2012年8月15日水曜日

『ワイマル共和国の予言者たち―ヒトラーへの伏流―』

●ウルリヒ・リンゼ[著]  ●ミネルヴァ書房  ●3884円+税

17~18年前のことになるのであろうか、オウム真理教というものが世の中に広く知られるようになったころ――、そしてその後、オウム教団による凶悪事件の数々が明るみに出て、「地下鉄サリン事件」、「上九一色村大捜索」における麻原逮捕・・・と、そのまがまがしさが世間の嫌悪の頂点に達したころ――をいま振り返ったとき、悔しさというか、無念さを拭いきれない自分がいる。それは、自分自身を含めた当時の日本社会が、オウム真理教と麻原彰晃について、あまりにもナイーブ(うぶ)すぎたことである。

よく言われるように、オウム真理教が世間に認知され始めたとき、彼らを好意的に受け止めたジャーナリスト、メディア、知識人らがいた。その代表的存在にいま、「反原発」の政治運動体「グリーンアクティブ」を率いる宗教学者・中沢新一がいる。ところが、オウム真理教による数々の凶悪犯罪が明るみに出てからというもの、「オウム」を好意的に迎えた中沢ら知識人等は手のひらを返したようにオウム批判者へと自らのポジションを代えるか、あるいは、ホトボリがさめるのを待つかのように沈黙した。「オウム」に関わった己の過去を封印した。

そのような無責任かつジャーナリスティックな「知識人」はともかく、宗教学・社会学・歴史学等を専門とする者が当時、本書(=『ワイマル共和国の予言者たち―ヒトラーへの伏流―』)を紹介していたならば、日本社会は、少なくとも麻原彰晃に対する見方を変えていたと思う。その理由はこのあと、詳細に記していく。

本題にある“ワイマル共和国の予言者たち”とはいったいだれのことなのか――といえば、第一次大戦後(1920年前後)、敗戦国ドイツに惹起した超インフレ下の混乱した社会に出現した宗教的指導者、いわゆる、インフレ期の聖者(略して「インフレ聖者」と呼ばれることが一般的である)のことである。これまでのところ、ドイツのインフレ聖者については、管見の限りだが、日本ではまったくと言っていいほど紹介されていない。

だが、繰り返し述べるが、オウム事件勃発前後の日本社会がインフレ聖者についてほんの少しの知識をもっていたならば、あるいは、インフレ聖者の存在を踏まえて、「オウム」に向き合っていたならば、「オウム」という宗教的政治現象はけして、特別なことではなかったことを知ることができた。また、日本社会が「オウム」に対して、集団ヒステリーに陥ることも避けられた。さらに加えて、当時から今日まで、日本社会に継続する思想的・政治的・宗教的混乱をすべて回避できなかったまでも、現状とは異なる展開を見せた可能性すら否定できない。

●インフレ聖者と「偽装された宗教」の違い

もちろん、オウム真理教及び麻原彰晃をインフレ聖者に単純にアナロジーすることや、まったく同質視することはあり得ない。本書を読めば「オウム」が解読できるというものでもない。現代の新興宗教とインフレ聖者を同質視する傾向に対して、著者(ウルリヒ・リンゼ)は次のように戒めている。
本書で論じた人々(=インフレ期の聖者)を選ぶこと自体には、あまり問題はなかった。もちろん、インフレ聖者というのは、ワイマル時代のあまたの教派(ゼクテ)の一部を成していたにすぎない。たとえば、カール・クリスティアン・ブライは1924年にその著『偽装された宗教』において、そのテーマにあてはまるものとして次のようなものを挙げている。――禁酒運動、占星術、反ユダヤ主義、ヨガ、占い棒易術、アトランティス大陸探索、菜食主義、エスペラント語運動、性生活改善運動、リズム体操普及運動、超人信仰、加持祈祷、世界平和運動、利子撤廃運動、神智学、郷土芸術運動、聖書研究、オカルト信仰その他諸々の運動。――しかし、インフレ聖者と彼らの政治的色彩の濃い宗教とは、こうした諸々の教派(ゼクト)や疑似科学、ブライのいう「哲学のインフレーション」とは際立った違いを見せている。つまり、腐植土から菌糸体を抜き出せるのと同じように、インフレ聖者も、彼らを養ったところの偽装した宗教、代替信仰という土壌から一応切り離し、一つのまとまった現象とみることができるのである。(P19)
チャールズ・マンソン[現代アメリカのカルト「新興宗教」の教祖]やデヴィッド・モーゼス[現代インドの神学者]、バグワン・シュリ・ラジニーシ[現代インドの宗教運動家]といった現代の救世主とインフレ期の聖者たちとの比較を、著者(ウルリヒ・リンゼ)は敢えて行わなかった。もちろん、これら「新宗教」の指導者とインフレ聖者の間には、すぐ目につく類似点がいくつもある。だからといって、インフレ聖者が1920年代に特有の現象であったという事実が見過ごされてよいということにはならない。それはドイツに特有の歴史的伝統と、世界大戦の敗北とそれによってもたらされた政治的・精神的・社会的な危機とを見すえなければ理解できるはずがない現象だったのである。(P20~21)

まさにそのとおり。インフレ聖者という現象をオウム教団、麻原彰晃とみなすことはできない。オウム真理教の問題は、“1990年代の日本において特有な現象であったことはみすごすことができない”のであり、それは“日本の特有の歴史的伝統と、バブル経済の崩壊等によってもたらされた、日本の政治的・精神的・社会的危機とを見すえなければ理解できるはずがない現象”なのであるから。

そのような観点に日本社会の知的基盤がいま立っているのならば、ただ一点、オウム真理教(教団)がなぜ、あそこまで活発に活動し、あれほどまでに暴力的、軍事的に拡大し、多くの人を殺傷し、挙句の果てには当局によって崩壊させられたのか――ということが、この事件に係る解決されるべき最重要課題となっていたはずなのである。そうなれば、オウム事件の真相解明のためのアプローチは、緩慢な形而上学的「オウム論」の域をいち早く抜け出すことができたであろうし、「オウム」として表象した日本社会が抱える闇に、一直線に迫れる可能性が高かった。某若手宗教学者のように、“ロマン主義・原理主義・全体主義”を今さら持ち出して、オウム真理教を「説明しよう」という愚挙も避けられたのだと思う。

本書を日本社会に広く知らしめなかったのは、日本の宗教学者・社会学者・歴史学者の知的怠慢であり、彼らの知的怠慢が、日本社会とオウム真理教のリアルな関係の解明を希薄化させたままにしているのである。

●インフレ聖者とは?

インフレ期の聖者の代表としては、ルードヴィッヒ・クリスチャン・ホイサー、テオドール・プリーヴィエ、フリードリッヒ・ムック=ランバーティー、マックス・シュルツェ=ゼルデらが挙げられる。なかで、最も精力的に活動した一人がホイサーであろうか。ホイサーの模倣者・後継者としてはフランツ・カイザー、レオンハルト・シュタルクらがいる。これら「聖者」の思想・活動内容等は本書に詳しいので、それぞれを参照していただきたい。

彼らはいちように髪と髭を伸ばしほうだいにし、家庭、住まい、定職を捨てた者が多く、街頭に寝泊まりしつつ放浪を繰り返していた。彼らは、支援者や貧民救済施設が提供する炊き出し等で飢えをしのぎ、講演会で演説をして信者・支持者を獲得していった。その活動ぶりを当時のケルン新聞は以下のとおり伝えた。
「ここ一、二年、ベルリンの広告柱には、いつも未来の使徒や予言者の講演広告がべたべたと貼られている(びっくりするほど入場料が高いことが多い)。いつでも、聖書からの決まり文句とか引用文がそえられている。かつての危機の時代と同じように、古くさい黙示録的な観念が息を吹きかえしている。そして達者な弁士の口にかかって、不安に駆られた人々の脳裏にあらためてしっかりと刻み込まれている。彼ら聖者にとって大事なことは、ひげをふさふさとたくわえ、カラーもネクタイも着けず、そして自信たっぷりでいることだ。」(P36)
インフレ聖者たちの運動(布教)形態、思想信条はそれぞれ異なっていて、一律には語れない。ただ、共通項を求めていくこともできる。
インフレ期の聖者たちは、ひとつの宗教的現象である。彼らは救世主を求める(予言者的、千年至福的、千年王国的)運動のグループに属している。この点から、これらのセクトの特有な構造が生まれる。その構造は、一方では予言者たる指導者の人格によって、他方では予言者に忠実に献身する信徒集団によって規定されている。(P321)
[インフレ期の聖者における予言者たる宗教的指導者の人格]は、オウム真理教におけるグルと呼ばれた[麻原彰晃]であり、[予言者に忠実に献身する信徒集団]は、オウム真理教における[出家信者と呼ばれる信徒たち]であり、[救世主を求める(予言者的、千年至福的、千年王国的)運動]は、[オウム真理教の終末論的教義]に、いずれも合致する。すなわち、1990年代の日本の「オウム」という宗教的現象は、1920年前後のドイツに現れたインフレ期の聖者と同じ構造をもった宗教的現象である。

●インフレ聖者が現れた背景
世界大戦によって直接、間接にひき起こされた、個々の指導者における生の危機(あえてノイローゼという蔑称的概念をここでは避けたい)は、当時のドイツに広く見られた予言者運動の独自な歴史的社会的枠組みをなす、集団体験としての危機状況と結び合っている。この危機は、経済的な(景気の長期的・中期的波動と関連して)、政治的な(戦争と敗北、革命と反革命)、社会的な(戦争とインフレによる被害)、これら3つの性格のものであり、全体的な危機意識をもたらした。とくに労働者、小市民、知識人(ボヘミアン)は「よりどころを失った」という感覚にとらわれた。この危機は、あらゆる社会層にとって「旧来の回答」を信用しえないものと思わしめ、社会的コンセンサスの消失とともに、「旧世界」や旧来の精神的権威からの離脱をひき起こし、新しい意味の創出や信頼ある精神的指導者、さらには精神的・物質的再生への希求を生み出した。(P321)
“インフレ期の聖者たちは、こうした過程におけるひとつの現象形態にすぎない”のであるのに等しく、“麻原彰晃そしてオウム真理教も、バブル経済崩壊前後の日本社会の変容過程における、ひとつの現象形態”にすぎない。もちろん、1920年前後のドイツの危機の性格を、1990年代前後の日本の危機の性格を安易にアナロジーすることはできない。とはいうものの、90年代の日本が平穏で安定した時代だったとも言えない。経済的にはバブル経済崩壊があり、日本経済における成長神話のすさまじい崩壊過程にあった。政治的には戦後一貫して政権与党であった自民党が政権を失い、その直後に自社さきがけ連立という野合により自民党が与党に復帰するという議会の混乱があった。社会的には不良債権処理問題、金融機関の経営危機と公的資金の注入というモラルハザードがあり、阪神淡路大震災という当時にあって未曽有の自然災害があった。そればかりではない。世界的には東西ドイツの統合、ソ連(=冷戦構造)の崩壊という世界歴史の転換点にもあたっていた。まさに天と地がひっくり返った時代だった。そして、そのような時代の隙間からオウム真理教は生れ出て、教団として成長し、麻原彰晃は「聖者」になっていった。

●インフレ聖者と農村共同体コロニー
これ(=インフレ聖者)と時期的にも重なり合う、注目すべき対応物は、農村の共同体コロニーの登場――1890年頃に始まる――である。この運動は、インフレ期の聖者たちのように、第一次大戦後に最盛期を迎え、ワイマル末期の世界的経済危機のなかで短期間もう一度、浮上し、70年代にふたたび続行される。この危機のなかで、不安感とフラストレーションをともないつつ、さまざまな表現形態が見られた。そして新たな忘我への希求が、多様な形姿で登場した。コミューンの理念(農村コロニーから労働共同体に至る)が聖者たちに流布したのも、すくなくとも偶然ではない。(P321~322)
ここで指摘されている農村の共同体コロニーの登場については、当コラム(BOOKS)において直前に取り上げた『生態平和とアナーキー ドイツにおけるエコロジー運動の歴史』に詳しい。『生態平和とアナーキー』の著者は本書の著者(ウルリヒ・リンゼ)その人である。同書を本書と併せて読むことをお奨めする。

さて、私たちは、オウム真理教が事件当時、日本各所に広大な土地を手に入れて入植し、入植地において自然農法に基づく農業を行い、収穫物を自然食品として販売し、また、信者自身が食していたこと、また、信徒たちはそこで「ワーク」と呼ばれる共同労働を行っていたことを知っている。つまり、オウム教団は、ワイマル期ドイツにおける「重なり合う、注目すべき対応物」を結合して取り入れていたことが明らかである。「オウム」は、前出の上九一色村(=入植地)にいかにも品のない建物を建て(それらはサティアンと呼ばれていた)、うちいくつかの建物がサリン製造工場として使用されていたことも記憶している。それは、まさに危険な労働共同体であったことをいまになって知るのである。

●理論的解決の提供にとどまらずその回答を実践化
いうまでもなくコミューン・予言者運動に共通していることは、それがたんに理論的解決を提供しただけでなく、その回答を実践化したことにある。「虚偽」と「カオス」という腐朽せる時代についての予言者たちによるメッセージは、そして今この時期に終末論的な大転期の到来という彼らの約束は、生々たる教えによって信ずるに値するものと映った。インフレ期の聖者たちも伝統に縛られていたので、彼らも「心理」と「純潔」(彼らのシンボルの色は白であった!)の「新しい国」のコミューンを建設した。そして、そのためになによりも彼らは100%のキリスト者、いや新しいキリスト者となった。しかし彼らは、マックス・シュティルナー(19世紀前半の哲学者、自我のみが実在であると主張)やニーチェ以来の超人・我・意志の崇拝者にも加えうる。(P322)
インフレ聖者の予言、説教や彼らが示す世界観にはマルクス主義のような確たる体系はない。前出のケルン新聞が伝えるように、“聖書からの決まり文句とか引用文”や“古くさい黙示録的な観念”で彩られている。だが、「聖者」たちの口からそれらが熱狂的に語られるとき、聞くものに、アルカイックな宗教思想への回帰をもたらした。このことは、当時のドイツが高度資本主義的な工業社会としてモダンな装いをしていたものの、その下層に古い思想様式と行動様式が生き残っていたことを示すものである。既存の秩序が動揺に晒されたとき、それらが再び活性化することは考えられる。
だから、インフレ聖者は「アルカイックな社会運動」の担い手だった。あるいは「原初的(プリミティブ)な社会反乱者」だったといえるかもしれない。・・・政治を世俗的な事柄と解するならば、インフレ聖者は・・・「前(プレ)政治的」存在だったといわねばならない。というより、むしろ彼らは、政治の世俗化と世俗からの宗教の逃避こそが、人間を破滅させるものだと考え、意識的にそれに抵抗しようとしたのである。近代は、政治を宗教から遠ざけ、宗教を私的な事柄だととらえ、両者を切り離したが、インフレ聖者は、もう一度この世界に、政治的な宗教を、ないしは宗教的な政治を持ち込もうとしたである。(P42)
危機の感情がトータルなものになってしまっていたため、・・・人間のすべてをとらえた、トータルな生き方の変革だけが回答になることができたからである。無秩序は、新たな精神的安定、新たな救済が得られてはじめて克服されたことになるのであった。このような「前政治的」態度は、同時に、超政治的態度でもあった。やはり時代の災悪を、宗教的な救済と浄化によっていやすことを目指していたからである。(P43)
これらのことがオウム真理教と重なり合うのは、いまさら説明する必要もない。

●アナルコ=サンディカリズム、アナーキズムとインフレ聖者

当時のドイツでは共産主義勢力が社会に及ぼす影響力は強いものであったし、アナルコ=サンディカリズム、アナーキズム勢力といった左派の力も今日以上のものであった。また、その反対に、帝政復活を目指す国家主義者、民族主義といった右派の力も強く残っていた。最近の研究では、ワイマル期の政治的・宗教的なさまざまな教派は、「右翼的」「国家主義的」「民族主義的」にも、「左翼的」にもなりえたという。さらに、左右両極の間には、「どうも、イデオロギー、構成員、組織、いずれをとっても連続性ないしつながりといったものがあるのが稀ではない」ことが確認できるという。したがって、千年王国説のさまざまな教派は、「ファシズム及びそれと極左革命運動との関係の研究にとっても」重要になる。

インフレ聖者はそんな中、左右両陣営を結び付けようと意識的に努めていた。それというのも、インフレ聖者には当時のドイツのアナーキズム的ないし極左的な集団と共通する傾向をもっていたからである。その共通項としては、反権威主義、自発性の尊重、党や選挙に対する嫌悪、意志の重視、行動主義、そして意識革命や文化革命への傾斜という点が挙げられる。

インフレ聖者の一人、レオンハルト・シュタルクの新聞には、槌と鎌と並んでハーケンクロイツ(鉤十字)が巻頭を飾っていた。また、カップ一揆(1920年、右翼政治家カップによって行われたクーデター、失敗)の際、海軍大尉エーアハルトという人物が水兵旅団を率いてベルリンを占領したが、インフレ聖者の代表的存在の一人であるクリスチャン・ホイサーは、彼の写真をレーニンとトロツキーの写真と並べた印刷物を出し、そこに「われわれは、ヒトラー、ルーデンドルフ(第一次大戦の英雄的軍人)、マックス・ヘルツ(共産主義者)、エーアハルト、リープクネヒト(スパルタクス団の指導者、殺害される)をいずれも、誠実な人物、最良の意欲ある人物として尊敬する」と書き加えた。

これらの支離滅裂な個人崇拝には、資本主義や国家を個人の精神革命を通して解消したいという願望が示されてもいた。そしてこの願望が、インフレ期の遍歴聖者を極左共産主義やアナーキズムに結びつけていた。しかし、それはまた、両者の分岐点でもあった。というのは、この願望をどう実現するかということになると、聖者たちの教えは、反組織的なものだったからである。
プロレタリアートの極左主義者や共産主義的労働者アナーキズム、あるいはアナルコ=サンディカリズムの立場に立つ者は、階級闘争における政治的ないし経済的な側面を見失うことは決してなかった。つまり彼らは、意識革命をプロレタリアートの現実の生活条件の変革と結びつけようと努めていたのである。そしてそのためには、革命的かつ組織された階級闘争が必要だったのである。それに対して、階級なるものから離脱していたインフレ聖者は、意識のレベルを絶対視していた。その結果が、自我の神格化、組織破壊、政治的影響力の無さ、大衆的基盤の喪失、セクト主義だった。(P55)

聖者の一人であり「青年前衛運動」を率いたプリーヴィエは、その構成員に対して、「階級社会の召使い、奉仕者、奴隷」たる「父たち」の世界を拒絶せよ、と呼びかけた。同じくシュルツ=ゼルテは、労働組合的な活動や「直接行動」などやめ、田舎へ移住するように訴えた。二人に共通していたのは、今ここでアナーキズムを生きようとする姿勢であった。この革命的性急さこそが、11月革命挫折後の時期に「左翼」メシアにズムが人々を引きつけた最大の理由であった。さまざまな組織が「死せる理念」を追いかけていただけなのに対して、聖者たちは、理念の生き生きとした働きを、身をもって表そうとした。

「生きること、それはキリスト者であること、
 それは共産主義者であること、
 それは社会主義者であること、
 それはアナーキストであることだ」。(グレゴリー・ゴーク)

●枯死する旧世界の中心には絶対化された「われ」が立つ
彼ら(インフレ聖者たち)の「精神錯乱的な」気質は、新たな岸辺への出発点を信頼できるものと思わした。彼らが流浪生活の貧困に自覚的に耐え、あらゆる物質的な所有を放棄したときには、とくにそうであった。その際に彼らは、不屈の禁欲的な意志力と弁舌力によって、彼らの精神的強さを明示した。そして彼らは「旧世界」が枯死していることを、以下のような指摘によって信徒たちに立証してみせた。すなわち彼らは、市民的職業秩序だけでなく、伝統的家族秩序も拒否し、性の自由の見地から一夫一婦制を断固として否定した。社会的逸脱行為の祭典は、予言者崇拝のあらわれであり、その中心には絶対化された「われ」が立っていた。そこに社会の原子化と分岐化の予兆を見出していた。国家からの離反、さらには国家の拒否というアナーキスティックな要因、およびゆるいセクトを効率よい党機構へ転換するのに失敗したことも、自我崇拝の必然的結果であった。発生しがちであった犯罪的行為も、予言者的な逸脱としではなく、慣行的な社会規範との公然たる断絶を自覚的に耐え遂行したことのあらわれとして理解されねばならない。(P322~323)
禁欲的意志力と性の自由の両方を体現したこともインフレ聖者の特徴であり、「聖者」による犯罪的行為、社会規範からの著しい逸脱をもって、彼らを狂人、パラノイアであると批判する声もある。しかし、インフレ聖者の何人かの精神医による診察記録が残されていて、それによると(当時のレベルの医学所見だが)、ホイサー、シュタルクも、精神病者ではなく、精神病質者として位置づけられている。精神病質者というのは「異常人格」を指し示すもので、精神病者とは厳密に区別されている。それは、「異常」とあるけれど、病んでいることを意味しない。つまり、正常人格という平均タイプから逸脱しているにすぎない。
さて、この精神病質ということを前提にしたうえで、精神医はホイサーとシュタルクをヒポマニー、つまり軽度の躁病質と診断している。自分には力があるんだという感情や自尊心が肥大化してしまったり、自分は偉大だという意識がこびりついたりする。いろんなことに手を出し、ものを書きたい、喋りたいという衝動が強まる。思考が上滑りの状態になり、口だけべらべらと廻ってしまう。ひどく骨の折れる旅をあちこちしてまわる。手紙を書くと字がとても大きくなり、やたらと強調文や布告調の文を書いたりする。――彼らの行動に見られるこういった現象は、ヒポマニーとしかいいようのないものだといえるのである。(P88)
ここに指摘された聖者の行動と、当時、テレビで報道された「麻原彰晃」の様子を重ね合わせてイメージすることは容易なことであろう。だが、だから、麻原もヒポマニーだということが言いたいのではない。
もちろん、精神医の議論は、インフレ聖者という公的な人物の問題を私的な(病気の)物語に還元してしまっていて、なぜこのヒポマニーが、1920年代という時代において公衆の面前で活動するための前提であったのかを問おうとはしていない。大事なのは、自我崇拝と自己肥大症の社会的文脈を明らかにすることである。・・・インフレ聖者が世間の注目を浴びたのは普通の時代ではなかったのである。それは破局の時代、これまで信じられてきた生き方や意味がこわれてしまった時代だった。だから、これら精神病質のヒポマニー症者は、この危機の時代において決して孤立した存在だったのではない。むしろ反対に指導者として、教派(ゼクテ)的な集団形成の凝集点になっていたのである。というのも、彼らは破局によって引き起こされた変動に対しては「正常人」よりはずっと弱い抵抗力しか持っていなかったが、しかし他方では、世間の仕組みにあまり組み込まれておらず、他人と同じように振舞わなければならないとか伝統には従わなければならないとか思うことも少なかったからである。だからこそ、動揺と新しきものの探求の時代にあって、彼らを受け入れる素地を持っていた人々の指導者になったのである。(P88~89)
信者たち自身も、インフレ期の聖者たちの訴えを、しばしばはげしい言葉で喚起された、世界の転換の近き到来として、また内面的な感動的な幸福感(エロスと忘我をともないつつ)として迎えた。そこには、聖者たちが支配権をにぎるだろうという意味がこめられていた。1918年の11月革命の失敗も、超政治的な意味で継続的に発展されているという内面的確信は、信者たちのなかに、戦闘精神と犠牲的精神を強めさせた。(P323)
この2つの引用は、オウム真理教と麻原彰晃を考えるうえで、かなり重要な箇所である。当時、地下鉄サリン事件等の凶悪犯罪が起こる前、オウム真理教と麻原彰晃は、かなりの頻度で、テレビ等により紹介(報道)されていた。しかしながら、「オウム」の教義に興味のない者から見れば、若い信徒たちが麻原を崇め、奇妙な宗教的行動をとることが理解できなかった。むしろ、嘲笑と違和感をもって突き放していた。しかし、麻原の下に集まった信徒たちは、おそらく、新しきものの探求者であり、ヒポマニー的な強烈な個性を放つ麻原を探し出した。麻原を教祖として受け入れる素地をもっていた者なのである。それが不幸であった。探求の結果としては、相当質の悪いものを探し出したことになる。だが、彼らは麻原に属した。オウム真理教があれほどの活力をもてたのは、当時が危機の時代であったからであろう。だが、当時、わたし自身に危機の認識は薄く、「オウム」の後ろにある時代の転換の動きを感じとることができなかった。
これまでインフレ期の聖者たちが立っていたキリスト教的狂信と千年王国的予言者主義という伝統の流れを強調してきたが、そこに新しいものが登場していることを見落としてはならない。その場合、キリスト教的文化圏において「予言者」が群生したことが新しいのではない。異例なのは、それが、工業世界の周辺(それの結果として)ではなく、中欧の中心で、しかも大都市において再生した点である。こうして一時的な聖者現象や、聖者たちの跡を追ったメシア的指導者アドルフ・ヒトラーという、さらに後々まで続いた現象は、この工業世界における啓蒙思想と世俗化によってドグマ化された根本前提をゆり動かしている。その根本前提とは、現世的なものと精神的なものとの分離、また政治と宗教との分離といわれるものである。インフレ期の聖者たちは、政治的宗教性ともいうべきものの兆候である。この政治的宗教性について、それは今日では過去のこととなったとは、確実にはいいえない。おそらく打ちつづく危機的衝撃のなかで、確実なるものの集団的喪失がおこれば、工業国家においてもつねに存在する政治的宗教性が、爆発的に解き放たれるであろう、と考えられる。インフレ期の聖者たちは、このような社会的な抗議・革新の潜在力という点で、ヨーロッパにおける「古典的な」前工業的予言運動を、いわゆる新興諸宗教へとつなぐかけ橋であったであろう。(P323~324)
本書の訳文が日本で刊行されたのが1989年、原文は1983年にドイツで出版されている。もちろん、オウム事件の前である。不幸なことに、本書の末に記された「おそらく打ちつづく危機的衝撃のなかで、確実なるものの集団的喪失がおこれば、工業国家においてもつねに存在する政治的宗教性が、爆発的に解き放たれるであろう」という箇所はドイツから遠く離れた日本におけるオウム事件を予言するものとなっていた。しかも、“爆発的”の規模が度を越したものとなって――。

「オウム」を解明するにはだから、日本の1990年前後の時代における“確実なるものの集団的喪失”を探ることから着手されるべきなのである。