2014年5月13日火曜日

『黒潮の道(「海と列島文化」第7巻)』

●宮田登ほか[著] ●小学館 ●6311円(+税)

本題の「黒潮の道」とは、台湾から沖縄の八重山・宮古諸島、南九州、四国、紀州を経て、伊豆半島、伊豆七島、房総半島、小笠原諸島、そして2011年に大震災と大津波に襲われた三陸地方に至る海流の進路をいう。本書が扱う地域は、伊豆半島、伊豆七島、房総半島、小笠原諸島、仙台湾・三陸周辺。

同地域には、源氏・北条氏が当地の水軍の協力を得て、武士政権を樹立した鎌倉が含まれるが、本書では政治史に係る記述は少なく、前出の各地域における黒潮との関わり――主な産業である漁業と漁撈儀礼、地域文化及び地域民俗信仰等――を採集し、その意味を問うものとなっている。


縄文時代は黒曜石の生産地

同地域が日本史において最初に特記される事項は、黒曜石をめぐる交易だ。黒曜石とは火山活動によって形成された黒色のガラス質火山岩のこと。先時時代、縄文時代を通じて、主としてナイフ型石器や石槍、石鏃などの石器の素材(石材)として利用された。日本列島における黒曜石の原産地は40か所ほどといわれるが、うち、伊豆七島の神津島の砂糠崎・恩馳島が本書「黒潮の道」に位置している。神津島の黒曜石は200㎞以上の遠隔地に運搬されていることがわかっている。このことは、先史時代の交易空間の広大さを実証する。近年、縄文時代遺跡の発見事例の増加に伴い、神津島産黒曜石が発見される頻度が高くなり、関東にとどまらず、石川県まで神津島産黒曜石が運ばれていることが判明している。神津島産黒曜石は、古代文化形成に伊豆諸島がはたした役割の代表的事例の一つといえる。

流人の地

中近世になると、伊豆諸島は流罪に処せられた罪人等が流入することとなり、同地域が独特の文化を醸成する契機となった。ちなみに、伊豆諸島がわが国の記録に初めて現れるのは、文武天皇3年(699)、讒言によって妖惑の罪を受けた役小角が伊豆諸島へ流刑されたという『続日本記』の記事だという。また、三宅島の島名の由来となった多治比真人三宅麻呂が養老6年(722)、伊豆島に遠流の刑に処せられている。最も名高いと思われる流人は鎮西八郎源為朝だろうか。彼は平安末期、保元の乱(保元元年/1156)で敗れ伊豆大島に流され、『吾妻鏡』によれば、この地で工藤介茂光に攻め滅ぼされている。だが、後世、この不世出の英雄を死なすにはしのびないとする島民たちによって、為朝は伊豆諸島各島を平定し、やがては琉球王にまで仕立てられている。現在でも、伊豆諸島各島にかならず為朝神社とその伝説がある。

漁撈と民俗

この地域の民俗の特性としては黒潮がもたらす水産資源に関連した漁撈儀礼がまず挙げられる。今年(2014年5月半ば)は、黒潮がもたらす海の幸の代表、鰹(カツオ)の水揚げが悪いという。今日、その原因の探索については、海洋学、気象学等が駆使されるが、近代以前の人びとにとっては、カツオが漁場から遠ざかったのは、超越的存在(神)の意志によるものと理解された。超越的な存在への畏怖、畏敬、感謝が黒潮の民俗宗教となって今日に至っている。具体的には、豊漁祈願や海難事故を忌避するための信仰・神事、漁船の正月乗初め、模擬漁撈とその芝居化等だ。また、水死体(ムエン)を漁の神、エベスサンとして祀る習俗(ムエン供養)もある。もっとも、水死体を祀る習俗は日本列島共通の観念であり、この地に限ったことではないが。

物忌みの神事

伊豆諸島神津島には、旧暦1月24日から26日にかけて、ニジュウゴニチサマと呼ぶ行事がある。一般の村人にとっては、ふつうの歳時習俗と同じく、家ごとの行事だ。これを仕舞正月という。24日と25日の夜は、「二十五日さま」というおそろしい神が村の中をめぐるといって、村人たちは家の中にこもる。村人たちは前日までに供え物をつくったりして神をむかえる準備をし、24日は仕事を休みその日の夕方から忌みごもりに入る。一方、村の氏神の物忌奈命神社の神主と、4人の祝は神事を行う。このような神事は大島、利島、新島、三宅島、御蔵島にもある。来訪神の信仰だ。

神津島、三宅島では、「忌の日」に、神々が島の山に集まるという。来訪神は大島ではヒイサマ(日忌さま)、利島ではカンナンボウシ(海南法師)、新島では海南法師が釜をかぶってくるという。御蔵島では24日の夜訪れる神をキノヒノミョウジン(忌の日の明神)と呼ぶ。三宅島神着では25日をキノヒ(忌の日)と呼ぶ。

ところで、超メガ都市・東京の近場で手軽なリゾート地として名高い熱海には、大楠の神木と梅の存在で多数の観光客を集める来宮神社がある。来宮(キノミヤ)の「キ」が「忌」であるとすると、これは漢語だ。前出の島々でいわれている「キ」の呼称も「忌」であるとすると、島にも熱海にも、中国的な陰陽道の知識があったことになる。もっとも忌の宮は、伊豆半島を中心に周辺地域にも多く分布していて、熱海の来宮はその一つで、古く走湯山権現(伊豆山神社)に「来宮明神」があったことが『走湯山縁起』巻二にみえている。肉、酒を忌む縁起が伝えられているが、これは仏教の影響だろう。

「キノミヤ」にまつわる肉や酒を忌む縁起は、列島各地において広く人々が実践していた、ものを忌む行為が、後年、仏教、神道によって教理化され、忌の宮(キノミヤ)信仰となって今日に至ったものと推定される。
11月23日は、大師講などとも呼ばれ、神来訪の伝えが広くみられる日である。朝廷などの新嘗祭や、その根底にある冬至祭にも相当する、一年のうちでも、最もたいせつな折目ではなかったかといわれている。その日が忌の宮精進の日であることは、きわめて興味深い。伊豆半島などの忌の宮で、禁を犯すと火難にあうというのも、火伏せの信仰の裏と表である。伊豆半島の忌の日が1月24日であったのも、愛宕信仰の縁日が24日であったことと無関係ではあるまい。「忌の日」が、11月の下弦の行事からひと続きであった可能性は、この点からも出てくる。
日本の旧暦は、立春を1月の指標にする中国歴であるが、中国でもかつては、冬至を新年の指標にする歴法が行われていた。ヨーロッパの暦がずっとそうであるように、北半球の温帯域の文明では、太陽がいちばん衰えて再生する冬至が、新年に最もふさわしい日であった。日本でも、朝廷の大嘗の日、後世の新嘗祭が、本来の新年儀礼であったと思われる。新嘗は、新たに獲れた穀物の祝いで、新嘗を神に捧げ、人々とともにいただく収穫儀礼であるが、それが冬至祭のかたちをとり、一年の切れ目になっていたらしい。(P376)
地方の新嘗については、伊豆半島のほか、下総、南武蔵、三浦半島南端、新潟県北蒲原郡、琉球諸島、奄美群島等にも散見される。なかで北蒲原郡では1月24日の夜におそろしい神霊が訪れる「オッカナノバンゲ」という忌みごもりの習俗がある。この夜、蓑笠を着て屋根の上にあがると、化け物の姿が見えるとか、逆さになって見ると、一年のうちに死ぬ者がわかるとか伝えられている。これを岡見(物見という地方もある)という。岡見、物見に併せて、吉兆占いをするところが多い。この習俗は、神津島、三宅島、琉球諸島、奄美群島にある。
ドイツなどのゲルマン諸族では、12月25日のクリスマスから1月6日の三人の博士の日までの12日間の夜を、「十二の夜々」と呼ぶ。キリスト教ではクリスマスの行事になっているが、古代ゲルマンの冬至祭を基盤にした新年であった。このとき、この世とあの世の往来ができるといい、死者や神の出現を表す行事があり、自分の将来をはっきり目で見ることができるといって、占いや予言をしたという。これは「忌の日」の伝えにきわめて近い。ゲルマン諸族でも、岡見は新年儀礼だったのである。(P381)

黒潮の道の最北端――仙台湾・三陸周辺と3.11

2011年3月11日、この地域は東日本大震災・大津波・福島原発事故という未曽有の大惨事に見舞われた。この地は黒潮(暖流)の北限にあたり、親潮(寒流)とぶつかりあう。そのため、自然界の諸領域において混合的特徴が見られる。たとえば、漁業資源においては、カツオ、マグロといった黒潮の幸と、サケ、マス、タラといった親潮の幸の両方が捕獲され、漁撈文化の多様性をかもしだす。さらに南北の宗教、婚姻形態、「蝦夷征討」の痕跡とアイヌ語地名の現存といった具合に、南と北が併存する。

当然のことながら、漁撈信仰、海や魚にまつわる伝承も多種多彩であった。ところが、3.11の影響で沿岸集落の多くが壊滅的被害を被った。物理的被害もさることながら、この地に伝えられていた民俗・文化の被害についてはいま、どのような状況にあるのだろうか。被災地の人口流出も止められないという。この先、われわれ日本は、黒潮の道の北限の文化をまもることが、できた、あるいは、できる――のであろうか。