大相撲の八百長問題で、日本相撲協会は1日、東京・両国国技館で臨時理事会を開き、特別調査委員会(座長=伊藤滋・早稲田大特命教授)から関与を認定された23人の力士や親方に対する処分を決めた。72年に施行された「故意による無気力相撲懲罰規定」を初めて適用、関与を否認した幕内・徳瀬川(27)=朝日山部屋=ら力士19人に引退、谷川親方(37)=元小結・海鵬、八角部屋=に退職を勧告した。引退・退職届の提出期限は5日で、提出がない場合は解雇する方針。関与を認め、調査に協力した十両・千代白鵬(27)=九重部屋=ら3人は処分を軽減され出場停止2年となった。3人は引退・退職する意向で、23人が角界を追放される。(Yahoo!Japan)
大相撲の「八百長問題」はこの処分をもって、ほぼ幕引きとなる。上記処分者以外の力士、親方等は「八百長」に関与しなかったことになるのだが、そう思っている人は極めて少数だろう。
当コラムにおいて何度も同じことを書いてきたように、相撲は純粋スポーツではない。プロレスと同じような、格闘技的エンターテインメントだ。プロレスに「八百長問題」が存在しないように、大相撲にもそれは存在しない。ではなぜ、このたび、角界において「八百長問題」が顕在化したのかといえば、相撲協会が「八百長はない」と主張し続けてきたことに起因する。さらにいえば、相撲記者クラブ=マスコミが、大相撲に「八百長」はあってはならないと、報道し続けようとしているためだ。
協会、マスコミは、芸能である大相撲をあたかも純粋スポーツのように偽装し、やれ「名勝負」だとか「連勝記録」だとか「全勝優勝」だとかと、相撲結果をスポーツニュースとして扱ってきた。
大相撲が純粋スポーツとして社会に定着したのは、ごくごく最近のことだ。大相撲がマスコミ(とりわけテレビ)にとって優良なコンテンツになり始めたのは、戦後、栃若時代=高度成長期の初期のころからだった。戦前、相撲というものは、言葉は不適切だが、一般庶民の健全娯楽とは言いがたかった。力士の世界は市民社会から隔絶した独特の世界だった。髷を結うという力士の象徴的姿は、市民社会からの隔絶を表象したものであり、力士が独特の世界に属することの象徴だった。
しかし、テレビ中継が大相撲人気を煽り、栃若時代から柏鵬時代を経て、若貴時代を迎えたころ、相撲人気は市民社会に完全に定着し、「純粋スポーツ」として認知されてしまった。それにはマスコミが大きな役割を果たした。
純粋スポーツとしてのプロ格闘技には、プロボクシング、キックボクシング(K1、ムエタイを含む)、総合、プロ空手などがあるが、それらの人気を維持することには限界がある。なぜならば、これらのハードなスポーツ格闘技においては、日本人スターは簡単には生まれない。よしんば、日本人スターが生まれ育っても、長続きしない。
また、格闘技はハードなスポーツだから、試合数が限られる。一方、芸能である大相撲は本場所だけで1年6場所(15日間)、合計90日の興行が可能だ。大相撲の興行日数は、プロレスに準ずるものであり、スポーツとしての格闘技ではとても考えられない。
大相撲本場所のテレビ中継はNHKが独占しているようだが、トーナメント戦は民放が放映するし、地方の巡業はテレビ中継にはかからないものの、興行としては安定している。大相撲の人気は、それが純粋スポーツであるという建て前によって担保される。大相撲で利益を得るのは、もちろん、協会・相撲部屋・力士等であるが、NHKをはじめとするTV局、新聞、雑誌等のマスコミも同様なのだ。マスコミが大相撲報道で得る収入は、大相撲が純粋スポーツであるという建て前によって担保されている。
そればかりではない。そもそも、芸能に「八百長」という概念は存在しないのだから、八百長を行ったとしても問題にならない。しかし、芸能である大相撲の興行主体=協会が公益法人として国の認可を受け、寄付行為、事務規程等の約束ごとによって運営されているところが、今回の八百長問題の根源にある。国が相撲協会に対して、公益法人であるがゆえに、純粋スポーツ団体であるかのような運営を協会に課しているところが厄介なのだ。筆者の記憶では(まちがっていたらご指摘ください。訂正します。)、財団法人としての相撲協会の寄付行為には、相撲が「純粋スポーツ」であらねばならいとは明記されていないはずだ。協会の寄付行為には「相撲道の維持」という、伝統性に力点が置かれていたような気がする。それゆえ、このたびの処分は、協会の「罰則規定」すなわち内規に根拠を置いているように思われる。
今日の大相撲の不幸は、マスコミが芸能である大相撲をスポーツコンテンツとみなして人気を煽り、協会もそれに乗じて利益を追求したことにある。別言すれば、マスコミの都合で相撲が純粋スポーツであらねばならないとされ、協会も自らを純粋スポーツ団体だと自己規定してしまったことだ。相撲協会が一介の企業であったならば、八百長問題は永遠に存在しないままだった。
戦後日本にはいくつかの偽善がまかり通っていたし、いまでも、まかり通っている。スポーツに限れば、「高校野球」「読売中心のプロ野球」「大相撲」の3競技が、偽善の最たるものだ。読売中心のプロ野球は最近、脱巨人=健全化の方向にようやく向かい始めようとする兆候が認められようになってきた。また、このたび、大相撲は「八百長」の存在が暴かれ、断末魔の様相を呈している。それに反して、高校野球だけは、純粋高校生のアマチュア野球という偽善が強化され、プロの「高校生」が行う「プロ野球」という実態が隠蔽されてしまったままだ。筆者は、筆者の存命中に高校野球の偽善性が厳しく追求されることを願っている。
なお、これらの偽善的3競技の人気維持が、テレビ(NHK、日本テレビ)によって、推進されている点に留意しなければならない。テレビは虚構・偽善を、あたかもリアルであるかのごとく、人々に伝え続けている。
戦後復興期、プロレスが街頭テレビ中継により、大人気を博したことがあった。力道山の空手チョップだ。しかし、いうまでもなく、プロレスは純粋なスポーツではない。プロレスはやがて、一部のマニアが支持するマイナーな娯楽となってしまった。マスコミはプロレスを見放したが、大相撲は守り続けた。相撲の八百長は素人にはわかりにくいからだろうか。
さて、いま多くの有名人が被災地の避難所を訪れ、被災者を慰問していることを報道で知る。なかで、アントニオ猪木の避難所訪問のテレビ映像は印象深いものだった。プロレスラー・アントニオ猪木は、筆者の直感にすぎないが、ほかのどんな有名人よりも、よく被災者を励ましたに違いない。彼のプロレスが「八百長」であったかどうかは問題にはならない。超人的な肉体鍛錬を積み、命を賭けてプロレスに打ち込んできたアントニオ猪木は、筆者にとって肉体の英雄の一人であり、リスペクトの対象であり続けている。彼はカリスマであり、永遠の格闘技の英雄にほかならない。だから、力士も、「八百長をしてきたか」と問われれば、憤然とそれを否定すればよい。プロレスラーが、いつもそうするように。
力士は、“純粋スポーツ”という虚構を演じ続ける者であり続けるよりも、異形の者として、素人ができない格闘の世界を演じ続けることだ。そのことで、人々をずっと魅了すればよい。大相撲に「八百長」は永遠に存在しないのだ。だから、このたびの「八百長」処分もまた、極めていかがわしいものだと断じなければならない。嘘の上塗りはいい加減にやめにしょう。