2024年3月10日日曜日

『未完のレーニン 〈力〉の思想を読む』

●白井聡〔著〕●講談社学術文庫 ●1265円

 本書は、ロシア革命の指導者レーニンの代表的著作物である『国家と革命』『何をなすべきか?』を読み込みながら、レーニンの革命論の本質に迫ることを意図したものである。ところが、著者(白井聡)の本意を離れて、プロレタリア革命の不可能性を証明する方向に論が進んでしまったように筆者には思える。
 その根拠は、著者(白井聡)がプロレタリアートが団結し、階級闘争を闘うことができない理由の論証を試みたことによる。

政治と経済の分離


 資本主義経済体制において、ブルジョアジーによるプロレタリアートにたいする搾取が隠蔽されてしまう主因について考えてみよう。近代国民国家では、市民社会と経済システムが分離しているからとされる。資本主義社会における市民は、フランス革命に代表される革命後に獲得された自由市民の権利――啓蒙主義が謳う自由、平等、基本的人権の尊重、議会制民主主義への参加という普遍的理念――の下におかれている。そのことゆえに、プロレタリアートとブルジョアジーが直接対決する機会を失っているのである。両者にあって、機会は均等に与えられているにもかかわらず、プロレタリアートがブルジョワジーよりも貧しい暮らしをしているのは、自己責任すなわち彼らが努力をしなかったから、能力が劣っていて人生の競争に負けた者だから、という風潮がそのことのわかりやすい表現になる。両者は「生来」、平等なのであるというわけである。
 著者は、政治と経済の分離からだと表現する。
「労働者階級の分断化傾向」とは、はたして本質的なものの直接的な現れなのか、それとも本質的なものが何らかの障害によって逸脱した非本来的な結果なのか。〔中略〕端的な結論を言えば、答えは前者である。すなわち資本制社会においては、プロレタリアートが団結することは根本的にできない。このことは資本制社会の構造から内在的に証明される。〔中略〕資本制社会では政治的支配と経済的支配が分離する。そのため、法治国家として現れる政治権力は〔中略〕形式的には中立な存在とされる。(P353~354)
 著者(白井聡)によれば、近代資本制では「労働力の商品化」の下、ブルジョアジーとプロレタリアートとの対立が和解不可能なものでありながら、前者は後者を暴力的に支配してはいない、つまり人格的支配ではない。そのことが近代資本制と古代奴隷制と異なる点となる。
 プロレタリアートはブルジョアジーの賃金奴隷でありながら、あくまでも身分的な奴隷ではない。商品化されたプロレタリアの労働力は「等価交換」される。つまり経済原理からすれば、労働力商品はあくまでも「公正」に扱われる。ただ実際には、マルクスが「剰余価値」の概念によって明るみに出したこの「公正」な「等価交換」の真只中において搾取がおこなわれている。
 ただし、労働争議というかたちで、プロレタリアートがスト権を行使し、それにたいしてブルジョアジーが暴力団等を使って排除しようとするようなケースは起こりえるのだが、そのような紛争は個別的であり、プロレタリア革命を呼び起こすようなパワーにはならない。

ブルジョア国家による公権力の行使


 次に、著者(白井聡)はブルジョア国家の内実を暴くことによって、プロレタリア革命の不可能性を説明する。ブルジョア国家は、ブルジョアジーとプロレタリアートが前出のとおり和解不可能でありながら、両者の直接対決を隠蔽・回避する仕組みを構造化しているからだという。
 ブルジョア国家は軍隊・警察・司法等の暴力装置を備え、また、それらを円滑に運営する官僚機構も常備している。それらは主に私有財産的法秩序の執行権力として機能する。窃盗、強盗、殺人等の犯罪を防止する、あるいは犯罪者を拘束することで市民社会の安寧が維持されると考えて不思議はない。しかし、前出の労働争議いおいて、労働者側の暴力が進行して、職場を占拠するような事態にいたると、資本側は、国家権力=警察を用いて排除することができる。工場、職場という私有財産を守るという名目で、資本側による労働者にたいする排除(警察による暴力)は法的に正当化される。資本家は直接的に労働者と対峙することなく、国家権力によって法的に守られる。21世紀、フランスの「黄色いベスト運動」と呼ばれる労働者集団による街頭請願デモが法規制を超えて暴力化したとき、警察機動隊が暴力的規制を行い、デモ隊を排除した。「黄色いベスト」というプロレタリア集団は、ブルジョアジーによって私的に規制・排除されるのではなく、国家権力によって排除される。
 ここまでの論点は特に目新しいものではない。マルクス・レーニン主義に関心を抱いた者ならば、みなわきまえているにちがいない。

ロシア革命成就の決定的要因


 プロレタリアートが団結することは根本的にできない、と著者(白井聡)が断言しながら、ではなぜ、ロシア革命が起き、プロレタリア独裁が達成できたのか。筆者は、本書において以下の言説のみに本書のレーニン論(ロシア革命論)に新しさを感じる。
 ロシア革命の勃発の要因を第一世界大戦下という歴史状況を抜きにして語ることはできないことは自明であるが、その成功の端的な要因は、戦時下の総動員体制にある。それはすなわち、労働者および農民という大衆が、総動員体制によって兵士という「特殊な力」へと大規模に編成されていたという状況である。レーニンが「帝国主義戦争を内乱へ」というテーゼによって企てたことは、このような形で現れた「特殊な力」を徹底的に利用することであった。言いかえれば、それは人類史上初めての総力戦によって未曽有の規模で組織された「特殊な力」を質的に転化させることによって、それを一挙に革命の原動力へと転換させてしまったことであった。(P385)
 帝政ロシアが第一世界大戦下にあったことがロシア革命勃発の要因の一つだとする説は、著者(白井聡)がいうように自明のことである。戦時下における民衆のますますの困窮、厭戦気分などがときのロシア皇帝にたいする強い反発となったとされる。困窮はパンを求め、厭戦は身近な人が戦死する悲しみとなって、ツアー体制に対抗する〈力〉を醸成した。そのことはこれまでのロシア革命論で言い尽くされた事柄である。
 著者(白井聡)の新しい視点は、総力戦体制が革命の〈力〉を引き出したとするその一点にある。革命の〈力〉を簡潔に表現すれば、人民の総武装がなされていたということだ。著者(白井聡)が〈力〉と抽象的に表現するその内実は、人民の総武装状況である。
 

前衛によるによる外部注入の必要性


 著者(白井聡)は、プロレタリアートの団結は不可能だと言い、ブルジョア国家においてはプロレタリアとブルジョアの直接対決は公権力により回避・調停・鎮圧されると断言した。
 レーニンもそう考えていたのではないか。民衆蜂起を予感したレーニンは、帝国主義戦争下、民衆の怒りが蜂起を現実化したとしても、その主体はプロレタリア階級ではなく、もちろんプロレタリア階級を含んでいたとしても、プロレタリアートとブルジョワジーとが和解不可能であるがゆえの蜂起だとは考えられれなかった。 革命前の1913年、ロシア総人口の66.7%を農民が占め、雇用労働者は17.0%にすぎなかったという統計がある。そのようなレーニンの現状認識が、『何をなすべきか?』の中核となる〝前衛による外部注入”を必要とする党と民衆との組織論となった。
 ロシア革命が成就されたのは――不可能性を可能ならしめたのは――総力戦体制という戦時体制だったと考えるほかない。ならば、総力戦体制という状況がなければ、プロレタリア革命は不可能であるという結論が導かれていいのだろうか。

レーニンの影響


 日本の「1968年革命」の最終局面(実年代は1970年以降)、日本の新左翼革命派は、革命運動の後退局面において、日本革命成就の条件を軍事〈=力〉と結論づけた。セクトの中には、武器調達や爆弾製造に進むもの、海外革命根拠地づくりを目指して日本を飛び出したもの、対立する党派を反革命集団と位置づけ、それを殲滅することが革命の第一歩だとして殺人を辞さない内ゲバ闘争に純化したもの――などが蠢動した。いずれもが軍事〈=力〉をプロレタリア革命の最重要事項と認識したことに変わりない。だが、やがて彼らは自壊の道に進んだ。
 「1968年革命」からおよそ半世紀前の帝政ロシアでは、日本の革命家が喉から手が出るほど欲しがった武器をブルジョア国家が民衆に供与した。革命家が熱望する〝全人民武装”がなんなく達成されたのである。レーニンにとって、千載一遇のチャンスっだった。
 著者(白井聡)がいうところの革命側の〈力〉は、前出のとおり、皮肉にもプロレタリアと対立するブルジョア国家によって、与えられたのだった。そしてその〈力〉を構成する者は、農民、労働者、商工業者の混成であり、彼らは国家が擁する暴力装置の中の最強部隊すなわち兵士という身分だった。
 ロシア革命は、秀逸な理論家であり、忠実なマルクス主義者であり、卓抜した戦略家でもあるレーニンが指導した革命である。ロシア革命をプロレタリア革命とよぶよりも、「レーニンの革命」とよぶほうがふさわしいような気がしてくる。未完のロシア革命ともいえようか。〔完〕