2017年11月21日火曜日

国(内閣府)は相撲協会の公益財団法人認可を取消せ――日馬富士暴行事件

横綱日馬富士の暴行問題に係る報道が混迷している。マスメディアは暴行事件の事実関係を報道するというよりも、それをひたすらわかりにくくしようとしている。どこからか、この事件の本質追及を回避させるような圧力がかかり、それを受けたメディアが謀略に加担している――そのような構図が筆者の目に浮かぶ。

相撲界に残る暴力体質

事件の概要は、酒の席で日馬富士が貴ノ岩に暴行を働いたというもののようだ。いま現在のところ明確なのは、加害者は日馬富士で被害者は貴ノ岩ということ。

暴行はもちろん犯罪になるが、そのすべてが刑事事件になるとは限らない。被害の程度にもよるし、互いの事情もある。たとえばサラリーマンの酒の席の場合、それぞれの立場が働いて、謝罪で済ますことも多いし、ことと次第では示談となる。

本件が一般の暴行事案と異なるのは、それが相撲界で起こったということだ。相撲界では過去に深刻な暴力事件があった。それが是正されなかった。相撲界には暴力を肯定する体質が根強く残っているのではないかと。

マスメディアの報道が本質(相撲界の暴力的体質)を隠蔽

ここまでのところ、本件に係るマスメディアの報道は、▽医師の作成した診断書云々、▽ビール瓶ではなく素手だった云々、▽相撲協会と貴乃花親方との確執云々、▽事件のきっかけとなった貴ノ岩の言動云々・・・と、相撲界の暴力的体質を追求する姿勢は見られない。一見すると、事件の「真相」が追及されているようにみえるが、実際は、真相は藪の中にあるかのように仕向けている。事件が内包する本質的問題(=相撲界の暴力体質)追及を回避させようとする力が働いている。

大相撲はここのところ、人気沸騰中だという。マスメディア、とりわけテレビ、スポーツ新聞にしてみれば、相撲は大切なコンテンツの一つ。ここで相撲協会の怒りを買うような番組をつくれば、今後の取材も困難になる。人気力士のメディア出演も断られる・・・と考えているのかもしれない。そこでメディアは、この事件をあやふやにする情報を繰り返し、相撲界の暴力体質への批判をかわそうという戦略に出た。本件に関する憶測、推測、伝聞、虚偽情報を乱発し、本丸である相撲界の闇に至らせないように謀っている。その結果、前出のような不確実な情報がマスメディアにあふれ出し、相撲界の暴力体質追求はどこかに忘れ去られた。

あやふやな情報の出どころは、相撲協会の意を汲む「関係者」だろう。協会幹部はうかつな発言はできない。協会幹部に代わって、元力士、部屋付き親方、相撲解説者(元相撲記者等)らの出番となる。彼らが聞いたような噂をメディアに流し、煙幕が張られる。

相撲部屋制度が暴力的体質を醸成

相撲界の暴力体質はどこからくるのか。不祥事を重ねながら、なぜ是正できないのか。相撲界が暴力体質を一掃できない主因は、親方を頂点とする相撲部屋制度にある。

相撲に限らず、格闘技の場合、格闘家が一人で技を磨くことは不可能だ。それゆえ、MMAなら「チーム○○」、プロボクシングなら「△△ジム」、空手等では「××館、◇◇道場」に所属することになるが、こうした集団は相撲界の部屋とは根本的に異なる。格闘家がそこで集団生活することはほぼない。相撲以外の格闘家の所属先は練習をする場であって、その集団のトップ(ジムの社長、道場等の館長など)に人格的に支配されることはない。ランキングの低い格闘家はジムや道場に通って練習をし、練習が終わればアルバイトをして自分の生活の糧を得る。例外として、才能を認められた若き格闘家にはスポンサーがつき、スポンサーが生活を支えてくれる(という幸運に恵まれることも稀にある)。相撲以外の格闘家は下積み時代は実社会で働きながら、下積みから這い上がろうとする。一般の人と同様に、自力で社会経験を積む。

一方の力士は、相撲部屋に閉じ込められ、練習(稽古)、礼儀(上下関係)、生計に至るまで、すべてを管理される。相撲界では年端のいかない若者が新弟子として相撲部屋に入門し、相撲部屋という閉鎖空間で生活と稽古(練習)を続ける。実社会と隔離した特殊世界で、同じような経験をした兄弟子、同期、弟弟子としか接しない。そこで培われた特異な倫理観、世界観に支配されて年を重ねる。

相撲部屋を伝統的に支配する暴力はそうした生活環境を基盤にして、力士間に共有される。相撲協会は若い力士に研修を重ね教育を怠らないというが、研修で社会性が身につくはずがない。社会経験のない(少ない)若者に対して“社会とはこんなものです”と教育してなんになる。

相撲部屋の伝統とはすなわち儒教的封建遺制

相撲部屋の伝統とは、別言すれば、封建遺制だ。親方を頂点とする儒教的家族主義だ。それは次のように説明できる。

儒教的家族主義の特徴は、構造としての円錐型、同心円型に広がる権威主義的階層型秩序である。その権威の階層性を創りだすものは「文化」(儒教思想)の体得の度合いである。そして、秩序形成における非法制性と主体の重層性である。秩序形成に関する儒教の有名な言い回しとして「修身・斎家・治国・平天下」がある。そこには各人・家・国・世界とアクターを重層的にとらえ、法や制度の体系ではなく修養、教化による秩序形成がポイントになっている。(天児彗「中国の台頭と対外戦略」、天児彗他編『膨張する中国の対外関係』勁草書房)。

相撲界の部屋制度では、新弟子は一般社会の規範となる法体系ではなく、階層性、すなわち親方を頂点とした上下関係の上位者が得ている修養、教化による秩序形成に従属し、人格形成される。そこでは、番付の上の者や年上の者(円錐形の上位者)による暴力支配が修養、教化の安易な道具として使用される。

日馬富士(横綱という上位者)が貴ノ岩(幕内という下位者)に修養、教化として暴力をふるう余地が十二分にあった。暴行の発端は、テレビによると、酒席で上位者が話しているとき、下位者がスマホをいじったことだ、と報道されている。このことは、相撲界の儒教的体質を明確にあらわしている。しかるに、テレビのコメンテーターが、日馬富士が貴ノ岩に暴力(による教化)を施したことを暗黙裡に容認するような解説をしているのを聞いて、筆者は唖然とした。相撲界(伝統社会)だから仕方がない、といいたげなことに・・・

このたびの暴力事件がモンゴル出身力士の間で起こったことは偶然ではない。モンゴル出身者は、“日本に”というよりも“相撲界=相撲部屋”に順応しなければならなかった。その風習・慣習・不文律にいやがおうでも適応することを求められた。彼らは外国人である。だから、部屋に順応することは、相撲界で成功するための最低限の条件だった。その結果、モンゴル出身力士が純粋培養的に相撲部屋の悪しき風習を忠実に実行する者となり得た。

相撲の勝敗はまさにブラックボックス

相撲は近代スポーツとは異なり、大相撲一座の見世物興行的性格をもっている。プロレスに近いが、相撲の取組みの全てがプロレスのようなショー(八百長)ではないし、筋書きがあるわけでもない。相撲は極めて短い勝負だから、ヒールとハンサムが演じ合うようなストーリー性は成り立たない。

相撲の勝負では、互助、思いやり、忖度が幅を利かしている。たとえば、▽結婚した力士を(祝福して)優勝させる、▽スター性があって将来人気が出そうな力士を勝たせる、▽負け越しが決まる相手には負けてあげる……などなど。

最近では、久々に日本出身の新横綱となったKSが横綱初の場所となった2017年3月場所、13日目に寄り倒された際に左肩を負傷。休場の可能性も囁かれたが、左肩に大きなテーピングをして強行出場。14日目は一方的に寄り切られ、この時点で1敗で並んでいたTFに逆転を許してしまう。千秋楽、KSは左の二の腕が内出血で大きく黒ずむほどけがが悪化している中で、優勝争い単独トップのTFとの直接対決を迎える。優勝決定戦と合わせて二連勝することが必要なKSの優勝はほぼ無いと思われたが、本割で左への変化から最後は突き落としで勝利、決定戦に望みをつなぐ。引き続いての優勝決定戦ではあっさりともろ差しを許して土俵際まで押されたが、体を入れ替えての発逆転の小手投げが決まって勝利し、奇跡的な逆転優勝を決めるという信じがたい相撲があった。その後、そのKSは3場所休場し、休場明けの今場所(11月場所)も負けが続き休場した。あの「逆転・奇跡の優勝」とは何だったのか――その答えは、日本出身横綱に花を持たせるため忖度が働いた、という説明でいいと思う。

相撲の「忖度」を外部の者が明らかにするのは困難だ。だれでもがわかる無気力相撲をとれば別だが、一方が勝負所で少し力を抜いたり、足を滑らしたりしても、外部者が「忖度相撲」だと証明することはまず不可能だ。

その一方、力士は鍛錬された格闘家。常人とは比べることができないパワー、忍耐力をもっている。魅せる要素、タレント性もある。実力がなければ上には上がれない。横綱になるには大変な努力がいる。それはそうなのだが、相撲界は他の近代スポーツのように、実力だけで決る世界ではない。虚と実が混在している世界なのだ。

相撲協会は特異な公益法人

日本相撲協会は公益財団法人だ。しかも、公益法人でありながら、営利的かつ職業的な相撲興行を全国規模で開催している唯一の法人だ。日本国において、暴力体質を内在する興行集団に公益性があるのだろうか。そればかりではない。この暴力集団(相撲協会)に公益法人に求められる透明性があるのだろうか。相撲協会は、このたびの暴行事件について、公益法人として、国民の前にまっとうな説明をしただろうか。怪しげな情報を意図的に流布していないだろうか。

筆者は、相撲協会は始めから、公益法人としての要件を備えていなかったと思っている。このたびの事件の発生から、今日までの協会の動向をみれば、暴力体質が一掃されていないことも、透明性が確保されていないことも、火を見るより明らかではないか。

「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」によれば、公益法人の認定と監督は、独立した合議制機関の答申に基づいて内閣総理大臣又は都道府県知事の権限で行われる。協会の場合は国(内閣府)の認定で、内閣府には7人の民間人委員からなる公益認定等委員会が設置され、同委員会が協会を公益法人とした。ならば、国は速やかに相撲協会の公益財団法人認可を取り消すことが妥当だ、と筆者は思うのだが、いかがであろうか。