過而不改是謂過矣(過ちて改めざる、是を過ちと謂う。)――現代日本の中学生が初めて漢文に接するとき、おそらくこのフレーズを最初に目にするのではないか。出典はもちろん孔子の『論語』で、解釈は、「過ちを犯したことを知っていながらも改めようとしない、これを本当の過ちという。」となる。
はなはだ説教臭い言い回しに辟易する方も多いと思われるものの、このたびの「STAP細胞」問題が笹井芳樹の死という最悪な事態に進展したいま、孔子の言説の重さを改めて痛感するのは、筆者だけであろうか。
小保方晴子の場合
「STAP細胞」の論文に疑義が生じたとき、理研は調査委員会を立ち上げ、論文不正を認定して不正者の処分を理研の懲戒委員会にゆだねた。ところが、小保方弁護団が5月26日、理研の懲戒委員会に弁明書を提出した。弁明書の要旨は、「調査委員会が研究不正の解釈や事実認定を誤っており、調査の過程にも重大な手続違背がある。そのような審査結果を前提に懲戒委員会が諭旨退職及び懲戒解雇を行うならば、その処分は違法となる」という主張である。
小保方晴子(弁護団)が「不服申し立て」を行ったところから、この問題はいわば泥沼化していく。結果的には、このとき小保方が不服申し立てを行わず、その後に出された理研の懲戒委員会の処分を受け入れていれば、ことは決着した。処分→論文撤回という単純な展開である。その後、実験等に係る不正が発覚したとしても、問題は大きくはならなかった。かりに小保方晴子と笹井芳樹の不倫問題が執拗に報道されたとしても、ここまで長引くことはなかった。世間もここまでの関心を払わなかった。
小保方晴子が弁護士を立て、理研と争う姿勢を見せた動機が分からない。小保方の両親の差し金なのか小保方本人の強い意志によるものなのか、それ以外の利害関係者の意志なのか・・・いずれにしても、この「不服申し立て」作戦は最悪の結果を招いたことは誰しもが認めるところだろう。小保方が“過ちて、改めていれば”、笹井の自殺はなかった。
小保方が“改める”機会はもう一回あった。7月2日、雑誌『ネイチャー』論文の取下げに同意したときだ。「論文取下げ」が意味するのは、実験結果もデータもすべて同研究の白紙化である。すなわち、「STAP細胞」は発見も作製もなかったということである。ところが驚いたことに、小保方(弁護団)は論文取下げに同意しながら、「STAP細胞」はあるという主張は取下げなかった。科学界では「論文の取下げに同意する」ということは、前出のとおり、発表された研究すべてが白紙化されたというコードがある。つまり小保方は“同意=改めた”はずなのだが、小保方(弁護団)は「不本意な同意」という、意味不明の抗弁を行った。これぞ、「過而不改是謂過矣」の典型である。
このように小保方が過ちを複数回“改めなかった”ことにより、事態は小保方側にとって悪化してゆく。他の細胞の混入、マウスの差し替えといった、実験過程の不正に係る証拠が次々と挙がってくる。小保方が「籠城」し、担当弁護士が詭弁を弄するたびごとに、小保方側に不利な証拠が報道されるという構造が定着してきたのだ。
こうした構造は、小保方と笹井の関係性にいっそう疑義をもたらす結果を招いた。当初、笹井は小保方に対する、監督責任を問われるだけだった。ところが、小保方の「籠城」により、笹井の不正への関与に係る疑惑が強まった。小保方の「籠城」は、小保方を有利にするどころか、この問題の真相をあぶりだす媒介になった。「STAP細胞」が、小保方と笹井の共同謀議による捏造であるという疑惑を明るみに出す結果となった。
筆者はこの問題の対処について、小保方弁護団に戦略的誤りがあったと考える。小保方弁護団は、落としどころとして、理研との和解を目指していたように思う。つまり、理研が小保方を処分しない方向でこの問題をフェイドアウトさせることである。しかし、事態はそうならないばかりか、問題を一層深刻化させた。弁護団が小保方を擁護するたびごとに、小保方側に不利な情報が流出する。早期解決こそが、傷を少なくする最善策だった、と、結果からは言える。弁護団の「不服申し立て」が小保方の傷を深くし、笹井を死に追いやった。
笹井芳樹の場合
笹井の自殺について改めて考えてみよう。自殺の原因はいろいろある。一つの事柄を思いつめて自殺する場合もあるし、健康問題、借金問題、不倫問題等の複数の要因が重複する場合もある。笹井の場合はどうなのだろうか。
さて、その前に自殺の原因について、「STAP細胞」問題と切り離す説もある。いわゆる「薬物説」である。笹井が心療内科に通院していたとき処方された薬物により、笹井は鬱状態になり、自殺した、というもの。この説について、いまもって心療内科学会から異議が出ていないのが不思議である。この説は心療内科が処方する薬物は、自殺を誘引すると言っているに等しい。にもかかわらず、同学会はこれを積極的に否定しない。同学会が、その可能性を否定できない根拠を隠蔽しているからなのか。
筆者はこの「薬物自殺原因説」を棚上げにしておく。判断する医学的材料をもっていないから。よって、薬物以外の、つまり笹井の精神性に限定して自殺原因を推測する。
(一)自尊心
まず、笹井は「STAP細胞」問題のすべてを知るキーパーソンであったことは何度も書いた。そして笹井ほどの頭脳の持ち主ならば、それが存在しないことも知っていたはずなのだが、笹井は先(4月16日)の会見において、「STAP細胞」の存在可能性を強く主張した。その後、事態の進展に伴い、同細胞に関する疑義が科学界から指摘され、不在の状況的証拠が突きつけられるようになってきて、STAP細胞は、“もはや、ネッシー”とまで揶揄されてしまった。
笹井は科学者としてすべてを失いつつあった。つまり、4月の会見において、“過ちを改めて”さえいれば、ここまで自分を追い込む必要はなかった。報道によると、笹井は会見前、副センター長を辞する旨、理研側に申し出ていたという。つまり、笹井は改める用意があったと推測できる。ところが、実際には、謝罪はしたが「STAP細胞」の捏造については改めなかった。“過ちて、改めざる”ことの恐ろしさを痛感する次第である。
(二)不倫問題
それだけではない。笹井の犯した過ちとして、小保方との個人的関係を無視できない。笹井を追い詰めたのは、小保方晴子との不倫問題であった。この問題の実態が小保方側を含めた他者の口から明らかにされる前に、笹井は自ら命を絶った。エリート特有のプライドというやつか――自分がやってしまったことが芸能人やサラリーマンといった、自分より「下位」にある(と笹井が思っている)人々と同じことだったことを、笹井自身が許容できなかったのである。
笹井は自らの不倫問題について家族に説明したのか、しなかったのか、知る由もないのだが、筆者は、笹井はこの問題について一切改めることはなかった、と推測する。笹井は、この問題を自己嫌悪としてだけ受け止めた。
前出のとおり、自分より下位の者と同じ過ちを犯してしまった、という自己嫌悪である。笹井が不倫問題について家族と向き合い、改めて解決にむけて歩みだしていれば、彼の精神が自殺に向かうことは避けられた。笹井はこの問題から、逃げたのである。不倫問題は、その発生から終局に至るまで、科学的には解決できないからである。
(三)資本、国家、行政との関係の行き詰まり
三番目は、「STAP細胞」問題が国家プロジェクトであること。このことは既に拙Blogにて繰り返し書いてきたので詳述を控える。報道によると、笹井は神戸市のまちづくり及びアベノミックスと深く結びついていたらしい。理研を代表して、資本、地方自治体及び国家との交渉、予算取り等で活躍していたという。しかし、彼がその分野で活躍していたとしても、それは笹井の本分ではなかろう。自己の資質を逸脱した、つまりかなり無理をしていたのだと思う。アカデミズムで育ってきた人間がカネの心配が得意であるはずがない。資本は科学論文を書き上げるように理路整然と進まない。そのうえでの「STAP細胞」問題である。笹井は、資本、行政、国家との関係において、追い込まれていた可能性はある。
しかし、自殺はあくまでも個人の問題であって、資本、権力、他者等が強要できるものではない、と筆者は考える。上から下から周りから、どんな圧力をかけられていたとしても、自殺を選ぶのは当事者であって、他者が人を自殺に追い込むことは相当難しいと筆者は思っている。ある状況に追い込まれたとき、自殺を選ぶ者と選ばない者がいる。その人の資質や人間関係、家族関係等の状況が左右する。社会的地位、自尊心等も関与するかもしれない。
だが、どんな状況であれ、自殺は当事者の決意なしではなし得ない。笹井芳樹は、「過而不改是謂過矣」のまま、自ら命を絶った。つまり、笹井は自らの生命をもって、改めたのであろうか。改める方法として自裁があるのだろうか。孔子は残念ながら、そこまでは言及しなかった。
小保方晴子はモンスター
小保方晴子は、「過而不改是謂過矣」が意味する倫理観、道徳観とはおよそ相容れない存在である。だから、自分が「改めざる」が故に生じた最悪の結果(笹井の自死)について考えを及ぼすまい。彼女は善悪を越えた、倫理を越えた、モンスターなのだから。
それゆえ、自己の実験、論文における捏造、不正という過ち、そして、笹井を巻き込み、死に至らせた過ちについて、深刻に考えることもなかろう。小保方はモンスターとして、この先、どのように生きていくつもりなのだろうか。小保方がモンスターから普通の人間に戻る方法は、――それが笹井の死に報いる唯一の方法なのだが、――孔子の言うとおり、「過ちを改める」こと以外にはないのである。