●藤原 彰・粟屋 憲太郎・吉田 裕・山田 朗〔著〕 ●大月書店 ●1340円(本体1301円)
(一)昭和天皇「独白録」とはなにか
『昭和天皇「独白録」』は、昭和天皇(在位期間:1926年12月25日~1989年1月7日) が戦前、戦中の出来事に関して1946年(昭和21年)に側近に語った談話をまとめた記録である。外務省出身で当時宮内省御用掛として昭和天皇の通訳を務めていた寺崎英成により作成されたとされている。
本篇は昭和二十一年三月十八日、二十日、二十二日、四月八日(二回)、合計五回、前後八時間余に亘り大東亜戦争の遠因、近因、経過及終戦の事情等に付、聖上陛下の御記憶を松平宮内大臣(慶民)、木下侍従次長、松平宗秩寮総裁(康昌)、稲田内記部長及寺崎御用掛の五人が承りたる処の記録である、陛下は何も「メモ」を持たせられなかった 。
前三回は御風気の為御文庫御引篭中特に「ベッド」を御政務室に御持込みなされ御仮床のまま御話し下され、最后の二回は葉山御用邸に御休養中特に、松平慶民ほか五人が葉山に参内して承ったものである 。記録の大体は稲田が作成し、不明瞭な点に付ては木下が折ある毎に伺ひ添削を加へたものである( 『昭和天皇独白録』)
一般公開が『文藝春秋』(1990年12月号)だから、昭和天皇崩御後のことになる。昭和天皇の独白録が40年ちかくも眠ったまま放置され、それが崩御のおよそ1年後に公開に至ったというのはまことに奇異に感じるのだが、公開の経緯について『独白録」は次のように記載している。
『独白録』の一部は、木下の『側近日誌』に関係文書として収録されている。この「木下メモ」は菊花紋章がついた罫紙の用箋に書かれており、独白録の冒頭「大東亜戦争の遠因」に対応しているが、独白録よりも詳細である。寺崎版では「木下メモ」の文章が口語に変換され省略されている。
寺崎は病のため1948年から実務を離れ、翌年にグエン夫人と娘のマリコは、マリコの教育のためアメリカ・テネシー州に帰国した。寺崎は2年後に死去した。寺崎の遺品に含まれていた独白録は弟の寺崎平が保管していた。グエンが執筆した『太陽にかける橋』が日米でベストセラーとなり出版社の招待で1958年に来日した夫人に平から遺品が手渡された。グエンとマリコは日本語が読めなかったため記録類はしまい込まれた。30年後にマリコの息子コールが記録を整理する過程で文書の鑑定を南カリフォルニア大学のゴードン・バーガー教授(歴史学)に依頼し、教授はさらにこれを東京大学教授の伊藤隆に転送した。「歴史的資料として稀有なもの」との評価を受け取った寺崎家では重要性を鑑みて公表することにした。(『独白録』)
『独白録』の存在は1990年11月7日の新聞各紙で初めて報道された。月刊『文藝春秋』1990年12月号に全文が掲載され、大反響をよび追加増刷し発行部数は100万部を超えたという。
(二)『独白録』の検証
敗戦直後につくられた天皇の『独白録』である。天皇の発言を前出の側近5人が聞き、それをそのまま文字おこし(校正を経たことはもちろんだが)をした、と考えるようなナイーブ(うぶ)な者はおそらく本邦では少数派だろう。独白をつくりあげるべき理由があり、そこにはなにかしらの意図がはたらいた、と考えるほうが自然である。天皇と戦争の関係にかんする独白内容をそのまま歴史的事実として受け入れることは少なくとも、筆者にはできない。
本書の発行は1991年3月20日(本書奥付)、検証に当たったのは、藤原 彰(女子栄養大学教授/1922~2003年) 、粟屋 憲太郎(立教大学教授/1944~2019)、吉田 裕(一橋大学助教授/1954~)、山田 朗(東京都立大学助手/1956~ )の4人歴史学者である(肩書は当時)。『独白録』が公開されたと同時に、歴史学者がその検証にあたったのは、至極当然な知的探求であり、本書にまとめられたことは、日本の歴史学会および出版界の功績といえよう。
(1)『独白録』作成の背景
独白録がつくられたのは、前出のとおり《1946年(昭和二十一年三月十八日、二十日、二十二日、四月八日(二回)、合計五回)》とされる。戦勝国による戦争責任を問う軍事裁判(東京裁判と言われる)は、1946年(昭和21年)5月3日~ 1948年(昭和23年)11月12日)に行われている。つまり、『独白録』は東京裁判開廷のおよそ2週間前に聞き書きを済ませ、開廷までに整えられたものと推測される。すなわち、東京裁判において連合国側から昭和天皇の戦争責任が問われるという前提のもとにつくられたのではないかとの推測が可能だ。
昭和天皇は同法廷にて、戦争責任を追及されなかった。連合国内で、昭和天皇の戦争責任を問おうとしたのが、イギリスとオーストラリア、昭和天皇免責に動き、決定したがアメリカだった。アメリカは占領統治の安全性の担保として、また、本邦を反共の拠点国としてアメリカに従属させるという極東戦略に基づき免責を強行した(「高度な政治的判断」と呼ばれる)。
免責は、アメリカ主導で調整されたのである。なおイギリスとオーストラリアが免責に反対した理由は、日本帝国軍による両国の捕虜にたいする虐待行為だと言われている。捕虜となったアメリカ兵は両国に比べて、極めて少数にとどまっていたようだ。
(2)『独白録』の内容と意図
『独白論』を検証した前出の4人の歴史学者が共通して指摘するのは、『独白録」が「戦争責任追及」を予測したうえで、それにたいする弁明の論理として組み立てられている、ということである。
・昭和天皇は立憲君主か
『独白録』検証の第一のポイントは、は昭和天皇が立憲君主の地位にとどまり、内閣の上奏をそのまま裁可していたかどうかというところである。この問題は、先の大戦における〈戦争の開始-戦争中-戦争の終結〉という、戦争すべての過程に関係するきわめて重要な問題である。なお、先の戦争とは、①日中戦争(柳条湖事件:1931→盧溝橋事件:1937~1945)、②アジア太平洋戦争(1941~1945)に大別されるが、③ノモンハン事件(1939)も考慮されている。対戦国はそれぞれ、①中国、②連合国(英米蘭豪など)、③ソ連となっている。
前出4氏の検証結果をまとめれば、在位中の昭和天皇が立憲君主の地位にとどまっていたという独白録の記述は正確ではない、という結論に至る。その理由の第一は、人事にたいする積極的介入であり、第二に、昭和天皇が戦前から敗戦にいたるまで、国体護持の思想を保持し続けていたという事実が『独白録』から窺えるからである。昭和天皇の思想は、開戦前、終戦の際で変化はない。昭和天皇が軍事情勢に通じていながら、戦争をやめるために積極的に行動しなかった事実について、藤原彰は、《連合軍が本土に迫ったところで、三種の神器の保持が危なくなったというのが、終戦決意をさせた理由だ》と指摘している。
天皇にとって国民はまさに臣下であり赤子である、統治している対象であるわけです。国民のすべての生命だとか幸福だとかに対する配慮より、むしろ統治する対象――天照大神からひきついできた天皇の支配する国家――の継承のほうが大事であったということが「独白録」からわかります。(本書P17)
・昭和天皇は「戦争」に反対だったのか
『独白録』は、昭和天皇の戦争観に二面性があることを表している。一面は欧米との戦争に消極的であり、もう一面は、中国・アジア侵略については黙認から、一転、中国戦争拡大論者に転じたということがうかがえる。
そして『独白録』から、昭和天皇が太平洋戦争(対英米戦争)について弁明に終始していることがわかる。弁明の論理は、〈立憲君主論〉と〈内乱危機論〉である。前者については、自分は立憲君主であったから政府決定を承認せざるをえなかったという弁明であり、後者については、開戦を拒否したらクーデターが起きた、さらにそれは国民的憤慨・興奮を背景としていてそれを抑えきれなかったという弁明である。端的にいえば、昭和天皇は、太平洋戦争の開戦は政府(東條内閣)決定であり、加えて、国民の開戦熱望だったということになり、自分に責任はないと「独白」しているのである。ここで見落とされがちなのが、ソ連軍に大敗した「ノモンハン事件」についての天皇の関与である。昭和天皇は自ら、関東軍に日ソ国境遵守という指示を出していたから、ソ連軍に大敗を屈したにもかかわらず、大命遵守ということでは関東軍は免責されてしまった。日ソ間の軍事力の差異すなわち日本帝国軍の軍事力の劣後が認識されなかった。つまり、ノモンハンの大敗が軍事的に教訓化されず、のちの無謀な開戦につながったのである。
・昭和天皇は戦争を指導していたのではないか
◎開戦について
中国戦争の事実上の開戦である満州事変への昭和天皇の関与の度合いをみると、前出のとおり、黙認から拡大へと軍部をけしかけている。昭和天皇は「満州ならば(田舎だから)、英米の干渉もないと判断した」と『独白録』にある。太平洋戦争についてはどうか。『独白論』では、東條内閣でなければならなかった理由を不自然に強調している。さらに、天皇が戦争に傾いていく事実が空白になっている〔後述〕。
◎戦中について
太平洋戦争中、天皇は日独利害関係の不一致を指摘していたことが『独白録』で明らかになっている。このことは、欧州における戦況を把握し、日本帝国が大戦中に優位に立つべき戦略を構築する能力があったということの証左である。
次に、レイテ決戦方針〔註1〕を徹底的に天皇が支持ている部分が見受けられる。 結論を言えば、作戦変更は無謀な作戦であり、それに天皇が賛成し、作戦変更に一役買っていたのであれば、責任は重大である。これによって、フィリッピンの防衛体制は崩壊し多大の犠牲者を出した責任が問われる。また、沖縄戦、雲南作戦における天皇の関与が『独白論』にある。『独白録』では、沖縄戦の敗因は陸軍と海軍の作戦不一致であると総括した。沖縄戦に敗けたあとの一縷の望みは雲南侵攻だといって戦争を長引かせた。天皇は敗戦濃厚の状況にありながら、積極作戦督促・決戦要求を強めていたことがわかる。
〔註1〕レイテ決戦(レイテ島の戦い):1944年(昭和19年)10月20日から終戦までフィリピン・レイテ島で行われた、日本帝国軍とアメリカ軍の陸上戦闘である。日本軍の当初の作戦では、ルソン島では陸軍が中心となって戦闘するが、レイテ島を含む他の地域では海軍及び航空部隊により戦闘する方針だった。ところが台湾沖航空戦で大戦果をあげた(実は誤報)と信じた大本営は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官・山下奉文大将の反対を押し切り、作戦を急遽変更して陸軍もレイテ島の防衛に参加して迎え撃つこととし、ルソン島に配備されるはずだった多くの陸軍部隊がレイテ島へ送られた。約2カ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となった。(Wikipediaより)
◎大本営御前会議を空白とした『独白録』
大本営御前会議こそが、昭和天皇の戦争関与の実態をもっともよく表す記録であるはずだが、『独白録』では空白となっている。大本営御前会議において、天皇が聞き役に徹していたと考える人はこれまた、本邦では少数派であろう。
大本営御前会議では、作戦事項および天皇が軍事面におけるイニシアティブを発揮した事項がありながら、この二項について、空白である。第三の空白は、対米英開戦を納得していく過程である。『独白録』では、「12月1日に・・・御前会議が開かれ、戦争に決定した。その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も云わなかった」と記されている。
四番目の空白は次のとおりである。
太平洋戦争中の天皇の作戦面での指導については〔中略〕「独白録」の中でほとんど語られていないと言っていいと思います。これが「独白録」の最大の空白部分であろうと私(山田朗)は思います。戦争中、天皇が大元帥として具体的に何をやっていたのか、どのように戦争指導にかかわっていたのかという箇所がごっそり抜けているわけですね。この点からも、「独白録」は虚心坦懐な回想録ではなくて、語らないことに一つの大きな意味がある記録であるということが言えます。(本書P70)
◎聖断という神話――昭和天皇は戦争終結にいかにかかわったか
大戦末期、日本帝国の敗北が決定的なった段階で、昭和天皇はどのような動きをみせたのだろうか。天皇はそのような状況下、どこかで決戦をやって米英に大打撃をあたえたあとでなるべく有利な条件で講和をしようとこだわったことが、戦争終結のおくれにつながったという問題である。『独白録』は、このことについて完全にごまかしている。天皇の終戦決意の立ち遅れである。これが、大戦末期の数々の悲劇の主因となった。
連合国がポツダム宣言を発出したのが1945年7月26日。日本に無条件降伏を求める宣言である。ところが、日本帝国は黙殺し、広島(同年8月6日)・長崎(同年8月9日)への原爆投下とソ連の対日参戦(同年8月8日)を経て、8月14日に宣言を受諾した。
一方、日本帝国政府内では同年2月の近衛上奏文で、近衛が敗戦を予見するとともに、敗戦にともなって発生する「共産革命」によって天皇制が廃止されるのを防ぐためにも、ただちに戦争を終結することを主張した。『独白論』では、天皇が近衛(の上奏)を極端な悲観論者で、沖縄決戦をひかえているときだからやると、みずから「遅すぎた聖断」を認めている。
天皇の頑なな戦争継続から終結に動いたのが、前出の近衛と内大臣の木戸幸一であった。そして天皇が終戦工作にコミットしたのが6月になってからだという。
粟屋:やはりもうだめだと思った段階で終戦工作のほうにくみしてひそかにやっていたということは、この「独白録」でも少し言っているわけで、なにも8月10日、14日になって、内閣・統帥部の意見が割れていて決められないから自分が「聖断」したというのではなくて、その前からむしろ、ポツダム宣言の受諾のほうにコミットしていたわけで、「聖断」は神話にしかすぎないと思います。(本書P98)
吉田:「天皇の聖断」を強調する世論工作のシナリオがどうもあるようと思っています。少なくとも客観的には・・・「聖断」を強調する流れがつくられている。(本書P100)
結論を言えば、昭和天皇が終戦の決断を下したといわれる「聖断」は、玉音放送直前に書かれた世論工作のシナリオであり、後年、いろいろな筋からそれを補強する情報が意図的に流されたことがわかってきている。
◎加害意識の欠如
昭和天皇は『独白録』において、戦争の加害、被害について語っていないことに注目すべきである。南京事件、シンガポールの華人虐殺がすっぽり抜け落ちているのである。
検証者の1人である粟屋憲太郎は次のように語っている。戦後80年が経過したいま、すべての日本人が粟屋の言説を心に留めておく必要がある。
日本国民全体の問題としても、この戦争でたしかに日本国民は大きな被害を受けたわけで、320万人の命を失っていますが、しかし、その何倍ものアジアの人々を殺しているわけです。それから実際の戦争の体験者というのも被害者であると同時に加害の体験者もたくさんいるわけですが、戦後の日本では、全体としてその問題に対する批判や反省がひどく欠けていた。これは昭和天皇自身についてもそうですが、そういうことに対する関心が非常にとぼしいですよね。(本書P170)
戦後史における・・・天皇制の無責任の体系・・・が、いわば政治的な態度における無責任という問題が日本の場合には戦後史をつらぬいている。それが、政治指導者だけではなくて、やはり天皇が責任をとらなかったということが国民レベルまで、ある種の共犯意識をもって受け止められていることが、日本のある意味では底辺からの社会風潮を形成していると思います。天皇にアジアの民衆がみえなかったように、われわれも経済大国になるようになって、日本人の多くの人々には、かつて植民地であった、あるいはかつて日本の占領地で被害を受けたアジアの民衆の姿が見えない。(本書P176)
〔完〕
