2025年2月28日金曜日

『近代天皇像の形成』

 ●安丸良夫〔著〕 ●岩波書店 ●2400円(税込) 

 本書は、近代天皇制を考えるうえで、まさに必読の書のひとつだといえよう。幕末、ペリー来航を奇禍として、盤石だった幕藩体制の崩壊が始まるなか、超越的権威としてせり上がるように登場する〈天皇像〉を析出する著者(安丸良夫氏/以下「安丸」と略記)の筆致に思わず興奮を覚えた。 

実際の天皇(像) 

 本題には天皇像とあるが、実体としての天皇を描出した箇所はきわめて少ない。そのような観点からすると、おなじく近代天皇制の成立過程を詳論した、これまた名著のひとつである『天皇の肖像』(多木浩二〔著〕)とは対極的である。 安丸が本書で描きだした実際の天皇の像(姿)を以下に引用する。

…岩倉によって、不世出の英王であり王政復古の大業はすべてその判断によっているとされた天皇は、実際には白く化粧し画き眉をした十五歳の少年であり、まだなんの政治的識見や判断力をもっていなかったということである(天皇は、翌年正月十五日に元服し、童服を脱いで成人の印にオハグロをつけた)。現実の天皇がそのような存在であること、天皇の意思とされていることは政治的実権を掌握しようとしている人びとの意思にほかならないことは、誰でも知っていた。(本書P165~166) 

 この引用箇所の背景について補足する。岩倉とは岩倉具視のこと。王政復古の大号令が発せられた1867(慶応3)年、天皇(睦仁/むつひと。明治天皇)〔註1〕 の面前で第15代将軍徳川慶喜を朝議に参加させるべきか否かの会議(小御所会議)が開かれ、そこで大激論が戦わせられたときの天皇の姿の描出である。この会議では越前藩主松平慶永や土佐藩前藩主山内豊信は、慶喜の参加を強く主張した。慶喜を朝議に参加させれば、旧幕府を含めた雄藩連合政権の方向へすすみ、日本は、西欧諸国の立憲制度の形式を模した公議政体論の理論的枠組みとなったはずだった。ところが、岩倉具視ら一部公卿と薩摩藩は徳川氏排除を主張し、天皇の権威を高く掲げた絶対主義的政権の完成を主張した。この席で、岩倉・薩摩藩に怒った山内が「幼冲ノ天子ヲ擁シテ権柄ヲ竊取セン」と非難したところ、岩倉が、天皇は「不世出ノ英材」であり、王政復古の大業は「悉ク宸断ニ出ヅ」と山内を叱りとばしたシーンにあったという。白く化粧し画き眉をした十五歳の少年を不世出の英材と断じることはあまりにも無理があるはずだが、この会議は御所のすべての門を西郷隆盛(薩摩藩)が指揮する軍隊が固めていたというから、岩倉らは絶対主義的政権樹立をはなから成立させるつもりだったのである。
 実際の天皇の姿を描出した資料としては、イギリス公使ハリー・パークスに従って天皇に謁見する機会をもった外交官アーネスト・サトウの回顧録の記述がある。 

天皇はまだ伝統的世界のなかにある不活発な君主という印象をあたえている。白く化粧をし、謁見者に直接は言葉をかけず、天皇の言葉は介添え役(山階宮)が述べるという、間接的な方法による伝統的謁見であった。(『天皇の肖像』からの再引用/同書P9) 

 アーネスト・サトウが天皇に謁見したのは、1869年(明治2年)1月5日だったから、前出の小御所会議の2年後になる。元服した後も不活発な天皇であったことはまちがいない。 

〔註1〕明治天皇(1852年11月3日~ 1912年7月30日)。在位は1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉~ 1912年〈明治45年〉7月30日)。 

 安丸は、併せて、幕末、王思想を標榜して幕府打倒を目指した志士たちの天皇観を以下のとおり紹介している。 

明治維新が、天皇を「玉」と呼び、「玉を抱く」「玉を奪ふ」などの露骨な隠語で、天皇を権謀術数の手段とした志士たちによって遂行されたことは〔遠山、1972、202頁〕、よく知られている。近代天皇制は、18世紀末以来の尊王論や国体論の発展を背景にもちながらも、直接にはこうした権力政治の渦中から成立した。むきだしの権謀術策性のゆえにこそ、誰も表向きには反対できない超越的権威としての天皇が前面へ押しだされ、権威にみちた中心がつくりだされなければならなかったのである。(本書P164) 

 この引用箇所こそが、安丸の明治維新論もしくは近代天皇像形成論の核心にあたる。明治維新とは、辺境諸藩および公家らが共謀し、徳川家とそれを支持する旧主派諸藩による日本支配を武力によって倒したクーデターあるいは革命にほかならない。幼い天皇を神話と祖霊崇拝等を駆使した呪術的手法により、徳川幕府の権威に対抗するばかりか、それを凌ぐ超越的権威に高めたのは、いまに思えば、マジックとしかいいようがない。近代化にむけた国家統治のイデオロギーとして、▽旧幕府を含めた雄藩連合政権体制か、▽絶対天皇制か、という二択しかもちえなかったことは日本の近代化における不幸のはじまりである。儒学・国学によって構築された絶対天皇制(論)は、西欧の17世紀からはじまる絶対王政を打倒し、自由を希求する市民革命のイデオロギーを醸成できなかったのである。

近代天皇制と国民国家 

 安丸は、明治維新国家と西欧国民国家成立の共通性を認め、おおむねの次のように評している。その共通性とは国民国家という共同体を成立させる幻想のことをいう。国民国家は、きわめて旧いとされる伝統に国民的アイデンティティのよりどころを求めて、伝統の名によって当該社会を統合していく民族的活力をひきだそうとするところに由来する。
 その伝統とは、歴史を国民国家の課題にひきよせて作られた構築物にすぎないのだが、作為性はほとんど無意識のうちに隠蔽されて、歴史は現在を照らしだすための鏡となり、それが〈発明された伝統(E・ホブズボーム)〉にあたるということ。そして発明された伝統は19世紀中葉以降の西欧における国民国家統合の実現と同期していること。
 そればかりではない。黒船来航は、日本が「世界システム」(ウォーラ―スティン)に組み込まれようとする大転換期を象徴する事柄であり、「世界システム」および前出の国民国家統合の実現という世界史的同時性が、明治維新と近代天皇制成立の背景にあることはおさえておく必要があろう。

近代天皇制はいつ成立したのか 

 本書が近代天皇〈像〉の成立を論じたものであるから、天皇および天皇像がその後、どのように展開したかについては埒外であることはいうまでもないが、その一方で、尊王派勢力が暴力革命によって維新政府を樹立したことをもってただちに近代天皇〈制〉が成立したと考えることもできないのである。
 加えて、幕府派と尊王派の抗争は権力内における内部対立であるから、その外部にある民衆・生活者が後者によって擬制的につくられた天皇像を一気に受容するわけでもない。民衆・生活者が尊王派が提起した超越的権威である天皇像をなんの媒介もなく受けいれるはずもない。つまり、権力闘争における一方のイデオロギーのアイコンが、権力とは無関係にある人民に浸透した過程をたどってこそ、近代天皇像の成立とするべきだという立場もあろう。
 維新政府が人民にむけて天皇像のプレゼンテーションを行った経緯については、前出の『天皇の肖像』に詳しく描かれていることはすでに述べたとおりであり、詳しくは同書をあたられたい。ここでその代表的なものを挙げるならば、行幸、錦絵、肖像画、写真(御真影)、メディア、行政指導、教育等の利用があった。維新政府がこれらを駆使して、天皇の具体像を与え、しだいに人民の側に天皇のイメージが定着するようになる。しかし、こうした視覚的・観念的天皇像の強要には限界がある。人民・生活者が天皇を強烈にイメージするようになったきっかけは、徴兵制と対外戦争だったのではないかと筆者は考える。
 近代天皇制の成立(1868)から崩壊(1945)の期間は77年間であり、3人の天皇が(明治、大正、昭和の各天皇)が在位した。その間、日本帝国は日本史上特記すべき対外戦争として、日清戦争(1894)、日露戦争(1904)、日中戦争(1937~1945)、太平洋戦争(1941~1945)を戦った。〔註2〕 

〔註2〕第一次大戦、シベリア出兵も小規模な対外戦争である。また、日中戦争と太平洋戦争を一括りにしてアジア・太平洋戦争とも呼ばれる。

 これらの戦争を機に、日本帝国は台湾、韓国、中国北東部(満州)、インドシナ、南洋諸島へと版図を広げたのだが、維新から16年後の日清戦争が果たした近代天皇像成立への影響もしくは関与を筆者は疑うことができない。
 日本帝国軍の歴史は、戊辰戦争〔註3〕に勝利した板垣退助による御親兵の創設構想から発した。板垣らは、明治2年5月(1869年6月)、旧幕側外国人将校、旧伝習隊・沼間守一らを土佐藩・迅衝隊の軍事顧問に採用してフランス式練兵を模倣し、さらに国民皆兵を断行するため、明治3年12月24日(1871年2月13日)、全国に先駆けて「人民平均の理」を布告し、四民平等に国防の任に帰する事を宣した。維新政府は富国強兵を国策に掲げ、明治4年(1871年)2月には長州藩出身の大村益次郎の指揮で明治天皇の親衛を名目に薩摩、長州、土佐藩の兵からなるフランス式兵制の御親兵6,000人を創設。常備軍として廃藩置県を行うための軍事的実力を確保した。この御親兵が近衛師団の前身にあたる。
 その一方で維新政府は、廃藩置県・廃刀令で武士階級を消滅させた後、明治6年(1873年)に徴兵令を施行する。 士族反乱、西南戦争等の内乱鎮圧を経て、徴兵制度の施行に伴い国民軍としての体裁を整えていった。その後、陸軍省が創設され、明治11年(1878年)に参謀本部が独立する。 

〔註3〕戊辰戦争(慶応4年・明治元年〈1868年〉~ 明治2年〈1869年〉)は、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と、旧江戸幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が戦った日本近代史上最大の内戦。名称の由来は、慶応4年・明治元年の干支が戊辰であることからきている。 

 ここで注目すべきキーワードともいえるのが、「人民平均の理」であり四民平等に国防の任に帰する旨の宣である。 日清戦争は徴兵令施行から21年後に起きた。対外戦争が人民平等の下に犠牲を伴い戦われ、アジアの大国である清国に勝利したことで、超越的権威としての天皇像が人民に内面化され、国民は真に天皇の下に包摂されたのではないか。維新政府は対外戦争を国民皆兵という施策のもとで軍事国家化を成し遂げ、新たな天皇像=軍神として天皇を祀り上げることにより、そのことをもって、「全国民平均」に君臨することができた。日清戦争開始から勝利の瞬間こそが、近代天皇制成立であり、全国民平均的に軍神としての近代天皇像が成立した瞬間だと筆者は考える。
 その副作用は、アジア人蔑視、排外主義、帝国主義であり、日清戦争からアジア・太平洋戦争敗戦までの戦争の時代において天皇がはたした役割については、本書の枠外ではあるものの、近代天皇像を変化するものとしてとらえ、かつ、対外戦争と関連して論ずる必要があると、筆者は考える。

現代天皇制について 

 安丸は本書「第9章 コメントと展望」において、今日の天皇制について論じ、天皇制が国民国家の編成原理として存在し続けていることを指摘する。そして、その中で、天皇制が政治とは一定の距離をとった儀礼的な儀式のもとで、誰もが否定してはならない権威と中心を演出して、それを拒否する者は「良民」ではない、少なくとも疑わしい存在と判定されるのだという選別=差別の原理をつくりだしている――という。こうした選別=差別の原理としての天皇制は、穢れへの神経症的恐怖とでもいうべき極端な浄・不浄観によって構成されている神道儀礼と固く結びついていること、天皇家の人びとが、誠実・生まじめ・幸福などを模範的に体現し、さまざまの人間的苦悩を押しかくして清浄人間を演じなければならぬこと、支配層もまた、政治の毒をあびない「天空にさん然と輝く太陽のごとき」存在として天皇制を位置づけようとしていること――の危うさを指摘する。
 近年強まる他者にむけた差別・排除の傾向の中心に天皇制があり続けていることの安丸による別言であろう。〔完〕 

2025年2月21日金曜日

梅満開

 列島を大寒波が襲っている今日この頃、

東京の梅は満開である。




2025年2月18日火曜日

『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』

 ●橘 玲〔著〕 ●文春新書 ●1900円+税 

 ビッグ・テックと呼ばれる巨大IT企業がアメリカのみならず世界経済を牽引するようになった。それら企業の創業者たちは巨額な富を築いている。彼らは20世紀の億万長者とは趣を異にしている。彼らの成功への道筋には汗のにおいがしない。彼らはギフテッドと呼ばれる理数系の天才たちで、彼らの知能が巨額の富と直結しているからだ。20世紀の億万長者たちの成功への道のりが労苦のそれであったとするならば、ビッグ・テックの成功者たちのそれは、知能そのものとなっている。その知能と成功が彼らを万能感に浸らせているように思える。 

 ビッグ・テックの成功者の中から、テック・ライト(テック右派)と呼ばれるグループが形成された。トランプ新政権に入閣したイーロン・マスクがそれを代表する。彼らのイデオロギー(思想)の第一の特徴は、自由を最重要視することだ。その結果として、経済活動に係る政府の関与をよしとしないのみならず、個人の生活、表現、行動において、政府に規制されることを望まない。このような傾向は、米国の建国以来培われてきたイデオロギーであるリバータリアニズム(それを信奉する者をリバタリアンという)と酷似している。そこから、テック・ライトの別称として、本題にあるテクノ・リバタリアンという呼称があたえられるようになった。なお、リバータリアニズムとトランプ主義については、拙note(https://note.com/tokyoriki/n/n59277b6ec4fa) を参照のこと。 

 テック・ライトとトランプの接近が表に出始めたのは、2024年の米国大統領選挙からだった。彼らの狙いは、バイデン政権が行ってきたテック関連産業における規制をトランプ新政権誕生により撤廃もしくは緩和されることを期待したからだ、と報道されるようになった。 

 しかし、彼らとトランプの蜜月関係は、2022年のイーロン・マスクによるツイッター買収からはじまっていたようだ。ツイッターの創業者ジャック・ドーシーはトランプと一線を画し、トランプのアカウントを凍結した。とはいえ、バイデンの民主党政権がビッグ・テックと一線を画していたというわけではない。以下の記述は主に、「偽情報・ディープフェイク もう一つの大統領選(内田聖子〔著〕『地平2025年1月号』/以下「前掲書」という)のリポートに拠る。 

 内田によると、ツイッター社が2020年に民主党政権に投じたロビー資金は90万9,431ドル(約1億2,000万円)で、共和党にはわずか1万4,137ドル(約190万円)にすぎなかった。つまり、簡単にいえば、イーロン・マスクが買収する前のツイッター社は民主党よりだったということにすぎない。民主党政権時代のFBIや移民・関税執行局(ICE)などの連邦機関はビッグ・テックの監視技術を購入することで移民や市民の監視を進めていたのである。2020年当時、テック・ライトという党派性をもったグループが形成される以前は、テック企業と政府の結びつきについては、それほど報道されていなかった、と別言できる。この緩やかな流れが急変したのが2024年の大統領選挙中であり、以降、強く社会が認識するようになったと言える。

 そのさなか、Facebook、Instagram、X(旧ツイッター)、You Tube、Tic Tokなどは、それまで公表してきた選挙の公正性に関するポリシー、たとえば、「政治や選挙に関連する暴力を助長するコンテンツを特に禁止する」「生成AIで作成されたコンテンツにはその旨をラベル付けする」という措置を翻していく。そして、(民主党政権下における)SNS上の言論規制、政府の非効率性、経済活動に係る規制を攻撃するようになる。彼らの狙いは、「自由」を建前とした、たとえば自動運転自動車の安全性に係る規制の撤廃であり、NASA廃止による宇宙開発事業の民営化である。イーロン・マスクはテスラという自動運転自動車の実用化のための研究開発を進めているし、宇宙開発事業にも手を出している。NASAが解体されれば、その事業を概ね自社が受け継ぐことができる。 

 〈建前の自由〉と〈本音の利権獲得〉が米国の大衆の目には映りにくい。米国のマジョリティーにとっての民主党(政権)は、1930年代のニューディール政策以来、大きな政府という刻印が押された存在であり、連邦政府を通じて、自分たちの税金が貧困者(働かない怠け者)に配られていると思い込んでいるからだ。トランプ2.0発足からすぐ、イーロン・マスクは政府効率化省(Department of Government Efficiency, DOGE)のトップに就任し、連邦政府機関の解体を進めている。このことは、米国のマジョリティーにとっては拍手喝采の快挙に見える。 

 テック・ライトの狙いは彼らが率いるテック企業による利益の最大化にとどまらない。本書に詳述されているように、彼らは議会(立法)・司法・行政という権力の分散化を非効率として退け、①有能な独裁者(dictator)による執政、②自由な経済活動による経済活性化、③頭の悪い大衆を管理するためのコンピューターの高度な技術開発の完成――による経済発展と安定した社会の構築を目指す。 

彼ら(テック・ライト)は民主主義を否定し、その代替として、心理学や神経科学とAIを組み合わせるかたちで、「マインドハッキング」「サイコグラフィックス」「デジタルコカイン」などの用語で言われるような、人間の意志決定の操作を目的とする研究開発、実装を日々進めている。AI/アルゴリズムを使ったプロファイリング、ターゲッティング等による人々の「部族化」は、特定の政治傾向の過激化・極端化をもたらし、異なる意見を聴く寛容性をますます困難にしている。すでに米国では、政党や党派などによる意見の極端化・分極化に加えて、愛着や強い支持、そして別の集団への感情的な敵対心が高まる「感情的分極化(affective polarization)が生じていると指摘されている。(前掲書P37~38)

 トランプとテック・ライトが目指す近未来社会がどれほど恐ろしいかは想像に難くない。リバタリアンはトランプ政権の下、完全な自由の実現を目指すとしながら、実は完全に自由が奪われたデストピアを構築しようとしているのである。米国のマジョリティーがそのことに気がつくのかどうか不安だが、日本に暮らす者は、米国すなわちトランプの真似だけはしないよう、日本政府を監視し続ける必要がある。 〔完〕

2025年2月14日金曜日

北浦和公園

 JR北浦和駅から至近の同公園は広い。

1970年代に埼玉大学の移転跡地につくられたという。



写真右にあるのが近代美術館


日本を含めた各国のアーチストの美術展が開催されている。








埼玉県立近代美術館

 この美術館にはすてきな椅子が設置されていて、自由に座ることができる。







メキシコへのまなざし(Eyes on Mexico)

  戦後日本とメキシコの美術交流を集成した「メキシコへのまなざし(Eyes on Mexico)」を鑑賞してきました。北浦和にある埼玉県立近代美術館にて、前期が3月23日まで、後期が3月25から5月11日までの開催。

埼玉県立近代美術館








2025年1月31日金曜日

『ザ・バンド 来たるべきロック The Band: The Rock Yet to Come 』

● 池上晴之〔著〕 ●左右社 ●1980円

ザ・バンド(THE BAND)のメンバー 、ガース・ハドソン(Garth Hudson)逝去の報が入った。ザ・バンド好きの親友J氏(以降、敬称略)からのDMだった。ガースの死をもって、メンバー5人(Robbie Robertson, Levon Helm, Richard Manuel, Garth Hudson, Rick Danko)が来世に旅立ってしまった。ご冥福を祈ります。  ガース訃報を聞く前に本書を読み終えたところだった。本書との出会いは、偶然にも書籍広告が目に入ったことだった。そうか、忘れられていなかったのだ、単行本が出るほどの知名度がこの日本にもあるのだ、とさっそく読んでみたところ、期待に違わぬ素晴らしい内容だった。筆者の知らないことが山ほど収められていた。ザ・バンドについてこんなにも深い知識をもち、解説できる日本人がいたのだ、しかも筆者より若い。著者(池上晴之氏/以降、敬称略)の「ザ・バンド愛」に敬服した次第だ。  さはさりながら、多少の違和感を覚えた箇所がなかったわけではない。ならば、その違和感を媒介にして、自分なりにザ・バンドについて思うところを書くしかない。以上が、拙稿執筆に向かった経緯であり、動機である。
 

§1.Music From Big Pink


 筆者がザ・バンドのLPレコードを初めて聴いたのは、Jの社宅、1970年万博開催中の大阪だった。Jは米軍関連の仕事をしていた。彼が聴かせてくれたのは、ザ・バンドのファースト・アルバム、”Music From Big Pink”、衝撃を受けた。ザ・バンドについては、映画『イージー・ライダー(Easy Rider)』の挿入曲”The weight”を知っていたが、このアルバムはいままで聴いていた音楽すべてと違っているように思えた。その時以来今日まで、筆者はザ・バンドをこよなく愛し続けている。
 ちなみに、『バンド・スコア/ ザ・バンド「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク(シンコーミュージック発行)』には、各楽曲の譜面上部に、次のような解説が記されている。

[MUSIC FROM BIG PINK]


TEARS OF RAGE (Words by Bob Fylan Music by Richerd G Manual)
 リズムの重いゴスペルタッチの曲

TO KINGDOM COM (Words & Music by Jaime Robbie Robertson)
 R&Bの濃いナンバーだ。特にリズム隊がその色を強く出している。

IN A STATION (Words by Bob Fylan Music by Richerd G Manual)
 キーボードのリチャード・マニュエルが書いた曲らしく、キーボードでハーモニーを出している。メインとなっているのはドイツが生んだ名器ウーリッツア〔註1〕である。これは独特な音なので出来ればこの音色で行きたい。しかし現物を揃えるのは大変なので、ヴィンテージ・シンセの音色が入っている音源を探してこれを使おう。

CALEDONIA MISSION (Words & Music by Jaime Robbie Robertson)
 ゴスペルのニュアンスが強い曲だ。

THE WEIGHT (Words & Music by Jaime Robbie Robertson)
 このアルバムからの最初のシングルである。チャート的にはさほど上がらなかった、ザ・バンドの曲の中では最も有名な曲。実際に演奏する上でもハッキリしたメロディ、分かりやすいビート感の影響で難しい曲が多い中、比較的楽に取り組める曲である。

WE CAN TALK (Words & Music by Richerd G Manual)
 ザ・バンドの曲の中では軽快なビートを出しているナンバーの1つ。従ってバンドで取りくみやすい曲である。ヴォーカルはリチャード・マニュエル、リヴォン・ヘルム、リック・ダンコの3人が絡み合うように歌っているので、なかなかこの雰囲気を出すのは難しい。幸い3人のパンニング〔註2〕がしっかり成されているので、何処を誰が歌うかはハッキリ決められる。ザ・バンドのヴォーカル・アンサンブルは、ソロあり、ユニゾンあり、ハーモニーありと多彩だが、そのどれもが緻密な計算の上に成り立ちながらも、それをラフに表現している所が魅力である。また一聴すると頼りなさそうに感じるが、実はかなり骨太なヴォーカなのである。

LONG BLACK VEIL (Words & Music by Danny Dill and Marijohn Wilkin)
 淡々としたリズムのカントリー・タッチの曲。このCDの収録曲でザ・バンドのメンバー、もしくはボブ・ディランが作ったモノではない唯一の曲である。〔中略〕シンプルな曲だが、詩の内容は深いので、ヴォーカの人は詩をよく読んでから歌ってもらいたい。このようにアメリカのフォーク・カントリーでは内容と曲調が一致しないような事が多いので、ちょっと我々の感覚とは違うというのを認識してかかるといい。

CHEST FEVER (Words & Music by Jaime Robbie Robertson)
 ギターのロビー・ロバートソンの作で、ロック色濃いナンバー。イントロのオルガンはガース・ハドソンのプレイによるモノ。ハモンド・オルガンのレスリー〔註3〕を通し、オーヴァー・ドライヴさせた音色だ。フレーズはバッハのニ短調の『トッカータとフーガ』を基にしている。ザ・バンドのこの後のライヴではオルガンのアドリブ・ソロがあり、それがそのままこの曲のイントロに繋がるというのが恒例になっている。

LONESOMESUZIE (Words & Music by Richerd G Manual)
 リチャード・マニュエル作の珠玉のバラード。孤独なスージーに切々と語りかけているのが伝わってくる。シンプルな構成の曲

THIS WHEEL’S ON FIRE(Words & Music by Bob Dylan)
 ボブ・ディランとリック・ダンコの共作。Ⓐ メロは珍しくマイナー・キーになっている。Ⓑ以降はメジャー・キーになるが、曲調に変化が付くので、この差はハッキリ出したい。

I SHALL BE REALEASED (Words & Music by Bob Dylan)
 ボブ・ディラン作のこの曲は今なおカヴァーされることも多い名曲。リード・ヴォーカルはリチャード・マニュエルで、素晴らしいファルセットを披露している。典型的なバラードであるが、リズムは意外にもタイトにまとめられ、しかもパターン化されている。

〔註1〕ウーリッツア:ドイツのウーリッツァ社が1954年から1983年まで製造販売していた電子ピアノ

〔註2〕パンニング:(panning)とは、ステレオやサラウンドなどの多チャンネルオーディオにおいて、音像定位を(多くは水平方向に)変化させる表現、またはその機能。単にパンとも呼ぶ。

〔註3〕レスリー:レスリー(スピーカー)は1940年にアメリカでドン・レスリー(Donald J. Leslie)によって開発されたロータリースピーカー。 内蔵の「ホーン」や「ローター」と呼ばれる音の出口を物理的に回転させることによってドップラー効果を生み、独特な揺らぎを伴ったサウンドを発生させる。
 バンド・スコアに付されたものなので、演奏上の注意点が主に記述されている。その部分は省略し、各曲のコンセプトが記されている部分のみを転載した。このアルバムの多様性が理解しやすい。

§2.文化多様性とアメリカーナ


 ザ・バンドについて話を進める前に、彼らがリリースしたLP盤アルバムを時代順に列挙しておく。ザ・バンドの軌跡を知る手掛かりになる。これらの作品から、彼等の音楽の多様性が聴こえてくる。

  • 1968年 Music From Big Pink(ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク)
  • 1969年 The Band(ザ・バンド )
  • 1970年 Stage Fright(ステージ・フライト)
  • 1971年 Cahoots(カフーツ)
  • 1972年 Rock Of Ages(ロック・オブ・エイジズ)
  • 1973年 Moondog Matinee(ムーンドッグ・マチネー)
  • 1975年 Northern Lights - Southern Cross(南十字星)
  • 1977年 Islands(アイランド)
  • 1978年 The Last Waltz(ラスト・ワルツ/コンサート開催は76年)

アメリカーナとロック


 筆者の結論を先に言えば、ロックとは北米で育まれた音楽のポリバレント〔註4〕である。ザ・バンドの作品には、メンバーそれぞれの音楽的資質を楽曲ごとに発揮している面があり、その反面、ルーツから離れたまったく新しい音楽性を試行したものもある。アメリカーナという概念は、それらを包摂した言い方に近い。ちなみに、アメリカーナの定義をWikipediaからコピーペーストする。

アメリカーナ(Americana)は、米国の音楽的精神を構成する共有された多様な伝統、特にフォーク、カントリー、ブルース、リズム・アンド・ブルース、ロックンロール、ゴスペル、その他の外部の影響から融合したサウンドの合流によって形成されたアメリカの音楽の混合物である。アメリカーナは、アメリカーナ音楽協会 (AMA)によって「カントリー、ルーツロック、フォーク、ゴスペル、ブルーグラスなど、アメリカのさまざまなアコースティックルーツ音楽スタイルの要素を取り入れた、現代の音楽であり、その結果、独特のルーツ指向のサウンドが生まれ、もとになったそれぞれのジャンルの純粋な形態とは別の世界に存在している。アコースティック楽器は頻繁に使用され重要だが、アメリカーナではフル・エレクトリックのバンドもしばしば使用される。 
 
〔註4〕ポリバレント:サッカー用語で複数のポジションを守れるという意。サッカー元日本代表監督のイビチャ・オシムが口にしたことから、サッカー界に定着したが、本来は、化学における複数の性質を持った物質という意味。

§3.移民国家北米と音楽文化多様性


 アメリカーナという概念は、複数の要素の融合と言い換えられる。北米における空間軸、時間軸から多様性について考えてみる。

民族多様性と歴史の長さ


 北米に関連する民族を大雑把に分類すると、①北米先住民、②アフリカン、③ヨーロピアン(ケルト、アングロサクソン、ゲルマン、ラテン、ロシア・東欧系等)、④メソアメリカン(メキシカン等)になる。
 ①=ひとことで先住民と言うが、北米は広大な大陸である。先住民のコミュニティがどのくらいあり、どれほどの言語があったのか想像できない。もちろん、それぞれの音楽もあったにちがいない。
 ②=ブルースはデルタに移送されたアフリカ系の人々の音楽をルーツとする、というのが常識だが、奴隷の売買を仲介した北部アフリカ人(トゥアレグ族)の民族音楽の影響の下に歌われ出したという説もある。しかも、①同様大陸である。北米に拉致されたアフリカンも、多種多様の文化を持っていたにちがいない。
 ③はわかりやすい。彼らが彼らの文化的基準に則り建国の主導権を握った。今日の北米音楽文化は彼らの基準である近現代音階を基礎に発展をみた。③に①②④が融合したのがアメリカーナである。
 次に、北米の歴史を簡単に振り返る。アメリカの独立(記念日)は1776年だが、最初にイギリス人が北米に入植したのは1607年、ジェームズタウンの建設からだ〔註5〕。北米における建国の歴史は、ザ・バンドが活躍した1970年代時点でおよそ350余年間になる。

日本との比較


 空間という観点からすると、日本の近現代音楽の受容先は、お雇い外国人、宣教師等の出身国すなわち欧米に限定されていた。邦楽・日本民謡と呼ばれる日本の伝統音楽(という財産)を貶める気はないが、日本における伝統的音楽と近現代音楽の融合は残念ながら北米とは比較にならないくらい薄い。
 時間軸からすると、日本の西洋音楽の受容は明治維新(1868)以降からとなる。日本人が西洋音階(近現代音階)に従って曲をつくり歌うようになってから、ザ・バンドが活躍した1970年代までの年限はわずか100年間にすぎない。100年の間に前出の日本の伝統的音楽と西洋音楽の融合は判然とは確認できない。言うまでもなく、北米における音楽の融合過程は、時空において日本を凌ぐ。北米の音楽は、ザ・バンドにかぎって影響を受けたわけではないが、地域の多様さと歴史の長さという観点からすれば、日本に比べてはるかに高度に熟成する条件を備えていた。
 もうひとつ、宗教(教会)音楽も重要な要素として挙げなければならない。ザ・バンドの場合、オルガンを担当したガース・ハドソンの影響である(ガースについては後述)。宗教音楽(キリスト教)は黒人霊歌、ゴスペルとして北米で独自の発展を遂げたことはよく、知られている。
 日本の宗教音楽といえばご詠歌に代表されるが、近現代音階に従った音楽と融合した形成はほとんどないのではないか。

〔註5〕一般には、1620年、ピルグリム・ファーザーズ(清教徒)がメイフラワー号に乗船してイギリス南西部プリマスから、北米の新天地、現在のマサチューセッツ州プリマスに渡ったのが最初の入植だとされが、そうではない。
 北米という移民国家の特性である文化多様性は他の文化領域に比べて、音楽において、より自由にかつ強く育まれた。音楽には言語の壁のような高い障壁がない。西洋音階の普遍性は、それに従わなかった地域の音楽とヨーロッパの音楽とのあいだの自由な融合を可能にした。民族楽器がギターやピアノに置き換えられ、自由に手軽に、影響を与えあった。また、楽譜が融合を加速した。
 さて、よく知られているように、ザ・バンドのメンバー5人のうち、4人(ロビー・ロバートソン、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン)がカナダ人で、アメリカ人はリボン・ヘルムだけである。カナダ人が、アメリカ人あるいはアメリカ合衆国について、どのような感情を抱いているかは筆者にはわからない。だが、音楽という領域においては、両者を分かつ決定的差異はないものと推測する。両者は故郷(ヨーロッパ)から北米に入植者として渡ってきた共通の祖先をもつ者どうしだ。しかも、およそ350年間の音楽的融合を経て、ともに、音楽の世界を志した者どうしなのである。

§4.音楽の電気化とロックンロールの誕生


 ヨーロッパ各地から北米に入植者がやってきた時代から、1970年代前期までの大衆音楽の発展過程を大雑把に記述すると、以下のとおりになる。

17~18世紀
入植者の原郷の楽曲がコミュニティーごとに歌い演奏される時代

19世紀から1920~30年代
大都市を中心に、ショウビジネス、ダンス音楽が流行。大人数編成のスイングジャズが人気となる時代。

1940〜50年代
ポップス、ジャズ(スイングからモダンへの移行期)、ロックンロールの発生と、メディアの発展等を背景に大衆音楽が多様化していく時代

1960~1970年代
イギリス発のビートルズ旋風、フォークソング、ロックの隆盛。60年代後期から多様化から融合へと向かう時代

 その中で、北米の音楽の変遷に電気が与えた影響を見逃すことができない。楽器の電気化が新しいアイデアを生み、それまでにない創造性を付加した。マイクロフォンの性能アップは、音量にとどまらず、ヴォーカルの洗練化に貢献した。エレクトリックギター、エレクトリックベース、ローリー・オルガン(ローリー社製の電子オルガン)、クラヴィネット(電気ピアノ)、シンセサイザー等の電気化された楽器が、アンプ(増幅装置)等によって、大音響と新たな表現性、技巧を与えた。電気化から電脳化に進むと、さらに新しい技巧を音楽に与えるとともに、高度な録音技術を実現した。
 音楽の電気化に媒介されて生まれたシカゴ・ブルースの誕生については、次のような背景があるという。

第2次世界大戦時に増加したアフリカ系アメリカ人の大移動がある。その流れを受けて1930年代から50年代にかけて、南部の州からシカゴへ多くのブルース・ミュージシャンが移住した。彼らは、故郷の南部のブルースを、北部の電気ブルースとして新たな息吹を吹き込んだ。彼らはライヴハウスを始め、マックスウェル・ストリートなどでも演奏を展開した。路上での演奏は、より大きな音の必要性をブルースマンに認識させ、これもシカゴ・ブルースがエレクトリック化、バンド化へ進んだ要因とも言われている。 (Wikipedia)
 ブルース音楽の電気化は、シカゴの騒がしい音楽酒場で始まったという説もある。酔っぱらった客同士の話し声がうるさくて音楽が聴こえなかったからだ。アコースティックギターで弾き語りされたブルースがエレクトリックギターの演奏に変わった。そしてより強い刺激が求められ、ブルースは激しいリズム(4ビート)に乗り、ロックの原型であるロックンロールの誕生につながった。1995年、筆者がシカゴでブルースを聴いた「ブルー・シカゴ(BLUE CHICAGO)」は大きなホールだった。もちろん、当時とそのときのホールが同じ大きさだと言い切るつもりはない。

§5.「Jupiter Hollow」の省察


 本書第三章に「来たるべきロック『南十字星』」 という章がある。ザ・バンドの『南十字星( Northern Light - Southern Cross)』というアルバムを絶賛した内容になっている。

新しいサウンド


 章題が示す通り、池上がザ・バンドの新しさ、先駆性、ロックの発展形を示していることをイラストレーターの矢吹伸彦の評価を援用しながら説明した章だ。池上は矢吹の『今月のレコード』に掲載された文章を再引用しつつ次のように書いている。

(矢吹は)・・・ことレコードでの彼等の音楽=ロックの質の高さは、ただ最高としか言いようがない。むろん、この際用いる質という言葉には、音楽(とりわけ彼らは歌)の全ての領域が含まれているのは言うまでもない」と述べている。ここで重要なのは、矢吹は現在「アメリカーナ」と呼ばれている音楽のことではなく、「音楽の全ての領域が含まれている」と言っていることだ。つまり、ロックに限らず、クラシック、現代音楽、ジャズ、民族音楽あるいは声楽、器楽演奏…「音楽の全ての領域」と矢吹は言っている。〔中略〕
矢吹は…「このザ・バンドに限っては、個人的嗜好などをはるかに越えた、ぼくの捉えるところのロックにおける最高峰のバンド、 つまりロックがその領域から外れることなく発展し続けた姿として、ここ数年來変わることなくぼくの心に重く存在し続けている。そしてロックの羅針盤の針は常にザ・バンドを示している」と。(本書P39)
 矢吹を援用してザ・バンドのすばらしさを強調したうえで、池上は、アルバム『南十字星』の構成を以下のように分類する。同アルバムはLPレコード盤で発売されているからA面とB面に分かれる。曲名は以下のとおり。

A面
1 Forbidden Fruit
2 Hobo Jungle
3 Ophelia
4 Acadian Driftwood

B面:
1 Ring Your Bell
2 It makes No Difference
3 Jupiter Hollow
4 Rage and Bones

 池上は、A面の曲と演奏は「彼等(ザ・バンド)の創りあげた音楽の延長上」にあり、B面は〝あらゆる物を内包可能なロックを透視するかのような、新しいサウンドの曲と演奏″だと分類し、このアルバムで〝ぼくが好きな曲は、このB面の4曲なのだ”、そして、最も注目すべき曲は〝「Jupiter Hollow」だ”(本書P39~41)という。そして、この文言に続いて、

ツイン・ドラムとベースとクラヴィネットのファンキーなリズムに乗せて、三人のヴォーカリスト(ドラマーのリヴォン・ヘルム、ベーシストのリック・ダンコ、ピアニストで時々ドラムも担当するリチャード・マニュエル)が入れ替わりリードをとったりコーラスしたりする背景にガース・ハドソンが演奏するオルガンとシンセサイザーが多層的に変幻自在の音を繰り広げる。聴いたこともない不思議な曲だ。聴きやすい曲なのにもかかわらず、とても複雑な演奏なので、何度聴いてもすべてを同時に聴きとることが難しい。
〔中略〕
「Jupiter Hollow」はザ・バンド自身の演奏で「来たるべきロック」を具体的に示すことができた唯一の曲である。ロックの象徴と言える楽器はエレクトリックギターだ。ところが、この「Jupiter Hollow」にはエレクトリックギターは入っていない。ギタリストのロビー・ロバートソンはパーカッシブでファンキーな音が特徴のクラヴィネットというキーボードを弾いている。シンセサイザーの音が全編に使われ、ドラムはブラシを使ってスネア・ドラム中心のシンプルな演奏で〔中略〕この曲を聴くと、まるでザ・バンドがYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の影響を受けているかのようだ。(本書P41~43)

§6.ピーター・ヴァイニー(Peter Viney)による「Jupiter Hollow」評


 「Jupiter Hollow」については、Peter Vineyが「THE BAND WEB SITE」〔資料1〕のなかで、論じている。以下、論点を整理して記述する。

(1)概要

①コレクションに入らなかったし、ステージでも演奏されたことがないこと。

②それゆえ、オリジナルアルバムを所有しなければならないこと。

③ザ・バンドの最高の演奏であること。

④崇高なガース・ハドソンの最高の演奏であること。

(2)ラインナップ

・ロビー・ロバートソン – クラヴィネット
・レヴォン・ヘルム – ボーカル、ドラム
・リチャード・マニュエル – ボーカル、ドラム
・ガース・ハドソン – ローリーオルガン、シンセサイザー
・リック・ダンコ – ベース、ボーカル

  ドラマーはツイン、キーボード奏者は2人(ロビー・ロバートソンがリズム楽器としてヒノプティッククラヴィネットを演奏。ギターなし。ガース・ハドソンのレイヤーが何層にも重なる。
  彼らの最高のスタイルで声を切り替えるので、どれがどれか見分けるには耳をすませなければならない。ステージでやるには難しすぎるかもしれないが、パーカッシブ・キーボードとサスティン・キーボードの両方を演奏できるリチャード・ベルの能力が加われば、なんとかできるだろう。
 CD版ではアルバムの最後を飾るが、オリジナルのLPリリース(および日本のCD版)では、ラグス・アンド・ボーンズが最後の選曲という異なる順序になっている。
 アルバムのタイトル「ノーザン・ライツ - サザン・クロス」への唯一の言及も含まれている。一見すると、このタイトルは夜空を指しているようだ(同年のクロスビー、スティルス&ナッシュのサザン・クロスと比較)。この曲では、「ノーザン・ライツ」の後に「真夜中の太陽の下で」という言葉が続くので、天国を指している。アルバムのタイトル全体は、それを超えて、ザ・バンド内のカナダとアーカンソーの軸を指している。ノーザン・ライツはカナダである。 サザン・クロスは南軍の旗、または南部である。アルバムの目玉はアカディアン・ドリフトウッドで、カナダとニューオーリンズを結びつけている。

(3)他のコメント

・レヴォン・ヘルム
「ジュピター・ホロウ」はガースをフィーチャーした曲で、このアルバムでH.B.(ハニーボーイ)というニックネームを付けられたガースは、スタジオで時間をかけてレコードを甘くし、スタジオの最先端のモードに仕上げた人物だった。シャングリラには24曲のトラックがあり、ガースはその余裕を利用して、ARP、ローランド、ミニモーグ、その他のシンセサイザーを使って1曲に6曲ものキーボードトラックを作った。これらの多くはコンピューターのキーボードでまとめられており、ガースは魔法使いのようにキーボードを操り、音楽にほぼオーケストラのようなオーバーレイを与えた。

・バーニー・ホスキンズ
シャングリラは最先端の24トラックスタジオで、最新のシンセサイザーを完備しており、ガースはキーボードパートに多くの時間を費やしました。新しいテクノロジーの可能性に夢中になった彼は、ミニモーグとARPストリングアンサンブルをザ・バンドの本質的にローテクなサウンドに組み込むことに何の問題も感じませんでした。ジュピター・ホロウの複雑なレイヤーを一度聴けば、彼が成功したことがわかります。

・クリス・モリス(ビルボード、CDスリーブノート)
テクノロジーの進歩(特にガース・ハドソンによる新しい洗練されたキーボードの採用)のおかげで、音楽は光沢のあるレイヤードな輝きを帯びています。これほどシンプルでゴージャスなサウンドのザ・バンドのアルバムを他に思いつくのは難しいです… Northern Lights – Southern Cross の楽器演奏は、それ自体がほとんど別世界です。ザ・バンドは、自慢することなく、その集団の腕前を徹底的に披露しています。特に注目すべきは…(ハドソンの)Jupiter Hollowでの幻想的なキーボード演奏だ。

・グレイル・マーカス
(Northern Lights- Southern Crossでの)アクションは行間にある。Moondog Matineeがマニュエルのアルバムだとしたら、このアルバムは、ロビーが全曲を書いたにもかかわらず、ガース・ハドソンのものだ。彼は、偽りの匿名性で演奏し、彼の音楽は存在感を放ち、背後の壁にタペストリーが掛けられていた。どんなニュアンスも彼からは逃れられず、どんなに捉えどころのない感情の陰影も、彼には理解できないようだった。
1990年のリマスター版では、そのすべてが明らかになっている(そして、なぜビッグ・ピンクとザ・バンドが同じ扱いを受けなかったのか不思議に思う)。

§7.「Jupiter Hollow」はガース・ハドソンのもの


「Jupiter Hollow」のコードを 以下に示す。

G
Jupiter Hollow
C G
Northern Lights
C G/D G
Cast a glow through the window late last night
Gsus4 G C G
I went to follow through the sycamore
C C/D
When I found myself in a place
G
I'd never been before
C G/B
There was a unicorn and a dragon queen
D G
Beneath the burgundy sky
C G/B
I saw an old soldier singin' a love song
C/D
He had the distance in his eye
G
Livin' in another world
C C/D G
Livin' in another time
C G
Like a comet I was hurled
C C/D G
Oh, livin' in another world

 この曲のコード進行はきわめてシンプルだ。アコースティックギターを弾きながら歌えば、牧歌的にも聴こえるだろう。
 筆者は、《作曲はロビー・ロバートソンだが、ガース・ハドソンのものだ》という前出のグレイル・マーカスの指摘に全面的に同意する。池上にYMOの登場を予感させると言わせたのは、ただただガース・ハドソン〔註5〕のつくり込みによるものだ。 

註5:幼い時から讃美歌の演奏をしていたと言われている。カナダ、ウェスタンオンタリオ大学に入学し音楽理論と和声学を学ぶ。やがて従来の音楽に飽き足らなくなり、ラジオから流れてくるリズム・アンド・ブルースやロックンロールに興味を持つようになる。地元の小さなバンドに入って腕を磨き、1959年頃、ロニー・ホーキンスとバックバンドのホークスに出会う。この時は加入しなかったが、ガースの豊富な音楽の知識に惚れ込んだホークスの一員ロビー・ロバートソンやリヴォン・ヘルムの口利きで1961年、ホークスに加入する(リヴォンの証言では1960年の暮)。ガースは持ち前の音楽知識、キーボード奏者としての非凡な才能により、他のメンバーに多大な影響を与えた。(Wikipedia等)

 彼の豊富な音楽知識と創造性がローリー・オルガンを経て、シンセサイザーという高度な電脳鍵盤楽器の可能性を試行したのが「Jupiter Hollow」という楽曲なのだ。

1970年代は大衆音楽における大きな分岐点


 1960年代末から70年代にかけて、北米の大衆音楽界は大きく変容した。その先駆けとなったのがボブ・ディラン(Bob Dylan)だ。彼は1965年から1966年にかけて『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム (Bringing It All Back Home)』、『追憶のハイウェイ61(Highway 61 Revisited)』、『ブロンド・オン・ブロンド(Blonde On Blonde)』と、エレクトリックギターやドラムを使用した作品を矢継ぎ早に発表した。極め付きは、1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、エレクトリックギターを抱えてバック・バンドとともにロック調の楽曲を披露して、従来のフォーク・ソング愛好者、とくに反体制志向のプロテストソングを好むファンから非難を受けた。しかし、ディランのこのパフォーマンスは、ジャンルを超えること、それに囚われないことを宣言したともいえる事変だった。
 モダン・ジャズ界では、ジャズ・トランペット奏者マイルス・デイヴィスが1969年に『イン・ア・サイレント・ウェイ(In A Silent Way)』を発表した。マイルスはジャズにエレクトリック楽器を持ち込み、フュージョンという新しい音楽ジャンル確立の先駆けとなった。翌年には『ビッチェズ・ブリュー( Bitches Brew )』が発表され、フュージョンという概念が定着した。このアルバムには、ジョー・ザヴィヌル( Joe" Zawinul) とチック・コリア( Chick Corea) がエレクトリックピアノで参加している。
 フォークソングとロック、モダン・ジャズとロックがそれぞれ融合する時代が始まる。境界を超える象徴ともいえるのがエレクトリックギター、エレクトリック鍵盤楽器となる。前出の『南十字星』でザ・バンドが使用したクラヴィネットは、71年にスライ&ザ・ ファミリー・ストーン(Sly & the Family Stone) の「ポエット(Poet)」で、72年のスティービー・ワンダー(Stevie Wonder)」の「迷信(Superstition)」などですでに多用されていた。
 ザ・バンドが1975年にリリースした『南十字星』の中の一曲(Jupiter Hollow) でクラヴィネットを用いたことが新しいのか古いのかは議論しても始まらない。彼らも彼らなりに、時代の流れを感じとっていたにちがいない。とりわけ、鍵盤奏者のガースは敏感だったのではないか。

§8.ザ・バンドは「南十字星」でなにをしたかったのか


 『南十字星』は1975年にリリースされた、――池上によれば――「後期ザ・バンド」といわれる作品だ。確かにそのとおりで、事実上彼らの最後を飾ったコンサート「ザ・ラスト・ワルツ(The Last Waltz) 」は1976年11月に行われているから、最後に近いアルバムであることはまちがいない。なお、最後にリリースされたアルバムは、1977年の『アイランド(Islands)』である。
 さて、「ザ・ラスト・ワルツ」に話をもどそう。池上によると、このコンサートは解散を意味するのではなく、これをもってライブ演奏を行わない、というロビー・ロバートソンによる宣言だという。その背景には、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、リボン・ヘルムの3人が酒とドラッグに溺れ、人前で演奏することの困難さを感じたからだとされている。この3人の退廃ぶりはロビーが制作した映画『かつて僕らは兄弟だった(Once Were Brothers) 』に描かれている。

ザ・バンドの総決算


 3人が酒とドラッグで心身を痛めつけた理由はわからない。わからないけれど、でも、以降の言説は筆者の勝手な想像にすぎないから、事実誤認と非難されることを覚悟で書き残しておく。
 筆者の想像の契機となったのは、池上による『南十字星』におさめられた曲に係る逐一の解説からだ。

A面1曲目の目の「Forbidden Fruit』は「ロックバンド」そのもの、これほどいわゆるロック的な表現をした曲は、それまでのザ・バンドにはないと。一方でB面1曲目の「Ring You Bell」のイントロはロックというよりもファンクだ。そしてB面2曲目の「It Makes No Difference」は失恋の歌。A面4曲目の「Acadian Driftwood」は、18世紀カナダのアカディア地方にいたフランス系入植者たちが、イギリスによって強制退去させられる悲哀を描く物語だ。では、ここでなぜロックに限らずポピュラー音楽でいちばん普通のいわゆる失恋のラブ・ソングを初めて演奏したのか。それは、この「It Makes No difference」が、いわゆる「ロック」の到達点となりうる普遍性を獲得した作品になったからだ。楽曲も演奏も歌も、これまでのザ・バンドで最高のものと言えるだろう。
ぼくの考えでは、ここでいわゆる「ロック」は終わった、ということになる。そして、次の曲「Jupiter Hollow」はもはやいわゆる「ロック」ではなく、「来たるべきロック」だ。とすれば、オリジナル・アルバムのB面2曲目の It Makes No Difference」と3曲目の「Jupiter Hollow」の間の音楽が鳴っていない数秒間に「ロック」と「来たるべきロック」の分岐点があるということになる。(本書P44~45)
 池上の言説に同意する。『南十字星』とは、ザ・バンドが解散を前に彼らの音楽の総決算と言い換えられる。メンバーひとり一人がロビー・ロバートソンがつくった曲に向けて、それぞれの思いの丈をぶつけた。ガース・ハドソンの場合は日進月歩する電気鍵盤楽器シンセサイザーの可能性を試行した。ロビーはガースの意図を理解し、エレクトリックギターを置き、クラヴィネットに専念した。
 極言すれば、池上の言う「来たるべきロック」に向かったのはロビーとガースだけだった。リボン、リチャード、リックはホークス時代から馴染んだロックンロール、ラブソングを土台にしながら、ロビーとガースの影響下でつくりあげてきた「ザ・バンド」にとどまった。そのときロビーは、ザ・バンドからの離脱を決意していた。  『南十字星』から10年ののち(1986年3月)、リチャード・マニュエルが自死した。 

ポスト「南十字星」


 ザ・バンドは自分たちがつくり上げた音楽を遺産として残した。しかし、音楽業界は遺産だけでは暮らしていけない。北米において、ウッド・ストック(1968開催)を頂点にして強い支持を集めたロックだが、70年代がすすむにつれて勢いを失っていった。業界は新しい商品を提供する必要に迫られた。ミュージシャンたちが切り開いたのか、音楽業界のマーケティングなのかわからないけれども、イノベーションは融合という概念によって切り開かれた。前出のフュージョン(fusion)であり、クロスオーバー (crossover)である。
 イギリスでは、すでに1960年代後半にロックのジャンルの1つとしてプログレッシブ・ロック(progressive rock)が生れている。代表的なグループに、ピンク・フロイド(Pink Floyd) 、キング・クリムゾン(King Crimson) 、イエス(Yes)などがある。プログレッシブ・ロックは従来のロックに地域音楽、クラシック、ジャズ、フォークなどを融合させたものだ。
 その後のロックの変遷は本稿と関係しないので書かないが、やがて20世紀が終わりに近づくころ、メロディー・ラインの枯渇が囁かれだし、ヒップホップミュージック (hip hop music) 、ラップ(rap)がロックにとって代わっていった。

おわりにかえて――青春の唄しか聴こえない


 ザ・バンドを知るまで、ただブームに乗っていただけで、本当に好きな音楽がなんだかわからないまま、年を重ねていた自分がいたようだ。私事だが、軽薄な「音楽好き」の自分と訣別できたのは、大阪でザ・バンドを聴かせてくれたJのおかげである。彼には感謝しかない。20年間という年限のあいだ、己の脳のどこかに蓄積された音楽情報を、ザ・バンドが書き換え飛躍させてくれた。
 くり返しになるが、ザ・バンドとは、北米において350年にわたり蓄積された音楽エネルギーの爆発である。北米にやってきた多種多様な人々が抱え込んでいた故郷の音楽的要素が融合し、5人の男のどこかに記憶され、なにかを契機として表出したものだ。
 ときに北米の風土を語り、入植者の望郷の念を漂わせる。かと思えば、南部デルタに心ならずも拉致され、強制労働を強いられたアフリカンの悲惨を想像させる。また、広大な北米を彷徨する放浪者の心情を代弁する。そしてそれらのどれもが抒情的だ。その一方、田舎町の片隅に取り残された若者のアナーキーな気分に同期したロックンロールが聴こえることもある。繁栄する大都会だけが北米ではない。そのような多様性こそが普遍性の意味であり、極東の筆者にまで伝わる力なのだ。
 池上は「ザ・バンドのヒット曲を歌えますか?」(本書P97)と問うている。筆者は「もちろん歌える」と答える。ただし「歌える」とは、〝カラオケで歌える″とか、〝コピーバンドを組んで歌える″というレベルではない。歌えるというより、口ずさむことができると言い換えたい。
 筆者の音楽はそこまでであり、それ以上を欲しなかった。〝口ずさめるメロディーと抒情性という要素”が筆者には不可欠だった。
 音楽業界が市場経済の一部を構成する以上、イノベーションは必至だ。いや、業界が、と言う前に、新世代が、彼らが欲する音楽を必要とした。大衆音楽は時代とともに変容する。筆者の次の、その次の、またその次の世代・・・がいままさに体験している日常が、新たな大衆音楽を生む。
 年寄りの筆者がザ・バンド以降の音楽に夢中になることは難しかった。感性がうけつけなかった。筆者には、ハードロック、プログレ、パンク、ヘヴィメタ…ヒップホップ、ラップ等はなじまないのである。
 ザ・バンドは、筆者のなかでは、メロディーラインを保ち続けたロックのパフォーマーであり、暮らし、放浪、生活、恋愛、苦悩、信仰、歴史、そして抒情...を内包した唄者であり続けている。
 次なる世代がザ・バンドを聴いてくれることを、心より、望んでいる。〔完〕

〔資料1〕

Jupiter Hollow
by Robbie Robertson
from ‘Northern Lights - Southern Cross’ (1975)

Well, it’s one major reason why you have to have the original albums, not the collections. It never even made it to a collection. It never even got played on stage. But it’s The Band at their very best. It’s sublime Garth Hudson at his very best. It’s one of my all time favorite Band tracks. It makes Barney Hoskyns’ Top 20 Band tracks. It makes my Top 10.
First the line-up is certainly different:
Robbie Robertson – clavinette
Levon Helm – vocal, drums
Richard Manuel – vocal, drums
Garth Hudson – Lowrey organ, synthesizers
Rick Danko – bass, vocal

Twin drummers, as in the current line-up. Two keyboard players, but one is Robbie Robertson playing hypnotic clavinette as a rhythm instrument. No guitar. Layer upon layer of Garth Hudson. Voices switching in their best style where you have to listen hard to work out which is which (not that I’m bothered). Probably too hard to do on stage, though with the addition of Richard Bell’s abilities on both percussive keyboards and sustained keyboards they could probably manage it.
On the CD version it closes the album, though the original LP release (and the Japanese CD version) gave us a different running order with Rags and Bones as the final selection. It also contains the only reference to the album title, Northern Lights -Southern Cross. At first sight, the title seems to refer to the night sky (compare Crosby, Stills & Nash’s Southern Cross the same year). In this song, the words ‘northern lights’ are followed by ‘in the midnight sun’ so refer to the heavens. The album title as a whole refers beyond that to the Canada-Arkansas axis within The Band. Northern Lights is Canada. Southern Cross is the Confederate flag, or The South. The album’s centerpiece is Acadian Driftwood and this connects Canada with New Orleans.

Let’s review the quotes first:
Levon Helm
One number, Jupiter Hollow, was a showcase for Garth, who really earned his nickname of H.B. (Honey Boy) on that album, because he was the one who put in the studio time that sweetened the record and put it in that state-of-the-studio mode. Shangri-La had twenty four tracks, and Garth used that leeway to craft as many as half a dozen keyboard tracks on a single song using the ARP, Roland, Mini-Moog and other synthesizers he was working with. A lot of this stuff was tied together with a computer keyboard, which Garth wielded like the wizard he is, giving the music an almost orchestral overlay.

Barney Hoskyns
Shangri-La was a state-of-the-art 24-track studio, fully equipped with the latest synthesizers, and Garth spent many hours on his keyboard parts. Absorbed in the possibilities of the new technology, he saw no problem in incorporating Mini Moogs and ARP string ensembles into The Band’s essentially lo-tech sound. One listen to the intricate layers of Jupiter Hollow is enough to show that he succeeded.

Chris Morris (Billboard, CD sleeve notes)
Thanks to advances in technology (most notably in the employment of new, sophisticated keyboards by Garth Hudson), the music takes on a lustrous, layered sheen. It’s hard to think of another Band album that sounds so plain gorgeous … The instrumental performances on Northern Lights – Southern Cross are almost otherworldly in themselves. Without showing off, The Band gives an in depth demonstration of its collective chops. Of particular note … (is Hudson’s) phantasmagorical keyboard playing on Jupiter Hollow.

Greil Marcus
The action (on Northern Lights- Southern Cross) took place between the lines; if Moondog Matinee was Manuel’s album, this one, despite the fact that Robbie had written all the songs, was Garth Hudson’s. He played with deceptive anonymity; his music worked as a presence; tapestries hung on back walls. No nuance escaped him, no shade of emotion, no matter how elusive, seemed beyond him.
The remastered version from 1990 brings it all out (and makes you wonder why Big Pink and The Band have never had the same treatment).
(Piter Viney on Jupiter Hollow /THE BAND Website)

2025年1月28日火曜日

『リバータリアニズム入門 現代アメリカの〈民衆の保守思想〉』

 ●デイヴィッド・ボウツ〔著〕 ●洋泉社 ●2800円+税

 アメリカにおける完全なる自由思想であるリバータリアニズム(libertarianism)の入門書。本題に〝入門″とあるが専門書に近い。
 リバータリアニズムとは、個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する政治思想・政治哲学であり、経済的な自由を重視し、反福祉国家=小さな政府を目指す点において、現在の新自由主義と似ている。この思想を支持する立場をリバータリアンという。
 著者のデイヴィッド・ボウツ(David Boaz/1953-2024)はアメリカのケイト―研究所副所長にしてリバータリアン運動の中心的人物の一人。著書に『レーガン時代をふりかえる』『麻薬非合法化がもたらす危機』『学校の自由化』などがある。 

リバータリアニズムの基本概念 

 ボウツによる端的なリバータリアニズムの説明を以下に示す。

リバータリアンは、「各人の人生、自由そして所有財産に対する権利」つまり「政府が作られる以前から、人々が生れながらにして持っている権利」をその人のものだと主張する思想である。リバータリアンの考え方によれば、すべての人間関係は、自発的なものでなければならず、法律によって禁じられるべき唯一の行為は、他者に対して強制力を行使しようとすること、つまり、殺人、レイプ、略奪、誘拐、詐欺などの行為である。(本書P19) 

 ここで言われる、〈政府がつくられる以前に、人が生まれながらにもっている権利〉とは、端的にいえば、自然権であり、リバータリアニズムとは自然権を無条件に肯定するところから出発している。
 ボウツはリバータリアニズムの基本概念(本書P40~)という章を設け、▽個人主義、▽個人の権利、▽自然な秩序、▽自発的な秩序、▽法の支配、▽制限された政府、▽自由市場、▽生産する美徳、▽利益の自然調和、▽平和――という項目を掲げて詳細に論じている。

 ボウツがまとめたリバータリアニズムの基本概念は、ジョン・ロック、デイヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、トマス・ジェファーソン、トマス・ペインの影響を受け、現代のリバータリアン哲学として発展した軌跡を説明したものとなっている。そこで論じられている基本概念を大雑把にまとめると以下のようになる。 

  • 〈個人〉が社会分析の基本単位であること。唯一個人だけが選択し、結果責任を負う。そこからは、性、宗教、人種の差別はなく、個人の尊厳を認め合うとする。 
  • 人間の社会で最も重要な制度は、言語、法律、貨幣、そして市場であり、これらの制度のすべては、中央政府の決定によるのではなく、自発的に発展したとする。 
  • リバータリアニズムは、自由放蕩思想でも享楽思想でもなく、「法の下における人間に自由をもたらす社会」を提案する。 
  • 人間の権利を守るために人は政府を組織するが、政府とは、そもそも危険な制度である。制限された政府がリバータリアニズムが認める政治的含意である。 
  • 自由市場は、自由な人間たちの経済システムであり、富を創造するために必要なものである。リバータリアンは、人々の経済上の選択に関する政府の介入が最小限であればあるほど、人々は、もっと自由であり、もっと豊かになれる。 
  • 17世紀初期のリバータリアンは、自分自身の労働の果実を自分が保有する権利を守ろうとした。この意味で初期マルクス主義の階級分析論を発展させた人々だといえる。このことは、富を生みだす者たちと力によってその富を奪う者たちという基本的な2つの階級に社会を分けるものだった。近年のリバータリアンは、真に生産する人々がそれぞれ自分が稼いだ成果を自分の物とする権利を守りとおす。国王や僧侶階級やその後に現れた新興階級の政治家や官僚たちが、自分たちの稼ぎだしたものを奪い取りそれを非生産的な人間に譲渡することに反対した。 
  • リバータリアンは、公平が実現される社会においては、平和な状態の下で、生産的な人々の間では、そこに生まれる収益には自然の調和があると信じている。我々は自由市場という社会の仕組みによって繫栄するのだから本来摩擦は起きない。政府が特殊な政治的圧力に屈して特定の集団に不不公平な補助金を与え始めた時に初めて、集団間の利害対立に巻き込まれ、ひとかけらの政治的な野望のために、それぞれの職業集団が自らを組織化して他の職業集団と争わざる得なくなる。
  • 戦争は、大量死や大規模な破壊を引き起こし、人々の家族生活や経済生活を破壊させる。そして、支配層の人間たちの手にますますより多くの権力を与えることになる。すべての歴史を通じて戦争は、つねに敵対し合う双方の国のなかで平和に生産に従事する人々の共通の敵だった。 

 先述のとおり、リバータリアニズムは、ネオリベラリズムと多くの点で共通する。個人が自由にすべてを選択し、自由市場がすべてを解決するから、政府はよけいな口出しをするな。自分が稼いだものはすべて自分が獲得する権利がある。だから、政府が不当に(税というかたちで)それを奪うことはできないのだと。 

リバータリアニズムの起源

 ボウツは、最初のリバータリアンは紀元前6世紀、道教を創始した老子だといい、老子の「法もしくは強制を用いることなく、人々が社会的秩序を保つことができるようにすべきだ」という一節を引用する。加えて、自由と人権についての考え方は西欧にかぎられたものではなく、全世界の拡がりを持つと説明する。次にボウツは、西洋思想の二大潮流であるギリシャ思想とユダヤ=キリスト教が人類の自由(freedom)の発展に貢献したという。 

リバータリアニズムは、ふつうは、「自由市場を優先し、何よりも経済的自由を強く主張する思想だ」と考えられている。しかし、この思想の出発点は、宗教的寛容求める闘いのなかにこそ見られる。初期のキリスト教の信者たちは、ローマ帝国からの迫害に対抗するため、他人の信仰に対して寛容であることを問い詰めた宗教的理論を発達させた。その創始者は、タートウリアンである。この人物は、〔中略〕紀元200年頃に次のように書いている。「人間の権利の根本的なものは、自然から与えらえた権利である。すべての人間は、自分自身の信念に基づいてのみ信仰を持つ。一人の人間の信仰は、他の人々を傷つけることも、助けることもできない。また、一つの宗教が他の宗教に対して、信仰を強制することはできないし、信者たちの自由意志を引きずってゆくこともできない」と。すでにこの時期に、人間が自由であることは、基本的人権あるいは自然権として実現していたのである。
貿易が栄え、宗教上の教義解釈の変更が当然のこととなり、市民社会が成長したことは、それぞれの地域や共同体の内部に変化を求める原動力があったことを意味している。そして、この宗教的寛容や、多様な考え方を許す態度(puluralismu)、自分たちの政府の権力が制限されるべきだという考え方につながった。(本書P65~66) 

 ボウツは、ここで自身が率いるリバータリアニズムと新自由主義とのあいだを画する一線を引いた。自然権としての自由、寛容、基本的人権を認め、そこから導き出される信仰の自由と多元主義が政府の権力を制限することの根拠とする。引用の冒頭が新自由主義の核心だとするならば、リバータリアニズムのそれは、自然権としての自由を至高とする思想だといいたいのだ、と筆者は解釈する。 

12~16世紀のリバータリアニズム 

 ボウツは以下、12~13世紀に起きたマグナ・カルタ〔註1〕、マグデブルグの法〔註2〕、聖トマス・アキナスと哲学者による王権の制限に関する神学上の議論、13世紀の大学者、ロジャー・ベーコンの「暴君を殺す権利」の擁護、また、16世紀、神学、自然法、経済学を押し進めたサランチャ学派〔註3〕などを挙げる。そして、ルネサンスと宗教改革をリバータリアニズムの源流の初期の段階の絶頂期とする。とりわけ後者をカトリック教会の独占支配を打ち破ったことで、偶然にもプロテスタント諸宗派がヨーロッパ中に広がることを助け、クエーカー教徒やバプティスト(洗礼派)といった宗派が後にリベラル思想を生んだと評価する。 

註1:イギリスの土地貴族が国王ジョンと対立し、王が不当な干渉をしないよう大憲章(マグナカルタ)に署名させた。 

註2:ドイツの都市マグデブルグで都市の国王からの自由と自治を強調した一連の法を定着させた。 

註3:スペインのスコラ哲学の思想家集団 

絶対王政とリバータリアニズム 

 16世紀末になるとローマ教会は弱体化に伴い、国家(王政)に依存するようになり、絶対王政の発生を促した。君主は官僚制度を整備し、新しい課税を考え出し、常備軍を設置し、王権をより強めた。フランスのルイ14世、イギリスのスチュアート朝の王たちが絶対主義支配の確立を代表する。しかしイギリスでは、市民社会と議会の権威が大陸より強く、1649年にジェームス一世の息子チャールズ一世の斬首をもって、絶対主義王政の終わりを告げた。 

17世紀のオランダ、イギリスの自由思想 

 17世紀、絶対王政はフランス、スペインに根を下ろしたが、オランダはスペイン帝国から独立し、宗教的寛容と自由な商業と制限された政府という理念の中心地となった。大思想家のひとりスピノザは、ユダヤ系であるがゆえにカトリックの絶対王政下のポルトガルで迫害を受け、オランダに逃れた難民だった。彼は《(オランダの大都市)アムステルダムは、商業的繁栄と、他の人々を自分と同じように尊重することによって、自由という果実を手にいれた。このヨーロッパで最も繫栄する都市にとって、すべての国の人々とすべての宗教が、偉大な調和のなかで共存し、隣人に不信の念を抱くことなく、自分の財産を信託するものである。どんな宗教も宗派も特別扱いされることがない。〔後略〕》と『神学と政治についての論文』のなかに記しているという。
 続いてボウツは17世紀のイギリスに初期の自由思想の勃興をみる。まずは『失楽園』の著者ジョン・ミルトンの次の言説――「自由こそは徳(virtue)の最高の学校である。〔中略〕人間の誇り高さは、それが自由に選べる場合においてのみ意味をもつのである」、そして、チャールズ一世が斬首された王位空位時代――クロムウエル支配のレヴェラーズ(水平派)の自由思想である。レヴェラーズの指導者リチャード・オーバートンは、すべての個人は「自己決定の権利」を持っているのだ」「すべて人は、自分自身の権利の支配者なのであって、他の人々の支配者ではない」。 

名誉革命とリベラリズムの誕生 

 1689年に「名誉革命」が起きる。ジェームズ二世が王位継したイギリスは、再び王権強化の時代に戻る気配を見せた。そのとき英国議会がオランダにいたウイリアムとメアリーの即位を要請し、二人はその要請を受諾した――これが「名誉革命」の大筋である。ボウツは、名誉革命こそがリベラリズム(liberalism)の誕生だと力説する。そしてジョン・ロックが最初の真のリベラル(=リバータリアン)であり、現代政治学の父とみなされたという。  彼はロックの著作『市民政府論・第二篇』の主要部分を引用しつつ真のリベラルズム(リバータリアニズム)について解説する。  

  1. 自然権
    人々は政府の存在に先んじて諸権利を持っている。それゆえ、私たちはそれを自然権と呼ぶ。なぜなら、それは自然界に存在するからである。 
  2. 政府の効果を認めるが好き勝手にやる自由はない。 
  3. 人々は、自分の諸権利を擁護するために政府を創った。人々は政府がなくても権利を擁護できるだろうが、しかし権利を擁護するためには、政府は効果的なシステムである。 
  4. 自然法と政府に反逆することの正当性 
  5. もし政府がその領分を行き過ぎた場合、人々が反逆することは正しい。代議政体というものは、政府をしっかりとその本来の目的に固定する最高の手段である。政府に好き勝手にやる自由はない。自然法は、立法者にとってだけでなく、そうでない人も含めてすべての人に存在するのである。 
  6. 所有権の理念
    すべての人間は自分自身の身体に対する所有権を持っている。これに対しては、本人以外の誰もいかなる権利も持っていない。彼の身体の〈労働〉と彼の手の〈働き〉は、まさに、彼自身のものであるといってよい。そこで自然が準備し。そのまま放置していた状態から、彼が自分の手で取り上げるものが何であれ、彼はそれを自分の〈所有物〉とするのである。 

この思想は熱狂的に受け入れられた。ヨーロッパはまだ絶対王政の手中にあったが、スチュアート王朝の統治を経験したせいで、イギリス人はあらゆる政府の統治形態に疑い深くなっていた。そして彼らは当然、このロックやレベラーズたちの理念を、新大陸に向かう船に乗せて運び始めた。(本書P75) 

リベラルにとって偉大な18世紀 

 ボウツは歴史を個の自由の探究として読み解く。個の自由を抑圧するのが政府だと。18世紀のヨーロッパにおける革命は最強の抑圧装置、絶対王政という強力な政府の打倒であったと。スペイン帝国から独立したオランダの繁栄、イギリスの名誉革命はボウツにとって、リベラル(=リバータリアン)が国を統治する新しい歴史の始まりと位置づけたのだが、フランス革命については、ひとこともふれていない。フランスに関しては啓蒙主義(enlightenmento)を代表するフランスの作家ヴォルテール(1694~1778)についてだけふれている。

 啓蒙主義は、フランスの作家ヴォルテールがフランスの圧政から逃げて、イギリスに渡った1720年頃に始まったと言ってもよい。ヴォルテールはイギリスで宗教上の寛容、代議政治、そして繫栄する中産階級の人々を見た。彼は、イギリスでは商取り引きフランスよりもはるかに尊重されていることに気がついた。フランスでは、特権階級が商業を営む人たちを見下していたのだった。〔中略〕彼は『イギリス書簡』のなかで、株式取り引きついて次の有名なくだりを書いた。

《ロンドンの株式取引所に行ってみたまえ。数多くの法廷よりもずっと目を見はる場所である。そこでは、人類に貢献するために世界中の国々から集まってきた代理人たちを見ることになる。ユダヤ人がいるし、マホメット教徒がいる。キリスト教徒もいる、彼らは互いにまるで同じ宗教を信じているかのように商売している。 
 そこでは、ただ破産するような者たちだけが、彼らを指して不信仰者と呼ぶ。そこではプレスビテリアン(長老派。カルヴァン派の一派でスコットランドで広まった)が、アナバプティスト(再洗礼派)を信頼し、イギリス国教徒が、クエーカー教徒と約束を交わす。この平和で自由な集まりが終わると、ある者はシナゴーグ(ユダヤ教会)に行き、別のものは酒を飲みに行く。また、キリスト教会に行って神の霊感を待つ者もいれば、帽子を被ったままの者たちもいる。彼らはすべて満足している。(同書75~76)》

 ボウツが上記のヴォルテールを引用した意図は、〝18世紀のリベラリズム(自由思想)”が経済的発展を促している実態を示すことを第一とするが、それに加えて、それ人種差別をしないこと、信仰の自由を受け入れていること――を伝えたかったためだと推測する。ボウツにおいては、〝18世紀のリベラリズム″とリバータリアニズムは同義語である。 

アダム・スミスの経済学 

 ボウツがジョン・ロックと並んで真のリベラリズムの、あるいは今日のリバータリアニズムのもう一人の父(別の父は当然のことながらジョン・ロックである)と称賛するのがアダム・スミスである。ボウツはスミスの『国富論』を通じて、それがリバータリアン理論へのもっとも重要な貢献だという。 

自生的秩序 

 アダム・スミスによれば、自生的秩序とは「人間社会に起きる物事の秩序は自発的に生ずる」ということである。 

たとえば、人々を他者と自由に交流させ、かつ彼らの自由と財産の権利を擁護したまえ。そうすれば、中央の統制がなくても秩序なるものが現れるだろう。市場経済は、自生的秩序の一つの形態である。何百人の、あるいは何千人の、あるいは今日では、何百万の人々が、毎日、いかにしてより多くの商品を生産するか、また、どうやってもっといい仕事に就くか、あるいは、どのようにして自分や家族のためにもっと多くの収入を稼ごうかとお思いをめぐらせながら、市場やビジネスの世界に入ってくる。彼らは中央の権威に指導されたわけでもないし、また蜂が蜜を作るために動くように、生物的な本能に導かれたわけでもない。けれども生産活動や取り引きをすことで、自分自身や他の人々のために、富を創り出すのである。(同書P81)  

 自生的秩序の具体的形態として市場に続いて、言語、法律、貨幣を挙げ、これらは人間たちの必要に応じて発生し、変化してきたものだという。 リベラリズム(リバータリアニズム)の基本原理は、アダム・スミスが自生的秩序の原理を組織立てたときに完成した。それはスミスが自著『国富論』を「自然で単純な自由のシステムを描写したのだ」と語ったように、人々が外部的干渉を受けないときに生じる資本主義の描写であり、近代経済学の基本原理でもある。 いつ、いかにして、自分自身の利益に基づいて人々が生産したり、取引をするのか、〝人々は「見えざる手」に導かれて、他の人々を益するのである″。 

18世紀のアメリカを支配したリベラル思想 

 アメリカの独立記念日7月4日は、1776年のこの日にアメリカ独立宣言が公布されたことによる。しかし、宣言後も宗主国イギリスとの戦闘は続き、1783年、アメリカ独立戦争の講和条約(パリ条約)をもって、イギリスがアメリカ合衆国の独立を承認したことになる。戦争は宣言後も7年続いたのである。過酷な独立のための戦争(武装闘争)をリードしたのは、急進的リべラル、トマス・ペインだった。
 ペインは独立戦争へと導くため、政治パンフレット『コモン・センス』を著わし出版した。『コモン・センス』はイギリスに対する独立の要求だけでなく、自然権と人間の独立を正当化する理論を展開した。ボウツはペインについて、「急進的なリバータリアン理論を提供した」と評している。その根拠となるのが、ペインが打ち出した〈社会〉対〈政府〉という二項対立の概念である。「現実のこの社会は、私たちの必要から生み出される〉⇔〈政府は私たちの不道徳から生み出される〉。ペインは「政府は、たとえそれが最善の国家であるとしても、よくて必要悪である。そして国家が最悪の国家であれば、それは耐えがたいものとなる」という。
 ボウツは、自由のための独立の戦いにあって『コモン・センス』と『諸国民の富』が果たした役割の重要性を強調するとともに、アメリカ独立宣言(トマス・ジェファソン起草)を「歴史上書かれたもののなかで、最高にすばらしいリバータリアン文書である」と絶賛する。そして、独立宣言の3つの要点として、①人々は権利を持つこと、②政府の目的はこの権利を擁護することにあること、③(もし政府が許される範囲を超え出るならば、人々には)政府を変革し、廃止する権利があること――と。 

独立後のアメリカ社会の変化 

 ボウツは、独立を達成したアメリカにおける急進的なリバータリアニズムの主要なテーマの第一は――バーナード・バイリン〔註4〕のエッセイから――権力は悪であり、およそ必要とされる場合には、必要悪としてのみである、という思想を人々に理解させることだったという。権力は限りなく腐敗する、権力をあらゆる方法で統御し、制限し、抑制しなければならないと。
 リバータリアンはアメリカ社会のすみずみにいたるまで、権力の分立、権利章典、行政、立法、司法の制限、戦争を強要し行う権利の制約などを説いたことだろう。こうして、権力そのものを疑う、すなわち疑念が、アメリカ革命のイデオロギーの中心となり、永遠に続く遺産としてアメリカ国民に残されたのだという。

註4:Bernard Bailyn(1922~2020)は、アメリカの歴史学者。ハーバード大学名誉教授。アメリカ史、とくに植民地時代から独立革命までのアメリカ史専攻。ピューリッツァー賞歴史部門を2回受賞している(1968年と1987年)。1968年には、バンクロフト賞(コロンビア大学)も受賞した。1975年には全米図書賞を受賞。 

 第二は、市民権や政治政治の諸権利の拡張の要求にこたえることだった。独立戦争(アメリカ革命)後の社会には、権力から排除される人たち――奴隷、農奴、女性たち――が出現するようになった。1775年、世界最初の反奴隷協会(antiislavery society)がフィラデルフィアに設立され、その後1世紀もたたないうちに、西洋世界では奴隷制と農奴制が廃止された。奴隷法廃止法(1883)によって奴隷所有者たちが受ける「財産」損失の補償問題については、リバータリアンのベンジャミン・パールソン〔註5〕は「補償されねばならないのは、むしろ奴隷の方である」と力説したという。
 女性の権利擁護の意識が目覚めた。1848年、最初の男女同権論者たちの集会が開かれ、自然権を要求し始めた。イギリスの学者ヘンリー・サムナー・メイン〔註6〕は「世界は身分社会から契約社会へ移行しつつある」といったという。 

註5:Benjamin Parsons (1797–1855)は、奴隷制度廃止法前からの奴隷制度廃止論者。 

註6:Sir Henry James Sumner Maine(1822~1888)は、イギリスの法学者・社会学者・政治評論家。イギリスにおける歴史法学の創始者とされている。 

 第三は、戦争廃絶への挑戦である。自由貿易は異なった世界の人たちを平和のうちに結びつける。自由貿易によって戦争の可能性は減る、というのが当時のリベラルの主張であったという。 

リベラリズム(=リバータリアニズム)がもたらしたもの 

 ボウツは、自由を求めたイギリス名誉革命およびアメリカ独立革命の達成が世界(欧米)にもたらした結果(影響)を次のように列挙している。 

  •  学問と機械の驚くべき進歩 
  • ジェレミー・ベンサムの功利主義(政府は「最大多数の最大幸福」を求めなければいけない) 
  • ジョン・スチュアート・ミル『自由論』 
  • ハーバード・スペンサー『社会静力学』(すべて人は自分の能力を使うに当たって、他のすべての人がもつ自由への愛好と矛盾しない限り、完全な自由を要求してもよいと、現代のリバータリアンの心情を述べた。 
  • ドイツに、ゲーテ、シラーという偉大な作家を生みだす(彼らはリベラルだった)。この二人は、イマニュエル・カントやウイルヘルム・フンボルトのような同時代の哲学者や学者の理念のなかに自由の理念を提供した。 
  • フランスでも、国家および国家によるすべての決定を攻撃するエッセイが書かれたばかりか、税金を「法的略奪」という概念を用いて、特権階級が人々が生産した物を法によって政府に使わせるようなっていると攻撃した。 

 リバータリアンが前出のとおり、奴隷制廃止運動を指導し、奴隷制を「人間の窃盗」と批判した。ウイリアム・ロイド・ギャリソン〔註7〕は「すべての人種を人間の支配から、あるいは奴隷状態にある自分から、また政府の野蛮な暴力から、解放することにある」と書いた。
 ライサンダー・スプーナー〔註8〕は、自然権の議論から始めて、「憲法を含めていかなる契約をもってしても、誰も自分が持ついかなる自然権をも放棄することはできないと訴訟を起こしたばかりか、個人的に憲法を承認しなかった。フレデリック・ダグラスは奴隷制廃止論を自己所有権と自然権から組み立てた。 

註7:William Lloyd Garrison(1805~1879)は、アメリカの奴隷制度廃止運動家であり、ジャーナリスト、社会改革者であった。急進的な奴隷制度廃止運動の新聞「リベレーター」の編集者として知られ、「アメリカ反奴隷制度協会」の創設者の一人である。 

註8:Lysander Spooner(1808~1887)は、アメリカの個人主義的無政府主義者、政治哲学者、理神論者、奴隷制度廃止運動家、労働運動の支持者、法哲学者、および起業家である。アメリカ合衆国郵便局と競合するアメリカ文書郵便会社を設立したことでも知られる。この郵便会社はアメリカ合衆国政府によって事業からの撤退を強いられることになった。 

 アメリカ独立革命を理論的かつ実践的に支えたアメリカの政治家、思想家、運動家等は、総じて宗主国イギリスの名誉革命に影響を与えた古典派経済学者および自由主義イデオローグの影響を受けていた。イギリスから新大陸に向けて、自然権、自由主義、資本主義経済などが輸出されたのだ。宗主国イギリスは権力であり、自由な経済活動を阻害し、植民者が築いた富を税として奪う「政府」だと認識されたようだ。併せて自然権から、奴隷制の廃止、人種差別・宗教差別の否定という先駆的社会変革の思想が北米に根づいたかのように、ボウツの記述からうかがえる。
 18世紀のリベラル(自由主義者)と今日のアメリカのリバータリアンとはイデオロギーにおいて異なるところがない。しかるに、後者は敢えて、リバータリアンと自称し、リベラルと一線を画している。その主因は19世紀の終わりにやってきたリベラリズムの衰退と、そのことに伴う変質があったからである。 

大恐慌/福祉国家/第二次世界大戦

 第一次大戦後の1920年代のアメリカは「狂騒の20年代/ Roaring Twenties」と呼ばれる好景気を迎えるが、1930年代に入ると大恐慌が起き、フランクリン・ルーズベルトが行ったニューディール政策でその苦境を脱する。アメリカには計画経済が導入され、福祉国家になった。
 1930年代には第二次世界大戦が勃発し、アメリカは欧州、東アジアに連合国の主軸として派兵し、日・独・伊のファシズム連合と対戦し1945年、日本帝国の降伏により、戦争は終結した。
 この時代(1920~1940年代)はリベラルにとって暗黒の時代だった。「アメリカの知識人たちのあいだに大きな政府を求める熱狂が起きた(本書P97)」とボウツは書いている。また、『ニュー・リパブリック』誌の最初の編集長であるハーバード・クローリーの『アメリカ的生活の約束』から次の言説を引用している。「その約束は・・・経済の自由によってではなく、しっかりとした規律によって、また個人の欲望をたっぷりと満たすことによってではなく、個人の服従と大いなる自己否定によって達成されるのである」と。

ルーズベルトの政府が大恐慌と第二次世界大戦を明らかな大成功のうちに終わらせたことで、政府はどんな種類の問題でも解決できるのだ」という考えが人々の間に生じる原因となった。戦争が終わて25年が経つまでは、大衆は、現在の巨大国家に反対しようという気持ちになれなかった。(本書P98)

 リベラルおよびリバータリアンにとっての暗黒時代のさなか、少数ではあるが、巨大化する政府を非難するジャーナリスト、思想家が現れるようになる。ボウツは、オーストリア学派の経済学者ルードヴィヒ・フォン・ミーゼス(1881~1973)をその筆頭に挙げる。彼の計画経済批判はフリードリッヒ・ハイエク、ウイリヘルム・ロエプケといった経済学の若き学徒に影響を及ぼし、「経済計画」批判がアメリカ経済学会に勃興する契機となる。

 政治思想の領域では、H.L.メンケン(ジャーナリスト、文芸評論家)、アルバート・ジェイ・ノーク、ギャレット・ギャリート、ジョン.T.フリン、フェリックス・モーレーら〔註9〕がリバータリアンの立場から、アメリカ合衆国の将来に警鐘を鳴らした。


註9:
・ ヘンリー・ ルイス・ メンケン(enry Louis Mencken 1880~1956)。ジャーナリスト、エッセイスト、風刺作家、社会・文化評論家、アメリカ英語学者、ニーチェ崇拝者。組織化された宗教、有神論、検閲、ポピュリズム、代議制民主主義に反対。大恐慌の間、ニューディール政策を支持しなかった。第一次世界大戦と第二次大戦へのアメリカの参戦に反対した。

・アルバート・ジェイ・ノック(Albert Jay Nock 1870~ 1945)は、20世紀初頭から中期にかけてのアメリカのリバータリアン作家、ネイション誌、フリーマン誌の編集者、教育理論家、ジョージスト、社会評論家。ニューディール政策に公然と反対し、現代のリバタリアン運動と保守運動を領導した。「リバータリアン」を自認した最初のアメリカ人の1人。著書に『余剰人の回想録』『我らの敵、国家』など。

・ギャレット・ギャリート(Garet Garrett 1878~1954)は、アメリカのジャーナリスト兼作家で、ニューディール政策と第二次世界大戦へのアメリカの関与に反対した。彼はオールド・ライト、リバータリアン、古典的自由主義者と見なされている。

・ジョン.トーマス.フリン(John Thomas Flynn 1882~1964)は、ルーズベルト大統領とアメリカの第二次世界大戦参戦に反対したアメリカ人ジャーナリスト。 ルーズベルト大統領に対する激しい反対から、後に真珠湾攻撃の事前情報陰謀説を唱えるようになった。

・フェリックス・マスケット・モーリー(Felix Muskett Morley (1894~1982)は、アメリカのジャーナリスト。ワシントン・ポスト在職中、ルーズベルトの介入主義外交政策と、ヒトラーとの戦いを批判する社説を掲載し解雇される。その後、ハバフォード大学の学長に就任。1944年にヒューマン・イベント誌の創刊編集者の1人となり、連邦政府の行き過ぎと外国介入主義に反対した。回想録『フォー・ザ・レコード』、『人民の力』、『自由と連邦主義』などがある。

現代のリバータリアニズムの誕生

第二次世界大戦とホロコースト真っ只中の1943年という暗黒の時代に、アメリカ合衆国史上最も強力な政府が、別の全体主義国家をうち負かすために、とある全体主義国家(ソビエト)と同盟を結んだ時、三人の注目すべき女性たちが、のちに、現代リバータリアン運動の誕生、と呼ばれるようになった書物を出版した。(本書P102)

 3人の女性とは、ローラ・インガルス・ワイルダー(Laura Ingalls Wilder, 1867~1957)、イザベラ・パターソン(Isabel Paterson,1886~1961)、アイン・ランド(Ayn Rand,1905~1982)である。
 ワイルダーの『大草原の小さな家』(1935年刊)は、アメリカの開拓時代を描いた児童小説で、1970年代後半から1980年代前半にかけてテレビドラマ化された。彼女はほかに、粗野なアメリカ人の個人主義の物語を書いたり、『自由の発見』と題する情熱溢れる歴史エッセイ集を出版したりした。
 パターソンは小説家で、1943年、世界を発展させる原動力としての個人主義を擁護する『機械の神』〔註9〕を創作した。
 アイン・ランドは共産主義ロシアからアメリカに逃れたロシア系アメリカ人で、1953年に『泉』〔註10〕を出版した。ボウツによると、『泉』は個人主義をテーマにした小説で、書評家たちから猛烈に非難されたが、この小説の真意が読者に伝わるにつれミリオンセラーになったと書いている。なおボウツは「彼女(ランド)の政治上の哲学はリバータリアンだが、すべてのリバータリアンが彼女の形而上学、倫理観、宗教観を共有したわけではなかった(本書P103)」と注釈をつけている。

註9:『機械の神』は、歴史に関する独自の理論を提示し、道徳的および政治的進歩の源泉としての個人主義を大胆に擁護している。1943 年に出版されたとき、イザベル・パターソンの著作は、個人の権利、限定された政府、経済的自由という、危機に瀕したアメリカの信念に新たな知的支援を提供した。今日の集団化された国家の危機は、パターソンにとって驚くべきことではなかっただろう。彼女は『機械の神』で、集団主義の失敗の理由を探っていた。彼女の著書は、現在世界を席巻している自由企業運動の先駆者に彼女を位置づけた。パターソンは、個人の創造的精神を歴史の原動力と見なし、神から与えられた個人の権利の尊重を、近代世界を生み出した膨大なエネルギーの放出の前提条件と見なしている。彼女は、資本主義制度を人間のエネルギーが機能する機械と見なし、政府は個人の自由を脅かす活動の力を遮断するためだけに適切に使用される装置と見なしている。パターソンは、教育、社会福祉、経済的苦境の原因など、現代生活における特定の問題に彼女の一般理論を適用している。彼女は、ほとんどの人々が長い間当然のこととみなしてきた政府の介入を含め、政府の最小限の適用を除くすべての適用を厳しく批判している。『機械の神』は、自由の性質、権力の使用、そして人類のよりよい発展の見通しに関する、世界中で続いている議論に対して、挑戦的な視点を提供している。スティーブン・コックスの『機械の神』の充実した序文は、パターソンの多彩な人生と仕事を包括的かつ啓発的に説明している。彼は『機械の神』を「理論だけでなく、狂詩曲、風刺、非難、詩的な物語」と表現している。パターソンの作品が今でも関連性があるのは、「集団主義の道徳的および実践的な失敗を暴露しているからだ。その失敗は、今ではほぼ普遍的に認められているが、まだ普遍的に理解されているにはほど遠いものだ」。この本は、アメリカの歴史、政治理論、文学を学ぶ学生にとって必読である。(GOOD READS/Website より)

註10:『泉』は『水源』とも訳されている。

(この小説の)主人公ハワード・ロークは、若い個人主義的な建築家である。彼は自分の芸術的・個人的なビジョンを犠牲にして世間に認められるよりも、無名のまま苦闘し続けることを選ぶ。本作品は、権威層が伝統崇拝に凝り固まる中、自身が最高と信じる建築(世間は「現代建築」と呼ぶ建築)を追求する主人公の闘いをめぐる物語である。主人公ロークに対する他の登場人物たちの関わり方を通じて、ランドが考える様々な人格類型が描き出される。
この作品で描かれる人格類型はすべて、ランドにとっての理想の人間像である自立・完全の人物ロークから、ランドが「セコハン人間」(second-handers)と呼ぶ人間像までの、様々な変化形である。ロークの前進を支援する人物、妨害する人物、あるいはその両方を行う人物など、様々なタイプの人物たちとロークの複雑な関係を描くことで、この小説は恋愛ドラマであると同時に思想書でもある作品になっている。ランドにとってロークは理想の人物の具現化であり、ロークの苦闘は、個人主義は集産主義に勝利するというランドの個人的信念を反映している。(Wikipediaより) 

資本主義と自由

 文学におけるリバータリアニズムの復興からやや遅れた1962年、経済学者ミルトン・フリードマンが『資本主義と自由』を出版した。同書はリバータリアン、ネオリベラルのバイブルのような存在となった。フリードマンはその中で、「政治的自由は、私有財産と経済的自由がなければ存在しえない」と論じた。ボウツは「・・・(フリードマンの)著作『選択の自由』をとおして、彼は過去の世代のなかで最も卓越したアメリカ人リバータリアンになった(本書P104」と書いている。
 ボウツは次いで、マレー・ロスバード(1926~1995/アメリカ合衆国の経済学者、歴史学者、政治哲学者)を挙げ、彼を「現代のリバータリアン思想の理論構造を建設し、この理念を政治運動に活用するという両方の面で重要な役割を果たした」「リバータリアンたちは、ロスバードを政治経済理論を統合したマルクスになぞらえたり、不撓不屈の急進的運動を組織したレーニンになぞらえたりした」と讃えている。
 続いて、ロバート・ノーズィック(1938~2002/ハーバード大学哲学者)である。1974年、彼は『アナーキー、国家、ユートピア』を出版した。ボウツは彼の結論部分を以下のとおり紹介している。

必要最小限の国家、即ち、暴力、窃盗ならびに詐欺、契約の強制、などに対し人々を擁護する機能をできるだけ狭く限定された国家こそが、正当化される。必要以上に大きな国家は、決まった事項のみを行うよう規制されないがために、個人の権利を侵害することになり、故に不正である。必要最小限の国家は、権利と同様、我々を鼓舞する。(本書P105)

 そしてボウツは、《ノーズィックの著作は、ロスバードの『新しい自由のために』やランドの政治哲学に関するエッセイと並んで、現代リバータリアニズムの「最も重要な核心」と定義されている(本書P105 )》と結んでいる。

リベラルとリバータリアン

 ここまでのボウツの記述を読むかぎり、〈18世紀のリベラリズム(自由主義)〉を原意として、〈現代のアメリカのリバータリアニズム〉と〈ネオリベラリズム〉に違いがないように思える。だから、ネオリベラルといえばいいと思うのだが、ボウツは、敢えてリバータリアンと自称し、リベラルと一線を画す。そこで参考までに、ウォーラーステインによるリベラリズムの定義を引用する。

リベラリズムは決して左翼の原則ではなかった。それはいつでも典型的な中道主義の原則であった。その主張者は自分たちの穏健さと賢明さと博愛とを確信していた。彼らは(保守主義的イデオロギーによって代表されると考えた)不公正な特権をもった旧態依然とした過去に対しても、(社会主義的あるいは急進主義的イデオロギーによって代表されると考えた)美徳または長所のいずれをも考慮しない無謀な平等にも、同時に対抗したのであった。リベラリズムはいつでも、政治舞台の他の勢力は二つの極端からなり、自分たちはその間にいると定義づけるよう努めてきた。(『アフター・リベラリズム 近代世界システムを支えたイデオロギーの終焉』P8)

 ウオーラ―ステインのリベラリズムに対する見解は晦渋だが、ボウツは次のように断言する。

政治的社会は、我々を約束した平和と豊かさという新しい時代に導くことに失敗した。強制的な政府の失敗は、強制の度合いと、その約束の壮大さの度合いに比例して悲惨なものであった。ファシスト政府と共産主義者の政府は、市民社会を排除し、より大きな大義(コーズ)のなかに人々を包含することを目指したが、今では絶望的な失敗だとされている。人々に共同体と繁栄を約束したが、結局、貧困と不景気と憎しみをそして分裂(アトミズム)をもたらしたのである。〔中略〕
ファシズムと社会主義が政治の舞台からほとんど消えてしまたっため、21世紀における闘争は、リバータリアニズム対社会民主主義(ソシアル・デモクラット)になるだろう。社会民主主義は、いわば社会主義を薄めたものである。その主張は、市民社会の必要性や市場プロセスを認めるはずが、個人が行おうとする決定に対しては、常に、制限、管理、妨害を行うことを正当化する理由をあれこれ必ず持ち合わせている。社会民主主義は、合衆国では、しばしばリベラリズムと呼ばれるが、私はかつての個人主義を意味した、このリベラリズムという偉大なことばをけがしたくない。(本書P361/太字は筆者による)

 ボウツによると、リベラリズムという言葉は、本来(原意)は18世紀の自由主義に基づく言葉であり、ネオリベラリズムもそうであるのだが、合衆国(だけに限らないと思うが)ではネオリベラリズムというと、〝新しいリベラリズム”すなわち〝新しい社会民主主義”と解される危険性がある、だから敢えて原意を避けてリバータリアニズムを用いたということになる。
 整理すると以下のとおりであろう。リベラリズムとは、18世紀に絶対王政に抗って名誉革命、アメリカ独立革命を起こした思想であり、それを支持する者をリベラルという。ところが、後年、リベラリズムは、社会民主主義に変質した。よってリベラルも社会民主主義者に変質した。第二次大戦後、社会民主主義が行き詰まり、ネオリベラリズムが台頭する。しかし、ネオリベラル(新自由主義者)と称すると、新しい社会民主主義者と誤解される。そこで、ボウツらはリベラリズムという偉大なことばを汚したくないと考え、新自由主義をリバータリアニズムと改称し、自らをリバータリアンと名乗ることにした。
 なお、日本語では「リベラリスト」という表現が一般化しているが、英語にはない。リベラリズムを信奉する者のことをリベラルという。なお、訳者副島隆彦の巻末「訳者あとがき」に次のような解説があり、参考になる。

リバータリアンたちは〔中略〕、必ずしもリバータリアンと自称したかったわけではない。ところが本来の本物のリベラリズム(自由主義)はもともと自分たちの旗であるのに、それを現代リベラル派に、僭称され乗っ取られて居座られてしまったので、仕方なくリバータリアンを名乗ったのである。リベラル Liberal とは少し違う、リバーティーン Libertine という言葉を仕方なく借用してこの30年間の間にリバータリアニズムを作った。このリバーティーンというのは、「惣領の甚六」というか、fopish spendthrift individual の意味で、遊び呆けている貴族のバカ息子、という意味である。こんな意に反する語を語源に持つ言葉を自分たちにあてはめるしかなかった一抹のもの悲しさが現在のアメリカの一大思想勢力に今なおつきまとう。(本書「訳者あとがき」P 396~397) 

テック・リバータリアンとトランプ主義 

 トランプがアメリカ大統領に就任する式典に、メタ、グーグル等のビッグ・テックのCEOたちが招待され、トランプのまわりを取り囲んだ。ビッグ・テック企業とトランプの親密ぶりをもっとも象徴するのがイーロン・マスクである。マスクはトランプ政権の閣僚に就任するらしい。彼らはテックライト(Tech Right/テック右派)と呼ばれ、究極の自由主義をトランプの下で実現しようとしている。
この数年で、ビッグテック企業の本拠地であるシリコンバレーでは、マスク氏に象徴される「テック右派(Tech Right)」の存在感が際立つようになっている。彼らは政府による規制や民主主義そのものを「無駄で非効率なもの」とみなし、技術による独裁的な統治を理想とする。「言論の自由」や「イノベーションと競争による米国経済の活性化の」を掲げるが、実のところはビッグテック・ポピュリズムである。この動きは、トランプ政権と実に相性がいい。(「偽情報・ディープフェイク もう一つの大統領選」内田聖子〔著〕/雑誌『地平』2025年1月号 P37)

 テックライトは、ボウツがこれまで記述してきたリバータリアニズムをもう一段進化させた新リバータリアニズム、すなわちテック・リバータリアニズムとも呼ぶべき思想である。トランプ政権と彼らが共同して、どのような政治・社会・経済における政策を実行していくのか、予断を許さない。 〔完〕


2025年1月10日金曜日

『〔新訳〕フランス革命の省察 「保守主義の父」かく語りき』

●エドモンド・バーク〔著〕 ●PHP文庫   ●1430円(税込) 

 著者エドマンド・バーク (1729-1797)は、フランス革命を保守主義の立場から批判した。本書はいまなお、保守主義のバイブルとしてもてはやされている。
 バークは、法律家リチャード・バークの次男としてアイルランド王国ダブリンで生まれ、イギリスで学び、英国国教会の洗礼を受けている。彼の省察は名誉革命およびジョン・ロックの思想の影響を受けていて、自国の革命を成功と、そして隣国のフランス革命を失敗と受け止めている。
 彼はイギリスの知識人の一人として、隣国の革命の状況を同時的に聞きおよびその感想を手紙に認めた。それを編集したのが本書で、1790年11月、ロンドンで刊行された。フランス革命勃発(バスティーユ蜂起)は1789年7月だから、フランス国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネットが処刑される前に、本書はまとめられたことになる。なお、フランス革命は1799年11月、ナポレオンの政権奪取によりしばしの終結をみるが、その後も動乱が続き、ナポレオンのロシア遠征失敗による彼の没落(1815)をもって終わったとされる。

バークの保守思想  

 バークはフランス革命の全体像を省察したわけではない。パリに渡り現地の実態を見聞きしたわけでもない。イギリスに伝えられたかぎられた情報から、いわば直感的省察を加えたにすぎない。事実誤認も見受けられるという。それらをふまえたうえで、以下、バークの省察を検証してみる。 

(1)古来の精神に立ち返る

新政府の樹立という発想は、われわれに嫌悪と恐怖を引き起こす。名誉革命の際も、また現在も、イギリス人は自分たちの権利や自由を「先祖から受け継いだもの」と見なしてきた。代々にわたって継承されてきたこの大樹に、異質な何かを接ぎ木しないよう、われわれは気をつけてきたのだ。わが国(イギリス)における政治改革は、つねに「古来の精神に立ち返る」という原則に従って行われてきた。将来行われる改革も、過去の事例を重んじ、手本とすることを願う。(P86)
自由や権利を「祖先から直系の子孫へと引き継がれる相続財産」として扱うことこそ、イギリス憲法の一貫した方針といえる。それはイギリス人であることこそ、イギリス憲法の一貫した方針と言える。それはイギリス人であることに由来する財産にほかならず、より一般的な人権や自然権とは関係していない。
〔中略〕王位も世襲なら、貴族の地位も世襲、下院や一般民衆がもつ特権や市民権や自由も、代々受け継がれたもの。
これは人間のあり方をめぐる深い思索のうえに定められた方針に思える。いや大自然のあり方にならったものとしたほうが、より的確であろう。自然とは理屈抜きに正しいと感じられるものであり、理性を超えた英知を宿しているのだ。
(P87~88)

(2)世襲が保守思想の基本 

 自由や権利は古来から受け継がれたもの、という世襲が保守思想の基本的立場であり、身分制も世襲(変えることができない)とする。・・・社会のどんな階層においても、善を重んずれば幸福が見つかることも理解されると思われる。 人間の平等とは、こういった道義性のなかに存在する。身分や階層そのものをなくせるなどというのは、途方もない大ウソにすぎない。こんなウソは、社会の下層で生きねばならない者たちに、間違った考えやむなしい期待を抱かせたあげく、社会的な格差への不満をつのらせるだけである。そしてあらゆる格差や不平等をなくすことは、どんな社会にも不可能なのだ。(P94)

(3) 身分制、格差、不平等をなくすことはできない

フランスの大法官は・・・あらゆる職業は名誉なもの、と麗々しく宣言した。〔後略〕
 しかし、あらゆるものに名誉を与えるとなっては、もう少し突っ込んだ意味合いが生じる。調髪師や獣脂ロウソク職人といった仕事は、誰がやろうと名誉なものではない。・・・もっと隷属的な仕事については言わずもがな。 そういった仕事に就いているからといっていって、国家から迫害を受けるいわれはない。だがこんな連中に(個人としてであれ集団としてであれ)政治を任せたら最後、国家はたいへんなことになる。平等主義に徹することで、フランス人は世間の偏見をくつがえしているつもりかもしれないが、じつは非常識に振る舞っているだけと言わねばならない。(P113) 

(4)貴族・聖職者が国の繁栄を支える

フランス革命が生じたとき、ヨーロッパは全体として明らかに繁栄していた。伝統的な価値観や慣習が、この繁栄にどれだけ貢献していたかを具体的に計るのは難しい。けれども両者が無関係であるはずはない以上、伝統は社会にとって有益なものと見なして差し支えあるまい。
われわれの慣習、さらには文明は、さまざまな良い点を持ち合わせている。これを支えてきたのは貴族と聖職者であった。戦争や混乱のさなかにあっても、学問や文化が存続してきたのは、彼らの努力や庇護のおかげなのだ。経済を重視する政治家は、商業、交易、工業などにばかりこだわるが、これらにしたところで、貴族的精神や信仰心に多くを負っている可能性が高い。(P145)  

平等の否定が保守思想の核心 

 バークの保守主義とはこういうことなのだ。身分制を固定的なものと考え、社会の上位者は永遠に上位であり続けられる社会が保守主義者にとってのあるべき社会なのだ。身分による差別、職業による差別、下層とされる人々に対する平然とした侮蔑を臆面もなく表明してはばからない。フランス革命を受け入れないイギリスの保守派知識人の社会観、人間観がよくわかる。
 バークの保守主義はイギリスから大西洋を渡る船に乗って新大陸に流れ着く。北米にやってきた入植者は先住民を虐殺し排除したばかりか、労働力としてアフリカから奴隷として拉致してきたアフリカ系の人々への虐待と差別の正当化の論理として保守主義が一役買った。そればかりではない。イギリス人は今日まで続く人種の序列化を北米において構造化した。貴族のいない新大陸に、WASP(White, Angro-Saxon, Protestant)を最上位とし、その下位にイタリア系、アイルランド系、東欧系…アジア系、アラブ系、アフリカ系を階層化した。アメリカのいまなお続く保守主義は、バークのような保守主義者から受け継いできた結果である。アメリカ、新しいようで古い国なのである。

バークの保守主義は危険思想 

 バークは本書終章で、国体というものの重要性をもちだし、以下のように宣言する。

イギリスにおける国家の基本的なあり方、つまり国体は、国民ひとり一人ひとりにとって、計り知れない財産と呼びうる。〔中略〕
既存の国体を保ち、不当な侵害から守るためには、真の愛国心や自由の精神、および自主独立の気概が欠かせない。わが同胞は誇りをもって「保守」の偉業を果し続けるだろう。(P377~378)

 ことほどさように、本書は危険な言説で締めくくられている。日本の近現代史は、「保守」が軍国主義、国家主義、全体主義、帝国主義に変容する過程をまざまざと見せつけている。「保守」は唾棄すべき思想である。