S&Mさん邸にて今年最後の忘年会
2019年12月31日火曜日
2019年12月29日日曜日
年末カラオケ三昧
やま会(カラオケ大会)が開催された。この会は、根津のダイニングバー「なっかーさ」が主催する年末の恒例イベント。
「やま」とは、近くにあるカラオケ居酒屋の店名。
二次会は千駄木のカラオケスナック、ジャンボにて。
「花相撲」はみたくないーU22日本、ジャマイカに爆勝
U-22日本代表 9-0 U-22ジャマイカ代表〔12月28、日トランスコスモススタジアム長崎〕
東京五輪メダル獲得を狙うU-22日本代表が同ジャマイカ代表に大量得点をあげて勝利した。下のカテゴリーでしかも親善試合とはいうものの、代表戦における9点差試合は記憶にない。
ジャマイカは弱すぎた
この結果はもちろん日本が強かったからではなく、相手が弱すぎたから。この試合をもって日本が世界レベルにあると思う人は少数だろう。日本のメディアも結果を淡々と伝えただけで、大騒ぎはしていない。ジャマイカは、▽闘争心、▽技術、▽戦略、▽戦術…がなかった。遠路はるばるやってきて、試合をするモチベーションがなかったのだろう。TV中継のアナ氏の言説によれば、ジャマイカは既に五輪予選で敗退しており、このカテゴリーにおけるチームづくりを始めたばかりだという。筆者の推測にすぎないが、日本の大学選抜より弱いのではないか。
花相撲もしくは咬ませ犬
これは興行であって、強化ではない。いわゆる「花相撲」「咬ませ犬」の範疇に属する。マッチメークする日本サッカー協会にまっとうな強化の意識があれば、もっとましな相手を選んだだろう。
協会は代表スポンサーである飲料メーカーのために、海外チームとマッチメークする必要に迫られた。海外ならヨーロッパ、南米がいいのだが、この地域のリーグ戦はクリスマス休暇もしくはオフシーズンで代表チームを送り出すことが難しい。相手チームが見つからない中、たまたまジャマイカからOKがでたのではないか。
協会及びメディアは詐欺に近い
ここで問題とすべきは第一に、ジャマイカを選んでしまった日本サッカー協会の力量(情報収集力、交渉力、コネクション)のなさ、事なかれ主義だ。第二に、試合前に対戦相手を評価できない(しない?)日本のスポーツメディアのスポンサー第一主義。両者は、安くない代表チケットを購入するナイーブ(うぶ)な代表サポーターを騙しているに等しい。ナイーブな代表サポーターは、相手は「代表」なんだからそれなりの準備をして日本にやって来ると思って当然だ。ところが蓋を開けてみたら、日本の学生選抜より弱いし、闘争心も見せない。日本のゴールラッシュで喜ぶ者もいるのだろうが、本来のスポーツの楽しみ方ではない。このような詐欺に近い興行試合が続けば、代表サポーターもチケットを買わなくなる。親善試合はテレビでいいや、となる。
繰り返すが協会トップ及び代表監督を代えないと・・・
この試合は勝ったが、A代表は先のE1大会決勝で韓国に圧倒された。気力、体力、戦略・戦術で韓国に一蹴された。この試合を境に、森保ジャパンに対する批判が強まった。筆者にしてみれば、批判のタイミングが遅すぎるのだが、それでもここにきて、メディアもサポーターもやっとのこと、森保の代表監督としての力量に不安を覚えてきた。そしてこのたびの、U22における犯罪的花相撲だ。協会の強化プランの底の浅さが露呈している。日本の代表サッカーが悪い方、悪い方へと流れている。
東京五輪メダル獲得を狙うU-22日本代表が同ジャマイカ代表に大量得点をあげて勝利した。下のカテゴリーでしかも親善試合とはいうものの、代表戦における9点差試合は記憶にない。
ジャマイカは弱すぎた
この結果はもちろん日本が強かったからではなく、相手が弱すぎたから。この試合をもって日本が世界レベルにあると思う人は少数だろう。日本のメディアも結果を淡々と伝えただけで、大騒ぎはしていない。ジャマイカは、▽闘争心、▽技術、▽戦略、▽戦術…がなかった。遠路はるばるやってきて、試合をするモチベーションがなかったのだろう。TV中継のアナ氏の言説によれば、ジャマイカは既に五輪予選で敗退しており、このカテゴリーにおけるチームづくりを始めたばかりだという。筆者の推測にすぎないが、日本の大学選抜より弱いのではないか。
花相撲もしくは咬ませ犬
これは興行であって、強化ではない。いわゆる「花相撲」「咬ませ犬」の範疇に属する。マッチメークする日本サッカー協会にまっとうな強化の意識があれば、もっとましな相手を選んだだろう。
協会は代表スポンサーである飲料メーカーのために、海外チームとマッチメークする必要に迫られた。海外ならヨーロッパ、南米がいいのだが、この地域のリーグ戦はクリスマス休暇もしくはオフシーズンで代表チームを送り出すことが難しい。相手チームが見つからない中、たまたまジャマイカからOKがでたのではないか。
協会及びメディアは詐欺に近い
ここで問題とすべきは第一に、ジャマイカを選んでしまった日本サッカー協会の力量(情報収集力、交渉力、コネクション)のなさ、事なかれ主義だ。第二に、試合前に対戦相手を評価できない(しない?)日本のスポーツメディアのスポンサー第一主義。両者は、安くない代表チケットを購入するナイーブ(うぶ)な代表サポーターを騙しているに等しい。ナイーブな代表サポーターは、相手は「代表」なんだからそれなりの準備をして日本にやって来ると思って当然だ。ところが蓋を開けてみたら、日本の学生選抜より弱いし、闘争心も見せない。日本のゴールラッシュで喜ぶ者もいるのだろうが、本来のスポーツの楽しみ方ではない。このような詐欺に近い興行試合が続けば、代表サポーターもチケットを買わなくなる。親善試合はテレビでいいや、となる。
繰り返すが協会トップ及び代表監督を代えないと・・・
この試合は勝ったが、A代表は先のE1大会決勝で韓国に圧倒された。気力、体力、戦略・戦術で韓国に一蹴された。この試合を境に、森保ジャパンに対する批判が強まった。筆者にしてみれば、批判のタイミングが遅すぎるのだが、それでもここにきて、メディアもサポーターもやっとのこと、森保の代表監督としての力量に不安を覚えてきた。そしてこのたびの、U22における犯罪的花相撲だ。協会の強化プランの底の浅さが露呈している。日本の代表サッカーが悪い方、悪い方へと流れている。
2019年12月20日金曜日
2019年12月19日木曜日
2019年12月18日水曜日
2019年12月12日木曜日
2019年12月7日土曜日
2019年11月30日土曜日
2019年11月22日金曜日
森保更迭まったなし
サッカー日本代表(森保ジャパン)が危ない。森保が監督を兼任するU22日本代表がコロンビアに0-2で完敗(11/17)、W杯アジア2次予選ではアウエーでキリギスに0-2で勝ったものの内容は悪かった(11/14)。次いで日本で行われたベネズエラ戦は1-4の惨敗(11/19)。この試合は、元代表、Jリーガー、A代表控え組で臨んだ試合だったので接戦になると予想されたけれど、これほどの大差になるとは思ってもいなかった。一方、U22代表はA代表にも選手を送りこんでいるベストメンバーで臨んだ試合だっただけに、ショックは大きかった。
仕上げてきた相手には勝てない日本
この3試合に共通しているのは、相手がコンディション調整をして試合に臨んだこと。キリギスはホームだから当然のことだが、遠路はるばる南米から来日した2チームがきっちりと仕上げてきたのには驚いた。コロンビア、ベネズエラとの2試合は、現状の代表の力を計るに誠に適正なテストマッチとなった。
森保批判なしは代表ブランドの低下の証左
直近の日本代表の3試合の結果ならば、マスメディア、代表サポーターから代表監督更迭の大合唱が起きても不思議ではないはずなのだが、反応は鈍い。かつての外国人監督であるハリル、ザック、オシム、ジーコ、トルシエ・・・に向けられた厳しい批判は森保には向けられていない。
なぜなのか――その第一の理由は、日本代表ブランドの低下である。日本のスポーツ業界では、世界大会であるラグビーW杯とプロ野球のプレミア12があって、どちらも日本代表が好成績を上げた。この2大会に比べれば、サッカー日本代表試合とはいえ、親善試合及び格下相手のアジア2次予選への関心は薄くなる。試合があったことを知らなかった「サッカーファン」も多かったと聞く。
森保に魅力なし
このような外在的要因のみならず、森保という人間に魅力がないことが第二の要因である。前出の外国人代表監督にはメディアを通じてだが、日本(人、文化…)とのあいだいに緊張関係があった。彼らが外国人であるため、異文化との遭遇に緊張を強いられた結果だけではない。彼らには、緊張関係を生み出す言葉があった。トルシエの「フラット3」、オシムの「ポリバレント」、ザックの「自分たちのサッカー」、ハリルの「縦に速いサッカー」。ジーコには言葉はなかったけれど、彼の現役時代の実績が緊張感を与えた。
一方、森保はどうだろうか。彼の試合後のインタビューは、Jリーグの試合の後の監督と変わらないほど淡々としていて、面白みがない。世界のサッカーと相渉るために森保はどんなサッカーを目指しているのか。少なくとも筆者には、いまだにそれがわからない。代表選手選考についても森保の描く戦略・戦術から逆規定された結果だとも思えない。調子が良い、ネームバリューがある、得点を上げた…選手がなんとなく代表に呼ばれ、なんとなく試合をして解散していくだけの日本代表チームなのである。
東京五輪の準備はできていない
2019年秋冬は、A代表のスケジュールからみれば閑散期である。しかし、五輪代表にしてみれば来年に五輪を控え、戦術の徹底、メンバーの見極めにおける重要な季節のはず。五輪代表がどんなサッカーをするのか、期待をしていたサッカーファンは少なくなかったはずである。このまま森保が五輪代表とA代表の監督を続けることは危険極まりない。五輪で敗退、A代表でアジア予選落ちという、日本サッカー界、最悪の結果を招くこともあり得る。
森保を批判できないマスメディアと代表サポーター
森保に対する批判が抑制されている別の理由は、マスメディア及び代表サポーターが日本人監督を熱望していたから、という側面を否定できない。自分たちが望んだ日本人監督をおいそれと批判できないとうわけだ。
しかし、日本サッカー協会が日本人監督を選んだのは、協会内の権力闘争の結果にすぎない。これまで日本代表に外国人監督を招聘してきたのは原~霜田のライン。原が先の会長選で田嶋(現会長)に負け、原、霜田は協会を追放された。二人を失った日本サッカー協会には外国人監督を招聘するコネクションを同時に失ってしまった。つまり、森保監督就任は、外国人監督を呼べないから日本人監督という消極的選択にすぎなかった。
日本人サッカー指導者は世界レベルに達していない
日本サッカーが国際的になったことを筆者も認めるが、それは選手レベルであって、指導者(とりわけ監督業)については三流レベルにとどまっていると思っている。たとえばJリーグにおける監督更迭の後任にコーチが就任するケースが多いことに戸惑っている。監督業とコーチ業は全く異なる職業であるはずだが、監督経験のないコーチが即監督に就任する日本サッカーの常識が信じられない。欧州、南米のリーグではほとんどない。
世界の一流リーグで指揮を執った日本人監督は皆無
そればかりではない。選手レベルでは欧州の一流リーグ(イングランド、スペイン、ドイツ、イタリア、フランス)で活躍する選手も見られるようになったが、監督は絶無であり、その実現可能性はもしかしたら半世紀では果たされないように思うほど低い。そのことからみて、日本代表チームにはまだまだ、外国人監督の力が必要なのである。岡田や西野がW杯で実績を上げたという意見もあるかもしれないが、4年間、チームづくりからアジア予選を戦い抜いてベスト16に勝ち上がった監督は日本人、外国人を問わずいない(トルシエは日韓大会代表監督だが予選免除。岡田はオシムの後任の南アフリカ大会代表監督、西野はハリルの後任のロシア大会監督)。
いまなお日本人選手に必要な外国人監督からの外部注入
森保に日本サッカーを世界に導く経験はない。海外の代表と戦術で相渉る力量もない。彼にあって外国人監督にない能力は、日本語力だけである。それがチームの親和性を高めたりチームの相互理解を深めることはあっても、実力は上がらない。いまの日本選手には外国人監督による外部注入を必要としている。
仕上げてきた相手には勝てない日本
この3試合に共通しているのは、相手がコンディション調整をして試合に臨んだこと。キリギスはホームだから当然のことだが、遠路はるばる南米から来日した2チームがきっちりと仕上げてきたのには驚いた。コロンビア、ベネズエラとの2試合は、現状の代表の力を計るに誠に適正なテストマッチとなった。
森保批判なしは代表ブランドの低下の証左
直近の日本代表の3試合の結果ならば、マスメディア、代表サポーターから代表監督更迭の大合唱が起きても不思議ではないはずなのだが、反応は鈍い。かつての外国人監督であるハリル、ザック、オシム、ジーコ、トルシエ・・・に向けられた厳しい批判は森保には向けられていない。
なぜなのか――その第一の理由は、日本代表ブランドの低下である。日本のスポーツ業界では、世界大会であるラグビーW杯とプロ野球のプレミア12があって、どちらも日本代表が好成績を上げた。この2大会に比べれば、サッカー日本代表試合とはいえ、親善試合及び格下相手のアジア2次予選への関心は薄くなる。試合があったことを知らなかった「サッカーファン」も多かったと聞く。
森保に魅力なし
このような外在的要因のみならず、森保という人間に魅力がないことが第二の要因である。前出の外国人代表監督にはメディアを通じてだが、日本(人、文化…)とのあいだいに緊張関係があった。彼らが外国人であるため、異文化との遭遇に緊張を強いられた結果だけではない。彼らには、緊張関係を生み出す言葉があった。トルシエの「フラット3」、オシムの「ポリバレント」、ザックの「自分たちのサッカー」、ハリルの「縦に速いサッカー」。ジーコには言葉はなかったけれど、彼の現役時代の実績が緊張感を与えた。
一方、森保はどうだろうか。彼の試合後のインタビューは、Jリーグの試合の後の監督と変わらないほど淡々としていて、面白みがない。世界のサッカーと相渉るために森保はどんなサッカーを目指しているのか。少なくとも筆者には、いまだにそれがわからない。代表選手選考についても森保の描く戦略・戦術から逆規定された結果だとも思えない。調子が良い、ネームバリューがある、得点を上げた…選手がなんとなく代表に呼ばれ、なんとなく試合をして解散していくだけの日本代表チームなのである。
東京五輪の準備はできていない
2019年秋冬は、A代表のスケジュールからみれば閑散期である。しかし、五輪代表にしてみれば来年に五輪を控え、戦術の徹底、メンバーの見極めにおける重要な季節のはず。五輪代表がどんなサッカーをするのか、期待をしていたサッカーファンは少なくなかったはずである。このまま森保が五輪代表とA代表の監督を続けることは危険極まりない。五輪で敗退、A代表でアジア予選落ちという、日本サッカー界、最悪の結果を招くこともあり得る。
森保を批判できないマスメディアと代表サポーター
森保に対する批判が抑制されている別の理由は、マスメディア及び代表サポーターが日本人監督を熱望していたから、という側面を否定できない。自分たちが望んだ日本人監督をおいそれと批判できないとうわけだ。
しかし、日本サッカー協会が日本人監督を選んだのは、協会内の権力闘争の結果にすぎない。これまで日本代表に外国人監督を招聘してきたのは原~霜田のライン。原が先の会長選で田嶋(現会長)に負け、原、霜田は協会を追放された。二人を失った日本サッカー協会には外国人監督を招聘するコネクションを同時に失ってしまった。つまり、森保監督就任は、外国人監督を呼べないから日本人監督という消極的選択にすぎなかった。
日本人サッカー指導者は世界レベルに達していない
日本サッカーが国際的になったことを筆者も認めるが、それは選手レベルであって、指導者(とりわけ監督業)については三流レベルにとどまっていると思っている。たとえばJリーグにおける監督更迭の後任にコーチが就任するケースが多いことに戸惑っている。監督業とコーチ業は全く異なる職業であるはずだが、監督経験のないコーチが即監督に就任する日本サッカーの常識が信じられない。欧州、南米のリーグではほとんどない。
世界の一流リーグで指揮を執った日本人監督は皆無
そればかりではない。選手レベルでは欧州の一流リーグ(イングランド、スペイン、ドイツ、イタリア、フランス)で活躍する選手も見られるようになったが、監督は絶無であり、その実現可能性はもしかしたら半世紀では果たされないように思うほど低い。そのことからみて、日本代表チームにはまだまだ、外国人監督の力が必要なのである。岡田や西野がW杯で実績を上げたという意見もあるかもしれないが、4年間、チームづくりからアジア予選を戦い抜いてベスト16に勝ち上がった監督は日本人、外国人を問わずいない(トルシエは日韓大会代表監督だが予選免除。岡田はオシムの後任の南アフリカ大会代表監督、西野はハリルの後任のロシア大会監督)。
いまなお日本人選手に必要な外国人監督からの外部注入
森保に日本サッカーを世界に導く経験はない。海外の代表と戦術で相渉る力量もない。彼にあって外国人監督にない能力は、日本語力だけである。それがチームの親和性を高めたりチームの相互理解を深めることはあっても、実力は上がらない。いまの日本選手には外国人監督による外部注入を必要としている。
2019年11月13日水曜日
2019年11月2日土曜日
日本版「FEMA」の可能性
東日本を襲った台風19号の被害状況が今なお報道され続けている。一日も早い復興を祈るばかりである。
治水が王であるための条件
世界4大文明(インダス川、ナイル川、黄河、チグリス・ユーフラテス川)の歴史が示すとおり、河川は氾濫により人々を恐怖に陥れる一方、肥沃な土壌をもたすことで富(農業生産力の向上)を築いた。そのことが、文明発達を促進してきた。国を治めるということは、治水、灌漑、すなわち河川をコントロールすることだった。そのことが為政者、王たるための要件であった。
治水ができない日本の首相
翻って日本の現政権(そのトップ安倍)をみると、河川の氾濫に無策である。このことをもってしても、安倍は為政者トップの資格がない。もちろん、諸々の点で彼は総理大臣である資質に欠けているのだが。
国交省河川局は無為無策
今日、日本の災害対策は崩壊している。大型公共事業を仕切る国交省、とりわけ同省河川局は利権の草刈場と化していて、住民の安全を守るための事業を疎かにしている。気象庁は警報を発するだけ。「命を守る行動を」という呼びかけは間違ってはいないが、具体性がまったくない。災害がふりかかったときの避難方法、および、被災後の救済については市区町村(地方自治体)任せ。国が動くとしたら、自衛隊の派遣にとどまる。市区町村の職員はよくやっていると思うけれど、市区町村レベルのヒト、モノ、カネには限界がある。要するに、災害に対する総合的司令塔の不在、すなわち、災害に対して一貫した対策を取れる組織が日本にはない。
米国におけるFEMAの創設とその失敗
そこで思い出されるのが米国のFEMA (アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)の存在である。FEMAは1974年、カーター大統領により大規模災害に対処するため、連邦政府(大統領)直轄の省庁横断的組織として創設された。その後、ブッシュ政権時代の2003年、国土安全保障省に編入され、2005年の大型ハリケーン、カトリーナの被災に及んでは全く機能せず、今ではその存在は忘れ去られた感がある。
アメリカにおけるFEMAの失敗は、大統領直轄から国土安全保障省への編入という「格下げ」が主因なのか、ほかに原因があるのかについては、研究の余地がある。とはいえ、いまの日本の大規模災害無策状態を脱するため、「日本版FEMA」の創設は有効か、という議論があって然るべきだと思うが、そのような雰囲気はいまの日本にない。その理由は、新自由主義の強い影響化にある日本、すべてが「自己責任」で片付けられるからである。加えて、役所を大きくすることに対する懸念、税金のムダ使いという批判の空気が強まっているからである。
日本では省庁横断的組織は機能しない?
「日本版FEMA」創設に対する懸念の根拠はそればかりではない。日本でも新設の横断的省庁は成功しない事例が多いことである。霞が関に新設される横断的省庁は、各省庁からの出向者で構成される。出向者は本籍の利益を誘導することが行動原理となるため、本来とるべき国民優先の政策が実現しにくい。
災害対策に不向きな霞が関の職員たち
もう一つ、霞ヶ関の職員は秀才揃いだが、かれらは調整力や事務力は高いが、災害現場に出かけて行って汚れ仕事をしたり、臨機応変に物事に対処する能力はなきに等しい。つまり災害現場で力を発揮できるような資質に欠ける者がほとんどである。
さはさりながら、『日本版FEMA」がアメリカで創設された当時のように大統領直轄、日本ならば首相直轄の省庁として創設されるならば、はかりしれないメリットがある。
そのメリットとは、先の台風19号来襲のときのように首相がラグビー観戦するようなことは絶対にできなくなるし、いつぞやのように、豪雨予報が発せられるなか、首相が取り巻きと都内で高級フランス料理を食するようなこともありえなくなる。
前出のとおり、日本版FEMA(緊急事態管理庁)のトップは安倍首相その人なのだから。
治水が王であるための条件
世界4大文明(インダス川、ナイル川、黄河、チグリス・ユーフラテス川)の歴史が示すとおり、河川は氾濫により人々を恐怖に陥れる一方、肥沃な土壌をもたすことで富(農業生産力の向上)を築いた。そのことが、文明発達を促進してきた。国を治めるということは、治水、灌漑、すなわち河川をコントロールすることだった。そのことが為政者、王たるための要件であった。
治水ができない日本の首相
翻って日本の現政権(そのトップ安倍)をみると、河川の氾濫に無策である。このことをもってしても、安倍は為政者トップの資格がない。もちろん、諸々の点で彼は総理大臣である資質に欠けているのだが。
国交省河川局は無為無策
今日、日本の災害対策は崩壊している。大型公共事業を仕切る国交省、とりわけ同省河川局は利権の草刈場と化していて、住民の安全を守るための事業を疎かにしている。気象庁は警報を発するだけ。「命を守る行動を」という呼びかけは間違ってはいないが、具体性がまったくない。災害がふりかかったときの避難方法、および、被災後の救済については市区町村(地方自治体)任せ。国が動くとしたら、自衛隊の派遣にとどまる。市区町村の職員はよくやっていると思うけれど、市区町村レベルのヒト、モノ、カネには限界がある。要するに、災害に対する総合的司令塔の不在、すなわち、災害に対して一貫した対策を取れる組織が日本にはない。
米国におけるFEMAの創設とその失敗
そこで思い出されるのが米国のFEMA (アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)の存在である。FEMAは1974年、カーター大統領により大規模災害に対処するため、連邦政府(大統領)直轄の省庁横断的組織として創設された。その後、ブッシュ政権時代の2003年、国土安全保障省に編入され、2005年の大型ハリケーン、カトリーナの被災に及んでは全く機能せず、今ではその存在は忘れ去られた感がある。
アメリカにおけるFEMAの失敗は、大統領直轄から国土安全保障省への編入という「格下げ」が主因なのか、ほかに原因があるのかについては、研究の余地がある。とはいえ、いまの日本の大規模災害無策状態を脱するため、「日本版FEMA」の創設は有効か、という議論があって然るべきだと思うが、そのような雰囲気はいまの日本にない。その理由は、新自由主義の強い影響化にある日本、すべてが「自己責任」で片付けられるからである。加えて、役所を大きくすることに対する懸念、税金のムダ使いという批判の空気が強まっているからである。
日本では省庁横断的組織は機能しない?
「日本版FEMA」創設に対する懸念の根拠はそればかりではない。日本でも新設の横断的省庁は成功しない事例が多いことである。霞が関に新設される横断的省庁は、各省庁からの出向者で構成される。出向者は本籍の利益を誘導することが行動原理となるため、本来とるべき国民優先の政策が実現しにくい。
災害対策に不向きな霞が関の職員たち
もう一つ、霞ヶ関の職員は秀才揃いだが、かれらは調整力や事務力は高いが、災害現場に出かけて行って汚れ仕事をしたり、臨機応変に物事に対処する能力はなきに等しい。つまり災害現場で力を発揮できるような資質に欠ける者がほとんどである。
さはさりながら、『日本版FEMA」がアメリカで創設された当時のように大統領直轄、日本ならば首相直轄の省庁として創設されるならば、はかりしれないメリットがある。
そのメリットとは、先の台風19号来襲のときのように首相がラグビー観戦するようなことは絶対にできなくなるし、いつぞやのように、豪雨予報が発せられるなか、首相が取り巻きと都内で高級フランス料理を食するようなこともありえなくなる。
前出のとおり、日本版FEMA(緊急事態管理庁)のトップは安倍首相その人なのだから。
2019年11月1日金曜日
首里城焼失
10月31日午前2時41分、世界遺産の首里城跡に復元された正殿で、火災報知器が反応し、警備会社から「火が出ている」との通報があった。
消防車約30台、隊員約100人による大規模な消火活動が行われたが、火の勢いは弱まることはなく、正殿と北殿、南殿など計7棟が消失。午後1時半ごろに鎮火した。
オキナワはヤマトの基層
首里城の焼失は誠に残念であるが、少し見方を変えて、オキナワのもつ歴史的、民俗的重要性についてふり返ってみよう。
吉本隆明の『南島論』にあるように、沖縄王朝の祭祀はヤマトの天皇制度が継承するそれの先行形態を保持していた。ヤマトの天皇は男系だといわれているが、元をただせば、女王が霊的権威を司り、男王が俗的権威を司るという、二元的権威で構成されていたのである。このことは『魏志倭人伝』の倭の女王(卑弥呼)に係る記述によって裏づけられる。沖縄も、そしてヤマトも、本来、霊的権力は女系が司っていたのである。
大嘗祭の本義
折口信夫の『大嘗祭の本義』によると、天皇霊の継承の儀礼は、次期天皇(皇太子)が女性化して稲霊(男性)と同衾することで受け継がれるという。一方の沖縄では、聞得大君(沖縄神道最高神女=ノロ)と呼ばれる霊的最高権威者の霊威継承は、沖縄本島最大の聖地である斎場御嶽において行われ、その就任の儀式である「御新下り(うあらうり)」は、琉球の創造神との契りである聖婚(神婚)儀礼と考えられている。折口のいう、稲魂との同衾と同一である。ヤマトの場合は、天皇が女性〈性〉と男性〈性〉を兼ねるところに特色がある。
首里城とは何か
沖縄史の一時代、琉球王国の栄華を象徴する復元施設・首里城のこのたびの焼失は前出のとおり誠に残念であり、悲しい現実である。しかし、見方を変えれば、首里城は中華文明を強く意識してつくられたいわばハコモノものであり、沖縄の古来の祭祀、信仰を重視する愚生の思いに比べれば、その心の痛みはそれほどではない。
沖縄の信仰の聖地である本来の御嶽は、森のなかにひっそりと、簡素なただ小ぶりの石が数個置かれただけの狭い空間にほかならない。豪勢な王宮とはほど遠い。
消失するオキナワの言語、祭祀、秘儀
愚生の憂いは、例えば、斎場御嶽から臨まれる神の島、久高島の祭礼の「イザイホー」の消失であり、石垣島などで行われる「赤また、黒また」といった秘儀の消失がささやかれる今日の情況であり、そしてヤマト語によるオキナワ方言の駆逐である。これらはハコモノではない、沖縄の人々の生活過程、幻想過程、基層的価値観に基づいて息づいてきたものだと確信する。首里城の焼失は残念であるが、オキナワはすでに消えつつある。
消防車約30台、隊員約100人による大規模な消火活動が行われたが、火の勢いは弱まることはなく、正殿と北殿、南殿など計7棟が消失。午後1時半ごろに鎮火した。
オキナワはヤマトの基層
首里城の焼失は誠に残念であるが、少し見方を変えて、オキナワのもつ歴史的、民俗的重要性についてふり返ってみよう。
吉本隆明の『南島論』にあるように、沖縄王朝の祭祀はヤマトの天皇制度が継承するそれの先行形態を保持していた。ヤマトの天皇は男系だといわれているが、元をただせば、女王が霊的権威を司り、男王が俗的権威を司るという、二元的権威で構成されていたのである。このことは『魏志倭人伝』の倭の女王(卑弥呼)に係る記述によって裏づけられる。沖縄も、そしてヤマトも、本来、霊的権力は女系が司っていたのである。
大嘗祭の本義
折口信夫の『大嘗祭の本義』によると、天皇霊の継承の儀礼は、次期天皇(皇太子)が女性化して稲霊(男性)と同衾することで受け継がれるという。一方の沖縄では、聞得大君(沖縄神道最高神女=ノロ)と呼ばれる霊的最高権威者の霊威継承は、沖縄本島最大の聖地である斎場御嶽において行われ、その就任の儀式である「御新下り(うあらうり)」は、琉球の創造神との契りである聖婚(神婚)儀礼と考えられている。折口のいう、稲魂との同衾と同一である。ヤマトの場合は、天皇が女性〈性〉と男性〈性〉を兼ねるところに特色がある。
首里城とは何か
沖縄史の一時代、琉球王国の栄華を象徴する復元施設・首里城のこのたびの焼失は前出のとおり誠に残念であり、悲しい現実である。しかし、見方を変えれば、首里城は中華文明を強く意識してつくられたいわばハコモノものであり、沖縄の古来の祭祀、信仰を重視する愚生の思いに比べれば、その心の痛みはそれほどではない。
沖縄の信仰の聖地である本来の御嶽は、森のなかにひっそりと、簡素なただ小ぶりの石が数個置かれただけの狭い空間にほかならない。豪勢な王宮とはほど遠い。
消失するオキナワの言語、祭祀、秘儀
愚生の憂いは、例えば、斎場御嶽から臨まれる神の島、久高島の祭礼の「イザイホー」の消失であり、石垣島などで行われる「赤また、黒また」といった秘儀の消失がささやかれる今日の情況であり、そしてヤマト語によるオキナワ方言の駆逐である。これらはハコモノではない、沖縄の人々の生活過程、幻想過程、基層的価値観に基づいて息づいてきたものだと確信する。首里城の焼失は残念であるが、オキナワはすでに消えつつある。
2019年10月27日日曜日
SB、読売をスウイープー2019 NPB日本シリーズ
NPB(日本プロ野球)日本シリーズがあっという間に終ってしまった。結果は、パのリーグ戦2位でCSを勝ち上がってきたソフトバンク(SB)が、セリーグ同優勝の読売を4-0で退けたというもの。4戦をみた感想は、読売の弱さが際立っていたということに尽きる。セリーグとパリーグの野球の違いということが言われ続けているが、本シリーズがそのことを実証したように思えた。
SBと読売に力の差はあるのか
7試合の短期決戦だけで、チーム力を云々するのははばかれる。主力選手の調子が上がらないチームは日本シリーズで勝てないことが多いからだ。とりわけ打者はリーグ戦で3割超の成績を残していても、日本シリーズでは1割台というケースも珍しくない。いわゆる「逆シリーズ男」と呼ばれるやつだ。読売の主力、坂本・丸がずばり「逆シリーズ男」になってしまった。だが、読売の敗因はそれだけだろうか。たまたま、坂本と丸の調子が悪かったからなのだろうか。
4試合の内容を見ると、SBは、読売の主軸に限らず全選手を研究していることがうかがえた。そのことは甲斐のリードに全面的に表れていたように思う。データがあっても、投手が相手打者の弱点を突く投球技術がなければ役に立たないのだが、SBの投手はそれができたということで、それが結果に反映した。
読売の主軸はパリーグの投手を打てない?
SB投手陣が短期戦とはいえが読売の主軸を抑えることができた一方、セリーグ5球団投手陣にそれができない理由はなんなのだろうか。坂本、丸、岡本の2019シーズンの球団別成績を見てみよう。
坂本を抑えたセの球団は阪神、中日
以下に示すのは、2019シーズンにおける、読売の主軸、坂本・丸・岡本の球団別の打撃成績だ。
・DeNa:坂本=.389(8)、丸=.273(7) 、岡本=.253(5)
・阪神:坂本=.258(5)、丸=.283(8) 、岡本=.260(6)
・広島:坂本=.340(6)、丸=.290(3) 、岡本=.240(5)
・中日:坂本=.271(8)、丸=.323(2) 、岡本=.198(2)
・ヤクルト:坂本=.392(11)、丸=.293(3)、岡本=.356(7)
◎パシフィックリーグ(交流戦3試合)
・西武:坂本= .250(0)、丸=.273(0) 、岡本=.154(0)
・SB:坂本=.182(0)、丸=.462(11)、岡本=.167(1)
・楽天:坂本=.182(1)、丸=083(0)、岡本=.500(1)
・ロッテ:坂本.143(1)、丸=.383(0)、岡本=.273(1)
・日本ハム:坂本=.273(0)、丸=083(1)、岡本=.308(1)
・オリックス:坂本=.083(0)、丸=.417(2)、岡本=.300(2)
こうしてみると、坂本は交流戦(3試合)においてパの投手陣に完璧に抑えられていることがわかる。短期戦では打者の好不調の要素が強く影響し、打撃成績における一定の傾向を読み取ることは難しいとは思うものの、セリーグ投手陣との対戦成績と比較すると、その差があまりにも大きいことに驚く。坂本はパリーグの投手を打っていないという事実。彼の交流戦の成績としては、日ハム相手に打率.273が最高で、SB、楽天、ロッテ、オリックス相手では打率1割台の低率だった。
その一方で、坂本はセリーグのDeNa、広島、ヤクルト相手に打ちまくっていて、驚異的な成績を残している。坂本に打たれた3球団は、その無策ぶりを反省してほしい。とりわけヤクルトは、坂本に.392と4割近くまで打ち込まれた挙句、岡本にも3割5分台の高打率を残された。ヤクルトの投手・捕手、投手コーチ・バッテリーコーチ等のレベルの低さが気になる。
DH制のあるパリーグのほうが優位なのか
日本シリーズで完敗した読売の原監督が、セとパの野球の違いをDH制度の有無に求めていた。DH制によって野球のレベルが上がるという理屈は信憑性が高い。DH制によってチームの打撃力が上がるから、投手はそれに対応すべく技術を高めるというわけだ。さらに、僅差でリードされている試合、セリーグなら投手に代打を送らざるを得ないから、投手の投球イニング数は少なくなる。試合を通じて投手が経験を積む機会が失われるし、一試合に対して責任をまっとうしなくなる。極論だがDH制なら、投手は僅差のビハインドゲームでも完投するチャンスが生まれる。さらに、継投も計算しやすい。先発投手の降板は、僅差のビハインドだろうと、リードしている状態であろうと、原則、球数で決められる。
攻撃面では言うまでもなく、守備力、走力に難があるベテラン野手をDHで使えば、攻撃力が高まる。セリーグなら投手の打席でワンアウトが計算できるが、DH制なら気を抜ける打順はない。
しかしここまでは、DH制を敷けば、長期的にチーム力がアップするという話だ。
日本シリーズのように、9人制とDH制が混在する短期決戦の場合はどうなのか。素人考えでは、普段、9人制で試合をしているチームがDH制になっても困る要素は少ないと考える。むしろ、投手が打席に入るセのほうがDH制をとらない試合において有利だろう。走塁、犠打、打撃でパリーグの投手よりセリーグの投手のほうが経験値が高いからだ。
読売の完敗の主因はDH制とは無関係
読売は選手層が厚い。他球団ならば主軸を打つ選手が控えや二軍にいる。だが、よくみると、バランスが悪い。外野陣で丸、亀井を除くと、ゲレーロ、陽、重信、石川、立岡がレギュラー争いをしている状態で、走攻守のバランスのよい選手はいない。
内野陣はさらに深刻だ。坂本(遊)は不動だが、野球の花形である三塁・一塁が固定できていない。MLBの黒歴史の一つに、アフリカ系選手はどんなに実力があっても、三塁・一塁のレギュラーになれなかった時代が長く続いたことがあった。それくらい、三塁・一塁はチームの顔であり、守備・打撃に力がある人気選手が務めたのである。日本球界では読売のONの存在がそのことを証明している。
2019シーズンの読売は、一塁に阿部か岡本(一時期は捕手の大城)の併用で固定できず、しかも、三塁はMLBから移籍したビヤヌエバがレギュラーになれず、岡本、山本、田中、若林の日替わり状態だった。読売はFAで多くの選手を取るけれど、一塁と三塁に関してはなぜか危機感がないまま、リーグ優勝したのである。読売のFAの効果は、広島の丸を獲得して、広島を弱体化させたにすぎない。
二塁については、以前から指摘されていた通り、弱体なままシーズンに突入してしまった。期待された吉川尚がシーズン早々に離脱すると、このポジションも田中、山本、若林、増田らが日替わりで務めた。
こうしてみると、DH制が採用される日本シリーズの読売の布陣については、DHに阿部を起用するのではなく、一塁=阿部、二塁=田中、三塁=岡本、遊撃=坂本で固定し、DHには、ゲレーロ、陽、大城を相手投手に合わせて起用したほうが破壊力が増したような気がする。原監督が阿部をDHに起用したため、岡本が一塁だと、三塁が不在、岡本が三塁だと一塁が不在になって、DH制の優位性を生かせなかった。その副産物として、若手野手(山本、若林)が守りでミスをして、SBに付け入るすきを与えてしまった。
原監督の不可解な選手起用
原監督の選手起用はそれだけではない。第3戦における戸郷投手の起用だ。同点で迎えた4回、鍵谷から新人の戸郷にスイッチ。その戸郷はシーズン登板わずか2試合の新人投手。戸郷は才能のある本格派右腕投手だと思うが、シリーズ3戦目、負ければ王手をかけられる重要な試合でのリリーフ登板は荷が重すぎる。SBを甘く見たのか。
筆者は、この起用について、原監督のシリーズ敗戦を予見したエクスキューズの用意だと思えた。原監督は福岡での2連敗を受けて、SBと自軍との力の差を実感した。つまり「勝てない」ことを悟ったのだと思う。そこで原は負けても、「若手に経験を積ませた」という評価を得たかったのだと思う。どうせ負けるのなら、せめて自分が「優れた監督」であるというファクトを残そうとしたのだと思う。
敗戦の根本は読売のチームづくりの失敗
2019シーズンの原監督のチームづくりは完全に失敗だった。それでもセの5球団の不甲斐なさに助けられ優勝できたため、チームづくりの失敗が表に出なかった。
失敗の実例を挙げよう。前出のとおり、内野手不足だ。引退間近の阿部の後継者は不在なまま。しかも、シーズン前、阿部は「捕手に専念」するはずだった。つまり構想では1018シーズンで大化けした岡本を一塁に固定し、三塁はビヤヌエバでいく構想だったのだが、ビヤヌエバは失速し二軍に落ちた。そこで捕手の大城を一塁に起用してまでして急場をしのいだ時期もあった。二塁もしかり。吉川尚が故障すると、その後が埋まらない。前出のとおり、本シリーズでは田中はそれなりの成績を残したが、山本(ノーヒット)、若林(ノーヒット)、増田(打席なし)は、レギュラーにはまだまだ。セリーグではどうにか通用した彼らだが、田中を除くと、SBの150キロ近くを投げ込む剛腕投手陣に手も足も出なかった。
おまけに、セリーグの弱体投手陣を打ち込んだ、坂本、丸、岡本は完全に沈黙。2本の本塁打を打った亀井も通算では.286にすぎなかった。リーグ優勝で見えてこなかった読売の弱点が、SBというパリーグの球団を媒介にして、白日のもとに晒された。
読売の選手はフィジカル、メンタルが弱い
読売の弱さは、基本的には選手個々のフィジカル面、メンタル面の弱さにある。SBの選手にはしたたかさ、雑草のような強靭さがあった。SBの主軸には育成出身者が多い。そうでなくても、SBの選手はレギュラーを取るには厳しい競争を経なければならない。読売の選手もそうだけれど、FAやMLBで移籍してきた選手が不調で二軍に落ちたままの状態になってはじめて、仕方なく首脳陣が一軍に呼んだ若手がレギュラーになっている。
選手の素質の見極め、育成方法、起用方法、フィジカル強化、メンタル強化について、読売は甘い。というよりも、セントラルリーグ全体がぬるま湯状態なのかもしれない。
SBと読売に力の差はあるのか
7試合の短期決戦だけで、チーム力を云々するのははばかれる。主力選手の調子が上がらないチームは日本シリーズで勝てないことが多いからだ。とりわけ打者はリーグ戦で3割超の成績を残していても、日本シリーズでは1割台というケースも珍しくない。いわゆる「逆シリーズ男」と呼ばれるやつだ。読売の主力、坂本・丸がずばり「逆シリーズ男」になってしまった。だが、読売の敗因はそれだけだろうか。たまたま、坂本と丸の調子が悪かったからなのだろうか。
4試合の内容を見ると、SBは、読売の主軸に限らず全選手を研究していることがうかがえた。そのことは甲斐のリードに全面的に表れていたように思う。データがあっても、投手が相手打者の弱点を突く投球技術がなければ役に立たないのだが、SBの投手はそれができたということで、それが結果に反映した。
読売の主軸はパリーグの投手を打てない?
SB投手陣が短期戦とはいえが読売の主軸を抑えることができた一方、セリーグ5球団投手陣にそれができない理由はなんなのだろうか。坂本、丸、岡本の2019シーズンの球団別成績を見てみよう。
坂本を抑えたセの球団は阪神、中日
以下に示すのは、2019シーズンにおける、読売の主軸、坂本・丸・岡本の球団別の打撃成績だ。
・DeNa:坂本=.389(8)、丸=.273(7) 、岡本=.253(5)
・阪神:坂本=.258(5)、丸=.283(8) 、岡本=.260(6)
・広島:坂本=.340(6)、丸=.290(3) 、岡本=.240(5)
・中日:坂本=.271(8)、丸=.323(2) 、岡本=.198(2)
・ヤクルト:坂本=.392(11)、丸=.293(3)、岡本=.356(7)
◎パシフィックリーグ(交流戦3試合)
・西武:坂本= .250(0)、丸=.273(0) 、岡本=.154(0)
・SB:坂本=.182(0)、丸=.462(11)、岡本=.167(1)
・楽天:坂本=.182(1)、丸=083(0)、岡本=.500(1)
・ロッテ:坂本.143(1)、丸=.383(0)、岡本=.273(1)
・日本ハム:坂本=.273(0)、丸=083(1)、岡本=.308(1)
・オリックス:坂本=.083(0)、丸=.417(2)、岡本=.300(2)
こうしてみると、坂本は交流戦(3試合)においてパの投手陣に完璧に抑えられていることがわかる。短期戦では打者の好不調の要素が強く影響し、打撃成績における一定の傾向を読み取ることは難しいとは思うものの、セリーグ投手陣との対戦成績と比較すると、その差があまりにも大きいことに驚く。坂本はパリーグの投手を打っていないという事実。彼の交流戦の成績としては、日ハム相手に打率.273が最高で、SB、楽天、ロッテ、オリックス相手では打率1割台の低率だった。
その一方で、坂本はセリーグのDeNa、広島、ヤクルト相手に打ちまくっていて、驚異的な成績を残している。坂本に打たれた3球団は、その無策ぶりを反省してほしい。とりわけヤクルトは、坂本に.392と4割近くまで打ち込まれた挙句、岡本にも3割5分台の高打率を残された。ヤクルトの投手・捕手、投手コーチ・バッテリーコーチ等のレベルの低さが気になる。
DH制のあるパリーグのほうが優位なのか
日本シリーズで完敗した読売の原監督が、セとパの野球の違いをDH制度の有無に求めていた。DH制によって野球のレベルが上がるという理屈は信憑性が高い。DH制によってチームの打撃力が上がるから、投手はそれに対応すべく技術を高めるというわけだ。さらに、僅差でリードされている試合、セリーグなら投手に代打を送らざるを得ないから、投手の投球イニング数は少なくなる。試合を通じて投手が経験を積む機会が失われるし、一試合に対して責任をまっとうしなくなる。極論だがDH制なら、投手は僅差のビハインドゲームでも完投するチャンスが生まれる。さらに、継投も計算しやすい。先発投手の降板は、僅差のビハインドだろうと、リードしている状態であろうと、原則、球数で決められる。
攻撃面では言うまでもなく、守備力、走力に難があるベテラン野手をDHで使えば、攻撃力が高まる。セリーグなら投手の打席でワンアウトが計算できるが、DH制なら気を抜ける打順はない。
しかしここまでは、DH制を敷けば、長期的にチーム力がアップするという話だ。
日本シリーズのように、9人制とDH制が混在する短期決戦の場合はどうなのか。素人考えでは、普段、9人制で試合をしているチームがDH制になっても困る要素は少ないと考える。むしろ、投手が打席に入るセのほうがDH制をとらない試合において有利だろう。走塁、犠打、打撃でパリーグの投手よりセリーグの投手のほうが経験値が高いからだ。
読売の完敗の主因はDH制とは無関係
読売は選手層が厚い。他球団ならば主軸を打つ選手が控えや二軍にいる。だが、よくみると、バランスが悪い。外野陣で丸、亀井を除くと、ゲレーロ、陽、重信、石川、立岡がレギュラー争いをしている状態で、走攻守のバランスのよい選手はいない。
内野陣はさらに深刻だ。坂本(遊)は不動だが、野球の花形である三塁・一塁が固定できていない。MLBの黒歴史の一つに、アフリカ系選手はどんなに実力があっても、三塁・一塁のレギュラーになれなかった時代が長く続いたことがあった。それくらい、三塁・一塁はチームの顔であり、守備・打撃に力がある人気選手が務めたのである。日本球界では読売のONの存在がそのことを証明している。
2019シーズンの読売は、一塁に阿部か岡本(一時期は捕手の大城)の併用で固定できず、しかも、三塁はMLBから移籍したビヤヌエバがレギュラーになれず、岡本、山本、田中、若林の日替わり状態だった。読売はFAで多くの選手を取るけれど、一塁と三塁に関してはなぜか危機感がないまま、リーグ優勝したのである。読売のFAの効果は、広島の丸を獲得して、広島を弱体化させたにすぎない。
二塁については、以前から指摘されていた通り、弱体なままシーズンに突入してしまった。期待された吉川尚がシーズン早々に離脱すると、このポジションも田中、山本、若林、増田らが日替わりで務めた。
こうしてみると、DH制が採用される日本シリーズの読売の布陣については、DHに阿部を起用するのではなく、一塁=阿部、二塁=田中、三塁=岡本、遊撃=坂本で固定し、DHには、ゲレーロ、陽、大城を相手投手に合わせて起用したほうが破壊力が増したような気がする。原監督が阿部をDHに起用したため、岡本が一塁だと、三塁が不在、岡本が三塁だと一塁が不在になって、DH制の優位性を生かせなかった。その副産物として、若手野手(山本、若林)が守りでミスをして、SBに付け入るすきを与えてしまった。
原監督の不可解な選手起用
原監督の選手起用はそれだけではない。第3戦における戸郷投手の起用だ。同点で迎えた4回、鍵谷から新人の戸郷にスイッチ。その戸郷はシーズン登板わずか2試合の新人投手。戸郷は才能のある本格派右腕投手だと思うが、シリーズ3戦目、負ければ王手をかけられる重要な試合でのリリーフ登板は荷が重すぎる。SBを甘く見たのか。
筆者は、この起用について、原監督のシリーズ敗戦を予見したエクスキューズの用意だと思えた。原監督は福岡での2連敗を受けて、SBと自軍との力の差を実感した。つまり「勝てない」ことを悟ったのだと思う。そこで原は負けても、「若手に経験を積ませた」という評価を得たかったのだと思う。どうせ負けるのなら、せめて自分が「優れた監督」であるというファクトを残そうとしたのだと思う。
敗戦の根本は読売のチームづくりの失敗
2019シーズンの原監督のチームづくりは完全に失敗だった。それでもセの5球団の不甲斐なさに助けられ優勝できたため、チームづくりの失敗が表に出なかった。
失敗の実例を挙げよう。前出のとおり、内野手不足だ。引退間近の阿部の後継者は不在なまま。しかも、シーズン前、阿部は「捕手に専念」するはずだった。つまり構想では1018シーズンで大化けした岡本を一塁に固定し、三塁はビヤヌエバでいく構想だったのだが、ビヤヌエバは失速し二軍に落ちた。そこで捕手の大城を一塁に起用してまでして急場をしのいだ時期もあった。二塁もしかり。吉川尚が故障すると、その後が埋まらない。前出のとおり、本シリーズでは田中はそれなりの成績を残したが、山本(ノーヒット)、若林(ノーヒット)、増田(打席なし)は、レギュラーにはまだまだ。セリーグではどうにか通用した彼らだが、田中を除くと、SBの150キロ近くを投げ込む剛腕投手陣に手も足も出なかった。
おまけに、セリーグの弱体投手陣を打ち込んだ、坂本、丸、岡本は完全に沈黙。2本の本塁打を打った亀井も通算では.286にすぎなかった。リーグ優勝で見えてこなかった読売の弱点が、SBというパリーグの球団を媒介にして、白日のもとに晒された。
読売の選手はフィジカル、メンタルが弱い
読売の弱さは、基本的には選手個々のフィジカル面、メンタル面の弱さにある。SBの選手にはしたたかさ、雑草のような強靭さがあった。SBの主軸には育成出身者が多い。そうでなくても、SBの選手はレギュラーを取るには厳しい競争を経なければならない。読売の選手もそうだけれど、FAやMLBで移籍してきた選手が不調で二軍に落ちたままの状態になってはじめて、仕方なく首脳陣が一軍に呼んだ若手がレギュラーになっている。
選手の素質の見極め、育成方法、起用方法、フィジカル強化、メンタル強化について、読売は甘い。というよりも、セントラルリーグ全体がぬるま湯状態なのかもしれない。
2019年10月17日木曜日
2019年10月15日火曜日
2019年9月29日日曜日
2019年9月18日水曜日
絶望の「二刀流」ーー大谷、膝の手術でシーズン終了
9月13日、大谷翔平(MLB)が左膝蓋骨の手術を受けた。全治まで8~12週間かかる見通しだ。大谷の病状は二分膝蓋骨と呼ばれ、生まれつき膝の皿が1つではなく、2つに割れている体質だったという。手術で割れた皿を1つに戻すのであろうか。とにかく今季の試合出場は絶望、彼の2019シーズンは終了した。
打者専念でも不本意な成績
2019シーズンの成績は、打率.286(106試合、384打数、110安打)、18本塁打、62打点、51得点、35四死球、110三振、12盗塁という結果に終わった。二刀流を封印しDHに専念したにもかかわらず、不本意な結果に終わった。昨年の肘、今シーズン後半には膝と、プロ野球選手としては選手生命に係る部位の手術なだけにおおいに心配だ。
膝の悪化は「二刀流」による蓄積疲労が主因
大谷の身体の変調の原因については、医学的知識皆無の筆者の直観にすぎないが、日本での2013~2017年の5シーズン(日本ハム時代)の「二刀流」にあると考えている。筆者は拙Blogにおいて常々、「二刀流」は無理だと書いてきた。繰り返しになるが、打者と投手は野球という同一の競技にありながら、異なる運動だ。日本での5シーズンにおける過剰な練習による身体的負担が蓄積したうえに、MLBに移籍。そしてその直後にやってきた、肘の故障と手術による「二刀流」の挫折、加えて、環境変化や過酷な移動を伴うMLB生活で心身の疲労が蓄積し、それまで発症しなかった膝にまで故障が及んだと考えられる。
専門化して進化してきたベースボールの歴史
大谷が来シーズン以降、「二刀流」に固執するならば、彼のプロ野球人生は儚いもので終わるだろう。プロ野球、就中、MLBを甘くみてはいけない。野球という競技は進歩に進歩を重ね、ダイナミックな変容を遂げてきた。先発投手の球数制限、分業制、新球種開発、スピードガン、rpm(回転数測定)などの機器の発達…があったし、この先も変化があろう。野手においては、投手、捕手以外の複数ポジションをこなせる能力が求められる一方、DH制度の導入により、打撃のスペシャリストが誕生した。この期に及んで、野手と投手の兼任――「二刀流」はあり得ないポジションなのだ。
大谷にとってMLB生き残りの正念場
MLBにおける大谷を取り巻く環境は、日本のメディアが流す好意的報道ほど、甘くないと思われる。「二刀流」が不可能と判断されれば、大谷は打者か投手かの選択を迫られる。野手の経験がない大谷は守るところがないため、DH専門の打者としてMLB業界で生きていかなければならない。そうなると、打率、本塁打、打点で求められる成績は一層厳しい数値となる。
大谷の「二刀流」を引っ提げたMLB移籍はここまでのところ、大失敗だ。彼の願望、夢への挑戦は、甘かった。「二刀流」という変則的選手である大谷と契約を結んだエンゼルスの計算は、筆者の想像だが、短期的な営業成果を期待したものにすぎなかったのではないか。アメリカの打算的なスポーツビジネス界は、金の卵を産まなくなったアヒルを見切るのも早い。
投手専念がベスト、打者ならば日本に早期復帰を
大谷はどうしたらいいのか。エンゼルスとの契約が残っている期間にコンディションを整え、投手か打者かの一本化を決断(当然のことながら練習もどちらかに一本化)すべきだ。筆者は肘の故障が完治しているのならば、投手に専念すべきだと思う。投手としてMLB挑戦を続け、挫折した段階で、日本球界に復帰したらいい。肘の状態が悪く、投手として専念できないようならば、直ちに日本球界にDHとして復帰すべきだろう。とにかく、大谷が野球を続けられる進路を探るべきだ。
打者専念でも不本意な成績
2019シーズンの成績は、打率.286(106試合、384打数、110安打)、18本塁打、62打点、51得点、35四死球、110三振、12盗塁という結果に終わった。二刀流を封印しDHに専念したにもかかわらず、不本意な結果に終わった。昨年の肘、今シーズン後半には膝と、プロ野球選手としては選手生命に係る部位の手術なだけにおおいに心配だ。
膝の悪化は「二刀流」による蓄積疲労が主因
大谷の身体の変調の原因については、医学的知識皆無の筆者の直観にすぎないが、日本での2013~2017年の5シーズン(日本ハム時代)の「二刀流」にあると考えている。筆者は拙Blogにおいて常々、「二刀流」は無理だと書いてきた。繰り返しになるが、打者と投手は野球という同一の競技にありながら、異なる運動だ。日本での5シーズンにおける過剰な練習による身体的負担が蓄積したうえに、MLBに移籍。そしてその直後にやってきた、肘の故障と手術による「二刀流」の挫折、加えて、環境変化や過酷な移動を伴うMLB生活で心身の疲労が蓄積し、それまで発症しなかった膝にまで故障が及んだと考えられる。
専門化して進化してきたベースボールの歴史
大谷が来シーズン以降、「二刀流」に固執するならば、彼のプロ野球人生は儚いもので終わるだろう。プロ野球、就中、MLBを甘くみてはいけない。野球という競技は進歩に進歩を重ね、ダイナミックな変容を遂げてきた。先発投手の球数制限、分業制、新球種開発、スピードガン、rpm(回転数測定)などの機器の発達…があったし、この先も変化があろう。野手においては、投手、捕手以外の複数ポジションをこなせる能力が求められる一方、DH制度の導入により、打撃のスペシャリストが誕生した。この期に及んで、野手と投手の兼任――「二刀流」はあり得ないポジションなのだ。
大谷にとってMLB生き残りの正念場
MLBにおける大谷を取り巻く環境は、日本のメディアが流す好意的報道ほど、甘くないと思われる。「二刀流」が不可能と判断されれば、大谷は打者か投手かの選択を迫られる。野手の経験がない大谷は守るところがないため、DH専門の打者としてMLB業界で生きていかなければならない。そうなると、打率、本塁打、打点で求められる成績は一層厳しい数値となる。
大谷の「二刀流」を引っ提げたMLB移籍はここまでのところ、大失敗だ。彼の願望、夢への挑戦は、甘かった。「二刀流」という変則的選手である大谷と契約を結んだエンゼルスの計算は、筆者の想像だが、短期的な営業成果を期待したものにすぎなかったのではないか。アメリカの打算的なスポーツビジネス界は、金の卵を産まなくなったアヒルを見切るのも早い。
投手専念がベスト、打者ならば日本に早期復帰を
大谷はどうしたらいいのか。エンゼルスとの契約が残っている期間にコンディションを整え、投手か打者かの一本化を決断(当然のことながら練習もどちらかに一本化)すべきだ。筆者は肘の故障が完治しているのならば、投手に専念すべきだと思う。投手としてMLB挑戦を続け、挫折した段階で、日本球界に復帰したらいい。肘の状態が悪く、投手として専念できないようならば、直ちに日本球界にDHとして復帰すべきだろう。とにかく、大谷が野球を続けられる進路を探るべきだ。
2019年9月13日金曜日
セリーグは読売優勝がほぼ決まり(攻撃編)
日本プロ野球(NPB)セリーグの優勝は読売にほぼ決まった。天王山といわれた2位横浜との3連戦(9/10・11・12)で2勝1敗と勝ち越し。最低でも2勝を狙った横浜に引導を渡した。
筆者の開幕前の予想では優勝が広島、2位が読売、3位が阪神で横浜は4位予想だったから、筆者の予想がまるで外れたことを反省するとともに、横浜の健闘を称えなければなるまい。
なおCSについては、筆者は同制度に反対の立場なのでコメントはしない。
読売の想像を絶する選手補強
醜い弁明になるが、筆者の開幕前予想は本心ではなかった。読売の優勝は確実だと思っていたのだが、読売の金満補強――FAで丸(広島)、炭谷(西武)を、さらに中島(オリックス)、岩隈(MLB)、クック(MLB)、ビヤヌエバ(MLB)の獲得――に反発し、こんな球団に優勝してもらいたくないと思っての順位付けだった。
読売のチームづくり(選手集め)は極めて異常だった。シーズン途中においても、クローザーのクックが使えないとみるやデラロサ(3A)を獲得。宮國、田原、戸根がダメだとわかると鍵谷(日ハム)、藤岡(日ハム)、古川(楽天)を獲得した。他球団ならレギュラークラスの選手が二軍にひしめく分厚い戦力を整え、登録・抹消を繰り返して、一軍に新鮮な戦力を供給しつづけた。このような選手集めは球団努力といえる反面、計画性の乏しい豊富な資金に任せた放漫型球団経営ともいえる。
分厚い選手層(攻撃陣編)
攻撃面では坂本、丸、岡本の2番、3番、4番の主軸の固定に成功したものの、1番は亀井が定着するまで試行錯誤が続いた。その亀井については後述する。
5番から8番まではそれこそ日替わりで登録、抹消が繰り返され、シーズンを通してレギュラーは定まらなかった。ちなみに5番~8番の4枠に主に起用された野手は、陽(日本ハム)、ビヤヌエバ(MLB)、ゲレーロ(MLB)、阿部、重信、立岡(ソフトバンク)、石川(日本ハム)、中島(オリックス~3A)、大城、田中俊、若林、増田大、山本、炭谷(西武)、小林・・・と多彩であった。もちろん、一人の選手が1シーズン、交代なしで出ずっぱりということはあり得ないのだが、数字的に見ると、平均で4枠に各4選手弱が出場した計算になる。別言すれば、他球団ならレギュラー級の選手を3人以上保有しているのが読売という球団なのだ。
今シーズン、読売がここまでのリーグ戦で主導権を維持できたのは、主力に故障が少なかったからだろう。彼らがケアに心掛けたこと、メディカルスタッフの充実もあったのではないか。加えて、シーズンを通しての好調は維持できなくとも、短期間では結果を出した新戦力の台頭にも注目される。前半のビヤヌエバ(新入団)、後半のゲレーロ(2年目)、一塁と捕手を兼任した大城(2年目)、重信(4年目)、若林(2年目)らの活躍だ。
1番亀井で広島型攻撃スタイルを確立
さはさりながら、筆者は読売の躍進の最大の功労者は亀井だと思っている。これまでの亀井といえば、実力がありながら故障で欠場するシーズンが続いたのだが、今シーズンは規定打席に達している。
亀井―坂本―丸は、昨年までセリーグで三連覇を成し遂げた広島のタナ・キク・マルに似ている、というよりも、もっと強力だ。読売の攻撃スタイルはカメ・サカ・マルから岡本に続く。広島の場合は鈴木誠也だ。鈴木と岡本では鈴木の方が上だが、1番から4番までの総合力は読売の方が、破壊力がある。今年、広島は丸が読売に移籍し、田中が不調だった。つまり今年の広島の攻撃力不足は、丸と田中が抜けた分の大幅マイナスだった。
阿部(読売)の存在は昨年までの新井(広島)に対応
それだけではない。今年の読売と昨年までの広島の類似点は阿部⇔新井の対応関係だ。読売の阿部は、常時出場こそ叶わなかったが、勝負所で先発、代打の双方で存在感を示した。阿部の代打コールは東京ドームの雰囲気を変えたという。そのフィーリングは、昨年までの広島の新井の存在にぴったり合致する。広島の新井は昨年、引退して今シーズンはいない。
攻撃面に限れば、今年の読売は、昨年までの広島がつくりあげたパターンを踏襲してリーグ制覇を成し遂げようとしている。その反対に広島は、田中の不調、丸の移籍、新井の引退で攻撃力を減退させ、3つの穴を埋められなかった。
横浜の弱さは選手層の薄さに起因する
終盤まで読売を追い込んだ横浜はどうだろうか。攻撃面に限れば、ロペス、筒香、ソト、宮崎の攻撃陣は強力だが、それ以外の選手が数段落ちる。選手層が薄い。打順の1番から3番までが固定できず、流れがなく、一発ホームラン頼みであった。天王山の読売戦では、読売を戦力外とされた中井が1番なのだから、残念というほかない。さらに、読売を猛迫したときの正捕手・伊藤光と3塁・宮崎がケガで欠場した途端、連敗を屈してしまった。
下位球団の責任
読売の球団別の対戦成績(2019/09/12現在)を見ると、横浜とは11-11のドロー、広島には9-13の負け越しで、前出の「本家」には今シーズンの負越しがすでに決定している。
一方、下位の3球団、阪神に14-8、中日に13-9、ヤクルトに11-7の勝ち越しとなっている。読売は、下位球団に対して取りこぼしをしなかったといえるが、筆者は下位3球団が読売をアシストしたと考えている。とりわけ阪神の6つの負越しは由々しき問題だ。
※投手編については改めて考察する
筆者の開幕前の予想では優勝が広島、2位が読売、3位が阪神で横浜は4位予想だったから、筆者の予想がまるで外れたことを反省するとともに、横浜の健闘を称えなければなるまい。
なおCSについては、筆者は同制度に反対の立場なのでコメントはしない。
読売の想像を絶する選手補強
醜い弁明になるが、筆者の開幕前予想は本心ではなかった。読売の優勝は確実だと思っていたのだが、読売の金満補強――FAで丸(広島)、炭谷(西武)を、さらに中島(オリックス)、岩隈(MLB)、クック(MLB)、ビヤヌエバ(MLB)の獲得――に反発し、こんな球団に優勝してもらいたくないと思っての順位付けだった。
読売のチームづくり(選手集め)は極めて異常だった。シーズン途中においても、クローザーのクックが使えないとみるやデラロサ(3A)を獲得。宮國、田原、戸根がダメだとわかると鍵谷(日ハム)、藤岡(日ハム)、古川(楽天)を獲得した。他球団ならレギュラークラスの選手が二軍にひしめく分厚い戦力を整え、登録・抹消を繰り返して、一軍に新鮮な戦力を供給しつづけた。このような選手集めは球団努力といえる反面、計画性の乏しい豊富な資金に任せた放漫型球団経営ともいえる。
分厚い選手層(攻撃陣編)
攻撃面では坂本、丸、岡本の2番、3番、4番の主軸の固定に成功したものの、1番は亀井が定着するまで試行錯誤が続いた。その亀井については後述する。
5番から8番まではそれこそ日替わりで登録、抹消が繰り返され、シーズンを通してレギュラーは定まらなかった。ちなみに5番~8番の4枠に主に起用された野手は、陽(日本ハム)、ビヤヌエバ(MLB)、ゲレーロ(MLB)、阿部、重信、立岡(ソフトバンク)、石川(日本ハム)、中島(オリックス~3A)、大城、田中俊、若林、増田大、山本、炭谷(西武)、小林・・・と多彩であった。もちろん、一人の選手が1シーズン、交代なしで出ずっぱりということはあり得ないのだが、数字的に見ると、平均で4枠に各4選手弱が出場した計算になる。別言すれば、他球団ならレギュラー級の選手を3人以上保有しているのが読売という球団なのだ。
今シーズン、読売がここまでのリーグ戦で主導権を維持できたのは、主力に故障が少なかったからだろう。彼らがケアに心掛けたこと、メディカルスタッフの充実もあったのではないか。加えて、シーズンを通しての好調は維持できなくとも、短期間では結果を出した新戦力の台頭にも注目される。前半のビヤヌエバ(新入団)、後半のゲレーロ(2年目)、一塁と捕手を兼任した大城(2年目)、重信(4年目)、若林(2年目)らの活躍だ。
1番亀井で広島型攻撃スタイルを確立
さはさりながら、筆者は読売の躍進の最大の功労者は亀井だと思っている。これまでの亀井といえば、実力がありながら故障で欠場するシーズンが続いたのだが、今シーズンは規定打席に達している。
亀井―坂本―丸は、昨年までセリーグで三連覇を成し遂げた広島のタナ・キク・マルに似ている、というよりも、もっと強力だ。読売の攻撃スタイルはカメ・サカ・マルから岡本に続く。広島の場合は鈴木誠也だ。鈴木と岡本では鈴木の方が上だが、1番から4番までの総合力は読売の方が、破壊力がある。今年、広島は丸が読売に移籍し、田中が不調だった。つまり今年の広島の攻撃力不足は、丸と田中が抜けた分の大幅マイナスだった。
阿部(読売)の存在は昨年までの新井(広島)に対応
それだけではない。今年の読売と昨年までの広島の類似点は阿部⇔新井の対応関係だ。読売の阿部は、常時出場こそ叶わなかったが、勝負所で先発、代打の双方で存在感を示した。阿部の代打コールは東京ドームの雰囲気を変えたという。そのフィーリングは、昨年までの広島の新井の存在にぴったり合致する。広島の新井は昨年、引退して今シーズンはいない。
攻撃面に限れば、今年の読売は、昨年までの広島がつくりあげたパターンを踏襲してリーグ制覇を成し遂げようとしている。その反対に広島は、田中の不調、丸の移籍、新井の引退で攻撃力を減退させ、3つの穴を埋められなかった。
横浜の弱さは選手層の薄さに起因する
終盤まで読売を追い込んだ横浜はどうだろうか。攻撃面に限れば、ロペス、筒香、ソト、宮崎の攻撃陣は強力だが、それ以外の選手が数段落ちる。選手層が薄い。打順の1番から3番までが固定できず、流れがなく、一発ホームラン頼みであった。天王山の読売戦では、読売を戦力外とされた中井が1番なのだから、残念というほかない。さらに、読売を猛迫したときの正捕手・伊藤光と3塁・宮崎がケガで欠場した途端、連敗を屈してしまった。
下位球団の責任
読売の球団別の対戦成績(2019/09/12現在)を見ると、横浜とは11-11のドロー、広島には9-13の負け越しで、前出の「本家」には今シーズンの負越しがすでに決定している。
一方、下位の3球団、阪神に14-8、中日に13-9、ヤクルトに11-7の勝ち越しとなっている。読売は、下位球団に対して取りこぼしをしなかったといえるが、筆者は下位3球団が読売をアシストしたと考えている。とりわけ阪神の6つの負越しは由々しき問題だ。
※投手編については改めて考察する
2019年9月10日火曜日
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