愚かな話である。開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。海水浴場の名前といっても、それは地名である。地名は大地に刻まれた刺青ともいわれるくらい、歴史学、民俗学にとって重要な指標である。地名を失えば、その地域の成り立ち、堆積された記憶、人々の所縁を失う。柳田国男、谷川健一ら知の巨人たちが、地名の重要性を訴え続けてきた。そのことを知らない鎌倉の市長以下同市公務員たちは、“財源確保”という錦の御旗の下、いくばくかのはした金のために、地名という重要な財産を売り払おうとした。許されない暴挙である。
同市のHPによると、この事業は鎌倉行革市民会議が中心になって立案したらしい。同委員会の構成は、北大路信郷(明治大学専門職大学院ガバナンス研究科教授=専門委員)を会長として、以下、副会長に田渕雪子(行政経営コンサルタント=同)、坂野達郎(東京工業大学大学院社会工学専攻准教授=同)、友田景 (ビズデザイン株式会社取締役=同)、一ノ瀬美和子(市民委員)、稲垣康明(市民委員)、倉岡明子(市民委員)となっている。[*敬称略]
おそらくこの委員の面々には、柳田や谷川らが提唱してきた地名の重要性の言葉は届いていない。この面々には、歴史・民俗のもつ価値・重要性が理解されていない。それらを探る手がかりの一つ(=地名)を一度失ってしまえば、この先、とりもどすことの困難さもわかっていない。いまの鎌倉市長以下、同市の行政に携わる公務員に、日本のみならず世界的に貴重な歴史都市・鎌倉を任せられるのか、おおいに疑問が残る。
だが、“不幸中の幸い”が起こった。鎌倉市海水浴場のネーミングライツを獲得した株式会社豊島屋(久保田陽彦社長)が、3か所(「材木座海水浴場」「由比ガ浜海水浴場」「腰越海水浴場」)の名称を変更しなかったのだ。豊島屋の決断は素晴らしい。称賛されるべき快挙である。豊島屋の社長の英断に比し、同市が行った事業の姑息さがいかにも対照的である。賢明な民間事業者の手によって、行政の暴挙・愚挙が阻まれた。
それにしても理解できないのが、鎌倉市の暴挙・愚挙に対し、マスメディアが何の反応も示さなかったことである。地名に対する無理解がそうさせたのか。同市が掲げる“財源確保”という建前に沈黙したのか。財源確保は重要なことだけれど、かけがいのない財産を勝手に処分してもらっては困るのである。