本書は副題「その500年の歩み」とあるように、重商主義から重農主義(ケネー)、古典派経済学(スミス、リカード)、歴史学派、制度学派、新古典派経済学、そしてマルクス主義経済といった経済学について、歴史的、網羅的に解説したもの。たいへんわかりやすく、「新自由主義」に対抗する社会主義再生の道筋を示そうとした書といえる。
「新自由主義」はオーストリア学派(限界効用学派)の一部を継承するもの
いまの日本社会を支配する経済倫理が「新自由主義」と呼ばれる経済学に依っていることは否定しょうがない。それはネオ・リベラリズム、市場原理主義、フリー・マーケット・システムと呼ばれることもある。
この潮流が形成されたのはそう古いことではない。ソ連の崩壊(1991)の直前、欧州を代表する社会民主主義国家イギリスのサッチャー政権(首相在任期間1979-1990)及びケインズ経済の本家本元アメリカのレーガン政権(大統領在任期間1981-1989)においてほぼ同時的に推し進められた。
本書においては、「新自由主義」は、社会主義、社会民主主義に徹底して反対したオーストリア学派(限界効用学派)の流れをくむ思想であり、新古典派の一部を継承するものだと位置づけている。
・・・広くみれば、新古典派ミクロ価格理論にも、社会主義の可能性を容認し擁護する一面を有していた一般的均衡学派や、生産手段の私有制にもとづく資本主義を前提しつつ、労働組合運動を許容して、社会民主主義による福祉国家を志向する一面を有するケンブリッジ学派の伝統を含んでいた。それにもかかわらず、いまや社会主義や社会民主主義に反対していたハイエク的なオーストリア学派の伝統のみが、狭く選びとられて「新自由主義」の理論的基礎とされた傾向が目につく。(P175)
オーストリア学派(限界効用学派)はウィーン学派とも呼ばれ、ウィーン大学教授C・メンガー(1840ー1921)の著書『国民経済学原理』を発端とし、第二世代のE・フォン・ベーム=パヴェㇽク(1851ー1914)、フォン・ヴィーザー(1851ー1926)を経て、第三世代L・E・フォン・ミーゼス(1881ー1973)やF・A・フォン・ハイエク(1890ー1992)へと至る。この学派について本書は以下のように整理している。
・・・まず人間の欲望充足に直接役立つ低次財(消費財)について、同じ財を追加的にえてゆくと、その欲望充足に与える満足度(効用)は低下してゆくとする「限界効用逓減の法則」が前提とされた。その前提からまた、限られた予算制約(所得)のもとで、多様な消費財を選択してゆくと、最終的な支出単位について各財からえられる満足度としての「限界効用均等化の法則」が成り立つさいに、主観的満足度が最大化されるはずであるとみなされた。
経済主体としての各個人がそれぞれに有する財やサービスを手放して、市場で他の消費財と交換し入手してゆくさいの主観的満足度も、こうした限界効用の逓減と均等化の法則にしたがう。そのような個人としての経済主体の所有し供給する財やサービスと、それへの需要としての限界効用をめぐる選択行為をつうじ、消費財の相互交換比率ないし相対価格は体系的に決定される。
こうして消費財についての受給均衡的な価格体系が与えられれば、それらへの生産への貢献度に応じて、高次財(生産財)についても、相対価格が与えられ、帰属してゆく。これが生産財についての交換価値の帰属理論といわれた(P135-136)
ミクロ経済主体の選択行為における限界効用の役割を重視し価格理論を提示展開する「限界効用逓減の法則」や「帰属理論」からは、消費者主権の発想が認められるものの、今日の「新自由主義」とは直結しない。今日の流れを形成したのは、同学派第二世代のベーム=パヴェㇽクが1896年、限界効用学派の観点から、マルクス価値論及び剰余価値論への批判を行ったことからだ。これに続き、第三世代のミーゼスとハイエクが1920ー1930年代にソ連型集権的計画経済の合理的存立可能性をめぐり、社会主義経済計算論争をしかけた。
・・・この学派が新古典派のなかで、とくにマルクス学派との対抗関係を重視し、方法論的個人主義により経済生活の社会的統御に反発する特徴をよく示している。(P139-140)
ハイエクは・・・競争をつうじ各個人主体が言語化されず一般化もされないような「暗黙知」を発見しつつ、新技術、新製品、さらには社会経済上の諸制度や組織を自生的に産みだす作用にあると、強調するようになった(D・ラヴォア(1985)西部忠(1996))。
それは、I・カーズナー(1930-)やラヴォアら、現代オーストリア学派といわれる一連の理論家たちが、市場を知識の発見、イノベーション(技術などの革新)の自主的創出過程とみなし、それによって、ソ連崩壊や新自由主義の意義を説く傾向に継承されている。(P144-145)
「新自由主義」とシカゴ学派
「新自由主義」の経済学は、「1973年以降の資本主義経済のインフレ恐慌、スタグフレーション(物価高騰をともなう不況)としての高失業とインフレの並存、ついで、高度情報技術による資本主義経済の再編過程に支配的潮流となった(P173)」という側面もある。だが、その最大の特徴の一つは、ケインズ経済に従って政策化された「ニューディール政策」に代表される国家による市場への関与を排除するところである。そのことは、ミルトン・フリードマン(1912-2006)の代表的著作『資本主義と自由』に詳しい。フリードマンの主張を大雑把に言えば、市場原理主義であり、経済、文化、社会における国家の排除であり、完全な自己責任主義となる。なお、フリードマンについては後述する。
アメリカ(シカゴ学派)による世界経済支配の完成
本書の導きから今日優勢な「新自由主義」が世界的に経済学及び経済倫理の主流となった根拠を推量すると、人々がソ連崩壊を契機として、自然発生的に社会主義経済を忌避し、「新自由主義」を選び取った結果のように思えなくもない。はたしてそうだろうか。
今日の「新自由主義」は、アメリカの世界経済支配戦略に基づき、周到に進められてきたものだ。アメリカはその経済支配が及ばなかった旧社会主義国家群(南米、ロシア、東欧、アジア)及び福祉政策を重視する西側諸国に対し、CIA等を使って政治的関与を深め、アメリカが主唱する「新自由主義」に基づく経済政策を支持する政権を誕生させてきた。
親米政権誕生後には、経済顧問団を当該国に送り込み、また、IMF等の国際金融機関により経済的支配を強めることにより、「新自由主義」を徹底した。
アメリカが送り込んだ経済顧問や、国際的金融機関の官僚たちはシカゴボーイズと呼ばれた。彼らは「新自由主義」の頭首でシカゴ大学教授ミルトン・フリードマンの下で経済学を学んだシカゴ学派の若き秀才たちだった。アメリカは、南米、アジア、旧社会主義圏、西側福祉国家を「新自由主義化」することに成功し、いまもって世界はその流れの中にある。
アメリカはそのことと並行して、自国における福祉国家的政策を切り捨て、ケインズ型マクロ経済学に基づく国家による市場への関与に係る制度・政策を一掃した。その経緯、詳細については、『ショック・ドクトリン』(ナオミ・クライン著)に詳しい。
日本では、「ロン、ヤス」と呼びあったレーガン米国大統領と親密だった中曽根康弘政権(首相在任期間/1982-1987)の時代の国鉄、電電公社、専売公社の民営化達成を皮切りに、橋本龍太郎政権(首相在任期間/1996‐1998)の時代、「フリー、フェア、グローバル」を標語とした「日本版金融ビッグバン」と呼ばれた金融改革が実行され、続いて小泉純一郎政権(首相在任期間/2001‐2006)の時代の「構造改革」によって「新自由主義」経済政策が定着した。
こう振り返ってみると、「新自由主義」は経済学なのか、それとも資本主義を延命させるイデオロギーなのか――と、その判断に迷うことだろう。筆者はもちろん、後者だと確信しているが。
アメリカは、ソ連(社会主義経済)崩壊後の世界経済支配の経済原理として、「新自由主義」を掲げ実践してきた。その実践の対象は、第一に旧東側及びアジアであり、第二に自国(アメリカ)を含む先進資本主義諸国である。アメリカは前者に対して、剥き出しの資本主義である競争原理、市場原理の経済活動を強要し、労働者大衆が社会主義国家時代に既に享受していたセーフティーナットを簒奪した。後者においても、後期資本主義社会にビルトインされていた社会保障等の福祉制度、労働組合組織といった労働者大衆の既得権を、構造改革、規制緩和の名の下に簒奪していった。その結果が、今日の資本主義先進国における格差拡大、雇用問題、自然荒廃、福祉打切り等となって表れている。
その原動力となったのが、前出のアメリカ・シカゴ大学教授、ミルトン・フリードマンであり、彼の忠実なる学徒、シカゴボーイズである。今日の「新自由主義」をオーストリア学派から現実的に架橋したのは、シカゴ学派にほかならない。本書がシカゴ学派にまったく触れていないことに不満が残る。