2011年7月6日水曜日

神話の崩壊

● 時代遅れの「闘将」

プロ野球界における神話崩壊の代表は、被災地復興の象徴的存在として注目された楽天・星野監督だろう。楽天の不調は今シーズンから指揮を執った星野新監督の手腕に問題があることは明らか。まず、「得意の人事」では親友の田淵を打撃コーチに招聘しながら、チーム打率が悪化し、どうしようもなくなって田淵の打撃コーチの肩書を外した。星野・田淵コンビがどうしようもないのは北京五輪で証明済みだったはず。

頼みの投手陣も崩壊した挙句、なんと、投手陣に五厘刈り指令を出したという。丸刈り指令といえば、旧時代的体育会の蛮行の象徴で、暴力制裁の代替手段である。スポーツの結果と髪型の間には、いかなる因果関係も見いだせない。にもかかわらず、間違った「精神主義」が楽天・星野監督の得意技なのだ。こんなことで不調な投手陣が蘇るなら投手コーチの代わりに理容師を雇用したほうがよい。

●「ドームラン」の減少で巨人野球は崩壊

統一球(低反発球)導入で日本プロ野球に異変が起きたことは、すでに多くの報道の通り。なかでも「被害甚大」なのが読売だろう。加えて電力使用制限により、狭くてホームラン気流の疑惑をもたれている東京ドームの使用回数が減り、打撃陣がさっぱりだ。

統一球の影響は読売だけではないが、打撃技術が低レベルで芯を外していても東京ドームならホームランが打てた小笠原、ラミレス、阿部、坂本らの長打率が低下し、読売はさっぱり勝てなくなった。

なお、打撃不調の要因は、主審のストライクゾーンが広がったこともある。使用電力制限のもと、投手戦を多くして、試合時間短縮を図っているものと推測する。

●被災地の高校野球部の不祥事を報道しないマスコミ業界

高校野球の神話については何度も当該コラムで書いている。甲子園常連の高校野球部が「プロ選手」で構成されていることは明らかなこと。野球部員が特待生もしくは、学業成績は二の次、三の次の野球専門人間であることは常識。彼らが「純粋な青年」であるはずもなく、彼らには勝つための異常な練習と精神修養が課せられる。

常軌を逸した、いびつな高校生活で溜め込んだストレスが、彼らを禁酒・喫煙、下級生への暴力行為等に駆り立て、彼らを犯罪者に仕立て上げる。もちろん、甲子園野球高校生のすべてが、犯罪者になるわけではないが、犯罪者か、純粋野球高校生か、を分かつのは、いかなる管理システムの下に置かれているかの差異に基づくにすぎない。

正常な判断力をもったスポーツジャーナリストならば、教育的見地から甲子園高校野球の正常化を求めるべく筆をとるのが一般的だ。だが、マスコミにとって甲子園高校野球が金もうけの手段だから、批判は控える。大相撲が力士一座の興行でありながら「スポーツ」とされるのと同じことだ。

甲子園野球高校生を「球児」なる珍妙な日本語で神話化してきたのがマスコミだ。高校生は正常な判断力をもった青年であって、だんじて「児」ではない。だから、学業・クラブ活動・趣味等に励むことが普通であり、バランスのとれた高校生活を送ることが望まれる。野球部に属する者もそうでない者も犯罪に手を染めてはいけないし、非行があれば矯正しなければなるまい。「球児」だけが特別ではない。すなわち、高校生のクラブ活動の全国大会に国中が注目する必要はなく、その反対に、高校生の軽犯罪レベルの非行にも全国が注目する必要はない。甲子園「球児」の「活躍」も、その犯罪・非行のどちらも、マスコミが大々的に報ずる価値はないのであり、報ずることが誤りなのだ。

さて、大相撲の「八百長」が問題視され、「正常化」が求められていたが、一場所休業で禊とされたようだ。愚かな話だ。スポーツでないものに「八百長」はない。つまり、相撲が古典芸能としての娯楽であると国民が納得しているように、マスコミもその限りで報道すればいいだけの話なのだ。

同様に、純粋でない「球児」の異常な甲子園野球を高校生によるプロ野球だと認知すれば、特待生制度も度を越したスカウティングも認められる。米国流の呼び方にならえば、ルーキーリーグ(マイナーリーグ)の創設である。(日本の場合はマイナーリーグである甲子園高校生野球のほうが、プロ野球一軍=メージャーリーグよりも人気が高いのだが。)

被災地の高校野球部員が窃盗をはたらいたという事件があった。いかなる状況にあっても、高校生の犯罪が許されるはずはない。一方、ある宗教系高校の野球部で暴力事件があった。どちらの高校生にも、適法な処分がくだされ、それまでだろう。ところが、甲子園野球の主催者は、前者を不問に付し、後者には大会予選不出場の罰を科した。もちろん、高校側の自主的な判断という外形をとってはいるが。

マスコミは前者については報道せず、後者についてはその旨を報じた。かかる報道基準のアンバランスは、彼らが捏造してきた商品価値を守らんがためだ。マスコミにとっては、被災地の甲子園常連高校に不祥事があっては不都合なのだ。甲子園野球の隆盛こそが復興の「シンボル」であり、被災地の高校が勝ち進むことこそが望ましい。負けても被災地「球児」の「熱闘」を報ずることでマスコミ業界の売上が上がるのだ。だから、甲子園野球の価値を貶めることがあってはならない。よしんばあったとしても、報道しなければそれは「なかった」ことなのだ。

●神話を壊して、スポーツ本来の価値をみよう

もういい加減、巨人(読売)、星野監督、甲子園といったスポーツの神話に“サヨナラ”をしよう。いま、原発の安全神話が崩壊し、多くの原発近隣住民が過酷な現実を強いられている。神話を信じることは、思考停止の居心地の良さを手に入れられるが、現実の当事者のおかれた非人間的扱い、苦悩、まやかしに目をつぶることになる。

現代の神話の創始者は、テレビ・新聞といった大手メディア=マスコミ業界だ。原発の神話もそうであり、スポーツにおける数々の神話も同様だ。

そうこうしているうちに、サッカーの若手がW杯で強豪国に勝って、ベスト8を果たした。また、女子サッカー日本代表がW杯において、予選リーグ突破を果たした。神話に係らない世代、カテゴリーがグローバルな強さを身に着けてきている。Jリーグの若手選手が欧州に渡り、そこからさらに上のチームへのステップアップを試行しようとしている姿は珍しくなくなった。

甲子園野球というドメスティックなカテゴリーで野球漬けの毎日を過ごしている若者よりも、サッカーというグローバルな競技の世界大会で好成績を上げた若者の姿を大きく扱うことのほうが、スポーツマスコミの正常な報道基準なのではなかろうか。マスコミ業界では、若者のサッカーは、甲子園球児よりも稼ぎが少ないのだろうか。

神話に係らないスポーツが日本で隆盛を極める日は、近いのだろうか。