2011年7月1日金曜日

猫の支配力

猫を飼い始めてから2週間が経過したところで、NHKBSが猫と芸術家にまつわる自伝的物語を4話連続で放映した。その4人とは、藤田嗣治(レオナルド・フジタ)、内田百閒、向田邦子、夏目漱石。ドラマの内容については、平板で新しい発見はなかったものの、猫と人との関係を改めて確認することはできた。

猫とはよくいわれるとおり、両義的な生き物だ。静と動、家畜性と野獣性、親愛と無関心といったところか。しかも彼らは、人(飼い主)の支配を拒否する。人に依存していながら、自由であろうとする、誠に身勝手な生き物なのだ。筆者は猫を飼ったことがなかったので、先人のこのような指摘がこれまで実感できなかったのだが、手元に猫がいるようになってはじめて、そのことがよく理解できるようになった。

猫の両義性とはすなわち、自由の別言だ。人は他者とのさまざまなしがらみの中で、他者を無視することができない。煩わしさを感じつつも、関係のなかで生きざるをえない。その一方、猫は飼い主からの要望を無視し、猫(自分)の信ずる行動をこともなげに選択できる。そのような身勝手さから、猫は、男性からは悪女に、女性からは親友に喩えられることが少なくない。筆者は男性なのでその立場からいえば、向こうから一方的に甘えられたのだから、次はこちらから積極的にアプローチしてみると、こともなげにはねつけられる。猫は悪女に似ているというよりも、悪女そのものなのだ。このような猫の不可解さが聖性や魔性に転化したりもした。「神の使い」であったり、「化け猫」にもなったりした。

前出のテレビドラマの例にもあるように、猫は人の精神性に関与する。4人の芸術家の不幸の傍らに猫がいて、猫が彼らの精神の病を救ったことはまちがいない。猫に限らず、動物のセラピー効果については科学的に証明されていることなのだろうが、猫の場合は、それとも違うような気がする。筆者の解釈では、猫は時間に関して無為なのであり、そのことが人の精神の病を救うのだと思う。猫と遊んでいる時間、猫と一緒に寝ている時間・・・を共有していると、一日がかくも短かったのだと驚くばかりだ。その結果、猫と一緒にいると、飼い主は猫にいつのまにか支配されていることに気がつく。過剰な自意識に囚われた飼い主にとって、無為の到来、主客の逆転の時間の獲得は、奴隷の自由の享受ということになる。TVドラマの中でも、内田百閒や漱石が愛猫の失踪に心を痛め、右往左往したことが描かれていた。このことは、猫の支配力の傍証でなくてなんであろう。人が猫に救われるのは、猫による「癒しの効果」というよりも、猫に支配される奴隷の自由の享受によるのではないか。

こうして、古来、猫は家畜として独自の地位を占め、今日に至っている。

●縫いぐるみの「クマちゃん」を攻撃



●猫は一日のほとんどを寝てすごす