2017年11月3日金曜日

破壊工作で潰された日本型人民戦線

人民戦線といえば、1930年代、イギリス、フランス、スペインなどの西欧を中心に結成された、反ファシズム、反帝国主義、反戦主義を掲げた左派による統一戦線結成の運動の総称である。

解散直後についえた日本型人民戦線

2017年総選挙前の日本、「モリカケ問題」で追い詰められた安倍政権を打倒するため、来るべき総選挙に向け、日本共産党主導による日本型人民戦線(=市民共闘・野党連合)が結成されようとしていた。小選挙区制度において、各野党がばらばらで複数の候補者を立てれば、自民党・公明党の組織票に敗退することは明白だった。

日本型人民戦線結成がほぼ煮詰まりつつある状況下、ファシスト・アベによる突然の「国難解散」が宣言されたかと思うや否や、小池百合子による「希望の党」結党宣言があり、前原誠司(当時・民進党代表)により、〈同党解党→希望合流〉が表明された。このことは日本型人民戦線の集大成かと思う間もなく、小池の「排除」発言があり、民進党左派議員は小池新党(「希望の党」)への合流を阻まれた。ここで日本型人民戦線はついえた。

小池百合子の真の顔は極右

第一の問題は、「希望の党」とは何かである。先の東京都知事選(2016/4月)に立候補した小池百合子は、都政改革を掲げて大勝利した。続く都議会選(2017/2月)においても小池が率いる「都民ファースト」と呼ばれる地方政党が大勝利をおさめた。都民はここまで、小池について、ブラックボックス化した東京都及び都議会の改革者だと見做していた。

「改革」という表現はさまざまな意味を持っている。「構造改革」といえば、新自由主義者が信奉する市場万能論と同義である。その「改革」は、社会的セーフティーネットを廃止した弱者切り捨て政策を意味する。「改革」によって市民は守られよりも切り捨てられる。小池の「改革」は新自由主義者のそれであって、市民の生活の安定や福祉を重視するものではない。

都議選までの小池の躍進を支えたのは、マスメディアであった。昨年7月の都知事選の主な候補者は増田寛也(自民・公明推薦)及び鳥越俊太郎(民進・共産ほか推薦)の2人であった。ところが、小池百合子が立候補を表明するや否や、メディアは小池を増田・鳥越と並べて「主な三人の候補者」として扱った。そのときの小池は、無党派からの出馬だった。元自民党衆議院議員で防衛大臣経験者と、政治経験は豊かだが、それならば、他の立候補者の中の一人である山口敏夫も小池と変わらぬ政治キャリアをもっていた。彼は労働大臣経験者なのだから。ところが、山口は泡沫候補としてメディアから完全に無視された。ほんらいならば、無党派で日本の主な政党と関係のない小池も泡沫候補の一人であったはずなのだが、メディア、とりわけTVは、小池を増田・鳥越と並びで扱った。誠に不自然であった。ここで推測できるのは、小池はマスメディアから特別に扱われる存在であり、マスメディアは小池を支持したこと。もちろんマスメディアの背後にはファシスト・アベがいる。

小池の政治信条は反共、日米同盟堅持(対米追従)、改憲、軍事大国化、原発推進(表向きは原発の段階的廃止)、新自由主義(構造改革)であり、ファシスト・アベと変わらない。彼女も日本会議に属していて、日本の極右と親密な関係を築いている。ところが、マスメディアの報道ではそれらのことがらは伏せられ、旧主派と戦う「改革」の旗手とされた。都知事選では自民党東京トップの古老政治家が小池によって血祭りに上げられ、政界引退に追い込まれた。

小池、前原の茶番と野党共闘潰し

小池は仮面の「政治家」であり、かつ相手によって姿を変えるカメレオン。ファシスト・アベが突然、解散に打って出るに当たって、小池による「希望の党」の立ち上げは想定外だっただろうか。マスメディアは想定外だと報道したが、筆者はそれを疑っている。小池の新党立ち上げ、前原の民進党解党宣言は権力側が周到に練り上げた、日本型人民戦線破壊工作だった、と考えている。権力側の魂胆は、共産党主導による野党共闘を阻むことだったと。

当時民進党代表だった前原は同党右派の頭目であり、小池と同じように反共、日米同盟堅持、改憲などを政治信条とする。小池と前原が合意して民進党を解体し、同党左派を排除したのは当然のことであった。前原には共産党と共闘する意志は微塵もない。前原には、希望と民進が合体し強力な野党をつくりあげ、それに共産党、自由党、社民党等の野党が候補者調整をして小選挙区でファシスト・アベ(=自民党・公明党)と戦うシナリオは最初から頭になかった。

彼が同党代表に選出されたときには、民進党解党までは考えていなかったはずだ。だが、ファシスト・アベが解散を宣言したとき、どこからか、民進解党→希望合流のオファーがあったはずだ、と筆者は推測する。前原は自身の本心を表に出す絶好の機会が訪れた、と確信したにちがいない。前原にとって、民進党左派追放は長年未解決の政治課題であり、その追放は、彼にとって政治生命を賭けるに等しいアジェンダだった。

しかし、同党左派の追放の後、前原を受け入れる場所の確保が必要だった。小池の新党立ち上げは、前原にとって渡りに船だった。同時に、このシナリオこそ、日本型人民戦線破壊の権力側の陰謀であり、前原、小池はそのコマにすぎなかったのだが。

小池百合子は野党共闘切り崩しの切り札

前出のとおり、「エセ改革者」小池の役割は「野党共闘」の切り崩しである。その構図は都知事選ですでに成功していた。先の都知事選、野党サイドでは、共産党主導で自民・公明の候補者の対抗馬をだれにするか調整が進められていた。結果、共産がおす宇都宮健児が立候補を取り止め、鳥越俊太郎への候補者一本化が実現した。増田(自公)-鳥越(野党共闘)の一騎打ちとなれば、鳥越が勝利する可能性もなくはなかった。しかし、この対立の構造を吹っ飛ばしたのが小池の立候補であり、メディアの大宣伝であった。結果として、小池が増田と鳥越を大差で破ってしまったことは記憶に新しい。

権力側は、都知事選の構造をそっくり総選挙(小選挙区・比例代表制)に応用し、野党共闘の票を分散化させることに成功した。ただし、小池は投票前、自らの「排除発言」によって有権者からの信頼を失い、都知事選で小池に投票した層(都知事選で投票できなくとも小池に同調した層)の票を自民党と立憲民主党に奪われ敗退した。

小池の敗北はファシスト・アベに有利な展開をもたらせた。今回の総選挙では、都知事選と異なり、希望の党が自民票を奪うことがなかったからである。希望の党の当選者は民進党から合流した候補者が大半を占めた。その結果、野党勢力は民進党の解体、共産党の後退、希望の党の後退と――野党勢力は分散化し、民進党左派によって急きょ結党された立憲民主党の躍進のみにとどまった。その結果として、ファシスト・アベが率いる自民党が解散前の勢力を維持したのだ。

覚えているだろうか、解散前、モリカケ問題でファシスト・アベの支持率は加速度的に落下し、アベ政権は追い詰められていた。ところが、解散を機とした小池と前原の猿芝居によって野党は混乱し、それに乗じてファシスト・アベは、解散前の勢力を維持してしまったのだ。

小池・前原の行動は日本政治史における最大の汚点の一つ

2017年総選挙を機に生じた政治の混乱は、日本政治史における汚点の一つであり、最大級のそれであった。なぜならば、日本型人民戦線の破壊工作があからさまに、白昼堂々、小池百合子と前原誠司という反共政治家によって敢行されたから。前原は党首の立場にありながら、党員の前で臆面もなく嘘をつき仲間を裏切った。小池は「排除」という言辞により左派弾圧をなそうとして失敗し、自ら墓穴を掘った。通常、裏舞台でなされる「裏切り」と「排除」という破廉恥工作が、公衆の面前、メディアの前でなされたことは、日本政治史上初めてのことかもしれない。前原と小池はそのような意味で、日本政治史における最大級の汚点である。

リベラルとは何か

民進党左派から急きょ分離して誕生した立憲民主党は、ファシスト・アベと対決する新たな政治勢力として期待されている。同党は、日本では「リベラル派」と呼ばれるが、この呼称はまったく見当違いの誤用である。リベラリズムは自由主義と訳される。新自由主義(ネオリベラリズム)といえば、経済活動において、諸々の規制を嫌う者をいい、市場原理主義と同義である。理論的指導者として、アメリカ、シカゴ学派の経済学者、ミルトン・フリードマンが代表的存在である。

20世紀末、アメリカの歴史学者、フランシス・フクヤマは、その著書、『歴史の終わり』において、ネオリベラリズムが世界を領導すると説いた。フクヤマはソ連崩壊・東欧の自由化を目の当たりにして、ネオリベラリズムの正当性を確信した。彼はコジェーブによって単純化されたヘーゲル主義を援用しつつ、人間の本質は他者に優越しようとする欲動だと主張し、経済、文化等の領域における自由な競争が世界に平和と繁栄をもたらすと説いた。永遠に平和と繁栄が続く世界――ネオリベラリズムに律せられた世界において、歴史が終わると。(もちろん、フクシマの予言は外れ、世界はそうはならなかったのだが。)

自由主義であるリベラリズムがなぜ、日本においては中道左派をさし示す用語となったのか――筆者の直観では、中道左派がマルクス主義・共産主義と対立する思想として理解されたからだと思う。共産主義は――マルクス主義哲学がそうであるか否かは別として、現実に国家として成立したソ連社会をみれば――全体主義そのものだった。個人崇拝(スターリン)、自由の抑圧、体制批判者は強制収容所送り…そのようなソ連型共産主義と一線を画し、個人の自由を尊ぶ社会民主主義思想を日本ではリベラリズムと呼んだ。

冷戦時代の日本では、アメリカを中心とした西側に属することを望んだ政治勢力を保守と呼び、ソ連東欧に属することを望んだ勢力を革新と呼んだ。そして、その中間的政治勢力――自由を第一義とし、ソ連型社共産主義を嫌いながら、その中で社会主義的政策の実現を望む勢力――がリベラル(派)となった。確かに、ソ連型共産主義の特徴である全体主義を否定することは、自由を尊重することと同義であり、それをリベラリズムと呼んだことは間違いとは言えない。

今回躍進した立憲民主党は、<保守―革新>の冷戦型対立とは位相を異にする。西欧の社会民主主義に近い。ファシスト・アベの国家主義、アメリカ追従主義と対立する自由の尊重は確かにリベラル的ではあるが、前出のとおり、本来のリベラルとは政治的立場を異にする。立憲民主党を「リベラル派」とよぶのはストライクゾーンから外れる。適切な呼称の定着を望みたい。

日本共産党への疑念

一時、日本型人民戦線を領導しかけた「日本共産党」も不思議な政党である。筆者は前原、小池、ファシスト・アベらとは異なる視点から、日本共産党に疑念を抱いている。その第一は、日本共産党は「プロレタリア独裁」を本当に放棄したのかどうか。第二は、党内民主主義が確保されているかどうか――である。前者については、近年の同党の綱領改定において、「社会主義をめざす権力」と書き換えられているようだが、きわめて曖昧な表現である。

後者についても不透明なままで、同党最高権力者及び幹部がどのような経緯・方法で選出されているかが明らかでない。同党の規定では、中央委員会総会にて委員長が選出されるらしいが、中央委員による選挙によるものなのか、それとも互選なのか、わからないまま。中央委員とは何者なのか、党官僚の別名か。日本共産党はまずもって、共産党の名称を外し、プロレタリア独裁を明確に否定することで市民権を得る。

草の根保守に対抗するには「風」頼みではだめ

日本型人民戦線が権力側の破壊工作により頓挫した経緯について、ここまで長々と書いてきたが、しかし、日本型人民戦線に内在した脆弱性もあり、それがミエミエの権力側の工作によってかんたんに崩壊した点も指摘しておかなければなるまい。

選挙後、TVでは選挙運動中の立候補者のさまざまな映像が流された。そこから推察される有権者と投票者の関係は、左派が考えるような敗因の位相ではない。与党の若いイケメン候補者をうっとりした表情で見上げる保守層のご婦人方。立候補者というよりもアイドルを見る目に近い。別な映像もある。TVニュース等でみかける大臣経験者の候補者と親しげに会話する中年男性有権者の嬉々とした表情。普段は偉そうな態度で海外の政治家と渉りあっている政治家が、自分に頭を下げ握手を求めてくる。〇〇大臣と自分の距離は限りなく近い。いや、選挙中では自分の方が「上」なのだ。頼まれたからには、こいつに投票してやってもいい。この感情は、普段「偉い政治家」に対するときに比例して高まる。

メディアに登場する回数の多い与党議員のほうが有利なのだ。選挙に強いといわれる政治家に共通するのは、ジバン、カンバンなんとやらだが、それらは組織、知名度、実績(大臣経験、メディア露出…)と換言できる。二世、三世は地元の名士の一族でもある。広大な屋敷を有し、普段見かけることはない。だがTVではよく見ることができる。なにやら偉そうだ。首相と同等だ、外国の政治家とも懇意だ・・・父親が引退したとき、(多くは)その息子が地盤を引き継ぐ。父親は息子をよろしくとお願いする。有権者の選択肢にその親、息子が属する政党の政策の良し悪しはない。自民党総裁にして総理大臣がモリカケ問題で疑惑をもたれ、かつそれに対する適切な説明を怠っても、憲法違反の安保法制を強行採決しても、有権者に影響を及ぼさない。地域社会の閉ざされた関係(=親密度)が投票行動を決定する。それが日本の選挙なのだ。

立憲民主党が期待されている理由は、いまのところ、地域社会に根を持たず、浮遊する都市民衆がSNS等を通じて、同党の立ち位置に共鳴したからだろう。だがこの現象は、筆者の直観では、一過性にとどまる。同党が自民党(=「草の根保守」)と対抗するには、バーチャルではない、リアルな生活基盤において、地道に支持者をつかむ組織づくりに励む以外にない。