偶然通りかかった神社、入口周辺に猪の絵が飾られていた。百人一首の読み札に描かれた、あの画風だ。縁起を読むと、清麻呂が朝敵に囲まれて窮地に陥ったとき、猪が彼を助けたことを顕彰してこの神社を建立したとあった。狛犬ならぬ、コマ猪が控えている。本殿に向かおうとしたとき、私を背後から呼び止める声がした。その男性は「自分はどこにいるのか」というような意味の問いを私に発した。驚いた私だが、その人が白杖こそ持っていなかったものの、目が不自由であることを理解した。年齢は60代後半~70代くらいか。小柄できちんとした身なりだった。
「わたしたちは、舞台の横にいて、こちらが正殿です」とその人を正殿の方向に導いた。するとその人は正殿に進み、やおら祝詞をあげ出した。意味はわからなかったが、その声は澄んでいてとても力強かった。祝詞が終わったあと、私はその人と一緒に境内を歩くことにした。「ここに大きな猪の像があります」と像を叩くと、その人は猪の尻尾、後脚、胴体…頭部、耳、そして鼻先を丁寧に撫で回し、満足したように笑った。次は清麻呂の像である。それは台座の上にたてられていたため、その人の背丈では清麻呂の足からすねくらいまでしか届かなかったが、その人は確認するように撫でた。
さほど広くない庭に出て、「向かいに、猪のぬいぐるみや玩具が集められた小屋がありますが」といったところが、その人は興味を示さなかったのでベンチに座った。
「私は出張で東京から来たもので、近くのホテルに泊まっていて、これから仕事です」と改めて挨拶をした。するとその人は私に何度も礼をいい、私の上腕から肩、背中を触り、「なにかスポーツをしてはりますか」と尋ねたので、「筋トレを」と返すと、「よろしーな」と笑った。「そろそろホテルに帰ります」というと、「ホントにええモノを見させてくれはって・・・」と何度も頭を下げた。いいモノを「見た」というその人の言葉が私の胸を刺した。
その人と別れ正殿の方に戻ろうと歩き出してふと、気がついた。「あの人、目が見えないのだ、帰りは大丈夫かな」と振り返った。が、その人の姿はなかった、あれ、どこにいったのかなと戻って見回したがいない。
ホテルに戻る道すがら、そういえば、あの人、私に声をかけてきたときも、足音とか気配がゼンゼンしなかったなーーあの人の顔、神社の前に飾られていた、和気清麻呂の絵と似てたなーーと、不安のような、困惑のような感情が私を包んだ。
以来、その神社は「和気清麻呂神社」と私の中で記憶されていたのだが、Facebookへ の投稿を機会に、〈護王神社〉と訂正され、足腰の守護神であるという情報も付け加わった。
(写真は護王神社HPより転載)