旧友のSさん宅にて忘年会。
名酒にたくさんのおいしいごちそうが揃いました。
2017年12月28日木曜日
2017年12月27日水曜日
ますます闇が深まる日馬富士暴行事件
今回の事件について、整理しておこう。
日馬富士暴行事件の問題点を10項目に整理する
筆者は今回の暴行事件について、相撲協会Vs.貴乃花親方という対立構造でとらえるのは問題を見誤ると考える。つまり、どちらかが正義であるともいえないと。
貴乃花親方が暴行事件を公にして相撲協会の暴力体質を暴き、相撲協会を近代化する正義の味方だともいえない。もちろん、隠蔽体質が強く、公益法人の要件を備えていない日本相撲協会の公益財団法人認定は取り消されるべきだとも考える。
メディアは数字を稼げばいいのか
問題はそれだけではない。今回の暴行事件を必要以上に歪めたのは、テレビのワイドショー、スポーツ新聞、週刊誌だと思われる。彼らは、自ら進んで相撲協会サイド、貴乃花サイド双方が仕掛ける情報戦の道具となり下がり、リークを繰り返し、闇を深めた。彼らはそのことにより、視聴率、売上を稼いだ。事業者なのだから稼ぐことは当たり前だと開き直るのかもしれないが、数字を稼ぐためならば何をしてもいいわけではない。メーカーならば製品の品質を保証する義務があるように、情報を商品にするテレビ、新聞、週刊誌には、彼らが提供する情報の品質を保証する義務がある。
リーク情報にとびついて、それを書きなぐるのが仕事なのかといいたい。メディアに必要だったのは、まずもって、相撲界に暴力が根絶されない理由を問うことだった。相撲協会、相撲部屋、親方、力士の実態が明らかにならなければ、今回の問題の本質には迫れないはずだ。
本質に迫れない日本のメディア業
大相撲には表に出てこない側面がある。チケット問題、八百長問題、協会内権力闘争が内在したまま、今回、暴力体質が表面化した。相撲界の問題が表面化したとき、世間は一時的に疑義を向けるが、メディアの追及は常に中途半端であり、問題の根っこには迫らない。
また、前出のとおり、今回被害者側である貴乃花親方が極右思想の持主であり、弟子にその思想を注入しているという悪しき情報も副産物として表面化した。思想・信条並びに信仰は自由なのだから、だれが何を信じようと構わないという見方もあろう。しかし、いま現在の相撲界における部屋制度(のなかの親方と弟子という閉鎖的関係)において、弟子に思想・信条並びに信仰の自由が保障されるとは考えにくい。貴乃花親方に聞くべきは、「(協会の)聴取に応じるか否か」ではなく、彼が自らの思想を弟子に「強要しているか否か」ではないのだろうか。
日馬富士暴行事件の問題点を10項目に整理する
- 相撲界から暴力が一掃されないのは、この業界が相撲部屋という封建遺制を残しているからであり、親方―兄弟子―弟弟子・・・という上下関係を維持した家父長的家制度を残存させているためであること
- 家父長制に貫徹する秩序体系は儒教であって、儒教では近代的法制度よりも、親子関係のような自然的上下関係に規定された倫理的関係が優先されること
- その結果として、親の躾、親方の指導等における上から下への「教育」においては、近代法体系では排除される暴力が容認されること
- 日本的儒教秩序が維持されている相撲部屋に外国人であるモンゴル人が入門したとき、彼らは日本社会に適応するよりも、相撲部屋の秩序に適応することを余儀なくされたこと、その結果、モンゴル人力士は日本人力士よりも純粋培養的に儒教倫理を身に着けてしまっていること
- 今回の暴行事件に限らず、相撲協会は公益法人であるにもかかわらず、事件、問題を公にすることを躊躇し、協会内部で問題解決を図ろうとする傾向が強いこと
- 相撲協会の「危機管理委員会」はあくまでも協会内部の組織であって、協会に不利になるような情報を隠蔽しがちなこと
- 被害者である貴ノ岩の親方である貴乃花は、相撲をスポーツとしてとらえずに、相撲を国体思想に融合させる、極右思想の持主であること。彼はスポーツとイデオロギーを一体化させるナチズムに近い考え方の持ち主であること
- 大相撲は近代スポーツではなく、相撲一座の興行であって、勝負には互助、忖度等(一概に「八百長」ともいえない)があり、スター力士をつくって相撲一座の人気を維持する側面があること
- 相撲に神事の側面を認めるが、それはあくまでも民俗における神事のステージであって、相撲協会が一つの神に仕える神事を代行する役割を太古から担っているとは、歴史的、民俗学的、宗教学的に根拠がないこと
- 江戸期に成立した相撲興行は見世物的要素が強く、相撲取りはアウトサイダーであったこと。相撲が「日本の伝統」と認識されるようになったのは明治維新以降であり、日本帝国主義の補完的イデオロギーである復古的ナショナリズム浸透の役割を担ったこと
相撲協会Vs.貴乃花親方という対立構造は問題を見誤る
貴乃花親方が暴行事件を公にして相撲協会の暴力体質を暴き、相撲協会を近代化する正義の味方だともいえない。もちろん、隠蔽体質が強く、公益法人の要件を備えていない日本相撲協会の公益財団法人認定は取り消されるべきだとも考える。
メディアは数字を稼げばいいのか
問題はそれだけではない。今回の暴行事件を必要以上に歪めたのは、テレビのワイドショー、スポーツ新聞、週刊誌だと思われる。彼らは、自ら進んで相撲協会サイド、貴乃花サイド双方が仕掛ける情報戦の道具となり下がり、リークを繰り返し、闇を深めた。彼らはそのことにより、視聴率、売上を稼いだ。事業者なのだから稼ぐことは当たり前だと開き直るのかもしれないが、数字を稼ぐためならば何をしてもいいわけではない。メーカーならば製品の品質を保証する義務があるように、情報を商品にするテレビ、新聞、週刊誌には、彼らが提供する情報の品質を保証する義務がある。
リーク情報にとびついて、それを書きなぐるのが仕事なのかといいたい。メディアに必要だったのは、まずもって、相撲界に暴力が根絶されない理由を問うことだった。相撲協会、相撲部屋、親方、力士の実態が明らかにならなければ、今回の問題の本質には迫れないはずだ。
本質に迫れない日本のメディア業
大相撲には表に出てこない側面がある。チケット問題、八百長問題、協会内権力闘争が内在したまま、今回、暴力体質が表面化した。相撲界の問題が表面化したとき、世間は一時的に疑義を向けるが、メディアの追及は常に中途半端であり、問題の根っこには迫らない。
また、前出のとおり、今回被害者側である貴乃花親方が極右思想の持主であり、弟子にその思想を注入しているという悪しき情報も副産物として表面化した。思想・信条並びに信仰は自由なのだから、だれが何を信じようと構わないという見方もあろう。しかし、いま現在の相撲界における部屋制度(のなかの親方と弟子という閉鎖的関係)において、弟子に思想・信条並びに信仰の自由が保障されるとは考えにくい。貴乃花親方に聞くべきは、「(協会の)聴取に応じるか否か」ではなく、彼が自らの思想を弟子に「強要しているか否か」ではないのだろうか。
2017年12月20日水曜日
2017年12月19日火曜日
2017年12月17日日曜日
日本サッカー界にとって誠に残念な12月
Jリーグが川崎フロンターレの逆転優勝で終了。それをもって一時期盛り上がりを見せた日本国内のサッカー界だったが、UAEで開催されたクラブワールドカップ(CWC)にアジア王者として出場した浦和が初戦で開催国枠出場のアルジャジーラに0―1で惜敗。さらに本田圭佑が所属するパチューカ(北中米王者)も南米王者のグレミオに負けて3位決定戦に。(※パチューカはアルジャジーラに勝って3位を確保したが、この試合、本田は出場しなかった。本田が出なかったからパチューカが勝ったとはいわないが、皮肉なものである。)
国内では東アジア(日本、韓国、中国、北朝鮮)の王者を決めるE1最終戦で日本代表が韓国代表に1-4という歴史的かつ屈辱的敗北で韓国に優勝をさらわれた。日本サッカー界にとってはなんとも後味の悪い2017年末である。
浦和の惜敗――これがサッカーだ
ACLを苦労して制した浦和が開催国枠のクラブに負けた。もったいない敗退ではあるものの、このパターンは日本開催の大会で何度も繰り返されてきた。昨年の日本開催大会で鹿島が演じた事例が思い浮かぶ。鹿島が欧州王者のレアルマドリードを追い詰めて日本中がわきあがったものだった。冷静に考えれば、サッカーに限らず、スポーツ全般におけるホーム優位の特性が再現されたに過ぎない。逆にいえば遠征先で勝つことの難しさ、アウエーで勝ててこそ、真の実力者といえる。
本田圭佑は本当に輝いたのか
パチューカは初戦(準々決勝)、アフリカ王者のウイダード・カサブランカに延長の末、1-0で辛勝したものの、準決勝で南米王者のグレミオに0-1で負けた。本田は2試合に出場して得点なし。カサブランカ戦ではいい動きを見せた場面もなくはなかったが、得点シーンに絡んだわけではない。続くグレミオ戦、その後半、本田の姿はテレビ画面から消えていた。
仮にこの2試合の本田のパフォーマンスを日本人以外の選手が見せたと仮定したならば、何の話題にもならなかったに違いない。2試合を見た日本人の誰一人覚えていないに違いない。日本人であるわたしたちは日本人選手の本田に注目するが故に、彼が目立ったように錯覚するのである。この2試合をもって、ロシアW杯における日本代表の右サイドを本田に託すという結論を筆者は保留する。
国内組の「実力」の証明
E1最終(韓国)戦は“国内組”日本代表の状況を白日の下に晒した。実力、気力において、韓国との差は明らかだった。引分以上で優勝と日本優位の条件だった。しかも、試合開始早々、PKで先取点をもらった。日本にとってこれ以上ない好条件がそろった展開になるとだれもが信じた。ところが、その後の状況は見てのとおり、高さに弱い日本の守備の弱点をつかれ、簡単に同点に追いつかれると、なすすべのないまま失点を繰りかえし敗退した。
さて、日本代表とはいえ、E1には海外組及び浦和の選手は招集されていない。つまり浦和の西川(GK)、興梠(FW)、槙野(DF)、柏木(MF)といったA代表クラスが招集できなかったというハンディが日本側にはある。けれども、海外組の招集がないのは韓国も同じだから、日韓の国内組代表選手の対決という構図でほぼいいと思う。その結果の日本代表の惨敗であるから、韓国の方が日本より全体のレベルとして上位にあるという結論が引き出せる。
ハリルホジッチの不可解な選手起用
韓国戦、ハリルホジッチ監督に常識では考えられない采配があった。その一つは、植田の右サイドバック(SB)起用である。この起用は韓国戦の前からだった。しかしタイトルのかかった韓国戦まで継続したのは、力のある韓国相手に植田の力量を見極めたかったからだと筆者は推測する。
その植田だが、テレビ解説のY氏が指摘した通り、常に位置取りが高く(相手のDFラインに近づきすぎるため)、攻撃のスペースを自身で消していた。いってみれば、SBとしての基本がなっていなかった。クラブチーム(鹿島)でも経験のないポジションだから、植田を批判するつもりはない。
大雑把にいえば、SBとはスペースに向けてラインに沿ってスピードをつけて駆け上がるポジション。植田のように前に張りすぎれば、SBの基本的機能は喪失する。高さのあるSBがサイドで起点をつくるという役割もなくはないが、ライン近くで、頭で起点をつくるプレーは効率的ではない。その場合は足元だろう。
ではなぜ、ハリルホジッチはそんな植田を使い続けたのか――植田と槙野の選択に係る結論を引き出すためだったのではないか――と筆者は推測する。槙野は先の欧州遠征でセンターバック(CB)として、安定したプレーをした。その槙野は右SBもできる。つまり、代表候補のDFとしてほぼ内定状態にある吉田麻也、及び、この試合でキャプテンを務めた昌子源に次ぐCBの三番手は槙野だと結論付けたかったのだと推測する。もちろん植田がロシアW杯の代表に選出されないと断言できるわけではないが、槙野と植田を比較すれば、槙野のほうが、ユーティリティーが高いとの結論は出た。
二点目は、大量リードされた局面で守備的MFの三竿健斗を交代で投入したこと。この交代は意味不明。理解できない。敢えて邪推するならば、このときすでにハリルホジッチは試合を捨てていたと推測するほかない。若手に経験を積ませた、ということか。いやほかの理由はないのか。
ハリルホジッチの深謀遠慮
因縁の韓国戦での惨敗。当然、ハリルホジッチ監督解任の声は高まる。叩かれて当然の試合内容である。しかし、ハリルホジッチは惨敗を通じて、重要なというか、彼の腹の内で燻っていた「反ハリル派」に対するメッセージを発したかったのではないか、と推測する。それは、「国内組を使え」という一部サッカーコメンテーターの声に対する反撃でもある。
日本のサッカーメディアの代表批判にはパターンがある。「海外組」で負けると、「国内組」を使えという声が高まること。攻撃陣を海外でプレーする選手で固めた試合に無得点で負けると、「Jリーグ得点王の〇〇をなぜ呼ばなかったのか」と。海外で試合に出ていない選手よりも、国内で活躍している選手を使えともいわれる。
このような凡庸な決めつけにも根拠がないことはない。海外クラブと契約しても、ベンチ外やベンチ要員で試合に出ていない選手はコンディションが悪くて当然だし、試合勘もない。だからそのような選手を名前だけで代表に招集することはやめるべきだ。かつて、「海外組」というブランドで代表チームを構成して失敗した代表監督がいたし、「海外組」と日本企業のCM契約を媒介した大手広告代理店からの圧力もあるから、協会が代表監督に圧力をかける。代表監督も職を失いたくないから、協会に忖度する。
さて、韓国戦である。前出のとおり、この試合は必然的に純粋国内組で代表選手を構成せざるを得なかった。国内組の実力を測るには絶好の機会である。そこでの惨敗。反ハリル派は批判の常套句である「国内組を使え」が口に出せない。その逆に、ハリルホジッチにしてみれば、これまで無媒介に「国内組」と叫び続けてきた反ハリル派の強弁を一蹴できる。「負け」をもって、反ハリル派への逆襲を試みたのではないか。
ハリル解任、勢いを増す
このようなハリルの開き直りは、彼の立場をより悪くした。反ハリル派は、ハリルホジッチ解任に向かうほかない。海外組で負ければ、国内組を使えと批判できるが、国内組で負ければ、批判の対象はハリルホジッチ本人に向けられる。反ハリル派にしてみれば、それ以外に批判の材料はないのだから。国内組、Jリーグで活躍した選手を…と強弁したサッカー評論家諸氏は、彼ら自身の論理的破綻を棚に上げ、ハリルホジッチの監督の力量への批判に向かう。かくして、この期に及んでハリル解任が強まることになる。
ハリル解任はハイリスク
ロシアW杯開催まで半年余りのこの時期、代表監督の交代にどれだけの効果が期待できるのか。ハリルホジッチの速い攻撃が日本に合わない、フィジカルの弱い日本人選手にデュアルを求めても仕方がない…などなど、時代遅れの批判がやかましいが、ハリルホジッチの言説はモダンサッカーの基本であって、彼独自のサッカー哲学ではない。世界のサッカー水準を日本代表に求めることは当然である。
問題は、日本サッカーの最大公約数であるJリーグがそこに達していないことである。岡崎や香川がクラブで活躍できるのは、所属するクラブチームのなかで居場所を得ているからである。そのことは、チームに調和した存在であると別言できよう。かれらが日本代表で活躍できないのは、所属するクラブチームの他の選手が彼らの特性を引き出せる力がある一方、日本代表の他の選手からは協力を得られていないからである。日本代表と調和していないからである。サッカーはチーム・スポーツであるから、個の力がいくら強くてもそれだけでは勝てない。フォルランが入団したセレッソ大阪やポドルスキが入団したヴィッセル神戸が即優勝できなかったように。
その反対に、居場所を得れば無名の選手が才能を開花させることもある。Jリーグで並の評価の選手が海外で億単位の報酬を得る選手に成長する可能性もある。だから、歴代の外国人日本代表監督のだれもが、Jの選手に海外移籍を勧めてきたのだと思う。
弱い国内組は日本サッカー界の歪みの投影
監督交代は劇薬に等しい。それを契機としてチームが再生することもあるし、より悪化して死に至ることもある。代表チームの場合、どちらかというと、後者のケースの方が多いように思う。国内組の実力とやらは、韓国戦の惨敗で明白になった。この惨敗はハリルホジッチだけの責任ではない。Jリーグのぬるま湯的環境、国内選手の臆病さ、フィジカルを求めてこなかった日本のサッカー指導方法、広告代理店主導の代表選手選考、サッカーメディア業界における論理性を欠いた定型化した代表監督批判の横行、そして幾度となく繰り返されたW杯本大会における敗退の責任を取らないサッカー協会の存在などなど・・・が、その原因であり、複合的なのである。だからそれを完治するには時間がかかる。代表監督を解任すれば解決するような安易な問題ではない。
日本サッカーはまるで勢いを失っている
筆者はW杯ロシア大会のアジア予選を日本が突破できたのは、ハリルホジッチの手腕によるものだと確信している。しかし、本大会のグループリーグを突破できるとは思っていない。世界との差は広がっている。
日本代表がロシアW杯グループリーグで敗退した場合、その責任は監督がとることになろう。それは必然である。だがそれだけで終われば、それこそトカゲの尻尾切り。真の反省はなく、新しい代表監督探しが始まり、4年に一度のお祭り騒ぎで日本中が騒然となる。このような意味のない循環を繰り返しても、日本サッカーは強くならない。W杯開催前に敗退の責任のあり方をかわしてもそれこそ無意味だが、進歩だけはしてほしい。日本サッカー界の無意味な循環をどこかで止めなければならない。
国内では東アジア(日本、韓国、中国、北朝鮮)の王者を決めるE1最終戦で日本代表が韓国代表に1-4という歴史的かつ屈辱的敗北で韓国に優勝をさらわれた。日本サッカー界にとってはなんとも後味の悪い2017年末である。
浦和の惜敗――これがサッカーだ
ACLを苦労して制した浦和が開催国枠のクラブに負けた。もったいない敗退ではあるものの、このパターンは日本開催の大会で何度も繰り返されてきた。昨年の日本開催大会で鹿島が演じた事例が思い浮かぶ。鹿島が欧州王者のレアルマドリードを追い詰めて日本中がわきあがったものだった。冷静に考えれば、サッカーに限らず、スポーツ全般におけるホーム優位の特性が再現されたに過ぎない。逆にいえば遠征先で勝つことの難しさ、アウエーで勝ててこそ、真の実力者といえる。
本田圭佑は本当に輝いたのか
パチューカは初戦(準々決勝)、アフリカ王者のウイダード・カサブランカに延長の末、1-0で辛勝したものの、準決勝で南米王者のグレミオに0-1で負けた。本田は2試合に出場して得点なし。カサブランカ戦ではいい動きを見せた場面もなくはなかったが、得点シーンに絡んだわけではない。続くグレミオ戦、その後半、本田の姿はテレビ画面から消えていた。
仮にこの2試合の本田のパフォーマンスを日本人以外の選手が見せたと仮定したならば、何の話題にもならなかったに違いない。2試合を見た日本人の誰一人覚えていないに違いない。日本人であるわたしたちは日本人選手の本田に注目するが故に、彼が目立ったように錯覚するのである。この2試合をもって、ロシアW杯における日本代表の右サイドを本田に託すという結論を筆者は保留する。
国内組の「実力」の証明
E1最終(韓国)戦は“国内組”日本代表の状況を白日の下に晒した。実力、気力において、韓国との差は明らかだった。引分以上で優勝と日本優位の条件だった。しかも、試合開始早々、PKで先取点をもらった。日本にとってこれ以上ない好条件がそろった展開になるとだれもが信じた。ところが、その後の状況は見てのとおり、高さに弱い日本の守備の弱点をつかれ、簡単に同点に追いつかれると、なすすべのないまま失点を繰りかえし敗退した。
さて、日本代表とはいえ、E1には海外組及び浦和の選手は招集されていない。つまり浦和の西川(GK)、興梠(FW)、槙野(DF)、柏木(MF)といったA代表クラスが招集できなかったというハンディが日本側にはある。けれども、海外組の招集がないのは韓国も同じだから、日韓の国内組代表選手の対決という構図でほぼいいと思う。その結果の日本代表の惨敗であるから、韓国の方が日本より全体のレベルとして上位にあるという結論が引き出せる。
ハリルホジッチの不可解な選手起用
韓国戦、ハリルホジッチ監督に常識では考えられない采配があった。その一つは、植田の右サイドバック(SB)起用である。この起用は韓国戦の前からだった。しかしタイトルのかかった韓国戦まで継続したのは、力のある韓国相手に植田の力量を見極めたかったからだと筆者は推測する。
その植田だが、テレビ解説のY氏が指摘した通り、常に位置取りが高く(相手のDFラインに近づきすぎるため)、攻撃のスペースを自身で消していた。いってみれば、SBとしての基本がなっていなかった。クラブチーム(鹿島)でも経験のないポジションだから、植田を批判するつもりはない。
大雑把にいえば、SBとはスペースに向けてラインに沿ってスピードをつけて駆け上がるポジション。植田のように前に張りすぎれば、SBの基本的機能は喪失する。高さのあるSBがサイドで起点をつくるという役割もなくはないが、ライン近くで、頭で起点をつくるプレーは効率的ではない。その場合は足元だろう。
ではなぜ、ハリルホジッチはそんな植田を使い続けたのか――植田と槙野の選択に係る結論を引き出すためだったのではないか――と筆者は推測する。槙野は先の欧州遠征でセンターバック(CB)として、安定したプレーをした。その槙野は右SBもできる。つまり、代表候補のDFとしてほぼ内定状態にある吉田麻也、及び、この試合でキャプテンを務めた昌子源に次ぐCBの三番手は槙野だと結論付けたかったのだと推測する。もちろん植田がロシアW杯の代表に選出されないと断言できるわけではないが、槙野と植田を比較すれば、槙野のほうが、ユーティリティーが高いとの結論は出た。
二点目は、大量リードされた局面で守備的MFの三竿健斗を交代で投入したこと。この交代は意味不明。理解できない。敢えて邪推するならば、このときすでにハリルホジッチは試合を捨てていたと推測するほかない。若手に経験を積ませた、ということか。いやほかの理由はないのか。
ハリルホジッチの深謀遠慮
因縁の韓国戦での惨敗。当然、ハリルホジッチ監督解任の声は高まる。叩かれて当然の試合内容である。しかし、ハリルホジッチは惨敗を通じて、重要なというか、彼の腹の内で燻っていた「反ハリル派」に対するメッセージを発したかったのではないか、と推測する。それは、「国内組を使え」という一部サッカーコメンテーターの声に対する反撃でもある。
日本のサッカーメディアの代表批判にはパターンがある。「海外組」で負けると、「国内組」を使えという声が高まること。攻撃陣を海外でプレーする選手で固めた試合に無得点で負けると、「Jリーグ得点王の〇〇をなぜ呼ばなかったのか」と。海外で試合に出ていない選手よりも、国内で活躍している選手を使えともいわれる。
このような凡庸な決めつけにも根拠がないことはない。海外クラブと契約しても、ベンチ外やベンチ要員で試合に出ていない選手はコンディションが悪くて当然だし、試合勘もない。だからそのような選手を名前だけで代表に招集することはやめるべきだ。かつて、「海外組」というブランドで代表チームを構成して失敗した代表監督がいたし、「海外組」と日本企業のCM契約を媒介した大手広告代理店からの圧力もあるから、協会が代表監督に圧力をかける。代表監督も職を失いたくないから、協会に忖度する。
さて、韓国戦である。前出のとおり、この試合は必然的に純粋国内組で代表選手を構成せざるを得なかった。国内組の実力を測るには絶好の機会である。そこでの惨敗。反ハリル派は批判の常套句である「国内組を使え」が口に出せない。その逆に、ハリルホジッチにしてみれば、これまで無媒介に「国内組」と叫び続けてきた反ハリル派の強弁を一蹴できる。「負け」をもって、反ハリル派への逆襲を試みたのではないか。
ハリル解任、勢いを増す
このようなハリルの開き直りは、彼の立場をより悪くした。反ハリル派は、ハリルホジッチ解任に向かうほかない。海外組で負ければ、国内組を使えと批判できるが、国内組で負ければ、批判の対象はハリルホジッチ本人に向けられる。反ハリル派にしてみれば、それ以外に批判の材料はないのだから。国内組、Jリーグで活躍した選手を…と強弁したサッカー評論家諸氏は、彼ら自身の論理的破綻を棚に上げ、ハリルホジッチの監督の力量への批判に向かう。かくして、この期に及んでハリル解任が強まることになる。
ハリル解任はハイリスク
ロシアW杯開催まで半年余りのこの時期、代表監督の交代にどれだけの効果が期待できるのか。ハリルホジッチの速い攻撃が日本に合わない、フィジカルの弱い日本人選手にデュアルを求めても仕方がない…などなど、時代遅れの批判がやかましいが、ハリルホジッチの言説はモダンサッカーの基本であって、彼独自のサッカー哲学ではない。世界のサッカー水準を日本代表に求めることは当然である。
問題は、日本サッカーの最大公約数であるJリーグがそこに達していないことである。岡崎や香川がクラブで活躍できるのは、所属するクラブチームのなかで居場所を得ているからである。そのことは、チームに調和した存在であると別言できよう。かれらが日本代表で活躍できないのは、所属するクラブチームの他の選手が彼らの特性を引き出せる力がある一方、日本代表の他の選手からは協力を得られていないからである。日本代表と調和していないからである。サッカーはチーム・スポーツであるから、個の力がいくら強くてもそれだけでは勝てない。フォルランが入団したセレッソ大阪やポドルスキが入団したヴィッセル神戸が即優勝できなかったように。
その反対に、居場所を得れば無名の選手が才能を開花させることもある。Jリーグで並の評価の選手が海外で億単位の報酬を得る選手に成長する可能性もある。だから、歴代の外国人日本代表監督のだれもが、Jの選手に海外移籍を勧めてきたのだと思う。
弱い国内組は日本サッカー界の歪みの投影
監督交代は劇薬に等しい。それを契機としてチームが再生することもあるし、より悪化して死に至ることもある。代表チームの場合、どちらかというと、後者のケースの方が多いように思う。国内組の実力とやらは、韓国戦の惨敗で明白になった。この惨敗はハリルホジッチだけの責任ではない。Jリーグのぬるま湯的環境、国内選手の臆病さ、フィジカルを求めてこなかった日本のサッカー指導方法、広告代理店主導の代表選手選考、サッカーメディア業界における論理性を欠いた定型化した代表監督批判の横行、そして幾度となく繰り返されたW杯本大会における敗退の責任を取らないサッカー協会の存在などなど・・・が、その原因であり、複合的なのである。だからそれを完治するには時間がかかる。代表監督を解任すれば解決するような安易な問題ではない。
日本サッカーはまるで勢いを失っている
筆者はW杯ロシア大会のアジア予選を日本が突破できたのは、ハリルホジッチの手腕によるものだと確信している。しかし、本大会のグループリーグを突破できるとは思っていない。世界との差は広がっている。
日本代表がロシアW杯グループリーグで敗退した場合、その責任は監督がとることになろう。それは必然である。だがそれだけで終われば、それこそトカゲの尻尾切り。真の反省はなく、新しい代表監督探しが始まり、4年に一度のお祭り騒ぎで日本中が騒然となる。このような意味のない循環を繰り返しても、日本サッカーは強くならない。W杯開催前に敗退の責任のあり方をかわしてもそれこそ無意味だが、進歩だけはしてほしい。日本サッカー界の無意味な循環をどこかで止めなければならない。
2017年12月8日金曜日
2017年12月6日水曜日
日馬富士引退を残念がる倒錯した相撲ファン心理の根拠を探る
世の中を騒がせている日馬富士の暴行傷害事件。警察の書類送検も今週中とされ、起訴が濃厚だというのに、被害者よりも引退した加害者である日馬富士のほうに同情が集まる状況に変わりない。筆者には相撲ファンの心情がまったく理解できなかったのだが、彼らの心情の出どころについて、自分なりに見当がついたので、以下にまとめてみた。
逮捕されなければ「いいひと」
それはただただ、日馬富士が逮捕・拘留されなかったからではないかと。警察がむやみに人を逮捕拘留するのは危険であり、やってはいけないが、今回に限れば、日馬富士が逮捕されていれば、相撲ファン、日馬富士ファンの「引退残念」の勘違いはなかったはずと。
これまで、芸能人、スポーツ選手といった、いわゆる有名人の警察沙汰は珍しくなかった。だが、人々の記憶に残ったそれは薬物関連が大半であろう。薬物関連は証拠隠滅されやすいから、警察が被疑者を逮捕拘留することは当然の措置である。一方で今回のような暴行傷害事件では被疑者に逃亡の可能性がない限り、逮捕拘留しない。(だから今回、日馬富士を逮捕しなかった警察の措置は正しい。しかしながら筆者は敢えて、暴言を吐こうと思う。)
日馬富士が自由に街を闊歩している映像がテレビで放映されるその結果として、人々は日馬富士を被疑者と認識しない。その一方、薬物関連で逮捕拘留された酒井法子、清原和博、ASKAらについては、彼らが容疑者でありながら、すでに「犯罪者」だと認識する。ゆえに彼らに同情する人は少数にとどまる。暴行傷害と覚せい剤取締法違反を比較すれば、前者の方が重罪である。人々は逮捕拘留された者は犯罪者として断罪し、そうでない者には同情を寄せる。日馬富士の引退を残念だと平然と発言する。
テレビがつくりだす日馬富士擁護発言
テレビに出てくる相撲ファンの発言は、テレビ制作側の意図のもとに放映される。無作為に撮影され、放映されたものではない。相撲ファンのなかで、日馬富士の引退を当然だとする者の数と、それを残念がる者の数は統計化されていない。もちろん国民全体の受け止め方は世論調査を待つしかない。
テレビ局にとって相撲人気は捨てがたい。テレビ局は、日馬富士を批判する者の発言を抹殺し、引退残念発言が世間・巷の大勢だと思わせるため、日馬富士擁護発言を放映する。あたかも、それが国民の声のごとくに。
つまり、テレビは逮捕されない人はまだ「いいひと」だと視聴者に印象付け、加えて、日馬富士を擁護するファンの声を選んで放映することで、日馬富士を守りつつ相撲協会の暴力体質を隠蔽する。
テレビが「逮捕=犯罪者」とする、危険な印象操作
筆者は冒頭で、警察がむやみに人を逮捕拘留することは危険だと書いた。さらに、逮捕されただけでその人を犯人、罪人だと認識することも危険だと書いた。さて、このたびの日馬富士暴行傷害事件報道、とりわけテレビのそれを注視すると、日馬富士が「逮捕されないゆえに」、「日馬富士さん」と敬称付きで呼ばれていることがわかった。前出の清原ほか芸能人は、逮捕された時点で、「清原容疑者」と呼ばれた。
このことからわかるように、逮捕=犯人という印象付けを行っているのは実はテレビである。今日、安部政権下においてテレビによる印象操作、洗脳が強まっている。権力はテレビを使って、都合の悪い者を逮捕・長期拘留しようとする。たとえば。森友学園疑惑に関連して、逮捕、長期拘留されている籠池夫妻。彼らは疑惑の渦中にある安部首相夫妻にとって都合が悪い存在である。また、沖縄反基地闘争リーダー山城議長も運動の沈静化を狙った安倍政権により、逮捕・長期拘留されている。どちらも、危険な逮捕及び長期拘留である。
日馬富士暴行事件から見えてくるのは、相撲協会とテレビなどマスメディアの癒着であり、公益財団法人でありながら、隠蔽体質、暴力体質が改善されない相撲協会の姿であり、相撲界の闇であり、報道と人権の関係である。大げさと思うなかれ、このような状況を放置すれば、いずれ自分の首が絞められることになる。
逮捕されなければ「いいひと」
それはただただ、日馬富士が逮捕・拘留されなかったからではないかと。警察がむやみに人を逮捕拘留するのは危険であり、やってはいけないが、今回に限れば、日馬富士が逮捕されていれば、相撲ファン、日馬富士ファンの「引退残念」の勘違いはなかったはずと。
これまで、芸能人、スポーツ選手といった、いわゆる有名人の警察沙汰は珍しくなかった。だが、人々の記憶に残ったそれは薬物関連が大半であろう。薬物関連は証拠隠滅されやすいから、警察が被疑者を逮捕拘留することは当然の措置である。一方で今回のような暴行傷害事件では被疑者に逃亡の可能性がない限り、逮捕拘留しない。(だから今回、日馬富士を逮捕しなかった警察の措置は正しい。しかしながら筆者は敢えて、暴言を吐こうと思う。)
日馬富士が自由に街を闊歩している映像がテレビで放映されるその結果として、人々は日馬富士を被疑者と認識しない。その一方、薬物関連で逮捕拘留された酒井法子、清原和博、ASKAらについては、彼らが容疑者でありながら、すでに「犯罪者」だと認識する。ゆえに彼らに同情する人は少数にとどまる。暴行傷害と覚せい剤取締法違反を比較すれば、前者の方が重罪である。人々は逮捕拘留された者は犯罪者として断罪し、そうでない者には同情を寄せる。日馬富士の引退を残念だと平然と発言する。
テレビがつくりだす日馬富士擁護発言
テレビに出てくる相撲ファンの発言は、テレビ制作側の意図のもとに放映される。無作為に撮影され、放映されたものではない。相撲ファンのなかで、日馬富士の引退を当然だとする者の数と、それを残念がる者の数は統計化されていない。もちろん国民全体の受け止め方は世論調査を待つしかない。
テレビ局にとって相撲人気は捨てがたい。テレビ局は、日馬富士を批判する者の発言を抹殺し、引退残念発言が世間・巷の大勢だと思わせるため、日馬富士擁護発言を放映する。あたかも、それが国民の声のごとくに。
つまり、テレビは逮捕されない人はまだ「いいひと」だと視聴者に印象付け、加えて、日馬富士を擁護するファンの声を選んで放映することで、日馬富士を守りつつ相撲協会の暴力体質を隠蔽する。
テレビが「逮捕=犯罪者」とする、危険な印象操作
筆者は冒頭で、警察がむやみに人を逮捕拘留することは危険だと書いた。さらに、逮捕されただけでその人を犯人、罪人だと認識することも危険だと書いた。さて、このたびの日馬富士暴行傷害事件報道、とりわけテレビのそれを注視すると、日馬富士が「逮捕されないゆえに」、「日馬富士さん」と敬称付きで呼ばれていることがわかった。前出の清原ほか芸能人は、逮捕された時点で、「清原容疑者」と呼ばれた。
山城 博治沖縄平和運動センター議長 |
日馬富士暴行事件から見えてくるのは、相撲協会とテレビなどマスメディアの癒着であり、公益財団法人でありながら、隠蔽体質、暴力体質が改善されない相撲協会の姿であり、相撲界の闇であり、報道と人権の関係である。大げさと思うなかれ、このような状況を放置すれば、いずれ自分の首が絞められることになる。
2017年12月1日金曜日
呆れた相撲協会の「中間報告」ー日馬富士暴行事件ー
日馬富士暴行事件について、相撲協会から「中間報告」(以下「報告」という)が出た。その内容に客観性がない。協会は、被害者側からの聴取がないから「中間」という理屈のようだが、加害者に有利な情報を集めて、日馬富士の暴力はやむを得なかったという印象を一般に与える操作・意図がミエミエである。協会によるこのような印象操作こそ、貴乃花親方が最も恐れていたことだろう。
中間報告は相撲協会による「物語」
「報告」の根本的欠陥は、客観性に乏しいこと。たとえば、事件当日に被害者である貴ノ岩がとったとされる態度、行動についてはすべて、加害者側の一方的・主観的な供述を鵜呑みにしているように思える。別言すれば、日馬富士が暴行に及んだのは、態度の悪い貴ノ岩に対する躾・教育の度が過ぎたことによる、というストーリー性を帯びていることである。この協会側のストーリー性については、日馬富士の引退会見とみごとに同調している。日馬富士は引退会見で、“(態度の悪い)弟弟子(貴ノ岩)に対して、躾・礼儀を教えようとしてそれが度を越し暴行に及んだ”という意味の発言を繰り返していた。しかも会見において、貴ノ岩に対する謝罪は一言もなかった。
協会にとって都合の悪い事実は素通り
それだけではない。「報告」が素通りしている点として、事件のあった集まりが出身高校(鳥取城北高相撲部)の親睦だといわれながら、同校OB以外の出席者として、加害者の日馬富士、白鵬、鶴竜(モンゴル出身3横綱)が同席した理由について、明確にしていない点を挙げておきたい。同校OBは関脇の照ノ富士、被害者の貴ノ岩、石浦の3力士だけである。他の参加者である同校関係者とはどのような人々なのか、筆者には知る由もないが、高校相撲部の集まりに、モンゴル人横綱3力士が同席したのは、OB会にかこつけて、貴ノ岩に何ごとかを知らしめるため――特別な目的があったから――ではないのか。
白鵬、鶴竜、照ノ富士の現役三力士が日馬富士の暴行を止められなかった理由も明らかでない。暴行が一“瞬のできごと”であったとは、常識的に考えにくい。「報告」でも、日馬富士の暴行の手口について、最初は平手、さらにカラオケのリモコン、そして酒瓶(すべって凶行に至らなかったという)へと、エスカレートしている。「報告」では、日馬富士が酒瓶に手がかかったところで白鵬が止めた、としているのだから、酒瓶までは白鵬ほかが、日馬富士の暴力を容認していたことが手に取るようにわかる。
貴乃花親方の徹底抗戦で協会の思惑が瓦解
「日馬富士が、貴ノ岩の素行の悪さを糺し、礼を教えるために手をあげた」という協会の「報告」は繰り返すが、協会の作成した虚構の物語にすぎない。協会は、「日馬富士引退→関係者聴取終了→中間報告→書類送検→検察処分決定→危機管理委員会(最終)報告」をもって幕引きし、初場所(東京興行)を迎えたかったのだと思われる。ところが、貴乃花親方の徹底抗戦で、中間報告は不完全なものとなった。そこで焦って、加害者擁護の一方的「報告」を作文したように思える。
さらに、日馬富士の引退会見会場における、伊勢ケ浜親方及び日馬富士自身の、それこそ礼を失した態度・発言があり、千秋楽から理事会に至るまでの間の白鵬の首をかしげたくなる暴言がたびたびあり、(週刊誌による)白鵬共犯説、モンゴル会による八百長疑惑が噴出しはじめた。
協会側による、お抱え相撲記者等を使っての印象操作は逆効果となり、テレビの良識的コメンテーターからは協会批判が頻発している。協会お抱え相撲記者の摩訶不思議な協会擁護発言はむしろ、一般大衆の協会に対する不信を増幅するに至っている。
テレビは、ナイーブな相撲ファンの〝気持ち”よりも相撲界の〝暴力体質”を批判しろ
カルト的相撲ファン、国技・神事として相撲を神聖視する人々、娯楽として相撲を楽しみたい高齢者、格闘家として力士をリスペクトする格闘技ファン…がいてもいい。そうしたナイーブな相撲ファンが協会、日馬富士を信じ、貴乃花親方を批判するのも構わない。だが、そういう声を背景にして、そこに甘えて、メディアが暴力を許容するならば、おかしなことになる。メディア、とりわけ、テレビ及びスポーツ紙は、「日馬富士問題」で数字をあげている。この問題が長引き、人々が関心を失わないことが彼らの関心事であって、協会の暴力体質批判は二の次三の次ともいえる。
加えて、テレビ及びスポーツ紙は相撲が彼らにとってこれからも優良コンテンツであってほしい、と思っているはずである。だから、熱戦だとファンが信じた取組みが、実は、八百長だったと思われれば、相撲のコンテンツとしての価値は滅減する。相撲が――かつてテレビのドル箱でありながら、社会があれはショーだと悟った瞬間に凋落した――プロレスの歩んだ道を辿ってほしくないと思っているはずである。マスメディアの姿勢が、相撲界を甘やかし、ここまで腐敗させた主因なのである。
中間報告は相撲協会による「物語」
「報告」の根本的欠陥は、客観性に乏しいこと。たとえば、事件当日に被害者である貴ノ岩がとったとされる態度、行動についてはすべて、加害者側の一方的・主観的な供述を鵜呑みにしているように思える。別言すれば、日馬富士が暴行に及んだのは、態度の悪い貴ノ岩に対する躾・教育の度が過ぎたことによる、というストーリー性を帯びていることである。この協会側のストーリー性については、日馬富士の引退会見とみごとに同調している。日馬富士は引退会見で、“(態度の悪い)弟弟子(貴ノ岩)に対して、躾・礼儀を教えようとしてそれが度を越し暴行に及んだ”という意味の発言を繰り返していた。しかも会見において、貴ノ岩に対する謝罪は一言もなかった。
協会にとって都合の悪い事実は素通り
それだけではない。「報告」が素通りしている点として、事件のあった集まりが出身高校(鳥取城北高相撲部)の親睦だといわれながら、同校OB以外の出席者として、加害者の日馬富士、白鵬、鶴竜(モンゴル出身3横綱)が同席した理由について、明確にしていない点を挙げておきたい。同校OBは関脇の照ノ富士、被害者の貴ノ岩、石浦の3力士だけである。他の参加者である同校関係者とはどのような人々なのか、筆者には知る由もないが、高校相撲部の集まりに、モンゴル人横綱3力士が同席したのは、OB会にかこつけて、貴ノ岩に何ごとかを知らしめるため――特別な目的があったから――ではないのか。
白鵬、鶴竜、照ノ富士の現役三力士が日馬富士の暴行を止められなかった理由も明らかでない。暴行が一“瞬のできごと”であったとは、常識的に考えにくい。「報告」でも、日馬富士の暴行の手口について、最初は平手、さらにカラオケのリモコン、そして酒瓶(すべって凶行に至らなかったという)へと、エスカレートしている。「報告」では、日馬富士が酒瓶に手がかかったところで白鵬が止めた、としているのだから、酒瓶までは白鵬ほかが、日馬富士の暴力を容認していたことが手に取るようにわかる。
貴乃花親方の徹底抗戦で協会の思惑が瓦解
「日馬富士が、貴ノ岩の素行の悪さを糺し、礼を教えるために手をあげた」という協会の「報告」は繰り返すが、協会の作成した虚構の物語にすぎない。協会は、「日馬富士引退→関係者聴取終了→中間報告→書類送検→検察処分決定→危機管理委員会(最終)報告」をもって幕引きし、初場所(東京興行)を迎えたかったのだと思われる。ところが、貴乃花親方の徹底抗戦で、中間報告は不完全なものとなった。そこで焦って、加害者擁護の一方的「報告」を作文したように思える。
さらに、日馬富士の引退会見会場における、伊勢ケ浜親方及び日馬富士自身の、それこそ礼を失した態度・発言があり、千秋楽から理事会に至るまでの間の白鵬の首をかしげたくなる暴言がたびたびあり、(週刊誌による)白鵬共犯説、モンゴル会による八百長疑惑が噴出しはじめた。
協会側による、お抱え相撲記者等を使っての印象操作は逆効果となり、テレビの良識的コメンテーターからは協会批判が頻発している。協会お抱え相撲記者の摩訶不思議な協会擁護発言はむしろ、一般大衆の協会に対する不信を増幅するに至っている。
テレビは、ナイーブな相撲ファンの〝気持ち”よりも相撲界の〝暴力体質”を批判しろ
カルト的相撲ファン、国技・神事として相撲を神聖視する人々、娯楽として相撲を楽しみたい高齢者、格闘家として力士をリスペクトする格闘技ファン…がいてもいい。そうしたナイーブな相撲ファンが協会、日馬富士を信じ、貴乃花親方を批判するのも構わない。だが、そういう声を背景にして、そこに甘えて、メディアが暴力を許容するならば、おかしなことになる。メディア、とりわけ、テレビ及びスポーツ紙は、「日馬富士問題」で数字をあげている。この問題が長引き、人々が関心を失わないことが彼らの関心事であって、協会の暴力体質批判は二の次三の次ともいえる。
加えて、テレビ及びスポーツ紙は相撲が彼らにとってこれからも優良コンテンツであってほしい、と思っているはずである。だから、熱戦だとファンが信じた取組みが、実は、八百長だったと思われれば、相撲のコンテンツとしての価値は滅減する。相撲が――かつてテレビのドル箱でありながら、社会があれはショーだと悟った瞬間に凋落した――プロレスの歩んだ道を辿ってほしくないと思っているはずである。マスメディアの姿勢が、相撲界を甘やかし、ここまで腐敗させた主因なのである。
2017年11月29日水曜日
相撲協会とその周辺に巣食う時代遅れの愚者たち
横綱日馬富士暴行事件については、本日(11/29)日馬富士が引退届を提出したことでヤマを越えた。そもそも日馬富士は暴行の事実を認めているのだから、警察の捜査が進み、書類送検をして、それを受けた検察が起訴、不起訴を決める。それだけのことだ。日馬富士が引退したことで、不起訴となる可能性が高まったともいう。
バンザイ・ノーテンキ横綱
事件としては単純にみえる一方、昨日、事件現場となった飲食店で加害者・被害者と同席していた横綱白鵬が警察から、7時間を超える事情聴取を受けた。白鵬の聴取時間が加害者である日馬富士より長かったとは異常だが、白鵬に共同謀議の疑いがかかったと推察すれば、納得できる。日馬富士が貴ノ岩に一方的に暴行を加えたとき、同席していた白鵬が止められなかった理由はない。白鵬が日馬富士の暴行を容認したのではないか、という素朴な疑問が払しょくされていない。
暴行を容認した疑いがあることを知ってか知らずか、白鵬は千秋楽、自らの優勝表彰後に観客に万歳を求めた、観客もそれに応じた、相撲ジャーナリストの杉山某はTVのワイドショーで白鵬を称賛した。狂っているとしかいいようがない。
おバカなのか、それともおバカを装う、公益財団法人日本相撲協会評議員会議長
相撲協会の評議委員会議長である池坊何某は、日馬富士引退についてのコメントを求められて、「残念」を連発した。この人の発言はこれまでも常軌を逸していて、自分が務める公益財団法人の不祥事(暴力事件)について反省する言葉がない。事件を公にした被害者側(貴ノ岩、貴乃花親方)を責めるばかり。池坊何某は暴力事件を協会より先に警察に届けた貴乃花親方に瑕疵があるとして、理事失格だという。困ったものだ。なぜならば、相撲協会には「蒼国来事件」という忌まわしい過去をもっているからだ。この事件のあらましは、蒼国来という中国内モンゴル出身の力士に八百長の疑いがあるという情報(デマ)を信じた協会が、独自調査の結果、蒼国来を解雇処分した。これを不服とした蒼国来側が訴訟を起こし、結果、協会は敗訴、解雇を取り消した。つまり、相撲協会は「冤罪」で蒼国来を処分した過去をもっている。
巷間言われている相撲協会の「調査力」とはしょせんこの程度、とても信用・信頼できるものではない、とこのたびの被害者側(貴ノ岩・貴乃花親方)が思ったとしても不思議はない。協会に事件を上げれば、被害者にとって不利益になる確率は高くなる、と考えるのはむしろ当然、まずは警察と考えて何が悪いのだろうか。
なお余談だが、池坊評議員会議長は、過去(2011年)に財団法人『日本漢字能力検定協会』の理事長を途中解任されたという忌まわしい過去がある。
カルト的相撲ファンの元ロックバンドヴォーカル
池坊何某、カルト的相撲ファンのお化けタレント、杉山某も被害者である貴ノ岩が説明しないのがおかしい、という趣旨のコメントを連発する。このコメントも筆者には理解できない。このたびの事件を、異国で活躍する日本人アスリートに仮構して考えてみよう。ドイツでプレーする日本人サッカー選手は14名ほどいる。彼らがオフタイム、「日本人会」と称して食事や酒を飲むため集まったとしよう。その席上、日本人選手の中でもっとも知名度の高い兄貴分の香川真司(ドルトムント)が若手の浅野拓磨(シュツットガルト)に今回と同じような暴行を加えたとしよう。シュツットガルト側が被害届を警察に提出し、捜査段階だと仮定しよう。ドイツのマスメディアがこのような事件をどのように報道するのかは想像できないが、連日連夜、TVが当事者にコメント求めることはない――周辺の者がメディアに不確実情報を流すこともない――と確信する。粛々と警察が捜査し、起訴または不起訴が決まるものと思われるし、社会も粛々とそれを見届けるだろう。
この段階で、被害者である浅野がTVに出てきて事件について語ることは絶対にない。浅野が、香川から一方的に暴行を加えられた状況をTVで語ることはあり得ない。浅野は事件を理解できないし、肉体的と同時に、いやそれ以上に心的に傷を負っているはずだからだ。同郷(日本)の先輩がなぜ、自分に暴力を振るったのだろうかと。
内面の問題にとどまらない。警察が捜査をしている段階で自分が口を開けば、警察捜査にも影響する。事件について具体的にメディアに語ることは捜査妨害にもなる。ドイツの社会が浅野に対し、メディアに出てコメントしろ、と求めることがあるだろうか――筆者は、そのようなことはあり得ないと確信する。浅野がTVに出てきて、「香川にこんなふうに殴られました、そばにいた日本人選手はだれも止めませんでした・・・」と説明することがあるはずがない。
無責任横審委員長に相撲協会御用達「ジャーナリスト」
日本のTVがこの事件を連日取り上げるのは、視聴率が稼げるからだろう。前出のとおり、捜査段階では、被害者・加害者は立場上、表に出られない。協会(及び協会と利害を一致する関係者)は、“事件はなかった、穏便に済ませたかった”から、被害者不利のデマ情報を流しまくる。公益財団法人評議員会議長という公職にある者が、“巷の相撲ファン”なみのコメントで、協会への責任追及を回避させようと誘導する。横審とかいう老人会が自分たちの任命責任を棚に上げて、協会に「厳正な処分」を求める。
こうして見てみると、TVは相撲協会とその関係者に利用されていることがわかる。コメンテーターの中に一人として、相撲協会の暴力体質を批判する者がいないことがそのことの証明となる。だれもが、被害者(貴ノ岩)と加害者(日馬富士)がなにもなかったように、初場所に出場できることを願っているかのようなコメントが平然と電波にのって日本中(いやモンゴルまで)流されていくことをだれも止められない。その代表的存在が、元NHKの相撲中継アナウンサーで、現在「相撲ジャーナリスト」である杉山某であろう。
残念なのは、暴力事件発生の根源に目を向けない相撲協会及び相撲業界
相撲協会は暴力を追放しようと努力してきたという。だがそれこそ残念ながら、その努力は足りなかったのだ。実行犯の日馬富士はもちろんだが、相撲協会こそが責任をとるべきなのだ。評議委員会議長なのか、理事長なのか、日馬富士が所属する部屋の親方なのか、横審委員長なのか、そのすべてなのか――だがここでも誠に残念ながら、いまのところ、ここに挙げたうちのだれもが責任を感じているようには見受けられない。それこそ残念きわまりない。
バンザイ・ノーテンキ横綱
事件としては単純にみえる一方、昨日、事件現場となった飲食店で加害者・被害者と同席していた横綱白鵬が警察から、7時間を超える事情聴取を受けた。白鵬の聴取時間が加害者である日馬富士より長かったとは異常だが、白鵬に共同謀議の疑いがかかったと推察すれば、納得できる。日馬富士が貴ノ岩に一方的に暴行を加えたとき、同席していた白鵬が止められなかった理由はない。白鵬が日馬富士の暴行を容認したのではないか、という素朴な疑問が払しょくされていない。
おバカなのか、それともおバカを装う、公益財団法人日本相撲協会評議員会議長
相撲協会の評議委員会議長である池坊何某は、日馬富士引退についてのコメントを求められて、「残念」を連発した。この人の発言はこれまでも常軌を逸していて、自分が務める公益財団法人の不祥事(暴力事件)について反省する言葉がない。事件を公にした被害者側(貴ノ岩、貴乃花親方)を責めるばかり。池坊何某は暴力事件を協会より先に警察に届けた貴乃花親方に瑕疵があるとして、理事失格だという。困ったものだ。なぜならば、相撲協会には「蒼国来事件」という忌まわしい過去をもっているからだ。この事件のあらましは、蒼国来という中国内モンゴル出身の力士に八百長の疑いがあるという情報(デマ)を信じた協会が、独自調査の結果、蒼国来を解雇処分した。これを不服とした蒼国来側が訴訟を起こし、結果、協会は敗訴、解雇を取り消した。つまり、相撲協会は「冤罪」で蒼国来を処分した過去をもっている。
巷間言われている相撲協会の「調査力」とはしょせんこの程度、とても信用・信頼できるものではない、とこのたびの被害者側(貴ノ岩・貴乃花親方)が思ったとしても不思議はない。協会に事件を上げれば、被害者にとって不利益になる確率は高くなる、と考えるのはむしろ当然、まずは警察と考えて何が悪いのだろうか。
なお余談だが、池坊評議員会議長は、過去(2011年)に財団法人『日本漢字能力検定協会』の理事長を途中解任されたという忌まわしい過去がある。
カルト的相撲ファンの元ロックバンドヴォーカル
池坊何某、カルト的相撲ファンのお化けタレント、杉山某も被害者である貴ノ岩が説明しないのがおかしい、という趣旨のコメントを連発する。このコメントも筆者には理解できない。このたびの事件を、異国で活躍する日本人アスリートに仮構して考えてみよう。ドイツでプレーする日本人サッカー選手は14名ほどいる。彼らがオフタイム、「日本人会」と称して食事や酒を飲むため集まったとしよう。その席上、日本人選手の中でもっとも知名度の高い兄貴分の香川真司(ドルトムント)が若手の浅野拓磨(シュツットガルト)に今回と同じような暴行を加えたとしよう。シュツットガルト側が被害届を警察に提出し、捜査段階だと仮定しよう。ドイツのマスメディアがこのような事件をどのように報道するのかは想像できないが、連日連夜、TVが当事者にコメント求めることはない――周辺の者がメディアに不確実情報を流すこともない――と確信する。粛々と警察が捜査し、起訴または不起訴が決まるものと思われるし、社会も粛々とそれを見届けるだろう。
この段階で、被害者である浅野がTVに出てきて事件について語ることは絶対にない。浅野が、香川から一方的に暴行を加えられた状況をTVで語ることはあり得ない。浅野は事件を理解できないし、肉体的と同時に、いやそれ以上に心的に傷を負っているはずだからだ。同郷(日本)の先輩がなぜ、自分に暴力を振るったのだろうかと。
内面の問題にとどまらない。警察が捜査をしている段階で自分が口を開けば、警察捜査にも影響する。事件について具体的にメディアに語ることは捜査妨害にもなる。ドイツの社会が浅野に対し、メディアに出てコメントしろ、と求めることがあるだろうか――筆者は、そのようなことはあり得ないと確信する。浅野がTVに出てきて、「香川にこんなふうに殴られました、そばにいた日本人選手はだれも止めませんでした・・・」と説明することがあるはずがない。
無責任横審委員長に相撲協会御用達「ジャーナリスト」
日本のTVがこの事件を連日取り上げるのは、視聴率が稼げるからだろう。前出のとおり、捜査段階では、被害者・加害者は立場上、表に出られない。協会(及び協会と利害を一致する関係者)は、“事件はなかった、穏便に済ませたかった”から、被害者不利のデマ情報を流しまくる。公益財団法人評議員会議長という公職にある者が、“巷の相撲ファン”なみのコメントで、協会への責任追及を回避させようと誘導する。横審とかいう老人会が自分たちの任命責任を棚に上げて、協会に「厳正な処分」を求める。
残念なのは、暴力事件発生の根源に目を向けない相撲協会及び相撲業界
相撲協会は暴力を追放しようと努力してきたという。だがそれこそ残念ながら、その努力は足りなかったのだ。実行犯の日馬富士はもちろんだが、相撲協会こそが責任をとるべきなのだ。評議委員会議長なのか、理事長なのか、日馬富士が所属する部屋の親方なのか、横審委員長なのか、そのすべてなのか――だがここでも誠に残念ながら、いまのところ、ここに挙げたうちのだれもが責任を感じているようには見受けられない。それこそ残念きわまりない。
2017年11月21日火曜日
国(内閣府)は相撲協会の公益財団法人認可を取消せ――日馬富士暴行事件
横綱日馬富士の暴行問題に係る報道が混迷している。マスメディアは暴行事件の事実関係を報道するというよりも、それをひたすらわかりにくくしようとしている。どこからか、この事件の本質追及を回避させるような圧力がかかり、それを受けたメディアが謀略に加担している――そのような構図が筆者の目に浮かぶ。
相撲界に残る暴力体質
事件の概要は、酒の席で日馬富士が貴ノ岩に暴行を働いたというもののようだ。いま現在のところ明確なのは、加害者は日馬富士で被害者は貴ノ岩ということ。
暴行はもちろん犯罪になるが、そのすべてが刑事事件になるとは限らない。被害の程度にもよるし、互いの事情もある。たとえばサラリーマンの酒の席の場合、それぞれの立場が働いて、謝罪で済ますことも多いし、ことと次第では示談となる。
本件が一般の暴行事案と異なるのは、それが相撲界で起こったということだ。相撲界では過去に深刻な暴力事件があった。それが是正されなかった。相撲界には暴力を肯定する体質が根強く残っているのではないかと。
マスメディアの報道が本質(相撲界の暴力的体質)を隠蔽
ここまでのところ、本件に係るマスメディアの報道は、▽医師の作成した診断書云々、▽ビール瓶ではなく素手だった云々、▽相撲協会と貴乃花親方との確執云々、▽事件のきっかけとなった貴ノ岩の言動云々・・・と、相撲界の暴力的体質を追求する姿勢は見られない。一見すると、事件の「真相」が追及されているようにみえるが、実際は、真相は藪の中にあるかのように仕向けている。事件が内包する本質的問題(=相撲界の暴力体質)追及を回避させようとする力が働いている。
大相撲はここのところ、人気沸騰中だという。マスメディア、とりわけテレビ、スポーツ新聞にしてみれば、相撲は大切なコンテンツの一つ。ここで相撲協会の怒りを買うような番組をつくれば、今後の取材も困難になる。人気力士のメディア出演も断られる・・・と考えているのかもしれない。そこでメディアは、この事件をあやふやにする情報を繰り返し、相撲界の暴力体質への批判をかわそうという戦略に出た。本件に関する憶測、推測、伝聞、虚偽情報を乱発し、本丸である相撲界の闇に至らせないように謀っている。その結果、前出のような不確実な情報がマスメディアにあふれ出し、相撲界の暴力体質追求はどこかに忘れ去られた。
あやふやな情報の出どころは、相撲協会の意を汲む「関係者」だろう。協会幹部はうかつな発言はできない。協会幹部に代わって、元力士、部屋付き親方、相撲解説者(元相撲記者等)らの出番となる。彼らが聞いたような噂をメディアに流し、煙幕が張られる。
相撲部屋制度が暴力的体質を醸成
相撲界の暴力体質はどこからくるのか。不祥事を重ねながら、なぜ是正できないのか。相撲界が暴力体質を一掃できない主因は、親方を頂点とする相撲部屋制度にある。
相撲に限らず、格闘技の場合、格闘家が一人で技を磨くことは不可能だ。それゆえ、MMAなら「チーム○○」、プロボクシングなら「△△ジム」、空手等では「××館、◇◇道場」に所属することになるが、こうした集団は相撲界の部屋とは根本的に異なる。格闘家がそこで集団生活することはほぼない。相撲以外の格闘家の所属先は練習をする場であって、その集団のトップ(ジムの社長、道場等の館長など)に人格的に支配されることはない。ランキングの低い格闘家はジムや道場に通って練習をし、練習が終わればアルバイトをして自分の生活の糧を得る。例外として、才能を認められた若き格闘家にはスポンサーがつき、スポンサーが生活を支えてくれる(という幸運に恵まれることも稀にある)。相撲以外の格闘家は下積み時代は実社会で働きながら、下積みから這い上がろうとする。一般の人と同様に、自力で社会経験を積む。
一方の力士は、相撲部屋に閉じ込められ、練習(稽古)、礼儀(上下関係)、生計に至るまで、すべてを管理される。相撲界では年端のいかない若者が新弟子として相撲部屋に入門し、相撲部屋という閉鎖空間で生活と稽古(練習)を続ける。実社会と隔離した特殊世界で、同じような経験をした兄弟子、同期、弟弟子としか接しない。そこで培われた特異な倫理観、世界観に支配されて年を重ねる。
相撲部屋を伝統的に支配する暴力はそうした生活環境を基盤にして、力士間に共有される。相撲協会は若い力士に研修を重ね教育を怠らないというが、研修で社会性が身につくはずがない。社会経験のない(少ない)若者に対して“社会とはこんなものです”と教育してなんになる。
相撲部屋の伝統とはすなわち儒教的封建遺制
相撲部屋の伝統とは、別言すれば、封建遺制だ。親方を頂点とする儒教的家族主義だ。それは次のように説明できる。
儒教的家族主義の特徴は、構造としての円錐型、同心円型に広がる権威主義的階層型秩序である。その権威の階層性を創りだすものは「文化」(儒教思想)の体得の度合いである。そして、秩序形成における非法制性と主体の重層性である。秩序形成に関する儒教の有名な言い回しとして「修身・斎家・治国・平天下」がある。そこには各人・家・国・世界とアクターを重層的にとらえ、法や制度の体系ではなく修養、教化による秩序形成がポイントになっている。(天児彗「中国の台頭と対外戦略」、天児彗他編『膨張する中国の対外関係』勁草書房)。
相撲界の部屋制度では、新弟子は一般社会の規範となる法体系ではなく、階層性、すなわち親方を頂点とした上下関係の上位者が得ている修養、教化による秩序形成に従属し、人格形成される。そこでは、番付の上の者や年上の者(円錐形の上位者)による暴力支配が修養、教化の安易な道具として使用される。
日馬富士(横綱という上位者)が貴ノ岩(幕内という下位者)に修養、教化として暴力をふるう余地が十二分にあった。暴行の発端は、テレビによると、酒席で上位者が話しているとき、下位者がスマホをいじったことだ、と報道されている。このことは、相撲界の儒教的体質を明確にあらわしている。しかるに、テレビのコメンテーターが、日馬富士が貴ノ岩に暴力(による教化)を施したことを暗黙裡に容認するような解説をしているのを聞いて、筆者は唖然とした。相撲界(伝統社会)だから仕方がない、といいたげなことに・・・
このたびの暴力事件がモンゴル出身力士の間で起こったことは偶然ではない。モンゴル出身者は、“日本に”というよりも“相撲界=相撲部屋”に順応しなければならなかった。その風習・慣習・不文律にいやがおうでも適応することを求められた。彼らは外国人である。だから、部屋に順応することは、相撲界で成功するための最低限の条件だった。その結果、モンゴル出身力士が純粋培養的に相撲部屋の悪しき風習を忠実に実行する者となり得た。
相撲の勝敗はまさにブラックボックス
相撲は近代スポーツとは異なり、大相撲一座の見世物興行的性格をもっている。プロレスに近いが、相撲の取組みの全てがプロレスのようなショー(八百長)ではないし、筋書きがあるわけでもない。相撲は極めて短い勝負だから、ヒールとハンサムが演じ合うようなストーリー性は成り立たない。
相撲の勝負では、互助、思いやり、忖度が幅を利かしている。たとえば、▽結婚した力士を(祝福して)優勝させる、▽スター性があって将来人気が出そうな力士を勝たせる、▽負け越しが決まる相手には負けてあげる……などなど。
最近では、久々に日本出身の新横綱となったKSが横綱初の場所となった2017年3月場所、13日目に寄り倒された際に左肩を負傷。休場の可能性も囁かれたが、左肩に大きなテーピングをして強行出場。14日目は一方的に寄り切られ、この時点で1敗で並んでいたTFに逆転を許してしまう。千秋楽、KSは左の二の腕が内出血で大きく黒ずむほどけがが悪化している中で、優勝争い単独トップのTFとの直接対決を迎える。優勝決定戦と合わせて二連勝することが必要なKSの優勝はほぼ無いと思われたが、本割で左への変化から最後は突き落としで勝利、決定戦に望みをつなぐ。引き続いての優勝決定戦ではあっさりともろ差しを許して土俵際まで押されたが、体を入れ替えての発逆転の小手投げが決まって勝利し、奇跡的な逆転優勝を決めるという信じがたい相撲があった。その後、そのKSは3場所休場し、休場明けの今場所(11月場所)も負けが続き休場した。あの「逆転・奇跡の優勝」とは何だったのか――その答えは、日本出身横綱に花を持たせるため忖度が働いた、という説明でいいと思う。
相撲の「忖度」を外部の者が明らかにするのは困難だ。だれでもがわかる無気力相撲をとれば別だが、一方が勝負所で少し力を抜いたり、足を滑らしたりしても、外部者が「忖度相撲」だと証明することはまず不可能だ。
その一方、力士は鍛錬された格闘家。常人とは比べることができないパワー、忍耐力をもっている。魅せる要素、タレント性もある。実力がなければ上には上がれない。横綱になるには大変な努力がいる。それはそうなのだが、相撲界は他の近代スポーツのように、実力だけで決る世界ではない。虚と実が混在している世界なのだ。
相撲協会は特異な公益法人
日本相撲協会は公益財団法人だ。しかも、公益法人でありながら、営利的かつ職業的な相撲興行を全国規模で開催している唯一の法人だ。日本国において、暴力体質を内在する興行集団に公益性があるのだろうか。そればかりではない。この暴力集団(相撲協会)に公益法人に求められる透明性があるのだろうか。相撲協会は、このたびの暴行事件について、公益法人として、国民の前にまっとうな説明をしただろうか。怪しげな情報を意図的に流布していないだろうか。
筆者は、相撲協会は始めから、公益法人としての要件を備えていなかったと思っている。このたびの事件の発生から、今日までの協会の動向をみれば、暴力体質が一掃されていないことも、透明性が確保されていないことも、火を見るより明らかではないか。
「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」によれば、公益法人の認定と監督は、独立した合議制機関の答申に基づいて内閣総理大臣又は都道府県知事の権限で行われる。協会の場合は国(内閣府)の認定で、内閣府には7人の民間人委員からなる公益認定等委員会が設置され、同委員会が協会を公益法人とした。ならば、国は速やかに相撲協会の公益財団法人認可を取り消すことが妥当だ、と筆者は思うのだが、いかがであろうか。
相撲界に残る暴力体質
事件の概要は、酒の席で日馬富士が貴ノ岩に暴行を働いたというもののようだ。いま現在のところ明確なのは、加害者は日馬富士で被害者は貴ノ岩ということ。
暴行はもちろん犯罪になるが、そのすべてが刑事事件になるとは限らない。被害の程度にもよるし、互いの事情もある。たとえばサラリーマンの酒の席の場合、それぞれの立場が働いて、謝罪で済ますことも多いし、ことと次第では示談となる。
本件が一般の暴行事案と異なるのは、それが相撲界で起こったということだ。相撲界では過去に深刻な暴力事件があった。それが是正されなかった。相撲界には暴力を肯定する体質が根強く残っているのではないかと。
マスメディアの報道が本質(相撲界の暴力的体質)を隠蔽
ここまでのところ、本件に係るマスメディアの報道は、▽医師の作成した診断書云々、▽ビール瓶ではなく素手だった云々、▽相撲協会と貴乃花親方との確執云々、▽事件のきっかけとなった貴ノ岩の言動云々・・・と、相撲界の暴力的体質を追求する姿勢は見られない。一見すると、事件の「真相」が追及されているようにみえるが、実際は、真相は藪の中にあるかのように仕向けている。事件が内包する本質的問題(=相撲界の暴力体質)追及を回避させようとする力が働いている。
大相撲はここのところ、人気沸騰中だという。マスメディア、とりわけテレビ、スポーツ新聞にしてみれば、相撲は大切なコンテンツの一つ。ここで相撲協会の怒りを買うような番組をつくれば、今後の取材も困難になる。人気力士のメディア出演も断られる・・・と考えているのかもしれない。そこでメディアは、この事件をあやふやにする情報を繰り返し、相撲界の暴力体質への批判をかわそうという戦略に出た。本件に関する憶測、推測、伝聞、虚偽情報を乱発し、本丸である相撲界の闇に至らせないように謀っている。その結果、前出のような不確実な情報がマスメディアにあふれ出し、相撲界の暴力体質追求はどこかに忘れ去られた。
あやふやな情報の出どころは、相撲協会の意を汲む「関係者」だろう。協会幹部はうかつな発言はできない。協会幹部に代わって、元力士、部屋付き親方、相撲解説者(元相撲記者等)らの出番となる。彼らが聞いたような噂をメディアに流し、煙幕が張られる。
相撲部屋制度が暴力的体質を醸成
相撲界の暴力体質はどこからくるのか。不祥事を重ねながら、なぜ是正できないのか。相撲界が暴力体質を一掃できない主因は、親方を頂点とする相撲部屋制度にある。
相撲に限らず、格闘技の場合、格闘家が一人で技を磨くことは不可能だ。それゆえ、MMAなら「チーム○○」、プロボクシングなら「△△ジム」、空手等では「××館、◇◇道場」に所属することになるが、こうした集団は相撲界の部屋とは根本的に異なる。格闘家がそこで集団生活することはほぼない。相撲以外の格闘家の所属先は練習をする場であって、その集団のトップ(ジムの社長、道場等の館長など)に人格的に支配されることはない。ランキングの低い格闘家はジムや道場に通って練習をし、練習が終わればアルバイトをして自分の生活の糧を得る。例外として、才能を認められた若き格闘家にはスポンサーがつき、スポンサーが生活を支えてくれる(という幸運に恵まれることも稀にある)。相撲以外の格闘家は下積み時代は実社会で働きながら、下積みから這い上がろうとする。一般の人と同様に、自力で社会経験を積む。
一方の力士は、相撲部屋に閉じ込められ、練習(稽古)、礼儀(上下関係)、生計に至るまで、すべてを管理される。相撲界では年端のいかない若者が新弟子として相撲部屋に入門し、相撲部屋という閉鎖空間で生活と稽古(練習)を続ける。実社会と隔離した特殊世界で、同じような経験をした兄弟子、同期、弟弟子としか接しない。そこで培われた特異な倫理観、世界観に支配されて年を重ねる。
相撲部屋を伝統的に支配する暴力はそうした生活環境を基盤にして、力士間に共有される。相撲協会は若い力士に研修を重ね教育を怠らないというが、研修で社会性が身につくはずがない。社会経験のない(少ない)若者に対して“社会とはこんなものです”と教育してなんになる。
相撲部屋の伝統とはすなわち儒教的封建遺制
相撲部屋の伝統とは、別言すれば、封建遺制だ。親方を頂点とする儒教的家族主義だ。それは次のように説明できる。
儒教的家族主義の特徴は、構造としての円錐型、同心円型に広がる権威主義的階層型秩序である。その権威の階層性を創りだすものは「文化」(儒教思想)の体得の度合いである。そして、秩序形成における非法制性と主体の重層性である。秩序形成に関する儒教の有名な言い回しとして「修身・斎家・治国・平天下」がある。そこには各人・家・国・世界とアクターを重層的にとらえ、法や制度の体系ではなく修養、教化による秩序形成がポイントになっている。(天児彗「中国の台頭と対外戦略」、天児彗他編『膨張する中国の対外関係』勁草書房)。
相撲界の部屋制度では、新弟子は一般社会の規範となる法体系ではなく、階層性、すなわち親方を頂点とした上下関係の上位者が得ている修養、教化による秩序形成に従属し、人格形成される。そこでは、番付の上の者や年上の者(円錐形の上位者)による暴力支配が修養、教化の安易な道具として使用される。
日馬富士(横綱という上位者)が貴ノ岩(幕内という下位者)に修養、教化として暴力をふるう余地が十二分にあった。暴行の発端は、テレビによると、酒席で上位者が話しているとき、下位者がスマホをいじったことだ、と報道されている。このことは、相撲界の儒教的体質を明確にあらわしている。しかるに、テレビのコメンテーターが、日馬富士が貴ノ岩に暴力(による教化)を施したことを暗黙裡に容認するような解説をしているのを聞いて、筆者は唖然とした。相撲界(伝統社会)だから仕方がない、といいたげなことに・・・
このたびの暴力事件がモンゴル出身力士の間で起こったことは偶然ではない。モンゴル出身者は、“日本に”というよりも“相撲界=相撲部屋”に順応しなければならなかった。その風習・慣習・不文律にいやがおうでも適応することを求められた。彼らは外国人である。だから、部屋に順応することは、相撲界で成功するための最低限の条件だった。その結果、モンゴル出身力士が純粋培養的に相撲部屋の悪しき風習を忠実に実行する者となり得た。
相撲の勝敗はまさにブラックボックス
相撲は近代スポーツとは異なり、大相撲一座の見世物興行的性格をもっている。プロレスに近いが、相撲の取組みの全てがプロレスのようなショー(八百長)ではないし、筋書きがあるわけでもない。相撲は極めて短い勝負だから、ヒールとハンサムが演じ合うようなストーリー性は成り立たない。
相撲の勝負では、互助、思いやり、忖度が幅を利かしている。たとえば、▽結婚した力士を(祝福して)優勝させる、▽スター性があって将来人気が出そうな力士を勝たせる、▽負け越しが決まる相手には負けてあげる……などなど。
最近では、久々に日本出身の新横綱となったKSが横綱初の場所となった2017年3月場所、13日目に寄り倒された際に左肩を負傷。休場の可能性も囁かれたが、左肩に大きなテーピングをして強行出場。14日目は一方的に寄り切られ、この時点で1敗で並んでいたTFに逆転を許してしまう。千秋楽、KSは左の二の腕が内出血で大きく黒ずむほどけがが悪化している中で、優勝争い単独トップのTFとの直接対決を迎える。優勝決定戦と合わせて二連勝することが必要なKSの優勝はほぼ無いと思われたが、本割で左への変化から最後は突き落としで勝利、決定戦に望みをつなぐ。引き続いての優勝決定戦ではあっさりともろ差しを許して土俵際まで押されたが、体を入れ替えての発逆転の小手投げが決まって勝利し、奇跡的な逆転優勝を決めるという信じがたい相撲があった。その後、そのKSは3場所休場し、休場明けの今場所(11月場所)も負けが続き休場した。あの「逆転・奇跡の優勝」とは何だったのか――その答えは、日本出身横綱に花を持たせるため忖度が働いた、という説明でいいと思う。
相撲の「忖度」を外部の者が明らかにするのは困難だ。だれでもがわかる無気力相撲をとれば別だが、一方が勝負所で少し力を抜いたり、足を滑らしたりしても、外部者が「忖度相撲」だと証明することはまず不可能だ。
その一方、力士は鍛錬された格闘家。常人とは比べることができないパワー、忍耐力をもっている。魅せる要素、タレント性もある。実力がなければ上には上がれない。横綱になるには大変な努力がいる。それはそうなのだが、相撲界は他の近代スポーツのように、実力だけで決る世界ではない。虚と実が混在している世界なのだ。
相撲協会は特異な公益法人
日本相撲協会は公益財団法人だ。しかも、公益法人でありながら、営利的かつ職業的な相撲興行を全国規模で開催している唯一の法人だ。日本国において、暴力体質を内在する興行集団に公益性があるのだろうか。そればかりではない。この暴力集団(相撲協会)に公益法人に求められる透明性があるのだろうか。相撲協会は、このたびの暴行事件について、公益法人として、国民の前にまっとうな説明をしただろうか。怪しげな情報を意図的に流布していないだろうか。
筆者は、相撲協会は始めから、公益法人としての要件を備えていなかったと思っている。このたびの事件の発生から、今日までの協会の動向をみれば、暴力体質が一掃されていないことも、透明性が確保されていないことも、火を見るより明らかではないか。
「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」によれば、公益法人の認定と監督は、独立した合議制機関の答申に基づいて内閣総理大臣又は都道府県知事の権限で行われる。協会の場合は国(内閣府)の認定で、内閣府には7人の民間人委員からなる公益認定等委員会が設置され、同委員会が協会を公益法人とした。ならば、国は速やかに相撲協会の公益財団法人認可を取り消すことが妥当だ、と筆者は思うのだが、いかがであろうか。
2017年11月17日金曜日
ハリルホジッチを支持する
サッカー日本代表による欧州遠征は0勝2敗で終わった。相手はブラジル(1-3)とベルギー(0-1)。どちらもFIFAランキング一桁台の強豪だ。スコアからすると、ベルギー戦は惜敗に見えるものの、実力差が点差以上であったことにだれも異論はないはず。ベルギーがフィニッシュの精度を欠いたことが、惜敗(最小失点差敗け)の主因だった。
「主力」不在が敗戦の主因ではない
この遠征結果をもって、ハリルホジッチの手腕を云々してもはじまらない。本田、香川、岡崎といった、いわゆる「主力」を呼ばなかったことが敗因であるわけがない。スポンサーの意向を汲んだ業界内評論家諸氏がハリルホジッチ批判を展開したところで、常識的なサッカーファンならばそれが無意味であることは学習済みだ。香川のスポンサーであり、日本サッカー協会のそれであるA社への忖度は、業界人には意味があろうが、サッカーファンには一切関係ない。
敗因は“実力差”に尽きる。業界内評論家諸氏はこれまで、“日本サッカーは世界レベル”ともちあげてきたものの、このたびの遠征のような試合をみれば、彼らの見解の嘘臭さが明らかになる。ハリルホジッチを批判してベンゲルだ、モウリーニョだ、チッチだ、岡田だ…と叫んでみても、結果は変わらない。
とはいえ、サッカーに限らず、スポーツでは結果(敗戦)がすべて。その責任は監督が負わなければならない。サッカーの監督の仕事の中で最も重要なのが“首を切られること”ともいう。「負け」の責任を選手が負おうとすれば、選手は一人もいなくなってしまうからだ。
実力の差なのだから、といって放置していいわけがない。実力差を認めたうえで、世界の強豪と渉りあうために必要なものは何か。それを追求すること――それが向上につながる。ブラジルと10回試合をして1つ勝つ秘策を練らなければなるまい。「マイアミの奇跡」(1996年アトランタオリンピック・男子サッカーグループリーグD組第1戦において、日本五輪代表がブラジル五輪代表を1対0で下した試合)を忘れてはいない。
日本のW杯の歴史が示すもの
ハリルホジッチは間違っているのだろうか。筆者は、彼がW杯で戦うための原則を心得ている、という意味で評価する。その原則とは、W杯に必要な戦力は、常に新しくなければならない、というものだ。
1998年フランス大会(岡田監督)を見てみよう。前回アメリカ大会はいわゆる「ドーハの悲劇」で予選敗退し、W杯出場を逃した。フランス大会では、それまで主力だった、カズ、北沢豪、ラモスらを代表から外し、GKに川口能活、DFに秋田豊・中西永輔の2ストッパーとスイーパーの井原正巳を起用。両WBは左が相馬直樹、右が名良橋晃。2ボランチの名波浩・山口素弘と司令塔の中田英寿がゲームを組み立て、FWは中山雅史と城彰二の2トップという布陣だった。中山は「ドーハの悲劇」のとき、控え選手だった。試合途中の交代メンバーにはFWの呂比須ワグナーやMFの平野孝が起用された。結果はグループ・リーグ勝点0の最下位で予選敗退。この大会はW杯初体験ということもあり、グループ・リーグ敗退は仕方がない面もある。
2002年日韓大会(トルシエ監督)のW杯は新戦力が躍動し、W杯で成功する方策の一つを示した大会だったといえる。日韓大会のメンバーは、シドニー五輪世代で25歳の中田英寿・松田直樹・宮本恒靖らを中心に据え、22歳の小野伸二・稲本潤一・中田浩二ら「黄金世代」とも呼ばれる1979年度生まれが5人を占めており、若手が多く起用された。長く代表から離れていた中山雅史・秋田豊の両ベテランをサプライズ選出する一方、国内有数のゲームメーカーである中村俊輔を選考外にした。エースストライカーとして期待されていた高原直泰は、4月にエコノミークラス症候群(肺血栓塞栓症)を発症し出場を断念している。23名中フランス大会経験者は8名いたが、活躍したのは若手だった。その結果、グループ・リーグを勝ち抜いてベスト16入りを果たした。自国開催のアドバンテージはあるものの、日本代表がもっとも輝いた大会だったことはまちがいない。
2006年ドイツ大会(ジーコ監督)はどうだったか。メンバーは4年前の日韓大会当時20歳代前半だった選手達が中心となり、平均年齢は27.4歳と、前回よりも2歳ほど増した。23名中11名が2大会連続してメンバー入りし、川口能活・楢崎正剛・小野伸二・中田英寿は3大会連続となった。前回落選した中村俊輔・高原直泰・中澤佑二らが初出場する一方、当確と見られた久保竜彦がコンディション不良により落選し、巻誠一郎がサプライズ選出された。DFレギュラー候補だった田中誠はドイツでの直前合宿中に負傷のため離脱し、休暇中だった茂庭照幸が緊急招集された。初戦はGKに川口能活。DFは坪井慶介・宮本恒靖・中澤佑二の3バック。右WBはレギュラーの加地亮がテストマッチで負傷し、初戦のみ駒野友一が先発。左WBは三都主アレサンドロ。中盤は2ボランチの中田英寿・福西崇史と、司令塔の中村俊輔。FWは高原直泰・柳沢敦の2トップという布陣だった。第2戦と第3戦は4バックへ変更し、MFの小笠原満男・稲本潤一、FWの玉田圭司・巻誠一郎らが先発起用された。結果はグループ・リーグ勝点1で予選敗退。
2010年南アフリカ大会(岡田監督)の主力メンバーは2004年アテネ五輪世代(29歳~27歳)と2008年北京五輪世代(24~22歳)が中心となった。上の年代の黄金世代に比べると国際大会での成績が見劣りするため、「谷間の世代」「谷底の世代」と冷評されていた。ワールドカップを経験している30歳以上の選手も7名おり、ゴールキーパーの川口能活と楢崎正剛は4大会連続選出となった。候補に挙げられていた石川直宏や香川真司が最終登録から漏れる一方、岡田ジャパンでの実績が少ない矢野貴章や、大怪我により半年間実戦から遠ざかっていた川口能活がサプライズ選出された。
フォーメーションは急ごしらえの4-3-3。DFラインの前(バイタルエリア)に3人目の守備的MF(アンカー)阿部勇樹を配置。GKは楢崎正剛に代わり、川島永嗣に。右DFは駒野友一が出場。右MFは中村俊輔に代わり松井大輔。FWは岡崎慎司に代わり本田圭佑(本来はトップ下)。キャプテンはベテラン中澤佑二(32歳)に替えて、長谷部誠(26歳)が新キャプテンに。ベテランW杯経験者が多く選出されたが、攻撃陣で輝いたのは本田圭佑、遠藤保仁であった。特筆すべきはDFの中沢祐二と闘莉王のCBコンビ。結果は、グループ・リーグを突破しベスト16入り。
2014年(ザッケローニ監督)のブラジル大会は、GK川島永嗣、DF吉田麻也、今野泰幸、長友佑都、内田篤人、MFに山口蛍、長谷部誠、FWに本田圭佑、岡崎慎司、大久保嘉人を主軸とし、攻撃陣では大迫勇也、中盤では遠藤保仁らが交代要員となった。新戦力の台頭はなく、本田に依存したチームで新鮮味はなかった。結果はグループ・リーグ勝点1で敗退。
新戦力の活躍がW杯勝利の絶対条件
W杯の流れを見ると、新しい戦力が台頭し、スターが生まれたときにはベスト16入りを果たしていることがわかる。日韓大会の小野伸二・稲本潤ら、南アフリカ大会の本田、遠藤といった具合だ。その反対に、前回大会の経験者を再招集して新戦力が台頭しない大会は予選敗退している。ジーコ監督、ザッケローニ監督のように、経験者、ベテランを尊重したクラブ型代表チームをビジョンとしたチームづくりは本大会でうまくいっていない。
筆者はハリルホジッチが予選から新戦力を試してきたことを評価する。このことは日本のサッカー風土、なかんずく「日本代表」の監督としては、かなりリスクが高い。前出のように、日本代表のスポンサーからの圧力があり、その意を受けた「サッカー評論家」が批判を繰り返すからだ。このたびのアジア予選オーストラリア戦(8月31日)がその典型だった。ハリルホジッチが本田、岡崎、香川を外し、井手口陽介、乾貴士、浅野拓磨を先発起用したとき、彼らは大反発したが、結果は新戦力が大活躍。井手口、浅野が得点してオーストラリアに完勝。W杯出場を決めた。
本田、香川、岡崎がロシア大会の主軸なら日本は予選敗退確実
ハリルホジッチの次の大仕事は、W杯ロシア大会出場選手の選定だ。選手登録までの間、各国のクラブでだれがどんな活躍をしているのか、そうでないかについてはわからない。ただ繰り返せば、2002年のトルシエは中村俊輔を外し、かつ、フランス大会の主軸を清算してーーまた、2010年の岡田は本田をFWで起用するという奇策に加え、楢橋(GK)、中村俊輔を外して新戦力である川島(GK)、松井を起用、さらに新キャプテンに長谷部を指名してーーいずれも予選リーグ突破に成功した。この大会で本田、長谷部、遠藤、川島が代表の顔となった。
仮にも2018年ロシア大会に本田、香川、岡崎がW杯代表メンバーに登録され、先発起用されるようならば、日本が勝つのは難しい。それは彼らがダメということを意味せず、ただ、新戦力が台頭しなかった、というにすぎない。
「主力」不在が敗戦の主因ではない
この遠征結果をもって、ハリルホジッチの手腕を云々してもはじまらない。本田、香川、岡崎といった、いわゆる「主力」を呼ばなかったことが敗因であるわけがない。スポンサーの意向を汲んだ業界内評論家諸氏がハリルホジッチ批判を展開したところで、常識的なサッカーファンならばそれが無意味であることは学習済みだ。香川のスポンサーであり、日本サッカー協会のそれであるA社への忖度は、業界人には意味があろうが、サッカーファンには一切関係ない。
敗因は“実力差”に尽きる。業界内評論家諸氏はこれまで、“日本サッカーは世界レベル”ともちあげてきたものの、このたびの遠征のような試合をみれば、彼らの見解の嘘臭さが明らかになる。ハリルホジッチを批判してベンゲルだ、モウリーニョだ、チッチだ、岡田だ…と叫んでみても、結果は変わらない。
とはいえ、サッカーに限らず、スポーツでは結果(敗戦)がすべて。その責任は監督が負わなければならない。サッカーの監督の仕事の中で最も重要なのが“首を切られること”ともいう。「負け」の責任を選手が負おうとすれば、選手は一人もいなくなってしまうからだ。
実力の差なのだから、といって放置していいわけがない。実力差を認めたうえで、世界の強豪と渉りあうために必要なものは何か。それを追求すること――それが向上につながる。ブラジルと10回試合をして1つ勝つ秘策を練らなければなるまい。「マイアミの奇跡」(1996年アトランタオリンピック・男子サッカーグループリーグD組第1戦において、日本五輪代表がブラジル五輪代表を1対0で下した試合)を忘れてはいない。
日本のW杯の歴史が示すもの
ハリルホジッチは間違っているのだろうか。筆者は、彼がW杯で戦うための原則を心得ている、という意味で評価する。その原則とは、W杯に必要な戦力は、常に新しくなければならない、というものだ。
1998年フランス大会(岡田監督)を見てみよう。前回アメリカ大会はいわゆる「ドーハの悲劇」で予選敗退し、W杯出場を逃した。フランス大会では、それまで主力だった、カズ、北沢豪、ラモスらを代表から外し、GKに川口能活、DFに秋田豊・中西永輔の2ストッパーとスイーパーの井原正巳を起用。両WBは左が相馬直樹、右が名良橋晃。2ボランチの名波浩・山口素弘と司令塔の中田英寿がゲームを組み立て、FWは中山雅史と城彰二の2トップという布陣だった。中山は「ドーハの悲劇」のとき、控え選手だった。試合途中の交代メンバーにはFWの呂比須ワグナーやMFの平野孝が起用された。結果はグループ・リーグ勝点0の最下位で予選敗退。この大会はW杯初体験ということもあり、グループ・リーグ敗退は仕方がない面もある。
2002年日韓大会(トルシエ監督)のW杯は新戦力が躍動し、W杯で成功する方策の一つを示した大会だったといえる。日韓大会のメンバーは、シドニー五輪世代で25歳の中田英寿・松田直樹・宮本恒靖らを中心に据え、22歳の小野伸二・稲本潤一・中田浩二ら「黄金世代」とも呼ばれる1979年度生まれが5人を占めており、若手が多く起用された。長く代表から離れていた中山雅史・秋田豊の両ベテランをサプライズ選出する一方、国内有数のゲームメーカーである中村俊輔を選考外にした。エースストライカーとして期待されていた高原直泰は、4月にエコノミークラス症候群(肺血栓塞栓症)を発症し出場を断念している。23名中フランス大会経験者は8名いたが、活躍したのは若手だった。その結果、グループ・リーグを勝ち抜いてベスト16入りを果たした。自国開催のアドバンテージはあるものの、日本代表がもっとも輝いた大会だったことはまちがいない。
2006年ドイツ大会(ジーコ監督)はどうだったか。メンバーは4年前の日韓大会当時20歳代前半だった選手達が中心となり、平均年齢は27.4歳と、前回よりも2歳ほど増した。23名中11名が2大会連続してメンバー入りし、川口能活・楢崎正剛・小野伸二・中田英寿は3大会連続となった。前回落選した中村俊輔・高原直泰・中澤佑二らが初出場する一方、当確と見られた久保竜彦がコンディション不良により落選し、巻誠一郎がサプライズ選出された。DFレギュラー候補だった田中誠はドイツでの直前合宿中に負傷のため離脱し、休暇中だった茂庭照幸が緊急招集された。初戦はGKに川口能活。DFは坪井慶介・宮本恒靖・中澤佑二の3バック。右WBはレギュラーの加地亮がテストマッチで負傷し、初戦のみ駒野友一が先発。左WBは三都主アレサンドロ。中盤は2ボランチの中田英寿・福西崇史と、司令塔の中村俊輔。FWは高原直泰・柳沢敦の2トップという布陣だった。第2戦と第3戦は4バックへ変更し、MFの小笠原満男・稲本潤一、FWの玉田圭司・巻誠一郎らが先発起用された。結果はグループ・リーグ勝点1で予選敗退。
2010年南アフリカ大会(岡田監督)の主力メンバーは2004年アテネ五輪世代(29歳~27歳)と2008年北京五輪世代(24~22歳)が中心となった。上の年代の黄金世代に比べると国際大会での成績が見劣りするため、「谷間の世代」「谷底の世代」と冷評されていた。ワールドカップを経験している30歳以上の選手も7名おり、ゴールキーパーの川口能活と楢崎正剛は4大会連続選出となった。候補に挙げられていた石川直宏や香川真司が最終登録から漏れる一方、岡田ジャパンでの実績が少ない矢野貴章や、大怪我により半年間実戦から遠ざかっていた川口能活がサプライズ選出された。
フォーメーションは急ごしらえの4-3-3。DFラインの前(バイタルエリア)に3人目の守備的MF(アンカー)阿部勇樹を配置。GKは楢崎正剛に代わり、川島永嗣に。右DFは駒野友一が出場。右MFは中村俊輔に代わり松井大輔。FWは岡崎慎司に代わり本田圭佑(本来はトップ下)。キャプテンはベテラン中澤佑二(32歳)に替えて、長谷部誠(26歳)が新キャプテンに。ベテランW杯経験者が多く選出されたが、攻撃陣で輝いたのは本田圭佑、遠藤保仁であった。特筆すべきはDFの中沢祐二と闘莉王のCBコンビ。結果は、グループ・リーグを突破しベスト16入り。
2014年(ザッケローニ監督)のブラジル大会は、GK川島永嗣、DF吉田麻也、今野泰幸、長友佑都、内田篤人、MFに山口蛍、長谷部誠、FWに本田圭佑、岡崎慎司、大久保嘉人を主軸とし、攻撃陣では大迫勇也、中盤では遠藤保仁らが交代要員となった。新戦力の台頭はなく、本田に依存したチームで新鮮味はなかった。結果はグループ・リーグ勝点1で敗退。
新戦力の活躍がW杯勝利の絶対条件
W杯の流れを見ると、新しい戦力が台頭し、スターが生まれたときにはベスト16入りを果たしていることがわかる。日韓大会の小野伸二・稲本潤ら、南アフリカ大会の本田、遠藤といった具合だ。その反対に、前回大会の経験者を再招集して新戦力が台頭しない大会は予選敗退している。ジーコ監督、ザッケローニ監督のように、経験者、ベテランを尊重したクラブ型代表チームをビジョンとしたチームづくりは本大会でうまくいっていない。
筆者はハリルホジッチが予選から新戦力を試してきたことを評価する。このことは日本のサッカー風土、なかんずく「日本代表」の監督としては、かなりリスクが高い。前出のように、日本代表のスポンサーからの圧力があり、その意を受けた「サッカー評論家」が批判を繰り返すからだ。このたびのアジア予選オーストラリア戦(8月31日)がその典型だった。ハリルホジッチが本田、岡崎、香川を外し、井手口陽介、乾貴士、浅野拓磨を先発起用したとき、彼らは大反発したが、結果は新戦力が大活躍。井手口、浅野が得点してオーストラリアに完勝。W杯出場を決めた。
本田、香川、岡崎がロシア大会の主軸なら日本は予選敗退確実
ハリルホジッチの次の大仕事は、W杯ロシア大会出場選手の選定だ。選手登録までの間、各国のクラブでだれがどんな活躍をしているのか、そうでないかについてはわからない。ただ繰り返せば、2002年のトルシエは中村俊輔を外し、かつ、フランス大会の主軸を清算してーーまた、2010年の岡田は本田をFWで起用するという奇策に加え、楢橋(GK)、中村俊輔を外して新戦力である川島(GK)、松井を起用、さらに新キャプテンに長谷部を指名してーーいずれも予選リーグ突破に成功した。この大会で本田、長谷部、遠藤、川島が代表の顔となった。
仮にも2018年ロシア大会に本田、香川、岡崎がW杯代表メンバーに登録され、先発起用されるようならば、日本が勝つのは難しい。それは彼らがダメということを意味せず、ただ、新戦力が台頭しなかった、というにすぎない。
2017年11月5日日曜日
ビアパブ・イシイ、リニューアル・オープン
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