を発表
1956年 初代全学連委員長の武井昭夫と共著『文学者の戦争責任』を発表
同年   東洋インキ製造株式会社を労働組合運動により退職。
※同社退職後、長井・江崎特許事務所に隔日勤務。1970年まで同事務所に勤務継続。
1958年 『転向論』を発表
1959年 『芸術的抵抗と挫折』(未來社刊)を刊行。
1956年から1960年 花田清輝とのあいだで激しい論争を展開
1960年「戦後世代の政治思想」を『中央公論』に発表。
※60年安保闘争では全学連主流派に同伴・通過。6月行動委員会を組織。6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加。6月15日国会構内抗議集会で演説。「建造物侵入現行犯」で逮捕、18日釈放。逮捕、取調べの直後に、近代文学賞を受賞。
1961年 雑誌「試行」を創刊。
※その後『試行』において『言語にとって美とは何か』、『心的現象論』を執筆・連載。同誌は1997年12月19日付発行の74号にて終刊した。
1962年 「擬制の終焉」を発表
1965年 『言語にとって美とはなにか』を勁草書房より刊行
1968年 『吉本隆明詩集 現代詩文庫8』を思潮社より刊行
同年10月『吉本隆明全著作集2初期詩篇1』を第1回配本として勁草書房から刊行。著作集は1978年まで継続して刊行された。
同年12月『共同幻想論』を河出書房新社より刊行
1971年 『心的現象論序説』を北洋社から刊行。

(2)吉本隆明の4つの論争

吉本隆明が発言者として日本の言論・思想界に現れたのが1950年代中葉。そして、1960年代を通じて、広く支持を受けるようになった。その間(およそ10年)、吉本隆明は、言論・思想界において、4つの大きな論争を引き起こしている。論争の相手は、花田清輝(1909-1974)、武井昭夫(1927-)、黒田寛一(1927-2006)、丸山真男(1914-1996)。中で最も有名なのが、最初の花田との論争で、武井との論争を含めて、転向が主たるテーマであった。

本書の大筋としては、この4つの論争のそれぞれにおいて吉本が「勝利」したことをもって、彼が思想言論界に確固たる地位を築いた、と結論づける。

(3)革命運動における敗北と挫折の論理化

吉本が多くの者から支持を得た理由は、吉本がそれぞれの論争に勝利したからではない。彼がそのときどきの一部大衆の求める問いに対して、適正な回答を用意したからである。その最も重要なものの1つは、彼が左翼革命運動参加者に対し、その敗北の後のあり方を示したことだ。それを知識人論というのならばそのことゆえである。

前出の年譜で分かるように、吉本は職業としての「知識人」として自活する前、2度、職場を追われている。吉本が労働運動において、どのような活動家であったのかわからないが、「戦後革命」の自覚の下に労働運動に参加し、退職勧告を受けるほどのものだったと推測できる。そのとき、吉本は深刻な「パン」の問題に直面したことであろう。

その後に起った60年安保闘争において、彼はブントのデモの隊列に「一兵卒」として参加し逮捕された。労働運動及び60年安保闘争において、彼は敗者として挫折した(疎外された)。

近代以降の日本の左翼陣営において、革命を志向した知的大衆(学生)は数え切れないくらい存在し、そのうちの少数が体制内「革命組織」の官僚として「パン」を得るか、「革命的」もしくは「反革命的」もしくは「文学的」とかいわれる範疇に属する職業――たとえば大学教授・研究者、批評家、思想家、文学者等――に就いて「パン」を得る。その職にあずかれなかった多数の知的大衆は、企業に就職するか自営業者として「パン」を得る。彼らは卒業や結婚等の生活上の諸事項を契機として、左翼運動から離脱を余儀なくされる。自由浮動性をもたない生活者として。

日本の左翼知識人は、革命論もしくはそれを基礎付ける思想を論ずることばかりで、革命運動の敗北・挫折もしくは失敗の後を論じなかった。戦後革命の挫折の後、60年安保闘争の敗北の後、活動家の気分を韜晦する文学作品が世に出るにとどまっていた。政治党派にあっては、新旧を問わず、常に「革命勝利」と総括される(た)のである。

(4)「敗者」を救った転向論

アジア・太平洋戦争終了後の日本の知的大衆は、「敗戦」そして、その後の「戦後革命の挫折」という、異質の敗北を短期間に経験した。そのとき、衝撃を与えたのが吉本の転向論だった。著者は吉本転向論の肝を以下のとおりまとめている。
吉本の採った(既成左翼=スターリン主義者批判の)戦略は2つあった。1つは、非転向者に対して優位にある転向者を見出すという価値転倒をおこなうこと、そしてもう1つは党に代わる絶対的な価値を「大衆」として措定してみせること、これである。(P58)

吉本の「転向論」を一番歓迎したのは、転向文学者たちであった。彼らは非転向マルクス主義者への劣等意識にさいなまれてきたのが、吉本によって宮本顕治らよりも自らの転向が優位にあると思いえたのである。吉本の理論を敷衍すれば、宮本顕治の非転向は佐野、鍋山の転向よりも劣位にある。宮本顕治や小林多喜二はサイテーなのだ。なぜなら、佐野、鍋山にしても、ともかくは天皇制という大地制に触れているからだ。(P64)
転向者のほうが非転向者よりも上位にあるという吉本の断定は、50年代にあっては戦中の獄中転向者を救い、その後の60年安保闘争でも挫折者を救い、更に、60年代末から70年代初頭の新左翼・全共闘運動(以下「新左翼・全共闘運動」と略記。)の敗北者(多くは学生大衆)を救った。

吉本の転向論は、彼の「大衆の原像」もしくは「生活者第一主義」という独自の概念と通じており、これらの概念も含めて、運動に参加しながら新左翼党派のリゴリズム、規律・組織に失望した学生大衆や、卒業や就職等で運動から離脱を余儀なくされた学生大衆の精神の拠り所となった。

知識人というものは、普遍的であろうと専門的であろうと、呪われていようと選ばれていようと、職業革命家(前衛党内官僚)として、あるいは、知識や思想を“切り売り”する“売文”の徒として、「パン」を得られる者と定義できる。知識人の転向の問題が思想軸上の左(翼)と右(翼)の振幅の問題である一方、知的大衆の場合は、自由浮動性をもった学生という身分とそれをもたない生活者の背反性として現れる。学生大衆が直面する転向の問題は、革命的思想の獲得(知的上昇=自然過程)とパンの獲得(生活者)の対立であると吉本によって深化されて初めて、学生大衆の現実の進路の問題と重なったのである。大衆は、吉本の転向論に触れて、政治と生活の問題に立ち入ることができた。

(5)オルタナティブとしての<自立>

60年安保闘争の敗北後、吉本は、ブントから政治的ヘゲモニーを奪取した革命的共産主義者同盟(革共同)の指導者・黒田寛一批判を展開し、新左翼系知識人という範疇から離れ、自ら創刊した雑誌『試行』を根拠地として文筆活動に専念した。

60年安保闘争後、吉本は新左翼として職業的革命家の道を選ぶことなく、もちろん、時代迎合的知識人若しくは保守派知識人に移行することもなく、特許事務所勤務と同人誌編集発行という、「第三の道」を選択し実行した。吉本が示した「第三の道」は、学生運動に身を投じた若者が直面した、「パン」の問題に対する有益な回答となった。吉本は自らの選択を<自立>と命名したが、学生運動参加者が実生活に入るとき、彼らは、同人誌は創刊できないものの、体制を批判し過去と現在進行中の革命運動に共感しつつ、体制内賃労働者となっている自分の立ち位置を、<自立>だと自身に思わしめた。彼らがその後ずっと、吉本の本を買い続けた「吉本の良き読者」であったことは想像に難くない。

このような構造は、「新左翼・全共闘運動」終焉後に、拡大再生産されることとなった。同運動は、60年安保闘争をはるかに上回る数の学生運動参加者(戦後ベビーブーマーの参加)があり、それに応じた多数の革命運動からの離脱者を生んだからである。彼らもまた、吉本を信奉し、吉本の本を買う、吉本のよき読者であった。

(6)新左翼革命論の克服

第二の問題提起は、新左翼革命論の克服である。吉本が労働運動及び60年安保闘争参加の経験の中から既成左翼(日共及びソ連・中国等の疎外された社会主義国家群)に絶望し、60年安保闘争では新左翼党派のブントに参加したことは前出のとおりである。吉本が反スターリン主義を前面に押し出した思想家であることは明白だが、新左翼各派のそれとはアプローチが異なった。

60年安保闘争後、1967年10月21日の第一次羽田闘争以降、「新左翼・全共闘運動」を盛り上げた新左翼各派は、ヘルメット・ゲバ棒による街頭闘争=擬似的・演劇的暴力革命運動で成果をあげ、新左翼三派系全学連(革共同中核派・ブント・社会主義青年同盟解放派)は、大衆的支持を一時期ではあるが獲得した。しかし、権力側の弾圧強化により、新左翼の街頭闘争路線が行き詰まりをみせるようになってからは、新左翼の暴力の向かう道は、擬似的=演劇的暴力から、殺傷力をもった武器で権力を襲撃するゲリラ戦と、革命運動路線において対立する他党派との内ゲバ闘争に向けられてしまった。

たとえば、1970年の赤軍派ハイジャックが、当時でさえ過激なスターリン主義国家であると規定されていた北朝鮮を目的地としたことは(赤軍派が北朝鮮指導者を論破するという漫画的志を抱いていたか否かを問わず)、新左翼暴力革命の限界とスターリン主義克服の不十分性を明示していた。

また、革共同の革マル派と中核派(社青同解放派を含む)の内ゲバもしかりである。かりにも、新左翼党派が政権を奪取したとしたら、運動から離脱した学生大衆は、ポルポト派革命後のカンボジアのように、粛清されるか農村において強制労働をさせられるかのどちらかであろう。

新左翼各派の内ゲバ正当化の論理は、反革命を抹殺することが革命への道であるというもの。この論理は、ロシア革命においてレーニンがボルシェビキ主導によりプロレタリア独裁を成し遂げた歴史の事実に基づくならば、極めて危険かつ残念なことであるものの、革命の名において正しい。同時に、それは新左翼活動家に対し、革命の名において、現実の自由はおろか生存権すら奪い去られることを、(内ゲバ殺人や連合赤軍事件を通じて)証明してしまった。「新左翼・全共闘運動」後においては、新左翼の「内ゲバ革命論」を克服する道が求められていた。そして、そのとき、吉本が示した上部構造の独自性を証明するという思想的実験が、新左翼の「内ゲバ革命論」を克服する決定打のように見えた。

新左翼の「内ゲバ革命論」を克服する手段は、新新左翼の前衛党を組織し、新しい革命運動を展開するとはいかなかった。そういう選択肢が成立しなかった。吉本の<幻想過程>という概念は、新左翼の運動方針を規定する下部構造決定論を克服するものとして、また、前衛党が必然的に醸成する全体主義=スターリン主義を克服するものとして、「第三の道」足り得た。このことは後述する。

(7)新左翼暴力革命論を越えようとした吉本と黒田

激しい論戦を繰り広げた吉本と黒田であるが、著者は、吉本が“(新左翼の中で)黒田寛一と革マルだけが本気ですね”という吉本と鮎川信夫との対談の中の発言を引用(P193)し、吉本と黒田に異類のなかの同種を見いだし、吉本は黒田を認めているかのようなニュアンスのことを書いている。吉本と黒田の間には、60年安保闘争を共に戦った戦友意識があるのかもしれないが、両者の論争の決着はどちらかの論理的破綻という結末を待つまでもなく、今日において意味を失った。黒田型の知識人と吉本型の知識人が60年代に並存し得た歴史的背景があったわけであり、その時代においては、一方が他方を凌駕したともいえないし、論争の決着もつかなかった。それぞれがそれぞれの役割を果たした。

黒田と吉本に共通項がある。それは、両者がともに、革命の必然性を“資本主義の危機”に結びつけなかった点と、暴力革命主義=実践の克服である。革マル派は「プロレタリア的人間」になること=人間革命――を志向する。唯一かつ無謬の前衛党(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)の下に労働者・学生が結集し、革命可能なときが到来するまで待機する。待機した挙句、どのような手段で権力を奪取し、その後にいかに権力を行使するものかは定かではないが、とにかく世の人をすべからく「プロレタリア的人間」に仕立て上げるための努力を党として、惜しまないはずである。革マル派による多数派が形成されないうちは、彼らは孤立した密教的集団として閉じこもるほかはない。そして、いま現に革マル派は、そのような少数集団として存続している。

吉本も<自立>を掲げて、運動、実践という直接行動から離れた。自然過程において上昇した「革命の論理」は生活で相対化される。大衆の内部におけるその繰り返しの外側、すなわち、資本主義社会は発展し、権力の交代がありえたとしても体制変革=自己変革が同時的に進行することはないように思えた。黒田と吉本が「待機」している間、すなわち、「新左翼・全共闘運動」の嵐とともに、新左翼党派は、唯武器主義的暴力主義へと自己純化を遂げ、強い党内規律で党員を縛り上げるスターリン主義集団に転化していった。反スターリン主義を掲げた黒田党=革マル派は、新左翼他党派と一線を画することを第一義として、最も急進的なスターリン主義党になった。

黒田が指導した革マル派は、前衛党に内在的に発生するスターリン主義を克服するという思考回路をもっていない。自らが唯一絶対の前衛党であるという無賿性のもと、組織を温存し、今日に至っている。彼らが彼らのいう「プロレタリア的人間」による「世界革命」を達成しうる可能性は限りなくゼロに近く、今日、その存在意義は皆無に近い。がしかし、消滅はしていない。特定の労働組合及び大学自治会の内部に根をおろし、カルト集団のように存続している。

(8)「平和と民主主義」を掲げる市民主義者の実像

吉本の第4の論争相手は、政治学者・丸山真男である。日本において本格的市民主義運動が台頭したのは、60年安保闘争のさなかのことであった。60年安保闘争が、「民主か独裁か」(竹内好)という選択意識の下で闘われたことはよく知られている。当時の自民党政権(岸信介首相)が強行採決によって日米安保条約改定を国会通過させたことが、日本の民主主義の危機だと考えられた。その結果、新たな無党派層(=「市民」)が反安保勢力を構成することとなった。新たな勢力とは、①鶴見俊輔、藤田省三らの『思想の科学』系知識人グループ、②日共反主流派で除名された構造改革派グループ、③東大法学部系(丸山真男に代表される)学者・知識人グループ、④宗教者・芸術家――の4派であった。また、既成左翼系には、日共と社会党のどちらかの息のかかった(下部組織である)労働団体・文化団体、婦人団体があり、さらに、まったくの無党派層(たとえば「声なき声の会」等)もあった。

本書には、60年安保闘争に加わった市民主義者が闘争にどのように関わったかが記述されている。今日あまり知られていないものも多く、たいへん興味深く読めた。以下、市民主義者の60年安保闘争への関わりの実相を本書に準じてまとめておこう。

(A)鶴見・藤田の幻の「東海道線転覆計画」

本書には、市民主義を代表する鶴見・藤田が、東海道線特急「こだま号」(当時、新幹線はない)の転覆を思いつき、しかも、その実行を革共同指導者の黒田寛一に依頼していたという、驚くべきエピソードが紹介されている。依頼を受けた黒田は、この計画を「ブランキズム」と批判した。当然である。共産党に代わる革命的前衛党建設を目指す黒田してみれば、前衛党を媒介にしない直接行動がプロレタリア革命の前進に資するとは思うはずもない。列車転覆が社会的混乱を一時(いっとき)、生じさせたとしても、革命的状況を切り開くはずがないと確信していたであろう。まさにプティプル急進主義の自殺行為としか映らなかったはずである。

そればかりではない。鶴見・藤田は、安保闘争が終焉した後、この計画が幻に終わったことを幸いに、自らの政治思想キャリアから計画の抹消を図った痕跡があるらしい。「市民主義者」のいう「平和と民主主義」という看板も、信用できるものではなさそうだ。「新左翼・全共闘運動」において、彼らは構造改革派と連合して「ベ平連」運動を展開、学生大衆から一定の支持を受けていたし、今日「ベ平連」再評価の動きもあるというから、市民主義者の実際の顔を当時も今も、探る努力は必要のようだ。

ではなぜ、「平和と民主主義」を掲げる市民主義者、しかも、大学教授の職(二人とも闘争中に辞職したが)にあったほどのエスタブリッシュメントが、このような無謀な直接行動計画に行き着いたのか――2人の着想のプロセスが本書からは皆目わからないのが残念である。

(B)丸山の自民党分裂工作

丸山真男は、東大法学部を根拠地として、「思想としての民主主義=永久革命としての民主主義」を説く政治学者である。彼の市民社会論を大雑把に言えば、民主主義が機能するインフラのようなものが市民社会ということになり、日本の江戸時代後期、明治維新、大正デモクラシー、戦後(8.15)革命を経て、60年安保闘争(6.19革命)に、日本の市民社会誕生の萌芽を認めるものである。

その丸山は、東大法学部系大物政治学者のコネを使って、自民党分裂工作を図ったという。もちろん、この工作は失敗に終わっている。安保闘争中に自民党分裂工作を画策したのが東大法学部の教授であるというのも面白い話である。

(9)経済決定論批判

本書では、著者が唱える「1968年革命」を代表する新左翼革命運動の論客の典型として、岩田弘を紹介している。岩田は、(今日=1960年代末)、世界資本主義は危機にあり、その最も脆弱な環である日本資本主義に危機が顕著に現われていると説き、プロレタリア日本革命から世界革命を展望するという革命戦略を唱えた経済学者である。

新左翼の革命戦略は、概ね、経済決定論的傾向をもっており、革マル派を除く新左翼の現状分析はすべからく、世界経済の危機を認識するところから始まる。岩田理論を掲げて新左翼内のヘゲモニーを獲得したのが共産主義者同盟マルクス主義戦線派(ブント・マル戦派)であった。彼らは経済危機が革命戦略を規定するという新左翼党派の典型を示している。というよりも、経済決定主義とは、戦前の日本のマルクス主義者及び前衛党(日共)から新左翼(革マル派を除く)に共通する傾向なのであるが。

しかし、岩田の経済決定論に対して、革マル派を筆頭とする新左翼他党派は、資本主義が自ら延命するメカニズムをもっている点、また、プロレタリアートが革命にいかに関わるかという主体と党の問題を捨象している点を指摘し、マル戦派を攻撃した。革マル派からの批判を党内に持ち込んだブント諸派はマル戦派を論破し、彼らを党外に放逐してしまった。マル戦派は1968年に解体・消滅した。マル戦派を排除した後に結成された統一ブントの革命戦略は「前段階蜂起」といわれ、ブント赤軍派の革命戦略となった。

岩田のような危機論型革命戦略論は、「前段階蜂起」という修正を経てはいるものの、革マル派を除く新左翼の底流にある。経済決定論的傾向が新左翼の革命戦略から払拭されることはなかった。吉本は、当然、岩田を批判すると共に、新左翼の経済決定主義的傾向の革命戦略を批判した。革マル派を除く新左翼の街頭闘争が1968年を境に低迷するなか、全共闘運動等に参加した多くの学生大衆の中には、危機論型革命戦略に疑問を持ち始めたし、革マル派のような前衛党建設にも魅力を感じなくなってきた。吉本隆明は、新左翼運動とは一線を画し、『共同幻想論』などを通じ、新左翼各派の経済決定主義的傾向=スターリン主義的傾向を批判し続けた。

吉本と岩田弘の革命戦略をめぐる対立は、論戦に発展することはなかったが、ブント内部において、吉本隆明の共同体論の影響を受けた叛旗派が結成され、前段階蜂起を踏襲した戦旗派(後に赤軍派が分派)との間で、党内闘争が起こった。この党内闘争は、前者が吉本主義者であるという意味において、また、後者が経済決定主義を修正しつつ踏襲したという意味において、吉本vs岩田の代理戦争の要素を持っていないとはいえない。

(10)吉本思想の現代的課題

吉本隆明が日本の思想・言論界でヘゲモニーを獲得した理由は、日本革命運動が及ばなかったいくつかの重要なテーマに彼が取り組んだことにある。吉本のスターリン主義批判は、新・旧左翼を選ぶものではなかった。とりわけ、新左翼は反帝国主義・反スターリン主義を綱領化して結党し革命運動を展開しながらも、それを党内外において克服できなかった。著者が言うところの「1968年革命」は事実上、失敗しており、新左翼は理論的にも組織的にも破綻したのであって、その主因を、経済決定主義を払拭できなかったところに求めてもいい。

繰り返しになるが、著者の言う「1968年革命」を領導した新左翼の革命戦略は、黒田寛一(=革マル派)に代表される「真の」前衛党建設によるプロレタリア的人間革命、もしくは、岩田弘に代表される危機論型(=経済決定主義)暴力革命、の2つの道しか示しえなかった。

吉本隆明は1960年安保闘争の最中において、反スターリン主義を自らの闘争課題として選び取ったところにおいては、新左翼党派と同一のスタートラインに間違いなく立っていた。しかしながら、反スターリン主義を克服する問題意識と方法において、上記の新左翼の革命戦略及び運動とは一線を画し、別の道を選んだ。

重要なのは、著者の言う「1968年革命」は大きな問題を残しつつ、頓挫したということにある。「1968年革命」は、新左翼党派内部の抗争によって、100人を超す犠牲者を出して、終わった。吉本隆明がオルタナティブとして、新左翼を克服すべき思想を提示していながら、「1968年革命」においては、吉本は適正に読まれなかったというわけである。「吉本隆明像」の相対化とは、結局のころ、新左翼運動離脱者にしか、吉本の思想が受け入れられなかったのがなぜだったのか、という立論から開始されるべきなのである。換言すれば、「1968年革命」はなぜ、かくも無残に敗北したのかということに尽きる。

2010年2月20日土曜日

選手団長、能力なし-冬季五輪

バンクーバー五輪はあいかわらず、メダル獲得とともに、感動、感動・・・の紋切り型報道が喧騒状態を引き起こす。テレビをつけると、どこも同じような映像ばかり。困ったものだ。

メダルをとった選手、自己ベストを更新した選手のガンバリには敬意を表したいが、日本選手団の中には、耳を疑いたくなるようなミスが続発している。選手はがんばっているのだろうけど、選手団長以下、役員、コーチに緊張感が感じられない。

まず、スケルトン日本チームの女子選手が用具に関する規定違反で失格になった。競技実施前の検査で、使用するそりに国際ボブスレー・トボガニング連盟(FIBT)の規格検査をクリアしたことを示す認定ステッカーが貼られていなかったという。本人が日本を出発する前に誤ってはがし、現地入り後、チームも確認を怠っていた。また、そり競技では、リュージュ女子選手が重量超過違反で失格処分を受けた。フィギュア男子選手の場合は、競技途中で、靴の紐が切れた。紐が切れた原因は報道されていない。

服装問題でスノボ選手を血祭りに挙げたマスコミだが、肝心の競技に係るミスをまともに報道しないのはどういう理由なのか。少なくとも、選手団長の責任を問うだけの姿勢をマスコミは見せるべきだ。

選手団長任命ミス、その団長の管理ミス、コーチのミス・・・競技以前の問題だけに、選手は気の毒。

2010年2月18日木曜日

モノトーンの朝





また雪。積もらなかったけれど。

さて、昨日は杖をつきながら、重いキャリーをもって地下鉄の階段を昇っている高齢のご婦人がいたので、キャリーを運んであげた。

今朝は、レシートを落としたこれまた高齢の男性がいたので、レシートを拾って手渡してあげた。

一日一善である。

2010年2月17日水曜日

再びニコライ堂










ニコライ堂は、日本ではあまり見られない、ギリシャ正教の聖堂である。

ギリシャ正教はロシア経由で日本にもたらされた。

ローマ帝国が東西に分かれたとき、東ローマ帝国=ビザンツ帝国(首都コンスタンチノープル/現在のイスタンブール)の国教となった。

内部・外部とも、忠実にビザンチン様式が継承されていることに驚く。正教の聖堂・教会内部には、はキリストや聖人の像を祀ることはなく、イコンで代替される。

2010年2月16日火曜日

神田明神









湯島聖堂から徒歩2-3分で、神田明神に。

神田明神の祭礼は、江戸三大祭に数えられる。

この神社の特徴は、なんとも、キッチュな原色の色使い。

しかも境内の置物(神々)にあまり威厳が感じられない。

不思議な神社でした。

2010年2月15日月曜日

湯島聖堂

訪問順に紹介すると、まず向かったのが、湯島聖堂。元禄時代、5代将軍徳川綱吉によって建てられた。本来は孔子廟である。

拙宅からは地下鉄千代田線「新御茶ノ水」下車。駅から徒歩2~3分と近い。「大成殿」内部には、いろいろな展示品がある。

聖堂裏手に立つ、巨大な孔子像が圧巻。









2010年2月14日日曜日

ニコライ堂





ここのところ週末はずっと悪天候にみまわれたけれど、きょうはどうにか晴れた。

そこで、御茶ノ水の湯島聖堂、神田明神、ニコライ堂、神保町を散策してきた。

東京に何十年も住んでいるのに、湯島聖堂、神田明神は初めて。ニコライ堂に入ったのも初めて。

とりあえず、ニコライ堂の写真を。教会の中は写真禁止です。

2010年2月13日土曜日

ドレスコード違反

日本の冬季五輪のスノボ選手の服装が問題になっている。ネットで確認して見たところ、あまり出来のよろしくない高校生のような着こなしである。ブレザーの下のシャツをパンツの上にたらし、しかも「腰パン」で、タイも緩め・・・

案の定、非難が集中して、この選手の大学に抗議電話が多数かかってきたという。所属する大学に抗議する人間もトンチンカンこのうえないが。

この騒動に対する筆者の感想はというと、この選手はいわゆる、ドレスコードに反している、という尺度において格好悪いし愚かである。たとえば、ブラックタイと書かれたパーティーにジーンズをはいて出席しようとしたようなものだ。そこまでいかなくとも、サラリーマンが大事な商談のとき、スーツをあのように着崩したら、商談もままならないであろう。ファッションセンス以前で彼は、相当ずれている。そういう意味でダサい。

さて、問題の彼は、自分が日本選手団という団体(集団)に属するという意識がなかったか、希薄だったのだと思う。“俺が勝てばいいんだろう”という意識を持っていたと思う。そういう考え方もあるし、そういう考え方は尊重したい。

その一方で、五輪選手が国家の代表であって、日の丸を揚げることを義務付けられている、という考え方もある。日本のマスコミは、後者である。日本選手は国のために戦うのだと盲信し、メダルをとれ、メダルをとれ、と選手に強要する。それが国民の願いだとマスコミは錯覚しているのだ。

筆者は、スポーツに限らず、文化というものが国家権力の関与を受けることはよくないことだと考える。サッカーW杯だって、日本代表の試合のほうがおもしろいから、応援し関心を払うのであって、彼らに「日の丸」を期待しない。応援するなら自国の選手のほうが、リアリティーがあるから、日本代表なのである。国が愛国心高揚や国家統合の手段として、スポーツ(五輪、W杯)を利用することは危険だと考えている。

マスコミ、そして、五輪等のスポーツをナショナリズムと結び付けたい輩は、この服装に対して非難を集中させた。そこには、五輪選手は、お国のためにメダルをとらなければいけない、粉骨砕身努力せよ、そして、その意識は、やがて、鬼畜米英に発展しかねない勢いなのである。

スノボの五輪選手の服装は前出の通り、ドレスコード違反にすぎない。この騒動の責任がだれにあるのかといえば、ドレスコードを選手団に明示しなかった団長や役員にある。五輪の選手にユニフォームの着用が義務付けられているということは、当然、その着こなしも一定のコードで義務付けられていることを通達しなければいけない。それが徹底できなかったのは、選手団長、役員の指示・伝達が悪いのである。

この選手があの格好で集合場所の成田空港に現れたのであれば、「君の服装はドレスコードに反している」と一言注意すればよかった。いまどきの若者ならば、ドレスコードの意味をすぐ理解できる。いまどきの若者に、ドレスダウンとドレスアップのTPOが理解できないわけはない。ユニフォームのドレスダウンに対して、一言、注意をすればすんだ。

2010年2月8日月曜日

『1968年』

●絓 秀実[著] ●903円(税込) ●ちくま新書



(1)「1968年革命」とは何か

著者によれば、いま現在は「1968年革命」に規定されているという。著者は「1968年革命」があったことを確信し、その確信に基づき、本書ほか何冊かの“1968年もの”を著わしている。それらに共通する見解は、当時(1968年前後)、先進国の若者を中心に始まった価値観の転換・多様化、新風潮・新風俗の誕生、反戦運動、暴力的政治叛乱等々のムーブメントは、40年余の間、徐々に実現しているということのようだ。たとえば、著者は反公害、エコロジー、女性の社会進出等々をその具体例として挙げており、もしかすると、2009年における米国のオバマ大統領誕生や日本の政権交代も、「1968年革命」の実現事項に含まれるというかもしれない。しかし、1968年当時、すでに物心ついた世代からすると、「1968年」と現在の間の「非連続性」「断絶」を強く意識するのではなかろうか。時代、歴史とは過去を保存しつつ新たな段階に移行するものであるから、過去が完全に清算されることはあり得ないとしても。

米国では、著者のいう「1968年革命」と似たような表現として、「1969年――米国の性革命」という言い方が流通している。それまで、ピューリタン的厳格な性道徳で支配されていた米国社会が、1969年を境に、フリーセックスと呼ばれるまでに解放されたことを指して言うのである。もちろん、広大で多様的な米国社会であるから、米国全土の性意識が一気に変革されたわけではない。

(2)1968年とはどんな時代であったか――日本の「1968年」の特性

「1968年」がどんな時代だったかについては本書に詳しく書かれており、ここに詳述することはさける。大雑把に記せば、震源地の米国において、学生を中心に、ベトナム反戦運動、公民権運動が激しく闘われ、ヒッピー文化が大きなうねりとなった。麻薬による幻覚をアート化したサイケデリック芸術が台頭し、反体制的意識を体現したプロテストソングやロックが音楽シーンを席巻した。その影響を受けた日本でも、全共闘運動を中心とした若者の叛乱が多発し、アングラ、フーテンといった新風俗が流行し、フォークソング、ロック等が音楽シーンにおいて大衆化した時代だった。西欧においては、フランスの「パリ5月革命」が名高く、西欧に生起した現象と米国、日本の現象に大きな差異はなかった。

(3)60年安保闘争-民主か独裁か

日本における「1968年革命」が、突然起こったわけではない。それを準備した最も大きな出来事が日本の敗戦=民主化であったことはいうまでもないが、敗戦以降ではまず、1960年安保闘争が画期的な出来事であった。敗戦により、軍部独裁・天皇制が崩壊し、米国占領下、日本は民主主義国家となった。平和憲法、公職追放等の動きに代表されるように、終戦直後の日本は概ね、米国の(当時の)理想主義者の指導の下、彼らが描く理想的民主主義国家として再建されようとした。また、戦時中、獄中にとらわれていた日本共産党(以後、「日共」と略記)や自由主義者らが解放され、なかで獄中非転向の日共幹部は党再建とともに神格化され、党内及び党周辺において絶対的権限をもつに至った。さらに、戦時中、軍部に協力した転向者が再転向して日共等に復帰した。

ところが、1950年の朝鮮戦争勃発による冷戦激化とともに、いわゆる「逆コース」が日本を襲った。公職追放されていたA級戦犯が復帰し、再軍備等とともに、急進的な民主主義化に歯止めがかかった。敗戦後、米国の理想主義者が吹き込んだ「自由と民主主義」の理念は一部実現をみたものの、朝鮮戦争の勃発=冷戦の激化を境に、著しく制限がかけられるにようになった。

60年安保闘争とは、日米間の安全保障条約の更新という事務的な問題に対する是非ではない。本書においてしばしば引用される竹内好の表現――“「民主」か「独裁」か”をもって闘われたのである。「民主」とは、戦後の米国の理想主義的政策の継続を図ろうとする考え方であり、「独裁」とは、冷戦を米国とともに乗り切るため、日本を反共の砦として再建しようとする、岸信介自民党政権に代表される考え方である。

「民主」は、終戦直後に米国によって行われた理想の民主主義をあくまでも日本に定着しようと目論み、日本を新しい国家として再建(ナショナリズム)しようとした。その意識は「反米愛国」とも同調した。「民主」は、「独裁」の反動政策の行く末として、日本の再軍備や徴兵制復活を、そして何よりも、米国側=自由主義陣営の一員として、社会主義国家群と戦争をすることを最も恐れた。当時の日本の母親たちは、子供や夫を、再び戦場には行かせないと考えた。

「独裁」は、反共を掲げ、すでに保守合同=1955年体制を確立し、朝鮮戦争特需を利用し、米国の軍事力の保護の下、経済復興を推し進めようとした。「独裁」は安保条約を、日本が戦争に巻き込まれないための「担保」だと位置づけた。今日では、「独裁」が進めた安保体制推進=安保改定が日本の繁栄を導いたという評価が一般的であり、日本の「共産主義化」を阻止たことを高く評価する見方が支配的である。つまり、「民主」が主張した安保条約廃棄は、当時の東西冷戦における軍事バランスに鑑みると、米国の軍事力及び核の傘から離脱するという非現実性を免れなかったというわけである。そして、その後に起こった東西ドイツ統一、ソ連邦崩壊といった東側(社会主義国家群)の消滅は、安保体制堅持を掲げた当時の自民党政権の正しさの証明として、今日、日本社会全般において常識となっている。

(4)反戦・非戦の思想――安保闘争のメンタリティー

「民主」が立脚するイデオロギーは多様で、人民戦線的な弱さを内在していた。「民主」を構成する勢力は、大きく分けて、①日共、社会党(労農派マルクス主義者、労働団体)を中心とする既成左翼、②市民主義者・修正主義者(日共内反主流派=構造改革派を含む。その一部は後に社会党に流入)、③無党派反戦派、④反日共系新左翼――の4つであった。④のうち、学生を中心にして結党された共産主義者同盟(ブント)は、安保闘争の最中、安保反対陣営の中心的存在にまで成長した。ブントの指令により学生を中心とするデモ隊が国会突入を図り、機動隊との衝突で1名の東大生の命が失われたが、安保条約は自動更新され、安保闘争も沈静化した。

安保闘争は国民の広範な層からの反対運動参加を実現したが、労働者の武装蜂起やゼネストといった“体制の危機”を招来するに至らなかった。安保闘争は、ブント系学生の国会突入デモと、広範な大衆の「独裁」=岸政権に対する「異議申し立て」をもって終焉した。過激なデモと既成左翼を越える政治集団に成長したはずの新左翼であったが、闘争後の情況の退潮と闘争の総括をめぐる混乱により、以降、政治活動は停滞した。

安保条約更新を進めた岸内閣は退陣したものの、その後を受けた池田首相の「所得倍増計画」を受けて、日本は60年代、経済大国への道をひた走ることになった。ブントは、安保闘争の過程で若手の知識人、思想家の支持を得たものの、以降は分裂を繰り返し、多くの活動家が「反帝国主義」「反スターリン主義」を綱領とする革命的共産主義者同盟(革共同)に流れた。革共同は、1957年に結成された「日本トロツキスト連盟」を前身とした、新たな前衛党建設を目指す新左翼集団。1960年代中葉に「革マル派」と「中核派」に分裂した。分裂後、2つの革共同は異なる路線をとりつつも、「1968年革命」を牽引したが、両者は内ゲバ闘争を激化させ多数の死者を出しながら、勢力を弱め、今日に至っている。

(5)「1968年革命」の担い手

1960年安保闘争の「民主」の側=運動の担い手のうち、55年体制に包摂されなかった勢力は、市民主義者(構造改革派及び先進的無党派層)及び新左翼であった。1967年、三派系全学連による、第1次羽田闘争=街頭闘争から開始された学生叛乱は、武装路線を新左翼が牽引し、穏健路線をベ平連(構造改革派)が牽引した。なお、構造改革派は、1969年前後に構造改革路線維持派とレーニン主義派(武装路線)に分裂した。

この脈略で言えば、「1968年革命」の担い手は、60年安保闘争の担い手の延長線上にあり、戦後ベビーブーマーの運動参加によって、「層としての学生」がボリューム化し量的拡大が実現したとはいえるが、基本構造は変わっていない。

(6)「1968年」は終わりの始まり――反戦平和(被害者意識)から自己否定(加害者意識)へ

本題の1968年の10月21日、その日は「国際反戦デー」であった。新宿駅を通過する米軍ジェット燃料を積んだ貨物列車阻止を掲げたブント系を除く新左翼各派及びそれに合流した一般大衆は、新宿駅構内に火を放ち、機動隊と衝突を繰り返した。ブントは当時六本木にあった防衛庁突入を図った。権力側は、新宿駅周辺の暴徒化した民衆に対し、破防法を発令した。この日、新左翼の街頭闘争は動員数及び大衆叛乱を引き起こしたという意味において、頂点に達した。がしかし、1968年から69年に年が変わってからというもの、新左翼街頭運動は後退戦を繰り返し、街頭闘争の限界性が露呈するようになる。

1968年「10.21国際反戦デー」は、新左翼の運動の終焉を示す記念すべき日なのである。その日が「反戦デー」であったことは象徴的である。この日をもって、日本の左翼運動を支えた反戦・非戦の被害者意識が反体制運動参加者の心情から消失し、それに代わる新たな意識に基づいた、新たな運動が開始されたからである。

「1968.10.21国際反戦デー」とは、1960年安保闘争以来、日本の左翼が拠り所とした「反戦・非戦」の意識が終わった日として記憶されるべきである。1967年10月8日の第1次羽田闘争から始まった三派系全学連の一連の街頭闘争(ゲバ棒、ヘルメット闘争)は、佐世保エンプラ闘争、王子野戦病院闘争等において、それなりに大衆的支持を得ていた。それは、一般大衆が三派系学生に反戦・非戦の意識を被せたからである。ところが、1968年の「反戦デー」を境に、一般大衆の新左翼運動を見る目も変わったが、それ以上に変わったのが、運動参加主体の意識のほうである。1969年秋の「前段階決戦」の敗北による新左翼各派の退潮とともに、「1970年7.7華青闘告発」から始まった、小さな物語――差別問題、フェミニズム問題等について、新左翼が取り組まざるを得なかったのは、大きな物語――自らが掲げた世界同時革命路線――が頓挫したこともあるが、運動参加者の多数派を占める全共闘系学生の倫理主義的傾向がその根源にあったからである。全共闘運動の倫理性とは、「われわれ(日本人)は被害者ではなく、加害者である」という意識であった。

60年安保闘争~1968年秋まで、ベ平連をふくめた日本の左翼運動は、新旧を問わず、プロレタリア革命(構造改革を含む)及び反戦平和主義を機軸とした。前者は貧困の克服と同義であったし、後者は日本が二度と戦争をしてはいけない、という思いであった。だが、戦後生まれのベビーブーマー世代が左翼陣営に登場するに従い、日本が再び「あの戦争」に巻き込まれることを倦むというよりは、日本が軍事を用いないまでも、既に米国の戦争に加担していることを倦むようになった。同時に、「あの戦争」において、日本(人)は多くの戦死者を出した被害者であったという嘆きよりも、アジア人民を抑圧した加害者であったことを悔やむようになっていた。日本人の「あの戦争」についての意識は、被害者から加害者の立場に一気に逆転した。さらに、その加害者意識は、現実に存在する差別――在日アジア人問題、同和問題、女性問題に向った。現に克服されない差別を前にして、自分たちは加害者だという意識は強烈に増殖した。そのとき、日本は、経済の高度成長により、敗戦=焼け跡・飢餓・貧困は忘却され、繁栄=都市化、情報化、大量生産・大量消費を享受する一方で、それらがもたらす新たな社会問題の克服というテーマを現実のものとしていた。

学生を支配した倫理主義は、「7.7華青闘告発」によって決定的になったとはいえるが、それまでに既に、全共闘参加学生たちに広く深く浸透していた意識であった。彼らは自分たちが豊かな国の「学生であること」をまずもって、否定した。「帝国主義大学粉砕」すなわち「戦後民主主義批判」である。その裏側には貧困に苦しむ第三世界人民に対する抑圧という罪障の意識があり、ベトナム戦争加担者であること、すなわち、ベトナム人民に対する抑圧者という立場の否定の意識があった。そして、土地を奪われる成田の農民、現実に差別を受けている在日アジア人、同和問題、女性差別問題・・・と、現実の自己の抑圧的立場を媒介にして、加害者としての自己否定意識は際限なく強まった。

(7)倫理的問題提起に対する3つの回答

こうした倫理主義の台頭に対して、新左翼各派は、世界革命、新たな前衛党建設、反帝・反スタを提示するにとどまった。それが、倫理主義に対する第一の回答だった。新左翼は、世界革命が成就すれば、差別や民族解放は一挙に解決すると説明した。ところが、このような新左翼の回答に限界を感じた者は、共同体論、民俗学、歴史学、神話(物語)学等の観点から、いまある「世界」「日本」を批判的に相対化しよと試みた。著者は、そのような新たな回答を求める動きとして、偽書の復権、吉本隆明の国家論・南島論、新宗教(後にオウム真理教がそれを代表するようになる)、網野歴史学、柳田民俗学の再評価・・・の台頭として、列挙している。それらが、第二の回答である。

第三の回答は、加害者としての日本(国家)を軍事的(爆弾)に破壊することであった。この戦略を採用したグループは、反日のスローガンと共に、大地の牙、狼、サソリといった名称を名乗ったが、そのイメージはアイヌや沖縄、縄文とも通底している。大地の牙、狼、サソリ等は、日本(大和)=国家=支配層=人間が、まがまがしい自然の象徴として排除してきたものにほかならない。が、それらを自らが名乗ることによって、自然を破壊した人間(国家=日本人)に対して、自然が復讐もしくは処罰を加えるという思いを込めたことは容易に想像できる。東アジア反日武装戦線の意識はその後の(爆弾を用いることはなかったが)カルチュラル・スタディーズ、エコロジー運動、地球主義、自然主義、サバルタン(「下層民」「従属民」)スタディーズ、ポストコロニアリズム、フェミニズム(※男性よりも女性のほうが自然に近い、といえるかどうかは議論もあるが)と同一次元にある。

「1968年」は、プロレタリア革命という--それまで当然として受け入れられていた、体制変革の方法論及びそれを担う労働者という主体――が多様化した結節点に当たる。1968年をもって、日本の革命運動が、近代「プロレタリア革命」という指向を相対化しようと、位相の転換を果たそうとした。同時に、日本の労働者が、貧困から脱したことを併せて意味している。

また、アジア・太平洋戦争の敗戦を契機として日本国民に内在化した、反戦・非戦の被害者意識が消滅し、多くはそのことを忘却し、その一方で自らの位置を倫理的に受け止めようとする者は、自らを帝国主義戦争に加担する者として、すなわち、加害者意識を自覚し、そのような自己を倫理的に否定しようと努めるようになった。

これらの転換を大雑把に言えば、プロレタリアという近代的な変革の主体が、マルチチュード、プレカリアート、サバルタンといった、ポストモダン的な変革主体に再規定されたと言い得る。「1968年」とは、変革主体の世界的変わり目(結節点)と日本の戦後意識の変容という特殊事情が重層化した動きを意味する記号として用いるのであれば、それはそれで意味をもつかもしれないが、さほど新しい見方ではない。

2010年2月5日金曜日

マスコミの「朝青龍報道」に異議あり

奇妙なのは、朝青龍に係るマスコミ報道のあり方である。「小沢不起訴」と「朝青龍引退」が大新聞の一面を二分していた。小沢報道では、小沢幹事長の名誉に関わりかねない報道が、“関係者によると”という形式でなされていた。あたかも、小沢幹事長が犯罪者であるかのごとく扱われていたのである。

朝青龍報道についてはどうだろうか。マスコミは、朝青龍が起こした事件の内容を一切報じない。“関係者によると”という記事も見当たらない。新聞・テレビは、朝青龍の事件に関しては、「起こった事」を一切報ぜず、小沢幹事長に関しては、“関係者”という幽霊のような存在の者の言うままに、記事を書き流した。関係者というのが、検察の担当者であることは、だれもが知っている。そのことを、「マスコミは、リークにのせられている」と批判されると、マスコミは、正当な取材だ、と嘯く。ふ~ん。

朝青龍事件のあったのは1月16日(土)の未明。本場所7日目にあたる。朝青龍は、その日、北勝力に勝っている。事件の詳細は、ネット及び一部マイナーな活字メディアが報じているのでそれに従うと、未明に泥酔した朝青龍は、西麻布の某飲食店の知人男性を殴打し、鼻の骨を折った。被害者男性は、その後、診断書持参で所轄の麻布警察署に何度か相談に訪れているらしい。朝青龍(側)は、ホームページにおいて、事件のあったことを認めたものの、被害にあったのは朝青龍のマネジャーだとして、マネジャー自身が被害者だと「告白」した記事をホームページに載せた。もちろん、この嘘はすぐにばれた。朝青龍側の措置は、HPに虚偽情報を流して、事件のもみ消しを図ろうとした疑いが極めて濃い。このことに関して、朝青龍に「説明責任」はないのか。

問題はそれだけにとどまらない。一部メディアの報道によると、被害者男性というのは一筋縄ではいかない人物だといわれ、素行があまりよろしくないとされている。被害者男性が暴力団関係者だという証拠はないものの、麻薬取引とも無縁ではないと言われている。いわゆる、グレーゾーンの人物のようだ。

それはともかく、被害者がどんな人物であれ、プロの格闘家が素人に暴力をふるい重症を負わせたとなれば、傷害事件である。格闘家の技は凶器とみなされているから、軽い刑では済まないだろう。ただし、一般に、だれかがだれかに傷害を負わせたからといって、すべてが事件になるわけではない。被害者が告訴をしないで示談に応じる場合もある。酒のうえで暴力沙汰に及び、ケガをさせた場合など、両者話し合いの上、被害者に示談金を渡し、双方が納得すれば、刑事事件にはならない。

マスコミ報道によると、警察に診断書を持参して相談にいった被害者男性は、加害者朝青龍(側)からの示談要請に既に応じたという。示談金がいくらだか知らないが、安くはないだろう。いずれにしても、朝青龍が刑事被告人になる可能性はこれでなくなった。そして、朝青龍は引退を表明し、角界から去った。しかし、示談の経緯に関して、朝青龍に「説明責任」はないのか。

朝青龍のこのたびの事件について、これで“一件落着”と、済ませられると思うのは、本人と高砂親方、相撲協会、そして、マスコミくらいだろう。

まず、本場所7日目、未明まで泥酔していたという事実。酒を飲もうが、カラオケをしようが、本割で勝てば文句あるまい――なのであろうか。相撲に素人の筆者には、未明まで酒を飲み泥酔して騒ぎを起こした「横綱」が、真剣勝負の格闘技において、その日の取り組みで簡単に勝ってしまうことが理解できない。「横綱」とはそれほどまでに強いものなのか。もちろん八百長だという証拠はない。八百長の嫌疑について、朝青龍に「説明責任」はいらないのか。

次に、知人男性もしくは飲食店関係者は、朝青龍と知り合いであることもわかっている。朝青龍が飲んでいた飲食店Fという店は、界隈でも、麻薬関係者等が出入りするところとして有名な店だとも言われている。もちろん、朝青龍が麻薬を常用していたとか、被害者男性が麻薬の売人であるとかいうつもりはない。だが、「国技」に関わり、公益法人(文科省)の最高位に身をおく者・横綱が、本場所中に盛り場で、しかも、いろいろな噂の絶えない店で泥酔していていいものなのか。それが「国技」「相撲道」とやらに反しないのか。麻薬関連で有名な店で朝青龍が泥酔したことと、被害者男性と朝青龍との関係について、朝青龍に「説明責任」はないのか。

朝青龍は「引退」したのだからそれでいい――というわけにはいかない。なぜならば、某週刊誌が、朝青龍がかつて、あるホステスに対して、性的暴力を加えたことが報じられているからだ。このような朝青龍に関する報道は、記者クラブ外から出たもの。小沢幹事長に説明責任をあれほどまでに迫ったマスコミは、ではなぜ、女性暴行事件の報道のある朝青龍に対して、「説明責任」を問わないのか。“関係者によれば”という報道を行わないのか。

朝青龍、相撲協会、マスコミの三者の間には、いかなる関係があって、国民が知りたいという願望に答えないのか、また、マスコミは、朝青龍及び相撲協会に対して、これだけの「説明責任」を問わないのか。