2012年8月26日日曜日

『古代オリエントの宗教』

●青木健[著]  ●講談社現代新書  ●740円+税 


本書が扱う時代は、2世紀から12世紀のおよそ1000年間に及ぶ。本題には“古代”とあるが、古代末期から中世前期である。古代末期というと、ピーター・ブラウン著の『古代末期の世界』という名著があり、世界史に興味を持つ人ならば一度は目を通したことがあるだろう。

ちなみに、『古代末期の世界』は、ローマ帝国の東西分裂後の地中海世界について書かれたもので、西暦200年頃~700年頃を扱っている。同書の内容を大雑把にいうと、古代末期とは、(一)地中海西部(西欧)では、西ローマ帝国が消滅し、ゲルマン民族による諸国家の建国と滅亡が繰りかえされつつ、カトリック教会圏へと歩みを始めた――、(二)地中海東部では、コンスタンチノープルを中心としたビザンツ帝国(=ローマ帝国=ギリシア)が西から分離し、東方正教会圏としてその勢力を確立した、(三)オリエント世界では、サーサーン王朝ペルシアの伝統を基盤として、イスラーム帝国が確立されようとした、―――時代である。後年の西欧=カトリック圏、ビザンツ(東ローマ)帝国=ギリシア正教会圏、オリエント=イスラーム圏により構成された「中世」の基盤を形成した重要な時期である。

本書に戻ろう。本書が扱う地理的領域はオリエント(地中海世界東部とその周辺)である。その地域を現代の国名等によるならば、小アジア(ギリシア、トルコ)、イスラエル、ヨルダン、シリア、イラン、イラク、アゼルバイジャン、アルメニア、アラビア半島、そして、北アフリカのエジプト、チュニジアといったところになる。もちろん、地中海世界の中心であったイタリア(ローマ)も含まれる。

私は海外観光旅行が趣味で、イタリア、トルコ、イラン、アルメニア、アゼルバイジャン、チュニジアを観光し、次はイスラエル、エジプト、シリア、ヨルダンを目指そうと思っていたやさきに「アラブの春」が吹き荒れ、シリア内戦が始まり、かの地への観光を断念した次第である。もちろん、古代メソポタミアの地であるイラク観光については、第一次湾岸戦争のころから諦めている。

古代オリエントの宗教というと、日本人には馴染みがないのだが実は、それが中世どころか近代・現代にも大きな影響を与えていることを本書で知ることになる。そのことについては後述する。

★『旧約聖書』と『新約聖書』の「聖典セット」

古代オリエントの宗教世界がキリスト教の成立により、大きく変化したことは言うまでもない。と言っても、キリスト教成立以前のこの地にもちろん、宗教がなかったわけはない。まず、キリスト教の母体となったユダヤ教がイスラエルを中心に信仰されていたし、エジプトにはヘルメス、小アジアにはキュベレ、アルメニアのミトラ(後にローマ帝国内に進出)、イランのアフラ・マズダーなどがよく知られている。それ以外にも、今日では消滅してしまった数多くの古代民族宗教があったに違いない。ところが、2~3世紀、ユダヤ人の神話・歴史を記した『旧約聖書』と、イエスの一代記を記した『新約聖書』の「聖典セット」が異常な求心力を発揮し、周辺諸民族の神話群を徐々に駆逐し始めるのである。本書は、この「聖典セット」を基軸として、古代オリエントの宗教の推移を考察するという方法をとっている。
なぜこのような事態になったのかは、よくわからない。ユダヤ人の歴史(『旧約聖書』)とイエスの一代記(『新約聖書』)がセット化した時点で、ストーリーの接続には相当の無理があったようにも思える。そのなかでもイエスの一代記の方は、彼を救世主(キリスト)だと認めるかぎりにおいては、普遍性がありそうな気がしないでもない。しかし、その前編である『旧約聖書』に書かれたユダヤ人の歴史となると、エジプト人、ペルシア人、ギリシア人、ローマ人など、ユダヤ人に匹敵する長い歴史を有する人びとにとっては、所詮は他人事に過ぎない。けれども、どういうわけか彼らは自らの神話を忘却し、代わりにユダヤ人の神話と歴史をもって普遍的な人類史だと確信するにいたるのである。(P9)

以降、オリエントの宗教の変遷は、『新約聖書』+『旧約聖書』という「聖典セット」の発展系及びその部分的否定系と、そうでない伝統的宗教の併存期を経て、やがて、「聖典セット」の発展系の最終体系となるイスラームの成立と土着宗教のそれへの吸収をもって幕を閉じることになる。本書はその経緯に係る研究成果ということになる。

★「聖典セット」系の宗教―――ユダヤ教からイスラームシーア派

古代オリエントの宗教を「聖典セット」との関係で整理すると、以下のとおりとなる。

・ユダヤ教→『旧約聖書』
・マンダ教→『マンダ教聖典』
・マルキオーン主義(2世紀)→『新約聖書(※ルカ書とパウロ書簡のみ)』
・原始キリスト教→『旧約聖書』『新約聖書』
・マーニー教→『新約聖書』『マーニー教7聖典』
・イスラーム→『旧約聖書』『新約聖書』『クルアーン(コーラン)』
・イスマーイール派(8世紀)→『旧約聖書』『新約聖書』『クルアーン』『イマーム言行録』
2世紀のローマで成立したマルキオーン主義は、「聖書シリーズ」に何かを付け加えるというよりは、『旧約聖書』とイエス伝記のミスマッチを指摘し、前者を切り捨てて後者だけを採った。・・・これこそイエスの真意であり、正しいキリスト教であると論じたのである。これは鮮やかな着想だったようで、これを嚆矢として『新約聖書』の結集がはじまり、エジプトやシリアでは同様の発想に立ったグノーシス主義と呼ばれる諸派が乱立していく。(P16~17) 
同じ頃に、『新約聖書』を前提とせずに、同じような傾向を示したのが、『旧約聖書』を全否定してヨルダンで成立したマンダ教である。・・・すなわち、『旧約聖書』+『新約聖書』という式で、代わりに独自の『マンダ教聖典』を立てた。(P17)
この趨勢に対して、2~3世紀の地中海世界に勢力を保持していた原始キリスト教教会は、2つの文書整理をおこなって対抗した。1つは、当時までに多数のバリエーションが流布していたイエスの伝記のうち、「マタイ福音書」「マルコ福音書」「ルカ福音書」「ヨハネ福音書」の4福音書など27書を聖典と定め、「トマス福音書」や「ユダ福音書」などを排除して、『新約聖書』の範囲を確定した。もう1つは、『旧約聖書』を容認し、これを『新約聖書』とセット化して、『旧約聖書』+『新約聖書』の図式を公式教義とした。ただし、この段階では、この原始キリスト教教会が、「キリスト教」の名称を独占する唯一の機関になるかどうかは、まだ予断を許さなかった。(P18)
ところ変わって2~3世紀のメソポタミアでは、地中海世界に伝道していた原始キリスト教教会とはまったく違ったグノーシス主義的なキリスト教理解が浸透していた。しかも、地中海世界での原始キリスト教教会がギリシア語によって伝道していたのに対し、内陸シリアより東方ではシリア語が共通語になっていたので、西方と東方における「聖書ストーリー」理解の溝はかなり広がっていた。その東方的キリスト教の土壌のなかから、グノーシス主義諸派さらに知的に洗練し、組織化した自称「真のキリスト教」が出現する。3世紀のマーニー・ハイイェーによるマー二―教(マニ教)である。
「イエス・リストの使徒」を名乗る彼は、『旧約聖書』を全否定する一方、『新約聖書』は高く評価し、「聖書ストーリー」としては異例の善悪2つの神を想定するにいたった。しかも、「聖書ストーリー」とは何の関係もないザラスシュトラ・スピターマと仏陀(ブッダ)を預言者として取り込み、さらに自分自身の「預言」を書き著して・・・『新約聖書』+『マーニー教七聖典』を「真のキリスト教」として提示したのである。(P18~19)
しかし、4世紀になると、「聖書体系」の内部構造を変更するというグノーシス主義的な発想は途絶え、マルキオーン主義、マンダ教も、そして6世紀にはマーニー教も地中海世界では勢力を失っていった。
しかし、7世紀なると、・・・「聖書ストーリー」の続編が出現する。すなわち、・・・「最後の預言者」を名乗るムハンマドと、彼の啓示に依拠するイスラームである。彼の場合、・・・『旧約聖書』と『新約聖書』をそのまま(かなり誤解を含みつつ)承認して、それへの追加版として『クルアーン』を提示した。このイスラームは、7~10世紀の期間に東方世界で爆発的に普及し、この地域では『旧約聖書』+『新約聖書』+『クルアーン』のセットが主流になった。・・・
「最終預言者」の出現により、「聖典セット」を基軸とする宗教的発展は幕を閉じると思われたのであるが、東方の宗教世界はその続編へと推移していった。
アダムからムハンマドにいたる「預言者の周期」は満了したものの、今度はその秘教的意味を解き明かす「イマームの周期」がはじまったと主張して、シーア派イスラームの諸派が出現するのである。(P20~21)
イマームというのは、イスラームシーア派における預言者の霊的能力を継承する者のこと。シーア派のイマーム就任の条件は「預言者ムハンマドとその従弟アリーの子孫」である。その結果、イマームが乱立し、しかも、彼らは「預言者の霊的能力を継承した歴代シーア派イマームの言行録」も聖典に匹敵する宗教的権威を有するとした。つまり、彼らの「聖典セット」は、『旧約聖書』+『新約聖書』+『クルアーン』+「歴代シーア派イマームの言行録」にまで拡張された。(※本書では、数あるシーア派のなかのうち「イスマーイール派」が取り扱われている。)

★オリエント土着の宗教の「聖典セット」による吸収(ミトラ信仰、ゾロアスター教)

東方には上述の「聖書体系の構成」を尺度とする以外の土着宗教があったことはすでに述べた。この土着宗教は、西方でローマ神話やゲルマン神話の内容が換骨脱胎されてカトリックの聖人崇拝のなかで生き延びたように、東方でも、「聖書体系」のなかに生き延びた。その際の回路として機能したのが、比較的大きな土着宗教の場合にはその教祖を「聖書体系」の預言者に、中小規模の土着宗教の場合にはその登場人物を聖人に配して取り込む「預言者・聖者論」である。
東方におけるこの種の習合の最初のケースは、4世紀のアルメニアのミトラ信仰である。当時まで、アルメニアではイラン系のミトラ崇拝が主流を占めていたのだが、301年にアルメニア王国がキリスト教を国教に採用すると、前代の信仰は急速に勢力を弱めた。ただ、完全に根絶されたわけではなく、キリスト教の聖人のなかに姿を変えて潜り込み、・・・生き残った。(P23~24)
もう一つがゾロアスター教である。
これよりはるかに大規模なケースとしては、ゾロアスター教がある。古代末期東方の土着宗教のなかで最大の規模を誇るゾロアスター教は、それ自体、「聖書ストーリー」からは独立した内部的な変化を起こしている。すなわち、3~8世紀までは、時間を崇拝するゾロアスター教ズルヴァーン主義が、ユダヤ教やキリスト教、マーニー教などの東進をブロックする役割を果たしていた。しかし、7世紀にアラブ人イスラーム教徒の進出の前にペルシア帝国が壊滅すると、ゾロアスター教徒の社会的立場が暴落し、「聖書ストーリー」のなかでもイスラームの進出を許してしまう。そんななか、9世紀以降、残った神官たちは、教義を一神教との差異を際立たせる二元論的ゾロアスター教へと転換したものの、「聖書ストーリー」の担い手たちも工夫を凝らし、ザラスシュトラに何らかの位置づけを与えるかたちでゾロアスター教を取り込む動きを見せていた。(P24)
その取り込み方には、(ⅰ)東方キリスト教徒学者たちによって、ザラスシュトラは『旧約聖書』のなかの魔術師や偽預言者に該当するにちがいないと論じられたもの、(ⅱ)イスラーム教徒の学者たちは、ザラスシュトラは『旧約聖書』の預言者アブラハムの仮の姿、またはその弟子にちがいと論じたもの―――の2つがあった。

(ⅰ)の場合では、ザラスシュトラが「聖書体系」のなかの悪役に任じられることとなり、ゾロアスター教徒たちがこの理論に感心して東方キリスト教に改宗するはずがなかった。一方、(ⅱ)の場合は、10世紀以降のゾロアスター教徒たちはこの説明に深い感銘を受け、ついでにアダムやノアに該当する預言者もイラン神話の英雄のなかから選び出して当てはめ、13世紀までにはゾロアスター教も「聖書体系」に同化していった。
古代末期東方で最大規模を誇ったゾロアスター教のイスラームへの同化をもって、東方の土着宗教の「聖書ストーリー」への吸収が完了したと見ることができる。(P25)
★グノーシス主義とは何か

東方の宗教を理解するうえで避けてとおれないのが、グノーシス主義である。本書においても、「聖典セット」とグノーシス主義との関係が頻繁に説かれているものの、いまひとつ、グノーシス主義に係る説明が不足しているため、両者の関係性が明確でない。そこで、グノーシス主義について簡単に整理をしておこう。この整理に当たっては、講談社選書メチエの『グノーシス』(筒井賢治[著])を使用する。

元来、この言葉(=グノーシス)は「キリスト教グノーシス」と同義であり、初期のキリスト教会で広まっていた一部の思想を総称する、キリスト教史ないし「教会史」における専門用語であった。
・・・グノーシス(ΓΝΩΣΙ)とは、ただの単語として見るなら、「認識」や「知識」を意味する古代ギリシア語の普通名詞である。ならば、キリスト教グノーシスとは「知る」ということに特に重きをおくキリスト教流派であったのだろうと想像することができるだろう。事実、そう考えても間違いではない。ただし、いったい何を「知る」というのか、この点で一定の方向性があった。
多くの場合、キリスト教グノーシスにおける「認識」の対象は、イエス・キリストが宣教した神(=至高神)とユダヤ教(旧約聖書)の神(=創造神)は違うということ、創造神の所産であるこの世界は唾棄すべき低質なものであること、人間もまた創造神の作品であるが、その中に、ごく一部だけ、至高神に由来する要素(=「本来的自己」)が含まれているということ、救済とは、その本来的自己がこの世界から解き放たれて至高神のもとに戻ることなのだということ、といった事柄である。
・・・このキリスト教グノーシス思想は、時代としては、紀元2世紀の半ばから後半に最盛期を迎えた。・・・
さて、次に、キリスト教とは直接関係しない領域に目をやると、同じ紀元2世紀の前後、ほかにも似たような思想運動があったことがわかる。これを「非キリスト教グノーシス」と呼ぶわけだが、とすれば、キリスト教/非キリスト教という区別を越えて、総括的に「グノーシス」もしくは「グノーシス主義」と呼ぶべき思潮が古代末期において実在していたのだという結論が出てくることになる。・・・(『グノーシス』/P6~7)

・・・紀元2世紀後半、誕生して間もないキリスト教会では、総称的に「グノーシス」とか「グノーシス主義」と呼ばれるさまざまな異端的流派が広がりを見せていた。キリスト教グノーシス主義に共通する特徴として第一に挙げられるのは、目に見えるこの世界を、それを創造した神を含めて蔑視し、排撃する点にある。この世界を造ったのは、キリスト教正統派の教えでは旧約聖書(=ユダヤ聖書)の神であるが、この創造神を敵視する以上、正統派から異端視されるのも当然である。
ではこのグノーシス主義は何を信奉するのか。それはこの世界の外、あるいはその上にあるいわば「上位世界」そしてそこに位置している「至高神」である。そして人間の霊魂も、もともとはこの上位世界、別名「プレーローマ」の出身であり、現在はこの世界に幽閉されている形になっている。人間の身体もこの世界の一部として蔑視されるのである。そこで、霊魂が身体を含むこの世界から解放され、故郷である上位世界に戻ること、それがグノーシス主義者にとっての「救済」となる。そして、こうした事情を人々に啓示するために上位世界から派遣されてきたのが救済者イエス・キリストだったのだと説明される。(『グノーシス』/P22)

ここで問題になるのが、「至高神」と「創造神」の関係であろう。前者が後者の上位に立つのは当然だが、無関係ではすまされない。無関係として一種の二神教、あるいは二元主義に帰着するグノーシス流派もあったが、万物を一元論・一神教として説明する理論的・哲学的思考の強い流派は、「至高神」から「創造神」に至る系列関係を説明する必要に迫られた。そのなかでも特に有名なのが2世紀後半に活躍したプトレマイオス(大天文学者のプトレマイオスとは別人)である。

プトレマイオスの理論は以下のとおりである

まず最初に至高神と「エンノイア」なる女性的な存在がペアをなしており、そこから順次「アイオーン」と総称される神々がそれぞれの男女のペアで流出し、「テレートス」と「ソフィア」(知恵)のペアに至るまで、合計30のアイオーンが成立する。こうして「上位世界」に相当する「プレーローマ」という安定した組織が成立する。
ただし、この中には一定の階列関係があり、至高神を直接に眺め、知ることができるのは至高神から直接に流出した「ヌース」(叡智)というアイオーンだけであり、その他のアイオーンは至高神を見知りたいとひそかに願いながらも、それぞれ自分の位置にとどまっている。
さて、どうしてこの安定した状態が崩れて「創造神」やひいては「この世界」が生まれてきたのかという問題であるが、プトレマイオスはこれを次のように説明した。すなわち、最下位のアイオーンであった「ソフィア」が、大胆にも、至高神を直接に知ろうと企てたのだという。当然、この企ては失敗し、ソフィアは絶望のあまりプレーローマから転落しかかってしまう。そこへ「ホロス」という存在が登場して彼女の転落を食い止め、過ちを悟った彼女は、心に抱いていた自らの「情念」を切り離してプレーローマの外に捨てる。
こうしてソフィアは救われ、プレーローマ内の元の位置に落ち着くだが、他のアイオーンが同じようなパトスにとりつかれて再び離反事件を引き起こすのを未然に防ぐため、ヌースから新たに「キリスト」と「精霊」のペアが流出し、至高神の不可知性をあらためて各アイオーンに通達する。それによってプレーローマ全体に安息がもたらされる。他方、この「キリスト」がプレーローマの外に投げ捨てられているソフィアの「情念」を哀れみ、それに形を与える。そしてそれが創造神の、そして人間を含む「この世界」の起源になる。(『グノーシス』P24)

さて、本書の構成では、グノーシスに属する宗教として、マンダ教とマーニー教が取り上げられているのだが、マンダ教とマーニー教に続く、グノーシス主義派が切り捨てられている。(※イスラームの初期イスマーイール派も取り上げられているが8世紀におけるグノーシスの復活という意味あいである。)

その理由として、著者(青木健)は、「・・・ローマのマルキオーン主義、エジプトのヴァレンティノス派などのグノーシス主義諸派については、大貫隆『グノーシスの神話』、クルト・ルドルフ『グノーシス』、筒井賢治『グノーシス』などの優れた概説があるので、そちらを参照していただきたい」(P26)、と、弁明する。

しかして、著者(=青木健)がグノーシス主義の一例として取り上げた、例えばマンダ教に係る説明は以下のように簡潔である。
彼ら(マンダ教徒)によれば、人類の始祖がアダムであることはもちろんであるが、それを創造したのは下位の造物主と「闇の主」であったため、人類は総体として呪われた存在として誕生した。このため、ユダヤ人の出自としては不思議なことに、彼ら(マンダ教徒)のシンパシーは出エジプトの折にユダヤ教徒を迫害したファラオの方に向けられる。(P34)
『マンダ教聖典』についても同様に簡潔な説明である。
①『右手のギンザ―』……18編の神学的、宇宙論的、道徳的論文
②『左手のギンザ―』……霊魂が光の国へ上昇する際の葬送文
③『ヨハの書』・・・ヨハネ、シェム、アノーシュなどに帰せられる37編の神話
④『コラスター』……葬式の際の賛歌
⑤巻物類(ディーヴァーン)……『ディーヴァーン・アバトゥル』『ディーヴァーン・ナフラワ タ』などは絵入り。『ハラーン・ガワイタ』 はマンダ教教団の歴史を扱う。
(P37~38)

★古代オリエントの宗教と現代

冒頭に引用したように、“2~3世紀、ユダヤ人の神話・歴史を記した『旧約聖書』と、イエスの一代記を記した『新約聖書』の「聖典セット」が異常な求心力を発揮し、周辺諸民族の神話群を徐々に駆逐し始めたのはなぜなのか”―――という問いに対し、著者(青木健)は「わからない」と回答している。実際のところ、本当にわからないのだが、発展の触媒として、2世紀に隆盛を極めたグノーシス主義(キリスト教グノーシス派)の存在を無視することは難しいのではないかと思う。極論すれば、グノーシス主義を含まないオリエント宗教論というのも無理があるように思う。

また、「聖典セット」を基軸として、古代オリエントの宗教の推移を考察するという方法をとるには、それぞれの聖典の内容に係る説明が必要となろう。本書の場合、新書=入門書であるという制約上、かかる2つ重要事項をずいぶんと簡潔化したという印象が否めない。

最後に、本書巻末の<現代の「聖書ストーリー」エンディング別信者数>という興味深いデータがあるので紹介しておく。

①ユダヤ教徒・・・世界中に拡散して約1500万人
②キリスト教徒・・・ヨーロッパ、南北アメリカを中心として約21億人
③スンナ派イスラーム教徒・・・西アジア、南アジア、東南アジア、東アフリカを中心に約13億人。
  最終預言者ムハンマドが齎した『クルアーン』が完結編だと信じている。
④イスマーイール派イスラーム教徒・・・インド西海岸やパミールに住んでいる1500万~2000万人。
  イスマーイール系統のイマームが第7の告知者として降臨するエンディングを今でも期待している。
⑤マンダ教徒・・・5000人~1万人。ユダヤ人もムハンマドも否定している。グノーシス主義派。
⑥ゾロアスター教徒・・・インド西海岸やイラン中部に住んでいる約10万人。
⑦マーニー教徒・・・もしかすると、福建省の山奥に数百人。

このデータは、2世紀から始まった古代オリエントにおける宗教運動が中世どころか近代・現代にも大きな影響を与えていることの証左である。

2012年8月24日金曜日

暑さの中、昼寝ばかりする猫たち

物憂げなNico

Nicoの寝顔

寝顔
Zazieの色目はすさまじい

猫にあう


@Yanaka
 

@Nedu

2012年8月20日月曜日

『果てなき渇望』

●増田晶文[著] ●草思社文庫 ●800円+税

ボディビルダーには幾つかの貌がある。満員の観客の中、スポットライトを浴びながら、コンテストでポージングを決める晴れやかな貌、ジムで一人、重いバーベル、ダンベルを無言で上げ続ける孤独な貌、繰り返される過酷な増量、減量に耐える貌、そして、日本では少数派であるが、難解な名称の薬物を何種類も組み合わせてドーピングをする貌―――を付け加えてもいい。

こうした多様な貌を持つ者は、今日のアスリートにあって、特別なものではない。たとえばオリンピックを頂点とする華やかな大会、苦しく厳しい練習、そして、体重別が一般化した格闘技系スポーツに限らず、今日、自分の体重コントロールと無縁なアスリートは極めて少数派である。また、ドーピングは日本でこそすべてのスポーツ界で厳しく禁止されているものの、グローバルにみれば、多くのスポーツにおいて、自己責任という大義名分の下、その運用は検査に係らないというルール内で選手に任されている。

では、ボディビルが他の競技スポーツとは一線を画され、特殊視される所以はどこに求められるのか。

競技スポーツの勝負は、スピード、距離、得点差等を媒介とする。格闘技の場合は、有効とされる技がポイント化され、勝敗を決める。ボクシングのKO勝ち、柔道の一本勝ち、レスリングのフォール勝ちは、究極・最高のポイント獲得である。つまり、ポイントを媒介とする。

ボディビルディングはフィギュア・スポーツである。それが、一般のそれと異なる点は、たとえば、フィギア・スケートと比較すると、後者の場合は、選手が試行した技の難易度とその完成度が数値化され、ポイントを媒介として勝敗を決める。ところが、ボディビルは、技によるポイント獲得というメカニズムをもたない。ボディビルディングは、概ね、筋肉の量、筋肉の質が勝負の分かれ目となる。人間の筋肉という身体そのものの優劣が競われるという意味で、他のスポーツ競技とは異類である。

ボディビルディングに最も近い「競技」は、美人コンテストである。多くの場合、女性に特化される美人コンテストでも、審査基準が詳細に規定されている。しかし、結局のところ、審査員の主観に基づくのだが、その順位づけについては、概ね、一般の主観と同一である場合が多い。つまり、コンテスト参加者の優劣の結果は一般性の範疇にある。

ボディビルディング大会の審査基準にも美人コンテストと似たような規定があり、その勝敗は概ね、それに基づいた結果となる。もっとも、アジア、中近東等開催の大会の場合は、開催国参加者が優位になる場合があるようだが、ホームサイドディシジョンはボディビルディングだけの特徴ではない。プロスポーツならずとも、すべてのスポーツのグローバルな傾向である。

さて、規定された審査基準を参加者が追い求めた結果としてのボディビルダーの肉体は、ボディビルディング愛好者、参加者、関係者には受け入れられるものの、一般から見れば、異形、畸形として映る。そこが、美人コンテストとは異なる点である。一般の意識と著しく乖離した基準が頑として存在し続けているのがボディビルの特徴であり、そこに、この競技の逸脱という特徴がある。

並外れた筋肉を身にまとう肉体への希求というものは、人間の始原の姿に回帰しようとする欲求に由来するものなのか、それとも、近代が生んだ労働生産性を向上するための、すなわち、資本にとって効率的肉体の最高峰を望もうとする結果(ミシェル・フーコーのいう肉体の「矯正」)なのか―――については判断しかねる。ボディビルディングという競技が生まれ発展してきたのは現代からだからといって、だから後者だと速断することも誤っている。古代美術を紐解けば、隆々とした筋肉の兵士像、神像を見つけることはたやすい。

筋肉とはすなわち力だと解すれば、肉体を駆使して闘ってきた人間の歴史のなかの強者の象徴として、筋肉美を位置づけることもできる。だから、人間の始原における欲求なのだと言えるか―――否、宗教絵画に描かれたキリストの姿は厚い筋肉をまとっていない。どころか、むしろ弱弱しい若者の姿として描かれるのが普通である。「力」は、「弱さ」の下位に位置づけられている。

暗黒舞踏家・土方巽は、彼の舞踏スタイルのなかに西欧的な均整のとれた身体性を封じ、日本人の、それも農民の原像である、湾曲した下肢、うつむき加減の姿勢、くずおれた腰つきなどを取り入れた。さらに、この世に生まれる前の胎児がとっているという―――縮こまった両手両足をともなった―――身体性を真似ることで、人間の始原性を強調したと言われている。

人間が強く逞しい筋肉をまとうことを欲するようになったのは、無防備な胎児から生存のための様々な競争、闘争を積み重ねてきた経験の蓄積なのか。いやもしかすると、ある時代を境に、人間は生存のための肉体的葛藤を封印され、制度や知能に属する領域の競争へと追い込まれたとき、その反動として、戦うための肉体の象徴である大きくて強い筋肉をまとった身体を希求する衝動が生まれたのかもしれない。すくなくとも、“そうなろう”と思い詰めた人間がいたのであり、いまもい続けている。

本書は、現代では少数派となってしまった―――“そうなろう”と思い詰めた―――逸脱した人間の物語である。本書に描かれたボディビルダーの生き様を理解できるのは、おそらく、現役ボディビルダーか、または、その経験者に限定されるだろう。人並み外れた重さのバーベルやダンベルを扱うボディビルダーの姿は想像可能であっても、過酷なバルクアップと減量の繰り返しで呻吟する彼らの姿は常人には理解できない。ましてや、生命に危険が及ぶ筋肉増強剤に手を染めようとする、あるいは染めてしまった違法ビルダーの姿は、薬物中毒者、麻薬中毒者に等しいとしか解されない。

常人から、あえて、異形・畸形と興味本位な視線を浴びながら、常人に優越する自己を認識しようとする彼らの精神の構造はどうなっているのか。ボディビルダーの生き様から人は何を抽出できるのか。他者への優越を肉体の形状に求めよとする求道者の心情は、本書読了後も、はっきりとわかったわけではない。

2012年8月19日日曜日

作新と仙台育英よ、それでも野球がしたいか

デイリースポーツによると、甲子園球場で開催中の全国高校野球選手権大会に出場している宇都宮市の作新学院高校2年で硬式野球部員の男子生徒(17)が、強盗容疑などで逮捕されたことが18日、宇都宮中央署と同校への取材で分かった。逮捕は17日。この男子生徒は今月10日午前6時50分ごろ、宇都宮市内の雑木林で少女(16)のひざに軽傷を負わせた上、現金数千円を奪うなどした疑い。高野連は、「過去の事例から、部活動外の個人の不祥事で出場を差し止めたことはない」としている。

インターネットのあるメディアによると、仙台市内の仙台育英高2年の男子生徒(16)が同級生らからいじめを受けたと訴えている問題で、同校の教頭らが8日、河北新報社の取材に応じ、 暴力を振るわれた件をいじめと認めた。たばこの火を押し付けられた「根性焼き」は、「現時点でいじめとは認められない」との考えを示した。同校によると、生徒が昨年11月以降、肩や腕などを殴られたとする訴えは、同級生らが認めたため、いじめと判断した。 別の男子生徒からことし5月、20回以上受けたとされる「根性焼き」は、「1回は自傷行為、残りは両者の合意があったようだ」とした。根性焼きをした男子生徒は7月末に自主退学したという。 被害生徒に自主退学を勧め、受け入れないと退学処分にする方針を伝えた理由について、同校は「根性焼きの痕を見た生徒の意見を踏まえた」と説明した。 処分は生徒らの不服申し立てを受け、保留になっている。 生徒側は6日に被害届を出し、県警が傷害などの疑いで捜査中。同校は7日付で教員、カウンセラーら計5人の再調査委員会を設け、事実関係を調べている。教頭らは「事態を厳粛に受け止めている。捜査にも全面協力する」と話した。

日本全国でいじめ問題が深刻化する中、作新学院の犯罪事件と、仙台育英の陰惨ないじめ事件に関しては、マスメディア(大新聞、テレビ局等)は管見の限り、報道を控えている。その理由は、両校が夏の高校野球甲子園大会出場校であることは、言うまでもない。甲子園大会は「純粋」な高校生の野球の大会であって、出場する高校に犯罪やいじめなど、絶対にあってはいけないというわけだ。

甲子園大会の開催者は高野連と朝日新聞だが、甲子園人気が沸騰するに従い、すべてのマスメディアがライバル会社である朝日新聞開発の甲子園コンテンツに相乗りをしだした。「甲子園」を扱えば、新聞、雑誌は売れ、テレビの視聴率は上がり、広告収入が増えるというメカニズムに便乗しているわけだ。だから、「甲子園」の付加価値を下げるような不祥事、都合の悪い事件には蓋をしておけというわけだ。

筆者は、いじめを温存しているのは、文科省、学校(教育委員会)、マスメディアの責任だという趣旨のことを当該コラムにて書いた。作新、仙台育英の事件を不問に付し、「甲子園」を守るため、犯罪やいじめ報道にバイヤスをかけるとは、マスメディアの自殺行為であるが、3・11以降、すでにもう多くの人々がマスメディアの不正を知ってしまい、マスメディアには一切の幻想を捨てている。実質的にはゾンビ状態にあるマスメディアに自殺行為という表現は、あてはまらないのかもしれない。

甲子園というのは何度も書くように、高校事業者の生徒集めの売名宣伝行為と、朝日新聞をはじめとするマスメディア両者合作による、利潤追求、商売のための仕掛けである。そこに普遍性はない。マスメディアがでっちあげた「美談」「スポーツマン精神」「郷土愛」の複合的な幻想の産物である。国民が支持しているというが、アジア太平洋戦争も国民が支持したのである。真のジャーナリズムには、国民が盲目的状況に陥っているときには、それを覚醒させる役割がある。いまのマスメディアは自分たちがつくりあげてきた幻想を国民が信じている状態をできるだけ長引かせて、幻想が生み出す付加価値から利潤をできるだけ長く引きださんと努めている。だから、国民には長らく幻想に浸ってもらいたいというわけだ。もちろん、「甲子園」を批判する、心あるジャーナリストやスポーツ評論家が皆無とは言わない。だが、彼らの声はマスメディアの完全無視によって、沈黙となってしまっている。

このような批判を一切許さない言論の一元化は、メディア産業のクロスオーナシップが許容されるという日本独自の制度がつくりだしている。新聞社が開催(事業化)し、その新聞が宣伝し報道し、系列化されたテレビ、ラジオ、雑誌がそれを重ねて宣伝報道する。完璧なメディアミックスで「甲子園」は国民の側に届けられる。洗脳である。人気が高くなるに従い、コンペティターまでが同じことを繰り返す。反対者、批判者の発言は、すべてのメディアから締め出される。自分たちが創造した英雄(「甲子園児」という造語まである。)が国民の「英雄」になり、神格化された「英雄」が巨大メディア産業の利潤を生み続ける。

さて、冒頭に引用したような場合――、甲子園出場高校の野球部員が犯罪に走ったり、また、校内にいじめがあったりした場合――、同じ学校に通う高校生はどうしたらいいのか。当然、野球等のクラブ活動はいったん休止し、二度とそのような犯罪、いじめが起きないような方策について、教師、保護者等と真剣に考え、問題解決のための討論を重ね、再発防止策を構築するのが筋だろう。

夏休みであろうと関係ない。同級生、同窓生を問わず、同じ学校に通う生徒として、そのような深刻な問題に対して、真正面から向き合うべきだ。犯罪やいじめが起きた直後だからこそ、ホットなうちに校内の深刻な問題に向き合うべきなのだ。だから、解決策、再発防止策が一人一人の生徒の手によって構築されるまで、課外活動は野球に限らずいったん休止すべきなのだ。そういう意味で、不祥事のあった学校は、「甲子園」の出場を辞退すべきなのだ。一生懸命、練習してきた生徒が可哀そうだ、なんてのは愚の骨頂。いつの時代においても、高校生という年代にとって大事なことは、上手に野球をすることなんかじゃなくて、校内、社会に潜む深刻な問題をわがこととして引き受け、それについて自分の頭で考え、友人、教師、保護者らと議論し、自分なりの解決策を考えだす以外にない。野球なんかしている場合ではないだろう。

2012年8月15日水曜日

『ワイマル共和国の予言者たち―ヒトラーへの伏流―』

●ウルリヒ・リンゼ[著]  ●ミネルヴァ書房  ●3884円+税

17~18年前のことになるのであろうか、オウム真理教というものが世の中に広く知られるようになったころ――、そしてその後、オウム教団による凶悪事件の数々が明るみに出て、「地下鉄サリン事件」、「上九一色村大捜索」における麻原逮捕・・・と、そのまがまがしさが世間の嫌悪の頂点に達したころ――をいま振り返ったとき、悔しさというか、無念さを拭いきれない自分がいる。それは、自分自身を含めた当時の日本社会が、オウム真理教と麻原彰晃について、あまりにもナイーブ(うぶ)すぎたことである。

よく言われるように、オウム真理教が世間に認知され始めたとき、彼らを好意的に受け止めたジャーナリスト、メディア、知識人らがいた。その代表的存在にいま、「反原発」の政治運動体「グリーンアクティブ」を率いる宗教学者・中沢新一がいる。ところが、オウム真理教による数々の凶悪犯罪が明るみに出てからというもの、「オウム」を好意的に迎えた中沢ら知識人等は手のひらを返したようにオウム批判者へと自らのポジションを代えるか、あるいは、ホトボリがさめるのを待つかのように沈黙した。「オウム」に関わった己の過去を封印した。

そのような無責任かつジャーナリスティックな「知識人」はともかく、宗教学・社会学・歴史学等を専門とする者が当時、本書(=『ワイマル共和国の予言者たち―ヒトラーへの伏流―』)を紹介していたならば、日本社会は、少なくとも麻原彰晃に対する見方を変えていたと思う。その理由はこのあと、詳細に記していく。

本題にある“ワイマル共和国の予言者たち”とはいったいだれのことなのか――といえば、第一次大戦後(1920年前後)、敗戦国ドイツに惹起した超インフレ下の混乱した社会に出現した宗教的指導者、いわゆる、インフレ期の聖者(略して「インフレ聖者」と呼ばれることが一般的である)のことである。これまでのところ、ドイツのインフレ聖者については、管見の限りだが、日本ではまったくと言っていいほど紹介されていない。

だが、繰り返し述べるが、オウム事件勃発前後の日本社会がインフレ聖者についてほんの少しの知識をもっていたならば、あるいは、インフレ聖者の存在を踏まえて、「オウム」に向き合っていたならば、「オウム」という宗教的政治現象はけして、特別なことではなかったことを知ることができた。また、日本社会が「オウム」に対して、集団ヒステリーに陥ることも避けられた。さらに加えて、当時から今日まで、日本社会に継続する思想的・政治的・宗教的混乱をすべて回避できなかったまでも、現状とは異なる展開を見せた可能性すら否定できない。

●インフレ聖者と「偽装された宗教」の違い

もちろん、オウム真理教及び麻原彰晃をインフレ聖者に単純にアナロジーすることや、まったく同質視することはあり得ない。本書を読めば「オウム」が解読できるというものでもない。現代の新興宗教とインフレ聖者を同質視する傾向に対して、著者(ウルリヒ・リンゼ)は次のように戒めている。
本書で論じた人々(=インフレ期の聖者)を選ぶこと自体には、あまり問題はなかった。もちろん、インフレ聖者というのは、ワイマル時代のあまたの教派(ゼクテ)の一部を成していたにすぎない。たとえば、カール・クリスティアン・ブライは1924年にその著『偽装された宗教』において、そのテーマにあてはまるものとして次のようなものを挙げている。――禁酒運動、占星術、反ユダヤ主義、ヨガ、占い棒易術、アトランティス大陸探索、菜食主義、エスペラント語運動、性生活改善運動、リズム体操普及運動、超人信仰、加持祈祷、世界平和運動、利子撤廃運動、神智学、郷土芸術運動、聖書研究、オカルト信仰その他諸々の運動。――しかし、インフレ聖者と彼らの政治的色彩の濃い宗教とは、こうした諸々の教派(ゼクト)や疑似科学、ブライのいう「哲学のインフレーション」とは際立った違いを見せている。つまり、腐植土から菌糸体を抜き出せるのと同じように、インフレ聖者も、彼らを養ったところの偽装した宗教、代替信仰という土壌から一応切り離し、一つのまとまった現象とみることができるのである。(P19)
チャールズ・マンソン[現代アメリカのカルト「新興宗教」の教祖]やデヴィッド・モーゼス[現代インドの神学者]、バグワン・シュリ・ラジニーシ[現代インドの宗教運動家]といった現代の救世主とインフレ期の聖者たちとの比較を、著者(ウルリヒ・リンゼ)は敢えて行わなかった。もちろん、これら「新宗教」の指導者とインフレ聖者の間には、すぐ目につく類似点がいくつもある。だからといって、インフレ聖者が1920年代に特有の現象であったという事実が見過ごされてよいということにはならない。それはドイツに特有の歴史的伝統と、世界大戦の敗北とそれによってもたらされた政治的・精神的・社会的な危機とを見すえなければ理解できるはずがない現象だったのである。(P20~21)

まさにそのとおり。インフレ聖者という現象をオウム教団、麻原彰晃とみなすことはできない。オウム真理教の問題は、“1990年代の日本において特有な現象であったことはみすごすことができない”のであり、それは“日本の特有の歴史的伝統と、バブル経済の崩壊等によってもたらされた、日本の政治的・精神的・社会的危機とを見すえなければ理解できるはずがない現象”なのであるから。

そのような観点に日本社会の知的基盤がいま立っているのならば、ただ一点、オウム真理教(教団)がなぜ、あそこまで活発に活動し、あれほどまでに暴力的、軍事的に拡大し、多くの人を殺傷し、挙句の果てには当局によって崩壊させられたのか――ということが、この事件に係る解決されるべき最重要課題となっていたはずなのである。そうなれば、オウム事件の真相解明のためのアプローチは、緩慢な形而上学的「オウム論」の域をいち早く抜け出すことができたであろうし、「オウム」として表象した日本社会が抱える闇に、一直線に迫れる可能性が高かった。某若手宗教学者のように、“ロマン主義・原理主義・全体主義”を今さら持ち出して、オウム真理教を「説明しよう」という愚挙も避けられたのだと思う。

本書を日本社会に広く知らしめなかったのは、日本の宗教学者・社会学者・歴史学者の知的怠慢であり、彼らの知的怠慢が、日本社会とオウム真理教のリアルな関係の解明を希薄化させたままにしているのである。

●インフレ聖者とは?

インフレ期の聖者の代表としては、ルードヴィッヒ・クリスチャン・ホイサー、テオドール・プリーヴィエ、フリードリッヒ・ムック=ランバーティー、マックス・シュルツェ=ゼルデらが挙げられる。なかで、最も精力的に活動した一人がホイサーであろうか。ホイサーの模倣者・後継者としてはフランツ・カイザー、レオンハルト・シュタルクらがいる。これら「聖者」の思想・活動内容等は本書に詳しいので、それぞれを参照していただきたい。

彼らはいちように髪と髭を伸ばしほうだいにし、家庭、住まい、定職を捨てた者が多く、街頭に寝泊まりしつつ放浪を繰り返していた。彼らは、支援者や貧民救済施設が提供する炊き出し等で飢えをしのぎ、講演会で演説をして信者・支持者を獲得していった。その活動ぶりを当時のケルン新聞は以下のとおり伝えた。
「ここ一、二年、ベルリンの広告柱には、いつも未来の使徒や予言者の講演広告がべたべたと貼られている(びっくりするほど入場料が高いことが多い)。いつでも、聖書からの決まり文句とか引用文がそえられている。かつての危機の時代と同じように、古くさい黙示録的な観念が息を吹きかえしている。そして達者な弁士の口にかかって、不安に駆られた人々の脳裏にあらためてしっかりと刻み込まれている。彼ら聖者にとって大事なことは、ひげをふさふさとたくわえ、カラーもネクタイも着けず、そして自信たっぷりでいることだ。」(P36)
インフレ聖者たちの運動(布教)形態、思想信条はそれぞれ異なっていて、一律には語れない。ただ、共通項を求めていくこともできる。
インフレ期の聖者たちは、ひとつの宗教的現象である。彼らは救世主を求める(予言者的、千年至福的、千年王国的)運動のグループに属している。この点から、これらのセクトの特有な構造が生まれる。その構造は、一方では予言者たる指導者の人格によって、他方では予言者に忠実に献身する信徒集団によって規定されている。(P321)
[インフレ期の聖者における予言者たる宗教的指導者の人格]は、オウム真理教におけるグルと呼ばれた[麻原彰晃]であり、[予言者に忠実に献身する信徒集団]は、オウム真理教における[出家信者と呼ばれる信徒たち]であり、[救世主を求める(予言者的、千年至福的、千年王国的)運動]は、[オウム真理教の終末論的教義]に、いずれも合致する。すなわち、1990年代の日本の「オウム」という宗教的現象は、1920年前後のドイツに現れたインフレ期の聖者と同じ構造をもった宗教的現象である。

●インフレ聖者が現れた背景
世界大戦によって直接、間接にひき起こされた、個々の指導者における生の危機(あえてノイローゼという蔑称的概念をここでは避けたい)は、当時のドイツに広く見られた予言者運動の独自な歴史的社会的枠組みをなす、集団体験としての危機状況と結び合っている。この危機は、経済的な(景気の長期的・中期的波動と関連して)、政治的な(戦争と敗北、革命と反革命)、社会的な(戦争とインフレによる被害)、これら3つの性格のものであり、全体的な危機意識をもたらした。とくに労働者、小市民、知識人(ボヘミアン)は「よりどころを失った」という感覚にとらわれた。この危機は、あらゆる社会層にとって「旧来の回答」を信用しえないものと思わしめ、社会的コンセンサスの消失とともに、「旧世界」や旧来の精神的権威からの離脱をひき起こし、新しい意味の創出や信頼ある精神的指導者、さらには精神的・物質的再生への希求を生み出した。(P321)
“インフレ期の聖者たちは、こうした過程におけるひとつの現象形態にすぎない”のであるのに等しく、“麻原彰晃そしてオウム真理教も、バブル経済崩壊前後の日本社会の変容過程における、ひとつの現象形態”にすぎない。もちろん、1920年前後のドイツの危機の性格を、1990年代前後の日本の危機の性格を安易にアナロジーすることはできない。とはいうものの、90年代の日本が平穏で安定した時代だったとも言えない。経済的にはバブル経済崩壊があり、日本経済における成長神話のすさまじい崩壊過程にあった。政治的には戦後一貫して政権与党であった自民党が政権を失い、その直後に自社さきがけ連立という野合により自民党が与党に復帰するという議会の混乱があった。社会的には不良債権処理問題、金融機関の経営危機と公的資金の注入というモラルハザードがあり、阪神淡路大震災という当時にあって未曽有の自然災害があった。そればかりではない。世界的には東西ドイツの統合、ソ連(=冷戦構造)の崩壊という世界歴史の転換点にもあたっていた。まさに天と地がひっくり返った時代だった。そして、そのような時代の隙間からオウム真理教は生れ出て、教団として成長し、麻原彰晃は「聖者」になっていった。

●インフレ聖者と農村共同体コロニー
これ(=インフレ聖者)と時期的にも重なり合う、注目すべき対応物は、農村の共同体コロニーの登場――1890年頃に始まる――である。この運動は、インフレ期の聖者たちのように、第一次大戦後に最盛期を迎え、ワイマル末期の世界的経済危機のなかで短期間もう一度、浮上し、70年代にふたたび続行される。この危機のなかで、不安感とフラストレーションをともないつつ、さまざまな表現形態が見られた。そして新たな忘我への希求が、多様な形姿で登場した。コミューンの理念(農村コロニーから労働共同体に至る)が聖者たちに流布したのも、すくなくとも偶然ではない。(P321~322)
ここで指摘されている農村の共同体コロニーの登場については、当コラム(BOOKS)において直前に取り上げた『生態平和とアナーキー ドイツにおけるエコロジー運動の歴史』に詳しい。『生態平和とアナーキー』の著者は本書の著者(ウルリヒ・リンゼ)その人である。同書を本書と併せて読むことをお奨めする。

さて、私たちは、オウム真理教が事件当時、日本各所に広大な土地を手に入れて入植し、入植地において自然農法に基づく農業を行い、収穫物を自然食品として販売し、また、信者自身が食していたこと、また、信徒たちはそこで「ワーク」と呼ばれる共同労働を行っていたことを知っている。つまり、オウム教団は、ワイマル期ドイツにおける「重なり合う、注目すべき対応物」を結合して取り入れていたことが明らかである。「オウム」は、前出の上九一色村(=入植地)にいかにも品のない建物を建て(それらはサティアンと呼ばれていた)、うちいくつかの建物がサリン製造工場として使用されていたことも記憶している。それは、まさに危険な労働共同体であったことをいまになって知るのである。

●理論的解決の提供にとどまらずその回答を実践化
いうまでもなくコミューン・予言者運動に共通していることは、それがたんに理論的解決を提供しただけでなく、その回答を実践化したことにある。「虚偽」と「カオス」という腐朽せる時代についての予言者たちによるメッセージは、そして今この時期に終末論的な大転期の到来という彼らの約束は、生々たる教えによって信ずるに値するものと映った。インフレ期の聖者たちも伝統に縛られていたので、彼らも「心理」と「純潔」(彼らのシンボルの色は白であった!)の「新しい国」のコミューンを建設した。そして、そのためになによりも彼らは100%のキリスト者、いや新しいキリスト者となった。しかし彼らは、マックス・シュティルナー(19世紀前半の哲学者、自我のみが実在であると主張)やニーチェ以来の超人・我・意志の崇拝者にも加えうる。(P322)
インフレ聖者の予言、説教や彼らが示す世界観にはマルクス主義のような確たる体系はない。前出のケルン新聞が伝えるように、“聖書からの決まり文句とか引用文”や“古くさい黙示録的な観念”で彩られている。だが、「聖者」たちの口からそれらが熱狂的に語られるとき、聞くものに、アルカイックな宗教思想への回帰をもたらした。このことは、当時のドイツが高度資本主義的な工業社会としてモダンな装いをしていたものの、その下層に古い思想様式と行動様式が生き残っていたことを示すものである。既存の秩序が動揺に晒されたとき、それらが再び活性化することは考えられる。
だから、インフレ聖者は「アルカイックな社会運動」の担い手だった。あるいは「原初的(プリミティブ)な社会反乱者」だったといえるかもしれない。・・・政治を世俗的な事柄と解するならば、インフレ聖者は・・・「前(プレ)政治的」存在だったといわねばならない。というより、むしろ彼らは、政治の世俗化と世俗からの宗教の逃避こそが、人間を破滅させるものだと考え、意識的にそれに抵抗しようとしたのである。近代は、政治を宗教から遠ざけ、宗教を私的な事柄だととらえ、両者を切り離したが、インフレ聖者は、もう一度この世界に、政治的な宗教を、ないしは宗教的な政治を持ち込もうとしたである。(P42)
危機の感情がトータルなものになってしまっていたため、・・・人間のすべてをとらえた、トータルな生き方の変革だけが回答になることができたからである。無秩序は、新たな精神的安定、新たな救済が得られてはじめて克服されたことになるのであった。このような「前政治的」態度は、同時に、超政治的態度でもあった。やはり時代の災悪を、宗教的な救済と浄化によっていやすことを目指していたからである。(P43)
これらのことがオウム真理教と重なり合うのは、いまさら説明する必要もない。

●アナルコ=サンディカリズム、アナーキズムとインフレ聖者

当時のドイツでは共産主義勢力が社会に及ぼす影響力は強いものであったし、アナルコ=サンディカリズム、アナーキズム勢力といった左派の力も今日以上のものであった。また、その反対に、帝政復活を目指す国家主義者、民族主義といった右派の力も強く残っていた。最近の研究では、ワイマル期の政治的・宗教的なさまざまな教派は、「右翼的」「国家主義的」「民族主義的」にも、「左翼的」にもなりえたという。さらに、左右両極の間には、「どうも、イデオロギー、構成員、組織、いずれをとっても連続性ないしつながりといったものがあるのが稀ではない」ことが確認できるという。したがって、千年王国説のさまざまな教派は、「ファシズム及びそれと極左革命運動との関係の研究にとっても」重要になる。

インフレ聖者はそんな中、左右両陣営を結び付けようと意識的に努めていた。それというのも、インフレ聖者には当時のドイツのアナーキズム的ないし極左的な集団と共通する傾向をもっていたからである。その共通項としては、反権威主義、自発性の尊重、党や選挙に対する嫌悪、意志の重視、行動主義、そして意識革命や文化革命への傾斜という点が挙げられる。

インフレ聖者の一人、レオンハルト・シュタルクの新聞には、槌と鎌と並んでハーケンクロイツ(鉤十字)が巻頭を飾っていた。また、カップ一揆(1920年、右翼政治家カップによって行われたクーデター、失敗)の際、海軍大尉エーアハルトという人物が水兵旅団を率いてベルリンを占領したが、インフレ聖者の代表的存在の一人であるクリスチャン・ホイサーは、彼の写真をレーニンとトロツキーの写真と並べた印刷物を出し、そこに「われわれは、ヒトラー、ルーデンドルフ(第一次大戦の英雄的軍人)、マックス・ヘルツ(共産主義者)、エーアハルト、リープクネヒト(スパルタクス団の指導者、殺害される)をいずれも、誠実な人物、最良の意欲ある人物として尊敬する」と書き加えた。

これらの支離滅裂な個人崇拝には、資本主義や国家を個人の精神革命を通して解消したいという願望が示されてもいた。そしてこの願望が、インフレ期の遍歴聖者を極左共産主義やアナーキズムに結びつけていた。しかし、それはまた、両者の分岐点でもあった。というのは、この願望をどう実現するかということになると、聖者たちの教えは、反組織的なものだったからである。
プロレタリアートの極左主義者や共産主義的労働者アナーキズム、あるいはアナルコ=サンディカリズムの立場に立つ者は、階級闘争における政治的ないし経済的な側面を見失うことは決してなかった。つまり彼らは、意識革命をプロレタリアートの現実の生活条件の変革と結びつけようと努めていたのである。そしてそのためには、革命的かつ組織された階級闘争が必要だったのである。それに対して、階級なるものから離脱していたインフレ聖者は、意識のレベルを絶対視していた。その結果が、自我の神格化、組織破壊、政治的影響力の無さ、大衆的基盤の喪失、セクト主義だった。(P55)

聖者の一人であり「青年前衛運動」を率いたプリーヴィエは、その構成員に対して、「階級社会の召使い、奉仕者、奴隷」たる「父たち」の世界を拒絶せよ、と呼びかけた。同じくシュルツ=ゼルテは、労働組合的な活動や「直接行動」などやめ、田舎へ移住するように訴えた。二人に共通していたのは、今ここでアナーキズムを生きようとする姿勢であった。この革命的性急さこそが、11月革命挫折後の時期に「左翼」メシアにズムが人々を引きつけた最大の理由であった。さまざまな組織が「死せる理念」を追いかけていただけなのに対して、聖者たちは、理念の生き生きとした働きを、身をもって表そうとした。

「生きること、それはキリスト者であること、
 それは共産主義者であること、
 それは社会主義者であること、
 それはアナーキストであることだ」。(グレゴリー・ゴーク)

●枯死する旧世界の中心には絶対化された「われ」が立つ
彼ら(インフレ聖者たち)の「精神錯乱的な」気質は、新たな岸辺への出発点を信頼できるものと思わした。彼らが流浪生活の貧困に自覚的に耐え、あらゆる物質的な所有を放棄したときには、とくにそうであった。その際に彼らは、不屈の禁欲的な意志力と弁舌力によって、彼らの精神的強さを明示した。そして彼らは「旧世界」が枯死していることを、以下のような指摘によって信徒たちに立証してみせた。すなわち彼らは、市民的職業秩序だけでなく、伝統的家族秩序も拒否し、性の自由の見地から一夫一婦制を断固として否定した。社会的逸脱行為の祭典は、予言者崇拝のあらわれであり、その中心には絶対化された「われ」が立っていた。そこに社会の原子化と分岐化の予兆を見出していた。国家からの離反、さらには国家の拒否というアナーキスティックな要因、およびゆるいセクトを効率よい党機構へ転換するのに失敗したことも、自我崇拝の必然的結果であった。発生しがちであった犯罪的行為も、予言者的な逸脱としではなく、慣行的な社会規範との公然たる断絶を自覚的に耐え遂行したことのあらわれとして理解されねばならない。(P322~323)
禁欲的意志力と性の自由の両方を体現したこともインフレ聖者の特徴であり、「聖者」による犯罪的行為、社会規範からの著しい逸脱をもって、彼らを狂人、パラノイアであると批判する声もある。しかし、インフレ聖者の何人かの精神医による診察記録が残されていて、それによると(当時のレベルの医学所見だが)、ホイサー、シュタルクも、精神病者ではなく、精神病質者として位置づけられている。精神病質者というのは「異常人格」を指し示すもので、精神病者とは厳密に区別されている。それは、「異常」とあるけれど、病んでいることを意味しない。つまり、正常人格という平均タイプから逸脱しているにすぎない。
さて、この精神病質ということを前提にしたうえで、精神医はホイサーとシュタルクをヒポマニー、つまり軽度の躁病質と診断している。自分には力があるんだという感情や自尊心が肥大化してしまったり、自分は偉大だという意識がこびりついたりする。いろんなことに手を出し、ものを書きたい、喋りたいという衝動が強まる。思考が上滑りの状態になり、口だけべらべらと廻ってしまう。ひどく骨の折れる旅をあちこちしてまわる。手紙を書くと字がとても大きくなり、やたらと強調文や布告調の文を書いたりする。――彼らの行動に見られるこういった現象は、ヒポマニーとしかいいようのないものだといえるのである。(P88)
ここに指摘された聖者の行動と、当時、テレビで報道された「麻原彰晃」の様子を重ね合わせてイメージすることは容易なことであろう。だが、だから、麻原もヒポマニーだということが言いたいのではない。
もちろん、精神医の議論は、インフレ聖者という公的な人物の問題を私的な(病気の)物語に還元してしまっていて、なぜこのヒポマニーが、1920年代という時代において公衆の面前で活動するための前提であったのかを問おうとはしていない。大事なのは、自我崇拝と自己肥大症の社会的文脈を明らかにすることである。・・・インフレ聖者が世間の注目を浴びたのは普通の時代ではなかったのである。それは破局の時代、これまで信じられてきた生き方や意味がこわれてしまった時代だった。だから、これら精神病質のヒポマニー症者は、この危機の時代において決して孤立した存在だったのではない。むしろ反対に指導者として、教派(ゼクテ)的な集団形成の凝集点になっていたのである。というのも、彼らは破局によって引き起こされた変動に対しては「正常人」よりはずっと弱い抵抗力しか持っていなかったが、しかし他方では、世間の仕組みにあまり組み込まれておらず、他人と同じように振舞わなければならないとか伝統には従わなければならないとか思うことも少なかったからである。だからこそ、動揺と新しきものの探求の時代にあって、彼らを受け入れる素地を持っていた人々の指導者になったのである。(P88~89)
信者たち自身も、インフレ期の聖者たちの訴えを、しばしばはげしい言葉で喚起された、世界の転換の近き到来として、また内面的な感動的な幸福感(エロスと忘我をともないつつ)として迎えた。そこには、聖者たちが支配権をにぎるだろうという意味がこめられていた。1918年の11月革命の失敗も、超政治的な意味で継続的に発展されているという内面的確信は、信者たちのなかに、戦闘精神と犠牲的精神を強めさせた。(P323)
この2つの引用は、オウム真理教と麻原彰晃を考えるうえで、かなり重要な箇所である。当時、地下鉄サリン事件等の凶悪犯罪が起こる前、オウム真理教と麻原彰晃は、かなりの頻度で、テレビ等により紹介(報道)されていた。しかしながら、「オウム」の教義に興味のない者から見れば、若い信徒たちが麻原を崇め、奇妙な宗教的行動をとることが理解できなかった。むしろ、嘲笑と違和感をもって突き放していた。しかし、麻原の下に集まった信徒たちは、おそらく、新しきものの探求者であり、ヒポマニー的な強烈な個性を放つ麻原を探し出した。麻原を教祖として受け入れる素地をもっていた者なのである。それが不幸であった。探求の結果としては、相当質の悪いものを探し出したことになる。だが、彼らは麻原に属した。オウム真理教があれほどの活力をもてたのは、当時が危機の時代であったからであろう。だが、当時、わたし自身に危機の認識は薄く、「オウム」の後ろにある時代の転換の動きを感じとることができなかった。
これまでインフレ期の聖者たちが立っていたキリスト教的狂信と千年王国的予言者主義という伝統の流れを強調してきたが、そこに新しいものが登場していることを見落としてはならない。その場合、キリスト教的文化圏において「予言者」が群生したことが新しいのではない。異例なのは、それが、工業世界の周辺(それの結果として)ではなく、中欧の中心で、しかも大都市において再生した点である。こうして一時的な聖者現象や、聖者たちの跡を追ったメシア的指導者アドルフ・ヒトラーという、さらに後々まで続いた現象は、この工業世界における啓蒙思想と世俗化によってドグマ化された根本前提をゆり動かしている。その根本前提とは、現世的なものと精神的なものとの分離、また政治と宗教との分離といわれるものである。インフレ期の聖者たちは、政治的宗教性ともいうべきものの兆候である。この政治的宗教性について、それは今日では過去のこととなったとは、確実にはいいえない。おそらく打ちつづく危機的衝撃のなかで、確実なるものの集団的喪失がおこれば、工業国家においてもつねに存在する政治的宗教性が、爆発的に解き放たれるであろう、と考えられる。インフレ期の聖者たちは、このような社会的な抗議・革新の潜在力という点で、ヨーロッパにおける「古典的な」前工業的予言運動を、いわゆる新興諸宗教へとつなぐかけ橋であったであろう。(P323~324)
本書の訳文が日本で刊行されたのが1989年、原文は1983年にドイツで出版されている。もちろん、オウム事件の前である。不幸なことに、本書の末に記された「おそらく打ちつづく危機的衝撃のなかで、確実なるものの集団的喪失がおこれば、工業国家においてもつねに存在する政治的宗教性が、爆発的に解き放たれるであろう」という箇所はドイツから遠く離れた日本におけるオウム事件を予言するものとなっていた。しかも、“爆発的”の規模が度を越したものとなって――。

「オウム」を解明するにはだから、日本の1990年前後の時代における“確実なるものの集団的喪失”を探ることから着手されるべきなのである。

2012年8月1日水曜日

Zazie, Nico(8月)

先月、体調不良だったNicoの体重は5.8㎏で、前月比0.1㎏の増。

Zazieが2.6㎏で、0.1㎏の減となった。

体調を崩したNicoが重くなって、元気なZazieのほうが軽くなったのは意外な結果。