2025年8月23日土曜日

映画『教皇選挙』

 ●エドワード・ベルガー〔監督〕 ● ピーター・ストローハン〔脚本〕 ●キノフィルムズ/amazon prime〔配給〕 


カトリック教についてしっていることは少ない。全世界14億人以上の信徒を誇るキリスト教最大の教派であり、ローマ教皇と呼ばれる宗教上の最高指導者が教団のトップにいて、信徒ばかりか世界にそれなりの影響力を与えていることくらいか。教皇は、神と信徒のあいだいにあり、神の代理人のような存在なのかもしれないし、イエスのそれかもしれない。カトリック教においては、神-イエス―教皇-信徒という垂直的位階があるのかどうか・・・ 


東京カテドラル

カトリック教についてもう一つ、その財力が桁違いに大きいことを知っている。プロテスタントの教会を預かる牧師は、とりわけ教会員が少ない日本では、教会を維持することは難儀だという話を聞いたことがあるが、カトリック教会にはその心配がないという。同派の総本山ローマから潤沢な支援金が送られてくるからだと。カトリック東京大司教区の司教座聖堂・東京カテドラル(聖マリア大聖堂)は荘厳な建築で知られている。

※   ※

さて、この映画は、カトリック教の最高指導者教皇が亡くなり、次の教皇が選ばれる過程を描いた物語だ。新教皇を決める教皇選挙「コンクラーベ」に世界中から100人を超える候補者たちが集まり、新教皇は投票で決められる。投票は別名、選挙である。つまり、選挙ならば、「コンクラーベ」も例外ではなく、選挙のシステムが稼働する。新教皇を目指すもの、多数派に属して、新教皇から受けられる利益を追求するもの、いくつかの派閥が形成され、票が割れる。陰謀、差別、スキャンダルを互いに暴き合い泥仕合となる。

「コンクラーベ」は、選挙を執り仕切る者(ローレンス枢機卿/映画の主人公)が候補者であることもできるという不思議な選挙制度である。「民主主義」の選挙ならば、中立の立場にある選挙管理者が選挙事務を取り扱うのが普通であるのだが。

「コンクラーベ」は厳格な選挙規約があり、候補者は外部から遮断された建物に宿泊し、夜間は厚い壁で仕切られた部屋に缶詰め状態にされる。もちろん携帯電話等は取り上げられ、世間の情勢、情報は遮断される。だが、ローレンス枢機卿は選挙の仕切り屋という立場から、派閥の仲間と密談ができ、前教皇が残した秘密文書にアクセスすることができ、恐るべき陰謀等を知る・・・結末はネタバレになるから書けない。 

※   ※ 

ローマ法王庁は組織であり、それを構成する教皇、枢機卿等も私利私欲にかられたただの人間。神の代理人という権威・権力を求めつつ、世間(全世界)からのスキャンダルをおそれる俗人であることを映画を通じて知ることができる。〔完〕 


2025年8月19日火曜日

映画『ゆきてかへらぬ』

  


●根岸吉太郎 〔監督〕 ●田中陽造〔脚本〕 ●キノフィルムズ/amazon prime〔配給〕 

 天才詩人・中原中也(1907~1937)、鬼才の批評家・小林秀雄(1902~1983)という、日本文学史に残る巨星二人を愛し、愛された長谷川泰子。この映画はそんな三人を描いた物語だ。 

 三人の関係については、日本の近現代文学に関心がある者たちにはよく知られている。泰子は駆け出しの大部屋女優。中原と同棲していたが、中原の親友、小林に出会い、中原を捨てる。中原は親友と恋人に裏切られた「口惜しき人」となる。しかし、泰子と小林の生活は長続きせず、泰子は神経症を患い小林は彼女をおいて出て行く・・・ 

 泰子を媒介として、中原と小林の資質のちがい――詩人と批評家という文学に対する向き合い方――が、泰子との接し方の違いとなって彼女を苦しめる、というのが映画の基軸となっている。創作者(中原)と批評家(小林)を定型的・図式的に性格付けをしたうえで、泰子の愛が中原にも小林にも届かぬ不可能性として描かれる。創作と批評の弁証法は止揚されることのない絶望的関係であることを暗示する。 

 創作者と批評家は対立的だ、というのは思い込み――クリシエなナラティブだ。映画のように、詩人(中原)と批評家(小林)が対照的であることもあるし、そうでない場合もある。中原と小林の場合は、たまたま、詩人(創作者)が直情的、破滅的、主観的であり、批評家が分析的、常識的、客観的であったにすぎない。この映画ではそう性格付けされているのだが、両者の資質の違いは、性格(人間性)の違いでしかない。わかりやすくいえば、中原と小林の性格付けと真反対な、つまり常識的詩人もいれば、破滅的批評家もいる。たまたま、破滅的中原と常識的小林が、詩人と批評家だった。 

 中原は、映画のとおりの性格だったようだ。そのことは当時、中原のまわりにいた友人・知人の多くが証言を残している。その一方で、小林については管見の限りだが、その人となりを知るような情報が一般化していない。映画では、自惚れ屋、自信家である一方、繊細で外見を気にする性格の持ち主として描かれている。 

 筆者の邪推にすぎないが、地方出身の中原には、東京人に対するコンプレックスがあったのではないか、と思う。都会人は本音を隠し、軋轢を避け、自己防衛的な傾向がある。田舎の裕福な家庭に育った中原は、都会人の率直でない態度に苛立ち、激しい口論や喧嘩をふっかけ、彼らから隠された本心を引き出そうと労苦したのではないか。東京に生まれ育った小林は、都会人として、対人関係に距離をおく習性を身につけていたのかもしれない。1920~1930年代の地方と東京のギャップはいま以上に大きかっただろう。 

 泰子はどうなのか。映画女優を目指す当時としてはモダンで自立した女性という一面をもちながら、独りではいられない。そして、中原と小林を求めながら、両者に安住することはできなかった。中原と小林は否定的関係にあるが、両者を止揚する男は見つからない。不可能な愛を求めた彼女は独りとなった。 

 この映画のすぐれた視点は、泰子が中原と同棲中、小林が中原宅を訪れ、二人が文学論に熱中して楽し気な様子を見たところで、泰子が不機嫌になるシーンだ。そのとき、中原は「嫉妬しているのか」と泰子をなじる。泰子はまちがいなく嫉妬していたのだ。男同士の恋愛ではない友情というか、ある主題(ここでは文学)について理解しあう者同士の関係に嫉妬したのだ。そのような関係は泰子が永遠に築けないものだからだ。泰子は中原の詩を読み感動したことはあったかもしれないが、小林の評論を読んだことはなかっただろう。難しくて読む気にならなかったかもしれない。中原と小林の関係を壊すには、中原を捨て小林の下に行くしかない。それが中原と小林を超える唯一の手段のように彼女には、思えたのかもしれない。

※   ※

長谷川泰子を演じた広瀬すずが圧倒的存在感を見せ、すばらしかった。木戸大聖が中原中也、岡田将生が小林秀雄を演じたが、二人とも風貌が現代的過ぎて、1920~1930年代の日本人の貌ではない。〔完〕  

2025年8月17日日曜日

お祝いで イタリアン

東大大学院留学生のLuoさん、
修士論文に合格。
おめでとう。



























2025年8月12日火曜日

広陵高校野球部暴力事件に思う

暴力事件発覚までの経緯

 広陵高校野球部内における暴力事件発覚の経緯を確認しておこう。
 今年1月下旬、広陵高校野球部・当時2年生の部員4人による、1年生の部員にたいする暴行や不適切な指導事案(といわれているが、集団暴力事件である)があった。3月上旬、日本高野連は同校野球部にたいし厳重注意処分を発出した。広陵高校は当時、加害対象部員に対し、1ヶ月の公式戦出場を停止とした。その一方、被害部員は3月の夏に転校し、今回の夏の予選の前に、被害部員の方は被害届を警察に提出している。
 今回の「事案」は公表はされていなかったが、8月5日の夏の「甲子園」開会式の前に、SNSなどで部内で暴行があったという情報が飛び交う状況になった。今月6日、「甲子園」の開会式の翌日、学校は暴行不適切「事案」の詳細を公表した。
 ここまでのところで、だれもが疑問に思うのは、なぜ情報が公表されなかったのか、ということに尽きる。高野連はこのことについて、厳重注意処分を原則公表しないという立場をとっているからだと説明する。高野連は公表しない理由について、SNSで個人攻撃をむやみに煽らないため。過ちを犯した未成年を守るためだと。
 広陵高校の対応を振り返ると、前出の今年1月の暴力「事案」に関しては、広陵高校としては調査の結果、関係者に対する指導及び再発防止策を策定して、高野連に報告し1ヶ月の公式戦出場を停止とした。また、高野連はこのような対応があったこともあって、出場を差し止める状況ではなかったと判断したという。
 一方、暴行を受けた被害部員側は、夏の予選前に警察に被害届を提出していたが、警察・広陵高校側は捜査も調査もしていない。高野連も出場を差し止める状況ではなかった、と勝手に判断している。
 ところが、広陵高校野球部内の暴力事件はそれにとどまらなかった。別の暴力事件が、SNSなどで取り上げられ表面化した。この別件とは、去年3月に元部員から「2023年に監督・コーチ・部員から暴力行為を受けた」という申告があったにもかかわらず、広陵高校は調査をしたものの、確認できなかったと結論づけたことだ。申告した元部員は今年2月、高野連にも情報を提供したものの、高野連は、学校側が再調査をした結果、確認はできていなかったと結論づけた。これに対して元部員側は再度要望し、学校側は6月に第三者委員会を設置したというものの、現在調査中で結果の公表の見通しは「不明」なままとなっている。

暴力事件は隠蔽された

 広陵高校野球部暴力事件の真相ははうやむやのまま、同校はどこからもなんら咎められることなく、「無事」、「甲子園」出場を果たし、1回戦に勝利した。
 ところがである、突如、出場辞退を公表した。辞退の理由は、SNSの誹謗中傷などが理由だと広陵高校は表明しているが、筆者はこの辞退理由に納得していない。SNS上による、いわゆる行き過ぎた広陵高校批判は容認できないが、SNSを沸騰させたのは、広陵高校と高野連の暴力容認姿勢にあり、加えて、隠蔽体質が輪をかけた。常識的に考えれば、学校内(校舎、教室、学生寮ほか諸施設)で集団的かつ組織的暴力事件が発生した場合、被害者および学校管理者は警察に届け出て、警察が捜査のうえ加害者が特定されれば逮捕、取り調べを受けるのがふつうだ。部活動の監督・コーチは教員に準じる、教育者ならなおさらのことだ。かりにも彼らが暴力事件を起こしたならば、捜査のうえ逮捕され拘留されることは免れない。加害者が未成年者ならば、処分は少年法に準ずるだけだ。かつて大学体育会内の大麻事件の際、警察は当該大学を捜査し、検察は学生首謀者を起訴している。
 広陵高校側が発した辞退理由もおかしい。広陵高校は出場辞退した理由について、「生徒が登下校で誹謗中傷を受けたり、追いかけられたり、寮への爆破予告などSNS上で騒がれている。生徒らの人命を守ることを最優先し辞退した」という。SNSでは生徒の写真などの投稿も行われているというから、SNS投稿者が悪質化し違法状態にまで沸騰したことはもちろん容認できないが、大衆が怒りを抱いたのは、広陵高校と高野連による事件の隠蔽にある。自分たちの不正を棚に上げ、反省もなければ謝罪もない。〝辞退はSNSのため″とうそぶくのは許しがたいし、責任転嫁がはなはだしい。大衆の怒りを増幅するだけだ。「暴力事件を起こし、それを隠蔽して甲子園に出場するなんて、なんてこった」というのが大衆の怒りの根底にある。 大会辞退は暴力を起こしたことではなく、SNSにあるという「すり替え」が高野連・広陵高校の一貫した姿勢である。

「甲子園」という興行

 「甲子園」という高校生の部活動のひとつである全国野球大会が春夏の全国的規模の風物詩になったのは、主催者の朝日新聞社、毎日新聞社及びその周辺に位置する日本放送協会(NHK)などのマスメディア(新聞、テレビ等)の力だ。
 そもそも高校生のスポーツ大会としては夏のこの時期に開催されるインターハイがある。全国高等学校総合体育大会のことで、全国高等学校体育連盟が主催する高校生を対象とした日本の総合競技大会だ。毎年8月を中心に開催されるが、野球はインターハイの参加競技に入っていない。なぜならば、公益財団法人日本高等学校野球連盟(高野連)が「甲子園」大会として独立した全国大会を興行しているから。高野連は日本の男子高校野球の統轄組織で、47都道府県の高等学校野球連盟が加盟している。
 高野連の設立と甲子園大会開催の経緯は以下のとおり。
 先の大戦前、全国中等学校野球大会は朝日新聞社、選抜中等学校野球大会は大阪毎日新聞社がそれぞれ単独で主催していた。戦後に再開するにあたって、両新聞社とは別の運営組織が必要になったため、朝日新聞社元社長が毎日新聞社取締役大阪本社代表を誘って、全国中等学校野球連盟を立ち上げた(1946年発足)。その後、戦後改革の一環として、学制改革が実施され、旧制中学が高校、国民学校高等科が新制中学へ改組されると、中等学校野球連盟は新制高校を対象とすることになり、全国高等学校野球連盟(高野連)と改称した(Wikipediaによる)。
 春夏「甲子園」大会を独自のスポーツ興行として目をつけた朝日新聞・毎日新聞の興行者(商売人)としての眼力はそうとうなものだ。第一に、青春を代表する高校生の大会に絞り込んだことが挙げられる。第二が、高校生の野球レベルは低くないことを見抜いたことだ。見るに堪え得るのだ。昔から、高校卒業後、職業野球で通用する高校生を数多く輩出している。
 野球ファンが多い本邦だが、高校野球と大学野球を比較すると、前者が後者を圧倒する。大学野球の早慶戦が世間の注目を集めたのは遠い過去の一時(いっとき)のこと。いまでは大学野球は見向きもされない。大学野球がダメで高校野球が人気を博しているのは、高校が最後の学園生活となる人びとのノスタルジーを誘うことによる。2024年の大学進学率は6割(59.1%)に達する。高いと思うか低いと思うか、受け止めはさまざまだが、専門学校等に進学する者がいるものの、本邦の4割近くは高校で学園生活を終える。年齢層が高くなればなるほど、高卒で社会に出た人の割合は高くなる。「高校」は大学と違って地域に根ざす。大衆のノスタルジーを喚起するに十分すぎる条件を備えている。
 代表校が県単位というのもそのことを象徴する。甲子園夏の大会では、東京・大阪には2校の出場枠が与えられ予選が行われるが、他の道府県の枠は1校だ。一見平等に見える出場枠制度であるが、東京・世田谷区(915,437人)の人口は、都道府県別人口数第47位の鳥取県(553,407人)の1.5倍を超える。東京都の一つの区の人口が一県のそれの1.6倍を超えているのだから、東京都の出場枠が2しかないのは不合理だと思うが、そんなことは気にしないのが「甲子園」大会なのだ。なにより、「甲子園」は郷土(道府県)の代表であることが重要なのだ。
 大学野球は大学が立地する地域に立地する大学間のリーグ戦(たとえば「東京六大学リーグ」)で開催されることが多いから、大学OBや現役大学生等が関心を持つにすぎない。大学野球の人気が凋落したのはそのことのほかに、マスメディアである大新聞が開催に関与しなかったことだ。ただし、マスメディアが興行に関与しながら、高校サッカー(別称「国立」)は「甲子園」ほど全国的人気を博すことができない。なぜならば、NHKが中継放送をしないからだ。つまり、マスメディアとNHKが組まなければ、「甲子園」に至らない。 

「甲子園」の弊害

 マスメディアの報道が「甲子園」という興行を加熱することで、弊害が顕著となっている現実は見過ごせない。なによりも、学校経営者が「甲子園」を生徒集めの経営戦略と位置づけていることだ。本邦の人口減少に歯止めがかからないのは自明のこと。生徒数は減少する。学校経営は苦しくなる一方だから、「甲子園」で知名度を上げ、多くの入学希望者を確保したいと思うのは学校経営者としては当然のように思える。だが、高等学校は言うまでもなく、教育の場だ。野球部を強くすることと、一定の教育水準を維持することが両立できれば問題はないが、そうはいかない。野球の上手い少年を全国レベルで調査し入学させ、寮に閉じ込めて野球に専念させるようでは、そのような高校を教育機関と呼ぶことは難しい。統計的裏付けを必要とするが、甲子園大会出場常連高校とそれ以外の高校の入学出願数を比較したとしたら、おそれく前者の方が圧倒的に後者を凌ぐのではないか。
 こうして「甲子園」の夏の大会出場の予選を勝ち抜くこと、春の大会に選抜されること――すなわち郷土代表校になることが、野球名門校経営者から野球部にたいする至上命令となる。指導者(監督・コーチ)と呼ばれる専門職が確立され、著名な指導者が職業野球並みの鍛錬を高校生に強いる高校もあるようだ。名門校を乗り越えんとする新興高校もそれに負けない対策を講じる。こうして、「甲子園」の名の下に、高校野球は特殊な発展をみせるようになる。 

広陵高校事件の主因

 今回発覚した広陵高校集団暴行およびその隠蔽事件の根っこには、勝つためにはすべてが許されるという、スポーツとは無縁の歪んだ勝利至上主義がはびこる現実がある。この歪みを醸成したのが、前出の朝日・毎日という大新聞、日本公共放送および周辺のマスメディアだ。高校生の部活動を興行として成功させるため、新聞紙、電波、映像を駆使して大衆を洗脳する。高校生の純真なスポーツだと印象操作するその裏には、歪んだ大人の事情があって、集団的・組織的暴力事件すら隠蔽してしまう。「甲子園」は主催者・関係者にとって利益が上がる優良コンテンツであり、かつ高校経営者が生徒を集めるための経営戦略の一環にすぎない。高校の野球部のどこが強かろうが、弱かろうが、高校教育とは、一切、関係がない。

 筆者は、「甲子園」が日本の野球レベルを向上させているか否かの判断を保留する。筆者は、「甲子園」を通過しない道程、すなわち、インターハイの競技に野球が追加され、インターハイ程度の報道のされ方のまま、高校生が自由に野球というスポーツに取り組めるような環境が整備された方が、スケールの大きな野球選手が輩出されるような気がしてならない。もちろん、高校生が大人の金儲けの犠牲にならないことがなによりだと思う。
 高校生が学業の余暇時間に野球というスポーツに自然体で取り組めるよう、周囲が静かに見守れるような状況を本邦においてつくりあげること、カネ儲けから離れたふつうの部活動としての高校野球を確立すること――はかなり難しかろうが、あきらめてはいけない。〔完〕

2025年8月9日土曜日

2025年8月8日金曜日

短歌008

 


2025年8月5日火曜日

短歌007

 


2025年7月29日火曜日

NPB 、残り50試合ほどを残すのみ

 セリーグのペナントレースはほぼ終わった感がある。首位阪神が独走状態で、2位の読売(以下「巨人」という)が勝率5割ちょうど、残り4球団が5割を割っている(2025/07/27現在)。まさに惨状だ。開幕前、筆者が優勝と予想した巨人と阪神のゲーム差は10、巨人の逆転優勝の可能性はかなり低くなった。 


セはパのマイナーリーグ? 

 「人気のセ、実力のパ」と言われたのは大昔のことで、いまはパリーグ各球団が企業努力を続けた結果、人気は同等、実力はあいかわらずパの方が上と状況が変わった。交流戦では、12球団中、下位7~12位をセの球団が占めた。オールスター(以下「AS」)2試合もパが完勝した。わずかワンカード(3試合)の交流戦だから実力を反映しない、たった2試合のASはお祭りだ、という見方もできるが。
 セとパの実力の差は、個々の選手の体力差に起因するように思う。いわゆるパワーの差だ。野球選手は筋トレをしてはいけないという時代があった。筆者はプロ野球選手の基礎トレーニングを実際に見たことがないが、近年になって筋トレは当たり前になったようだ。たとえば、MLBの大谷翔平の室内トレーニングを映したテレビ映像を見たかぎり、彼はスクワット、デッドリフト、ベンチプレスに励んでいた。筋トレをすれば野球がうまくなるわけではないが、筋力がなければ、打球を飛ばせないし、速いボールも投げられない。ボディビルダーのような肉体をつくり上げる必要はないが、パワー系スポーツの基礎となる筋肉量は必要だろう。繰り返すが、筋量が多ければ野球がうまいとは限らない。野球がうまくなるためには、その上の段階の鍛錬を必要とする。筆者が思うに、セとパのパワーの差が、実力の差にあらわれているように思える。 

DH制度 

 しばしば指摘されるように、両リーグに野球観の相違がある。DH制度の採用・不採用がそのことを象徴する。筆者はセリーグが9人制というローカル・ルールにこだわる理由がわからない。日本人が大好きなWBCなどの国際試合では、DH制が当たり前に採用されている。打率1割程度の打者(投手)が打席に入る場面に魅力はない。投手がヒットや本塁打を打たないわけではないが、その確率はおそらく10%台だろう。試合中、セリーグの投手は打者投手のところで一息つける。8人を相手にすればいい。
 DH制は投手に緊張感を与え続けるが、その分、メンタルは鍛えられる。加えて、僅差の試合、たとえば、0-1で負けているとき、セでは中盤から後半、投手に打順がまわれば代えられてしまう。DH制なら投手が打席に入らないのだから、投げ続けられ、逆転の僥倖に巡り合えるかもしれない。つまり勝利投手になれる確率が高くなるということだ。それだけではない。投手が死球を受けることや、走塁中のケガなくなる。
 野手のメリットは、DHという専門職で出場機会が増えることだ。守備力、走力が衰えても、強打者ならばDHで必要な人材として生き残れる。大谷が二刀流を試行し続けられるのも、DH制度のおかげだ。セリーグ各球団は今後、第二、第三の「大谷」は現れないと思っているのだろうか。現れてもドラフトで指名できなくなるだけだが。 

ふざけた「オールスター」を廃止しろ 

 前出のASに関してひとこと言いたい。いつから「祭り化」したのか確言できないが、NPBのASは、出場選手がニヤニヤ笑いながら、ふざけたプレーの連続で不愉快極まりない。MLBのASは選ばれた選手が一試合に誇りを賭けて全力プレーする。NPBはダラダラの2試合を、花相撲のような真剣みのないプレーで見る気がしない。「普段見られないプレーを見せる」という意味を取り違え――たとえば、左投手が右手で投げてみせることがASの醍醐味だとメディアが絶賛するから、選手が調子に乗る。そんなプレーを大金をはたいて喜ぶ「ファン」も情けない。とにかく、選手がニヤニヤしながらプレーするのは許しがたい。ASはいつから、「お遊び」になったのだ。 

犠牲バント至上主義というアポリア 

〝犠牲バント至上主義″はセパ共通のアポリアだ。犠牲バントは日本野球のDNAだと評した元外国人選手がいたという。なるほど。
 とりわけ、日本球界を代表する巨人において目に余るので、指摘しておきたい。「ベンチで涙目」で話題をさらった泉口の懲罰交代だ。彼は一打席目見逃しの三振、二打席目犠牲バント失敗で交代させられた。以下が「泉口懲罰交代事件」の全容である。 

7月17日の対ヤクルト戦、1対1で迎えた三回表の巨人の攻撃、ノーアウト一塁二塁のチャンスで打席に入ったのは、2年目にしてスタメンに名を連ねる泉口友汰選手(26)。開幕後は1番に入ることが多かったが、この日は5番ショートで出場していた。 
 ベンチからのサインは「バント」。ところが初球、2球目をファウルした泉口に対して阿部監督はスリーバントを要求するも、これも失敗してアウト。ランナーを三塁に進める“仕事”ができず、ベンチに戻ることに。 
  スリーバント失敗はプロ野球でも時おり見かける光景だが、阿部監督はそうは思わなかったのだろう。チャンスを活かしきれずに無得点で終えると“鬼の形相”のまま選手交代を告げ、三回裏からショートを守らせたのは門脇誠選手(24)。泉口に“懲罰交代”が課せられた格好だ。(ヤフーニュース)

 泉口の打撃成績は2割8分台、本塁打4(7/28現在)。貧打巨人の中では、トップの打率である(規定打席以上)。犠牲バント成功で彼が消えれば、言うまでもなく、ワンアウト2塁3塁で下位の6番に続く。6番打者にヒットが出なくても、外野フライ、ボテボテ内野ゴロ、相手エラー等で最低1点は入るだろう、というのが阿部監督の「采配」だ。なんとつまらない考え方だろう、泉口が併殺打を打って倒れたとしても、2アウト3塁で6番打者がヒットを打てば1点入る。泉口がヒットを打てば1点入りなお、チャンスは広がる。長打を打てば試合が決する可能性もある。イニングは序盤の3回。1点で満足する作戦を選択するのか、それ以上の結果に賭けるか――勝負師の勘の見せ所だろうが。
 要するに阿部は選手を信頼していない。楽観主義はよくないが、泉口を中心打者(クリーンナップ)として5番に起用した自分をも信用していないことがわかる。もうひとつ、バントは成功して当たり前という先入観がNPBの宿痾であり、犠牲バントをチームへの貢献だとありがたがる傾向がNPBの野球を小さくしている。フォースプレーのランナー1、2塁の場合、バントが成功した後1点入る確率と、バントしないでヒットを打って得点する確率のどちらが高いのか。筆者は、バント成功後1点入る方がやや高い程度ではないか(データ検証が必要だが)。犠牲バントが、チーム内打率トップの選手の仕事なのだろうか。
 読売のチーム事情は近年で最悪に近い状態なのはわかる。主砲岡本が長期離脱、へルナンデスもケガ、キャベッジは守備力、判断力といった総合力において、穴が多すぎる。坂本の衰えが目立つようになった。信頼できるのは丸と吉川だけ。岸田、増田、オコエ、中山、門脇、荒巻、リチャードらは一軍半選手。筆者は、泉口は成績からみて、丸、吉川に次ぐ序列だと思っていたが、阿部はそうは思っていなかったようだ。 

懲罰交代は悪である 

 筆者は懲罰交代に反対だ。監督が選手を先発で起用したということは、実績、直近の成績、体調、試合前練習の状態などを総合的に考えて判断したものだと思う。エラーやサインの見落としなど失敗もあるだろうが、たった一度のミスを責める懲罰交代は選手にとって苛酷すぎるし、監督が、選手起用における自身の選択の誤りを公にしたようなものだ。自分の判断が誤りでしたと。阿部は「(泉口は)きょうは戦力にならないと思いましたから(懲罰交代させました)」と言い訳したという。阿部は正直だが、反省はない。 

巨人の失敗 

 巨人はFAで捕手の甲斐を獲得した。クローザーのマルチネスと並んでの獲得だっただけに、大型補強と言われた。両選手とも球界のトップクラスだが、いままでのところ、マルチネスの獲得は成功だが、甲斐の獲得は失敗だった。甲斐は〝甲斐キャノン″と言われるほどの強肩捕手。NPB中、ナンバーワンキャッチャーの評価を得ていた。だが、結果的には、彼が下り坂に入っていたことを見越せなかった。序盤、チームが下降気味のなか、甲斐の打撃は好調で、勝利に貢献した。ところが、セの投手陣が彼の弱点を探りあて、甲斐の打率は急降下した。盗塁阻止率もさほど高いわけではないし、リードが格別いいわけでもない。いまでは岸田、たまに小林の捕手3人が先発に起用されるようになった。
 甲斐加入で押し出されたのが大城だ。2023シーズンまで、大城はレギュラー捕手でありかつ打撃の主軸の一角を占めていた。大城の打者としての序列は極めて高かったのである。2024シーズン、阿部が監督に就任してから、大城の出番は減り、岸田が重用されるようになり、大城は正捕手の座を下ろされた。
 2025シーズン、甲斐の加入で大城は代打要員に格下げされた。岡本の負傷で一塁を任された時期もあったが、原因不明の打撃不振に陥り、出場機会を失った。阿部はそんな大城に四番を打たせた。たった一試合だけだったのだが。大城はその試合、ノーヒットで終わった。それを機に、彼は表舞台からほぼ姿を消した。阿部の大城の扱いは、まるでトライアウトのような起用の仕方だった。大城は一発試験に合格しなかったということか。たった一試合、四番をテストされ、合格しなかった――まことに苛酷な「テスト」というほかない。この四番起用は、大城を見切る口実に使われたように見える。大城にはトレードの道が残されている。彼の打撃に期待する球団は複数あるだろう。少なくとも、ソフトバンクにトレードされた秋広よりは、総合力において上である。 大城は潰された。
 2025シーズン開始前における巨人の捕手陣を振り返ると、甲斐を敢えて獲得する必要性はなかったのだが、球団は甲斐がセリーグの他球団の戦力になることをおそれた。甲斐が巨人にいる以上、巨人の脅威にはならない。他球団の主力を巨人に入団させてしまえば、巨人が自然に強くなるという、読売球団得意の金満強化戦略である。
 巨人の金満強化の渦中で余剰戦力化した選手は塩漬けのまま選手としてのピークを越え、自由契約、トレード、現役ドラフト、戦力外通告等を受け、職業野球界から身を引かざるをえなくなる。 NPBには実体としてのマイナーリーグがないから、下部リーグで野球を続けることができない。毎年100人入って、100人辞めるという悲劇が繰り返される。



 NPBの各球団は、143試合中、ほぼ90試合を消化した(2025/07/28現在)。折り返し地点はとおにすぎ、残り50試合ていどを残すのみ。現在首位の阪神(セ)、日ハム(パ)がこのままゴールするのか。それとも、阪神に異変が起こり、大逆転があるのか、日ハムが接戦を凌ぐのか。まだまだ予断は許さない。
 とにかくNPB全球団は〝選手ファースト″の球団運営に努めていただきたい。選手が躍動し、いい試合を見せれば、ファンはそれについてくる。おかしなファンサービスは、競技から離れてやってほしい。〔完〕 

2025年7月22日火曜日

トラットリアNOBI














 

『一九六八年と宗教 全共闘以後の「革命」のゆくえ』

 ●栗田英彦〔編〕 ●人文書院 ●5000円+税 

 筆者を含めた読者の大多数は、本題および副題から、以下の宗教団体についての論考を予想したのではないだろうか。
 まず1995年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教。この教団については説明を要しない。
 1990年代、霊感商法、合同結婚式で話題をさらった統一教会。同教団は一時、その動静が伝えられなかったのだが、2022年、同教団の二世信徒が安倍晋三元首相を手製銃により暗殺したことをきっかけに、信者から違法に多額の寄付を集め続けている事案が発覚した。以降、世間の注目を集め、2025年、文部科学省から解散命令が発出された。
 そして、1971年(全共闘運動がほぼ終息した時期)に啓示を受けたとする阿含宗(開祖/桐山靖男)、スピリチュアリズムと神智学を結合させたGLA(同/高橋信二)、GLAを継承し1986年に創設された幸福の科学(同/大川隆法)といった新宗教(団体)。そして、アメリカから本邦に移入し、1953年に宗教法人となったエホバの証人。同教団は新宗教ではないが、1985年、信徒の子どもの交通事故治療の際、輸血を拒否したことで話題をさらった。
 それだけではない。近年では、成長の家の分派をルーツとする日本会議、その関連団体である神道政治連盟といった、宗教右派と呼ばれる勢力の動向も注目される。これら団体は与党自民党右派に影響力を行使し、たとえば選択的夫婦別姓の法制化阻止、外国人差別排斥=日本(人)ファースト、LGBTQ差別、大日本帝国礼賛・回帰等を掲げ活動する勢力に成長した。これら団体は統一教会と価値観をほぼ共有する。
 既存宗教としては、自民党と連立を続ける公明党の支持母体である創価学会の変節も気になる。ポスト「一九六八年」における同学会=公明党の路線変更(反戦・平和主義、福祉国家路線)については、だれしもが抱く疑問だと思われる。
 本書においては、上に掲げた宗教(団体・運動)への論及がないわけではないが、中心的テーマとなって編集されてはいない。

本書の内容

 本書は9名の執筆者の論考の集成である。それぞれの視点・観点も多様である。その構成については、編者であり執筆者である栗田英彦氏(以下敬称略)が序章にて、次のように概説している。
 第Ⅰ部は見出しのとおり、〈一九六八年〉の捉え返しがテーマとなっていて、天皇制、死者を巡る闘争、ファシズムへの水路という論点が扱われ、第Ⅱ部および第Ⅲ部の各論に通底する総論的テーマが提出されている。
 第Ⅱ部では、〈一九六八年〉と新宗教・ニューエイジ運動(心霊性運動・スピリチュアリティ・精神世界)の関係の再検討である。
 第Ⅲ部は〈一九六八年〉とキリスト教の関係が検討され、この部の冒頭序章において、本書の試みが日本宗教史像を再構築することである旨が栗田により宣言される。 

〈一九六八年〉とはなにか

 本書の主意が〈一九六八年〉を媒介に日本宗教史像を再構築することである以上、編者がいかに〈一九六八年〉を規定しているかを確認する必要がある。栗田によると、〈一九六八年〉とは、同年パリ五月革命に象徴される世界的な大学闘争・街頭叛乱であり、それは世界同時的な政治・文化・思想の転換点だったとしている。そしてこの年の前後に起こった転換の総体を示す意味で象徴的に〈一九六八年〉と表記する〔註1〕とつけ加えている。 

〔註1〕 ・・・2010年代の京大人文研で行われていた、「68年5月」と現代思想の関係を問う共同研究「ヨーロッパ現代思想と政治(2011~2015)の成果が一つの回答を与えている。これによれば、フランス現代思想が表に現れたのは、一九六八年パリ五月革命に象徴される世界的な大学闘争・街頭叛乱への積極的応答からであった。そして、それはまた世界同時的な政治・文化。思想の大転換であったというわけである(以下、序論においてこの年の前後に起こった転換の総体を示す意味で象徴的に〈一九六八年〉と表記する)。(本書P16) 

 そして、〈一九六八年〉に起こった闘争・叛乱を次のごとく概観する。 

パリ五月革命に代表される60年代の闘争・反乱は、東欧、アジア、中南米やアフリカでも高揚し、その世界性もしくはグローバル性ゆえに「(1848年に続く二度目の)世界革命」や「グローバル・シックスティーズ」などと呼ばれてきた。アメリカでは公民権運動やヒッピームーブメント、ベトナム反戦運動が盛り上がり、ドイツやイタリアでも学生活動家を出発点とするバーダー・マインホ・グルッペ(ドイツ赤軍)や赤い旅団が活躍し、自立運動(アウトノミ/アウトノーメ)が活性化した。日本でも新左翼党派(セクト)の活動家が活躍した1960年の安保闘争に始まり、60年代中頃からベトナム反戦運動や授業料値上げ反対運動などが盛り上がり、そして1968年に無党派急進派(ノンセクト・ラジカル)の活躍する全共闘運動が全国の大学を揺るがしたことが知られている。このグローバルな出来事を引き起こしたのは、社会変動論的に概括するならば、脱工業社会化・メディア社会という第二次世界大戦後の先進各国共通の歴史-社会的経験であるとされる。一九六八年闘争は「豊かな社会の暴力革命」と呼ばれ、従来の貧困問題に応じた労働組合を基盤とした共産党など既成左翼に反旗を翻し、労働問題に限らないイッシューを立ち上げていたことで知られる。(本書P17~18) 

 栗田は〈一九六八年〉がポストモダニズムの近代理念批判と同期しているとし、近代主義の二つのバリエーションである社会主義と自由主義に対抗し、定型化した理念や法則化された歴史像、官僚化する党組織に対抗したことを特徴として挙げ、それゆえに、〈一九六八年闘争〉はポストモダニズム思想により基礎づけられ肯定され拡散されたとする。 

〈一九六八年〉に生起したのは階級やイデオロギーの闘争ではなく。「私」の叛乱であったと言われる。もちろん、この場合の「私」は、近代市民としての主体ではなく、ネグリ&ハートの言い方を借りるならば、無限に差異を反復する大衆社会の群衆(マルチチュード)である。(本書P18)

 そのうえで、〈一九六八年〉に発生した諸運動について、社会運動論では「新しい社会運動」と概括し、ウオーラースティンは「反システム運動」と呼び、リスク社会論の視点からは「(対抗的)サブ政治」、アナキスティックな実践的視点からは「予示的政治」などとも論じられている。また全共闘ノンセクト活動家の津村喬の言説と実践について、色濃くポストモダニズムと「新しい社会運動」の特徴が刻まれているという。 

日本における〈一九六八年〉

 日本における〈一九六八年〉は、1967年の新左翼である三派系全学連(革共同中核派、ブント、社青同解放派)による10.8羽田闘争を嚆矢とする。彼らの行動原理すなわち革命戦略は、ロシアマルクス主義(スターリン主義)からの解放――マルクス・レーニン・トロツキーの思想を原理主義的に再生――することだった。反帝国主義、反スターリニズム、暴力革命というスローガンが、日本の新左翼の革命論を象徴する。
 フランスのパリ五月革命でも、 革命指導者たちはマルクス・レーニン・毛沢東の思想を拠り所とした。赤い旅団の創設者であるレナト・クルシオは毛沢東、ヘルベルト・マルクーゼ、チェ・ゲバラ、ラニエーロ・パンツィエリ、アミルカル・カブラルなど、大学の授業では無視された文献の再読による理論訓練を受けた。彼は、マルクス・レーニン主義の影響を受けた毛沢東主義的な解釈を持つ雑誌『ラヴォロ・ポリティコ』の編集部に加わった。 

ポスト〈一九六八年〉 

 本書に集成された論文のなかで、本題・副題にストレートに対応して論を展開しているのは、鎌倉祥太郎氏(以下敬称略)の「一九六八年の身体――津村喬における気功・大極拳闘(第Ⅱ部第五章)」だと思われる。鎌倉は同稿冒頭に次のように書いている。 

「一九六八年」という象徴的な数字によって表される〝世界的な″反権力運動について考える際、「ポスト一九六八年」と呼べるような時期にまで射程を伸ばし、思考しなければならないのは、おそらくこのテーマに取り組む研究者の共通の認識ではないかと思われる。この点に関して、一九六八年の敗北による社会運動の退潮と位置付けたり、「新しい社会運動」の登場を準備する段階と位置付けたり、あるいは革命が潜在的に継続していると位置づけるなど、様々な立場からポスト一九六八年が語られている。
ポスト一九六八年において、マイノリティの諸権利獲得を求める個別具体的な闘争が広がっていくとともに、現実的にはベトナム反戦運動などに見られた共通の政治課題による大闘争が相対化されていく、という現象が起きている。つまり、社会を一元化したかたちで階級闘争へと社会運動をまとめることはもはや自明のことではなくなり、ジェンダー、人種、民族といった多様なアイデンティティが政治闘争の主戦場となっていったのである。
一方、スラヴォイ・ジジェクはこのポスト一九六八年をやや異なる視点から捉えている。ジジエクが指摘するのは、一九六八年以後に現出した純粋な自閉的享楽への欲動には3つの形態がある、ということだ。一つ目は性的享楽の探求、二つ目は左翼の政治的テロリズム、三つ目は東洋的神秘主義に代表される内的経験の追求である。(本書P197~198)

ポストモダン資本主義の成立

 ジジェクは、鎌倉が要約引用した言説とほぼ同じ内容のことを、ポストモダン資本主義の、つまり、〈一九六八年〉闘争に勝利した資本主義の立場からいささか皮肉めいた論調で次のように書いている。 

(ポストモダン資本主義への)イデオロギーの移行は、1960年代の反乱(68年パリの5月革命からドイツの学生運動、アメリカのヒッピーに至るまで)の反動として起きた。60年代の抗議運動は、資本主義に対して、お決まりの社会・経済的搾取批判に新たな文明的な批判をつけ加えていた。日常生活における疎外、消費の商業化、「仮面をかぶって生きる」ことを強いられ、性的その他の抑圧にさらされた大衆社会のいかがわしさ、などだ。
資本主義の新たな精神は、こうした1968年の平等主義かつ反ヒエラルキー的な文言を昂然と復活させ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織というものに対して、勝利をおさめるリバタリアンの反乱として出現した。
この新たな自由至上主義精神の典型例は、マイクロソフト社のビル・ゲイツやベン&ジュリー・アイスクリームの創業者たちといった、くだけた服装の「クール」な資本家に見ることができる。(中略)1960年代の性の解放を生き延びたものは、寛容な快楽主義だった。それは超自我の庇護のもとに成り立つ支配的なイデオロギーにたやすく組み込まれていった。(中略)・・・今日の「非抑圧的」な快楽主義の・・・超自我性は、許された享楽がいかんせん義務的な享楽に転ずることにある。こうした純粋に自閉的な享楽(ドラッグその他の恍惚感をもたらす手立てによる)への欲求は、まさしく政治的な瞬間に生じた。すなわち、1968年の解放を目指した一連の動きの潜在力が、枯渇したときだ。
この1970年代半ばの時期に、残された唯一の道は、直接的で粗暴な「行為への移行」――〈現実界〉へおしやられることだった。〔中略〕
(そして、)おもに3つの形態がとられた。(1)過激な形での性的な享楽の探求、(2)左派の政治的テロリズム(ドイツ赤軍派、イタリアの赤い旅団など)。大衆が資本主義のイデオロギーの泥沼にどっぷりつかった時代には、もはや権威あるイデオロギー批判も有効ではなく、生の〈現実界〉の直接的暴力、つまり、「直接行動」に訴えるよりほかに大衆を目覚めさせる手段はないと考え、そこに賭けた。(3)精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)。
これら三つに共通していたのは、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避だった。(『ポストモダンの共産主義』/ちくま新書/P99~103)

 ここで注目されるのは、〈一九六八年〉が齎したものは、リバタリアンの出現であり、リバタリアンの価値意識が貫徹するポストモダン資本主義の出現・台頭・支配だった、という点だ。そのことの象徴が日本における全共闘運動だった、と筆者は考えている。〔後述〕
 革命の挫折と反革命の嵐――われわれはいま、トランプ2.0に代表される反革命の時代に生きている。 

左派の政治的テロリズム


 ジジエクが掲げた3つの形態のうち、鎌倉は(3)について論じているが、(2)については、実際どのようなものだったのだろうか。「左派の政治的テロリズム」について詳述してみよう。(以下は主にWikipediaからの引用)

①ドイツ赤軍派――のちのドイツ赤軍(RAF)

 1972年5月 西ドイツ各地で資金獲得のための銀行強盗、警官射殺、駐留アメリカ軍、政府要人を狙った連続15件の爆破行動を起こした。
 同年6月1日、フランクフルト市内で幹部4人と警官隊の間で銃撃戦が行われ、主犯格のアンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフたちは逮捕され、シュトゥットガルトのシュタムハイム刑務所に収監される。彼らの逮捕後は、弁護士で赤軍シンパのクラウス・クロワッサンとジークフリート・ハーク(Siegfried Haag)が組織の後継者となる「第二世代」のメンバーの勧誘と訓練などを行いながら、獄中の「第一世代」と面会しその声明をマスコミや支援者らに伝えていた。
 マインホフが1976年に刑務所内で自殺する。
 1976年以降、マインホフ亡き後の「第二世代」は無政府主義のテロリストグループ「6月2日運動」のメンバーであり、政治家ペーター・ロレンツ(Peter Lorenz)の誘拐事件、ストックホルムの西ドイツ大使館占拠事件などを立て続けに起こし、ギュンター・フォン・ドレンクマン西ベルリン高等裁判所長官らを暗殺した。
 1977年、ドイツ赤軍は刑務所に収監されている中核メンバーを解放するために、西ドイツ政財界の重要人物を立て続けに誘拐して政府を揺さぶるという「77年攻勢」を開始。ジークフリート・ブーバック西ドイツ連邦検事総長、ユルゲン・ポントドレスデン銀行会長など、政財界や司法界の重要人物を相次いで暗殺し、西ドイツを震撼させた。
 1977年9月5日には西ドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤーを誘拐したが、西ドイツ政府は第一世代の釈放に応じなかった。ドイツ赤軍は政府にさらに圧力を加西ドイツ政府の危機は絶頂に達した。
 RAF第二世代の新指導者はパレスチナ解放人民戦線(PFLP)とともにルフトハンザ機をハイジャックした。10月18日、ハイジャック機には特殊部隊が突入し、RAF幹部は獄中で相次ぎ自殺し、シュライヤーは遺体で発見されるという衝撃的な結末を迎えた。これらの事件はマスコミで連日連夜大きく報じられ、戦後最大のテロ事件と政治的危機は西ドイツ社会を震撼させた。この一連の凶悪テロ事件は「ドイツの秋」といわれる。 

②日本のブント赤軍派 

 日本でもドイツに近い状況を呈した。1970年、日本のブント赤軍派が「日航機よど号」をハイジャックし、北朝鮮に亡命した。日本に残った赤軍派の一団と京浜安保共闘が合体して連合赤軍を結成、1972年にあさま山荘事件等(銃撃戦、同志リンチ殺人)を起こした。
 事件後逮捕された連合赤軍指導者・森恒夫は、1973年元日、東京拘置所の独房で自殺した。
 連合赤軍に参加しなかったメンバーは日本赤軍を名乗り、レバノンのベッカー高原を主な根拠地に軍事訓練を含む活動を行ったのち、1972年、テルアビブ空港乱射事件、1974年、シンガポールのブクム島にあるロイヤル・ダッチ・シェルの石油精製施設にボートで上陸し、石油タンクなどの施設をプラスチック爆弾で爆破した。1977年には、ダッカ日航機をハイジャックした。また、新左翼諸派とは別系統のアナキストグループ・反日武装戦線による無差別爆弾テロ事件(1974年/三菱重工ビル爆破)が起きている。 

③赤い旅団(イタリア)

 1969年に創設され、当初の主な活動はミラノやトリノでの極右勢力に反対する労働組合の支援であった。構成員は労働者と学生で、工場の設備を破壊し、工場の事務所や組合の本部に入り込んだ。若年層の高い失業率や挙国一致体制への不満などを背景に勢力拡大を狙うが、労働者からの支持が得られず次第に過激な武力闘争に傾斜していき、1972年に最初の誘拐事件を起こしてきた。
 1978年には、アルド・モーロ元首相誘拐暗殺事件を起こすとともに、1970年代後半に入ると、マフィアとの関係を深めて行き、「金のために動く腐敗した殺し屋集団」と揶揄されるようになっていった。

〈一九六八年〉の終わり

 ジジエクは1977年前後から開始されたドイツ赤軍(派)、赤い旅団の直接行動を指して、これらが〈一九六八年〉以降に現れた事象だと断言した。むろん、日本の新左翼各派等におけるテロリズムを〝それ以降″に含めて異論はないだろう。
 これらのことから、〈一九六八年〉がいつごろ終焉したかが結論づけられる。各国により事情がやや異なるものの、おそらく、1970年はじめごろから半ばまでには終わったとみていい。ドイツでは「第二世代」が直接行動を牽引する中で、イタリアでは労働運動との連帯・支持が得られなくなる中で、日本では筆者の感覚的推論だが、1969年11月の羽田闘争の敗北からその退潮が始まり、72年の浅間山荘銃撃戦直後にリンチ殺人事件が発覚した時、――それが終わったように思える。組織的には、1972年以降、団塊の世代が大学を卒業するに至り、〈一九六八年〉は終わった。
 (ジジエクの表現に従えば)、1968年の解放を目指した一連の動きの潜在力が枯渇したとき、〈一九六八年〉の闘争と異なるテロリズム、武装闘争、直接行動という転換が始まった。これらを〈一九六八年〉の埒外におくべきだろう。
 ジジエクは、1968年に抗議行動を起こした新左派は、まさに勝利の瞬間に敗北したと言う。目前の敵は倒したものの、いっそう直接的な資本主義支配の新しい形態が出現したのだと。新しい資本主義すなわち「ポストモダン」資本主義においては市場が新たな範囲に、教育から刑務所、法と秩序などの国家の特権とされた領域にまで侵食した。社会関係を直接に生産すると称揚される「非物質的労働」(教育、セラピーなど)が、商品経済の内部で意味を持つことを忘れてはならない。これまで対象外とされていた新しい領域が商品化されつつある。日本の場合も同様に、新左翼の思想的傾向の多くが、新たなシステムや消費トレンドに包摂されていった。 〔後述〕

全共闘を代表する津村喬の軌跡

 前出のとおり、〈一九六八年〉の革命指導者の理論は、ロシア・マルクス主義にたいする失望であり、マルクス、レーニン、毛沢東の思想を再生し原理論的に純粋抽出する試みだった。つまり復帰運動だった。その一方で、〈一九六八年〉の新しさは、左派の指導者を超えた、新しい革命運動のスタイルを生みだしたところにあると言われる。日本の場合、ノンセクトラディカルの出現である。
 全共闘=ノンセクトラディカルは〈一九六八年〉の象徴として、しばしば、新しい運動のかたちとして好意的に受け入れられているが、筆者はそれを一度、括弧に入れるべきだと考えている。そのことを前提として、鎌倉の津村喬論は読まれなければならない。

全共闘から東洋的神秘主義・ニューエイジ思想へ

  鎌倉の津村喬論は、前出のジジエクの一九六八年以後に現出した純粋な自閉的享楽への欲動の3つの形態の三つ目、すなわち東洋的神秘主義に代表される内的経験の追及の事例として論じられている。
 その津村喬は「日常性批判」を切り口として全共闘活動家(早大反戦連合を結成)になり、〈一九六八年〉にコミットした。そしてそののち、新左翼・全共闘運動の闘争に違和感を抱き、差別問題に突破口をみいだし、最終的(1970年代半ば頃)にはそれらをすてて気功・太極拳・自然食にむかい、ニューエイジ思想へと接近していった。日本の新左翼のノンセクトを代表する評論家の一人が辿った道筋は、ポスト〈一九六八年〉の典型例のひとつだと言える。
 鎌倉は、津村喬を通じて、〈一九六八年〉の一つの帰結と見なされる「東洋神秘主義」への移行の過程を具体的に明らかにしたうえで、次のように津村を評している。 

初期の津村のテクストの思想の核となっていた「日常性批判」は気功や太極拳といった活動が主軸となって以降も保持されており、個々人を取り巻き管理していこうとする資本や権力の作用から自己自身を解放しようとする方向性は通底していたといえる。しかし、その過程において、「反近代」への志向性が強まることと並行し、津村の議論から他者への視点が欠落していき、そこで述べられる「身体」が疎外論的のあるべき主体と措定され、自己の身体とのみ向き合うこととなっていった。その中から、宇宙や抽象的な意味での自然といった超越的な存在に対する位置づけがなされて行き、ニューエイジ思想の一端を担うこととなっていった。
こうした津村の活動の移り変わりは「転向」として把握されてきたし、実際のところ「東洋神秘主義」への移行のみならず、新左翼と呼ばれた人びとの変節に対しては、ネガティヴな意味合いを強く込めたかたちで「転向」と呼ばれてきたりもした。しかし、これまで単純に「転向」とみなされてきた把握の仕方では、戦後史における「一九六八年」のありようは掴めないだろう。
おそらく「転向」という断絶の形式によって見えなくなってしまうのは、「一九六八年」と「ポスト―九六八年」、そして現在を繋ぐラインである。これまで議論してきた津村の例でみるなら、彼が論じたライフスタイルの革命・自己の身体の再発見・食の自己管理といったもろもろのテーゼは、消費社会や新自由主義的なものに回収され、実現されてしまったということだ。自己の生活や身体へのケアは「ロハス的生活」と呼ばれ、むしろ最も近代化された生活様式となっている。このことは、エコロジー運動がSDGsというかたちで、むしろ資本の論理と一体化していることと相似形をなしているといえる。
一九六八年の津村の目標は、実現不可能だったのではなく、むしろその裏面から実現されてしまったのだということ、それをどう捉えて、どう議論していくか。個人の自己実現が社会や国家、あるいは資本の維持へと置き換えられたとしたら、それを、社会そのものを問い直していく地平にどうすれば持って行き直すことができるのか。そこではやはり、「朝鮮問題も部落問題もじつはその意味では、まさに「わたしの身体」の問題にほかならない」という視点こそが必要なのではないか。もう一度、他者論を導入し、その困難さと可能性を再考することが、現代社会に積み残された一九六八年的課題の一つなのではないかと思われる。(本書P220~221)

全共闘のいかがわしさ

 津村が代表する全共闘運動は〈一九六八年〉が齎した新しい運動組織として肯定的に評価されてきた。はたしてそうなのだろうか。ポスト〈一九六八年〉において、津村がニューエイジ思想に行き着いてしまった要因が全共闘運動それ自体に内在していたのではないか。
 新左翼革命家の笠井潔は、全共闘運動とその活動家について回想しつつ、次のような全共闘を嫌悪する一文を残している。 

私(笠井潔)たちは全共闘運動のなかでなにゆえ「孤独」だったのだろう。〔中略〕たしかに全共闘運動の参加者たちの多くが「高揚する叛乱の内部での熱い融合状態」、「私」と「われわれ」の特権的合一、あるいは神津陽によれば「行為の共同性と関係の革命」などなどの実現を夢想した。夢想だけではなく、それはもう〝萌芽的″に実現されていると思い込む者さえもいた。しかし、こうした祝祭ぶりのなかでひそかな後めたさがあることを一瞬忘れながらも、祭りが高揚するほどにある種のしらけた意識がその裏で成長したことを、私は想起することができる。それは異様な感覚だった。
私が自己と世界との敵対関係を自覚するにいたったのは、完全に無機的な「孤独な群衆」の位相においてではない。疎外態はむしろ、無機的なマスの内に形成される大小の無数の社会的共同体の「内では共有、外には占有」という構造にあった。伝統的共同体ではない、大衆社会状況のうちに自然発生する小共同体からさえも分泌される疎外と受苦の経験。この体験から、純粋な主観性こそ自らの道であるという決意が生じる。なれあいの共同体を敵とし、ひたすら内なるモラルは、ここにあるのではないか。全共闘運動はそのあとである。
科学的でもなく説得的でもない観念(綱領と戦略)に純化し、ぬるぬると共同体への密通を欲求する自己の肉体を限界まで酷使した時、轟轟たる「民主的世論」の非難と「暴力学生」呼ばわりを受けた時にこそ、他者とのいかなるなれあいをも拒否しえたというささやかな感動は訪れた。1967年の闘いを生きた多くの叛乱者が68年と69年の学生叛乱に際して、硬直した政治主義者の貌をまとったのは相応の理由がある。一切の共同性への禁欲と他者との闘争をモラルとした者たちにとって、流行の「祝祭としての叛乱」や「コミューン的共同体」はなんといかがわしく感じられたのだ。私たちは全共闘運動の内にあって「醒めた者」であることを強いられ、それによって、祝祭のうちなる孤独をこうむったのである。(『自伝的革命論〈68年〉とマルクス主義の臨界』言視舎/P227~228)》 

 笠井潔の全共闘運動(ノンセクトラディカル)に対する嫌悪は、ジジエクの、〈一九六八年〉に対するそれと共通する。日本の全共闘運動は(ジジエクの表現を借用すれば)、平等主義かつ反ヒエラルキー的な文言に溢れ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織を批判し、それらを乗り越えたリバタリアンの反乱ともいえる性格を有していた。そして、その基底的性格がポストモダン資本主義の新しい主役たちの反乱として準備され、かれらの成功により創生されたと換言できるだろう。この新たな自由至上主義精神の典型例は、マイクロソフト社のビル・ゲイツやベン&ジュリー・アイスクリームの創業者たちといった、くだけた服装の「クール」な資本家にほかならない。〈一九六八年〉は期せずして、こうした危険をはらんだ革命運動だった。2020年代に入ると、新世代がこれまた超リバタリアンであるテクノ・リバタリアンへと成長していった。もちろん〈一九六八年〉当時、半世紀余り後の「いま」を予期できるはずもなかったが。 

印象に残った論考

 本書に集成された論考には、〈一九六八年〉を準備した思想的潮流が詳論されていて、とても興味深く読めた。その中のうちの2論文を以下に紹介する。

トロツキズム

 日本の〈一九六八年〉革命において、トロツキーの存在を欠かすことはできない。六〇年安保闘争から〈一九六八年〉にいたるまで、旧左翼の日本共産党は新左翼を「トロツキスト」と呼び暴力的に敵対した。しかし、全共闘を含めた新左翼活動家においては、「トロツキーもしくはトロツキズム」とは反スターリ主義と同義語であり、スターリンに暗殺された「英雄」であり、それは一国革命論に対する永続革命論(世界革命論)を象徴した。
 さて、本書第Ⅱ部第六章「革命的抵抗の技術と霊術――戸坂潤・田中吉六・太田竜(栗田英彦/著)」は、トロツキズムに関する秀逸な論考で、1950年代から惹起した国際的トロツキズム運動の変遷に係る解説として読める。
 トロツキズムは一枚岩ではなく、ミシェル・パブロの思想(パブロ主義)とジェイムズ・P・キャノン(キャノン派)の対立から第四インターの分裂があり、それが本邦に及び、太田竜は、パブロ主義に基づき社会党への加入戦術を採用した流れから、日本トロツキスト聯盟(結成直後に革命的共産主義同盟に改称)の同志だった黒田寛一と対立した。太田は「トロツキスト同志会」を結成する。太田が去った革共同は、さらに黒田の革共同全国委員会と革共同関西派(=第四インター日本支部)に分裂する。筆者は革共同の党史に国際的トロツキズムの動向が影を落としていたことを初めて知った次第。
 それだけではない。太田がパブロ主義の信奉者ファン・ポサダスの〝第三次世界大戦切迫論から核戦争不可避論、そして植民地革命に献身し、労働者国家が帝国主義に先制核攻撃をして世界革命戦争を開始すべきだ――そして核戦争の廃墟から立ち上がるものこそプロレタリアートであるという主張″に共鳴しつつ、ポサダスの第三世界革命論、核戦争と植民地闘争論を評価したという。
 けっきょくのところ、第四インター内部の分裂は、1963年、第四インター統一書記局の結成を背景とし、太田がトロ同に再合流、革共同関西派とも統一し、第四インター日本支部となり、太田は中央執行委員長に就任する。トロツキズムを巡る国際的動向と本邦におけるその反映を経たことが、その後の太田の革命論の変遷の土台になったことがうかがえる。
 なお、同章における「技術論と一九六八年」において、武谷三段階論(技術論)、田中吉六の主体的唯物論が論じられるならば、梅本克己の主体性論を含め、革共同革マル派の教祖・黒田寛一を論じてほしかったと筆者は思う。
 黒田は太田とともに、日本トロツキスト聯盟の創設者でもあるが、前出のとおり、分裂後も革共同に残った。そして、1960年代中葉、同党は革マル派と中核派に分裂し、黒田は前者の教祖的存在となる。ポスト〈一九六八年〉における同派と中核派の内ゲバは、日本の左翼革命史に黒歴史を刻印するものであり、同派すなわち黒田寛一の独善性と暴力性は、「一九六八年と宗教」のテーマにもっともふさわしいものの一つではないかと思うからだ。

折口信夫の「大嘗祭 の本義」

 筆者がもっとも興味をお覚えたのが、「第Ⅰ部第三章 橋川文三の「超国家主義」研究と折口信夫/斉藤英喜〔著〕」である。なかで、「昭和3年の大嘗祭と「天皇霊」」の項を読んでいるとき、すぐれたミステリー小説の犯人捜しを読んでいるかのようなドキドキ感を覚えた。
 折口の大嘗祭の本義」の概要は、以下のとおりである。斉藤英喜氏(以下敬称略)による引用と簡単な解説が付されている。 

大嘗祭の時の、悠紀・主基両殿の中には、ちゃんと御寝所が設けられてあって、蓐・衾がある。蓐を置いて、掛け布団や枕も備へられてある。此れは日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、此寝所に引き籠って、深い物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂(ミタマフリ)の行事である。此に設けられて居る衾は、魂が身体へ這入るまで、引籠って居る為のものである。(「大嘗祭の本義」新全集三187頁)
 大嘗祭のときに設けられた悠の紀・主基両殿の「蓐・衾」。これを折口は『日本書紀』神話にもとづく「真床・襲衾」と呼ぶ。そして即位する天皇は、この衾に包まることで、「天皇霊」をその身体に受霊するとかんがえたのである。その儀礼を通して、天皇の「神性」は拡張し、その「復活の喜び」を獲得したというわけである。本書P139

 参考までに、大澤真幸氏による解説文も付しておこう。

折口によれば、大嘗祭の中心的な意義は、新天皇の身体に天皇霊を付けることにある。天皇霊は、外来魂――天つ国からの外来神(まれびと)のエッセンス――である。天皇の身体は「魂の容(い)れ物」だ。すると、天皇の権威の源泉は、万世一系の天皇家の祖霊にではなく、天皇が即位したときに(古代においては毎年繰り返し)己の身体に入れた天皇霊にある、ということになる。
その天皇霊を付着させるために、新天皇はまず「真床襲衾(まどこおふすま)」等と呼ばれる特別な衣で身を包む。衣を取ることが禊(みそぎ)の完了を意味した。真床襲衾を除(の)けることで天皇に外来魂が付くのだ。
次いで天皇は高御座(たかみくら)から言葉を発する。それが祝詞(のりと)である。祝詞は、神の言葉の反復である。普通は天皇の言葉の伝達者を「みこともち」と呼ぶが、天皇が既に神の言葉(ミコト)の伝達者だったのだ。この言葉が届く範囲が天皇の領土、天皇の人民である。
それに応えて群臣は寿詞(よごと)を唱える。寿詞は、自身の魂を天皇に贈与することを意味し、服従の誓いである。諸国が米を献上することも寿詞と同じ意義をもっていた。稲穂には魂が付いているからである。
以上が大筋だが、興味深い細部がある。天皇の禊に奉仕する女性がいた。この女性は、衣のまま湯(=斎〈ゆ〉)につかった天皇の衣の紐(ひも)を解く役目を担う。折口は、この「水の女」を重視し、戦後の「女帝考」では、神の声を受け取るのは一人の男ではなく、女と男の対である、と論ずるようになる。天皇は男系だと言われるが、折口はむしろ、天皇の秘められた根源に女性的なものを見たのだ。(古典百名山:56/ 折口信夫『大嘗祭の本義』大澤真幸が読む』(朝日新聞2019年5月18日掲載) 

 折口説に反論したのが岡田荘司である。岡田の反論は次のとおり。 

折口が「真床襲衾」と呼んだ中央の神座は来臨した神が休む「見立ての寝座」(象徴的な神座)で、天皇は、一切そこに触れることはできない。即位した天皇の役割は、悠紀殿・主基殿に迎えた皇祖神アマテラスに神饌を奉り、もてなすこと、つまり「神饌供進」の作法が最も重要であった。天皇は神を祭る神主の代表=「日本国の祭り主」であった、という結論になろう。(本書P140) 

 重要なのは、折口説、岡田説、どちらが正しいかを論ずることではなく、折口が天皇霊論を発表する根拠を確認することにある。本稿を読むかぎり、折口の直感でもなければ実証するに足る文献からでもない。結論を言えば、異端神道および「鎮魂」の作法だということになる。そしてその発信者はというと、宮内省掌典の星野輝興という宮内省官僚だという。以下、斉藤の言説を要約する。
 星野は「昭和御大礼の大役を一身に引き受け滞りなく遂行した」大礼使事務官である。しかも星野は折口から「親友」と呼ばれ、平田派の宮地厳夫の弟子であった。宮地は冥界・仙界を重視した平田派「異界神道」の系譜につながる。しかも、宮地は複数の神社神職を兼務し、教部省教導職を経て、皇大神宮主典、神宮教院講師、宮内省掌典を担っている。つまり役人である。筆者は、これらの斉藤の記述については、もちろん初耳・初見である。
 前出の星野は宮地について、「平田家二十五部秘書の一つである、密法修事部類稿の末にある久延彦の伝」のような、「他の御著述からは想像もつかない大がかりの霊の御実修を唯一継承したひとりであることを確信していた」という。つまり平田篤胤の霊学、霊術を継承したというわけだ。また星野は埼玉県教育会の講演で自らの神秘体験を語ったという。
 折口が「大嘗祭の本義」で展開した鎮魂とは、宮地から星野を経て折口に伝わったばかりか、「自修鎮魂法」として、明治初期の本田親徳の「鎮魂帰神法」、大本の出口和仁三郎の行法にも連なる、道教系の調息法、修養法である。
 斉藤は、《注目すべきは、そうした「異端神道」の系譜が、宮地や星野のような宮内省掌典 の国家官僚のなかに受け継がれたことだ。そればかりではない。在野系の神道家である川面凡児が提唱した「ミタマフリ」(鎮魂)の行法は、〔中略〕「天皇」「宇宙」の同化として語られ実修されたのである。川面の鎮魂法は昭和期の神道界の大物とされる今泉定助に影響を与えていたように、体制のなかに食い込んでいた。なんと、昭和14年(1939)に内閣総理大臣を務めた平沼麒一郎も川面からの教えを得ていた。》と書いている。(以上、本書P142~144より)
 これらのことから、1930年代の日本帝国の要人のあいだに、異端神道信仰が侵食していたことが推測される。 

この20年間続いてきた階級闘争の勝者

 本書に集成された各論文からは、全共闘以後の「革命」のゆくえに明るい光が見えたとは言えない。〈一九六八年〉の熱狂と、現在の混沌としたネット空間(における言論状況)との非連続性が強く印象づけられる。その主因を探るヒントとして、『ショック・ドクトリン』の著者であるナオミ・クラインが著わした『NOでは足りない』という書の中の一節を紹介する。ナオミは、トランプが最初に大統領に就任した直後(2017年)、痛烈なトランプ批判を展開した。

新自由主義の中核にあるもの、それは強欲の正当化である。アメリカの億万長者ウォーレン・バフェットは数年前、CNNの取材に応えていみじくもこう語り、ニュース沙汰になった――「この20年間続いてきた階級闘争で勝ったのは、私の階級だ……富裕層が勝ったのだ」。(『NOでは足りない』(岩波書店P98) 

 階級闘争は、プロレタリアート(あるいはやマルチチュード等)という被抑圧人民から抑圧者に向けて仕掛けられるだけではない。〈一九六八年〉以降、バフェットの階級(富裕層)が全力で階級闘争を続けてきた。そして、彼らの階級が勝利した。それが前出のポスト〈一九六八年〉の資本主義すなわちポストモダニズム資本主義である。
 ジジェクは、現代の先進国に出現した「三つの主な階級」について、次のように説明している。
 生産過程の三要素――①知的計画とマーケティング、②物的生産、③物的資源の供給――は独自性を強め、各領域に分かれつつあると。そして、この分離が社会に影響した結果、現代の先進国に、(一)知的労働者、(二)昔ながらの手工業者、(三)社会からの追放者(失業者、スラムなど公共空間の空隙の住人)を形成したという。そして、(一)は普遍者に相当し、開放的な享楽主義とリベラルな多文化主義を、(二)は特殊性に相当し、ポピュリズム的原理主義を、そして、(三)は追放者として、より過激で特異なイデオロギー、をそれぞれ、もつに至ると。 
 そして、三分割プロセスの結果として、社会生活が、三分派の集結する公共空間が、ゆるやかに完全に解体されていく。この喪失を補完するのが各派の「アイデンティティ」政治である。集団の利益を代弁する政治は、各派ごとに特殊な形態をとる。それは、(一)知的労働者の多文化アイデンティティ政治、(二)労働者階級の退行性のポピュリズム的原理主義、(三)追放者の違法すれすれのグループ(犯罪組織、宗教セクトなど)、である。これらの共通するのは、失われた普遍的な公共空間の代わりに、特殊なアイデンティティをよりどころとしていることだと。
 〈一九六八年〉から半世紀余りを経たいま、われわれはまちがいなく、その中のどこかにいるはずだ。〔完〕 

2025年7月19日土曜日

漂流、根津

酒壺しずく

じょーじんとこ

 

夕焼け(谷中)


 

2025年7月5日土曜日

Karaoke Night



『日本軍兵士』『続・日本軍兵士』

●吉田 裕〔著〕 ●中公新書 ●820円(+税)・900円(+税)

 『日本軍兵士』(以下「前書」)および『続・日本軍兵士』(以下「後書」)は、日本帝国軍すなわち天皇の軍隊である皇軍の実態を明らかにした労作である。前書においては、アジア・太平洋戦争における戦場の現実が「兵士の目線」「兵士の立ち位置」から具体的に描かれ、戦場の実相が明示される。後書では、明治維新から開始された日本帝国の対外侵略の拡大を目的に創設・運用された帝国陸軍・海軍の構造的欠陥が明らかにされる。

(一)日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実 

 著者・吉田裕氏(以下敬称略)は、日中戦争(1937~1945)を〈長期戦への対応の不備〉としてアジア・太平洋戦争から別途切り離している。その根拠は、戦争の長さ、軍隊・兵士のあり方、その結果としての戦争体験の相違からだと思われるが、二つの戦争を問わず、皇軍が兵士(人命)を粗末に扱い、彼らを虐待して戦わせていたことに変わりない。また、本書には日中戦争とアジア・太平洋戦争の事例が混在して記述されてもいる。それゆえ、この切り離しに厳密にとらわれる必要はない、と筆者は思料する。
 吉田はアジア・太平洋戦争を以下の4期に分割する。

開戦
第一・第二期 戦略的攻勢と対峙の時期
第三期 戦略的守勢期
第四期 絶望的抗戦期 2,000万人を超えた犠牲者たち  1944年以降の犠牲者が9割か

 この区分は、戦域および戦況の進捗状況がもとになっている。当然のことながら、戦況が不利になるに従い、兵士は過酷な体験を強いられる。しかし、日本帝国の場合、どう考えても、日本帝国の戦争遂行者すなわち軍幹部が常軌を逸していた、としか考えられないのである。このことは後述する。
 なお第四期にある犠牲者2,000万人とは、第四期における戦没者数ではなく、先の大戦の総数である。
 内訳は、日本帝国軍=アジア・太平洋戦争、日中戦争あせて軍人・軍属約230万人、外地一般邦人約30万人、空襲などによる日本国内の戦災死没者が約50万人、合計約310万人。
 米軍戦死者数 9万2,000~10万人。
 ソ連軍戦死者数 張鼓峰事件、ノモンハン事件、対日参戦以降の戦死者数合計で22,694人、英軍29,968人、オランダ軍、民間人を含め27,600人。
 以下推定であるが、中国軍と中国民衆の死者1,000万人以上、朝鮮の死者約20万人、フィリピン約111万人、台湾約3万人、マレーシア・シンガポール約10万人、その他、ベトナム、インドネシアなどあわせて総計で1,900万人以上になる。(本書P24)

全戦死者に占める戦病死者割合が6割超

 本書において筆者が衝撃を受けた事実を以下列挙する。
 第一に、日本帝国の戦争における全戦死者のうちに戦病死者数が占める割合の驚くべき高さである。本書によると、日中戦争においては、1941年時点で戦死者数12,498人、戦病死者数が12,713人で、全戦没者に後者が占める割合は50.4%に達しているという。日中戦争は1945年まで続いたから、戦争末期にその数と割合が減じるとは考えにくい。アジア・太平洋戦争においては統計数字が存在しないため、推計によるものだが、全戦死者のうち65~60%が戦病死者で占められるという。
 前出の区分における第四期には、海外に派遣された皇軍の補給路が絶たれ、戦地は深刻な食糧不足となったため、病疫死の多くは餓死による。餓死以外の戦病死には、マラリア、赤痢、結核等の疫病による。
 そればかりではない。記録上戦病死とされた中に、上官による暴力制裁によるもの、軍規違反とされた者に対する私刑、自殺などが含まれているともいう。また、栄養失調から衰弱し動けなくなった兵士や歩行困難になった傷病兵は放置されるか、仲間により措置(殺害)され、彼らも戦病死者に含まれているようだ。
 飢餓に苦しむ兵士の間で、食料を奪い合う略奪が横行した。そしてその次の段階に訪れたのが人肉食である。略奪、人肉食の前提は味方同士の殺し合いであったことはいうまでもない。
 皇軍兵士は勇敢で、「天皇陛下 万歳」と叫びながら敵軍に突撃して戦死したといわれるが、実相は空腹、疫病のすえ死亡するか、衰弱したまま自軍に放置されるか「措置」されて絶命するか、味方同士で殺し合い、殺した兵士の肉を食らったのである。

戦場におけるヒロポン(覚醒剤)の使用

 第二はヒロポン(覚醒剤)の使用である。戦況悪化にともない、絶望的状況に陥った兵士を鼓舞するため、皇軍は組織的に兵士の食材にヒロポンを混入したほか、体調不良を訴える兵士に治療と称して、ヒロポンを混入した薬剤を投与するか注射をして覚醒状態にして戦場に送り込んだ。また、陸軍・海軍を問わず〔註3〕、夜間飛行や空中戦、対空砲火といった極度の緊張状態にさらされる航空兵の多くは航空神経症に襲われるようになる。士官はそれを克服するため、航空兵をヒロポン漬けにして、飛行軍務を継続させた。

肉攻・特攻という「作戦」

 第三は、自爆作戦が当然のように採用され、称賛されたことである。戦況悪化にともない、▽肉攻(歩兵が爆弾を抱えて敵戦車に飛び込む攻撃)、▽特攻(航空兵が爆弾を搭載した戦闘機で敵艦に突入する攻撃、水兵が爆弾を搭載した特攻艇(マルレ)に乗り込み、人間魚雷となり敵艦に突撃する攻撃)が「作戦」として当たり前のように公認され、実行者(自爆者)が称賛された。自爆者がヒロポンの常用者だった可能性は高い、と筆者は推察する。
 このような「作戦」を当然のことだと共有できる皇軍という組織が恐ろしい。自爆を称揚する精神状態を共有する共同体をカルト集団という。そしてその頂点に祀られていたのが天皇である。

見殺しにされた兵士、そして本土の生活者

 第四は、第四期すなわち絶望的抗戦期(サイパン島陥落以降)に多くの犠牲者を出したこと、すなわち、1944年以降の犠牲者が推定9割を占めるという事実である。皇軍の劣勢は明らかであり、反抗の兆しも見いだせない。西太平洋上の島嶼部に守備隊として配置された日本兵は、米軍の猛攻にあい戦死するか、補給路を遮断されたため、食料の補給がなく、飢え、マラリア、赤痢などに悩まされ餓死・病死・自死等で絶命した。マレー、インドシナ地域のジャングルに追い込まれた兵士も同様の末路を迎えた。
 兵士ばかりではない。日本帝国軍はすでに制空権・制海権を失っていたため、本土の都市部は米軍の大型爆撃機から投下された焼夷弾攻撃で焦土と化し、多数の焼死者を出した。本土決戦の時間稼ぎとされた沖縄戦は米軍の猛攻により住民を巻き添えにした地獄の戦場と化したばかりか、皇軍兵士による沖縄住民の虐殺が記録されている。広島・長崎に原子爆弾が投下され、多くの民間人が殺戮された。日本帝国がポツダム宣言を受諾し無条件降伏を決めたのは、共産主義国家・ソ連の参戦を知ったからだといわれている。


(二)続・日本軍兵士 ー帝国陸海軍の現実

 本書では、日本帝国軍隊の構造的欠陥が明らかにされる。明治維新政府が新しい国づくりの二大目標として掲げたのが殖産興業と富国強兵である。その維新政府は、新政権誕生(1868)からわずか26年後に日清戦争(1894)を、36年後に日露戦争(1904)を行っている。対戦国は、前者がアジアの大帝国である清朝、そして後者はユーラシアの大国ロシア帝国であるが、いずれにも勝利する。20世紀に入ると第一次欧州大戦の勃発とともに、日英同盟の関係上敵国に当たる独に宣戦布告(1914)し勝利する。 1917年にはロシア革命に干渉し、シベリア干渉戦争に参戦する。そして、前書に詳論された日中戦争、アジア・太平洋戦争へと続き、日本帝国は敗戦・消滅する(1945)。

日本帝国軍隊の諸問題

 吉田は、半世紀にわたる日本帝国軍の実態について、帝国陸海軍、関係機関等が残した統計記録等から明らかにしていく。徴兵された日本人兵士の体重・身長の変化、兵士の食事(栄養)、調理方法の変化、戦争(状態)の長期化からくる招集者の変化(高齢者、障害者、知的障害者までの招集)――などが記述される。また、兵器に限らず、装備、輸送手段、通信手段、医療体制といった軍総体の欠陥、連合国軍との差異(劣後)も明らかにされる。吉田はそれらすべてを総称し、日本軍の構造的問題を「人間軽視」と糾弾する。
 見落とせない論点は、日本帝国における「犠牲の不平等」という問題である。軍隊は階級絶対社会である。最下級兵士の犠牲者の割合が最大で、上に行くほど割合は低下すのかどうか。常識的には 中世、近世の戦争ならば大将が先陣を切って敵に突撃したのかもしれないが、近現代の戦争ではそれはありえない。司令官クラスは後方の安全な場所で戦況を分析し命令を下すだけだから、敵軍の放火をあびる可能性はないに等しい。食料も優先的に配給されただろうから、餓死もない。
 吉田が問題視したのはそのレベルではない。正規将校を上限とした階級間格差の比較である。結論として、《「犠牲の不平等」という問題は、今後深めていくべき、重要な研究課題である(P209)》と、吉田は結論を控えた。
 招集段階における不平等の問題も残っている。どうやら、招集をめぐる贈収賄、地縁・血縁がらみで招集を免れた者がいたようだ。役所の担当者にかなりの金品を与えて招集名簿から自分の名前を「抽出破棄」してもらい招集を免れた事例が確認されているという。吉田は、《比較的裕福な人々による犯罪行為だろう(P199)》と結論づけている。

日本的総力戦体制

 日本帝国は20世紀の戦争が総力戦という段階に到達していたという認識をもっていた。その証拠に1940年に総力戦研究所を設立している。同研究所が日本帝国にどのような政策を提言したのか論ずるまでもなく、この研究所は結果的に何もなしえなかった。軍国主義者が唱える「日米決戦」を思いとどまらせるに足る提言、進言があったのかもしれないが、無視された。
 総力戦という概念を改めて確認しておこう。同概念は、第一次欧州大戦の総括から世界的に一般化した。それまでの戦争が軍と軍の戦闘に限定されていたものが、タンク、航空機、潜水艦、毒ガスといった新兵器の登場により、戦争の概念が一変し、戦争は狭義の前線の戦いでなくなり、国内の日常生活すべての領域までをも動員せざるを得ない性格のものとなった。このような変化は、それまでの職業軍人の能力の限界性を明らかにし、軍人は変化した戦争(総力戦)には適さないという結論をもたらした。総力戦の司令塔は、前線のみならず、国内戦線の諸問題――産業・交通・教育・宣伝・輸送、等等――を配慮する能力を要するようになったからである。総力戦は軍事戦略にもとづく軍人ではなく、政府官僚によって企画され、統制されなければならない国家的事業となった。(『総力戦体制』山之内靖〔著〕より)
 日本帝国は来たるべき日米決戦に備え、日本的(もしくは日本型)総力戦体制を整えた。国家総動員法(1938年施行)がそれを代表する法制度である。同法は、平時、戦時において、戦争に勝つため、政府が国民の権利および自由な経済活動・文化活動を制限する一方で、軍備増強に資するための統制、調整に係る規定が定められている。
 戦時においては、全国民を無条件で戦場に送ることができる国民徴用令、労務統制、賃金統制、労働争議の制限・禁止のほか、 物資統制、電力調整令、 貿易統制、 金融統制、会社経理統制令、銀行等資金運用令、資金統制、工場船舶の管理収用、工場事業場管理令、土地工作物管理使用収用令、 鉱業権、砂鉱業、水の使用収用、価格等統制令、 言論統制、新聞紙等掲載制限令などが定められ、国家、国民が総力戦に臨むよう体制整備された。
 また、平時規定として、 国民登録制度、医療関係者職業能力申告令、国民職業能力申告令、 技術者の養成、学校技能者養成令、 試験研究命令なども定められ、兵器・軍事技術の開発が強く求められた。
 しかし、総力戦に向けて全国民を総動員する法制度を整えたからといって、英米に勝てるわけではない。日本帝国の産業・交通・教育・宣伝・輸送といった面のみならず、文化・情報・基本的人権までを含めて、戦争相手国との比較がなされなければならなかった。優劣を見誤れば、総力戦の結末は悲惨なものとなる。そして、悲惨なものとなった。日本帝国の指導者は、神(天皇)の下、精神力で国民が総結集すればどんな難敵でも打倒できると国民を煽った。
 もうひとつの観点から、日本帝国の指導者が先制攻撃で敵に打撃を与え、直後の交渉で優位に立っという狭義の戦争観から脱却できていなかった可能性を否定できない。前線の戦闘に固執した「日本的総力戦」の帰結である。
 その筋書きを想像すれば、ハワイの奇襲で米軍に損害を与え、その後の海戦で決定的な勝利をおさめれば、英米は日本と交渉し、日本優位の取引が成立すると考えたのかもしれない。
 ところが、総力戦とは持久戦とも言い換えられる。戦争を短期の戦局で優位劣位を判断すのではなく、長期的展望に立って、敵国を追い詰める。そのとき、国家総力が試される。結果、日本帝国は総力戦に耐えられなかった。総力戦になれば、兵士を含む全国民を取り巻く環境の総てが勝敗を左右する。日本帝国は負けるべくして負けたのである。しかも、人命を一顧だにしない戦争指導者によって、前線の兵士ばかりか銃後の一般市民が虐殺されたのである。軍人は総力戦に不向きなのであるが、日本帝国では軍人(軍国主義者)が国政のヘゲモニーを掌握してしまっていた。

本書をどう生かすか

 吉田は本書執筆の動機について、〝「日本軍 すごい」というフィクション″と題した章の中で、次のように書いている。

1990年前後から日本社会の一部に、およそ非現実的で戦場の現実とかけ離れた戦争観が台頭してきたからである。〔中略〕荒唐無稽な新兵器を登場させることによって戦局を挽回させたり、「もし・・・」など、さまざまな「イフ」を設定することによって、実際の戦局の展開とは異なるアジア・太平洋戦争を描く「架空戦記」、「仮想戦記」ブームである。〔中略〕ここ数年は、竹田恒泰『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』(2010年)に代表される「日本礼賛本」がブームとなり、「日本の文化を外国人にほめてもらったり、海外での日本人の活躍ぶりを紹介したりするテレビ番組」も増えているという(『朝日新聞』2015年3月13日付)。〔中略〕軍事の分野でも、井上和彦『大東亜戦争秘録 日本軍はこんなに強かった!』(2016年)のように、「日本軍礼賛本」が目立ち始めている。(P210)

 それから10年後の2025年夏、世界はあたかも大戦前夜の様相を呈している。ウクライナ戦争の終わりが見えないばかりか、戦況は拡大傾向にある。イスラエルは中東でパレスチナ人の虐殺を続け、イランの要人をテロで殺害し、同国の原子力研究施設を米軍とともに空爆するという戦争犯罪を繰り返すが、G7をはじめ世界がそれを傍観している。

大日本帝国回帰の風潮に抗え

 日本国内では、極右政党支持者がじわじわと台頭し、歴史修正が平然と語られ、大日本帝国回帰の風潮がとまらない。排外主義、選民意識が横溢し、外国人差別から排除に移行しつつあるのが実情である。その背景には、〈新しい階級社会〉へと日本国が変容しているという分析が注目される。〔超富裕層―富裕層〕と〔貧困層〕の2階級分化が進み、中間層が低減した結果、〔貧困層〕のルサンチマンが外国人、生活保護所帯、身障者といった弱者への攻撃・排除へと向かっている。それらを選挙(集票)に結びつけようとするポピュリズム政党が力をつける結果となっている。
 こうした状況を踏まえたうえで本書をどう生かすかであるが、まずもって、本書に著わされた皇軍の実相を歴史事実として認識・確認することが最重要だと思われる。本書を誤読して、皇軍に限らず、戦争下の軍隊とはそういうものだというニヒリズムが怖い。皇軍の実相・実態を認識し反省し否定することだ。

軍隊とは社会の極限的縮図である

 もうひとつ、歴史認識を欠いた修正歴史観の下、皇軍の敗戦の因子を軍事に係るテクノロジーの劣後に求め、現在の日本軍(自衛隊)の兵士・兵力・情報力・装備等をより高度化すれば、次なる戦争に勝てる、という一見、合理主義に似た楽観論こそ危険きわまりない。
 軍隊というのは、社会の縮図でありそれを極限化したものだと筆者は考える。つまり、先の大戦時、日本帝国における社会に住む人は、アジア人を蔑視し、神国日本人は天皇を頂点とした選ばれた民族だという選民意識を植えつけられていた。そうした社会の構造が、軍隊にあっては、天皇―上官―兵士という関係で構造化し、下級兵士はすべてに劣後した。兵士の命は一発の銃弾よりも軽かった。
 ところで、戦前の社会の実相を暴いた『「むかしはよかった」というけれど』(大倉幸宏〔著〕新評論)という書がある。内容は、▽駅や車内における傍若無人ぶり、▽公共の秩序を乱す人々のようす、▽職業人たちの犯罪、▽児童虐待、▽高齢者にたいする虐待、姥捨ての風習、▽実際は機能していなかった「しつけ」、道徳教育――といった戦前の社会の実相を当時の新聞報道等を基に紹介したもので、戦前社会が「よかった」とはとても思えない内容で溢れている。つまり皇軍は戦前の日本社会のありようを、凝縮して体現していたのである。
 翻って、2025年の日本国――労働者を正規と非正規で差別化し、後者を雇止めと称して使い捨てる、生活保護申請を理由なく受理しない地方自治体が現れ始める、高齢者差別、排除を公言する「言論人」がテレビ番組に大手を振って登場する、外国人の犯罪をことさら大きく報道して危機感を煽る、民族主義を前面に出した「日本(人)ファースト」をスローガンにした政党が支持を集めだす、歴史修正を放言したた国会議員が修正を指摘されると謝罪して発言を削除するが、訂正せず、政治活動を続けている・・・戦前(日本帝国時代)の世界観、社会観、家族観を「良きもの」として容認どころか、崇拝するような社会に変容しつつあるように思われる。
 このようにいま現在の日本社会が戦前回帰に向かう流れにあるならば、日本軍(自衛隊)の兵力を強化し、兵士の装備・待遇等をたとえば米軍なみに高度化しようとも、自衛隊は皇軍と変わらない軍隊になるだけだろう。繰り返すが、軍隊は社会の縮図どころか、その極限的組織として表象する。
 それだけにとどまらない。吉田は次のように書いている。

中国に派遣された日本軍は、その多くが家庭を持つ「中年兵士」の集まりだった。戦争目的が不明確なまま、厳しい戦場の環境の下で、長期の従軍を余儀なくされると、彼らのなかに自暴自棄的で殺伐とした空気が生まれてくるのは、ある意味で当然だった。それは日本軍による戦争犯罪の一つの土壌となった。(P82)

 家庭を持つ中年が厳しい戦場の環境下に長期間さらされると、いかようにも豹変してしまう。戦争犯罪は、戦争―国家ー軍隊―兵士の連環において発生する。戦争にかぎらない。日中戦争前の1923年、関東大震災のさなか、日本の普通の生活者が、朝鮮人虐殺に手を染めた。震災、戦争等、恐怖から生じる殺伐とした空気が取り返しのつかない犯罪を生起させる。
 2025年、戦後80年の節目のとき、反戦・平和主義を国是としてあらためて確立し直すことの重要性を本書から学ばねばならない。〔完〕

2025年6月21日土曜日

高校時代ミニ同窓会(千駄木ほか)

にしきや

同上

Vocal House Nami