2024年3月7日木曜日

『危険社会 新しい近代への道』

●ウルリヒ・ベック〔著〕●ウニベルシタス叢書(法政大学出版会)●4700円+税 

 階級状況における危険への曝され方と危険状態における危険への曝され方とは決定的に異なる。図式的に言えばこうである。階級状況では存在が意識を決定したのに、危険状態では反対に意識(知識)が存在を決定するのである。(本書P81)

 「存在が意識を決定した」という文言はいうまでもでもなく、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』にある「生活が意識を決定する」を敷衍した表現である。ベックは、本書副題「新しい近代への道」を付し、資本主義国家における社会のありようの大雑把な歩みとして、19~20世紀初頭=階級社会、~20世紀中葉=福祉社会、そして20世紀末~21世紀に至る社会が危険社会だという認識を前提とし、〈前近代〉→〈単純な近代=産業社会〉→〈自己内省的近代=危険社会〉という対応関係を設定する。 

危険社会とはどのような社会なのか 

 危険社会とはなにか――社会の発展が生み出した産業社会のさまざまな矛盾の一つの表出である。たとえば、大気汚染、有害食品、無秩序な森林伐採等による自然環境破壊、地球温暖化による気候変動・異常気象、そして原子力発電所事故により発生する放射能汚染等である。本書が著わされた1986年にはチェルノブイリ原発事故(1986/4/26)が発生している。これらのリスクは社会内の階級、階層を問わないばかりか、国民国家の国境を超え、すべてのpeopleにふりかかる。危険は国民国家の社会内の集団、階層、階級にふりかかるものではないから、経済闘争、政治闘争の目標になりにくい。 

 21世紀(2011/3/11)に発生した福島第一原発事故を経験した日本人は、危険社会を切実に実感している。そして隣国は、日本政府が行った高濃度の放射性物質を含んだ 「汚染水」の海洋放出にたいして、抗議の声を上げている。いままさに、人類は危険社会に生きている。 

近代国家、福祉国家 

 近代国民国家は、市民社会と経済活動が分離している。18世紀後半から19世紀にかけて、アメリカ合衆国を含めた西欧においては、啓蒙主義、革命、共和国制(立憲君主制を含む)をほぼ達成した。それ以降形成された市民社会においては、市民(citoyen)は啓蒙主義が謳う自由、平等、基本的人権の尊重、議会制民主主義への参加という普遍的理念の下におかれている。ところが、経済的支配はブルジョワ( bourgeois)に独占されていて、市民の中の労働者(proletariat)は下層(階級)に押し込められている。ブルジョアもプロレタリアも市民として同等の権利をもち、普遍主義的基本的人権を保証されているとされながら、後者は実態的には二級市民である。 

 20世紀に入り二つの世界大戦を経た後、市民社会における階級格差を調整する福祉国家が誕生する。それを生み出したイデオロギーが社会民主主義である。国家の中枢に位置する政治は官僚機構を通じて、経済格差が暴力をともなう社会主義革命へと波及しないよう、所得の再配分、雇用確保、労働条件の改善等の社会政策を実施した。福祉国家とは介入国家のことでもある。 

個人化そして自己内省化 

 産業の高度化に伴い、福祉国家内の市民社会に変化が訪れる。ベックは旧西ドイツにおける最初の変化を個人化と呼んでいる。それまでの産業社会を円滑に運営してきた核家族(夫婦・親子・結婚制度等)、学校、職場、宗教、ジェンダーが見直されるようになっていったのだ。産業社会では男女が結婚して(核)家族をつくってきた。そして、夫(男性)が働き、妻(女性)が家事・子育てを行うという分業体制が一般的となっていた。 

 ところが、女性も仕事を続け自立し、離婚が増加したばかりか、そもそも結婚しないカップルのほうが当たり前となる。非婚社会では、生まれた子供の血縁としての父親と育ての父親は異なることが多くなる。母親も働いているから、父権は喪失する。労働環境にも劇的な変化が訪れようとしている。マイクロ・エレクトロニクスの発達により職場は解体され、在宅ワークが増加する。パートタイマー、派遣社員等の非正規社員が増加し、労働組合の役割はそれほど大きくなくなる。福祉国家の基礎となった共同体は社会変容に従って、なし崩し的に解体する。かくして、社会は個人化から自己内省化という未知の社会へと変わろうとしている。 

 われわれがいま生きている世界は、否定的な側面ではレーニン時代に似ており、肯定的な側面ではそれと似ていないという、全き不幸な状態にある。(『未完のレーニン 〈力〉の思想を読む /講談社学術文庫/白井聡〔著〕)

 〝レーニンの時代”とは帝国主義国家同士が総力戦を戦っている時代である。世界がその時代に再帰していくことだけは阻止しなければならない。

 なお余談だが、日本で在宅ワークの普及をみたのは、21世紀のコロナ禍であったことを考えると、ベックが1980年代にすでにその普及を実感していたことは、日本とドイツの国情の違いに驚くばかりである。

科学・技術と危険社会 

 そもそも危険は産業の発展、科学・技術の「進歩」がもたらした副作用である。ところが、「進歩」を牽引してきた科学・技術(界)は、社会の変化に規定されない特別の世界として、独自の価値観・行動様式に基づいて運営されている。科学・技術(界)は、政治・官僚機構・社会の干渉を退け自律したままなのである。その思想とは、「科学・技術の進歩イコール社会の進歩」という予定調和説であり、政治・行政・社会もそのことを疑わず、介入することがなかった。

 いや、疑わなかったというよりも、「進歩する科学」という信仰を利用してきたともいえる。たとえば、食料品における有害物質の含有量は、安全基準という科学が決定したメルクマールによって、単一の食材ごとに定められている。ところが、人間はきわめて多種の食材を摂取する。ざっと1日3食に摂取する食材の品目を数えてみても、朝はパン、サラダ、タマゴ、ベーコン(ハム)、チーズ、コーヒーに砂糖にミルク、昼は、夜は・・・というわけで、食材のトータルな有害物質含有量は安全基準をゆうに超えた数値を記録することは明白である。個々の安全基準を超えない許容数値を定めても、総量すなわち複合的汚染を「科学」は指摘しない。 

 行政と「科学」は共犯関係にあり、行政は「科学」の無謬性(神の代替品)を利用してきた。「科学」が科学的でないことは産業社会にあって、至極当たり前なのである。「科学」側の反論もあろう。安全基準を設定してから数年経過したところで、病人も死者は出ていない、だから「科学」が決定した基準の安全性が証明されたのだと。しかし、これから数百年先の人類にどのような影響が出たのかをだれも確認することができない。「科学」の無謬性はこうして社会に定着してしまっている。

科学・技術というサブ政治 

 「科学」は批判の対象とならないことから、サブ政治化する。サブ政治とは聞きなれない言葉だが、「サブカルチャー」という概念をわれわれは熟知している。それは、〝社会の支配的、伝統的な文化に対し、その社会の中のある特定の集団だけがもつ文化的価値や行動様式"のことである。サブ政治も同様に、社会を支配する政治に対し、ある特定の集団(ここでは「科学」界)だけがもつ政治システムのことである。しかも、「科学」が上位であって、本来政治は下位にある。 

 ベックは、科学のなかでも医学界をサブ政治の典型的事例として挙げている。医学のなかで医療というサブ政治は、強固で他を寄せつけない。もろもろの新薬開発、感染症予防ワクチン、難病治療薬、病院制度、医療従事者、健康保険といった幅広い分野について、科学者、医師、看護師、医療技師、製薬会社、医療機器メーカー等、行政(官僚機構)、政治家が、横断的に協同関係を保持し活動している。近年では、それにマイクロ・エレクトロニクス業界、マスメディア、金融業の参入も顕著である。政治(立法府)・行政(官僚機構)が関与しないわではないが、決定のイニシアチブをもっていない。直近の新型コロナ禍における mRNA(メッセンジャーRNA)ワクチンの開発とその接種に係る社会の騒乱は記憶に新しいところである。政治も行政も科学的確信のないまま、それを許可せざるを得なかった。 

科学・技術を正常に戻す処方箋 

 「科学は進歩しなければならない」というテーゼがまちがっているわけではない。ベックが挙げた人工授精やクローン人間の製造というおぞましい「進歩事例」は、「科学の進歩」を意味しない。それは人間の邪悪な欲望の赴くままに科学を操作した行為にすぎない。科学の進歩を止めてはならない、というテーゼにかわりない。科学を正常に戻す処方箋が必要なのである。そのことについて、ベックは次のように書いている。 

 未来に逃避する人間遺伝学を現在に引き戻すには(中略)、サブ政治の影響力を一定範囲で育て法的にこれを保障すること(中略)。最も基本的なものは、強力かつ独立した司法、それからマスメディアの受け手としての強力かつ独立した大衆である。(中略)〔そして〕これを補完するものが必要となる。独占を行うものが等しく価値を認めるのは自己統制であるが、この自己統制は自己批判によって補完されなければならない。つまり、職業的専門家と企業による優位に対抗し苦労して勝ち取ったものは、制度的にこれが保障されなければならないのである。例えば、専門家の見解に対する対抗専門家の専門的見解、オルタナティブな職業活動、企業や職種内部において自分たちの活動がもたらしている危険について自由な議論ができること、懐疑主義の放逐などである。(中略)つまり批判すなわち進歩である。医学と医学が対決し、原子物理学と原子物理学が対決し、人間遺伝学と人間遺伝学が対決し、情報工学と情報工学が対立する。このような対決が存在し得て初めて、実験室の中で、われわれの将来がどのように扱われているかについて知ることが可能になる。そして評価もできるようになるのである。さまざまな形で批判ができるということは決して脅威でも何でもない。むしろかつては見逃されていた、あるいは現在も見逃されている誤りを前もって発見する可能性があるということである。(P457~458) 

 ベックの処方箋が、危険社会を克服するそれとしても有効だ、と筆者は確信する。〔完〕