理研は2月10日、関係者の処分を発表した。小保方晴子は、「懲戒解雇相当」とされたが、すでに退職しており、実質的な処分はない。規定に基づく懲戒処分は、理研元発生・再生科学総合研究センター(CDB)の竹市雅俊元センター長(現特別顧問)のみ。譴責(けんせき)で、自主的に給料10分の1を3カ月返納する。
野依良治理事長など経営陣の処分や責任については、経営責任は、給与の自主返納と改革への行動計画の遂行で果たしているとして、不問に付された。論文の共著者の若山照彦については出勤停止相当、丹羽仁史は厳重注意とした。故・笹井芳樹についてはなんの発表もない。
その一方、理研の元研究員、石川智久は1月26日、小保方晴子がES細胞を盗んだとして、窃盗容疑で兵庫県警に告発状を提出した。告発状によると、小保方が名声や安定した収入を得るため、STAP論文共著者の若山照彦の研究室からES細胞を無断で盗み出したなどとしている。石川智久は、「真面目にコツコツと研究をしている研究者の怒りを含めて、代表して刑事告発をするに至った」としている。警察が告発状を受理すれば一連の論文不正問題に捜査機関が介入することになるが、2月22日現在、受理したという報道はない。
2月22日現在、「STAP細胞」問題について、これ以上の進展の情報はない。この問題の真相解明を関係者がだれも望まないという状況が肯定されようとしている。世界を驚かせた論文・研究不正がフェイドアウトしてしまう。当事者の一人、小保方は真相を語らない、笹井は鬼籍に入った。不正の舞台となった理研は、小保方に対して研究費の刑事告訴や研究費返還請求を検討しているというが、「検討する」とは役所用語で「何もしない」を意味するのは常識。つまり、「STAP細胞」問題について理研は真相解明を放棄し、形式的で実効性のない「処分」でお茶を濁し、事実上の幕引きを図った。
メディアの責任――ノーベル賞の権威に屈するマスメディア
『ノーベル殺人事件』(原題:「Nobels testament」、製作:2012年、製作国:スウェーデン、監督:ペーテル・フリント、脚本:ペニッラ・オリェルンド)という映画がある。ストーリーは、ノーベル賞受賞パーティーで選考委員長と受賞者(医学生理学賞)の先端医療科学者がテロにあい殺傷される事件を偶然目撃した記者が、事件の真相に迫ろうと取材を進めるうち、ノーベル賞の裏に潜む巨大な闇の世界を知ることなり、命を狙われるというもの。
この映画にリアリティーを与えているのは登場人物の属性にある。テロの標的となったのはイスラエル人のES細胞研究者とノーベル賞選考を行うカロリンスカ研究所の選考委員長。選考委員長の座を狙うライバルが足の引っ張り合いを演じる場面もある。ノーベル賞受賞によって莫大な利益を目論む製薬会社の役員もいる。実験データの捏造もある。美貌で非情な女性CIAの殺し屋も出てくる。テロはイスラム過激派だという捜査当局の予断もあった。
もちろんこの映画はフィクションであり、実際のノーベル賞がこの映画のとおりだというわけではない。というよりも、むしろ映画というフィクションを媒介として、ノーベル賞を絶対的な権威的存在から解体し、相対化している。ノーベル賞にあっておかしくない資本との癒着(利権)をジャーナリストが追及する筋立てにして、ジャーナリズムはいかなる権威にも屈せず、権威の裏にある不正(実験データの捏造等)、利権追及、資本との癒着等を暴く使命を帯びていることを強調している。
ノーベル賞を主催するスウエーデンにおいて、ノーベル賞の闇を暴く筋立ての映画がつくられということは、この国の映画がきわめて健全なジャーナリズム精神をもっていることの証左にほかならない。
日本はどうだろうか。日本のマスメディアにあっては、ノーベル賞はまずもって絶対的権威であり、批判、疑義をはさむ余地がない。日本人が受賞しようものなら、メディアはお祭り騒ぎ。朝から晩まで「ノーベル賞狂想曲」を奏でまくる。受賞者は神のごとく崇められ、一挙手一投足が報道され、受賞者の家族では足りず、親族、担任の教師、友人等々がTVに引っ張り出される。
そういえば、「STAP細胞」問題の舞台となった理研理事長はノーベル賞受賞者だった。それゆえ、理研理事長の責任はメディアで追及されることがないのかもしれない。メディアの現場レベルでは理事長責任を追及する声が上がっても、幹部がその声を抹殺してしまえばそれまで。理研理事長の責任を追及する紙面、画面(映像)は世に出てこない。こうして、「STAP細胞」問題は小保方晴子「単独犯」で幕引きされてしまう可能性が高い。
小保方弁護団の責任――理研と示談か
犠牲者までを出した、日本の科学史上最悪の不正事件の混乱の主因は、不正を行った小保方晴子が弁護団を結成して法廷闘争をちらつかせて理研を恫喝した点に求められるような気がする。脛に傷持つ理研も法廷闘争だけは回避しようと、小保方弁護団とほぼ協調して、真相隠蔽に尽力したのではないか。
その結果が、今回の「処分」ではないのか。理研が小保方を退職させた後に、「処分」を発表する――という日程調整が両者の間にあり、そのとおりに進んだ――と疑っていい。両者は、「STAP細胞」があるかないか――という論点にマスメディアを誘導し(あるいはメディアに指令をだした者がいるかもしれない)、再現・検証実験という形で時間を稼ぎ、その間に物的証拠となる実験試料等を処分し隠蔽工作を終わらせ、処分を延期することで、小保方晴子の真相解明に基づく実質的処分を回避する。と同時に、理研理事長以下理研幹部に処分が及ぶことも回避する。
法廷に持ち込まれれば、小保方も理研も無傷ではおれない。法廷でこの事件の全容が明かされれば、共倒れなのだ。小保方弁護団は、真相解明を回避することで理研に示談を求め、理研はそれに応じたという筋書きもなくはない。
筆者は、「STAP細胞」問題には前出の映画『ノーベル殺人事件』と似たような、科学界と資本及び国家権力との癒着が隠されていると思っている。理研幹部と小保方は途中まで同じ船に乗っていた、ところが予期せぬ不正発覚により、理研幹部は小保方一人を残して船を降り、それに同情した笹井芳樹は自裁し、小保方一人が漂流した可能性を否定できない、が、残念ながらそれを証明するものがない。