2013年8月23日金曜日

サイン盗みに「カット打法」--ここまでやるか甲子園

2013夏の甲子園大会(全国高校生野球大会)が終わった。毎年、筆者は甲子園大会開催期間になると、憂鬱になる。その理由は簡単、偽善であるから。

今年も信じられないような報道があって驚いた。1つは、花巻東高校による、二塁走者の捕手のサイン盗み。これはプロ野球でも違反行為として禁止されている。

2つ目も花巻東高校の千葉翔太外野手(3年)による「カット打法」とかで、打者が打てない投球をハーフスイング、もしくはバントでファウルにしてねばり、相手投手にたくさん球数を投げさせ、四球等で出塁するというもの。これは高校野球特別規則で違反と規定されている。3つ目は、相変わらず、投手の投球数過多問題だ。

残念ながら、筆者は前出の2プレーを見ていないので、よって当コメントは報道に基づくものである。誤りがあればご指摘をお願いしたい。

まずサイン盗みについてだが、驚いたことに、主催者(新聞社等)をはじめ、テレビ、新聞が管見の限り、このことを一切報道しない。サイン盗みがあった試合の審判も、試合後の高野連も、このことを問題としなかった。つまり「なかったこと」にして葬った。そりゃそうだろう、甲子園は「聖地」にして、球児たちは「無辜」で「純真」な野球少年、サイン盗みをするような「悪い子」であるはずがない、というわけか。

「カット打法」については、議論が噴出している。花巻東は2回戦から出場し、9-5で彦根東に勝利。続く3回戦は、好投手・安楽を擁する済美に7-6で勝利した。千葉翔太が行った「カット打法」が安楽攻略に一役買った面もあった。さらに、準々決勝に進んだ花巻東は鳴門に5-4で勝ち準決勝に進んだ。千葉翔太は鳴門戦ではファウルで粘りに粘って5打席全出塁。相手投手に41球も投げさせた。

ところが準々決勝・鳴門戦後に異例の確認を行った大会本部は、千葉の「カット打法」に対して、「特別ルール違反につき、やらないように」を旨とする「お達し」を出した。そのため、千葉は「カット打法」を封印した。案の定、準決勝、花巻東は延岡学園に0-2で負け、大会から姿を消した。「カット打法」がNGとなった千葉翔太は、この試合4打数無安打。

千葉擁護派は、予選~準々決勝までOKなのに、なんで準決勝からNGなのか、と主張しているらしい。確かに、予選から3回戦までOKとしたのは、主審のミスジャッジ。千葉擁護派は、千葉翔太の「カット打法」を打撃技術とむしろ賞賛した。予選段階から主審が即座に特別ルール違反を適用、千葉にNGを宣告しておけば、こんな見苦しい議論を呼ばなかったものをという主張だ。この主張は一見正しいように思えるが、果たしてそうだろうか。

筆者は千葉翔太の「カット打法」は野球(スポーツ)の本質に外れる行為なので、特別ルールを適用するまでもなく、やってはいけない打法だと解釈する。筆者は野球の本質について、投手は全力で投げ、打者はそれを全力で打ち、走ることだと考える。野手はきた球を全力で捕球し、走者を刺すために全力で塁に送球することだと思っている。だから、筆者は犠牲バントを好まない。犠牲バントは、高校生ではなく、職業野球業界において、目先の「一勝」を稼ぐために行う非常手段だと考えている。

高校生のスポーツの目的は、目先の「一勝」ではない。大会開催の趣旨も、大会を通じて、高校生のスポーツ能力を高めることだと勝手に確信している。相手投手に投球数を多く投げさせ、疲れさせて勝つという戦術もある。だが、そのような戦術をもって高校野球においての勝利を目的とするのならば、そのような戦術を指示する監督も、それに従う選手も、野球(スポーツ)をやめたほうがいい。スポーツの本質から外れた、偏屈な勝利至上主義が、いったい、だれのためになるというのだ。

日本人の野球観戦には、自己犠牲を好む傾向を否定できない。犠牲バント、故意死球、球数無制限の先発完投、連投に次ぐ連投等がそれを象徴する。組織のために自分が犠牲になる、それは国のために自分を犠牲にした、アジア太平洋戦争の皇軍の精神性へとつながっている。8月中旬、高校生の野球大会は、なぜか、敗戦間近の学徒出陣に重なるイメージが拭えない。夏の炎天下、郷土を背負った「無辜」な若者が、●●のために一生懸命汗を流し、ひいては己を犠牲にして闘う姿――日本国民はその姿――に、いったい何を重ね合わせようとしているのか。

甲子園大会の無謬性を強調するマスメディアは、意図的ではないのかもしれないが、人々の心情と甲子園大会の何かへの重ね合わせに協力的以上の役割を果たしている。それをナショナリズムと表現してしまえば、あまりにも薄っぺらすぎる、ではいったいそれをなんと表現すれば・・・