2013年8月25日日曜日

Cafe & Bar

Petticoat Lane  @Sendagi

Petticoat Lane @Sendagi

Hidamari, @Nedu

谷川健一さん逝く

またまた訃報。日本民俗学会の巨星の一人が逝ってしまった。谷川健一さんだ。谷川さんは雑誌『太陽』の編集長を経て、独自に民俗学を研究し、確立したひとだ。アカデミズムに属さない、在野の学者だ。沖縄論、日本の地名研究、物部氏論、東北論、製鉄技術を担った部族のこと・・・などなど、柳田・折口民俗学を継承しつつも、独自に発展させたことで知られている。

筆者は、谷川さんに特別の思いを持っている。筆者がマイナーな情報誌の編集長をしていたとき、谷川さんが主宰する地名研究所(「地名」を守る会)のイベントについて取材したことがあった。事務局への取材後、谷川さんから筆者に、「会いたい」という連絡があった。筆者は喜んで、川崎の地名研究所を再度訪れた。そのとき、谷川さんは、「祭り」の本質について独自の見解を滔々と述べられた。筆者はそのインタビュー記事を後日特集としてまとめ、雑誌に掲載した。

それだけの関係だったけれど、そのときの谷川さんの優しい語り口を忘れたことがない。

2013年8月23日金曜日

サイン盗みに「カット打法」--ここまでやるか甲子園

2013夏の甲子園大会(全国高校生野球大会)が終わった。毎年、筆者は甲子園大会開催期間になると、憂鬱になる。その理由は簡単、偽善であるから。

今年も信じられないような報道があって驚いた。1つは、花巻東高校による、二塁走者の捕手のサイン盗み。これはプロ野球でも違反行為として禁止されている。

2つ目も花巻東高校の千葉翔太外野手(3年)による「カット打法」とかで、打者が打てない投球をハーフスイング、もしくはバントでファウルにしてねばり、相手投手にたくさん球数を投げさせ、四球等で出塁するというもの。これは高校野球特別規則で違反と規定されている。3つ目は、相変わらず、投手の投球数過多問題だ。

残念ながら、筆者は前出の2プレーを見ていないので、よって当コメントは報道に基づくものである。誤りがあればご指摘をお願いしたい。

まずサイン盗みについてだが、驚いたことに、主催者(新聞社等)をはじめ、テレビ、新聞が管見の限り、このことを一切報道しない。サイン盗みがあった試合の審判も、試合後の高野連も、このことを問題としなかった。つまり「なかったこと」にして葬った。そりゃそうだろう、甲子園は「聖地」にして、球児たちは「無辜」で「純真」な野球少年、サイン盗みをするような「悪い子」であるはずがない、というわけか。

「カット打法」については、議論が噴出している。花巻東は2回戦から出場し、9-5で彦根東に勝利。続く3回戦は、好投手・安楽を擁する済美に7-6で勝利した。千葉翔太が行った「カット打法」が安楽攻略に一役買った面もあった。さらに、準々決勝に進んだ花巻東は鳴門に5-4で勝ち準決勝に進んだ。千葉翔太は鳴門戦ではファウルで粘りに粘って5打席全出塁。相手投手に41球も投げさせた。

ところが準々決勝・鳴門戦後に異例の確認を行った大会本部は、千葉の「カット打法」に対して、「特別ルール違反につき、やらないように」を旨とする「お達し」を出した。そのため、千葉は「カット打法」を封印した。案の定、準決勝、花巻東は延岡学園に0-2で負け、大会から姿を消した。「カット打法」がNGとなった千葉翔太は、この試合4打数無安打。

千葉擁護派は、予選~準々決勝までOKなのに、なんで準決勝からNGなのか、と主張しているらしい。確かに、予選から3回戦までOKとしたのは、主審のミスジャッジ。千葉擁護派は、千葉翔太の「カット打法」を打撃技術とむしろ賞賛した。予選段階から主審が即座に特別ルール違反を適用、千葉にNGを宣告しておけば、こんな見苦しい議論を呼ばなかったものをという主張だ。この主張は一見正しいように思えるが、果たしてそうだろうか。

筆者は千葉翔太の「カット打法」は野球(スポーツ)の本質に外れる行為なので、特別ルールを適用するまでもなく、やってはいけない打法だと解釈する。筆者は野球の本質について、投手は全力で投げ、打者はそれを全力で打ち、走ることだと考える。野手はきた球を全力で捕球し、走者を刺すために全力で塁に送球することだと思っている。だから、筆者は犠牲バントを好まない。犠牲バントは、高校生ではなく、職業野球業界において、目先の「一勝」を稼ぐために行う非常手段だと考えている。

高校生のスポーツの目的は、目先の「一勝」ではない。大会開催の趣旨も、大会を通じて、高校生のスポーツ能力を高めることだと勝手に確信している。相手投手に投球数を多く投げさせ、疲れさせて勝つという戦術もある。だが、そのような戦術をもって高校野球においての勝利を目的とするのならば、そのような戦術を指示する監督も、それに従う選手も、野球(スポーツ)をやめたほうがいい。スポーツの本質から外れた、偏屈な勝利至上主義が、いったい、だれのためになるというのだ。

日本人の野球観戦には、自己犠牲を好む傾向を否定できない。犠牲バント、故意死球、球数無制限の先発完投、連投に次ぐ連投等がそれを象徴する。組織のために自分が犠牲になる、それは国のために自分を犠牲にした、アジア太平洋戦争の皇軍の精神性へとつながっている。8月中旬、高校生の野球大会は、なぜか、敗戦間近の学徒出陣に重なるイメージが拭えない。夏の炎天下、郷土を背負った「無辜」な若者が、●●のために一生懸命汗を流し、ひいては己を犠牲にして闘う姿――日本国民はその姿――に、いったい何を重ね合わせようとしているのか。

甲子園大会の無謬性を強調するマスメディアは、意図的ではないのかもしれないが、人々の心情と甲子園大会の何かへの重ね合わせに協力的以上の役割を果たしている。それをナショナリズムと表現してしまえば、あまりにも薄っぺらすぎる、ではいったいそれをなんと表現すれば・・・

昭和の歌姫

加藤和彦(62歳没)、尾崎紀世彦(69歳没)、そして藤圭子(62歳没)・・・筆者が若いころ大スターだった歌手が、60代でこの世を去っていった。うち、加藤と藤は自死による。

彼らの全盛期――時代は高度成長期、時代がそして人々が、豊かさに向けて疾走していたときだった。歌手はその希望を、そして不安を、あるいは呪いを歌った。

この3人の歌手はそれぞれ個性的だったし、それぞれ役割を分担していた。加藤は当時の若者の心情を素直に歌い、尾崎は日本のPOPSを洋風に完成させてみせた。そして、藤は、演歌を「怨歌」たらしめた。

芸能界においては、人間そのものが商品だ。商品(レコード・CD等)を売るためばかりではない、ライブのチケットを完売し、TV・雑誌等の媒体露出度を上げるためには、歌手の人間的部分(=個性)を捏造することも常識の範囲だ。貧しい少女時代、暗い生活を背負い、豊かさの裏側に潜む闇の世界から突然やってきた歌姫・・・そんなイメージ設定で若手女性演歌歌手を売り出すこともあっただろう。藤圭子はそんなイメージ・コンセプトに基づき、売り出された「歌手」だったかもしれないし、事実そのとおりの「歌手」だったかもしれない。無数の消費者のなかの一人にすぎない筆者には、藤、尾崎、加藤の本当の顔を知るよしもない。

筆者はそういう芸能界のあり方が正しくないとは思わない。人々が望むものが「良い商品」である限り、芸能(エンターテインメント)界がそうであっていけないはずがない。エンターテインメント業者が芸術的価値よりも、売れる(支持される)価値を求めて悪いはずがない。だから、3人が犠牲者だとは思わない。人が死ぬのは、死因のいかんを問わず、神が決定する。

改めて偉大な3人の芸能人に 合掌

2013年8月15日木曜日

『(株)貧困大国アメリカ』

●堤未果[著] ●岩波新書 ●760円+税

はじめにことわっておく。筆者はアメリカに長期間滞在した経験がない。アメリカ社会の研究者でもない。つまり、本書の内容を検証する力量がない。だから本稿は、著者(堤未果)が本書に書きとどめた事例等について、事実として受け止めたうえでの内容となっている。筆者がそう考える根拠は、著者(堤未果)の前作、前前作である『貧困大国アメリカ』『貧困大国アメリカⅡ』に対して、同書の記述内容に係る反論が(管見の限りだが)なかったことによる。それどころか、前前作は「日本エッセイストクラブ大賞」「新書大賞2009」を受賞した。つまり、日本のジャーナリズム・出版業界・アメリカ研究者等が、著者(堤未果)のルポ内容を事実として認定したと考えられる。むしろ、筆者としては、アメリカ社会研究者、アメリカ経済称賛者等から、本書に係る反論・反証を聞きたいと思っている。これらのことも管見の限り、行われていないように思われる。

●アメリカは変わった

本年7月18日、財政破綻した米中西部ミシガン州デトロイト市が連邦破産法第9条の適用を申請した。本書第4章(「切り売りされる公共サービス」)にも、破綻申請直前のデトロイト市の荒廃ぶりが紹介されている。本書によると、“全米の自治体の9割は、5年以内破綻する”状況にあるというから、デトロイトの破綻申請は特別な事件ではないのかもしれないが、筆者にとっては衝撃的な出来事だった。

筆者の年代の者にとってデトロイトは、「繁栄するアメリカ」を最も象徴する都市の1つだった。ビッグ3と呼ばれる自動車メーカーが本社を構え、全米一ともいわれた組織力を誇る全米自動車労働組合(UAW)の本部もここにある。デトロイトから始まった自動車のベルトコンベア方式による生産様式と労働形態はフォーディズムと呼ばれているが、もちろんそれは、この街に誕生した自動車メーカーであるフォード社に由来する。フォーディズムは、高度成長を支える大量生産・大量消費の代名詞でもある。そのデトロイト市が財政破綻したということは、アメリカが(以前の)アメリカでなくなったことを認識するに余りある出来事ではないか。

●コーポラティズムが今日のアメリカを支配する

フォーディズムを“卒業”したアメリカが行き着いた産業(ビジネス)モデルこそが、コーポラティズムにほかならない。アメリカは規制緩和、自由競争を旨とした、新自由主義、新市場主義の国だと言われる。日本でもテレビに登場するアメリカ寄りの経済学者や政治家が、アメリカを範とする規制緩和を提唱し、公正な競争による日本(経済)の活性化を目指すことを力説するシーンがしばしば見られる。そのような“アメリカかぶれ”たちは、アメリカの実体が見えていない者か、見えていても敢えてアメリカの神話を語ることで利益を得ている者のどちらかだろう。

コーポラティズムとは何かについて、大雑把に整理しておこう。
いま世界で進行している出来事は、単なる新自由主義や社会主義を超えた、ポスト資本主義の新しい枠組み、「コーポラティズム」(政治と企業の癒着主義)にほかならない。(略)
グローバリゼーションと技術革命によって、・・・無国籍化した顔のない「1%」とその他の「99%」という二極化が、いま世界中に広がっている。
巨大化して法の縛りが邪魔になった多国籍企業は、やがて効率化と拝金主義を公共に持ち込み、国民の税金である公的予算を民間企業に移譲する新しい形態へと進化した。ロビイスト集団が、クライアントである食産複合体、医産複合体、軍産複合体、刑産複合体、教産複合体、石油、メディア、金融などの業界代理として政府関係者に働きかけ、献金や天下りと引きかえに、企業寄りの法改正で、“障害”を取り除いてゆく。
コーポラティズムの最大の特徴は、国民の主権が軍事力や暴力ではなく、不適切な形で政治と癒着した企業群によって、合法的に奪われることだろう。(P274)
本書にはコーポラティズムに基づいて、多国籍企業がアメリカ政府に働きかけた規制緩和及び規制の数々の「成果」事例が紹介されている。たとえば、遺伝子組み換え作物(GM作物)に関する法規制をアメリカ国内において換骨奪胎させる手口だ。開発企業を守るため、規制緩和と称して、GM作物の表示義務を撤廃する一方、一般の科学者がGM種子を実験に使用することですら、特許法を盾に許可されない。開発企業に不利な表示義務は、規制緩和の名の下に撤廃され、また、開発企業にとって不利となる実験行為等は、特許という法規制によって守られる。消費者の選択する権利は規制緩和によって奪われ、GM作物の安全性を解明しようとする科学的行為は特許法という合法によって阻止される。これがアメリカ流の「新自由主義」の実態だ。どこに「自由」があるというのだ。

多国籍企業はアメリカ国内を合法的に支配したのち、アメリカ方式をグローバルスタンダードと称し、世界進出を企てる。それがコーポラティズムの進化の図式だ。

●コーポラティズムの恐怖はTPPとともに日本に押し寄せる

先の参院選では、日本のTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加について論議が盛んだった。参院選でTPP推進派の安倍政権が信任され日本のTPP参加は既定路線となり、いま日本政府は、参加に向けた具体的作業に入っているところだ。

TPPの恐怖は、多国籍企業がアメリカ政府に働きかけてつくりあげたアメリカの法制度のほうが、参加国の国内法に優先することだ。先述したとおり、GM作物の表示義務は、アメリカにはない。日本がTPPに参加した時点で、アメリカから日本に輸入されたGM作物は、日本の市場で表示のないまま、国内産と同様に販売されてしまう。

GM作物が人体にとって安全なのかそうでないかは、現時点で科学的に証明できないという。安全かもしれないし、長期にわたり摂取し続けることによって人体に害が生じるかもしれない。それはそれでいい。重要なのは、消費者がGM作物に係る選択権をもつことだ。GM作物だっていいよ、という消費者はそれを買い、GM作物は危険だと感じる消費者は買わない、という単純な自由だ。ところが、TPP参加国の消費者から、そのような選択権を奪うのがコーポラティズムなのだ。

もう一つの恐怖は、TPPに先立ってアメリカとそのほかの国の2国間で交わされたFTA(自由貿易協定)のなかのISD(Investor-State Dispute Settlement)条項がTPPにおいても適用されることだ。
これ(=ISD条項)はたとえば韓国に投資したアメリカの投資家や企業が、韓国の国内政策によって経済的に損害を被るかその恐れがある際に、世界銀行傘下の国際投資紛争仲裁センターに提訴できるという内容だ。世界銀行はアメリカ支配が最も強く、裁判は密室で行われ上訴は不可、そして判決の基準は公益ではなく、「投資家にとって不利益があったかどうか」になる。(P160)
アメリカがTPPを積極的に推進しようとする背景には、世界最大規模の市場であるEC内においては、アメリカを本籍とする多国籍企業が思うとおりの経済活動ができない実態があるためではないか。ECは、社民主義の伝統が根強く、アジア・太平洋地域よりも厳しい経済規制をしいている。アメリカ政府は、人口増及び経済成長を続けるものの、ECに比べて社会の成熟度が低いアジア・太平洋圏の経済支配を狙って、TPPを梃にした外交を展開しようとしているように思える。そのことは無論、多国籍企業の意に沿ったものだ。TPPの恐怖はそこにもある。

三番目の恐怖は、マスメディアの沈黙だ。これは日本におけるTPP参加問題においても同様の機運が形成されたので、記憶に新しい事柄だろう。“TPPはわからないことだらけです”“TPP交渉は外部に情報を漏らしてはならないことになっています”等々の言説が、日本のテレビに登場する経済学者、学識経験者、「ジャーナリスト」と称する人々からまことしやかに語られたものだ。

オバマ大統領は今回新しく、議会の承認が不要なUSDA(合衆国農務省)直属機関である食糧農業国立研究所を政府内に設立、所長にはモンサント社が出資するダンフォース・プラント科学センターのセンター長だったロジャー・ビーチを指名した。ビーチは大統領選挙の際、オバマ陣営の選挙資金に大きく貢献した一人だ。
TPP交渉における要職である、USTR(合衆国通商代表部)農業交渉主任には、以前クリントン政権下のUSDAでバイオテクノロジーを推進したイスラム・シディキが任命された。彼は世界の農薬市場の四分の三を占めるモンサント他五社を代表するロビー団体「クロップ・ライフ・アメリカ」の副社長でもある。
USDA総合担当弁護士にはラモーナ・ロメロ。モンサント社についで世界トップの農薬・種子企業デュポン社の元顧問弁護士だ。
最高裁判所の裁判官には、GM小麦アルファルファと有機農家が戦った訴訟で、モンサント社側の弁護士を務めたエレナ・カーデンが選ばれた。
モンサント社といくつもの共同事業を進めるバイオテクノロジー研究の「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」で農業開発管理者だったラジプ・シャアは、オバマ大統領によってUSDA教育研究所次官に指名されている。(P81~82)
「TPPのことはわからない」のではない。本書のこのくだりを読めば、多少の想像力を働かすまでもなく、TPPとは、アメリカを本籍とするバイオ関連の多国籍企業による、世界的規模の農業・穀物支配戦略の一環であることが明白となろう。ではなぜ、日本のマスメディアは、このくらいのアメリカ政府のTPPシフト人事について報道しないのだろうか。

その回答をする前に、アメリカ国内においても、政府と業界の癒着が国民に知らされてこなかった経緯があるという。
「レーガン政権のEPA(合衆国環境保護庁)長官とFDA(合衆国食品医薬品局)長官は、どちらもモンサント社の役員でしたし、ブッシュ政権のアン・ベネマン農務長官は元バイオ企業役員でした。クリントン政権の通商代表は元モンサント社の役員、内政アドバイザーとFDA局局長代理はその後モンサント社の役員と子会社役員にそれぞれ就任しています。こうして挙げていけばきりがありませんが、アメリカの食に関する規制緩和が、信じられないようなスピードで進められていった背景には、こうした政府と業界の癒着があったのです」
「国民はこうした変化に気がついていたのでしょうか」
「・・・未だに多くの国民は、こうした事実を知りません。彼らにとって、FDAやEPA、USDA神話は、まだ強固なままなのです」
「それはどんなイメージですか」
「自分たちの食の安全や、環境と農業を誠実に守ってくれる政府の専門機関。FDAはアメリカ国民にとって最も信頼される機関の一つだと言われ、諸外国からも信用されています。近年大きなブームとなっているオーガニック食品は、USDAの認証ラベルがひとつの安心めやすになっていますからね」
かつてリンカーン大統領は、国民のいのちの元である食を守る「人民の省」としてUSDAを設立した。そのイメージは、今も消えていないのだ。
「こうなった原因はどこにあると思われますか」
「独占禁止法の規制緩和と寡占化で企業規模が大きくなりすぎたこと、そこに1999年の〈グラススティーガル法(金融規制法)〉撤廃が想像を超えた儲け方を可能にしてしまった。勝ち組になったウォール街と企業がタッグを組んで、途方もない資金力でマスコミや政府を買うようになってしまったのです」
「国民の多くが知らないうちにですか」
「大半は何が起こっているのかさっぱりわかっていないでしょう。国民が法律そのものに関心をまったく払わないことに加えて、企業はその資金力で政府だけでなく、必ずマスコミも一緒に押さえるからです。こうすれば国民に気づかれずに都合のいい法改正を行える。一日の平均視聴時間が8時間以上のテレビ社会アメリカでは、国民の思考は番組制作者が形成するのです」(P83~84)
前出のとおり、アメリカは変わった――にもかかわらず、アメリカ国民はそのことを知らない。そして、アメリカで起こったことが、いま日本に起こりつつある。もちろん、日本国民もそのことに気づくことがない。

●アメリカ二大政党制の幻想

アメリカの政治のあり方を根底的に変える出来事――「市民連合判決」があった。これは2010年1月、保守派主導の最高裁が出した「企業による選挙広告費の制限は言論の自由に反する」という違憲判決だ。これにより、アメリカでは企業献金の上限が事実上撤廃されたという。この判決は企業も有権者と同等に政治に意向を伝える権利があるという意味で「市民連合判決(Citizens United)」と呼ばれている(P226)。これによって利益団体は、候補者か対立候補を落とす広告費の名目で、無制限に政治献金ができるようになった。

テキサス州フォートワース在住の調査ジャーナリスト、アレン・クリフトンは、この判決は、80年代から年々ぼやけてきていた二大政党の対立軸を、完全に消してしまうだろうと言う。「アメリカ国民にとっての選択肢は、大金持ちに買われた小さい政府か、大金持ちに買われた大きい政府か、という二者択一になりました」(P225~226)

市民連合判決後、大量の政治献金が堰を切ったようにじゃぶじゃぶと政界へ流れ始めた(P230)。2010年の中間選挙、2012年の大統領選および上下院選挙では総額60億ドル(約6000億円)というアメリカ史上最高記録を更新している。「選挙とは国の支配権をかけた効率の良い投資である」(政治学者トーマス・ファーガソン)となり、企業の意思表示が無制限に保護された結果、選挙は有力企業と、その意向を代表するコンサルタント、広告代理店、世論調査会社が演出する巨大な劇場となっていったという(P233)。

市民連合判決で最も潤ったのが言うまでもなく大手テレビ局だ。2008年に5億ドル(約500億円)だった選挙広告費は、2012年には8倍以上の42億ドル(約4200億円)に跳ね上がった。しかも、企業であっても個人であっても何億、何兆ドルでも無制限に集められ、集めた総額、寄付者の名前も一切公表しなくてよくなくなった。その仕組みを担保したのがスーパーPAC(特別政治活動委員会)だ。スーパーPACは、表向きは候補とは関係ない団体なので、ライバル候補者に対する根も葉もない醜悪なネガティブCMを流したとしても、候補者本人は自分とは一切関係ないと言えるという。つまりこうして、選挙は「なんでもあり」の劇場と化したわけだ。

さて、アメリカの「民主主義」を象徴するのが二大政党制と、国民の直接選挙による大統領選挙だ、と日本では信じられている。二大政党制は政権交代を即座に国民が選択できる合理的制度であり、大統領選挙は国民が自らの手でアメリカのトップを決めることができる、直接民主主義という最善手であると。日本でも、アメリカの二大政党制を参考とした、小選挙区制度が取り入れられた総選挙が1996年に行われ、その後、2009年に民主党が自民党から政権を奪った。また、首相公選制度を要望する声は後を絶たない。ところが—
80年代から加速した規制緩和と民営化、垂直統合、政府・企業間の回転ドア、ALEC(米国立法交流評議会)、そして市民連合判決といった動きが、アメリカを統治政治から金権政治へと変えていった。寡占化によって巨大化した多国籍企業は、立法府を買い、選挙を買い、マスメディアを買うことでさらに効率よくその規模を広げてゆく。
「最大の問題は、こうした動きが国民の知らないところでスピードを上げていることです」そう言うのは、2010年の中間選挙でカリフォルニア州の第三党から州議会議員に立候補したジル・スタインだ。
「大企業は吸収や合併を繰り返し巨大化するにつれ、無駄がなくシステマティックになってゆきます。この動きは年々加速しているにもかかわらず、あまりに洗練されているので国民の意識がついていけない。その時差をマスコミがさらに利用するのです」
「どんなふうに利用するのでしょうか」
「たとえば、選挙の時期になるたびに、マスコミはこの国にまだ二大政党制が機能しているかのようなイメージを振りまいてきました。保守対リベラル、共和党対民主党、赤い州対青い州、といった具合です。大衆は分かりやすい構図を好みますし、CMも二つの対立軸を煽るように作られている。国民を高揚させるようにデザインされているのです」
「そのことの弊害とは何でしょうか」
「国民がマスコミと政治家によって見せられるイメージと、実際に起きていることのギャップの大きさです。2012年の大統領選挙では、「1%」の代表であるロムニーが金権政治の象徴で、オバマがその逆であるかのようなイメージが、テレビ画面を通じてリベラル派の間に広がりました。反ロムニー感情を煽られたリベラル派の多くは、あっという間に忘れてしまったのです。オバマ大統領が2008年に就任した直後に、いったい国民の税金を何に使ったのかを」
2008年、政治資金監視団体の「オープン・シークレット(Open Secrets.Org)」は、オバマ大統領が公的資金注入を実施した大手保険企業であるAIG社から、選挙の際に10万4332ドル(約1043万円)の献金を受け取っていた事実を公表している。
「税金から1730億ドル(約17兆円)もの公的資金を受けて経営破綻を逃れたAIGは、その後幹部に1億6500万ドル(約165億円)、従業員に2億3000ドル(約230億円)のボーナスを支払い、国民の怒りを買いました。国内の失業率が10%を超えているのに、救済金は一般市民や中小企業ではなく金融機関幹部に流れた。その行く先はオバマ大統領の選挙スポンサーリストとピッタリ合っているのです」
たしかに政治献金の内訳を見ると、当選後の政策と明らかにリンクしているのが分かる。2008年のオバマへのトップ献金元リスト上位に並ぶのは大手金融機関だ。AIG社が受け取った公的資金の半分が流れた同社の大株主で最大債権者のゴールドマン・サックスは、オバマ献金リストの第二位にいる。(P234~236)
アメリカの二大政党制は――繰り返し述べることになるが――マスメディア、とりわけ大手テレビ局がつくりあげたイメージの産物でしかない。民主党もしくは共和党のどちらの候補者が大統領になっても、多国籍企業、投資家・株主、一部のIT企業といった「1%」の側の利益となる政策が遂行されるだけだ。

●アメリカという空虚なビークルが目指すもの

さらにいえば、アメリカという国家は、多国籍企業、金融業、投資家・株主、政治家、役人、IT企業という「1%」のために、そして、「99%」を路上に置いたまま――走る、空虚なビークル(vehicle/乗り物)のようなものだとさえ言える。

金融業、投資家は莫大な資金というエネルギーを用意し、多国籍企業は車体もしくはエンジンのようなものか。政治家や役人はビークルの進行を阻害する障壁を規制緩和で取り除く一方、対向車や競争車に対しては規制によってそれらを排除する。IT企業はコンピュータを駆使してビークル運行の効率を高め、一直線に利益を目指せるようにナビゲートする。運転手は民主党でも共和党でもかまわない。どちらも政治献金で縛られたロボットなのだから。

ビークル「アメリカ号」は、まずアメリカ国内においてそのビジネスモデルを試行し、成功すると、さらに貪欲にグローバルな枠組みへと巨大化する。やがて、世界(市場)の半分以上がビークルと化す。その目的達成のため、「自由」「競争」「公正」「民主主義」「規制緩和」「市場主義」といった美辞麗句がメディアをつかって流され、イラク戦争、アフガニスタン戦争、FTA、TPPが仕掛けられる。ビークルはだれにとがめられることなく、拝金主義、成果主義をまっとうし、ビークルの株主に対し利益還元を成し遂げる。

いま日本においても空虚なビークル「アベノミックス号」が走りだそうとしている。そのデザイン、仕様は、アメリカのそれと瓜二つだ。

2013年8月2日金曜日

民主党の悪霊――菅、野田、岡田、前原、安住・・・

民主党が先の衆院選に続き参院選でも大敗した。小鳩体制で自民党から政権を奪取した当時の勢いはもう完全に消失した。参院選敗北の総括もできないまま、公認問題で「反党行為」をしたとされる菅元首相、はては政界をすでに引退した鳩山元首相の「尖閣発言」までもちだして、執行部批判をかわそうとしている。その姿は醜い。

そもそも、民主党が大きく後退した要因は、日本の実体的権力が仕掛けた鳩山及び小沢に対するテロ攻撃に悪のりし、旧日本新党(松下政経塾)一派が菅を挟んで党内権力を掌握したことに端を発する。民主党崩壊の主犯は、消費税率アップを政策の柱とした菅、野田、前原一派にほかならない。しかるに彼らは、先の衆院選敗退以降、敗戦処理を海江田、細野にまかせ、表から消えた。その行動は狡猾で、無責任きわまりない。野田も前原も、民主党を崩壊させた責任を取り、議員バッジを外せと言いたい。

そんなおり、あるウエブサイトが、同党OB・元参議院議員の平野貞夫氏の見解を掲載していたので紹介しておく。
民主党大物OB 党再生に菅、野田氏ら「悪霊」の「除霊式」提案

今回の参院選では27議席減、先の衆院選では174議席減という選挙結果が示す通り、民主党は堕ちるところまで堕ちた感がある。「もはや解党するしかない」という声も上がるが、ここまでくればもう守るものなんてない。ぜひ決死の覚悟で「再生プラン」をブチ上げていただきたい──。誠に僭越ながら、勝手に民主党再生プランを考えてみました。

同党の大OBである元参議院議員の平野貞夫氏が、愛憎込めて提言するのは「除霊式プラン」である。

「民主党が国民の信頼を取り戻せないのは、ひとえにマニフェストを反故にし、消費増税を決めた裏切り行為にある。主要政策のための予算16兆8000億円は“財源がない”ということになってしまったが、徹底した歳出見直しや埋蔵金探しをすれば必ず出たはず。

それなのに民主党執行部が官僚に手玉にとられて、予算作りを放棄してしまった。消費増税にしても、財務官僚や自民党にコロッとだまされて決めてしまったこと。この党が新たな道を進むには、それらを推進した民主党内の“悪霊”たちを一気に追放する“除霊式”を大々的にやるしかない。菅直人、野田佳彦の両首相経験者は当然のこと、岡田克也、前原誠司、安住淳ら元執行部は全員“悪霊”だ」

「キョンシー」に出てくるような除霊のお札を、この面々のおでこに「バチーン!」と貼れたらさぞ痛快に違いない。除霊式には民主党員のみならず相当の観衆が集まるはずだ。(『週刊ポスト2013年8月9日号』より引用)
筆者も平野氏の見解に全面的に同意する。民主党政権と一口に括ることが多いが、政権奪取当時の小沢一郎幹事長及び鳩山由紀夫代表(首相)を執行部とする第1次民主党政権と、菅、野田が首相となった第2~3次民主党政権とは、その性格が水と油ほども違う。第1次民主党政権は、普天間移転問題で「県外」を掲げてマスコミに袋叩きにあい、さらに、政治資金問題に係る検察・マスコミのテロで倒壊してしまった。鳩山の場合は、実母からの政治資金提供疑惑、小沢の場合は「陸山会事件」である。その結果、小鳩はほどなく政界から事実上、追い出された形となって今日に至っている。

小鳩を民主党の中枢及び日本政界から「追放」したのは、検察(霞が関)・マスコミであるが、その裏には米国の意向が働いたと筆者は推測している。もちろん、推測であって証明できないのだが、鳩山が進めた「東アジア経済圏構想」や「普天間基地国外・県外移転」、そして、小沢の親中国的政治姿勢は、米国にとって脅威であった。だから、マスコミが民主党政権になって日米同盟がぎくしゃくしてきた、という主張は、第1次民主党政権には当てはまる。

ところが、第2~3次民主党政権になると、TPP参加、消費税率アップ、普天間基地辺野古移転等々、米国の意向のままに政策が展開していくことになる。この時期に比べれば、今日の安倍政権の「憲法改正」「国防軍構想」等の右寄り政策のほうが、米国にとって脅威となっているように思える。そして、このたびの麻生副首相の「ナチスに学べ」発言である。この発言は、安倍政権が米国にとって危険な存在であるという思いを確信させる契機となったに違いない。

さて、そんなことより、日本国民にとって、民主党の崩壊をどう受け止めるべきなのかが重要である。

民主党は寄せ集め集団だった。
  1. “日本のネオコン”にも匹敵する松下政経塾出身者の最右派(前原がその代表)
  2. 親中派の小沢・鳩山の最左派
  3. その間の旧民社党(旧同盟系労働組合)
  4. おなじく旧社会党(旧総評系労働組合)
  5. 菅に象徴される市民運動出身者

が蠢いていた。この烏合の衆が、小鳩がいなくなった後、何をトチ狂ったか、消費税率アップに猪突猛進し、自爆したというわけだ。

だから、民主党は解党したほうがいい。それぞれが本家に帰るべきなのだ。そして、左派は、生活の党(小沢)、旧民社党系及び旧社会党系の労働団体(同盟+総評=現連合)を母体として、さらに他党――たとえば、かつて袂を分かった社民党や、環境派(緑派)、市民運動家らを巻き込んで、左派連合を形成したらいい。小沢が先に主唱した「オリーブの木」構想である。共産党との連携もあり得るかもしれない。

その一方、旧日本新党(松下政経塾出身者)及び中間派は、みんなや維新といった右派勢力に吸収されたほうがすっきりする。さらに民主党内に残存する市民運動派、日本新党出でありながら左派的である海江田グループ等は、政界引退するか、小沢の生活の党に合流するしかないだろう。そうなると、日本の政党は、
  • みんな・維新の[超右派]、
  • 自民・公明の[右派・中間派]、
  • 連合(=労働組合)、市民団体系の[左派連合]、
  • [共産党]
――の4つに分類される。

この先、収入増なきインフレの進行、消費税率アップ、円安、株安、雇用不安等を背景として、社会・経済不安が増大することから、超右派、右派・中間派が後退する局面に入っていく。そんなとき、左派連合を糾合するスーパースター的な政治家の出現が待望される。

8月は波乱の幕開け

昨晩、珍しく家人がカラオケに行きたいと言い出した。

カラオケ嫌い、居酒屋嫌いの者なので珍しいな、と思いつつ、ならばカラオケ好きの旧友S氏を誘おうとメールしたら、なんと、彼のパートナーのMさんのお父上がいましがた、亡くなったという訃報が返ってきた。

Mさんのお父上は享年103歳、大往生である。筆者はお会いしたことはないが、100歳を過ぎてもお元気で、TVによるナイター観戦と晩酌が日課であったという。心からご冥福をお祈りします。

それにしても不思議なのは、家人の「カラオケ発言」である。

前出のとおり、普段、自分からカラオケに行こうなんて言わない者がそのことを言い出したのは、私に対して、早くS氏と連絡したほうがいいよ、という暗示のようにも受け取れる。

オカルトは信じない筆者だが、6センサーのような人間の潜在的能力については、否定しきることは難しい。

さて、恒例の猫の体重測定を記録しておく。

Zazie(サビ猫)が4㎏ちょうど。前月から300gの減。

Noco(シロ猫)が6㎏ちょうど。同じく100gの減。

二匹とも夏痩せかな。

Zazie

Nico

ここのところの猫たちの変化としては、Nicoが異常に人懐っこくなって、ナデナデをしばしばせがむようになったことだ。

写真のとおり――筆者のベッドの前、すなわち枕元の小箪笥の上――が定位置で、筆者の睡眠中でもニャオ、ニャオ鳴いて、ナデナデを迫る。

無視すると、前足で筆者の頭を軽くパンチしたり、髪の毛を引っ張るのだ。

睡眠のペースが狂ってしまい、これには困っている。