『フィールド・オブ・ドリームス』(Field of Dreams)という映画(1989年公開、アメリカ)がある。この映画の粗筋は省略するが、アメリカに生まれ、アメリカ人によって育まれた野球(ベースボール)というスポーツの原点が描かれているように記憶する。と同時に、この映画のタイトルは、ベースボールを「野球」と訳した日本の先人の言語感覚の鋭さ、知性をも改めて知らせてくれる。野球がFieldで行われるスポーツであることを疑うことができない。野球文化というものを考えるとき、それがFieldで行われている事実は、極めて重要な要素の1つだろう。
私たちは、Field=野原から、何をイメージするのだろうか。緑の芝生それとも黄色い枯草、突き抜けるような青い空それとも重苦しい曇天、さわやかな春の風それとも乾いた突風、土の香りそれとも花の香り、この映画の舞台でもある“とうもろこし畑”それとも未開墾の荒地・・・
いうまでもなく、野原はときどきの自然を写すステージだ。野原を生活の初舞台にした開拓者アメリカ人が、そこで、球を棒切れで打ち、走り、捕るという競技に及んだ。それが野球であり、Field of Dreamsなのだ。
さて、このたびの大震災である。被災地はもちろん、被害が及ばなかった地域でさえ、日本人一人ひとりが、復興に向けてあらゆる不自由を厭わない覚悟にある。たとえば、大都会・首都東京においても、みな節電に協力をし、無駄な電気の使用を控えている。そんななか、日本プロ野球のセントラルリーグが、過日、ナイター試合を強行すると発表した。セントラルリーグは、電力の充分な供給の再開の時期がいつになるか、わかっていたのだろうか。
この蛮行、愚行を機に、日本野球の球場について再考してもよい。日本では東京ドームの建設を皮切りに、札幌、名古屋、大阪、福岡にドーム球場が建設されていて、読売、日ハム、中日、オリックス、ソフトバンクがホームグラウンドとして使用している。ドーム球場の利点は概ね、経済面だ。天候による試合中止がめったにないから、ロスが少ない。経済合理性の追求だ。
だが、スポーツというのは経済合理性にとらわれるものではない。合理性の縛りから逃れ、自由に発想し行動し、非合理的に肉体を鍛錬するところから発するエンターテインメントではないのか。野球選手は、練習では投手ならば一日に200球超を投じ、打者なら千回超の素振りをするのが当たり前だという。選手たちのこの練習ぶりは、経済合理性からでは説明がつかない。
筆者は常々、日本のプロ野球がドーム球場にて行われていることを苦々しく思っていた。読売の東京ドームの試合では、凡打がホームランになるケースが多く、「ドームラン」と揶揄されている。東京ドームの上空は、白地の布のようなもので覆われ空は見えない。風は吹かず、ドーム内の気圧の流れが、高く上がった打球を外野フェンス側へと追いやるため、凡打が「ドームラン」になる。ドームの「Field」は硬いコンクリートでつくられていて、その表面には「人工芝」と呼ばれる緑色の人工繊維物が敷かれている。そこには、野や土の匂いはなく、もちろん生物は存在しない。いうまでもなく、ドーム球場は、環境保全の観点からも好ましくない。そこで行われる夜間試合は照明、冷暖房調整等に大量の電力を使用する。節電、計画停電が実施されている東日本、首都・東京で夜間試合が開催されることはあってはならない、と考えるのが常識というものだ。
そんななか、セントラルリーグは、①当初の開幕(3月25日)から1カード(4日間)遅らせて、3月29日開幕とする。②4月3日までの18試合中、節電地域内で開催されるナイター6試合については、すべてデーゲームで開催する。③5日からは節電地域内で行われるナイターを「減灯ナイター」として、大規模停電対策を講じて開催する。④節電対策の一環として、今季公式戦全試合について延長戦を行わず、9回で打ち切りとする。⑤消費電力が増える夏場の試合については、可能な限りデーゲームへの変更を検討する――ことなどを改めて決定した。
これらの変更事項をみると、プロ野球がドームではなく、自然=Fieldにて行われていれば、ほぼ実施できるものばかりのように思える。これを機に、以降、ドーム球場を建設しないこと、しかるべき機会にドーム球場を撤去し、Field(屋根なし・天然芝)の球場にリニューアルする――ことに着手してほしい。
さわやかな春の風に吹かれながら、あるいは、暑さの中、ビールを飲みながら、野球を見る楽しさをふたたび味わわせてほしい。だからいま、“くたばれ、東京ドーム”と叫びたい。
2011年3月20日日曜日
2011年3月19日土曜日
海
稲佐の浜
出雲大社(仮殿)
旧暦10月10日、出雲の稲佐の浜では、年に一度、八百万の神々を迎える神事の日。出雲大社の神職が、浜辺で、かがり火を前に祝詞を読みあげる。氏子ら数千人が神籬(ひもろぎ)と呼ばれる台座に神々がのりうつるのを息をひそめて見守る。神職が神籬(ひもろぎ)を白い布で覆いながら朗々と警蹕(けいひつ)と呼ばれる声を発し、出雲神社へ神々を導く。
出雲にとどまらず、日本人の信仰では神は海からやってくる。沖縄では、海の彼方に「二ライカナイ」等と呼ばれる常世の世界があるものと信じられていて、神はそこから年に一度、われわれの住むムラを訪れる。神は豊穣と幸を携え、ムラにやってくる。われわれ日本人は海の彼方からやってきた神を丁重に迎えるため、神事を執り行う。
海は、沖縄の始祖伝説においては、始原の舞台だ。神代、大洪水がありすべてが破壊されたのだが、一組の男女が生き残った。一組の男女とは兄(エケリ)と妹(オナリ)の兄妹だった。この兄妹の子孫こそが、われわれ日本人なのだという。島嶼地域の沖縄における大洪水は、もしかしたら、津波であったかもしれない。
日本人にとって海は切っても切れない生活の場だ。海は豊穣をもたらす一方、大きな災いをもたらすこともある。このたびの地震と大津波は、後者の恐ろしさを日本人に改めて知らしめたのだが、そのことを知るための犠牲はあまりにも大きすぎた。
凶暴な牙をむいた自然界の試練を受けたわれわれ日本人が、新たな伝説を紡ぐことができるのか――いや、われわれ日本人は団結して、日本人の再生と復活の物語を、なんとしても、紡がなければならない。
出雲大社(仮殿)
旧暦10月10日、出雲の稲佐の浜では、年に一度、八百万の神々を迎える神事の日。出雲大社の神職が、浜辺で、かがり火を前に祝詞を読みあげる。氏子ら数千人が神籬(ひもろぎ)と呼ばれる台座に神々がのりうつるのを息をひそめて見守る。神職が神籬(ひもろぎ)を白い布で覆いながら朗々と警蹕(けいひつ)と呼ばれる声を発し、出雲神社へ神々を導く。
出雲にとどまらず、日本人の信仰では神は海からやってくる。沖縄では、海の彼方に「二ライカナイ」等と呼ばれる常世の世界があるものと信じられていて、神はそこから年に一度、われわれの住むムラを訪れる。神は豊穣と幸を携え、ムラにやってくる。われわれ日本人は海の彼方からやってきた神を丁重に迎えるため、神事を執り行う。
海は、沖縄の始祖伝説においては、始原の舞台だ。神代、大洪水がありすべてが破壊されたのだが、一組の男女が生き残った。一組の男女とは兄(エケリ)と妹(オナリ)の兄妹だった。この兄妹の子孫こそが、われわれ日本人なのだという。島嶼地域の沖縄における大洪水は、もしかしたら、津波であったかもしれない。
日本人にとって海は切っても切れない生活の場だ。海は豊穣をもたらす一方、大きな災いをもたらすこともある。このたびの地震と大津波は、後者の恐ろしさを日本人に改めて知らしめたのだが、そのことを知るための犠牲はあまりにも大きすぎた。
凶暴な牙をむいた自然界の試練を受けたわれわれ日本人が、新たな伝説を紡ぐことができるのか――いや、われわれ日本人は団結して、日本人の再生と復活の物語を、なんとしても、紡がなければならない。
2011年3月18日金曜日
2011年3月12日土曜日
地震
2011年3月11日金曜日午後2時40分すぎ、東京・下町●●区の自宅にあった私は、突然の激しい揺れのさなか、なすすべのない自分に愕然とした。己の無力・非力をいやというほど自覚した。転倒しないようにテーブルにつかまり、割れ物が落ちないように気づかいながら、うろたえていた。いままでの揺れとは違うぞ。このまま揺れ続けていたら、あるいは、揺れが激しくなれば、家屋は倒壊し、私は死ぬのだと。
昨日の地震体験は、私の価値観・人生観を変えた。
激震がおさまった後、TVニュースが被害の大きかった東北地方の映像を流し続けた。私は被害の中心にではなく、たまたま、その外縁部に住んでいたのにすぎない――なんとも不思議な虚脱感が私を襲っていた。何百キロかの、新幹線で2時間ほどの差異・・・
昨晩、私は一睡もできなかった。ベッドのマットレスの反動が、余震のように感じられた。心的外傷後ストレス障害(PTSD/Posttraumatic stress disorder)になったかのようだ。
余震に怯えながらも、東京は急速に日常を回復していった。その一方、被災地にあっては、多くの人命・家屋・財産が失われていた。刻々と詳細化する報道が、そのことを確実に告げていた。
被災した者と安堵する者の差異は、いったい、なにを根拠としたものなのか――その差異、その立場の違いについて、だれがどう説明できるのか。
昨日の地震体験は、私の価値観・人生観を変えた。
激震がおさまった後、TVニュースが被害の大きかった東北地方の映像を流し続けた。私は被害の中心にではなく、たまたま、その外縁部に住んでいたのにすぎない――なんとも不思議な虚脱感が私を襲っていた。何百キロかの、新幹線で2時間ほどの差異・・・
昨晩、私は一睡もできなかった。ベッドのマットレスの反動が、余震のように感じられた。心的外傷後ストレス障害(PTSD/Posttraumatic stress disorder)になったかのようだ。
余震に怯えながらも、東京は急速に日常を回復していった。その一方、被災地にあっては、多くの人命・家屋・財産が失われていた。刻々と詳細化する報道が、そのことを確実に告げていた。
被災した者と安堵する者の差異は、いったい、なにを根拠としたものなのか――その差異、その立場の違いについて、だれがどう説明できるのか。
2011年3月6日日曜日
2011年3月4日金曜日
大学当局、新聞・テレビは情報弱者
○狂気の報道
予備校生が大学入学試験をネットに投稿したとして、偽計業務妨害の疑いで逮捕された。被害届を警察に提出したのは当事者である大学当局、そして、新聞・テレビが大騒ぎをして、未成年者である予備校生の個人情報等が不当に流出している。この事件に係るマスコミ(新聞・テレビ等)の報道は常軌を逸している。まさに、狂気である。
いうまでもなく、入試カンニングは不正行為であり、許されざる行為である。不正を犯した者には、それなりの処分がくだされて当然であり、試験会場からの退場、不合格等の処分を受けることに議論の余地はない。
○大学当局の試験監督体制に問題
試験問題の投稿の過程は明らかではないものの、予備校生単独の試験中の仕業であれば、事件化の責任は、大学当局の試験監督の不備にある。国家試験、公的資格試験に関わったことのある者ならばわかるように、それなりの試験実施機関は、試験を実施するにあたり、試験実施規程、試験実施マニュアル等を作成し、そのとおり実施しなければならない義務を課せられている場合が多い。
不正に関する事項は規程に、そして、不正行為を発見した場合に試験監督者がとるべき措置や不正者の取り扱い等はマニュアルに規定される場合が一般的である。今回の場合、もし予備校生が試験中に単独で携帯電話を使用して試験問題を投稿しようとした行為が現行犯で発見されたならば、当該不正者に対する処罰は、試験実施マニュアルに定めた措置にとどめられたと思われる。その場合の措置は、概ね、一回目は注意、二回目以降は退場、試験解答用紙の回収程度でとどまったであろう。
今回の場合、大学当局が受験者の不正行為を発見できなかった責任が最も大きい。換言すれば、大学当局の試験監督の状態にミスがあったと。大教室、小教室を問わず、試験監督員が適正数配置されていれば、受験者が試験会場において、携帯電話を操作して試験問題をネットに投稿するような作業は不可能である。今回、それができたというのであれば、大学当局が配置した試験監督員がその職務を全うしなかった可能性のほうが高いのであって、大学当局は、まず、その怠慢と無責任さを自己批判すべきではないか。
○大学当局は試験実施規程等を公開せよ
前出のとおり、試験に係る不正者については、試験実施規程及び同マニュアル等に定められていることが一般的である。今回、不正があったとされる大学の試験に係る規程、マニュアルに、不正者を刑事告発し逮捕に至らしめるような規定があったのかどうかを、筆者は大学当局に問いたい。
大学当局は、試験制度を揺るがすような事件だと主張しているようだが、それほどの制度ならば、試験実施機関である当局自らが不正を防止すべき管理体制を構築し、それを確実に実践する責任がある。大学当局は自らの業務の適正な遂行を怠りながら、試験問題がネット掲示板に投稿されたことに慌てふためき、狼狽し、試験問題投稿者の特定のため、自ら作成した規程を放棄し、被害届を提出した疑いが濃い。大学当局は自らが作成した試験実施規程を逸脱し、それを放棄した疑いが濃い。大学当局は、試験実施規程等をまず、一般に公開せよ。それと同時に、当該受験者の試験教室を監督した責任者を明らかにし、当日の状況を一般に説明させるべきである。
○大学当局は情報弱者
大学当局が狼狽し、偽計業務妨害として事件化した背景には、大学当局側がネット投稿に驚いたからだろう。大学当局関係者は「最高学府」にありながら、ネット世界に恐れしか覚えない情報弱者(information shortfall)であることを自ら暴露したのではないか。大学側は大学試験事務等の情報化(IT化)に遅れ、十年一日の昔ながらの試験事務を行っていたのではないのか。大学側が行っている試験事務こそが、情報格差(digital divide)にあったのではないのか。
○狂気報道する新聞・テレビも情報弱者
この事件を狂気のごとく報道した新聞・テレビも大学当局と同じ状況にある。「ネット」という、いまや日常化した媒体を恐れ、それを常人が扱いかねる「闇」と規定し、おどろおどろしいものであるかのように報道する。かれらの報道姿勢こそ、かれらもまた、大学当局と同じ、情報弱者であることを自己暴露しているのではないか。新聞・テレビが「ネット」を恐れ、それを特殊化する背景には、デジタルデバイドにある多くの読者・視聴者が存在しているから、ともいえるかもしれない。
カンニングがばれたら、試験会場からつまみだされる――それで十分ではないか。
予備校生が大学入学試験をネットに投稿したとして、偽計業務妨害の疑いで逮捕された。被害届を警察に提出したのは当事者である大学当局、そして、新聞・テレビが大騒ぎをして、未成年者である予備校生の個人情報等が不当に流出している。この事件に係るマスコミ(新聞・テレビ等)の報道は常軌を逸している。まさに、狂気である。
いうまでもなく、入試カンニングは不正行為であり、許されざる行為である。不正を犯した者には、それなりの処分がくだされて当然であり、試験会場からの退場、不合格等の処分を受けることに議論の余地はない。
○大学当局の試験監督体制に問題
試験問題の投稿の過程は明らかではないものの、予備校生単独の試験中の仕業であれば、事件化の責任は、大学当局の試験監督の不備にある。国家試験、公的資格試験に関わったことのある者ならばわかるように、それなりの試験実施機関は、試験を実施するにあたり、試験実施規程、試験実施マニュアル等を作成し、そのとおり実施しなければならない義務を課せられている場合が多い。
不正に関する事項は規程に、そして、不正行為を発見した場合に試験監督者がとるべき措置や不正者の取り扱い等はマニュアルに規定される場合が一般的である。今回の場合、もし予備校生が試験中に単独で携帯電話を使用して試験問題を投稿しようとした行為が現行犯で発見されたならば、当該不正者に対する処罰は、試験実施マニュアルに定めた措置にとどめられたと思われる。その場合の措置は、概ね、一回目は注意、二回目以降は退場、試験解答用紙の回収程度でとどまったであろう。
今回の場合、大学当局が受験者の不正行為を発見できなかった責任が最も大きい。換言すれば、大学当局の試験監督の状態にミスがあったと。大教室、小教室を問わず、試験監督員が適正数配置されていれば、受験者が試験会場において、携帯電話を操作して試験問題をネットに投稿するような作業は不可能である。今回、それができたというのであれば、大学当局が配置した試験監督員がその職務を全うしなかった可能性のほうが高いのであって、大学当局は、まず、その怠慢と無責任さを自己批判すべきではないか。
○大学当局は試験実施規程等を公開せよ
前出のとおり、試験に係る不正者については、試験実施規程及び同マニュアル等に定められていることが一般的である。今回、不正があったとされる大学の試験に係る規程、マニュアルに、不正者を刑事告発し逮捕に至らしめるような規定があったのかどうかを、筆者は大学当局に問いたい。
大学当局は、試験制度を揺るがすような事件だと主張しているようだが、それほどの制度ならば、試験実施機関である当局自らが不正を防止すべき管理体制を構築し、それを確実に実践する責任がある。大学当局は自らの業務の適正な遂行を怠りながら、試験問題がネット掲示板に投稿されたことに慌てふためき、狼狽し、試験問題投稿者の特定のため、自ら作成した規程を放棄し、被害届を提出した疑いが濃い。大学当局は自らが作成した試験実施規程を逸脱し、それを放棄した疑いが濃い。大学当局は、試験実施規程等をまず、一般に公開せよ。それと同時に、当該受験者の試験教室を監督した責任者を明らかにし、当日の状況を一般に説明させるべきである。
○大学当局は情報弱者
大学当局が狼狽し、偽計業務妨害として事件化した背景には、大学当局側がネット投稿に驚いたからだろう。大学当局関係者は「最高学府」にありながら、ネット世界に恐れしか覚えない情報弱者(information shortfall)であることを自ら暴露したのではないか。大学側は大学試験事務等の情報化(IT化)に遅れ、十年一日の昔ながらの試験事務を行っていたのではないのか。大学側が行っている試験事務こそが、情報格差(digital divide)にあったのではないのか。
○狂気報道する新聞・テレビも情報弱者
この事件を狂気のごとく報道した新聞・テレビも大学当局と同じ状況にある。「ネット」という、いまや日常化した媒体を恐れ、それを常人が扱いかねる「闇」と規定し、おどろおどろしいものであるかのように報道する。かれらの報道姿勢こそ、かれらもまた、大学当局と同じ、情報弱者であることを自己暴露しているのではないか。新聞・テレビが「ネット」を恐れ、それを特殊化する背景には、デジタルデバイドにある多くの読者・視聴者が存在しているから、ともいえるかもしれない。
カンニングがばれたら、試験会場からつまみだされる――それで十分ではないか。
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