(1)吉本隆明の年譜
本書の感想をまとめる前に、本書と関連する年代までの吉本隆明の略歴を見ておこう。これによって、本書が描いている時代の雰囲気がおおよそつかめると思う。
【吉本隆明略歴】
1924年 東京市月島生まれ。実家は熊本県天草市から転居してきた船大工
1937年 東京府立化学工業高校(現 東京都立化学技術高校)入学
1942年 米沢高等工業学校(現 山形大学工学部)入学
1945年 東京工業大学に進学
1947年 東京工業大学工学部電気化学科卒業
※大学卒業後2、3の町工場へ勤めたが、労働組合運動で職場を追われる。
1949年 東京工業大学の特別研究生の試験に合格
※給与を受けながら東京工業大学無機化学教室にもどり稲村耕雄助教授に就く。
1951年 特別研究生前期を終了後、当時インク会社として最大手、東洋インキ製造株式会社青砥工場に就職
1952年 詩集『固有時との対話』を自家版として発行
1953年 詩集『転位のための十篇』を自家版として発行
1954年 「荒地新人賞」を受賞 「荒地詩集」に参加
同年6月「反逆の倫理――マチウ書試論」(改題「マチウ書試論」)を発表
1956年 初代全学連委員長の武井昭夫と共著『文学者の戦争責任』を発表
同年 東洋インキ製造株式会社を労働組合運動により退職。
※同社退職後、長井・江崎特許事務所に隔日勤務。1970年まで同事務所に勤務継続。
1958年 『転向論』を発表
1959年 『芸術的抵抗と挫折』(未來社刊)を刊行。
1956年から1960年 花田清輝とのあいだで激しい論争を展開
1960年「戦後世代の政治思想」を『中央公論』に発表。
※60年安保闘争では全学連主流派に同伴・通過。6月行動委員会を組織。6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加。6月15日国会構内抗議集会で演説。「建造物侵入現行犯」で逮捕、18日釈放。逮捕、取調べの直後に、近代文学賞を受賞。
1961年 雑誌「試行」を創刊。
※その後『試行』において『言語にとって美とは何か』、『心的現象論』を執筆・連載。同誌は1997年12月19日付発行の74号にて終刊した。
1962年 「擬制の終焉」を発表
1965年 『言語にとって美とはなにか』を勁草書房より刊行
1968年 『吉本隆明詩集 現代詩文庫8』を思潮社より刊行
同年10月『吉本隆明全著作集2初期詩篇1』を第1回配本として勁草書房から刊行。著作集は1978年まで継続して刊行された。
同年12月『共同幻想論』を河出書房新社より刊行
1971年 『心的現象論序説』を北洋社から刊行。
(2)吉本隆明の4つの論争
吉本隆明が発言者として日本の言論・思想界に現れたのが1950年代中葉。そして、1960年代を通じて、広く支持を受けるようになった。その間(およそ10年)、吉本隆明は、言論・思想界において、4つの大きな論争を引き起こしている。論争の相手は、花田清輝(1909-1974)、武井昭夫(1927-)、黒田寛一(1927-2006)、丸山真男(1914-1996)。中で最も有名なのが、最初の花田との論争で、武井との論争を含めて、転向が主たるテーマであった。
本書の大筋としては、この4つの論争のそれぞれにおいて吉本が「勝利」したことをもって、彼が思想言論界に確固たる地位を築いた、と結論づける。
(3)革命運動における敗北と挫折の論理化
吉本が多くの者から支持を得た理由は、吉本がそれぞれの論争に勝利したからではない。彼がそのときどきの一部大衆の求める問いに対して、適正な回答を用意したからである。その最も重要なものの1つは、彼が左翼革命運動参加者に対し、その敗北の後のあり方を示したことだ。それを知識人論というのならばそのことゆえである。
前出の年譜で分かるように、吉本は職業としての「知識人」として自活する前、2度、職場を追われている。吉本が労働運動において、どのような活動家であったのかわからないが、「戦後革命」の自覚の下に労働運動に参加し、退職勧告を受けるほどのものだったと推測できる。そのとき、吉本は深刻な「パン」の問題に直面したことであろう。
その後に起った60年安保闘争において、彼はブントのデモの隊列に「一兵卒」として参加し逮捕された。労働運動及び60年安保闘争において、彼は敗者として挫折した(疎外された)。
近代以降の日本の左翼陣営において、革命を志向した知的大衆(学生)は数え切れないくらい存在し、そのうちの少数が体制内「革命組織」の官僚として「パン」を得るか、「革命的」もしくは「反革命的」もしくは「文学的」とかいわれる範疇に属する職業――たとえば大学教授・研究者、批評家、思想家、文学者等――に就いて「パン」を得る。その職にあずかれなかった多数の知的大衆は、企業に就職するか自営業者として「パン」を得る。彼らは卒業や結婚等の生活上の諸事項を契機として、左翼運動から離脱を余儀なくされる。自由浮動性をもたない生活者として。
日本の左翼知識人は、革命論もしくはそれを基礎付ける思想を論ずることばかりで、革命運動の敗北・挫折もしくは失敗の後を論じなかった。戦後革命の挫折の後、60年安保闘争の敗北の後、活動家の気分を韜晦する文学作品が世に出るにとどまっていた。政治党派にあっては、新旧を問わず、常に「革命勝利」と総括される(た)のである。
(4)「敗者」を救った転向論
アジア・太平洋戦争終了後の日本の知的大衆は、「敗戦」そして、その後の「戦後革命の挫折」という、異質の敗北を短期間に経験した。そのとき、衝撃を与えたのが吉本の転向論だった。著者は吉本転向論の肝を以下のとおりまとめている。
吉本の採った(既成左翼=スターリン主義者批判の)戦略は2つあった。1つは、非転向者に対して優位にある転向者を見出すという価値転倒をおこなうこと、そしてもう1つは党に代わる絶対的な価値を「大衆」として措定してみせること、これである。(P58)
吉本の「転向論」を一番歓迎したのは、転向文学者たちであった。彼らは非転向マルクス主義者への劣等意識にさいなまれてきたのが、吉本によって宮本顕治らよりも自らの転向が優位にあると思いえたのである。吉本の理論を敷衍すれば、宮本顕治の非転向は佐野、鍋山の転向よりも劣位にある。宮本顕治や小林多喜二はサイテーなのだ。なぜなら、佐野、鍋山にしても、ともかくは天皇制という大地制に触れているからだ。(P64)転向者のほうが非転向者よりも上位にあるという吉本の断定は、50年代にあっては戦中の獄中転向者を救い、その後の60年安保闘争でも挫折者を救い、更に、60年代末から70年代初頭の新左翼・全共闘運動(以下「新左翼・全共闘運動」と略記。)の敗北者(多くは学生大衆)を救った。
吉本の転向論は、彼の「大衆の原像」もしくは「生活者第一主義」という独自の概念と通じており、これらの概念も含めて、運動に参加しながら新左翼党派のリゴリズム、規律・組織に失望した学生大衆や、卒業や就職等で運動から離脱を余儀なくされた学生大衆の精神の拠り所となった。
知識人というものは、普遍的であろうと専門的であろうと、呪われていようと選ばれていようと、職業革命家(前衛党内官僚)として、あるいは、知識や思想を“切り売り”する“売文”の徒として、「パン」を得られる者と定義できる。知識人の転向の問題が思想軸上の左(翼)と右(翼)の振幅の問題である一方、知的大衆の場合は、自由浮動性をもった学生という身分とそれをもたない生活者の背反性として現れる。学生大衆が直面する転向の問題は、革命的思想の獲得(知的上昇=自然過程)とパンの獲得(生活者)の対立であると吉本によって深化されて初めて、学生大衆の現実の進路の問題と重なったのである。大衆は、吉本の転向論に触れて、政治と生活の問題に立ち入ることができた。
(5)オルタナティブとしての<自立>
60年安保闘争の敗北後、吉本は、ブントから政治的ヘゲモニーを奪取した革命的共産主義者同盟(革共同)の指導者・黒田寛一批判を展開し、新左翼系知識人という範疇から離れ、自ら創刊した雑誌『試行』を根拠地として文筆活動に専念した。
60年安保闘争後、吉本は新左翼として職業的革命家の道を選ぶことなく、もちろん、時代迎合的知識人若しくは保守派知識人に移行することもなく、特許事務所勤務と同人誌編集発行という、「第三の道」を選択し実行した。吉本が示した「第三の道」は、学生運動に身を投じた若者が直面した、「パン」の問題に対する有益な回答となった。吉本は自らの選択を<自立>と命名したが、学生運動参加者が実生活に入るとき、彼らは、同人誌は創刊できないものの、体制を批判し過去と現在進行中の革命運動に共感しつつ、体制内賃労働者となっている自分の立ち位置を、<自立>だと自身に思わしめた。彼らがその後ずっと、吉本の本を買い続けた「吉本の良き読者」であったことは想像に難くない。
このような構造は、「新左翼・全共闘運動」終焉後に、拡大再生産されることとなった。同運動は、60年安保闘争をはるかに上回る数の学生運動参加者(戦後ベビーブーマーの参加)があり、それに応じた多数の革命運動からの離脱者を生んだからである。彼らもまた、吉本を信奉し、吉本の本を買う、吉本のよき読者であった。
(6)新左翼革命論の克服
第二の問題提起は、新左翼革命論の克服である。吉本が労働運動及び60年安保闘争参加の経験の中から既成左翼(日共及びソ連・中国等の疎外された社会主義国家群)に絶望し、60年安保闘争では新左翼党派のブントに参加したことは前出のとおりである。吉本が反スターリン主義を前面に押し出した思想家であることは明白だが、新左翼各派のそれとはアプローチが異なった。
60年安保闘争後、1967年10月21日の第一次羽田闘争以降、「新左翼・全共闘運動」を盛り上げた新左翼各派は、ヘルメット・ゲバ棒による街頭闘争=擬似的・演劇的暴力革命運動で成果をあげ、新左翼三派系全学連(革共同中核派・ブント・社会主義青年同盟解放派)は、大衆的支持を一時期ではあるが獲得した。しかし、権力側の弾圧強化により、新左翼の街頭闘争路線が行き詰まりをみせるようになってからは、新左翼の暴力の向かう道は、擬似的=演劇的暴力から、殺傷力をもった武器で権力を襲撃するゲリラ戦と、革命運動路線において対立する他党派との内ゲバ闘争に向けられてしまった。
たとえば、1970年の赤軍派ハイジャックが、当時でさえ過激なスターリン主義国家であると規定されていた北朝鮮を目的地としたことは(赤軍派が北朝鮮指導者を論破するという漫画的志を抱いていたか否かを問わず)、新左翼暴力革命の限界とスターリン主義克服の不十分性を明示していた。
また、革共同の革マル派と中核派(社青同解放派を含む)の内ゲバもしかりである。かりにも、新左翼党派が政権を奪取したとしたら、運動から離脱した学生大衆は、ポルポト派革命後のカンボジアのように、粛清されるか農村において強制労働をさせられるかのどちらかであろう。
新左翼各派の内ゲバ正当化の論理は、反革命を抹殺することが革命への道であるというもの。この論理は、ロシア革命においてレーニンがボルシェビキ主導によりプロレタリア独裁を成し遂げた歴史の事実に基づくならば、極めて危険かつ残念なことであるものの、革命の名において正しい。同時に、それは新左翼活動家に対し、革命の名において、現実の自由はおろか生存権すら奪い去られることを、(内ゲバ殺人や連合赤軍事件を通じて)証明してしまった。「新左翼・全共闘運動」後においては、新左翼の「内ゲバ革命論」を克服する道が求められていた。そして、そのとき、吉本が示した上部構造の独自性を証明するという思想的実験が、新左翼の「内ゲバ革命論」を克服する決定打のように見えた。
新左翼の「内ゲバ革命論」を克服する手段は、新新左翼の前衛党を組織し、新しい革命運動を展開するとはいかなかった。そういう選択肢が成立しなかった。吉本の<幻想過程>という概念は、新左翼の運動方針を規定する下部構造決定論を克服するものとして、また、前衛党が必然的に醸成する全体主義=スターリン主義を克服するものとして、「第三の道」足り得た。このことは後述する。
(7)新左翼暴力革命論を越えようとした吉本と黒田
激しい論戦を繰り広げた吉本と黒田であるが、著者は、吉本が“(新左翼の中で)黒田寛一と革マルだけが本気ですね”という吉本と鮎川信夫との対談の中の発言を引用(P193)し、吉本と黒田に異類のなかの同種を見いだし、吉本は黒田を認めているかのようなニュアンスのことを書いている。吉本と黒田の間には、60年安保闘争を共に戦った戦友意識があるのかもしれないが、両者の論争の決着はどちらかの論理的破綻という結末を待つまでもなく、今日において意味を失った。黒田型の知識人と吉本型の知識人が60年代に並存し得た歴史的背景があったわけであり、その時代においては、一方が他方を凌駕したともいえないし、論争の決着もつかなかった。それぞれがそれぞれの役割を果たした。
黒田と吉本に共通項がある。それは、両者がともに、革命の必然性を“資本主義の危機”に結びつけなかった点と、暴力革命主義=実践の克服である。革マル派は「プロレタリア的人間」になること=人間革命――を志向する。唯一かつ無謬の前衛党(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)の下に労働者・学生が結集し、革命可能なときが到来するまで待機する。待機した挙句、どのような手段で権力を奪取し、その後にいかに権力を行使するものかは定かではないが、とにかく世の人をすべからく「プロレタリア的人間」に仕立て上げるための努力を党として、惜しまないはずである。革マル派による多数派が形成されないうちは、彼らは孤立した密教的集団として閉じこもるほかはない。そして、いま現に革マル派は、そのような少数集団として存続している。
吉本も<自立>を掲げて、運動、実践という直接行動から離れた。自然過程において上昇した「革命の論理」は生活で相対化される。大衆の内部におけるその繰り返しの外側、すなわち、資本主義社会は発展し、権力の交代がありえたとしても体制変革=自己変革が同時的に進行することはないように思えた。黒田と吉本が「待機」している間、すなわち、「新左翼・全共闘運動」の嵐とともに、新左翼党派は、唯武器主義的暴力主義へと自己純化を遂げ、強い党内規律で党員を縛り上げるスターリン主義集団に転化していった。反スターリン主義を掲げた黒田党=革マル派は、新左翼他党派と一線を画することを第一義として、最も急進的なスターリン主義党になった。
黒田が指導した革マル派は、前衛党に内在的に発生するスターリン主義を克服するという思考回路をもっていない。自らが唯一絶対の前衛党であるという無賿性のもと、組織を温存し、今日に至っている。彼らが彼らのいう「プロレタリア的人間」による「世界革命」を達成しうる可能性は限りなくゼロに近く、今日、その存在意義は皆無に近い。がしかし、消滅はしていない。特定の労働組合及び大学自治会の内部に根をおろし、カルト集団のように存続している。
(8)「平和と民主主義」を掲げる市民主義者の実像
吉本の第4の論争相手は、政治学者・丸山真男である。日本において本格的市民主義運動が台頭したのは、60年安保闘争のさなかのことであった。60年安保闘争が、「民主か独裁か」(竹内好)という選択意識の下で闘われたことはよく知られている。当時の自民党政権(岸信介首相)が強行採決によって日米安保条約改定を国会通過させたことが、日本の民主主義の危機だと考えられた。その結果、新たな無党派層(=「市民」)が反安保勢力を構成することとなった。新たな勢力とは、①鶴見俊輔、藤田省三らの『思想の科学』系知識人グループ、②日共反主流派で除名された構造改革派グループ、③東大法学部系(丸山真男に代表される)学者・知識人グループ、④宗教者・芸術家――の4派であった。また、既成左翼系には、日共と社会党のどちらかの息のかかった(下部組織である)労働団体・文化団体、婦人団体があり、さらに、まったくの無党派層(たとえば「声なき声の会」等)もあった。
本書には、60年安保闘争に加わった市民主義者が闘争にどのように関わったかが記述されている。今日あまり知られていないものも多く、たいへん興味深く読めた。以下、市民主義者の60年安保闘争への関わりの実相を本書に準じてまとめておこう。
(A)鶴見・藤田の幻の「東海道線転覆計画」
本書には、市民主義を代表する鶴見・藤田が、東海道線特急「こだま号」(当時、新幹線はない)の転覆を思いつき、しかも、その実行を革共同指導者の黒田寛一に依頼していたという、驚くべきエピソードが紹介されている。依頼を受けた黒田は、この計画を「ブランキズム」と批判した。当然である。共産党に代わる革命的前衛党建設を目指す黒田してみれば、前衛党を媒介にしない直接行動がプロレタリア革命の前進に資するとは思うはずもない。列車転覆が社会的混乱を一時(いっとき)、生じさせたとしても、革命的状況を切り開くはずがないと確信していたであろう。まさにプティプル急進主義の自殺行為としか映らなかったはずである。
そればかりではない。鶴見・藤田は、安保闘争が終焉した後、この計画が幻に終わったことを幸いに、自らの政治思想キャリアから計画の抹消を図った痕跡があるらしい。「市民主義者」のいう「平和と民主主義」という看板も、信用できるものではなさそうだ。「新左翼・全共闘運動」において、彼らは構造改革派と連合して「ベ平連」運動を展開、学生大衆から一定の支持を受けていたし、今日「ベ平連」再評価の動きもあるというから、市民主義者の実際の顔を当時も今も、探る努力は必要のようだ。
ではなぜ、「平和と民主主義」を掲げる市民主義者、しかも、大学教授の職(二人とも闘争中に辞職したが)にあったほどのエスタブリッシュメントが、このような無謀な直接行動計画に行き着いたのか――2人の着想のプロセスが本書からは皆目わからないのが残念である。
(B)丸山の自民党分裂工作
丸山真男は、東大法学部を根拠地として、「思想としての民主主義=永久革命としての民主主義」を説く政治学者である。彼の市民社会論を大雑把に言えば、民主主義が機能するインフラのようなものが市民社会ということになり、日本の江戸時代後期、明治維新、大正デモクラシー、戦後(8.15)革命を経て、60年安保闘争(6.19革命)に、日本の市民社会誕生の萌芽を認めるものである。
その丸山は、東大法学部系大物政治学者のコネを使って、自民党分裂工作を図ったという。もちろん、この工作は失敗に終わっている。安保闘争中に自民党分裂工作を画策したのが東大法学部の教授であるというのも面白い話である。
(9)経済決定論批判
本書では、著者が唱える「1968年革命」を代表する新左翼革命運動の論客の典型として、岩田弘を紹介している。岩田は、(今日=1960年代末)、世界資本主義は危機にあり、その最も脆弱な環である日本資本主義に危機が顕著に現われていると説き、プロレタリア日本革命から世界革命を展望するという革命戦略を唱えた経済学者である。
新左翼の革命戦略は、概ね、経済決定論的傾向をもっており、革マル派を除く新左翼の現状分析はすべからく、世界経済の危機を認識するところから始まる。岩田理論を掲げて新左翼内のヘゲモニーを獲得したのが共産主義者同盟マルクス主義戦線派(ブント・マル戦派)であった。彼らは経済危機が革命戦略を規定するという新左翼党派の典型を示している。というよりも、経済決定主義とは、戦前の日本のマルクス主義者及び前衛党(日共)から新左翼(革マル派を除く)に共通する傾向なのであるが。
しかし、岩田の経済決定論に対して、革マル派を筆頭とする新左翼他党派は、資本主義が自ら延命するメカニズムをもっている点、また、プロレタリアートが革命にいかに関わるかという主体と党の問題を捨象している点を指摘し、マル戦派を攻撃した。革マル派からの批判を党内に持ち込んだブント諸派はマル戦派を論破し、彼らを党外に放逐してしまった。マル戦派は1968年に解体・消滅した。マル戦派を排除した後に結成された統一ブントの革命戦略は「前段階蜂起」といわれ、ブント赤軍派の革命戦略となった。
岩田のような危機論型革命戦略論は、「前段階蜂起」という修正を経てはいるものの、革マル派を除く新左翼の底流にある。経済決定論的傾向が新左翼の革命戦略から払拭されることはなかった。吉本は、当然、岩田を批判すると共に、新左翼の経済決定主義的傾向の革命戦略を批判した。革マル派を除く新左翼の街頭闘争が1968年を境に低迷するなか、全共闘運動等に参加した多くの学生大衆の中には、危機論型革命戦略に疑問を持ち始めたし、革マル派のような前衛党建設にも魅力を感じなくなってきた。吉本隆明は、新左翼運動とは一線を画し、『共同幻想論』などを通じ、新左翼各派の経済決定主義的傾向=スターリン主義的傾向を批判し続けた。
吉本と岩田弘の革命戦略をめぐる対立は、論戦に発展することはなかったが、ブント内部において、吉本隆明の共同体論の影響を受けた叛旗派が結成され、前段階蜂起を踏襲した戦旗派(後に赤軍派が分派)との間で、党内闘争が起こった。この党内闘争は、前者が吉本主義者であるという意味において、また、後者が経済決定主義を修正しつつ踏襲したという意味において、吉本vs岩田の代理戦争の要素を持っていないとはいえない。
(10)吉本思想の現代的課題
吉本隆明が日本の思想・言論界でヘゲモニーを獲得した理由は、日本革命運動が及ばなかったいくつかの重要なテーマに彼が取り組んだことにある。吉本のスターリン主義批判は、新・旧左翼を選ぶものではなかった。とりわけ、新左翼は反帝国主義・反スターリン主義を綱領化して結党し革命運動を展開しながらも、それを党内外において克服できなかった。著者が言うところの「1968年革命」は事実上、失敗しており、新左翼は理論的にも組織的にも破綻したのであって、その主因を、経済決定主義を払拭できなかったところに求めてもいい。
繰り返しになるが、著者の言う「1968年革命」を領導した新左翼の革命戦略は、黒田寛一(=革マル派)に代表される「真の」前衛党建設によるプロレタリア的人間革命、もしくは、岩田弘に代表される危機論型(=経済決定主義)暴力革命、の2つの道しか示しえなかった。
吉本隆明は1960年安保闘争の最中において、反スターリン主義を自らの闘争課題として選び取ったところにおいては、新左翼党派と同一のスタートラインに間違いなく立っていた。しかしながら、反スターリン主義を克服する問題意識と方法において、上記の新左翼の革命戦略及び運動とは一線を画し、別の道を選んだ。
重要なのは、著者の言う「1968年革命」は大きな問題を残しつつ、頓挫したということにある。「1968年革命」は、新左翼党派内部の抗争によって、100人を超す犠牲者を出して、終わった。吉本隆明がオルタナティブとして、新左翼を克服すべき思想を提示していながら、「1968年革命」においては、吉本は適正に読まれなかったというわけである。「吉本隆明像」の相対化とは、結局のころ、新左翼運動離脱者にしか、吉本の思想が受け入れられなかったのがなぜだったのか、という立論から開始されるべきなのである。換言すれば、「1968年革命」はなぜ、かくも無残に敗北したのかということに尽きる。