本書は、▽ベルクによる〈ベルク風土学〉の講演録、▽ベルクと川勝の対談、▽川勝による、“近代「知性」の超克”と題された、古今東西の存在論の素描的論稿――で構成されている。
ベルク風土学における風土とはなにか
(一)風土という言葉のもつイメージ
風土という言葉は、日本においては、雰囲気または空気感のような意味で使われる。たとえば日本的政治風土であるとか、日本的企業風土とかいった具合である。その場合、前者では日本の政治の特性が(民主主義政治の先進国と一般に思われている)欧米諸国と著しく異なることが暗黙の裡に示唆され、後者ではその会社独特のやり方、考え方、社員の行動類型などが暗示される。どちらも、日本の政界内及び企業内に閉ざされたまま醸成された――普遍的なものと相反する――独特の思想・行動・倫理等を総合した概念として用いられる。
〈風土病〉という言葉もある。これは、「地方病ともいわれる。ある特定の地域に限定して、継続的に発生し、その地域の地理、気候などの地勢的因子に密接な関係をもつ特定疾患をさす。(ブリタニカ国際大百科事典)」のであるが、ここで注目したいのは、私たちが風土病という言葉から受ける感じ方である。風土病という表現は、後進性、未開性、不潔感、恐怖感といった、かなりドロドロとしたイメージを与える。風土病と地方病とを比べると、前者は後者より、反知性、前近代、地域性、後進性を強調する。風土という表現には、本書副題にある“近代「知性」”と正反対の関係が暗示される。しかしだからといって、本書が土着的・情念的視座から、近代「知性」の超克を試行するものではない。このことについては後述する。
(二)ベルク風土学における風土とはなにか
風土は、そのアイデンティティを他から隔てる実態ではなく、人間と物の間にあるひとまとまりの関係です。ここで言う物とは、人間の風土の場合ですと、私たち自身が関わっているすべてのもの――人間の存在の条件となり、また人間の存在が条件づけるものということになります。ベルクはこう述べた後に、和辻哲郎、ヤーコブ・フォン・ユクスキュルス(自然学者)、アンドレ・ルロワ=グーラン(人類学者)を援用して、次のように風土学における風土を定義づける。とりわけ、ベルクがもっとも影響を受けた和辻哲郎の『風土』の序言の冒頭「この書(『風土』)のめざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである」という言説に触発されて、
ここで、重要な区別について述べておきたいと思います。風土(milieu)と環境(environment)の間には大きな違いがあり、それを反映した風土学(mesology)と生態学(ecology)の間にも、大きな違いがあるのです。この区別は、前世紀の前半に生物学の観点からも立証されています。(P15)
風土学にとっては、人間の風土性の半分は、技術的で象徴的な社会身体であるのみならず、必然的に生態系に根付いているため、生態的・技術的・象徴的な体系でもあります。従って、社会身体よりもむしろ、風物身体――すなわち私たちの風土であると言えましょう。動物身体からこの風物身体への展開は、生物圏から風土総体への展開に相当します。(略)ここでベルク風土学のキーワードである通態化という方法的言語が出てきて、風土が定義されるのだが、ベルクを初めて読む読者にとってはわかりにくい部分だと思うので、筆者なりに解釈してみる。
個人の動物身体と集合的な風物身体の動的結合である人間の風土性の「構造契機」は、歴史的なプロセスとして作用するため、空間的であるゆえに風土と風土総体を構成するのですが、同時に時間的なものでもあります。技術体系を通じて、このプロセスは、世界の果てまで私たちの身体性を展開します。(例えば、私たちは・・・火星の石を拾たりすることができます。しかし同時に象徴(シンボル)は、動物身体の中に世界を圧縮します。ニューロンの結合によって、私たちの肉体のうちに世界を再現するのです。
手短に言えば、技術は人間の身体を宇宙化し、同時に象徴は世界を身体化するのです。この展開・圧縮を通態化(trajection)と呼んでいます。これは環境から私たちの風土をつくりだし、私たちの風土性を構築するのです。
このような運動は、自然史(進化)の上に積み重ねられる人間の歴史のなかに刻み込まれたある方向に進みます。そしてそれは、その時々に関わる人々――歴史によってその風土に存在する人々――にとって特有の意味を持ちます。
(P18~19)
通態化の英語表記は〈trajection〉で、辞書にはtransportationの古語とある。その意味は交通、輸送、運送である。ジエイソンン・ステイサム主演の映画『トランスポーター(英題/The Transporter)』は「運び屋」と訳され、A地点からB地点にモノを運ぶイメージが強いが、transportation expenses といえば、交通費である。交通費は一般に往復である。会社務めの人が受け取る交通費は家と会社の往復の金額。つまりtransportationはA地点⇔B地点の往復移動の意味をもつ。
先の引用にあったベルクの展開と圧縮の〈展開〉とは、身体が宇宙(=世界)に往たり(展開)することを、また〈圧縮〉とは、象徴により世界が身体に来たり(圧縮)することだと解釈することもできる。
ベルク風土学の目的
これらを踏まえ、ベルクは大胆な結論を述べる。
従って、私たちの風物身体、すなわち風土や歴史において、すべてのことが通態的です。主観的あるいは客観的でありながら、さらに、主観的かつ客観的でもあるということです。それは必然的に事実を、すなわちUmgebung(客観的な環境)を前提としている限りにおいて客観的です。しかし同様に、必然的に私たちの存在を前提としている限りにおいて主観的でもあります。私たちの存在は、このUmgebung(環境)を、風土(Umwelt)すなわち私たちにとっての現実にみあうように解釈しているからです。(P19)Aであり非Aでもあること――については、本書で再三、引用される容中律の論理(meso-logic)によって説明される。容中律の論理は、日本人の哲学者、山内得立が東洋に由来するレンマの論理から、西洋のロゴスの論理を批判したもの。ヨーロッパ思想の淵源、アリストテレスの『論理学』においては、「選択肢Aと非Aを前にして、Aと非Aが同時にあるという第三の可能性はない」とされ、これを「排中律の法則」という。ところがベルクは、テトラレンマ(tetralenma)――四論法の論理で「排中律」を退ける。テトラレンマでは、第一段階は肯定(AはA)、第二段階は否定(Aは非Aではない)、第三段階は両否定(Aでもなく非Aでもない)、第四段階は両肯定(Aと非Aの両方を同時に認める)、という四段階をもつ。
ベルクは、西洋の伝統が、第一段階と第二段階より進んでいないとし、「排中律の法則」が生態的・技術的かつ象徴的な私たちの風物身体を外閉していると主張する。Aが同時に非Aであるという象徴性を想定することを認めないからだと。そして、排中律が関係(=物や他の人々が私たちに持つ意味や現実、または私たちが他者に対してもつ意味や現実を見出す、通態性と風土性の両方)を外閉するゆえ、克服すべきだとする。そして、風土学の目標を次のように定める。
問題は、私たちのあらゆる知識をどう止揚(Aufuhebung)していくかです。・・・現代の精神的枠組みを改め、望ましい人間世界の物事の現状を反映した風土学を思い描くことが、早急に求められます。これが風土学の目標とするところです。(P20~21)ベルクは前出の〈現代の精神的枠組み〉を〈MCWP〉(Modern-Classical Western Paradigm)と別言し、それに代わるパラダイム=風土学を提言する。
(〈MCWP〉がもたらした)近代二元論の抽象作用は、排中律の法則とその様々な属性(機械論、還元主義、分析主義、個人主義、定量主義、資本主義、産業主義など)と相俟って、今日「第六次大量絶滅期」と呼ばれるものを誘発しているばかりでなく、社会的な絆を断ち切り、風景を破壊するという局面まで――換言すれば人類の運命を左右する宇宙性の喪失を招くところまで来ているのである。このような脱宇宙化に対抗し持続可能性を確保するために、私たちは人間存在を再宇宙化し、最具体化し、再び地球に結びつけなければならない。これが、まさに風土学の目的とするところである。(P72)〈ベルク風土学とは何か〉という本題に対し、「〈MCWP〉がもたらした分断を超える通態化である」と回答できる。