2020年3月27日金曜日

日本人の特異なスポーツ観

 新型コロナウイルスの影響で、およそのスポーツが中止を余儀なくされている。去年のいまごろは、日本プロ野球、Jリーグ、そして海の向こうスポーツ中継を含め、メディアの大部分がスポーツコンテンツで占められていたことを懐かしく思う。

そしてなによりも、東京オリンピック、パラリンピック(以下「東京オリンピック」と略記)の延期が決まった。そこで、日本人とスポーツの関係について、大雑把な総括をすることにした。

1964年東京オリンピックとその時代

1964年に東京オリンピックが開催された当時、日本人はそれが世界平和実現と人類融和の祭典だと確信していた。聖火リレーは、古代から伝わる儀式だと信じていた。ところが、実際の聖火リレーは1936年、ナチス政権下で行われたベルリン・オリンピックにおいて、ヒトラーが「アーリア人」の優越性を誇示する演出として初めて取り入れたものにすぎなかった。

オリンピックは当時、崇高なアマチュア精神を体現する場だと伝えられていた。オリンピックにおいては、勝負は二の次、「参加することに意義がある」と。プロ・スポーツはカネのためにやる汚いもの、その反対にアマチュア・スポーツは自身の鍛錬、他者との共存、友情を育む場、アマチュア精神の延長線上として、世界平和、人類みな兄弟の実現が込められていた。

なお、アマチュアスポーツの代表として、英国起源のラグビー(当時はオリンピック競技ではなかったにもかかわらず)は特別な地位を占め、「ノーサイド」が勝負を超越した崇高な精神を象徴する記号と見做され、ラグビーは英国紳士のスポーツとして尊敬されていた。

オリンピックは巨大商業イベント

オリンピックとなると、日本人の多くが1964年当時の認識のままでとどまっている。延期が決まる直前の聖火リレーに多くの人が集まり、聖火がいまだ神聖視されていることを証明した。テレビで紹介される一般大衆のインタビューでも、オリンピックが平和の祭典だと信じている台詞が紹介されていた。

ところが、最初の東京オリンピック開催から半世紀以上が経過した今、スポーツそれ自体が巨大マーケットを形成するに至っている。世界規模で巨大化したスポーツ用品メーカーの成長はいうまでもない。オリンピック開催に伴い、都市インフラ事業、施設建設事業、都市開発事業・・・が動き出す。放映権料、スポンサー料、広告宣伝費といった、メディア関連のカネが動く。オリンピックを運営するIOCに巨額の資金が還流し、国や都市の政治を動かすまでに至っている。IOCを頂点として、開催都市に設置された組織委員会等は巨大利権の巣窟と化し、そこを通じて、関連事業者等が潤う仕組みが確立されている。

それだけではない。オリンピックは、その時々の政治権力によって、狭隘な民族主義、国家主義を醸成する手段として利用されてきたことも忘れてはならない。

日本人は、オリンピックが巨大な商業イベントであることに目をつぶり続けるのだろうか、オリンピックを前にすると、多くの日本人が思考を停止する。ナイーブ(うぶ)な日本人のままでよいのか。

オリンピックの前で思考停止する日本人を育てたのは、大手メディア事業者(テレビ、新聞、広告代理店など)だ。彼らがオリンピックの受益者の一つであるからであり、彼らが自らを守ると同時に他の受益者を守るからだ。彼らがメディアを使って洗脳を続けるからだ。

プロレス、そのナイーブな熱狂

1960年代前半までの日本における人気「スポーツ」の一つがプロレスだった。日本人、とりわけ男性は、ショーであるプロレスに本気で熱狂し、「最強レスラー」力道山の決め技「空手チョップ」を天下の宝刀と崇め奉っていた。

大衆の憧れで、世界最強の男のはずの力道山だったが、東京オリンピック開催の前年、暴力団組員とのトラブルで刺殺されてしまった。力道山を無敵の英雄だと信じていたプロレスファンは、驚き落胆した。それでも、プロレスが真剣勝負のスポーツであるという思い込みは消えなかった。当時の日本人はやはり、ナイーブ(うぶ)だった。いま、プロレスがスポーツだと確信している人は、筆者のまわりにはいない。

「巨人、大鵬、卵焼き」から地方活性化へ――日本プロ野球

1964年頃のスポーツ界といえばなんといっても、「巨人、大鵬、卵焼き」だ。この標語のようなフレーズは、当時も今も変わらぬ人気スポーツである、プロ野球と大相撲の当時の状況をいい当てたもの。「巨人」はいうまでもなく、プロ野球の読売ジャイアンツ、「大鵬」は大相撲の横綱大鵬関だ。だれもが巨人と大鵬を卵焼きのように好きだ、という意味をもつ。

当時の巨人は、強打のON(王貞治、長嶋茂雄)を擁し、V9(連続日本一)の記録を伸ばしていた時代だった。そのころのプロ野球はドラフト制度・FA制度はなく、潤沢な資金を使える巨人は有望新人をほぼ全選手、入団させることができたばかりか、他球団の有力選手をトレードで獲得することができた。つまり、戦力に著しい均衡を欠いての連続日本一だった。

加えて、読売グループの一つである日本テレビ系列が巨人戦を独占放映し、テレビの野球中継は巨人戦しか流れていないような時代だった。セリーグの場合、巨人Vs.5球団、パリーグはセリーグのマイナーリーグという位置づけだった。視聴者が巨人を応援するしかない、という仕掛けが読売グループによって構築されていた。巨人戦の入場券は、プラチナチケットと呼ばれ、読売新聞を購読するとそれがもらえるという仕掛けが用意されていて、読売新聞の部数拡大に寄与していた。

プロ野球はいまでも、人気スポーツであり続けているが、取り巻く環境は変化した。ドラフト制度の施行により、戦力不均衡が是正され、巨人に限らず、どの球団もV9はまず不可能となった。読売=巨人=東京※の一極集中から、各球団のフランチャイズ分散が次のとおり促進された。

日本ハム/札幌(北海道)、楽天/仙台(東北)、西武/埼玉、DeNA/横浜/ロッテ/千葉、中日/名古屋、阪神・オリックス/大阪~神戸、広島/広島、ソフトバンク/福岡(九州)。※巨人・ヤクルト/東京

プロとアマの境界の消滅と「甲子園」幻想

スポーツにおけるプロとアマの領域も曖昧になった。というよりも、もはやアマチュア・スポーツという概念が消滅しつつある。ところが、プロ野球に並ぶ、いやそれ以上に人気のあるスポーツ・イベントが高校野球だ。高校のクラブ活動で野球をする、いわゆる高校野球部の全国大会は特別に「甲子園」とよばれ、モンスター級のイベントに成長している。主催者は高野連、朝日新聞(夏)、毎日新聞(春)で、両社は新聞のみならず系列のテレビ、雑誌等を駆使して、PRを展開する。その人気に便乗して他のメディアも競って報道する。

甲子園大会を構成する高校野球部に所属する選手たちは当然、アマチュアで、報酬はない。ところが、甲子園に出場する高校生は、あたりまえのクラブ活動のレベルを越え、長時間、プロ選手並み、いやそれ以上のハード・トレーニングに毎日明け暮れる。強豪校は、中学野球、リトルリーグで活躍している選手を好条件で入学させ、指導力を見込まれた専門コーチにつけて超高校生級選手に仕立て上げる。強豪校で鍛えられた高校生は卒業後、プロ野球チームに入団し、翌シーズンでレギュラーを獲るまでの完成度を示す。

強豪校に入学できる生徒に与えられる恩恵として、学費免除、寮費(食費等生活費)免除、用具の無償提供、学業免除?…などが挙げられる。現ナマは支給されないが、彼らが高校3年間、純粋手弁当でクラブ活動を行っていたわけではない。

それでも甲子園を愛する多くの日本人は、「甲子園」について、純粋アマチュア高校生による、無私な野球大会だと信じて疑わない。誠に奇異な「甲子園」幻想が継続している。

メディアの洗脳がつくりあげるスポーツ幻想

オリンピックと「甲子園」は――その実態について、日本人が知りながらなのか、それとも、知らずになのか、判断しきれぬものの――神話・幻想として、日本人のスポーツ観、価値観に沁み込んでいるという点で共通する。この神話・幻想を支え維持する仕組みは、巨大メディア産業が構築したものであり、彼らが情報や報道という建前で大衆に一方的に流布したにすぎないのだが、大衆はそれをあたかも普遍的な理念や価値のごとく受け止めてしまう。このような構図を一般に洗脳という。

1964 ~2020年までの半世紀余り、日本人にとってのスポーツとはなんであったのか。この先も、ナイーブ(うぶ)な日本人であり続けるのだろうか。