2015年5月2日土曜日

村上春樹インタビュー(共同通信配信)―No.1

ノーベル賞「候補」作家の村上春樹が自らの時代認識と小説について、記者(聞き手;共同通信編集委員・小山鉄郎)のインタビューにこたえた。村上文学を知るうえで重要な記事だと思えるので、所見を述べておきたい。

同記事は、「村上春樹さん、時代と歴史と物語を語る」(以下「時代と歴史と物語」。『東京新聞/2015/4/17/朝刊』)、「村上春樹さん、村上文学を語る」(以下「村上文学を語る」。同紙/2015/4/28/朝刊)の2回に分けて掲載された(掲載日は新聞各紙によって異なるらしい)。

「時代と歴史と物語」は記者の質問に村上が回答する形式、「村上文学」は両者のやりとりを聞き手が要約する形式となっている。新聞記事なので短いため、村上本人の意が尽くされたかどうかは不明だが、その分、村上の創造の核となる部分が簡潔に表現されていてわかりやすい。以下記事を読んでいない人のため、核心と思われる部分を書き抜いておく。

村上:先日「アルジェの闘い」という1960年代につくられた映画を久しぶりに見ました。この映画では植民地の宗主国フランスは悪で、独立のために闘うアルジェリアの人たちは善です。僕らはこの映画に喝采を送りました。(略)60年代は反植民地闘争は善でした。その価値観で映画を見ているから、その行為に納得できるのです。でも今、善と悪が瞬時にして動いてしまう善悪不分明の時代に、この映画を見るととても混乱してしまう。
(略)
村上:今いちばん問題になっているのは、国境線が無くなってきていることです。テロリズムという、国境を越えた総合生命体みたいなものが出来てしまっている。これは西欧的なロジックと戦略では解決のつかない問題です。(略)長い目で見て、欧米に今起きているのは、そのロジックの消滅、拡散、メルトダウンです。それはベルリンの壁が壊れたころから始まっている。
(略)
村上:僕の小説はある意味では「ロジック拡散」という現象に併走しているんじゃないかと思う。僕は小説を書くにあたって意識上の世界よりも意識下の世界を重視しています。意識上の世界はロジックの世界。僕が追及しているのはロジックの地下にある世界なんです。(略)ロジックという枠を外してしまうと、何が善で何が悪だかだんだん規定できなくなる。善悪が固定された価値観からしたらある種の危険性を感じるかもしれないですが、そのような善悪を簡単に規定できない世界を乗り越えていくことが大切なのです。でもそれには自分の無意識の中にある羅針盤を信じるしかない。
――村上さんの物語はその闇のような世界から必ず開かれた世界に抜け出ています。その善い方向を示す羅針盤はどこから生まれてくるのですか。
村上:体を鍛えて健康にいいものを食べ、深酒をせずに早寝早起きをする。これが意外と効きます。一言でいえば日常を丁寧に生きることです。すごく単純ですが。
(「時代と歴史と物語」より)
「自然な物語を書こうとするとき、最初からプランを作ってはいけないのです。森の中の獣を見るように、じっと目を凝らして、その獣の動きに従って自分の動きを作っていく。そうすると、どうしても無意識的なものにならざるを得ないのです」
その自然の獣の動きをじっと見るような動きは、神話の動きとよく似ているという。
「神話は人間の集合的な潜在意識を形にしたもの。物語を僕が書く、僕の潜在意識。ところが僕の潜在意識をずっと底の方までたどっていくと、集合的な潜在意識と重なってきます。神話と個人の物語は同じではないけれど、その動きは重なる部分が多いです」
(「村上文学を語る」より)
脱構築、脱領土、集合的無意識

村上の語り口から、脱構築、脱領土、集合的無意識という3つのキーワードが浮かんでくる。

  1. 脱構築→「今が善と悪が瞬時に動いてしまう時代」「長い目で見て、欧米に今起きているのは、そのロジックの消滅、拡散、メルトダウン」
  2. 脱領土→「今いちばん問題になっているのは、国境線が無くなってきていること」
  3. 集合的無意識→「神話は人間の集合的な潜在意識を形にしたもの。物語を僕が書く、僕の潜在意識。ところが僕の潜在意識をずっと底の方までたどっていくと、集合的な潜在意識と重なってきます」「意識上の世界よりも意識下の世界を重視」

さて筆者は、“今”についての認識において、村上とは異なる。“今”(2015年)の日本は、アジア太平洋戦争の敗戦によって日本にもたらされた戦後民主主義(1945)が、米国(軍)の対日占領政策の転換(1947)によって制限された――日本が米国(軍)の東アジア政策に組み込まれ、隷属的体制に固定化された――1947年以降の情況とまったく変わっていないと思っている。その間、村上がいうとおり、冷戦終結(ベルリンの壁崩壊)という世界史的大転換があったものの、中国・ロシア・イスラム圏の成長拡大を代替要因として、米国(軍)の対日政策は、冷戦構造を引き継ぎ今日に至っている。つまり、村上春樹がいう、「善と悪が瞬時に動く時代」なのかどうか――筆者は村上の“善悪不分明の時代”という時代認識に疑問を抱く。

“今”は果たして「善と悪が瞬時に動く時代」なのだろうか。日本の近現代において、善と悪が瞬時に動いたのは、明治維新(1868)、アジア太平洋戦争敗戦(天皇制ファシズムから戦後民主主義受容(1945~1947)、米軍の対日占領政策転換(1947~1951)、安保闘争敗北(1960)、「1968年革命」敗北等々が挙げられる。ただし、「安保闘争」「1968年革命」の敗北・挫折は、左翼陣営に属する動きであって、国民的体験ではない。かつ、この2つは1947年の米軍の対日占領政策の転換の帰結に属する。

つまり、日本の近現代において善と悪が瞬時に動いたのは、▽明治維新、▽アジア太平洋戦争敗戦、▽米国(軍)の対日占領政策転換――の3つしかない。そしてそれらのいずれも村上は実体験していない。それゆえ、村上が言う「善と悪が瞬時に動いた」という認識は、極私的な小情況に基づく可能性が高い。だから、外からはそれが何なのかを確言できないし、他者にとってはどうでもいいことかもしれない。

善悪に与しないのが村上の立ち位置

というよりも、村上は敢えて自分の立ち位置を善にも悪にも定めないことに決めたのではないか。“今”が善と悪が瞬時に動く時代なのではなく、“今”の村上が、善と悪のどちらにも与しない、と決めたに過ぎないのではないか。そのことによって、善と悪を相対化し、気分に任せ、善でも悪でもない言葉を垂れ流すこと、ロジックにとらわれないファンタジーを紡ぎ続けること――をもって、それを村上文学の「神髄」と定めたのではないか。

しかし、それだけなら村上文学はファンタジーだと自ら規定してしまうことになるから、カール・グスタフ・ユングの中心概念である集合的無意識を引っ張り出して、村上春樹という“個人の夢や空想に現れるある種の典型的なイメージ”を民族や国家を越えた神話として、国境を越えた(=脱領土的)物語と言い換え、普遍化して表現したのではないのか。

“僕(村上春樹)の小説は、民族や人類に共通に古態的(アルカイク)な無意識だから、世界的(脱領土的)に読者を獲得できるのです”と、説明しようとしたのではないか。そう説明することによって、自らの小説が、ノーベル賞に値すると。

村上は、“今”、ロジックの消滅、拡散、メルトダウンが世界規模で人々の気分のなかで横溢しているという意味のことを述べているが、今の時代における支配と被支配、搾取と非搾取、富者と貧者、北と南といった二項対立の関係と構造はロジックで説明できるし、説明しなければいけない。前出の映画「アルジェの闘い」の時代となんら変わっていない。ただ、植民地と宗主国という関係と構造が消滅し、どちらも独立国に変わったため、両者の関係と構造(宗主国-植民地)が“今”や見えにくくなっただけなのではないか。その背景に、脱領土的な多国籍企業の強力な影響力が働いていて、一国的な支配者と抵抗者という図式が見えにくくなっているとは思うが。

村上文学はハーレークイーンロマンス

村上春樹の小説が、世界的に多くの読者を獲得していることを認めないわけにはいかない。が、その現象は、「ハーレークイーンロマンス」が世界的に支持されていた現象と差異がないように思える。「ハーレークイーンロマンス」は定型に近い筋書きがあり、読者が期待する結末で終わる。一方の村上文学は、現実と非現実、動物界と人間界、彼岸と此岸、過去と現在の境界は自由に越えられる。両者の文学スタイルはまったく異なっているのだが、どちらも読者の気分に併走するという意味において差異がない。

無意識に依拠する村上の文学方法論は疑問

村上春樹の作品が村上自身の私的体験のイメージ化という一点において、その存在価値は認められる。それが村上文学ならばそれでいい。しかし、「物語を僕が書く、僕の潜在意識。ところが僕の潜在意識をずっと底の方までたどっていくと、集合的な潜在意識と重なってきます。神話と個人の物語は同じではないけれど、その動きは重なる部分が多い」というふうに方法化されると、ちょっとまってほしいといいたくなる。

村上がいう自動記述のような方法で作品ができあがるのかどうか、はなはだ疑問が残る。読み直し、書き直し・・・推敲を重ねるうちに、潜在意識とは別の要素が混入してこないのだろうか。その過程で洗練化された表現は、おそらく集合的潜在意識(「集合的無意識」)とかけ離れたものとなるだろう。