●絓 秀実[著] ●903円(税込) ●ちくま新書
(1)「1968年革命」とは何か
著者によれば、いま現在は「1968年革命」に規定されているという。著者は「1968年革命」があったことを確信し、その確信に基づき、本書ほか何冊かの“1968年もの”を著わしている。それらに共通する見解は、当時(1968年前後)、先進国の若者を中心に始まった価値観の転換・多様化、新風潮・新風俗の誕生、反戦運動、暴力的政治叛乱等々のムーブメントは、40年余の間、徐々に実現しているということのようだ。たとえば、著者は反公害、エコロジー、女性の社会進出等々をその具体例として挙げており、もしかすると、2009年における米国のオバマ大統領誕生や日本の政権交代も、「1968年革命」の実現事項に含まれるというかもしれない。しかし、1968年当時、すでに物心ついた世代からすると、「1968年」と現在の間の「非連続性」「断絶」を強く意識するのではなかろうか。時代、歴史とは過去を保存しつつ新たな段階に移行するものであるから、過去が完全に清算されることはあり得ないとしても。
米国では、著者のいう「1968年革命」と似たような表現として、「1969年――米国の性革命」という言い方が流通している。それまで、ピューリタン的厳格な性道徳で支配されていた米国社会が、1969年を境に、フリーセックスと呼ばれるまでに解放されたことを指して言うのである。もちろん、広大で多様的な米国社会であるから、米国全土の性意識が一気に変革されたわけではない。
(2)1968年とはどんな時代であったか――日本の「1968年」の特性
「1968年」がどんな時代だったかについては本書に詳しく書かれており、ここに詳述することはさける。大雑把に記せば、震源地の米国において、学生を中心に、ベトナム反戦運動、公民権運動が激しく闘われ、ヒッピー文化が大きなうねりとなった。麻薬による幻覚をアート化したサイケデリック芸術が台頭し、反体制的意識を体現したプロテストソングやロックが音楽シーンを席巻した。その影響を受けた日本でも、全共闘運動を中心とした若者の叛乱が多発し、アングラ、フーテンといった新風俗が流行し、フォークソング、ロック等が音楽シーンにおいて大衆化した時代だった。西欧においては、フランスの「パリ5月革命」が名高く、西欧に生起した現象と米国、日本の現象に大きな差異はなかった。
(3)60年安保闘争-民主か独裁か
日本における「1968年革命」が、突然起こったわけではない。それを準備した最も大きな出来事が日本の敗戦=民主化であったことはいうまでもないが、敗戦以降ではまず、1960年安保闘争が画期的な出来事であった。敗戦により、軍部独裁・天皇制が崩壊し、米国占領下、日本は民主主義国家となった。平和憲法、公職追放等の動きに代表されるように、終戦直後の日本は概ね、米国の(当時の)理想主義者の指導の下、彼らが描く理想的民主主義国家として再建されようとした。また、戦時中、獄中にとらわれていた日本共産党(以後、「日共」と略記)や自由主義者らが解放され、なかで獄中非転向の日共幹部は党再建とともに神格化され、党内及び党周辺において絶対的権限をもつに至った。さらに、戦時中、軍部に協力した転向者が再転向して日共等に復帰した。
ところが、1950年の朝鮮戦争勃発による冷戦激化とともに、いわゆる「逆コース」が日本を襲った。公職追放されていたA級戦犯が復帰し、再軍備等とともに、急進的な民主主義化に歯止めがかかった。敗戦後、米国の理想主義者が吹き込んだ「自由と民主主義」の理念は一部実現をみたものの、朝鮮戦争の勃発=冷戦の激化を境に、著しく制限がかけられるにようになった。
60年安保闘争とは、日米間の安全保障条約の更新という事務的な問題に対する是非ではない。本書においてしばしば引用される竹内好の表現――“「民主」か「独裁」か”をもって闘われたのである。「民主」とは、戦後の米国の理想主義的政策の継続を図ろうとする考え方であり、「独裁」とは、冷戦を米国とともに乗り切るため、日本を反共の砦として再建しようとする、岸信介自民党政権に代表される考え方である。
「民主」は、終戦直後に米国によって行われた理想の民主主義をあくまでも日本に定着しようと目論み、日本を新しい国家として再建(ナショナリズム)しようとした。その意識は「反米愛国」とも同調した。「民主」は、「独裁」の反動政策の行く末として、日本の再軍備や徴兵制復活を、そして何よりも、米国側=自由主義陣営の一員として、社会主義国家群と戦争をすることを最も恐れた。当時の日本の母親たちは、子供や夫を、再び戦場には行かせないと考えた。
「独裁」は、反共を掲げ、すでに保守合同=1955年体制を確立し、朝鮮戦争特需を利用し、米国の軍事力の保護の下、経済復興を推し進めようとした。「独裁」は安保条約を、日本が戦争に巻き込まれないための「担保」だと位置づけた。今日では、「独裁」が進めた安保体制推進=安保改定が日本の繁栄を導いたという評価が一般的であり、日本の「共産主義化」を阻止たことを高く評価する見方が支配的である。つまり、「民主」が主張した安保条約廃棄は、当時の東西冷戦における軍事バランスに鑑みると、米国の軍事力及び核の傘から離脱するという非現実性を免れなかったというわけである。そして、その後に起こった東西ドイツ統一、ソ連邦崩壊といった東側(社会主義国家群)の消滅は、安保体制堅持を掲げた当時の自民党政権の正しさの証明として、今日、日本社会全般において常識となっている。
(4)反戦・非戦の思想――安保闘争のメンタリティー
「民主」が立脚するイデオロギーは多様で、人民戦線的な弱さを内在していた。「民主」を構成する勢力は、大きく分けて、①日共、社会党(労農派マルクス主義者、労働団体)を中心とする既成左翼、②市民主義者・修正主義者(日共内反主流派=構造改革派を含む。その一部は後に社会党に流入)、③無党派反戦派、④反日共系新左翼――の4つであった。④のうち、学生を中心にして結党された共産主義者同盟(ブント)は、安保闘争の最中、安保反対陣営の中心的存在にまで成長した。ブントの指令により学生を中心とするデモ隊が国会突入を図り、機動隊との衝突で1名の東大生の命が失われたが、安保条約は自動更新され、安保闘争も沈静化した。
安保闘争は国民の広範な層からの反対運動参加を実現したが、労働者の武装蜂起やゼネストといった“体制の危機”を招来するに至らなかった。安保闘争は、ブント系学生の国会突入デモと、広範な大衆の「独裁」=岸政権に対する「異議申し立て」をもって終焉した。過激なデモと既成左翼を越える政治集団に成長したはずの新左翼であったが、闘争後の情況の退潮と闘争の総括をめぐる混乱により、以降、政治活動は停滞した。
安保条約更新を進めた岸内閣は退陣したものの、その後を受けた池田首相の「所得倍増計画」を受けて、日本は60年代、経済大国への道をひた走ることになった。ブントは、安保闘争の過程で若手の知識人、思想家の支持を得たものの、以降は分裂を繰り返し、多くの活動家が「反帝国主義」「反スターリン主義」を綱領とする革命的共産主義者同盟(革共同)に流れた。革共同は、1957年に結成された「日本トロツキスト連盟」を前身とした、新たな前衛党建設を目指す新左翼集団。1960年代中葉に「革マル派」と「中核派」に分裂した。分裂後、2つの革共同は異なる路線をとりつつも、「1968年革命」を牽引したが、両者は内ゲバ闘争を激化させ多数の死者を出しながら、勢力を弱め、今日に至っている。
(5)「1968年革命」の担い手
1960年安保闘争の「民主」の側=運動の担い手のうち、55年体制に包摂されなかった勢力は、市民主義者(構造改革派及び先進的無党派層)及び新左翼であった。1967年、三派系全学連による、第1次羽田闘争=街頭闘争から開始された学生叛乱は、武装路線を新左翼が牽引し、穏健路線をベ平連(構造改革派)が牽引した。なお、構造改革派は、1969年前後に構造改革路線維持派とレーニン主義派(武装路線)に分裂した。
この脈略で言えば、「1968年革命」の担い手は、60年安保闘争の担い手の延長線上にあり、戦後ベビーブーマーの運動参加によって、「層としての学生」がボリューム化し量的拡大が実現したとはいえるが、基本構造は変わっていない。
(6)「1968年」は終わりの始まり――反戦平和(被害者意識)から自己否定(加害者意識)へ
本題の1968年の10月21日、その日は「国際反戦デー」であった。新宿駅を通過する米軍ジェット燃料を積んだ貨物列車阻止を掲げたブント系を除く新左翼各派及びそれに合流した一般大衆は、新宿駅構内に火を放ち、機動隊と衝突を繰り返した。ブントは当時六本木にあった防衛庁突入を図った。権力側は、新宿駅周辺の暴徒化した民衆に対し、破防法を発令した。この日、新左翼の街頭闘争は動員数及び大衆叛乱を引き起こしたという意味において、頂点に達した。がしかし、1968年から69年に年が変わってからというもの、新左翼街頭運動は後退戦を繰り返し、街頭闘争の限界性が露呈するようになる。
1968年「10.21国際反戦デー」は、新左翼の運動の終焉を示す記念すべき日なのである。その日が「反戦デー」であったことは象徴的である。この日をもって、日本の左翼運動を支えた反戦・非戦の被害者意識が反体制運動参加者の心情から消失し、それに代わる新たな意識に基づいた、新たな運動が開始されたからである。
「1968.10.21国際反戦デー」とは、1960年安保闘争以来、日本の左翼が拠り所とした「反戦・非戦」の意識が終わった日として記憶されるべきである。1967年10月8日の第1次羽田闘争から始まった三派系全学連の一連の街頭闘争(ゲバ棒、ヘルメット闘争)は、佐世保エンプラ闘争、王子野戦病院闘争等において、それなりに大衆的支持を得ていた。それは、一般大衆が三派系学生に反戦・非戦の意識を被せたからである。ところが、1968年の「反戦デー」を境に、一般大衆の新左翼運動を見る目も変わったが、それ以上に変わったのが、運動参加主体の意識のほうである。1969年秋の「前段階決戦」の敗北による新左翼各派の退潮とともに、「1970年7.7華青闘告発」から始まった、小さな物語――差別問題、フェミニズム問題等について、新左翼が取り組まざるを得なかったのは、大きな物語――自らが掲げた世界同時革命路線――が頓挫したこともあるが、運動参加者の多数派を占める全共闘系学生の倫理主義的傾向がその根源にあったからである。全共闘運動の倫理性とは、「われわれ(日本人)は被害者ではなく、加害者である」という意識であった。
60年安保闘争~1968年秋まで、ベ平連をふくめた日本の左翼運動は、新旧を問わず、プロレタリア革命(構造改革を含む)及び反戦平和主義を機軸とした。前者は貧困の克服と同義であったし、後者は日本が二度と戦争をしてはいけない、という思いであった。だが、戦後生まれのベビーブーマー世代が左翼陣営に登場するに従い、日本が再び「あの戦争」に巻き込まれることを倦むというよりは、日本が軍事を用いないまでも、既に米国の戦争に加担していることを倦むようになった。同時に、「あの戦争」において、日本(人)は多くの戦死者を出した被害者であったという嘆きよりも、アジア人民を抑圧した加害者であったことを悔やむようになっていた。日本人の「あの戦争」についての意識は、被害者から加害者の立場に一気に逆転した。さらに、その加害者意識は、現実に存在する差別――在日アジア人問題、同和問題、女性問題に向った。現に克服されない差別を前にして、自分たちは加害者だという意識は強烈に増殖した。そのとき、日本は、経済の高度成長により、敗戦=焼け跡・飢餓・貧困は忘却され、繁栄=都市化、情報化、大量生産・大量消費を享受する一方で、それらがもたらす新たな社会問題の克服というテーマを現実のものとしていた。
学生を支配した倫理主義は、「7.7華青闘告発」によって決定的になったとはいえるが、それまでに既に、全共闘参加学生たちに広く深く浸透していた意識であった。彼らは自分たちが豊かな国の「学生であること」をまずもって、否定した。「帝国主義大学粉砕」すなわち「戦後民主主義批判」である。その裏側には貧困に苦しむ第三世界人民に対する抑圧という罪障の意識があり、ベトナム戦争加担者であること、すなわち、ベトナム人民に対する抑圧者という立場の否定の意識があった。そして、土地を奪われる成田の農民、現実に差別を受けている在日アジア人、同和問題、女性差別問題・・・と、現実の自己の抑圧的立場を媒介にして、加害者としての自己否定意識は際限なく強まった。
(7)倫理的問題提起に対する3つの回答
こうした倫理主義の台頭に対して、新左翼各派は、世界革命、新たな前衛党建設、反帝・反スタを提示するにとどまった。それが、倫理主義に対する第一の回答だった。新左翼は、世界革命が成就すれば、差別や民族解放は一挙に解決すると説明した。ところが、このような新左翼の回答に限界を感じた者は、共同体論、民俗学、歴史学、神話(物語)学等の観点から、いまある「世界」「日本」を批判的に相対化しよと試みた。著者は、そのような新たな回答を求める動きとして、偽書の復権、吉本隆明の国家論・南島論、新宗教(後にオウム真理教がそれを代表するようになる)、網野歴史学、柳田民俗学の再評価・・・の台頭として、列挙している。それらが、第二の回答である。
第三の回答は、加害者としての日本(国家)を軍事的(爆弾)に破壊することであった。この戦略を採用したグループは、反日のスローガンと共に、大地の牙、狼、サソリといった名称を名乗ったが、そのイメージはアイヌや沖縄、縄文とも通底している。大地の牙、狼、サソリ等は、日本(大和)=国家=支配層=人間が、まがまがしい自然の象徴として排除してきたものにほかならない。が、それらを自らが名乗ることによって、自然を破壊した人間(国家=日本人)に対して、自然が復讐もしくは処罰を加えるという思いを込めたことは容易に想像できる。東アジア反日武装戦線の意識はその後の(爆弾を用いることはなかったが)カルチュラル・スタディーズ、エコロジー運動、地球主義、自然主義、サバルタン(「下層民」「従属民」)スタディーズ、ポストコロニアリズム、フェミニズム(※男性よりも女性のほうが自然に近い、といえるかどうかは議論もあるが)と同一次元にある。
「1968年」は、プロレタリア革命という--それまで当然として受け入れられていた、体制変革の方法論及びそれを担う労働者という主体――が多様化した結節点に当たる。1968年をもって、日本の革命運動が、近代「プロレタリア革命」という指向を相対化しようと、位相の転換を果たそうとした。同時に、日本の労働者が、貧困から脱したことを併せて意味している。
また、アジア・太平洋戦争の敗戦を契機として日本国民に内在化した、反戦・非戦の被害者意識が消滅し、多くはそのことを忘却し、その一方で自らの位置を倫理的に受け止めようとする者は、自らを帝国主義戦争に加担する者として、すなわち、加害者意識を自覚し、そのような自己を倫理的に否定しようと努めるようになった。
これらの転換を大雑把に言えば、プロレタリアという近代的な変革の主体が、マルチチュード、プレカリアート、サバルタンといった、ポストモダン的な変革主体に再規定されたと言い得る。「1968年」とは、変革主体の世界的変わり目(結節点)と日本の戦後意識の変容という特殊事情が重層化した動きを意味する記号として用いるのであれば、それはそれで意味をもつかもしれないが、さほど新しい見方ではない。