2012年8月20日月曜日

『果てなき渇望』

●増田晶文[著] ●草思社文庫 ●800円+税

ボディビルダーには幾つかの貌がある。満員の観客の中、スポットライトを浴びながら、コンテストでポージングを決める晴れやかな貌、ジムで一人、重いバーベル、ダンベルを無言で上げ続ける孤独な貌、繰り返される過酷な増量、減量に耐える貌、そして、日本では少数派であるが、難解な名称の薬物を何種類も組み合わせてドーピングをする貌―――を付け加えてもいい。

こうした多様な貌を持つ者は、今日のアスリートにあって、特別なものではない。たとえばオリンピックを頂点とする華やかな大会、苦しく厳しい練習、そして、体重別が一般化した格闘技系スポーツに限らず、今日、自分の体重コントロールと無縁なアスリートは極めて少数派である。また、ドーピングは日本でこそすべてのスポーツ界で厳しく禁止されているものの、グローバルにみれば、多くのスポーツにおいて、自己責任という大義名分の下、その運用は検査に係らないというルール内で選手に任されている。

では、ボディビルが他の競技スポーツとは一線を画され、特殊視される所以はどこに求められるのか。

競技スポーツの勝負は、スピード、距離、得点差等を媒介とする。格闘技の場合は、有効とされる技がポイント化され、勝敗を決める。ボクシングのKO勝ち、柔道の一本勝ち、レスリングのフォール勝ちは、究極・最高のポイント獲得である。つまり、ポイントを媒介とする。

ボディビルディングはフィギュア・スポーツである。それが、一般のそれと異なる点は、たとえば、フィギア・スケートと比較すると、後者の場合は、選手が試行した技の難易度とその完成度が数値化され、ポイントを媒介として勝敗を決める。ところが、ボディビルは、技によるポイント獲得というメカニズムをもたない。ボディビルディングは、概ね、筋肉の量、筋肉の質が勝負の分かれ目となる。人間の筋肉という身体そのものの優劣が競われるという意味で、他のスポーツ競技とは異類である。

ボディビルディングに最も近い「競技」は、美人コンテストである。多くの場合、女性に特化される美人コンテストでも、審査基準が詳細に規定されている。しかし、結局のところ、審査員の主観に基づくのだが、その順位づけについては、概ね、一般の主観と同一である場合が多い。つまり、コンテスト参加者の優劣の結果は一般性の範疇にある。

ボディビルディング大会の審査基準にも美人コンテストと似たような規定があり、その勝敗は概ね、それに基づいた結果となる。もっとも、アジア、中近東等開催の大会の場合は、開催国参加者が優位になる場合があるようだが、ホームサイドディシジョンはボディビルディングだけの特徴ではない。プロスポーツならずとも、すべてのスポーツのグローバルな傾向である。

さて、規定された審査基準を参加者が追い求めた結果としてのボディビルダーの肉体は、ボディビルディング愛好者、参加者、関係者には受け入れられるものの、一般から見れば、異形、畸形として映る。そこが、美人コンテストとは異なる点である。一般の意識と著しく乖離した基準が頑として存在し続けているのがボディビルの特徴であり、そこに、この競技の逸脱という特徴がある。

並外れた筋肉を身にまとう肉体への希求というものは、人間の始原の姿に回帰しようとする欲求に由来するものなのか、それとも、近代が生んだ労働生産性を向上するための、すなわち、資本にとって効率的肉体の最高峰を望もうとする結果(ミシェル・フーコーのいう肉体の「矯正」)なのか―――については判断しかねる。ボディビルディングという競技が生まれ発展してきたのは現代からだからといって、だから後者だと速断することも誤っている。古代美術を紐解けば、隆々とした筋肉の兵士像、神像を見つけることはたやすい。

筋肉とはすなわち力だと解すれば、肉体を駆使して闘ってきた人間の歴史のなかの強者の象徴として、筋肉美を位置づけることもできる。だから、人間の始原における欲求なのだと言えるか―――否、宗教絵画に描かれたキリストの姿は厚い筋肉をまとっていない。どころか、むしろ弱弱しい若者の姿として描かれるのが普通である。「力」は、「弱さ」の下位に位置づけられている。

暗黒舞踏家・土方巽は、彼の舞踏スタイルのなかに西欧的な均整のとれた身体性を封じ、日本人の、それも農民の原像である、湾曲した下肢、うつむき加減の姿勢、くずおれた腰つきなどを取り入れた。さらに、この世に生まれる前の胎児がとっているという―――縮こまった両手両足をともなった―――身体性を真似ることで、人間の始原性を強調したと言われている。

人間が強く逞しい筋肉をまとうことを欲するようになったのは、無防備な胎児から生存のための様々な競争、闘争を積み重ねてきた経験の蓄積なのか。いやもしかすると、ある時代を境に、人間は生存のための肉体的葛藤を封印され、制度や知能に属する領域の競争へと追い込まれたとき、その反動として、戦うための肉体の象徴である大きくて強い筋肉をまとった身体を希求する衝動が生まれたのかもしれない。すくなくとも、“そうなろう”と思い詰めた人間がいたのであり、いまもい続けている。

本書は、現代では少数派となってしまった―――“そうなろう”と思い詰めた―――逸脱した人間の物語である。本書に描かれたボディビルダーの生き様を理解できるのは、おそらく、現役ボディビルダーか、または、その経験者に限定されるだろう。人並み外れた重さのバーベルやダンベルを扱うボディビルダーの姿は想像可能であっても、過酷なバルクアップと減量の繰り返しで呻吟する彼らの姿は常人には理解できない。ましてや、生命に危険が及ぶ筋肉増強剤に手を染めようとする、あるいは染めてしまった違法ビルダーの姿は、薬物中毒者、麻薬中毒者に等しいとしか解されない。

常人から、あえて、異形・畸形と興味本位な視線を浴びながら、常人に優越する自己を認識しようとする彼らの精神の構造はどうなっているのか。ボディビルダーの生き様から人は何を抽出できるのか。他者への優越を肉体の形状に求めよとする求道者の心情は、本書読了後も、はっきりとわかったわけではない。