2011年7月27日水曜日

「神道」の虚像と実像

●井上寛司 (著) ●講談社現代新書 ●760円(税別)




外来の仏教に影響された「神道」

本題には“「神道」の…”とあるが、日本宗教史の入門書といった感がある。日本固有の宗教といわれる「神道」が、外来の仏教の影響を受けたものであることは本書の指摘の通り。そのわかりやすい一例が神仏習合の教義の確立である。それ以前においても、巨大な神社の建立が、巨大な仏教寺院の出現に影響されてつくられたことが知られている。「神道」が宗教として成立を見たのは、仏教との分離結合を繰り返した挙句のものであり、その体系化・教団としての発展も、仏教の影響を受けた結果である。「神道」については、日本人が仏教を受容した状況や仏教勢力の拡大を抜きにしては説明できないため、本書は日本宗教史の入門書風に仕立てられたのだと思う。


神国思想と明治維新後の天皇制全体主義国家

日本人が信仰する宗教の代表といえば、仏教と「神道」であることについては異論が少ない。今日、日本人の多くは、初詣の参拝や七五三のお祝いに神社に出向くし、お祭りでは神輿を担ぐ。その一方、葬式となれば仏式で行うのが一般的である。また、京都、鎌倉といった古都に限らず、日本中の町にはいくつかの神社・仏閣がある。長い年月をかけてそれらが存続しえた理由の1つは、この2つの宗教が国家権力に寄り添って活動してきたからであろう。古代律令制国家からアジア太平洋戦争敗戦にいたるまで、この2つの宗教は国家権力を擁護するイデオロギーの1つであった。そして、その起源は、鎌倉期に生まれた神国思想(①神明擁護、②神孫降臨、③国土の宗教的神聖視)に求められる。

ところで、同様に、世界宗教の1つであるキリスト教も、ローマ帝国がキリスト教を国教として公認したとき(カトリックキリスト教の成立)、それまで、小集団がひっそりと信仰してきた原始キリスト教とは明らかに異なる位相に上り詰めたのである。

明治維新を経て成立した日本帝国は、天皇制全体主義国家として成長を遂げ、帝国主義戦争に邁進した。その間、「神道」は国家神道として、それまでにない独自のイデオロギー的変質を遂げた。「神道」が天皇制全体主義と帝国主義戦争を補完する機能を積極的に、かつ、前面に立って、果たしたのである。

日本のもう1つの伝統的宗教である仏教界が、天皇制全体主義と帝国主義戦争に抗った形跡はなく、仏教も天皇制全体主義と帝国主義戦争に加担したわけであるが、「神道」の比ではない。「神道」は教義および制度において、天皇制全体主義と融合し、また加えて、軍神、靖国神社建立、植民地における神社創建といった象徴的機能をも担った。

こうした国家神道の成立を軍部政権による上からの押しつけ、誘導、教育・教宣の結果であると、見誤ってはならない。国家神道は、大衆のナショナリズム、土俗的信仰のエネルギー、すなわち、下からの押し上げがなければ成り立たない。「神道」が日本人の固有の信仰と不可分であるがゆえに、戦前・戦中の日本の狂信的天皇制全体主義が国家神道として結実してしまったのである。

戦後民主主義と「神道」

アジア・太平洋戦争の敗戦による日本帝国の解体と日本国憲法公布以降、宗教は個人の内面=信仰の位相に還元された。だがしかし、宗教が信者の組織体であり続ける限り、教団が、政治力・経済力を有した世俗の圧力団体であることは、古代社会と変わっていない。今日の日本において宗教団体は――伝統的勢力、新興勢力を問わず――世俗的パワーをもった宗教法人として、戦前ほどではないにしても、日本社会に対して一定の影響力を持ち続けている。

新憲法では国家と宗教の分離が原則となっているが、たとえば、創価学会=公明党が連立与党を形成していたし、宗教法人は国家から税制等の優遇措置を受け続けている。事実上、宗教は宗教法人の認可を国家が独占しているという意味において、かつ、国家が宗教法人を優遇しているという意味において、国家と分離していない。また、選挙時、教団が特定の政党を支持する限りにおいて、宗教と政治は一体的である。実態上、日本の政治は、宗教団体の意向を受けている。

宗教が日本の政治に介入することがあり得るという前提にたったとき、日本人の信仰とはいったいどのようなものかを明らかにしておくことが重要だと思う。70年前、日本帝国は、国家神道を媒介として、天皇制全体主義を完成させた。そして、日本国民及び周辺諸国民を戦争に巻き込んだ。そのような悲劇を二度と起こさないためには、どうしたいいのかということである。

そのことのヒントは本書の後半、著者(井上寛司)による柳田国男の「神道」論批判にあるように思う。著者(井上寛司)は柳田の「神道(シントウ)は、太古の昔から現在にいたるまで連綿と続く、自然発生的な日本固有の民族的宗教である」という「神道」定義に反発し、①「神道」をシントウと発音する呼称の問題、②歴史的な「神道」の実態の問題、③日本の宗教の実態の問題――という3つの視点から批判を展開している。

著者(井上寛司)はマーク・テーウン(ノルウェー・オスロ大学)の指摘、すなわち、「神道」の語はもともと中国で用いられたもので、日本に移入した当初は濁音(ジンドウ)であったこと、それが(シントウ)と清音で呼ばれるようになったのは室町期からであることを前提とし、かつ、「神道」は外来仏教の影響を強く受けたものとして推移、発展して成立をみたものであるから、「神道」は柳田の言うような太古から連綿と続くものでないと、主張する。

このような指摘が誤りだとは思わない。しかし、そもそも柳田国男は、常民の生活=生産に係る儀礼(とりわけ農耕儀礼)、通過儀礼、共同体の統治等の儀礼として執り行われてきたカミ送り、カミ迎えの祭祀に代表される信仰を「神道」と呼んだにすぎない。だから、シントウ、ジンドウというと発音の問題は、柳田国男の認識の外側であろう。柳田国男は、日本人の固有の信仰を、常民(=ふつうの人々)の暮らしに密着し、しかも、ムラ、シマといった小規模な共同体で執り行われてきた幻想過程だと考えた。

それは日常に対して、規律を与えると同時に、反秩序(熱狂)をも惹起せしめるものであった。祭祀は非日常であり、そこに注力する人々の情念の発露をつうじて、豊穣の希求、自然への崇敬、そして、豊穣への感謝、厄災の退出および安寧が祈念されたはずである。

常民の信仰対象がカミであって、それは遠来(山頂もしくは海の彼方)の者であり、神事の間だけムラ、サトにとどまり、それが終わると帰還する者であった。おそらく柳田は、そうした常民の信仰を宗教の概念区分として「神道」と定義したのだと思う。だから、カミを迎え送る祭壇は、ムラであればせいぜい小さな祠で十分であり、シマであれば、たとえば沖縄、八重山・宮古地方においては、御嶽という自然石を積み上げた程度の標で事足りたはずである。巨大な神殿=神社は必要ない。

柳田国男が戦後間もなく、「神道」の概念から、天皇制全体主義国家と一体化した国家神道の要素を排除し、常民の信仰に還元しようとしたのは、象徴天皇制度を擁護することとは関係がない。柳田は自らが再定義した「神道」、すなわち、常民によって連綿と受け継がれてきたカミの概念=原点に、日本人が復帰することを希求したのだと思う。柳田の希求とは、それまで帝国主義戦争を志向し、外国人に対して残忍極まりない行為を繰り返すことにより荒廃してしまった、日本人の心を、一日も早く、帝国主義戦争やファシズムとは無縁の――平凡だが平和な――常民の心に戻すことだったのではないか。

前出の通り、「神道」が常民の暮らしの中で綿々と続いてきた宗教であるからこそ、それが国家と結合したとき、すなわち、国家神道として成立をみたとき、かくも強固な統治イデオロギーとして猛威を振るったのである。換言すれば、「神道」は生活共同体の幻想である。であればこそ、共同体の幻想が国家利害と対立すれば、「神道」が国家統治に与することはない。生活者の幻想=原点が、国家の幻想と対峙することがあれば、「神道」が国家の暴走を阻止するはずである。

では、今日、柳田が希求した常民の信仰に日本人が復帰したのかというと、そうともいえない。戦後の経済の高度成長、情報化、都市化の進展により、日本人が連綿と継続してきた信仰は、その基盤となる共同体の崩壊によって、喪失してしまったからである。国家神道の復帰は、占領軍によってもたらされた「民主化」という改革によって、制度上あり得ないものとなっている。宗教(信仰)は、個の領域に還元され、個の自由の範疇にとどめ置かれている。つまり、今日の日本人は、国家神道の再びの台頭を許さない制度のうえにありながら、柳田が定義した「神道」からも切り離された状況にある。原点を喪失してしまったのである。