映画『ジャッキー・コーガン』(原題: Killing Them Softly/2012年公開/アンドリュー・ドミニク監督・脚本)の終わり近くにこんなシーンがあった。ブラッド・ピット演ずるクールな殺し屋コーガンは、大統領選の演説がテレビで流される中、アメリカ独立の父といわれるトマス・ジェファーソンを散々罵倒した挙句、「アメリカは国家じゃない。ビジネスだ」と吐き捨てた。
まさにそのとおり。著者(堤未果)はそのことを伝えるべく、『ルポ貧困大国アメリカ』『ルポ貧困大陸アメリカⅡ』『(株)貧困大国アメリカ』を世に送り本書に至る。今回はオバマケアにまつわるアメリカの医療崩壊を特集した内容になっている。
オバマケアとはなにか
富める者も貧しき者もすべて健康保険に入れる(国民皆保険制度)とうたわれるオバマケアにどんな問題があるのか、そもそもオバマケアとは、いかなる制度なのだろうか。
そのことに触れる前に、アメリカの健康保険制度について概観しておこう。アメリカの公的保険制度には、65歳以上の高齢者と障害者・末期腎疾患者のための「メディケア」、最低所得者のための「メディケイド」がある。このうち州と国が費用を折半する「メディケイド」の受給条件は、国の決めた貧困ライン以下の住民が対象だ。それ以外のいわゆる中流以上の国民は民間保険会社が売り出している保険商品に加入するか、産別組合が運営する健康保険や雇用主を通じた民間保険に加入していた。
ところが、リーマンショック以降、1930年代大恐慌以来の不況を迎えたアメリカは、想像を絶する貧困大国と化した。エマニュエル・サイズ教授(カリフォルニア大学)とガブリエル・ザックマン教授(ロンドン大学)の調査によると、アメリカでは資産2000万ドル(約20億円)以上の上位0.1%が、国全体の富の20%を所有するに至った。全体の富の8割を占める中流以下の国民の富はわずか17%。労働人口の3人に1人が職に就けず、6人に1人が貧困ライン以下の生活をするなか、年間150万人の国民が自己破産者となっていく。日本のような国民皆保険制度がないアメリカでは、医療分野にも市場原理が支配するため、一度の病気で多額の借金を抱えるか破産するケースが多く、国民の3人に1人は医療費請求が支払えないでいるという。保険に加入していても保険会社が保険金給付をしぶったり、必要な治療を拒否するケースが多い。驚くべきことに医療破産者の8割を保険加入者が占めている。そこで医療保険改革法(通称「オバマケア」)がオバマ大統領の肝いりで法制化された。
オバマケアの要点は以下のとおり。
・国民全員加入義務(無保険者は罰金)
・フルタイム従業員50人以上の企業はオバマケア条件を満たす保険提供義務
・企業が保険を提供しない場合は従業員1人につき罰金
・企業保険がない人は政府が設立した保険販売所で保険を買う。
・収入が貧困レベルの4倍までなら保険購入補助金が出る。
・低所得者層はメディケイドに加入(自己負担ゼロの公的医療)。メディケイドの条件を大枠に緩和
・全米の州はメディケイド枠を拡大
・個人の非課税医療費口座に2500ドルの上限をつける(前には上限なし)
・保険は予防医療、妊婦医療、小児医療、薬物中毒カウンセリングなど政府が義務化した10項目が入っていないと違法
・26歳以下の子供は親の保険に入れる
・保険会社が既往症での加入拒否や、病気になってからの途中解約は違法
・保険会社の保険金支払上限は廃止
・保険加入者の最大自己負担の上限は6350ドル(個人)、12700ドル(4人家族)とする。
・2018年から10200ドル(個人)、27500ドル(4人家族)の保険は40%課税
・財源は高齢者医療保険削減と増税21項目、製薬、保険会社及び医療機器メーカーへの増税
・高齢者の保険料は若者の3倍までとする(裏→つまり若者の保険料が高くなる)。
・性別で保険料を変えてはいけない。(P21)
要点を一読する限り、大変素晴らしい法制度のようにみえるのだが・・・
オバマケアの落とし穴
本書から、オバマケアの欠陥を示す事例をいくつか紹介しよう。
・従来加入していた保険がオバマケアの条件を満たしていない場合、従来保険は廃止され、強制的にオバマケアの条件を満たした保険を買換えなければならなくなる。その際、同様の内容を満たす保険は従来のものより保険会社により高額に設定されている。本書の事例だと、ほぼ2倍だという。オバマケアには政府補助金支給が盛り込まれているが、年間所得が受給条件を上回っている家族が多いため、補助金をもらえない。さらに無保険となれば、罰金が課される。
・オバマケアは既往症や病気を理由にした加入拒否を違法にしたが、多くの保険会社は代わりに、薬を値段ごとに7つのグループに分け、患者の自己負担率を定額制から一定率負担制に切りかえていた。このやり方だと、HIVやがんのような高額な薬ほど患者の自己負担率は重くなる。政府が薬価交渉権を持たないアメリカでは、薬は製薬会社の言い値で売られ、おそろしく値段が高い。
・オバマケアが、フルタイム従業員50人以上の企業に対し、オバマケア条件を満たす保険提供義務を課したため、企業側は従業員に対してフルタイムからパートタイムへと雇用条件を切り替えた。それだけではない。企業が従業員のためのオバマケア保険に入らず罰金の納入を選んだほうが人件費を削減できることが試算されたため、企業は従業員の保険加入を拒否しだした。その結果、企業保険もなくオバマケア保険の自己負担も払えない無保険者を生み出すことになった。
・しかも、オバマケアの実施により企業側が労働コストの上昇を恐れ、正規労働者を排してパートタイマー化やリストラを強めた結果、これまで加入者数を切り札にして条件のいい共同保険(組合保険)に加入できた正規労働者(=組合員)が、これまでより高い保険を買わされる方向に追い込まれた。組合保険は政府からの補助金が出ないのだ。組合が共同で買う医療保険から、加入者がオバマケア保険に取られてしまえば組合の存在意義は消滅してしまう。アメリカの労働組合組織率は著しく低下している。
・オバマケアによると、低所得者層は従来通りメディケイドに加入(自己負担ゼロの公的医療)し、メディケイドの条件を大枠に緩和するとした。ところが、実際にはメディケイド患者を診る病院がない。米国内科学会のデータによると、メディケイド患者は民間保険の加入者より13%死亡率が高いという。最大の理由は、国からの治療費支払い率がメディケイドは民間保険の6割と低く、メディケイド患者を診れば診るほど、医師や病院は赤字になってしまうからだ。
オバマケアの制度上の欠陥についてはこれくらいにしよう。詳しくは本書を読んでほしい。
アメリカという国家崩壊の構造――見えない「回転ドア」
ではなぜ、このような欠陥をもつ制度が法制化されてしまったのだろうか。それこそが前出の“アメリカとは国家ではなくビジネス”と言われる土壌であり、著者(堤未果)が多用する「(目に見えない)回転ドア」と言われるシステムにほかならない。
日本の場合、その権力の源泉は“財政官の鉄の三角形”と称される。言うまでもなく、財とは資本=産業界、政は政治家、官は行政(官僚組織)を指す。アメリカの場合は、日本のような役割分担がなく、財(=資本=大企業)の一元的支配が特徴的だ。ウォール街(金融業者)やグローバル企業の切れ者たち――その多くは弁護士なのだが――が、政府内に入り込み、所属する産業に有利な法案を作成する。そして、無事法律ができた暁には政府から退出し、業界に戻る。もちろん戻った後の報酬は数倍、数十倍に跳ね上がる。政治家の役割とは、業界が仕掛けるロビイ活動を受けて議会で法案に賛成する役割を「演じる」にすぎない。ロビイ活動を受けるとは、すなわち政治献金等を受け取ることを意味する。
アメリカの「民主主義」の真髄は「二大政党制」にあると信じる日本人は少なくないが、もちろん幻想だ。本書が取り上げるアメリカの国民皆医療保険制度=オバマケアについては、日本では自己責任を重んずる共和党が反対し、セーフティネットを重視する民主党が推進していると報じられることが一般的だ。ところが、本書を読めば、そのことの虚構がはっきりとわかる。本書の結論にもなるが、オバマケアは国民のためではなく、保険会社、製薬会社等の営利を追求した制度なのだ。
彼ら(グローバル企業)がリスクマネジメントとして、大統領選という投資の場では、常にルーレットの赤と黒の両方に、巨額のチップをおく・・・(P83)
オバマケアにおいて「回転ドア」を潜り抜けたのは全米最大の保険会社ウェルポイント社の社員だったリズ・フォウラーという人物だ。
2001年。・・・リズ・フォウラーの最初の任務は、ドアをくぐって医療関係法管轄の上院金融委員会にもぐりこみ、メディケア処方薬法改正の設計に関わることだった。同法は2年後に成立し、政府からメディケアの薬価交渉権を奪い、処方薬部分に民間保険会社が入り込む隙間を作ることに成功する。仕事を終えて政府を去ったフォウラーには、ウェルポイント社のロビイング部門副社長の席が与えられた。数年後、前回よりはるかに規模が大きい任務を果たすため、フォウラーは再び回転ドアをくぐると、今度は上院金融委員会の、マックス・ボーカー委員長直属の部下となる。
(オバマケア)法案の骨子を設計するために。
彼女は手始めに医療・保険会社にとって最大の障害である〈単一支払い医療制度(シングルペイヤー)〉案を、法案から丁重に取り除いた。日本やカナダのようなこの方式を入れられたら最後、医療・製薬業界が巨大利益を得られるビジネスモデルが一気に崩れてしまう。法案骨子が完成すると、フォウラーを次に保健福祉省副長官に栄転し、オバマケアにおける保険会社と加入者側それぞれの利益調整業務を任される。・・・(P150-152)
フォウラーが元の業界へと続く回転ドアを再びくぐった後、彼女は最大手製薬会社の一つであるジョンソン&ジョンソン社の政府・政策担当重役の椅子に就いたという。もちろん、こうしたケースはフォウラーに限られたものではない。「現在ワシントンに1万7,800人いるロビイストの4割が医療・製薬業界を担当しているという。国会議員535人につき、13人のロビイストが、常時貼りついて圧力をかけるのだ。」(P154)
オバマケアという欠陥商品を国民に強制的に売りつけて利益を得るのは、保険会社、製薬会社、ウォール街(投資銀行)だ。オバマケアにおいてオバマ大統領が用いた手法は、フードスタンプを大量発行してウオールマート、ファストフード業界、加工食品企業とカード手数料が入るウォール街の投資銀行を太らせたものと同一だ。貧者を救うという美名の下につくられた法制度が、実は国民の税金を一部業界に自動的に還流するシステムになっている。
アメリカ国家崩壊の歴史
アメリカが国家ではなくビジネスに変容した転換点は、規制緩和大統領、レーガン政権下から始まったことはよく知られている。アメリカでは1933年、大恐慌の反省を込めて、銀行と投資・保険を分離する〈グラス・スティーガル法〉が成立した。ところが半世紀後、レーガンは銀行法をゆるめ、〈独占禁止法〉を骨抜きにした。もはや中小企業は必要ない、業界は数社で独占したほうが無駄なコストも競争もない状態でもっとも効率よく利益をあげられる。各業界の寡占化が加速しだした。そして1999年、世界最大の投資銀行ゴールドマン・サックスからホワイトハウス入りしたルービン財務長官と後任のサマーズ財務長官によって後押しされたクリントン大統領は、ついに〈グラス・スティーガル法〉の廃止を意味する〈金融近代化法〉に署名した。そして、リーマンショックへの破滅へと向かう。
クリントン後に大統領に就任したブッシュJrは言論統制、公教育、自治体、労働組合の解体に邁進した。そして9.11を追い風として、ブッシュJrは〈愛国者法〉〈国防受給法〉などの言論統制を可能にする法律を成立させる。
規制緩和、コストカット、競争強化、民営化、構造改革といったかけ声により、軍事・教育・農業・金融・食品等の公共性の強い分野がグローバル企業の手に落ちていく。そして、ついに本書のとおり国民の命に係わる健康保険、医療、製薬等が企業の手に落ちた。こうした動きと並行して、前出のとおり言論統制が強化され、組合がつぶされ、正規労働者が減らされ、非正規労働者(派遣労働者)の増加を経て、とうとうパートタイム国家になりつつある。
最後に筆者(堤未果)は「次なるゲームのステージは日本」と警鐘を鳴らす。