この季節、拙宅近くの根津神社では、ツツジが満開となる。まだちょっと早いのかなという感じだが、月曜日の午前中にもかかわらず、多くの観光客で賑わっていた。
2011年4月25日月曜日
2011年4月23日土曜日
2011年4月22日金曜日
北の丸公園
「岡本太郎展」(東京国立近代美術館)を見た。生誕100年だという。岡本は晩年、TVに数多く出演し、CMキャラクターとしても活躍したので、サブカルチャー的な個性が印象に残っているが、グローバルなスケールをもったマルチ・クリエイターだった。
パリ留学中には、マルセル・モース(民族学者)、コジェーブ(ヘーゲル哲学研究者)に師事し、バタイユとも親交があったという。また、彼の作品としては、絵画、彫刻の領域にとどまらず、文化論・民俗学等に関する著作を数多く残しているし、写真集(沖縄のものが有名)も出した。
長嶋茂雄、林家三平(初代)とともに、戦後の昭和を飾った天才、異才だと思う。
展覧会鑑賞後、北の丸公園を散歩した。
2011年4月13日水曜日
2011年4月11日月曜日
「反石原」300万超の“死に票”
注目の東京都知事選は現職の石原慎太郎の4選勝利という結果となった。各候補者別の獲得票数は、石原261.5万、東国原英夫169万、渡辺美樹101.3万、小池晃62.3万と、落選3者の合計が300万票を超えていて、石原都政に対して「ノー」を出した有権者のほうが多かった。
「ファシスト」「スターリニスト」「叩上げ実業家」「元お笑いタレント」の中から誰を選べというのだ、ということになるが、仮に、石原の後継者といわれる松沢成文と渡辺美樹と小池晃の三者の戦いだったならば、接戦で渡辺が勝利した可能性もあった。そういう意味で、東国原が立候補し、石原が復帰し、松沢が退場した結果できあがった今回の候補者の組合せは、「反石原」票を分散化させる効果を招き、石原を勝利に導いた。計算どおり、東国原が石原を救ったことになる。
投票日前、筆者の周囲に限定しての話だが、都知事選に関する話題では、“石原は嫌だ”という人が圧倒的に多く、じゃ、誰に入れるのかとなると、“小池か東国原かで迷っている”という声が圧倒的に多かった。前出のとおり、「反石原」の票が300万超あったことから、投票日前に筆者がつかんでいた「反石原」の感触は外れてはいなかった。
今回の都知事選に係る投票結果の分析については、専門家から出されると思うが、筆者の直感では、石原の獲得票は、創価学会(公明党)等の宗教関係組織票、高齢者保守層をベースとした固定票にとどまり、無党派層を掘り起こして得た票は、そう多くはなかったものと推測する。
石原を支持しない有権者は、共産党員=小池支持者を含めて、三分化してしまったことになる。“石原は嫌だ”という声がいくら強くなっても、その思いがまとまらず、組織的投票行動に結ぶつかない限り、4年後も、その4年後も、「石原なき石原都政」が続くことになる。
組織に属さない、“自由で、頭がよく、趣味のよい”都会的東京都民は、自分の好みにあった候補者を選ぶことができる。候補者はよりどりみどりというわけだ。いかにも、民主的な外形だが、その結果は、「反石原」的政治理念が組織化されず分散化し、その間隙を縫うようにして、「石原的勢力」の代表者が都知事に当選するという筋書きを書き変えることができない。「石原的勢力」が都政を掌握し続け、本来多数派であるはずの「反石原」東京都民の暮らしは、一向によくなる気配がない。豊かな都財政にもかかわらず、弱者、福祉が切り捨てられ続けるのだ。
民主党という政党は、都政をどう考えているのだろうか。民主党は「反石原」なのか「石原支持」なのか。民主党は、東京都をどうしたいのか。反石原を統合できる組織が有効に機能しない限り、東京都は「石原的勢力」が支配し続ける大都市のままだ。
「ファシスト」「スターリニスト」「叩上げ実業家」「元お笑いタレント」の中から誰を選べというのだ、ということになるが、仮に、石原の後継者といわれる松沢成文と渡辺美樹と小池晃の三者の戦いだったならば、接戦で渡辺が勝利した可能性もあった。そういう意味で、東国原が立候補し、石原が復帰し、松沢が退場した結果できあがった今回の候補者の組合せは、「反石原」票を分散化させる効果を招き、石原を勝利に導いた。計算どおり、東国原が石原を救ったことになる。
投票日前、筆者の周囲に限定しての話だが、都知事選に関する話題では、“石原は嫌だ”という人が圧倒的に多く、じゃ、誰に入れるのかとなると、“小池か東国原かで迷っている”という声が圧倒的に多かった。前出のとおり、「反石原」の票が300万超あったことから、投票日前に筆者がつかんでいた「反石原」の感触は外れてはいなかった。
今回の都知事選に係る投票結果の分析については、専門家から出されると思うが、筆者の直感では、石原の獲得票は、創価学会(公明党)等の宗教関係組織票、高齢者保守層をベースとした固定票にとどまり、無党派層を掘り起こして得た票は、そう多くはなかったものと推測する。
石原を支持しない有権者は、共産党員=小池支持者を含めて、三分化してしまったことになる。“石原は嫌だ”という声がいくら強くなっても、その思いがまとまらず、組織的投票行動に結ぶつかない限り、4年後も、その4年後も、「石原なき石原都政」が続くことになる。
組織に属さない、“自由で、頭がよく、趣味のよい”都会的東京都民は、自分の好みにあった候補者を選ぶことができる。候補者はよりどりみどりというわけだ。いかにも、民主的な外形だが、その結果は、「反石原」的政治理念が組織化されず分散化し、その間隙を縫うようにして、「石原的勢力」の代表者が都知事に当選するという筋書きを書き変えることができない。「石原的勢力」が都政を掌握し続け、本来多数派であるはずの「反石原」東京都民の暮らしは、一向によくなる気配がない。豊かな都財政にもかかわらず、弱者、福祉が切り捨てられ続けるのだ。
民主党という政党は、都政をどう考えているのだろうか。民主党は「反石原」なのか「石原支持」なのか。民主党は、東京都をどうしたいのか。反石原を統合できる組織が有効に機能しない限り、東京都は「石原的勢力」が支配し続ける大都市のままだ。
2011年4月10日日曜日
唄者
昨日(4/09)は、友人のS氏らと、品川で開催中の「唄者の肖像」を見に行った。同写真展は、写真家・高桑常寿氏が沖縄・八重山・宮古の民謡の歌い手たちをカメラにおさめたもの。
高桑氏は、前出のS氏ともども、かつて、谷中にあった伝説の居酒屋「よっとくれ」の飲み仲間。彼が谷中在住だったころ、彼の家で飲んだこともあった。
この日は、沖縄の歌と踊り、沖縄民謡とガーナのドラマーとの競演(一部)、そして、高桑氏自らによる作品解説(二部)の構成になるイベントが開催された。
イベント終了後、会場近くのアイリッシュパブにて、「よっとくれ」時代のF氏、M氏らとアイリッシュビールを飲みながら、当時を懐古した。「よっとくれ」のアナーキーなエネルギーはもう、返ってこない。
品川から地元に戻り、「唄者」にちなんで、「M」にてカラオケ。偶然にも、Y氏(彼も写真家だ)がやってきて、ママと4人で歌いまくった。
■品川駅港南口
高桑氏は、前出のS氏ともども、かつて、谷中にあった伝説の居酒屋「よっとくれ」の飲み仲間。彼が谷中在住だったころ、彼の家で飲んだこともあった。
この日は、沖縄の歌と踊り、沖縄民謡とガーナのドラマーとの競演(一部)、そして、高桑氏自らによる作品解説(二部)の構成になるイベントが開催された。
イベント終了後、会場近くのアイリッシュパブにて、「よっとくれ」時代のF氏、M氏らとアイリッシュビールを飲みながら、当時を懐古した。「よっとくれ」のアナーキーなエネルギーはもう、返ってこない。
品川から地元に戻り、「唄者」にちなんで、「M」にてカラオケ。偶然にも、Y氏(彼も写真家だ)がやってきて、ママと4人で歌いまくった。
■品川駅港南口
2011年4月8日金曜日
協会の「八百長処分」は偽善
大相撲の八百長問題で、日本相撲協会は1日、東京・両国国技館で臨時理事会を開き、特別調査委員会(座長=伊藤滋・早稲田大特命教授)から関与を認定された23人の力士や親方に対する処分を決めた。72年に施行された「故意による無気力相撲懲罰規定」を初めて適用、関与を否認した幕内・徳瀬川(27)=朝日山部屋=ら力士19人に引退、谷川親方(37)=元小結・海鵬、八角部屋=に退職を勧告した。引退・退職届の提出期限は5日で、提出がない場合は解雇する方針。関与を認め、調査に協力した十両・千代白鵬(27)=九重部屋=ら3人は処分を軽減され出場停止2年となった。3人は引退・退職する意向で、23人が角界を追放される。(Yahoo!Japan)
大相撲の「八百長問題」はこの処分をもって、ほぼ幕引きとなる。上記処分者以外の力士、親方等は「八百長」に関与しなかったことになるのだが、そう思っている人は極めて少数だろう。
当コラムにおいて何度も同じことを書いてきたように、相撲は純粋スポーツではない。プロレスと同じような、格闘技的エンターテインメントだ。プロレスに「八百長問題」が存在しないように、大相撲にもそれは存在しない。ではなぜ、このたび、角界において「八百長問題」が顕在化したのかといえば、相撲協会が「八百長はない」と主張し続けてきたことに起因する。さらにいえば、相撲記者クラブ=マスコミが、大相撲に「八百長」はあってはならないと、報道し続けようとしているためだ。
協会、マスコミは、芸能である大相撲をあたかも純粋スポーツのように偽装し、やれ「名勝負」だとか「連勝記録」だとか「全勝優勝」だとかと、相撲結果をスポーツニュースとして扱ってきた。
大相撲が純粋スポーツとして社会に定着したのは、ごくごく最近のことだ。大相撲がマスコミ(とりわけテレビ)にとって優良なコンテンツになり始めたのは、戦後、栃若時代=高度成長期の初期のころからだった。戦前、相撲というものは、言葉は不適切だが、一般庶民の健全娯楽とは言いがたかった。力士の世界は市民社会から隔絶した独特の世界だった。髷を結うという力士の象徴的姿は、市民社会からの隔絶を表象したものであり、力士が独特の世界に属することの象徴だった。
しかし、テレビ中継が大相撲人気を煽り、栃若時代から柏鵬時代を経て、若貴時代を迎えたころ、相撲人気は市民社会に完全に定着し、「純粋スポーツ」として認知されてしまった。それにはマスコミが大きな役割を果たした。
純粋スポーツとしてのプロ格闘技には、プロボクシング、キックボクシング(K1、ムエタイを含む)、総合、プロ空手などがあるが、それらの人気を維持することには限界がある。なぜならば、これらのハードなスポーツ格闘技においては、日本人スターは簡単には生まれない。よしんば、日本人スターが生まれ育っても、長続きしない。
また、格闘技はハードなスポーツだから、試合数が限られる。一方、芸能である大相撲は本場所だけで1年6場所(15日間)、合計90日の興行が可能だ。大相撲の興行日数は、プロレスに準ずるものであり、スポーツとしての格闘技ではとても考えられない。
大相撲本場所のテレビ中継はNHKが独占しているようだが、トーナメント戦は民放が放映するし、地方の巡業はテレビ中継にはかからないものの、興行としては安定している。大相撲の人気は、それが純粋スポーツであるという建て前によって担保される。大相撲で利益を得るのは、もちろん、協会・相撲部屋・力士等であるが、NHKをはじめとするTV局、新聞、雑誌等のマスコミも同様なのだ。マスコミが大相撲報道で得る収入は、大相撲が純粋スポーツであるという建て前によって担保されている。
そればかりではない。そもそも、芸能に「八百長」という概念は存在しないのだから、八百長を行ったとしても問題にならない。しかし、芸能である大相撲の興行主体=協会が公益法人として国の認可を受け、寄付行為、事務規程等の約束ごとによって運営されているところが、今回の八百長問題の根源にある。国が相撲協会に対して、公益法人であるがゆえに、純粋スポーツ団体であるかのような運営を協会に課しているところが厄介なのだ。筆者の記憶では(まちがっていたらご指摘ください。訂正します。)、財団法人としての相撲協会の寄付行為には、相撲が「純粋スポーツ」であらねばならいとは明記されていないはずだ。協会の寄付行為には「相撲道の維持」という、伝統性に力点が置かれていたような気がする。それゆえ、このたびの処分は、協会の「罰則規定」すなわち内規に根拠を置いているように思われる。
今日の大相撲の不幸は、マスコミが芸能である大相撲をスポーツコンテンツとみなして人気を煽り、協会もそれに乗じて利益を追求したことにある。別言すれば、マスコミの都合で相撲が純粋スポーツであらねばならないとされ、協会も自らを純粋スポーツ団体だと自己規定してしまったことだ。相撲協会が一介の企業であったならば、八百長問題は永遠に存在しないままだった。
戦後日本にはいくつかの偽善がまかり通っていたし、いまでも、まかり通っている。スポーツに限れば、「高校野球」「読売中心のプロ野球」「大相撲」の3競技が、偽善の最たるものだ。読売中心のプロ野球は最近、脱巨人=健全化の方向にようやく向かい始めようとする兆候が認められようになってきた。また、このたび、大相撲は「八百長」の存在が暴かれ、断末魔の様相を呈している。それに反して、高校野球だけは、純粋高校生のアマチュア野球という偽善が強化され、プロの「高校生」が行う「プロ野球」という実態が隠蔽されてしまったままだ。筆者は、筆者の存命中に高校野球の偽善性が厳しく追求されることを願っている。
なお、これらの偽善的3競技の人気維持が、テレビ(NHK、日本テレビ)によって、推進されている点に留意しなければならない。テレビは虚構・偽善を、あたかもリアルであるかのごとく、人々に伝え続けている。
戦後復興期、プロレスが街頭テレビ中継により、大人気を博したことがあった。力道山の空手チョップだ。しかし、いうまでもなく、プロレスは純粋なスポーツではない。プロレスはやがて、一部のマニアが支持するマイナーな娯楽となってしまった。マスコミはプロレスを見放したが、大相撲は守り続けた。相撲の八百長は素人にはわかりにくいからだろうか。
さて、いま多くの有名人が被災地の避難所を訪れ、被災者を慰問していることを報道で知る。なかで、アントニオ猪木の避難所訪問のテレビ映像は印象深いものだった。プロレスラー・アントニオ猪木は、筆者の直感にすぎないが、ほかのどんな有名人よりも、よく被災者を励ましたに違いない。彼のプロレスが「八百長」であったかどうかは問題にはならない。超人的な肉体鍛錬を積み、命を賭けてプロレスに打ち込んできたアントニオ猪木は、筆者にとって肉体の英雄の一人であり、リスペクトの対象であり続けている。彼はカリスマであり、永遠の格闘技の英雄にほかならない。だから、力士も、「八百長をしてきたか」と問われれば、憤然とそれを否定すればよい。プロレスラーが、いつもそうするように。
力士は、“純粋スポーツ”という虚構を演じ続ける者であり続けるよりも、異形の者として、素人ができない格闘の世界を演じ続けることだ。そのことで、人々をずっと魅了すればよい。大相撲に「八百長」は永遠に存在しないのだ。だから、このたびの「八百長」処分もまた、極めていかがわしいものだと断じなければならない。嘘の上塗りはいい加減にやめにしょう。
大相撲の「八百長問題」はこの処分をもって、ほぼ幕引きとなる。上記処分者以外の力士、親方等は「八百長」に関与しなかったことになるのだが、そう思っている人は極めて少数だろう。
当コラムにおいて何度も同じことを書いてきたように、相撲は純粋スポーツではない。プロレスと同じような、格闘技的エンターテインメントだ。プロレスに「八百長問題」が存在しないように、大相撲にもそれは存在しない。ではなぜ、このたび、角界において「八百長問題」が顕在化したのかといえば、相撲協会が「八百長はない」と主張し続けてきたことに起因する。さらにいえば、相撲記者クラブ=マスコミが、大相撲に「八百長」はあってはならないと、報道し続けようとしているためだ。
協会、マスコミは、芸能である大相撲をあたかも純粋スポーツのように偽装し、やれ「名勝負」だとか「連勝記録」だとか「全勝優勝」だとかと、相撲結果をスポーツニュースとして扱ってきた。
大相撲が純粋スポーツとして社会に定着したのは、ごくごく最近のことだ。大相撲がマスコミ(とりわけテレビ)にとって優良なコンテンツになり始めたのは、戦後、栃若時代=高度成長期の初期のころからだった。戦前、相撲というものは、言葉は不適切だが、一般庶民の健全娯楽とは言いがたかった。力士の世界は市民社会から隔絶した独特の世界だった。髷を結うという力士の象徴的姿は、市民社会からの隔絶を表象したものであり、力士が独特の世界に属することの象徴だった。
しかし、テレビ中継が大相撲人気を煽り、栃若時代から柏鵬時代を経て、若貴時代を迎えたころ、相撲人気は市民社会に完全に定着し、「純粋スポーツ」として認知されてしまった。それにはマスコミが大きな役割を果たした。
純粋スポーツとしてのプロ格闘技には、プロボクシング、キックボクシング(K1、ムエタイを含む)、総合、プロ空手などがあるが、それらの人気を維持することには限界がある。なぜならば、これらのハードなスポーツ格闘技においては、日本人スターは簡単には生まれない。よしんば、日本人スターが生まれ育っても、長続きしない。
また、格闘技はハードなスポーツだから、試合数が限られる。一方、芸能である大相撲は本場所だけで1年6場所(15日間)、合計90日の興行が可能だ。大相撲の興行日数は、プロレスに準ずるものであり、スポーツとしての格闘技ではとても考えられない。
大相撲本場所のテレビ中継はNHKが独占しているようだが、トーナメント戦は民放が放映するし、地方の巡業はテレビ中継にはかからないものの、興行としては安定している。大相撲の人気は、それが純粋スポーツであるという建て前によって担保される。大相撲で利益を得るのは、もちろん、協会・相撲部屋・力士等であるが、NHKをはじめとするTV局、新聞、雑誌等のマスコミも同様なのだ。マスコミが大相撲報道で得る収入は、大相撲が純粋スポーツであるという建て前によって担保されている。
そればかりではない。そもそも、芸能に「八百長」という概念は存在しないのだから、八百長を行ったとしても問題にならない。しかし、芸能である大相撲の興行主体=協会が公益法人として国の認可を受け、寄付行為、事務規程等の約束ごとによって運営されているところが、今回の八百長問題の根源にある。国が相撲協会に対して、公益法人であるがゆえに、純粋スポーツ団体であるかのような運営を協会に課しているところが厄介なのだ。筆者の記憶では(まちがっていたらご指摘ください。訂正します。)、財団法人としての相撲協会の寄付行為には、相撲が「純粋スポーツ」であらねばならいとは明記されていないはずだ。協会の寄付行為には「相撲道の維持」という、伝統性に力点が置かれていたような気がする。それゆえ、このたびの処分は、協会の「罰則規定」すなわち内規に根拠を置いているように思われる。
今日の大相撲の不幸は、マスコミが芸能である大相撲をスポーツコンテンツとみなして人気を煽り、協会もそれに乗じて利益を追求したことにある。別言すれば、マスコミの都合で相撲が純粋スポーツであらねばならないとされ、協会も自らを純粋スポーツ団体だと自己規定してしまったことだ。相撲協会が一介の企業であったならば、八百長問題は永遠に存在しないままだった。
戦後日本にはいくつかの偽善がまかり通っていたし、いまでも、まかり通っている。スポーツに限れば、「高校野球」「読売中心のプロ野球」「大相撲」の3競技が、偽善の最たるものだ。読売中心のプロ野球は最近、脱巨人=健全化の方向にようやく向かい始めようとする兆候が認められようになってきた。また、このたび、大相撲は「八百長」の存在が暴かれ、断末魔の様相を呈している。それに反して、高校野球だけは、純粋高校生のアマチュア野球という偽善が強化され、プロの「高校生」が行う「プロ野球」という実態が隠蔽されてしまったままだ。筆者は、筆者の存命中に高校野球の偽善性が厳しく追求されることを願っている。
なお、これらの偽善的3競技の人気維持が、テレビ(NHK、日本テレビ)によって、推進されている点に留意しなければならない。テレビは虚構・偽善を、あたかもリアルであるかのごとく、人々に伝え続けている。
戦後復興期、プロレスが街頭テレビ中継により、大人気を博したことがあった。力道山の空手チョップだ。しかし、いうまでもなく、プロレスは純粋なスポーツではない。プロレスはやがて、一部のマニアが支持するマイナーな娯楽となってしまった。マスコミはプロレスを見放したが、大相撲は守り続けた。相撲の八百長は素人にはわかりにくいからだろうか。
さて、いま多くの有名人が被災地の避難所を訪れ、被災者を慰問していることを報道で知る。なかで、アントニオ猪木の避難所訪問のテレビ映像は印象深いものだった。プロレスラー・アントニオ猪木は、筆者の直感にすぎないが、ほかのどんな有名人よりも、よく被災者を励ましたに違いない。彼のプロレスが「八百長」であったかどうかは問題にはならない。超人的な肉体鍛錬を積み、命を賭けてプロレスに打ち込んできたアントニオ猪木は、筆者にとって肉体の英雄の一人であり、リスペクトの対象であり続けている。彼はカリスマであり、永遠の格闘技の英雄にほかならない。だから、力士も、「八百長をしてきたか」と問われれば、憤然とそれを否定すればよい。プロレスラーが、いつもそうするように。
力士は、“純粋スポーツ”という虚構を演じ続ける者であり続けるよりも、異形の者として、素人ができない格闘の世界を演じ続けることだ。そのことで、人々をずっと魅了すればよい。大相撲に「八百長」は永遠に存在しないのだ。だから、このたびの「八百長」処分もまた、極めていかがわしいものだと断じなければならない。嘘の上塗りはいい加減にやめにしょう。
『古代末期の世界―ローマ帝国はなぜキリスト教化したか?』
●ピーター ブラウン (著) ●刀水歴史全書 ●2940円
繁栄を誇ったローマ帝国が滅びた理由は何か――古代史ファンならば、最も関心を寄せるテーマの1つだろう。ゲルマン人の侵攻によるもの、疫病等の蔓延によるもの、キリスト教徒の信仰の力によるもの・・・その他諸々の理由が思い浮かぶ。もちろん、それらを組み合わせて、複合的な要因とすることもでる。
さて、余談だが、筆者も西欧古代歴史に興味をもつ者の一人。筆者はこれまで、イタリアのローマ、ミラノ、ラヴェンナ、シチリア島、チュニジア、ギリシャ、トルコのイスタンブール(コンスタンチノープル)、イラン(ペルシャ)、アルメニア、グルジア等々を観光旅行したのも、もちろん、それらの都市・地域が、古代末期の世界の舞台だったからだ。
(1)ローマ帝国とは、ラテン語圏とギリシャ語圏の合成概念
ローマ帝国とは、大雑把にいえば、地中海世界のことだ。その西端は、ヨーロッパにおいては現在のイギリス・アイルランド・スペインあたり。さらに北アフリカのアルジェリアあたりまでが境界だと認識できる。ところが、その東端がわかりにくい。アルメニア、メソポタミア、シリア、エジプトあたりを境界だとすればいいのだろうが、日本人にはこのあたりの状況がイメージしにくい。にもかかわらず、古代末期の世界を知ろうとするとき、地中海東側の諸地域の動きは極めて重要なものとなる。
ローマ帝国とは大きく2つの文化圏の合成であったことを忘れてはならない。一方は西のラテン語圏、そしてもう一方は、東側のギリシャ語圏だ。筆者(日本人)にとって、ローマ帝国の歴史がわかりにくいのは、とりわけ、東側のギリシャ語圏になじみがないからではないか。ローマ帝国といえば、標準語としてのラテン語と、その言語で記述されたローマ法典が思い浮かぶくらい、ラテン語が帝国の共通言語だと思いがちだ。ところが実際には、東部では、ギリシャ古典文化が教養として継承され、ギリシャ語で文学・哲学等が記述され、キリスト教の受容においても、ギリシャ語を使って聖書が編纂され、キリスト教神学が深められていた。グノーシス派がその代表的なものだろう。
さらに、地中海世界を複雑化したのが、ローマ帝国と接していたペルシャ帝国の存在だった。ラテン語圏、ギリシャ語圏、ペルシャ語圏の3つの圏域は、地中海世界を構成する伝統であったのだが、筆者(日本人)には、こうした複合性を知る機会が少なかったような気がする。
(2)西ローマ帝国の崩壊
本書は、ローマ帝国滅亡の理由を解き明かしたものではない。本書において帝国崩壊の理由が記されているのはたった一箇所、以下の引用部分だけだ。西ローマ帝国は崩壊したが、(東)ローマ帝国(後年の通称であるビザンツ帝国)は、西ローマ帝国崩壊(476年)後も、オスマン帝国に滅ぼされる1453年まで、およそ千年も存続した。このことは、世界史においてきわめて重要だと思う。西ローマ帝国の成立、発展及び衰亡、崩壊は普遍的ではなく、きわめて、地域的だったと筆者は直感している。
“セナトル貴族”については説明が必要だろう。セナトル貴族とは、ローマの周縁である北アフリカやアキテーヌ地方の小さな都市に住む新興貴族のこと。彼らは広大な領地の邸宅で「オティウム(孤独な思索)」を楽しむことを理想とした。彼らとガリア地方、スペインに登場してきた新しい支配層とは、同じような傾向をもっていた。両者は、西ローマ帝国(中心)に対する忠誠心、愛国心を失っていて、外敵との戦争や帝国中枢への政治的・行政的改革に無関心であった。自らの圏域に注力し、自らの権力と富を維持することに熱心だった。そして、彼らは新興のキリスト教と結びつくことになった。
(3)「正統的世界史」の歪み
もう一歩、踏ん張って考えてみると、ローマ帝国は、先述したとおり、その西側(ラテン語圏)を476年に失いながら中世を生き抜き、15世紀まで存続した。東ローマ帝国は、自らをローマ帝国と称し、しかも、オリエント世界からは、ルーム(ローマ)と呼ばれた。ビザンチン、ビザンツという帝国の名称は、後世の便宜的呼び方にすぎない。
ここに、世界歴史の「継続性」の歪みがみてとれる。世界史が、古代ローマ(ラテン)→中世ヨーロッパキリスト教世界→近代欧米(中心主義)、に継承されるという、正統的歴史観の神話だ。古代地中海世界の変容はローマ帝国の滅亡とは必ずしも一致しない。西側が消滅し、ゲルマン諸族が支配する中世ヨーロッパが誕生したからといって、ローマ帝国が消滅したわけではない。にもかかわらず、後世の欧米の歴史家は東のローマ帝国をビザンツ帝国としてローマ帝国と峻別し、その存続をローカル(異端)な歴史に限定したように思える。その結果として、筆者(日本人)は、ローマ帝国の継承者と“自称しているにすぎない欧米人”による世界史解釈を鵜呑みにしてきた。
(4)古代末期とはどういう時代だったのか
本書が規定する「古代末期の時代」とは、西暦200年頃~700年頃のことをいう。後年、中世といわれる時代、西欧はカトリック教会の世界を、東ローマ帝国はギリシャ正教会の世界を、さらにその東側の圏域はイスラム教の世界を――形成した。3つのうちのどちらが“正統”ともいえないし、三者に優劣があろうはずがない。中世とは、3つの宗教的圏域が並存した時代だった、とみるべきだろう。
古代末期、地中海西部(西欧)においては、(一)西ローマ帝国が消滅し、ゲルマン民族による諸国家の建国と滅亡が繰りかえされつつ、カトリック教会圏へと歩みを始めた。また、(二)地中海東部では、コンスタンチノープルを中心としたビザンツ帝国(ローマ帝国)が西から分離し、東方正教会圏としてその勢力を確立した。加えて、(三)オリエント世界では、ペルシャ帝国の伝統を基盤として、イスラム帝国が確立されようとした時代だった。
ローマ帝国が西(ラテン)と東(ギリシャ)の合成であったことは既に述べたので、ここでは、ローマ帝国と交戦を繰り返していたオリエントについて、話を進めておこう。
古代末期が筆者にとって魅力的に写るのは、衰亡、崩壊のデカダンスよりも、伝統と新勢力が融合し、新世界が生まれようとしているパワーを感じるからだ。
繁栄を誇ったローマ帝国が滅びた理由は何か――古代史ファンならば、最も関心を寄せるテーマの1つだろう。ゲルマン人の侵攻によるもの、疫病等の蔓延によるもの、キリスト教徒の信仰の力によるもの・・・その他諸々の理由が思い浮かぶ。もちろん、それらを組み合わせて、複合的な要因とすることもでる。
さて、余談だが、筆者も西欧古代歴史に興味をもつ者の一人。筆者はこれまで、イタリアのローマ、ミラノ、ラヴェンナ、シチリア島、チュニジア、ギリシャ、トルコのイスタンブール(コンスタンチノープル)、イラン(ペルシャ)、アルメニア、グルジア等々を観光旅行したのも、もちろん、それらの都市・地域が、古代末期の世界の舞台だったからだ。
(1)ローマ帝国とは、ラテン語圏とギリシャ語圏の合成概念
ローマ帝国とは、大雑把にいえば、地中海世界のことだ。その西端は、ヨーロッパにおいては現在のイギリス・アイルランド・スペインあたり。さらに北アフリカのアルジェリアあたりまでが境界だと認識できる。ところが、その東端がわかりにくい。アルメニア、メソポタミア、シリア、エジプトあたりを境界だとすればいいのだろうが、日本人にはこのあたりの状況がイメージしにくい。にもかかわらず、古代末期の世界を知ろうとするとき、地中海東側の諸地域の動きは極めて重要なものとなる。
ローマ帝国とは大きく2つの文化圏の合成であったことを忘れてはならない。一方は西のラテン語圏、そしてもう一方は、東側のギリシャ語圏だ。筆者(日本人)にとって、ローマ帝国の歴史がわかりにくいのは、とりわけ、東側のギリシャ語圏になじみがないからではないか。ローマ帝国といえば、標準語としてのラテン語と、その言語で記述されたローマ法典が思い浮かぶくらい、ラテン語が帝国の共通言語だと思いがちだ。ところが実際には、東部では、ギリシャ古典文化が教養として継承され、ギリシャ語で文学・哲学等が記述され、キリスト教の受容においても、ギリシャ語を使って聖書が編纂され、キリスト教神学が深められていた。グノーシス派がその代表的なものだろう。
さらに、地中海世界を複雑化したのが、ローマ帝国と接していたペルシャ帝国の存在だった。ラテン語圏、ギリシャ語圏、ペルシャ語圏の3つの圏域は、地中海世界を構成する伝統であったのだが、筆者(日本人)には、こうした複合性を知る機会が少なかったような気がする。
(2)西ローマ帝国の崩壊
本書は、ローマ帝国滅亡の理由を解き明かしたものではない。本書において帝国崩壊の理由が記されているのはたった一箇所、以下の引用部分だけだ。西ローマ帝国は崩壊したが、(東)ローマ帝国(後年の通称であるビザンツ帝国)は、西ローマ帝国崩壊(476年)後も、オスマン帝国に滅ぼされる1453年まで、およそ千年も存続した。このことは、世界史においてきわめて重要だと思う。西ローマ帝国の成立、発展及び衰亡、崩壊は普遍的ではなく、きわめて、地域的だったと筆者は直感している。
西ローマ帝国が崩壊した理由としては、モラルの低下や経済の後進性などさまざまなことが考えられるが、最大の理由は380年から410年にかけて、セナトル貴族と教会が軍隊や役人と絆を断ってしまったことにあった。意図しないままセナトル貴族と教会は、軍隊と役人の活力を殺いでしまったのである。彼らは、軍隊も役人も自分たちにとって必要のないものと考えられるようになっていた。(略)つまり西ローマ帝国の崩壊は、セナトル貴族の台頭と教会の勢力拡大がもたらした結果だったのである。(P112)
“セナトル貴族”については説明が必要だろう。セナトル貴族とは、ローマの周縁である北アフリカやアキテーヌ地方の小さな都市に住む新興貴族のこと。彼らは広大な領地の邸宅で「オティウム(孤独な思索)」を楽しむことを理想とした。彼らとガリア地方、スペインに登場してきた新しい支配層とは、同じような傾向をもっていた。両者は、西ローマ帝国(中心)に対する忠誠心、愛国心を失っていて、外敵との戦争や帝国中枢への政治的・行政的改革に無関心であった。自らの圏域に注力し、自らの権力と富を維持することに熱心だった。そして、彼らは新興のキリスト教と結びつくことになった。
(3)「正統的世界史」の歪み
もう一歩、踏ん張って考えてみると、ローマ帝国は、先述したとおり、その西側(ラテン語圏)を476年に失いながら中世を生き抜き、15世紀まで存続した。東ローマ帝国は、自らをローマ帝国と称し、しかも、オリエント世界からは、ルーム(ローマ)と呼ばれた。ビザンチン、ビザンツという帝国の名称は、後世の便宜的呼び方にすぎない。
ここに、世界歴史の「継続性」の歪みがみてとれる。世界史が、古代ローマ(ラテン)→中世ヨーロッパキリスト教世界→近代欧米(中心主義)、に継承されるという、正統的歴史観の神話だ。古代地中海世界の変容はローマ帝国の滅亡とは必ずしも一致しない。西側が消滅し、ゲルマン諸族が支配する中世ヨーロッパが誕生したからといって、ローマ帝国が消滅したわけではない。にもかかわらず、後世の欧米の歴史家は東のローマ帝国をビザンツ帝国としてローマ帝国と峻別し、その存続をローカル(異端)な歴史に限定したように思える。その結果として、筆者(日本人)は、ローマ帝国の継承者と“自称しているにすぎない欧米人”による世界史解釈を鵜呑みにしてきた。
(4)古代末期とはどういう時代だったのか
本書が規定する「古代末期の時代」とは、西暦200年頃~700年頃のことをいう。後年、中世といわれる時代、西欧はカトリック教会の世界を、東ローマ帝国はギリシャ正教会の世界を、さらにその東側の圏域はイスラム教の世界を――形成した。3つのうちのどちらが“正統”ともいえないし、三者に優劣があろうはずがない。中世とは、3つの宗教的圏域が並存した時代だった、とみるべきだろう。
古代末期、地中海西部(西欧)においては、(一)西ローマ帝国が消滅し、ゲルマン民族による諸国家の建国と滅亡が繰りかえされつつ、カトリック教会圏へと歩みを始めた。また、(二)地中海東部では、コンスタンチノープルを中心としたビザンツ帝国(ローマ帝国)が西から分離し、東方正教会圏としてその勢力を確立した。加えて、(三)オリエント世界では、ペルシャ帝国の伝統を基盤として、イスラム帝国が確立されようとした時代だった。
ローマ帝国が西(ラテン)と東(ギリシャ)の合成であったことは既に述べたので、ここでは、ローマ帝国と交戦を繰り返していたオリエントについて、話を進めておこう。
当時のヨーロッパ人にとって、イスラム帝国は巨大なオリエントの力を象徴する存在であった。イスラム帝国は、その力をムハンマドから得ていたわけでも、7世紀に征服戦争を戦ったベドウイン遊牧民から得ていたわけでもなかった。それは、8世紀から9世紀にかけて復活してきたペルシャ帝国の伝統から得ていたのである。あるものの終りは、新しいものの始まりである。古代の終りは、中世の始まりであるものの、突然まったく新しいものに生まれ変わったわけではない。古代地中海世界を構成していたギリシャ、ラテン、ペルシャの3つの伝統が、それぞれ、東方正教会、カトリック教会、イスラム教という新興宗教のパワーを借りつつ、それぞれの世界に進もうと、新しい歩みを始めようとした時代=古代末期があった。
こうして古代末期、「肥沃な三日月地帯」をめぐるビザンツ帝国とペルシャ帝国の争いで曖昧になっていたヨーロッパ世界と非ヨーロッパ世界の境界線が、地中海を境に引かれることになった。イスラム教徒は、地中海の対岸にいた貧しいヨーロッパ人を無視することにしたのである。(P201)
古代末期が筆者にとって魅力的に写るのは、衰亡、崩壊のデカダンスよりも、伝統と新勢力が融合し、新世界が生まれようとしているパワーを感じるからだ。
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